アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

『七人の侍』の主役は野武士たちだ


 三船敏郎 生誕100年にちなみ、WOWOWシネマで、彼の代表作が続けて放映された。

 そのなかで、黒澤明監督による『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『七人の侍』(1954年)の3本をピックアップして見たが、やはり『七人の侍』が群を抜いて素晴らしかった。

 

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 この映画に関しては、以前このブログに感想文を書いたことがある。
  ↓
 『「七人の侍」のような映画は今後100年生まれない』
 (2019-03-23)
https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2019/03/23/181622

 

 上記のブログで、私は自分の言いたいことをほぼ言い尽した気持ちでいた。
 だから、再び同作品を採り上げる必要もないと思ったが、やっぱりあらためて鑑賞してしまうと、何かを書かざるを得ない気分になる。

 

 それほど、この映画は、見た人間に「何かを語らせたくなる」映画なのだ。

 

 ただ、今回見て思ったのは、黒澤明監督の “最高傑作” であると同時に、なにか “不幸な映画” だなぁ  という気もした。

 

 というのは、この映画を見てしまった観客は、この後の黒澤作品にも同じレベルのものを期待してしまうからだ。

 

 言い換えれば、黒澤監督がこの映画のあとにどんな傑作を撮ろうが、『七人の侍』に感動した観客は、もう満足できなくなってしまうのだ。

 

 同じ戦国モノということで、私は『影武者』(1980年)にも、『乱』(1985年)にも、喜び勇んで映画館に足を運んだ。
 だが、2作とも、1954年につくられた『七人の侍』ほどの興奮をもたらせてはくれなかった。

 

 あたためて、『七人の侍』は、別世界から舞い降りたような映画だと思った。
 まさに、「100年に一本しか生まれない映画」。
 奇跡のような作品といえる。

 

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 どのような内容なのかは、すでに上記のエントリーで触れているし、いろいろな人が書いている評論もネットにも溢れているので、詳しくは述べない。

 

 だが、この映画がもたらす興奮の秘密が今回あらためて分かったような気がする。

 

 馬だ。

 

 7人の侍たちが守る村を襲ってくる40騎の野武士。
 この騎乗した野武士たちがいなければ、この映画は成立しなかった。
 
 百姓と野武士。
 侍と野武士。

 

 本来ならば同一次元に存在するはずのない二つの生存原理が、ここでは偶然の作用によって衝突してしまう。
  
 剣をかざして待ち構える侍たちと、そこに突進する騎馬の野武士たち。
 どっしりと地に立つ侍たちの「垂直力学」と、道を疾駆する騎馬兵たちの「水平力学」。

 

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 これほど見事な「静」と「動」の対比はほかにあろうか。

 

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 この時代、多くの日本人は、従順に農作業を繰り返す “百姓” の感覚で生きてきたから、疾風のごとく野武士が襲ってくる状況など、まさに想像の範囲外だったろう。

 

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 未知なる存在が人間の日常性を脅かすという意味で、この映画は、当時の観客にとっては、同年(1954年)公開された東宝映画『ゴジラ』に匹敵する衝撃であったはずだ。

 

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 西洋史においても、中央アジア史においても、人類の戦いは騎馬部隊と歩兵部隊の戦闘だった。

 

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 歩兵で構成されたローマ軍団(上)とフン族の騎馬軍団(下)。

 

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 漢の歩兵部隊と、匈奴の騎馬部隊。
 
 農耕民族と騎馬民族との戦いは、みなすべて『七人の侍』で描かれた戦闘のスタイルをとった。

 

 突進してくる騎馬軍団は、歩兵部隊から見ると「脅威」だ。
 しかし、訓練された歩兵部隊は、騎馬軍団の突撃力をかわし、それを粉砕することもある。

 

 つまり、この映画の戦闘シーンには、人類が2000年以上の歳月をかけて繰り広げてきた戦いの原型が刻まれている。

 

 人馬一体となった騎馬兵の姿は、安全な場所で眺めるならば、人間のロマンをかき立てる。
 それは、馬のスピードを意のままに操れる人間に対する驚愕となり、憧れとなる。

 

 『七人の侍』に登場する野武士たちは、みな凶悪な面構えをした極悪人として登場する。


 しかし、映画を見ている観客は、無意識のうちに、馬のスピードを意のままにコントロールできる野武士たちの姿に颯爽したものを感じるようになる。

 

 この映画には、農耕民族(百姓)と騎馬民族(野武士)という、異質の原理に生きてきた二つの人間集団の歴史そのものが凝縮している。

 

 

ジョン・レノン『イマジン』の世界観とは何か?

 

 NHKBSプレミアムで、『“イマジン” は生きている』というドキュメンタリー番組が放映された。(2020年11月21日)

 

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 現在東京で開かれている『DOUBLE FANTASY - John & Yoko』展に焦点を合わせた企画らしい。

 

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 この『イマジン』という曲が誕生したのは、1971年。
 曲をつくったジョン・レノンは、歌の冒頭、
 「想像してごらん、天国などないんだよ」
 と歌った。

 

 さらに、
 「地面の下に地獄もない」
 「国家や宗教もない」
 「世界はひとつだ」
 と続けた。

 

 その歌から50年。
 地球は、いま、この歌のような世界になりつつある。

 

 『イマジン』は、国家や宗教を超えて、人類が一つにまとまるという平和の “理想郷” を歌ったものだが、それを実現したのは、この歌に託された「人間の想像力(イマジン)」 ではなく、グローバリゼーションと呼ばれる資本主義の運動であった。
 
 この歌が注目を集めた1970年代。
 「国家」を超えようとする “何か” が地球上に広がり始めていた。
 「世界市場」である。
 
 『イマジン』が誕生した時代というのは、欧米先進国の自動車や電気製品といった耐久消費財が自国内の市場ではさばき切れなくなり、それぞれ輸出に活路を求めなければならない状態になっていた。
 
 さらに、80年代の終りになると、冷戦構造が崩壊して、ソ連をはじめとする社会主義国も資本主義社会に参入するようになった。

 

 こうなると、各国の経済は、ますます国内だけでは完結しなくなり、国外の市場を求めて活発に動き始めるようになった。

 つまり、ジョン・レノンの『イマジン』で歌われたのは、グローバル資本主義がそれぞれの国境を超えていこうとする姿そのものであったといっていい。

 

 グローバル資本主義は、国境を超えるだけではない。
 宗教も超える。
 人種も超える。
 文化も超える。

 結果、「世界はひとつになる」。
 
 歌のテーマは「世界平和」だが、それはまた資本主義のテーマでもあったのだ。
 なぜなら、戦争や紛争がある地域では「市場」というものが成立しないからだ。

 

 グローバル市場を成立させるためには、まず地球上から戦争地域が消滅しなければならない。
 次に、流通する商品が、個々の国の宗教や文化、人種によって差別されてはいけない。

 

 そのため、グローバル資本主義を推進する多国籍企業は、地球上のすべての宗教、文化、人種がすべてフラットな価値観で統一されるような世界観を目指した。
 『イマジン』は、その様子を予言した曲だった。

 

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 もちろん、ジョン・レノン自身は無邪気な平和主義者に過ぎず、グローバル資本主義の動向など意識することはなかったろう。

 にもかかわらず、その10年後に訪れる世界経済の動向を予言したのだとしたら、それこそ、ジョン・レノンの透徹した想像力(イマジン)によるものだったといっていい。

 

 こういう世界観を秘めた曲であったから、いろいろと物議をかもしたこともあったらしい。
 国家を否定していることから、「共産主義思想」の歌だと思われ、欧米の保守層からは警戒されたこともあったという。

 

 そういう保守派の警戒心は、まったく的外れというわけでもない。
 なぜなら、「共産主義思想」もまた、資本主義から生み出されたものだから、骨格は同じものなのだ。
 つまり、どちらも「国境を超える」ことを目的とした運動だといえる。

 

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 そもそも、20世紀のイギリスとアメリカに登場した「ROCK」という音楽形式そのものが「グローバル資本主義」の象徴的形態であったかもしれない。

 

 この日(11月21日)、ジョン・レノンの『イマジン』特集を組んだNHK BSプレミアムでは、それに続いて、ザ・ローリング・ストーンズキューバコンサート(2016年)のLIVEを放映した。

 

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 キューバ革命を領導したフィデル・カストロが死去した後、経済の自由化が進んだとされるキューバだが、体制はいまだに「社会主義国家」である。そのため、2001年までは、西側のロックバンドの公演は許可されなかった。
 
 しかし、2016年に行われたローリング・ストーンズキューバ公演(「ライブ・イン・ハバナキューバ」)では、地元の若者が熱狂している様子がしっかりと映像に残されていた。
 彼らの熱気は、自由主義諸国のライブよりも激しかった。

 

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 こういうことからも、ROCKは「国やイデオロギー、宗教、体制、民族」を超えるものだということがよく分かる。
 まさに、20世紀の半ばに台頭したROCKは、グローバル資本主義が作り出した「熱狂」だったのだ。 

 

 ちなみに、このキューバ公演では、会場の中と周辺に集まった観客が70万人。
 さらに音だけを聴くために、別の場所に集まった聴衆が50万人。
 合わせて120万人のキューバ人がストーンズの音を楽しんだという。
  

 あとは、余談だけどさ。
 俺も今年で70歳になったわけ。
 そうなると、カッコいい “老人像” というものを少しずつ考えるようになるのね。

 

 今のところさ、「カッコいいなぁ!」と思うのは、ローリング・ストーンズキース・リチャーズ(76歳)。
 自分の生きざまを表現する自慢のギターなんかを抱えてさ、笑ってステージに立っている姿なんかは、見ていて惚れ惚れするね。

 

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若者たちの昭和歌謡ブーム

  
 「昭和歌謡」に興味を抱く、平成世代の若者が増えているという。

 

 あるワイドショーを見ていたら、(どの番組か忘れたが )、レポーターが街行く若者にマイクを突き付け、「昭和歌謡をどう思うか?」と聞きまくっていた。

 

 それに答えた若者たちの話を総合すると、昭和の歌というのは、
 「メロディに親しみがあって、歌詞が覚えやすい」という。
 
 なかには、
 「歌詞にリアリティーがあって、まるで物語を聞いているような気がする」
 と答える人もいた。

 

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 このような若者の昭和歌謡ブームに乗り、昭和のアイドルや歌手のブロマイドも人気が高まってきたとも。


 都内のブロマイド専門店には、遠方からも平成世代の若者が押し寄せ、松田聖子中森明菜沢田研二といった昭和のスターの写真を買い込んでいくという。

 

 家族や親の影響が大きいのだろう、と専門家は分析する。
 平成生まれ(1989年~)の若者の “親世代”(1960~70年代生まれ)といば、子供の頃から昭和アイドルたちの音楽になじんだ人たち。
 
 “昭和まっただ中” の70年代といえば、キャンディーズピンクレディー山口百恵松田聖子天地真理近藤真彦といったアイドルを軸に、荒井由実中島みゆきテレサ・テン桑田佳祐井上陽水玉置浩二といった実力派の歌手やミュージシャンも活躍し、昭和歌謡が質的にも量的にも全面開花した時代だった。

 

ピンクレディー

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 そういう歌になじんでいた親たちが、家事をしながら口ずさんだり、子供たちとドライブするときに流していた曲が、徐々に平成の若者たちの “耳の肥やし” になっていったのではないか、とある専門家は語った。

 

 もちろん、親が歌っていたからといって、それを聞いた子供がそのまま好きになるとは限らない。
 やはり、「この歌はいいな !」と若い世代が思えるような何かがなければ、昭和歌謡再評価のブームは起こらない。
  
 平成の若者からみた昭和歌謡の魅力とは何なのか?

 一つのヒントがある。
 昔、NHKが、「若者の好きな音楽」というテーマでアンケート調査を行ったことがあったが、それによると、平成元年にデビューしたJ ポップの人気者小室哲哉よりも、昭和50年に引退した山口百恵の方が、若者たちの認知率が高かったというのだ。

 

 小室哲哉といえば、音楽プロデューサー兼ミュージシャンとして「TM NETWORK」、「globe」などの音楽ユニットを結成して大活躍。安室奈美恵華原朋美などをスターに育てた人としても知られる。


 まさに1980年代~90年代におけるJ ポップのカリスマ的存在であるが、その彼よりも、さらに20年も古い山口百恵の方が若者に親しまれているというのは、どういうことなのだろう。

 

山口百恵

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 これぞ、まさに「サウンド」と「歌」の違いなのだ。

 

 80年代の中頃、いわゆる「J ポップ」が台頭するようになって、曲づくりがサウンドを中心に回り始めた。

 

 もともと J ポップは音楽ビジネス関係者たちによって、かなり意図的に企画されたプロジェクトだった。
 狙いは、「洋楽のように洒落た国産ポップス」という新しいマーケットの創出だった。

 

 “洋楽っぽい” ことが絶対条件だったから、J ポップのメロディー、リズム、コード、アレンジなどが、一斉に “脱・歌謡曲” に向かったのは言うまでもない。

 

 和音構成として、わが国独特の哀調感を持つ日本音階(ヨナヌキ)が影を潜めていくというのも、その顕著な例といえるだろう。

 

 こうして、日本のポップスは、サウンド的には恐ろしいくらい華麗かつオシャレになっていったが、それを徹底していく途中で、「歌詞」がストンと抜けた。

 

 もともと、日本の流行歌は、分業体制で作られていた。
 作詞、作曲はそれぞれ別のプロが担当し、さらにプロの歌手が渡された曲をそのまま歌う、という手法で世に送り出されてきた。

 

 ところが、フォークソングブーム、シンガーソングライターブームが起こることによって、分業体制の一部でしかなかった「歌手」の地位が突出するようになった。

 

 彼らは「アーチスト」と呼ばれるようになり、歌のコンセプト全体を代表する表現者と目されるようになった。


 J ポップの担い手はバンドで占められることも多かったから、バンドのリーダーがそのまま作詞・作曲・アレンジを手掛ける率も高くなった。

 

 もちろん、そのことによって、J ポップの音楽的統一感は際立つことになった
 
 ただ、バンドのリーダーやシンガーソングライターが優れたミュージシャンであったとしても、必ずしも “優れた詩人” であるとはかぎらない。

 

 歌詞づくりというものは、自分の日常の断片を綴ったり、自分の身に降りかかった事件を取り上げていればいい、というものでもないからだ。

 

 自分の体験からネタを拾っている限り、常に人をハッとさせたり、人の意表を衝いたりする詞を量産することはできない。

 

 シンガーソングライターたちの詞を聞いていると、その歌詞に表現された等身大の世界観に共感することもあるが、そのうちに曲のレベルが尻すぼみになっていくこともある。

 

 こうして、J ポップの詞は、いつしかみな似たり寄ったりのテーマばかりが繰り返されるようになり、聴衆に、通り一遍の “感動” と、通り一遍の “勇気” と、通り一遍の “元気” を与えるだけの存在になっていった。
 だから、飽きられるのも早い。
 
 平成生まれの若者たちは、今の音楽の “歌詞不在” に気づいたのだ。
 
 昭和歌謡が好きだ、という若者の声に、こんなものがある。 

 

 「今の歌って、歌詞がウソくさい。でも昔の歌って、歌詞が本音で書かれているような気がする」

 

 この一見稚拙な表現のなかに、今のJ ポップと昔の昭和歌謡の根本的な差異があらわれている。

 

 これは、「昔の歌の方が人間の本音」を語っているという意味ではない。
 昔の「詞」は、プロの作詞家によって書かれていたということなのだ。

 

 つまり、人間の心理を鋭く追及できるプロの作詞家が、人々の生活に使われる言語の中からこだわり抜いた言葉を選び出し、繊細な手つきで並べ変え、一語ずつ、人の心を震わすフレーズに組み直していったということなのである。

 

 では、「プロの作詞家」とは何か?
 それは、曲があってもなくても、小説のような作品を書いてしまう人たちのことをいう。

 

 昭和歌謡の詞をつくり続けていた人たちの名をざっと並べてみよう。
 
 阿久悠星野哲郎山口洋子なかにし礼安井かずみ阿木燿子竜真知子井上陽水松本隆岩谷時子吉田拓郎中島みゆき来生えつこ ……

 

松本隆

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 もちろん、この人たちは昭和歌謡をつくった作詞家の一部でしかないけれど、どの人も “文学者” としてもの実力を備えた人たちである。
 事実、上記の人たちのなかには、すでに著名な文学賞を受賞している人もいる。
  
 阿久悠山口洋子なかにし礼などは実際に小説も書いているし、他にもエッセイを書いているような人がたくさんいる。

 

 つまり、プロの作詞家というのは、そういう作業を通じて、言葉が人間の想像力を刺激するツボを心得ている人たちなのだ。

 

 では、人の想像力というのは、いったい、どういうときに刺激されるのだろうか?

 

 昔、NHKの歌をテーマにしたトーク番組で、ゲストのミッツ・マングローブがこんなことをいっていた。

 

 「今の音楽は、すべてを説明して答まで消費者に提供しようとしている」
 しかし、それでは、かえって聞き手の想像力が奪われてしまう、という。

 

 同番組でインタビューを受けた作詞家の松本隆も、似たようなことを述べていた。

 

 「歌には “余白” というものが大事。つまり、言葉と言葉の “間(ま)” のようなもの。詞における『美』というものは、そういう “余白” とか “間” に生まれる」

 

 つまり、詞における「余白」とか「間」というのは、すなわち「想像力」が舞い降りるスペースになるというのだ。
 
 昭和歌謡というのは、概してこういう方法論によって編み出されてきた。
 音楽評論家の近田春夫氏は、「今のJ ポップの作り手のなかで、昭和歌謡のような作詞能力を持っている人が現れたら、詞の世界で必ず頭を取れる」と言い切る。

 

 おそらく、これからは、昭和歌謡を聞き始めた平成の若者のなかから、きっと将来の逸材が現れてくるに違いない。

 

議論大歓迎!

 

トランプ的 “反知性主義” を語った
当ブログに対する読者からの反論

 

 下に紹介するのは、11月8日に私が掲載したブログ記事(「アメリカ社会の『分断』とは何か」)に対して、「タカ」さんと名乗る方から寄せられたご意見である。

 この方とは、すでに過去2回ほど、コメント欄を通してやりとりを繰り返した。
 最初にコメントをいただいたのは下記のエントリーだった。

 https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2020/11/08/180758

 タカさんは、
 「(アメリカの分断の責任を)トランプ大統領になすりつけるこのブログの文脈は理解できない」
 とし、とても示唆的なご批判をくだされた。

 

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 私はそれに返信を書き、いったんはご理解をいただいたように思えたが、後日再反論をいただいた。
 ここに紹介する下記のご意見が、それである。

 

 このブログではあまり議論をするような経験がなかったが、私はとてもこの議論を有意義だと感じたので、タカさんのご意見を紹介した後で、自分の返信も掲載することにした。

 

 コメント欄ではなく、本文に掲載する以上、さらにいろいろな読者の方から私に対する新しい批判、反論があることも覚悟している。
 しかし、それはとても大事なことであるように思える。
 
 このようなブログの場で、健全な議論が交わされることは望むところである。

 

……………………………………………………………………………………………

タカ

 あなたは反知性主義が嫌いのようです。しかしこれほどあいまいなことばもないでしょう。

 
 それが反聖書的姿勢なのか反権威なのか反エリートなのか。あなたの場合は「知的でない」と解釈されているように見受けられますが、それほど狭義なのであればここでこのことばは使うべきでない。

 

 むしろ現在の米国民主党の左傾がよりラジカルに進化すれば、それこそ反知性主義なのではないか。


 なぜなら、行き着く先は共産主義的なのだから。信仰のないところに知性は宿らない。反知性です。

 

 民主主義なんてたいしたシステムではないにせよ、選挙があるだけマシなのであって、最低限の民意を汲み取るだけ現行優れたものは他にない。この時期に懸念されるのは少しづつ漏れ始めている民主党の選挙不正疑惑。もし事実であればそれこそ知性もへったくれもない。

 

 私も白人至上主義はクソ食らえだし差別的な政治発言も笑えないと思っている。ここはトランプの最たる欠点。それが分断に向かわせたのは事実。

 

 バイデンはどうだろう。一見紳士的。しかし実はそれがもし利益至上主義だったと考えられる節がある。
 多国籍企業、金融資本をバックにつけ中国とよろしくやっていてマスコミもSNSさえ味方につけている。

 

 なぜみなバイデンを応援するのか? 彼らの反トランプが実は民意によるものではなく利益の追求が真の目的?
 真のビジネスマンはバイデンたちなのでないか。
 いや、アメリカのさらなる左傾化か。

 

 トランプがオバマを嫌悪しているのは人種的なものでなくそれは2016年の選挙まで遡ればその理由がみえてくる。

 トランプがこの日本を守ってくれるというのは幻想です。そしてバイデンもしかり。
 そこはなにも期待できない。

 

 さらにあなたの言うように民主党は人権にうるさい。そこは賛同します。
 なのに歴史を振り返ると民主党政権時代に戦争が多い事実。
 ここを調べるとまた違う事実がみえてくるからトランプを単に感情的に批判しているとことの真相がみえなくなってしまうと私は懸念しています。

 面白い議論でした。

…………………………………………………………………………

>タカさん、ようこそ

 

 とても、“論点” が鮮明に浮かび上がるようなコメントをいただき、ありがとうございました。
 おかげさまで、タカさんと私の間で、何が問題になっているのか、あるいは何が誤解のもとになっているのか、さらにいえば、この先お互いにどういう了解事項が成立するのか、それらを多少なりとも整理できるようになりました。
 そういった意味で、とても貴重なコメントをいただいたと思っております。

 

 いくつかのご指摘に対して、私なりにご説明させていただきたいと思います。まず冒頭の「反知性主義」という用語に関して。 

 

 私が使っている「反知性主義」というのは、さほど特別な使い方ではありません。いみじくもタカさんがおっしゃったように、あっさりいえば、「知的でない」という意味です。

 

 「反知性主義」という言葉は、最近使われた用語ではなく、1950年代から使われていた言葉だともいいます。
 しかし、日常的にこの言葉が浸透してきたのは、2000年代に入ってからだと記憶しています。
 
 たとえば、白井聡氏と笠井潔氏の対談『日本劣化論』(ちくま新書 2014年)などでは、「1980年代の消費社会の興隆をうながしたものは日本人の “知性に対する軽視” である」という趣旨を解説する用語として、「反知性主義」という言葉が使われています。

 

 また、作家で、政治・宗教・社会・哲学を総合的に俯瞰してモノを書いている佐藤優氏は、その著作『知性とは何か』(祥伝社 2015年)において、「反知性主義の罠にとらわれないための3箇条」という稿で、
 「SNSなどで流布する情報にとらわれることなく、自ら哲学書思想書などに触れる機会を増やし、自分の言葉で世界をまとめること」
 を奨励しています。

 

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 つまり、私はこのような用語例に従って「反知性主義」という言葉を使ったにすぎません。
 したがって、「ここでこの言葉は使うべきではない」というタカさんのご指摘には、素直に首肯する気持ちにはなりません。

 

 もう少しいうと、トランプ氏が大統領になって以降、アメリカ論壇では「ポスト・トゥルース(脱・真実)」とか、「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」という概念が台頭してきました。

 

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 どういうことかというと、トランプ氏の大統領就任式(2017年)のときに、トランプ氏は、「俺の就任式に集まった聴衆の方がオバマより多かった」と自慢しましたが、集会所の後ろの方にいた群衆はそうとうまばらでした。
  
 それをメディアの記者に指摘されたトランプ陣営のスパイサー報道官は、記者会見の席上、「大統領はオルタナティブ・ファクトを述べただけだ」と言い放ちました。
 つまり、「事実などはいくつも存在する」と言い切ったわけですね。

 

 あるメディアは、この発言を採り上げ、トランプ政権の閣僚たちの間に広がる認識のあいまいさを「反知性主義」という言葉で表現しました。
 「知性」というものが、しっかりした事実認識に基づく情報を大切にするのなら、トランプ氏の報道官は早々とそれを放棄した。つまり、トランプ政権全体が「反知性主義」だといったわけですね。

 

 さらに、タカさんのその先のくだり。
 「米国民主党の左傾がよりラジカルに進化すれば、それこそ反知性主義なのではないか?」
 というご指摘。

 

 ずばりお聞きします。
 その論点の根拠は?

 

 アメリカや日本のマスコミは、民主党左傾化に神経質すぎます。
 確かに、アメリカ民主党にはバーニー・サンダース氏(写真下)やエリザベス・ウォーレン氏のような “左派” を自認するような人々もいます。だが、そう人たちが実際のアメリカ国民全体に与える影響力というのは、現状ではほとんどありません。

 

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 民主党がバイデン候補を立てたのは、サンダース氏やウォーレン氏ではアメリカ国民の主流層の心を捉えることができなと判断したからでしょう。

 

 トランプ氏は、選挙戦の間も、ずっと「アンティファ」の過激性・暴力性を攻撃していましたが、アンティファというのは、トランプ派の「Qアノン」と同じようなネットを軸にゆるやかに連携する消極的な集団なので、プラウドボーイズのような銃で反対派を威嚇する武装集団とははっきり区別する必要があるでしょう。

 

共和党支持者によって組織される「ミリシア」といわれる武装グループ

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 今、アメリカ社会が直面している分断の問題は、「右」か「左」かというところにはありません。

 

 格差社会が進行している状況で、コロナの感染が恐ろしくても、人と接する仕事をしなければ食べていけない人と、それを横目で見ながら、テレワークができる恵まれた環境で働ける人たちとの乖離が「分断」という形で現れてきていると思うのです。
 だから、「右」か「左」かではなく、今や、格差社会の「上」か「下」かということが問題となる時代が来ています。

 

 それと、もうひとつ。
 左派の行く先は「共産主義的」というご意見。
 もうそろそろ、こういう認識から卒業されてはいかがですか。

 

 現在、地球上に、厳密な意味で「共産主義的」な国家というのは存在しません。
 中国や北朝鮮というのは、その創設期に「共産主義」を理念に掲げたかもしれませんが、今はそういう理念からまったく逸脱した凶暴で強権的な独裁国家です。プーチン下のロシアもそういう傾向がありますね。

 

 これらの抑圧的な強権国家をすべて「共産主義国家」と決めつけるのは間違いです。

 

 ある意味、上記の国家は、アメリカやEUと同じようなグローバル資本主義に属する国家です。
 ただ、アメリカやEUと違うのは、「民主主義」という概念を抹殺した国々ということですね。
 いわば、国民を厳重な管理システムのもとでコントロールする「独裁資本主義国家」です。

 

 このことは世界の常識であり、「キューバ共産主義国家」と喧伝してフロリダのキューバ撤退移民を怖がらせたトランプ氏の幼稚な手法に乗ってはいけないと思います。

 

 それよりも、いま世界中で深刻な問題となっているのは、(前述したように)一部のお金持ちだけが低所得者の富を簒奪する強欲資本主義がもたらした格差社会です。
 アメリカで、サンダース氏などに期待を寄せた若者たちは、それを問題にしたものです。

 

 ただ、彼らの力はまだ微小です。
 タカさんはコメントの後半で「アメリカの左傾化」を心配されているようですが、当分の間、そういうことは起こらないと思います。
 アメリカ社会の「社会主義アレルギー」はそうとう強烈だからです。

 

 私はむしろ、アメリカ国民が少しは「左傾化」するぐらいの方が健全だと考えています。

 

 タカさんの今回のコメントを拝読するに、私がトランプ氏よりもバイデン氏の方に肩入れしていると思われている気配が濃厚ですが、先に言ってしまうと、私は別にバイデン氏を評価しているわけでもなく、アメリカの民主党を応援しているわけでもありません。

 

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 ただ、民主主義の最低のルールさえ守ろうとしないトランプ氏に対して、あきれているだけです。

 

 タカさんは、「いま少しづつ漏れ始めている民主党の選挙不正疑惑。もし事実であればそれこそ知性もへったくれもない」
 とおっしゃっていますが、その指摘にはどれだけの確証がありますか?

 

 確かに、選挙結果に多少の誤差はあるでしょう。
 なにしろはじめての大量の郵便投票でしたから。

 

 ですが、常識的に考えて、トランプ氏が主張するほどの不正疑惑があるとはとえも思えません。現在ジョージア州などでは手作業による再集計が行われているようですが、専門家たちは、「多少の誤差が明らかになったとしても、トランプ氏が逆転勝利をつかむまでには至らないだろう」と推測しています。

 

 トランプ氏の狙いは再集計による逆転勝ちではなく、「今回の選挙全体が不正なものであったという印象付けを狙ったものだ」という見方が強いようです。
 
 現に、そのトランプ氏の発言を信じる支持者たちの一部は、いまだに「この選挙は違法なものだ」と言い続けています。

 

 それって、すでに「選挙を前提とした民主主義」への信頼を揺るがす現象ですよね。
 「選挙の不正」を言い続けるトランプ支持者たちの声は少しずつ減ってきているともいわれていますが、たぶんそういう声は地下に潜んだまま、今後もアメリカ社会をずっと揺すぶり続けていくでしょう。

 

 タカさんはまたコメントの後段のところで、こう言われていますよね。
 ≫「本当の利益至上主義者というのは、実はバイデンの方で、彼は中国とよろしくやっていて、マスコミもSNSさえ味方につけている」

 

 私は別にバイデン氏に対して、何の批判も期待もありませんから、「そういう見方もあろうだろうな 」という意見にとどめます。

 

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 ただ、一般論として、アメリカの大統領というのは、みなアメリカ企業の利益を守ることを重要だと考える人たちですから、トランプ氏であってもバイデン氏であっても、その基本姿勢は変わらないのではないでしょうか。

 

 一点違うとすれば、トランプ氏はアメリカ企業の利益獲得を自国民に分かりやすい形でアピールしますよね。


 それに対し、バイデン氏は、自国の経済利益を考えながらも、それが同盟国との利益配分を考えたとき、他国の不安や不満を助長しないだろうかということに多少の配慮をするかもしれません。

 

 だから、彼の国際協調路線や貿易路線は、トランプ氏のように、アメリカ国民からは見えづらいものになる可能性はあります。


 もちろんこれは実際にバイデン政権が動き出さないかぎり、なんともいえませんが。

 

 どちらの政策が日本にとっていいのかどうかも、今ははっきりわかりません。
 いずれにせよ、「いい面」と「悪い面」はメダルの裏と表ですから、どちらにもメリットとリスクは伴います。

 

 最後に、「歴史を振り返ると民主党政権時代に戦争が多い」というご意見がありました。

 これはどうなんでしょうか。


 戦争というのは、党の力によって起こるものではありません。
 そのときの国際関係の力学の変化によって起こるものなので、「戦争を起こしたのは民主党共和党のどちらが多いか?」という議論はあまり意味がないように思えます。

 

 第二次世界大戦以降のアメリカの戦争を見てみると、確かに、ベトナム戦争を開始したのは民主党のJ・F・ケネディとそれを継承したジョンソン大統領でした。

 

 しかし、それ以降の主だった戦争を拾ってみると、湾岸戦争(1990年)時の大統領は共和党ジョージ・ハーバート・W・ブッシュ(パパブッシュ)ですし、その後のアフガン戦争(2001年)は、その子供のジョージ・W・ブッシュ共和党)、そしてイラク戦争(2003年)もまたジョージ・W・ブッシュでした。

 

 最近の戦争だけにかぎっていえば、共和党系の大統領の方が戦争に加担する率が高いようです。

 

 トランプ氏も戦争を恐れない大統領の一人ですね。
 つい最近の話では、自分たちの側近に、「(自分の任期中に)イラクの核施設を攻撃する選択肢はあるか?」と尋ねたそうです。

 

 ペンス副大統領もポンペオ氏も、さすがにそれに関しては「殿ご乱心!」といさめたそうですが、放っておくと、トランプ氏は人気取りのために戦争を始めることも厭わない人のように思えます。

 

 そう考えると、「日本を守ってくれるのはトランプか? バイデンか?」という議論もあまり意味がないのではないでしょうか。

 

 日本を守るのは、最終的に日本人であって、そのためには軍備による防衛力を強化しなければならないのか、そうではなく、外交努力の積み重ねが必要なのかという議論が国民レベルで要求されます。

 

 特に、中国の驚異的な拡張主義によって、急激に緊張感を増してきた極東の平和と安定を守るためには、われわれもまたアンテナを鋭敏にして、国民内の議論をしっかり深めていかなければならないと感じています。

 

 そういった意味で、タカさんのコメントは非常にありがたいものでした。
 こういう形で議論が進化し、継続していくことが「民主主義」ですよね。
 タカさんは、そのへんを本当に理解されていて、素晴らしいと思いました。

 最後に「面白い議論でした」と添えてくださっていることをとてもうれしく思いました。

  

AKB48が社会現象だった時代

  

 2020年度NHK紅白歌合戦の出場者が発表されたが、昨年まで12年連続出場していたAKB48が選考から落ちた。

 

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 櫻坂46、乃木坂46、日向坂46などは出場するらしいが、なんといっても、その手のガールズユニットの頂点に立っていたAKBが「紅白」に出ないということは、秋元康系アイドルグループの「終わりの始まり」を見るような気がする。

 

 もっとも、私は指原莉乃がAKBのセンターを張ったとき(2013年)から、なんとなくAKBの終わりを感じていた。

 

 指原というのは、ある意味で、才能のありすぎる娘で、セルフプロモーションがうまい。
 だから、卒業してからのタレント活動の方が輝いて見える。

 つまり、AKB全体の “オーラ” を、独立していく指原1人が奪い尽してしまった感じがするのだ。

 

 いってしまえば、タレント(あるいは役者)として大成するのは、けっきょくは個人の力でしかなく、AKBというシステム自体は、スターを輩出するユニットとしては無力だった、ということを指原が証明してしまったようにも思える。

 

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 しかし、今から8年ほど前、つまり2012年当時を振り返ってみると、AKB48というユニット自体が時代を超えた巨大な存在だった。


 彼女たちが繰り広げる「握手会」や「総選挙」などというイベントは、その時代にもっとも成功したショービジネスだといわれ、多くの企業人たちの熱い視線を集めた。

 

 つまり、「AKB48」は、単なるアイドルという存在を超えて、2000年代全般を代表するような “社会現象” だったのだ。 

 

 彼女たちが巻き起こした旋風がどれだけ凄まじいものだったか。

 

 それを示す一冊の本がある。
 『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書 2012年8月26日)。

 

 今、本棚からたぐり寄せて、パラパラとページをめくってみたら、とんでもない熱量を持った本であることが改めて分かり、軽いめまいを覚えた。

 

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 どういう本なのか?

 

 年齢的にはすでに中年の域に入った男性4人が、
 「自分がどれだけ熱いAKBファンなのか!」
 ということを競い合って語り明かす本なのだ。

 

 この “論争” に参加した人たちは、以下のとおり。

 

 小林よしのり 1953年生 当時59歳 漫画家(下写真左上)
 中森明夫    1960年生 当時52歳 ライター(下写真右上)
 宇野常寛    1978年生 当時33歳 評論家(下写真左下)
 濱野智史    1980年生 当時32歳 社会学者・批評家(下写真右下)

 

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 この人たちがすごいのは、みな例外なく、自ら「AKBにハマった!」と豪語したところにある。


 それもハンパじゃなく、実際に握手会や総選挙などに足を運び、自分のお気に入りの子を “推す” ために、大量のCDを買い込んだという。
 
 トークに参加した小林よしのり氏は、こう語る。

 

 「わしはCDを10枚買ってしまった時点で、異常な世界に踏み込んでしまったという感覚があったよ(笑)。普通なら、同じCDを2枚買ったら無駄なことをしていると思うわけだから」
 
 濱野智史氏の弁。


 「僕も、CDを58枚買ったときは、ついに戻れない世界に足を踏み入れたなと思いました」

 

 本の前半は、こういう中年ファンたちの無邪気な自慢話で埋め尽くされている。
 しかし、話はだんだんすごいところに分け入っていく。

 

 途中から、使われる言葉が尋常ではなくなってくるのだ。
 「資本主義」
 「世界宗教
 「プロテスタンティズムの倫理」
  などという用語が飛び交い始める。
 
 とりあえず、話をリードする論客の一人、宇野常寛氏(写真下)のトークを(少し長くなるけれど)拾ってみる。

 

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 「AKBは売れているからけしからん、というようなことをいう左翼的な人間がまだいる。
 資本主義の論理をどんどん追求したほうが、多様で民主的で、表現としても豊かなものがたくさん出てくるのに、純文学や美術の世界では『アニメやアイドルやポップミュージックみたいな大衆に媚びる文化はダメだ』という恐ろしく頭の悪い発言をする人が後を絶たない。

 

 彼らは、『資本主義の論理に逆らって書かれたものだけが本物だ』みたいなことをいうけれど、そういうのはもう古い。

 

 つまり、彼らは、消費社会のことがまったくわかっていない。自動車だって食品だって、すでに存在する欲望に迎合するだけではなく、徹底的に利潤を追求することで、今まで誰も見たこともなかった新しいモノを生み出してきたわけ。


 媚びるどころか、むしろ大衆に新しい欲望や快感を教えてやらなければ負けていくのが消費社会というゲーム。
  
 そうやって、お金儲けを追求することで新しい価値が自動的に生まれていくのが、資本主義という自己進化システムに他ならない。教条的な左翼の人たちは、消費社会を矮小化してとらえている」

 
 
 ま、宇野氏の気負いは分からないでもないが、AKB48にこれほど思想的なこだわりを持つ理由がいま一つ不明。
 自分の “学識” を読者に伝えたかったのだろうか?
 


 宇野氏と同じぐらいの年齢(当時30代前半)の濱野智史氏(写真下)も、宇野氏と同じぐらいの熱を持って、AKBの存在意義を力説する。

 

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 彼は、こういう。
 
 「(AKBをつくった)秋元康さんほど、今の時代に世界平和を実現するのに近い人間はいないと思っている。

 

 なぜかというと、今の世界は冷戦も終わって、イデオロギー闘争もなくなった。そういう世の中で、何がいちばん危険なのかと考えると、セックスできずにモヤモヤしている非モテ男性のルサンチマン(怨念)みたいなものが、もっとも暴力につながりやすい。

 

 でも、AKBのような方式で世界中にアイドルを展開させていけば、そのルサンチマンが解消される。

 

 世界平和を実現するには、この “恋愛弱者” をいかに物理的に減らすかしか道はないと思う。


 現実的に、セックスできない奴は世の中にたくさんいて、そいつらに救済を与えているのがAKB」

 
 
 ふぅ~ん …… 
 すごいことを言っていたんだなぁ この人。
 AKBファンをすべて「非モテ系の恋愛弱者」と規定してしまう一方的な決め付けに対し、当時こう言われた若者たちは、どう感じていたのだろうか。
 

 
 この本を読んだ2012年には、私はすでに62歳になっていたが、もし自分が “若者” だったら、この発言にそうとうな反発を感じただろうと思う。

 

 だが、この本において、宇野氏や濱野氏の暴走はさらに加速する。
 彼らは、ついに、「AKBこそ新しい世界宗教だ」と言い切る。

 

 以下、濱野氏の発言。 
 
 「日本は(AKBに代表される)アイドル的な国家を目指すべきだ。そしてJKT(AKBのインドネシア版)のように、こういうシステムを外国に輸出していくべきである。

 

 AKBみたいな劇場を他の国へ作っていけば、資本主義社会における自由恋愛では負け組になってしまうモテない若い男子がどんどん救済されていく。

 

 AKBの仕組みは、劇場でAKBが見られたり握手できたりするだけのシンプルなもので、資本主義と結託して恋愛弱者のオタクから搾取しているだけのビジネスに見えるが、その裏側では、確実に負け組の救済になっている。

 

 (AKBが)負け組の若者たちに生きる意味を与えているということで、キリスト教イスラム教みたいな新しい『世界宗教』になり得るのではないか」
 

 おい、濱野さん。
 AKBファンをすべて “負け組” なんて言い切っていいの?

 

 今、この濱野氏の発言を聞くと、彼がこのときに、(AKBウイルス !? に冒されて)誇大妄想的な興奮状態にいたことが分かる。
 
 もしこの発言が、キリスト教原理主義の人やイスラム原理主義の信者に届いたら、「バカなこというんじゃねぇ!」と怒られただろうと思う。

 

 世界の一神教は2000年以上の歴史を持っているが、AKBはこのとき、デビューしてたかだか3年ぐらいの歴史しか持っていない。
 「世界宗教」を語るには、最低でも20年ぐらいの歴史が必要となるのだ。

 

 濱野氏が今どういう世界で、どんな仕事をしているのか知らないが、もしこのときの自分の発言を思い出したら、どんな気持ちになるのだろう。

 

 自分は正しいことを言ったと今でも思うのだろうか。
 それとも恥じるのだろうか。
 知りたいところである。 
 
 濱野氏は、このときのAKBの総選挙で、一位になった大島優子の発言の途中で登場した前田敦子のことをこう表現する。

 
 「(そのとき前田敦子はAKBを)やめているのに、やめていない。まさに記号論でいう『ゼロ記号』じゃないけど、“不在のセンター” になってしまった」
 
 “ゼロ記号” !
 記号論における「ゼロ記号」というのは、確かに、一世を風靡した言葉である。
 しかし、この言葉は、80年代ぐらいには、消費されすぎてすでに死語になっていた。
 それを再び持ち出してくる濱野氏の言語感覚にため息が出た。
 

 そういう濱野氏の脱線振りに輪をかけて、宇野氏も次のような過激発言を繰り出す。

 

 「(マックス・ウェーバーの『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したような西洋の一神教的な資本主義の展開ではなくて)今は、アジアにおける資本主義受容という事態が起きた結果、次のステージとして多神教的な世界観と資本主義の結託が始まった。
 僕はそれがAKBじゃないかと思う。21世紀以降は、多神教原理の資本主義のほうが勝つ可能性がある」

 

 彼が興奮していたことは、この発言から伝わってくる。
 ただ、大げさだよ!
 
  まぁ、インテリがアイドルに入れ込むときは、こういう感情になってしまうのだろう。

 

 上記の2人の “過激な(?)” 発言に対し、中森明夫氏と小林よしのり氏は比較的冷静に対応していて、それがいま読み返してみると、好感が持てる。

 

 しかし、それでも4人のトーク全体が熱を帯びていることには変わりない。

 

 8年前。
 いやまぁ、なんという激しい本が出ていたのだろう。

 

 ただ、この本が当時握手会や総選挙に殺到していたファンの心に届いたかどうかは分からない。

 おそらく、本当のファンはあまりこの本を読まなかったように思う。
 あまりにも “インテリたちの言葉遊び” という面が強すぎるから。

 

 宇野氏も濱野氏も、AKBの熱心なファンのような振りをして、(言葉は悪いけれど)本当は自分たちの理屈をひけらかしたかっただけではないか? …… とすら思えるのだ。

 

 それでもまだ、彼らの “資本主義分析” が正しければ読み応えがあったかもしれない。

 

 しかし、宇野氏のいっているようなことは、80年代のニューアカブーム時代に、浅田彰たちによってさんざん言い尽くされたことでしかない。


 それから、30年経った2012年に、それを蒸し返した段階で、宇野氏などの発言は決定的に古くなっている。

 

 資本主義を肯定的に捉える言説は、冷戦構造を背景にした時代のものだ。
 だから、宇野氏や濱野氏が「資本主義」を語りたかったのなら、新自由主義グローバリズムに染まった「冷戦以降の資本主義」を語らなければならなかったはずだ。

 まぁ、今頃そういっても遅いけれどね。

 

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 この本は、AKB48という存在を記録する貴重なデータとして残るのだろうか。
 それとも、トンデモ本のような扱いを受けて、闇の中に消えていくのだろうか。
 違和感を抱きながらも、私はそれなりに面白く読んだけれど

  

 

権力者が舞台を去るときの悲哀

映画『ニコライとアレクサンドラ』

トランプ大統領
 
 ロシアのロマノフ王朝の最後を描いた『ニコライとアレクサンドラ』(フランクリン・J・シャフナー監督)という映画がある。

 

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその皇后アレクサンドラ、そしてその5人の子供たちが、ロシア革命が勃発したことによって処刑されるまでを描いた作品だ。

 

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 制作されたのは1971年(日本公開1972年)。
 そのとき私は、22歳だったが、当時この映画の公開にはまったく気づかなかった。
  
 その作品を48年後、テレビの「BSプレミアム」(2020年10月27日)でようやく見ることになった。

 

 3時間を超える大作だったが、飽きもせずに、面白く鑑賞した。
 なにしろ、フランクリン・J・シャフナーという監督は、『猿の惑星』を撮った人だけに、面白い映画に仕上げるコツは会得していたようだ。
 しかし、その感想をこのブログなどに書き起こす気持ちはなかった。

 

 なのに、今こうして、その映画に触れてみようという気になっている。

 

 栄耀栄華を極めたロシア皇帝ニコライ2世の没落に、なぜか権力を失って政治の場から追われて行くトランプ大統領の姿が重なったからだ。

 

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 ニコライ2世というのは、日露戦争のときに、日本と戦うロシア軍を統括していた皇帝である。
 日本はこの戦いを青息吐息状態でしのぎ、ようやく戦勝に漕ぎつけた。

 

 しかし、実は日本よりもさらに疲弊していたのは、ロシア政府の方だった。

 

 このときロシア政府の要人たちからは、極東の地からはやばやとロシア軍を徹底させ、日本との戦いを終結させようという意見が出ていた。

 
 
 その理由は、莫大な戦費がかかるうえに、得るものが少ないという判断からきたものであったが、もう一つの理由として、ロシア国内に、皇帝を打倒して労働者の国家をつくろうという動きがあったからだ。

 

 しかし、見栄っ張りのニコライ2世は、極東の貧しい国に戦争で負けるということを屈辱に感じ、戦局が好転しないまま、ますます戦争継続に前のめりになっていった。

 

 この間の出来事をまとめた司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』によると、当時の日本政府は、ロシア国内で勢力を持ち始めた革命勢力と秘密裏に接触し、革命グループにこっそり資金援助をしていたという。

 

 そういう日本側の裏工作も功を奏して、けっきょくニコライ2世は、名誉ある勝利を手にしないまま、日本との講和を受諾。朝鮮半島満州支配で得た利権を手放すことになった。
 
 彼が講和に踏み切ったのは、頼みの綱であったバルチック艦隊日本海海戦で敗れたことも大きかったろうが、日本のような小国など、“一休み” したあとに、もう一度戦いを起こせば簡単に踏みつぶせると思っていたかららしい。

 

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 そういう読みの甘さからも、ニコライ2世という統治者の実務レベルがそうとう低いものであったことがうかがえる。

 

 しかし、皇帝の私生活は充実しており、血友病を患っていた長男のアレクセイを除けば、どの娘もみな健康状態が良好で、優秀な教育者たちに囲まれ、優雅な青春を謳歌していた。

 

 ニコライ2世自身も、妻のアレクサンドラと仲睦まじい夫婦関係を満喫していた。

 

 「歴史スペクタクル映画」と銘打つだけあって、映画の前半は華麗なるロシア宮廷の栄耀栄華がド派手なくらい描き尽される。

 

 宮廷における夜毎のパーティ。
 風光明媚な離宮でくつろぐ皇帝家族の贅沢なランチ。
 皇帝に忠誠を尽くす軍隊をバルコニーで閲兵する皇帝ファミリー。

 

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 そこには、「ロシア」という地球上まれにみる広大な領土を持った皇帝一族の華やかな暮らしぶりが、「これでもか! これでもか!」というくらい執拗に繰り返される。

 

▼ ニコライ2世ファミリーの肖像(実写

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 しかし、レーニンスターリントロッキーといった革命派が台頭してくるにしたがって、皇帝一家の生活にも少しずつ暗い影が広がっていく。

 

 まず日露戦争後に皇帝が決断した第一次世界大戦への参戦。
 これがニコライ2世のつまづきのもとになった。
 
 このときのロシアには、もう敵対するドイツ・オーストリア連合軍との戦闘を継続する力は残っていなかった。

 

 連敗を続けるロシア軍の士気はみるみる衰え、無謀な戦いに踏み切った皇帝への不満が軍隊内に広がっていく。

 ロシア軍の将校たちの皇帝に対する忠誠心も低下し、彼らは皇帝の命令をも鼻でせせら笑うような態度を見せ始める。

 

 こういう場面はほんとうに見ていると辛くなる。

 

 ニコライ2世の全盛期には、「皇帝万歳!」と叫んでいた兵士たちが、次第に皇帝の警護をさぼり始め、将校たちは露骨に侮蔑の表情を浮かべ、最後は、皇帝に対して “ため口” を叩くようになる。


▼ 処刑されるニコライ2世ファミリー(映画)

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 権力者の末路というのは、これほど残酷なものなのか !?

 

 この映画は、次々と特権をはく奪されていく皇帝一家の悲惨な生活をドキュメンタリー作品のようにフォローしていく。

 

 その過程が、なんだかトランプ氏の失墜と重なる。

 
 トランプ氏は、その就任当初、これまでの大統領が行わなかったような政策と人事でアメリカ国民を驚かした。

 

 しかし、やがて彼は従順な部下以外の人たちを、些細な失策を理由に、次々と解雇していく。


 
 国防長官となったマティス氏、国務長官となったティラーソン氏、バノン大統領首席戦略官、ボルトン大統領補佐官、そして最近ではエスパー国防長官。
 その数は30人近くだともいわれている。

 

 これらの人は、みなトランプ氏が「裸の王様」であることを指摘し、それなりの助言を試みようとしたが、そういう言動はトランプ氏にみな「反抗的だ」という印象を与えたようで、即座に解任されていった。

 

 ロシアのニコライ2世も、やはり側近の忠告に耳を貸さなかった。
 そして、軍隊に不穏が動きが見えてきても、自分のひと声で、軍隊の統率が図れるものだと高をくくっていた。

 

 ニコライ2世とトランプ氏の共通点は、ともに庶民の人気は高かったことである。
 ロシア革命が起きたとき、ニコライ2世の処刑を決断した革命派は、彼が「人民を抑圧した暴君である」と宣伝した。

 

 しかし、実際のニコライ2世は、必ずしもロシアの民衆から見捨てられたわけではなかった。

 純朴で信仰心の厚いロシアの農民たちは、ロシア革命を指導したインテリ層とは異なり、皇帝を「神」と同一視していた。
 今のトランプ氏同様、ニコライ2世は、ロシアの庶民にとっては救世主であり、ヒーローだったのだ。

 

 だからこそ、革命派はそういうロシアの農民心理を抑圧するために、皇帝の処刑を早めなければならなかった。

 

ロシア革命を指導したレーニン(実写)

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 そのことを今回のアメリカ大統領選に照らし合わせてみると、インテリ層の支持を集めた民主党支持者と、純朴で宗教心の厚い共和党支持者の「分断」をそこに重ねることができる。

 

 ニコライ2世は、革命前夜、身内の抵抗や反乱から、自分の環境が変わっていくことをおぼろげながら察知するようになった。

 

 トランプ氏においても、その任期が終わろうとする頃、数々の暴露本が発行され、社会的な糾弾を受けるようになった。

 

 “忍び寄る不安” というものは、人間の心を少しずつむしばんでいくものである。

 

 トランプ氏の場合も、側近の反乱やメディアの糾弾に対し、たびたびいら立つ表情を見せるようになった。
 彼が精神の高揚を体験するのは、選挙戦が始まり、多くの支持者の前で演説するときだけだったかもしれない。

 

 現在、トランプ氏には、いろいろな借金を抱えているという事実と過去のスキャンダルにより、いくつかの訴訟が迫ってきているという。
 それだけでなく、メラニア夫人との離婚話もウワサにのぼるようになった。

 

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 四面楚歌になりつつあるトランプ氏。
 その姿には、どことなく悲哀の色が深まりつつある。

 

 権力者の最後は、(暴君であろうが名君であろうが)、悲劇性を帯びる。
 権力の頂点にいたときの輝かしい栄光と、それが破滅に向かって行くときの落差が、巨大な瀑布を仰ぎ見るようなドラマになるからだ。

 

 ただ、革命期のロシアと違って、アメリカは民主主義の法治国家である。
 トランプ氏が、ニコライ2世のような銃殺に処せられることはない。 
  

 

 

アメリカ社会の「分断」とは何か?

 

 日本時間の2020年11月7日(土)未明、アメリカの大統領選は、バイデン氏の勝利で終わった。

 

 しかし、トランプ氏が負けを認めず、法廷闘争に持ち込もうとしているので、これから何が起こるのか、あいかわらず不透明な部分が消えない。

 
 
 それはともかく、これまでの報道を見ていると、不思議な気持ちになることが多々あった。
 それは、トランプ支持派の行動だった。

 

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 選挙戦終盤に、トランプ氏が記者会見やツィッターで、
 「民主党の郵便投票は不正だ」
 と発言するやいなや、トランプ支持派はいっせいに投票場に繰り出し、
 「郵便集計を中止しろ!」
 と、窓を叩いて抗議を繰り返した。

 

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 別の投票場前では、選挙管理スタッフが集計状況をメディアに説明していると、いきなりトランプ支持派の男性(写真下)が乱入。
 怒りをあらわにした表情で、
 「バイデン一家は選挙を盗んでいる。彼らは不正を煽っている」
 とわめき散らし、管理スタッフの説明を妨害した。

 

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 確かに、郵便投票における集計ミスは多少は生じるかもしれない。
 だが、あからさまな不正が堂々と行われているとは、常識的には考えにくい。

 

 しかし、“トランプ親衛隊” たちは、
 「郵便投票をやめさせろ!」



 とトランプ氏に言われれば、百姓一揆のように大挙して投票場に殺到した。

 

 常軌を逸しているとしか思えないのだが、そう思うこっちの方がおかしいのだろうか?
 彼らは、トランプ氏の言動に、一度たりとも疑いを持つことはなかったのだろうか?


 
 これに関しては、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる集団も同じような状態を示した。
 「Qアノン」というのは、“ディープステート” という影の政府がアメリカを牛耳っていて、その親玉には、民主党やメディアの大物が関係していると信じた人々のことをいう。

 

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 「その “悪の組織” と戦っているヒーローがトランプ氏なのだから、彼を助けて、アメリカを “正しい国” にしなければならない」

 「Qアノン」グループは、こういう荒唐無稽の “陰謀論” を信じ、それを声高に主張して、“トランプ応援団” の一翼を形成した。
 まるで、魔女や悪魔の存在を信じているヨーロッパ中世に生きる人間の思考回路がそのまま復活してきたように見える。

 

 こういう熱狂的なトランプ親衛隊の “脳内” では、いったい何が起こっていたんだろう?
 

 

「分断」の底に流れていたもの
  
 アメリカの大統領選挙が大変な混乱を招いた原因を、メディアは「アメリカ社会の分断」という言葉で表現した。

 

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 リベラル、保守という政治的分断。
 白人、黒人などの人種的分断。
 経済重視の政策か、地球の気候変動を是正する政策の分断。
 …… などなど。

   
 メディアが報じる “アメリカの分断” というと、上記のようなものがすぐ思い浮かぶ。

 しかし、本当の「分断」は、さらに根深いところから生じている。

 1990年以降、アメリカ社会に羽根を伸ばし始めた「反知性主義」がそれに関わっている。


 1990年代というのは、(アメリカに限らず)世界中で、「知性」や「教養」といったものが急速に遠ざけられていった時代であった。

 

 それまでは、先進国においては、まだ知的なものへの関心がローソクの炎のように揺れながら残っていたが、90年代に入ると、世界中の国から一気にそれが吹き消された。

 

 世の中から「知性に対する尊敬の念」が遠ざけられたのは、「人間」というものの考え方が変わったからである。

 

 80年代から世界の先進国を覆い始めた新自由主義の思想の根底には、地球上をひとつのマーケットと考えるという発想が力を得てきた。

 

 そこで必要とされてきたのが、「反知性主義的」な社会風潮にのっとったマーケット組織論であり、世界の教育方針もそれに応じた再構築が要求されるようになった。

 

 なかでも、特にアメリカの学問の傾向がそこには強く浸透しているとみてよい。

 

 それは、「人間」を計量分析的な手法で捉える学問である。
 つまり、個々の人間の「内面」とか「精神」に踏み込まず、人間を “群れ” として考え、大まかな傾向によってグループに分けて、数の多さ・少なさで人間のタイプを識別していくような考え方である。

 

 繰り返しになるが、そのような学問スタイルが主導的な地位を占めるようになったのは、この時期からアメリカを中心とした多国籍企業が、自分たちのマーケットを広げるための “人間操作” に手を染め始めたからだ。

 

 
反知性主義」に人々を
誘導した多国籍企業

 

 人間を「個人」としてではなく、「群れ」として考える。
 そうすることによって、グローバル企業は、消費者を従順に管理できる広大なマーケットを獲得することができる。

 

 この段階で、従来の心理学や精神医学は後退させられた。
 人間の個性や才能はすべてステレオタイプ化された「分類項目」に仕分けられるようになり、「個」を主張する人間は、マーケット管理の網の目からこぼれ落ちるように運命づけられるようになっていった。

 

 “知性を軽んじる盲目的な大衆”

 

 それこそが、グローバル企業にとって効率よくスムーズに市場を広げるためのいちばんの特効薬と考えられたのだ。
 
 その段階で、ドイツの哲学も、フランスの芸術も、「19世紀的なパラダイムから脱出できない旧態依然たる思想」というレッテルを貼られることになった。


 アメリカは、経済ブロックとしてのEU に脅威を感じていたから、文化的な潮流としても、ヨーロッパ的な伝統を打ち崩していく必要があった。

 

 一方ヨーロッパにおいても、一時一世を風靡したフランス現代哲学の影響力が一気に失われるようになった。

 

 サルトルに始まって、ミシェル・フーコー、デリタ、ドゥールーズらを輩出したフランス哲学は、80年代までは世界の知的シーンを領導したが、それはアメリカとソ連が対立した冷戦時代に、そのどちらの世界観にも与さない “第3極” を目指すというスタンスが新鮮だったからだ。
 
 しかし、そのフランス哲学の潮流も、冷戦が終結し、世界の2極構造が崩壊していく過程で目指すべき3極目を失い、衰退していった。
 
 
頭を使わない作品ばかり
になったハリウッド映画

 

 こうして、アメリカ流の新自由主義思想がグローバル経済の担い手となるやいなや、先進国の文化はのきなみ “反知性主義” の色合いを強めていった。
 
 それは学問領域だけでなく、娯楽の領域にまで及び、ハリウッド映画では、知性をまったく必要としないアクションシーンだけが連続する作品が高収益をあげるような風潮が生まれた。

 

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 なにしろ、映画で興行成績を上げるには、頭を使わせるような映画にしてはダメだということが映画会社の方針となった。

 

 そのためには、子供と親を同時に劇場に呼べるように、子供の知能で理解できる作品にしなければならなくなった。
 そうしないと、莫大な広告費を回収できないからだ。
 
 そういう新自由主義の文化傾向は、1990年代の日本でも広まった。 
 むしろ、日本の場合は、ヨーロッパなどに比べて反知性主義の浸透がスムーズだったといえる。

 

 それは、1980年代に、日本が未曽有のバブル景気を迎えたからだ。
 金を派手に使って遊ぶことを覚えた文化に、知性は育たない。

 

 知性というのは、「本を読む」「師との対話を続ける」など、わりと地道な作業を通じてしか身に付かない。

 

 しかし、バブル狂乱のなかでは、そのようなコツコツした作業を積み重ねることは「野暮ったいもの」として遠ざけられていった。 
 その風潮は、そのまま日本の1990年代に受け継がれた。 
 
 
 このような世界中に蔓延した「反知性主義」は、政治的にはポピュリズム大衆迎合主義)に傾く。


 多くの人が、すでに自分で考える習慣を捨ててしまっているので、そういう人の心にも響くような、攻撃的な言葉で分かりやすく “世直し” を訴えるポピュリストが人気を得る。

 これが2016年以降アメリカを襲った “トランプ現象” だ。


 トランプ氏は、自分を支えてくれる支持者たちに、「エリートへの反感」を植え付け、ものの見事に、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」の潮流を巻き起こした。

 

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 彼は、「本を読まない習慣」に価値をおき、
 「自分が生涯のうちに読んだ本は2冊。1冊は聖書で、もう1冊は自分で書いた自分の自伝だ」
 と豪語。

 「読書など、時間の無駄づかいだ」と言い切って、読書コンプレックスを抱いていた “反知性主義者” たちの拍手を浴びた。

 

 こう見ていくと、“トランプ親衛隊” こそ、悲しむべき被害者であることが分かる。
 彼らはトランプ氏のこれまでの発言に留飲を下げたが、結局は “いい気持ち” させられて、政治的に利用されただけだった。

 

 トランプ氏によって、経済が上向き、雇用も増えたと評価する人々もいるが、逆に、それと同じぐらいの量で、工場の閉鎖や町の衰退を嘆く人も多かった。

 

 私はかつて、今回の大統領選の激戦区といわれたアリゾナ州ネバダ州、ユタ州をレンタルモーターホームで旅したことがあったが、そこで出会った人々 … その大半は今回トランプ支持に回ったと思うが …… 彼らはみな観光客にはとても優しく、気持の良い人々であった。

 

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 彼らの大半は、純朴で、笑顔がチャーミングで、心の温かさがそのままこちらに伝わってくるような人たちなのだ。

 

 そういう彼らが、ポピュリストのトランプ氏に煽られ、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」を貫く過激思想に染まっていったのは哀しい。

  

 

トランプ型フェスティバルの熱狂

 

 予測通り、開票日の3日中に集計が出なかったアメリカの大統領選挙。
 郵便投票の結果を待つという事態に進みそうだが、これもトランプ氏が「郵便投票の不正」を主張したり、自分に不利な判定を下した州の結果に異議を申し立てたりしているため、予断を許さない状況だ。

 

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 それにしても、大方の予想を覆し、トランプ氏が善戦していることは明瞭である。

 

 昨日、トランプ氏がフロリダとマイアミを制した段階で、一部メディアは、これを「4年前のデジャブ」 すなわちヒラリー・クリントンが選挙戦終盤に大逆転をくらって敗北した2016年の大統領選の再現ではないか? と報道したりもした。

 

 事実、日本の政治ジャーナリスト木村太郎氏などは、テレビの報道番組で「これでトランプの勝利は9割確定したでしょう」とまで言い放った。

 

 ところが一転、一夜明けた5日の報道では、「バイデン氏勝利」の予想を立てたメディアがじわじわと増え始めた。

 さらに、正午になると、「バイデン氏が大手!」という予測が主導的になった。


 もちろん、依然として、アメリカのトランプ支持者たちは、自分たちの勝利を疑っていないという。

 

 しかし、前述したように、昨日の段階では「トランプ氏の勝利」が見えた瞬間があったことは確かだ。

 そのとき、大統領選を報道している日本のテレビ番組においては、各コメンテーターが口をそろえて、トランプ氏の善戦は、彼自身とその支持者たちの “熱量” のせいだと語った。

 

 トランプ氏が各州を回り、集会に多くの支持者を集め、その熱気をメディアを通じてアメリカ国民全体にアピールする。

 

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 赤いキャップをかぶり、ジェスチャーを交え、自信たっぷりに演説するトランプ氏はもう戦う前から “凱旋将軍” ようだし、「TRUMP」というプラカードをかざして小躍りしている支持者たちはカーニバルの踊り子たちのようだった。

 

 ある専門家は、
 「トランプ支持者はテレビ画面で見るかぎり熱狂的に見えるが、その数は広がっていない」
 と語った。

 

 しかし、テレビを見ていた私には、そんなふうには思えなかった。
 アメリカ国民の大半がトランプを応援しているように見えた。
 おそらく、アメリカの有権者たちもそう感じていただろう。

 

 一方のバイデン氏は、大学生たちを集めて講義をする教授のように見えた。
 冷静で、知的で、教育熱心な教師であるかもしれないが、講堂のすみで居眠りする生徒に対して注意するような覇気は感じられなかった。

 

 言語も文化圏も異なる日本人の私ですらそう感じたのだから、アメリカ人たちにとって、2人のキャラクターの差はもっと歴然としたものに感じられただろう。

 

 今回の2人の戦いは、「祭りの熱狂」と「講義の理性」の戦いであった。
 つまり、「非日常」と「日常」の戦いだった。

 

 「トランプか、バイデンか」という選択を迫れたとき、多くのアメリカ人は「経済か?」、それとも「コロナ対策か?」という選択肢に置き換えて判断を迫られたとよくいわれる。

 

 もちろん、実利的にはそうであったかもしれない。

 しかし、その奥に隠された国民の無意識は、「祭り」か「日常か」という選択  すなわち「陶酔」か、「理性」かという選択でもあったのだ。

 

 今回の大統領選は、世界でいちばんコロナウイルスの感染者が多いアメリカだからこそ出現した戦いであったが、コロナウイルスへの脅威に対して、どう立ち向かうかという戦いでもあった。

 

 人間が恐怖や不安と戦うには二通りの手段がある。
 ひとつは、恐怖と不安の対象となるものを冷静に分析し、合理的にその解決法を模索する方法。
 大統領選でバイデン氏がとった手法がこれだ。

 

 もうひとつは、恐怖や不安に怯える心を、「祭りの興奮」で吹き飛ばす方法。
 トランプ氏はこっちを採ったのだ。
 それも圧倒的な演出とパワーで。 

 

 トランプ氏支持者たちが、マスクをせず、「密」状態で熱狂するのは、まさに「祭りの興奮」である。

 「祭り」というのは、その先に “死” への衝動を秘めている。
 死んでもかまわないと思えるほどの熱狂こそ、祭りの正体なのだ。

 

 今回のトランプ氏の戦い方をテレビで評したある日本人のコメンテーターがこんなことを言っていた。
 「アメリカ人は楽天的なヒーローが好きなのだ」
 と。

 

 楽天的なヒーローとは、“悲惨な境地” から自分たちを救い出してくれる救世主のことである。
 ハリウッド映画『アベンジャーズ』のように。  
 あるいは、昔の『スーパーマン』、『バットマン』、『スパイダーマン』のように。
 その超人的な力で、悪をなぎ倒し、人々に「ハッピーエンド」をもたらしてくれる者。


 それを完璧に演じ切ったのが、今回のトランプ氏だ。

 

 私自身の好みをいえば、勧善懲悪型のヒーロー映画が嫌いである。

 そのストーリーの単純さ、主人公の “頭の悪さ” が退屈に思えてしかたがない。

 だから、トランプ型の “聴衆の煽り方” には目をそむけてしまう。

 

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 だが、それこそ、「大衆の好み」の最たるものかもしれない。

 

 ヒーローには、「理屈」は要らない。
 ヒーローに求められるのは「強さ」だけだ。

 

 トランプ氏は、対立候補のバイデン氏に、「理屈をこねるバイデン」というイメージをかぶせた。
 
 事実、バイデン氏は「パリ協定」への復帰や、シェールガスの掘削法への懸念を表明し、環境問題への関心の高さを示した。

 

 しかし、多くのアメリカ人にとって、“環境問題” などは「理屈の世界」でしかない。
 “頭は悪い” が超人的に勘の鋭いトランプ氏は、そのことをよく知っていた。

 

 ただ、「祭りの興奮」は、祭りが終われば風船のようにしぼむ。

 その後に訪れるのは、うら寂しい秋の夕暮れの景色だ。

 トランプ支持者たちの “トランプ ロス” は、きっと彼らを長くむしばんでいくだろう。

 

 この戦い、2~3日後にはその動向がはっきりすると思うが、もしトランプ氏が勝利を手にするようなれば、アメリカは、世界の先進国でもっとも遅れた国になりかねない。

 

 

大統領選、いま始まる

 いよいよ本日(日本では11月4日)に迫ったアメリカ大統領選挙
 個人的には、今いちばん関心を持っているニュースである。
  


 もちろんヨソの国の選挙なので、トランプ氏が勝とうが、バイデン氏が勝とうが、日本人の私には関係のない話である。

 

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 にもかかわらず、この選挙には、まるでドラマでも見ているような面白さがある。
 現代社会の明日の姿が、すべてここからスタートしていきそうに思えるのだ。
 
 アメリカの国家元首を決めるだけの選挙なのに、ここには国際政治のゆくえ、地球環境問題のゆくえ、格差社会の動向、宗教のあるべき姿、民主主義存続の問題、知性主義と反知性主義の相剋、極東の安全保障問題  現在懸案事項となっている国際社会の動向がすべてこの選挙にかかっていそうな気がする。

 

 それだけに、日本のメディアも本日まで、この選挙戦の報道にたくさんの時間をとってきた。


 
 そこで提出されたいろいろなレポートを見ていると、トランプ支持者たちの熱狂ぶりも伝わってくる。

 

 彼らの多くは、低所得・低学歴の白人労働者である。
 そのなかでも、選挙の勝敗を握るのは、“ラストベルト” といわれるエリアに住む自動車産業や石油・石炭産業に従事する人々である。

 

 かつては米国の主要産業に従事する人たちだが、経済のグローバリズム化にともない、仕事量の漸減に苦しむようになった人々が多数派を占める。

 

 2016年、トランプ氏は、彼らに、「仕事を取り戻す」ことを公約に掲げて支持を集め、大統領に就任した。
 
 今回の選挙でも、この構図は基本的に変らない。

 

 そのため、今回の選挙でも、4年前にトランプ氏に票を投じた支持者たちは、
 「トランプは俺たちに仕事を返してくれた。今までいなかった素晴らしい大統領だ」
 と手放しで評価し、今回も彼の再選を強く望んできた。

 

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 だが、彼らには残念なことだが、世の中の趨勢は、やがて脱石油・脱石炭の方向に舵を切らなければならないようになっていく。


 地球環境を守るために「脱・炭素社会」を実現するという方針は、次第に各国政府の合意事項となり始めているからだ。

 

 そうなると、脱石油・脱石炭を世界が標榜するかぎり、ガソリン自動車を中心としたアメリカの自動車産業も方針転換を迫られるようになる。

 

 アメリカにおいても、トランプの対立候補である民主党バイデン氏は、地球環境を守るための国際会議「パリ協定」から離脱したトランプ氏の方針を批判し、アメリカは再び「パリ協定」に復帰すると宣言した。

 

 日本でも、菅首相が、
 「2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにする」
 と宣言した。

 

 なんと中国でも、習近平主席が、
 「中国のCO2排出量を2060年までに実質ゼロにする」と表明したのだ。

 

 トランプ氏がしなければならなかったのは、こういう世の中の動きを見極め、20世紀的な産業構造に依拠しなければならなかったアメリカの労働者たちに新しい産業方針を示し、そのための支援に労力を惜しまず、彼らを救ってやることだったのだ。

 

 それにもかかわらず、トランプ氏は彼らの今までの仕事を「いっそう振興させる」と大風呂敷を掲げて支持を取り付けた。
 無責任極まりない態度だと思う。

 

 トランプ氏は自分のことしか考えていないということは、こういうことからも分かる。
 大統領としてトランプ氏が活動できるのはわずか4年でしかないが、彼らはまだ10年~20年は現在の仕事に従事しなければならない。
 そうなれば、状況はさらに彼らに不利になり、多くの人は今よりも深刻な困窮と失望のなかで生きていかざるを得なくなるだろう。
 
 
 こういうトランプ氏の無責任な言動を、それでも評価する日本人の評論家もいる。
 政治ジャーナリストの木村太郎氏などがその筆頭だ。

 

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 彼は今回のアメリカ大統領選について、早いうちから一貫して「トランプが完勝する」といい放ち、これまでの4年間においても、
 「トランプには大統領としての実績がある。彼のおかげで国は豊かになり、経済は成長した」
 と高く評価。

 

 さらに、トランプを批判する知識人とトークするときは、
 「ヨソの国のことなのだから、日本人は放っておけばいいのだ」
 と手厳しく議論の相手を突き放した。

 

 トランプを支持する人間は、みなどこかトランプ氏と共通の肌合いを持っている。
 木村太郎氏からも、トランプに似た傲慢さやふてぶてしさが匂ってくる。
 
 また、トランプに期待する日本人評論家のなかには、
 「中国の膨張政策に歯止めを掛けられるのはトランプしかいない」
 と言明する人もいる。

 

 「民主党はこれまでも中国に甘かったから、バイデンでは海洋進出を早める中国に何も手出しはできない」
 という論理だ。

 

 だが、トランプ氏が中国に強硬姿勢を取り続けているのは、ディール(取り引き)でしかない。


 彼は、中国がアメリカとの貿易で、アメリカの有益な譲歩をしてくれば手のひらを返したように中国に甘いアメを与えかねない。

 

 アメリカが貿易で中国とおいしい取り引きを行ったときには、トランプ氏は、あっさりと香港も台湾もみな中国に与えてしまうだろう。

 

 あと数時間で、大統領選が開票となる。
 日本時間の4日未明には、どういう結果が出るのか。
 それともその日には決着がつかず、さらなる混迷が待ち受けているのか。
 
 ヨソの国のことながら、そうとう気になる。

 

マルクスの『資本論』が再びブーム?

若者たちの『資本論』研究の背景にあるもの

 

 今年になってから、若い学者たちの間で、マルクスの『資本論』を再評価する活動が盛んになっている。

 

 今年の4月には、白井聡氏(43歳 京都精華大学教員)の『武器としての「資本論」』が出版され、かなりの話題を呼んだ。

 

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 同書は、出版された直後に佐藤優いとうせいこう内田樹といった著名な評論家たちがこぞって好意的な書評を載せたこともあり、コロナ禍で自粛を要請された社会状況とも重なり、書店での売り上げがかなり伸びたようだ。

 

 また、この9月には、斎藤幸平氏(33歳 大阪市立大学大学院准教授)の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』が出版され、こちらも経済学者の水野和夫、音楽家坂本龍一、書評家の松岡正剛などという人々に注目され、メディアの新刊紹介ページをにぎわした。

 

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 どちらも買って読んだが、若い研究者たちの熱意がしっかり伝わってきて、刺激的な読書体験をもたらせてくれた。

 

 しかし、今なぜマルクスの『資本論』なのか?

 

 世界の状況が、19世紀にマルクスが『資本論』を書かざるを得なかった時代に再び酷似してきたからだ。

 

 
現代はマルクスの生きた時代に似てきた

 

 19世紀半ば。
 イギリスの産業革命によって成長を始めた “資本主義” は、莫大な富を得て贅沢を享受する富裕層(資本家)と、その日暮らしの生活を維持するだけの貧困層(労働者)を同時に出現させた。

 

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 こういう事態を重く見たマルクスは、一方では『共産党宣言』のような、階級闘争を呼びかける書物も刊行したが、それにとどまらず、他方では “資本主義” の構造そのものを分析する『資本論』の執筆も始めた。

 

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 その時代から、すでに150年が経過している。
 世界経済は、マルクスの分析をはるかに超えて、人々に巨大な富をもたらした。

 

 しかし、“富める者” と “貧しき者” の格差は縮まったのか?

 逆に開いてしまった。

 

 高級なワインや牛肉、ハイセンスで安価なファッション、衛生的な住環境、刺激的なゲームや面白いエンターティメントに囲まれた生活を享受しているのは、実は、きわめて限られた先進国の人々にすぎない。(当然日本もそっちの組に入る)

 

 その先進国の人々の “豊かな生活” を保証しているのが、劣悪な条件で過酷な労働を強いられる発展途上国の人々である。

 

 たとえば、先進国の人々がワンシーズン着ただけで気軽に捨てるようなファスト・ファッションの洋服を作っているのは、その日暮らしの生活水準をかろうじて維持しているバングラディッシュの労働者たちであり、その原料である綿花を栽培しているのは、40℃の酷暑のなかで作業を行うインドの貧しい農民たちだ。

 

 “富める者” と “貧しき者” という階層分化が進んでいるのは150年前のマルクスの時代と変わらないが、今はその所得格差がさらに広がり、しかもそれがどんどん固定化してきている。

 

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 人口比でいえば、10%のセレブたちを、90%の労働者が支えているという計算になる。
 詳しくいえば、一生遊んで暮らせるほどの富を確保した1%の特権層を、生活の不安を抱えた99%の一般人が養っているという、すごくいびつな富の偏在が常態化してきている。

 

 それをもたらしたのは、冷戦崩壊(1989年)後に始まった経済のグローバル化と、それを背景に生まれてきた新自由主義思想である。

 このような巨大な格差が地球を覆っている現状を、もし150年前のマルクスが知ったら、
 「まだ俺が生きていた時代の方がましだ」
 と必ずいうだろう。

 

 
新しい視点で解釈された『資本論

 

 現在、若い学者たちが、マルクスの『資本論』に再び光を当てているのは、実はこういう時代背景があるからだ。

 最初に挙げた白井聡氏(写真下)の『武器としての「資本論」』は、このマルクスの「資本論」を読み解くための入門書として役割を帯びている。

 

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 つまり、この書では、マルクスの「資本論」がけっして歴史を知るための古典ではなく、今の “新自由主義” 的な抑圧機構から人が解放されるための現代的な実践書であることを強調する。

 

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 一方の斎藤幸平氏(写真下)が書いた『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』では、これまでの『資本論』像を大きく塗り替えるような新しい視点が強調されている。

 

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 すなわち、マルクスの『資本論』では十分に展開されていなかった環境問題が全面的に取り上げられているのだ。

 

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 著者の斎藤氏によると、マルクスは、このまま資本主義の暴走が止まらなければ、地球環境が壊滅的な打撃を受けることを預言していたという。

 

 これは、従来の『資本論』研究ではなかなかとり上げられなかったテーマである。

 

 もし、『資本論』を完結した一つの書として扱うならば、確かに、「資本主義の環境破壊」を正面的に取り上げた記述はない。

 

 しかし、斎藤氏は、
 「『資本論』は、そこに掲載された文字だけで完結するような書物ではない」
 とも。

 

 『資本論』の周辺には、まだマルクスが論考としてまとめきれなかった膨大なメモやアイデア集が散らばっており、それらを丹念に総合すると、
 「マルクスの晩年の関心は、資本主義と自然環境の関係性を探ることにあった」
 と斎藤氏はいう。

 

 つまり、
 「資本主義は、労働者から “富みを簒奪(さんだつ)する” だけでなく、地球から豊かな自然をも簒奪する」
 ということが、マルクスの残した膨大な “研究ノート” に記述されているというのだ。

 

 
マルクスはすでに現代の環境問題を見据えていた

 

 マルクスが生きた時代には、人間の経済活動によって生じる「温室効果ガス」が、地球の温暖化を進めるなどという議論は生まれていなかった。
  
 しかし、マルクスは、その膨大な研究ノートのなかで、資本主義の暴走が止まらなければ、自然環境の崩壊は必至だということを見抜いていた。
 事実、今の地球は、彼の予言通りの危機に見舞われている。

 

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 たとえば、南米のアマゾン川流域では、熱帯雨林を伐採して農園に代えるという開拓工事が止まらない。

 

 そのため土壌浸食が起き、肥料・農薬が河川に流出して、川魚がどんどん減少している。
 それによって、その領域に住む人々は魚からとっていたタンパク質が欠乏し、十分な食生活が得られなくなると同時に、森林に頼っていた野生動物の生活環境も劣悪化した。

 

 そういうことは世界各地で起こっており、その結果、今までの生活を維持できなくなった人々は、金銭目当てに、絶滅危惧種に指定された野生動物を殺して密猟者を助けるという違法取引に手を染めていく。

 

 そこで密猟された象、サイ、トラなどの野生動物の象牙、ツノ、毛皮などはお金持ちの嗜好品や高価な漢方薬となっていく。

 

 資本主義は何でも金儲けの対象にしてしまう。

 気候変動などの環境危機が深刻化すれば、それさえも資本主義にとっては利潤獲得のチャンスとなる。
 山火事が増えれば火災保険が売れる。
 バッタが増えれば、農薬が売れる。
 すべての環境危機は、資本にとっての商機となる。

 

 これをわれわれは「ビジネスチャンス」という言葉に置き換え、利潤獲得のために貪欲な行動に走る。

 

 だが、そういう「経済優先的な思考」を、いつまでも地球環境が許してくれるだろうか。

 

 
化石燃料の浪費はつい最近の問題なのだ

 

 考えてみれば、「地球環境の危機」というのは、きわめて最近クローズアップされてきたものばかりだ。


 
 たとえば石炭・石油などの化石燃料の消費。
 それは20世紀から一貫して問題にされてきた大きなテーマだが、人類が使用した化石燃料のなんと半分は、実は冷戦が終結した1989年以降に消費されたものだという。

 

 わずか30年の間に、人類は莫大な量のエネルギーを浪費してしまったのだ。

 

 つまり、冷戦終結によって、「社会主義」と「資本主義」の政治的・思想的対立が解消し、世界経済がグローバル化を遂げたことで、大企業のエネルギ政策が野放しになったことが遠因としてある。

 

 この間、新自由主義的なグローバル企業を展開して大儲けをした世界のセレブたちは、みなプライベート・ジェットや大型クルーザー、そして高価なスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何軒も所有して、この世の春を謳歌した。

 

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 人口的にいえば、その人たちの比率はわずか0.1%。
 象徴的にいってしまえば、その0.1%の人々が、21世紀の地球環境に深刻な負荷をかけてきたともいえる。

 

 現在、世界でも最も裕福な資本家は20数名だといわれている。
 そのわずかな人たちが、世界の38億人の貧困層(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占しているという。

 

 それでも、マルクスが夢見ていたような “革命” は、現在では起こらない。
 なぜなら、経済格差がここまで広がってしまうと、“貧困層” といわれる人々でさえ、もう自分たちの悲惨さを自覚する想像力を失ってしまうからだ。
 
  
社会主義者はテロリストの同意語なのか?

 

 現在、「社会主義革命」、もしくは「共産主義革命」という言葉を、世界のセレブたちは嫌う。

 

 特に、アメリカの保守系の人々は、“社会主義者” という言葉を “テロリスト” の代名詞として使う。

 

 しかし、富の “いびつな偏在” に気づき始めたアメリカの(リベラルな)若者たちは、“社会主義革命” に積極的な意味を見い出し始めている。
  
 その証拠に、大統領選の時期が来ると、アメリカの若者たちは、自ら「社会主義者」を名乗るサンダース氏(写真下)を熱烈に支持するからだ。 

 

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 そういう若者たちが理論武装しようとするときには、マルクスの『資本論』は、格好の手引書となる。


 “富の偏在” を無慈悲に実現していく「強欲資本主義」の構造を見破るためには、今のところ、これ以上の研究書はない。

 

 
日本の『資本論』研究の古典的名著

 

 そういった意味で、白井聡氏の『武器としての「資本論」』、および斎藤幸平氏の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』の2冊は、マルクスを論じた2020年の好著だといっていい。

 

 ただ、ささやかな感想を付け加えるならば、この2冊から私は、プロパガンダとしての “味気なさ” を若干感じた。
 つまり、読者を「社会主義革命」へと誘導していくための政治的立ち位置が匂いすぎるように思った。

 

 そういうときに思い出すのは、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』(1978年)である。

 

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 私は、この本で、『資本論』が文芸評論のように論じられることを知って驚愕した。
 そこでは、文章の隅々に、文芸的香華がただよっていた。

 

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 文学として『資本論』を語りうる書物を一度ではあっても経験してしまうと、それ以外の “資本論・論” はどこか味気ない。
 それは、私が若い頃に柄谷氏の著作に接したからかもしれない。
  
  
 最後に、『資本論』を考えるときに参考となる著作を、自分の読んだもののなかから列記する。
 
 
 水野和夫・著 『資本主義がわかる本棚』
 資本主義は「煩悩」を全面開花させる
 

 

 岩井克人・著 『欲望の貨幣論
 貨幣のいたずらに人間は悩みかつ魅せられる

 

 

 柄谷行人・著 『マルクスその可能性の中心』
 『資本論』は優れたエンターテイメントである

  

 

「銃」という武器の悪魔的な力 

 

 アメリカ大統領選が近づいてきて、トランプ支持者のなかに、銃で武装して、反トランプ支持者たちを威嚇する(プラウドボーイズなどの)民兵組織が増えてきたことが話題になっている。

 

▼ 「ミリシア」といわれる民間の武装グループ

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 こういう光景は、日本ではまず見ることがない。
 われわれ日本人は、この物騒な人々に心理的な恐怖すら感じる。
 ヨソの国のことであっても、さっさと取り締まってほしいと思うのだが、アメリカ人にとっては見慣れた情景なのかもしれない。
 

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 アメリカの銃規制が進まないのは、銃の所持が法律で認められているということ以上の理由があるように思える。

 

 何か、人間の本能的なもの。
 銃を持つことによってのみ満たされるデーモニッシュな欲望。
 そういう人間の暗い情念にささやきかける魔力が、おそらく “生身の銃” にはあるのだ。

 

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 アメリカの法律では、銃の携帯は「自分の身を守るため」という名目で保証されている。
 特に、「テロに対する備え」という思考が定着し、アメリカでは、家族一人ひとりが一丁ずつ銃を所持する家庭もあるという。

 

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 こういう感覚が日本人には理解できない。
 「そんなことしたら、ちょっとしたトラブルですぐ撃ち合いになるのではないか?」
 そういう危惧がすぐ頭をよぎる。
 実際に、民間人同士の銃撃事件というのは、アメリカでは後を絶たない。

 

 だが、それでも、アメリカの銃規制は一向に進まない。
 一つには、銃の製造・販売で大儲けをしている「全米ライフル協会」が共和党の大きな支持母体であるため、その政治献金による収入を共和党系の議員も大統領も無視できないからだという。

 

 それでも、民主党オバマ前大統領は、任期中に銃規制に踏み出そうとしたことがあった。

 

 しかし、それが実行されることを懸念したアメリカの民衆は、
 「銃が買えるうちに買っておこう」
 と、それまで銃を持ったこともない人まで銃砲店に殺到し、空前絶後の売上げを記録したという。 

 

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 こういうアメリカ人の銃に対する熱烈な思いを、どう説明したらいいのか?

 

 よく言われるのは、アメリカの人民は、自分たちの独立を銃によって勝ち取ったという歴史を持っている、という説だ。
 イギリスに対する独立戦争のことをいう。
 つまり、アメリカ人にとって、「銃は自由と独立の象徴」なのだという。

 

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 しかし、そういう観念的な説明は方便というものだろう。
 銃と人間の関係は、(先ほどもいったように)もっとドロドロした物騒な衝動がからんでいる。


 つまり、人間が銃を持ちたいというのは、その動機として「撃ちたい」という欲望に支えられているはずだ。

 

 何を撃ちたいのか?

 

 彼らが「撃ちたい」対象は、人工的な標的の場合もあれば、野生動物であることもあるだろう。
 だが、ほんとうのことを言えば、まぎれもなく、彼らは「人」を撃ってみたいのだ。

 

 だからアメリカでは、自分の感情を制御できない人間が、学校などの公共施設で銃を乱射し、人を殺傷するという事件がよく起こる。

 

 脳科学者の中野信子さん(下)によると、多くの男性は銃を手に持つと、唾液のなかに “精神を高揚させる物質” が混じり始めるのだという。

 

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 つまり、武器には、それを手にするだけで、人間の神経を高ぶらせる力があるというのだ。

 

 確かに、昔の男の子たちは、みな銃の玩具(おもちゃ)を欲しがった。
 今でもモデルガンのマニアは多い。
 
 銃の玩具は、子供の心に、自己拡張の幻想を与える。
 自分の攻撃力が、素手のときよりも10倍~100倍も向上するような錯覚を与えることがある。

 

 ましてや、本物の銃ならば、その攻撃力が “幻想” ではなくなる。
 本物の銃が持つ殺傷力は、その所有者に “全知全能の神” にでもなったような高揚感をもたらす。

 つまり、銃は、人間の自己顕示欲が “武器” の形をとったものだ。

 

 そうであるならば、それはもう「法律」では規制できない。
 銃という「武器」を手にした人が、それを使うことをためらわせるような “哲学” が必要となる。

 

 日本刀には、その哲学がある。

 

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 日本刀は、人を殺傷するための武器ではあるが、どこかで、それをそのまま行使することをためらわせるような “力” が付与されている。

 

 「美しさ」である。

 

 歴史学者磯田道史氏(下)は、
 「武器として製造される鉄のかたまりが、そのまま美術品にもなるという不思議な力を発揮するのは、世界でも日本刀だけである」
 という。

 

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 武器としての刀は、たとえ戦場であっても、それを行使して他者を斬るのは、「人命尊重」という倫理を破ることになる。


 つまり、日本刀は、何かを覚悟して、懺悔(ざんげ)の気持ちで振り下ろさないかぎり使えないものなのだ。

 

 そうしたハードルを設定する力が、「美術品としての香華」である。
 すなわち、「美の力」だ。

 

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 「美」であるかぎり、それをドロドロした血で汚すことをためらわせる作用が生まれる。
 その思いを振り払って、他者を斬りつけるのは、それそうとうの覚悟が生じたときに限られる。

 

 これが銃ならばどうか。


 銃は刀剣のように、戦う者同士が至近距離を保つ必要がない。
 その分、ためらわず引き金を引ける。

 

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 至近距離を保つということは、顔と顔が接することで、相手の人間をほんとうに殺す必要があるのか?  ということを問い直す契機が(わずかの時間だが)生まれる。

 

 刀を交わす瞬間のうちに、たとえ戦う相手が「鬼」であろうとも、
 「この鬼も、元は人間としての悲しみを持っていたのではないか?」
  などと推測する時間が与えられる。

 

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 しかし、銃の戦いは、相手をいちいち確認する必要がない。
 つまり、銃における戦いで倒す相手は、「物」なのだ。

 

 日本刀が美術品としての価値を持ち始めるたのは、戦う相手に対しても、「人」を確認する可能があったからだ。

 

 「美」というのは、人間の意識によって見出されるものであることが、そこからも分かる。

 

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「民主主義」とは脆弱なものである

  

 世界各国で、「民主主義」が侵害されることの危機が叫ばれている。
 

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 香港の若者たちのデモ(上)から始まり、タイにおける反政府デモ。
 そして、ベラルーシの反大統領デモ。

 

 さらに、ナイジェリアにおいても、独裁的な軍政権に反対する抗議デモが勃発した。

 

 それらを伝える日本メディアの報道では、決まって、
 「民主主義の危機に対する抗議」
 という言葉で説明される。

 

 アメリカの大統領選挙においても、強圧的なトランプ政権に異議を唱える民主党の発言には、「民主主義を守る」という言葉が折り込まれることが多い。
 
 日本では、菅首相が学術会議のメンバー105人のうち6人を任命拒否したことについても、野党がそれに抗議し、そういう一連の事件を「民主主義の危機」という言葉で説明する報道もあった。

 

 言葉の使い方が間違っている、とはいわない。
 確かに、いま世界各国で広がっている抗議活動は、みな「民主主義の危機」を訴えるものばかりだから。

 

 しかし、これらの問題を、その一言で説明してしまう考え方には違和感がある。

 というのは、「民主主義の危機を訴える」という言葉は、「民主主義は存続するのが当たり前」という思想が前提になっているからだ。

 

 甘い、と思う。

 

 「民主主義」というのは、政府も国民も、そしてメディアも、日々それを守ろうとして必死に努力していかなければ存続できない “脆弱なもの” なものでしかない。
 言葉を変えていえば、「常に危機にさらされている」ものなのだ。

 

 それを守ろうとするならば、私たち自身が日々「民主主義とは何か」、「それはなぜ必要なのか」という不断の問いかけを行っていかなければならない。

 

 ただ、そういう問題意識を持たなくても、日本に偶然「民主主義」が根付いた時期がある。

 

 日本においては、1960年代から70年代の高度成長期にかぎってだけ、世界でもまれに見るような民主主義国家が成立した。
 私たちは、それを “奇跡” とは思わず、当たり前のように享受した。

 

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 しかし、そういう日本型民主主義が可能になったのは、高度成長における経済的安定と、それによって誕生した膨大な中流家庭が生まれたからである。

 

 そのとき日本では、世界中の人々がうらやむような、収入の安定した中間層が誕生した。
 その中間層の経済的繁栄を基に、教育環境が整い、一定程度の知的レベルを持った国民が形成された。

 

 それが、日本の民主主義を築いた。

 
 つまり、「民主主義」というのは、教育の普及による “均一化された知的レベル” を持つ人たちが多数派を占めることによって、ようやく可能になるものなのだ。

 

 言い直せば、同じような知的価値を共有できる人々がたくさんいることが、民主主義の基礎となる。


 そういう条件が整わないと、民主主義に不可欠な “議論” というものが成立しない。

 

 民主主義は、一つのテーマに賛同したり、反対したりするという複数の意見が交差するなかでしか生まれない。
 つまり、「知性」が参加者に要求される。

 

 だから、「民主主義」は、経済格差・教育格差・文化格差がある国には根づかない。
  
 いま各国で「民主主義」を求める運動が勃発しているのは、逆にいえば、どの国においても、さまざまな “格差” が急速に進んできた結果といってよい。
 なかでも、世界的に進行速度を早めている「経済格差」が、民主主義の成長を阻む大きな要因になっている。

 

 いってしまえば、それはすべて「資本主義」の問題なのだが、それを説明すると長くなるので、ここでは省く。

 

 日本においても、世界で広がりつつある経済格差が進行している。
 私たちは、もう「膨大な中間層」に支えられた安定した国家体制を維持できなくなっている。
 つまり、日本の民主主義も危機的状況を迎えつつあるといっていい。
 
 
 では、民主主義の機能しなくなった国とは、どういう状態になるのか?

 

 民主主義を阻害するものとして、軍事政権のような、独裁的な権力機構を想像しがちである。


 もちろん、いま世界で起こっている「反政府デモ」の矛先は、独裁的で強圧的な政権に向かっている。

 

 そういう国家は往々にして、国民の意志をコントロールしやすくするために、「全体主義」的な統治形態をとる。
 まさに、今の中国がそうであり、それを極端に進めた国が北朝鮮である。

 

 ただ、そのような独裁国家だけが、「民主主義」を弾圧しているわけではない。

 

 これまで “民主主義的国家” だと思われていた国でも、国民の多くが「反知性主義」に陥ることによって衰退していくこともある。
  
 民主主義というのは、知的レベルが均一な国民によって支えられるものだと先ほど述べたが、その知的レベルが、経済格差・教育格差によって共有されなくなってくると、とたんに、怪しげな “陰謀論” や “都市伝説” が台頭してくる。

 

 いま大統領選を前にアメリカで広まっているのが、この怪しげな陰謀論・都市伝説のたぐいだ。

 

 アメリカでは、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる人々が、いま猛烈なトランプ支持を展開している。

 

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 これは、ネットを通じて、「Q」と名乗る匿名の人物によって流されているとされるSNS情報のことだ。

 

 その主張というのは、
 「アメリカには “ディープステート” と呼ばれる闇の政府が存在し、それが表の政府を牛耳っている」 
 というものだ。

 

 この “闇組織” は、児童売春を行う陰謀団が中心となり、そのメンバーには、著名な民主党政治家やハリウッドの大物スターも加わっている。

 

 彼らは、自分たちの存在を隠すためにマスコミにも手を伸ばし、国民を欺くような大衆操作を行っている。

 

 こういうデマ情報を簡単に信じるアメリカ人が急増。
 それがトランプ大統領の支持者として急速に発言力を増しているというのだ。

 

 彼らは次のように主張する。

 「これらの陰謀集団に対して、いま断固戦っているのがトランプであり、トランプが勝利しないと、アメリカは陰謀集団に乗っ取られる危険な国となる」

 

 冷静な判断力があれば、「バカバカしい」の一言で処理できそうな話だが、トランプを「現代の救世主」として崇める人たちにとっては、今回の大統領選は「悪魔(= 民主党)との戦い」という構図で理解される。

 

 彼らは、議論を望まない。
 「議論」というのは、必ず “反論” も想定されるから、それに応じてしまうと、闇組織の恐怖を理解させるための運動が阻害されると彼らは考える。

 

 つまり、彼らは(議論を前提とする)「民主主義」そのものを否定しようとしている。

 

 こういう考え方に染まった人は、そのうちテレビも見なくなる。
 新聞も読まなくなる。
 マスコミは、「闇組織」に汚染されていると信じるからだ。
 そのため、ネットで「Qアノン」情報だけをフォローし、それをまた自分でも拡散させていく。

 

 まさに、魔女裁判や異端尋問が横行したヨーロッパ中世の考え方が、現代アメリカで復活しているといっていい。

 

 魔女裁判や異端尋問が庶民を苦しめた背景には、ペストのような疫病が蔓延した時期とも重なる。

 

 ペスト菌の正体を知らなかった時代の人々は、ペスト禍を「魔女」や「悪魔」のしわざだと信じることによって、自分たちの心を納得させようとした。

 

 時代は、また過去へループし始めているといえよう。

 

 
 「Qアノン」の “陰謀論” 的な考え方を、さらに銃で武装することによって徹底させようという集団も生まれている。
 極端な “白人至上主義” を打ち出す「プラウド・ボーイズ」と呼ばれる民兵組織だ。

 

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 彼らは、武器携帯が認められたアメリ憲法を堂々と盾にとり、「アンティファ」や「ブラック・ライブズ・マター」といった、現トランプ政権に批判的な左派勢力に、武器をちらつかせて敵対する。

 

 彼らは基本的に、黒人やヒスパニック系住民の増大に危機感を感じており、白人の生存権を確保することを使命として、そのためには暴力を奮うことも辞さない。
 
 彼らも、自分たちの考え方を容認してくれるトランプ氏を崇拝しており、それと敵対する民主党勢力を鎮圧することに生きがいを感じている。

 

 このように、アメリカでは、国民の内部に、民主主義を崩壊させるような潮流が生まれている。


 
 それだけアメリカでは、経済格差・教育格差・文化格差が広がっているということなのだ。

 

 大統領選挙前の政治集会でみるトランプ支持者の熱狂は、その「格差」を自分たちで見ないようにしている必死な衝動から来るものである。

  

 

アメリカ人は “お茶目な” トランプが大好き

 

 いよいよあと2週間を切ったアメリカの大統領選挙戦。
 ヨソの国の国家元首を決める選挙なのに、なぜかとても気になる。

 

 それは、(あくまでも個人的な嗜好だが)、面白いからだ。
 自分には、いろいろな意味で、この選挙が現在の世界情勢を占う試金石となりそうに思える。
 
 では、この選挙はどういう結果を生むのか?

 

 日本のメディアは、アメリカの世論調査を参考にして、今回の選挙においては民主党のバイデン候補の方がリードしていると、連日報道している。

 

 しかし、キャラクター的にみると、地味で面白みに欠けるバイデン氏よりも、最近ますますその “ヒール役” が身についてきたトランプ氏の方が数倍面白い。

 

 「なりふりかまわず」
 「身も蓋(ふた)もなく」
 「あつかましく」
 「ふてぶてしく」

 

 トランプ氏は、そういう人間のもっとも “カッコ悪い” 部分を堂々とさらけだす怪物だ。
 彼には自分に対する「羞恥心」というものがなく、他者に対する「思いやり」も「誠実さ」もない。

 

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 これほど徹底した憎まれ役を演じ続けるトランプ氏って、何者?

 

 その “悪役ぶり” を見るにつけ、ドラマ『半沢直樹』をにぎやかした “憎まれ役俳優” たちをナマで見るような好奇心がつのる。

 

 「トランプは絵になる!」
 あくまでも悪役としてだが、私はそう感じる。

 だから、アメリカに「隠れトランプ派」といわれる支持者たちが一定程度いることも理解できる。

  

 
 「トランプ人気」というのは、日本でいえば、2005年に郵政選挙で圧勝した「小泉純一郎人気」に似ている。

 

 あのとき、小泉首相は、「自民党をぶっ壊す!」と叫んで、既成政治にうっ憤を感じていた庶民の気持ちをキャッチ。

 衆議院選挙では、「民営化法案」に反対する自民党議員の選挙区にことごとく “刺客” と呼ばれた対立候補を送り出して、政治を “ドラマ化” した。

 

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 この “小泉劇場” に、当時の日本人の大半は熱狂した。

 

 けっきょく、あのとき日本人が選んだ小泉政権によって、日本は新自由主義政策に積極的に乗り出し、結果、経済格差が広がった。

 

 もちろん、功罪はある。
 確かに、“小泉政策” により、郵政や道路公団の民営化は進んだ。
 それによって、一時的に経済が活性化され、不良債権処理も進んだ。

 

 しかし、この一連の施策で大企業の景気は回復したが、低所得者の救済は進まず、逆に経済格差が広がった。

 

 金持ちたちの間にはアメリカ流のマネーゲームや拝金主義ばかりが横行し、「持てる者」と「持たざる者」の間に亀裂が入った。
 それにより、経済格差が広がっただけでなく、モラルも低下した。

 

 小泉純一郎氏は、そういった意味で、日本の政治・経済・文化に負の遺産をもたらした。

 

 それなのに、政治家としての人気はいまだに高い。
 それは、彼にはパフォーマンスの力があり、明るく、陽気で、そのしゃべり方には熱気があったからだ。

 

 そして、小泉には、何よりも “やんちゃっ子” の可愛らしさがあった。

 

 「人生には三つの坂がある。登り坂、下り坂、まさか」
 などという駄洒落をどうどうと国会で披露するお茶目ぶりも面白かった。

 

 だから、当時の民衆は、小泉純一郎の発揮するこの手のパフォーマンスに好意を持った。(こういうヨタ話の特技を、後の安倍晋三菅義偉は持っていない)

 

 「政策の実効性や誠実さではなく、面白さ」。
 そういう政治家が好まれる時代が、小泉のせいで、このとき日本でも始まった。

 

 アメリカのトランプ氏は、そういう政治家の最たるものといっていい。
 アメリカ人は、トランプのあの「やんちゃなお茶目」が好きなのだ。
 そういうトランプ支持者の心情は、小泉政権の熱狂とその後の地獄を経験してきた私にも分からないでもない。

 

 ただ、この手のパフォーマンスを面白く感じる人たちというのは、基本的に「テレビ文化」になじんだ人々である。
 日本でいえば「団塊の世代」。
 アメリカでいえば「ベビーブーマー」。

 

 つまり、青春時代に「ネット文化」というものを知らなかった人たちである。
 そういった意味で、ネット配信のニュースやYOU TUBEの動画で社会に接することが当たり前となった世代とは異なる。

 

 団塊の世代ベビーブーマーの人々は、テレビの前に座っていれば、
 「何もしなくても情報が向こうからやってくる」
 と信じていた世代といっていい。

 

 だから、アメリカでトランプを支持する人たちというのは、テレビでトランプ氏の政治集会を眺め、氏のパフォーマンスを “ショー” として楽しんでいる人々ともいえる。

 

 そういう人々は、テレビ以外のメディア たとえば新聞などでトランプ氏の批判がどれだけ展開されようが、まずそういうものを見ないし、見てもそれを信じない。

 

 今のアメリカに「トランプ文化」というものがあるとしたら、それはテレビによって仕掛けられたものであり、そのため、テレビの衰退とともに終わる。

 ただ、それにはまだそうとう先の話になるだろう。 
 

 

マッチョマンたちが世界を動かす時代

 

 今の世界のリーダーは、例外なく、“マッチョマン” である。
 
 いちばんそれを体現しているのが、猟銃を持った半裸の写真を国民に見せたがるロシアのプーチン大統領(68歳)だ。

 

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 上は、毎年制作されるロシアの “プーチン・カレンダー” の1ページだが、一国の元首が、自分の肉体美を誇るような写真をたくさん載せたカレンダーを制作して国民に売りつけるというのも珍しい。

 

 しかし、この “プーチン・カレンダー” は意外とロシア国民に人気があるようで、けっこう売れているらしい。

 

 
 いまアメリカの大統領選を争っているトランプ大統領(74歳)も、相当なマッチョマンだ。
 彼の場合は、「精神のマッチョ」が売りだ。

  

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 とにかくタフ。
 コロナウイルスに感染しても、わずか5日で現場に復帰。
 持ち前の戦闘精神を発揮して、選挙演説では、対立候補のバイデン氏をののしること、ののしること。

 

 くり出す言葉は小学生のケンカのレベルを超えるものではないが、相手を非難するときの熱量とスピードはすさまじい。

 

 おそらく、他人を非難するときの高揚感を得るために、トランプ氏は政治の世界を降りたくないのだろう。

 この人、やることなすことナルシストの典型だ。

 

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 コロナウイルスを克服して、国民の前に自分の健康な姿を見せたかったトランプ氏は、壮大なBGMを流しながら、大型ヘリコプターで大地に降りたち、カメラの前で拳を振り上げ、「俺は病気などに負けない」と吠えた。

 

 とにかく、強いところを人に見せつける。
 それも、なりふりかまわず大げさな演出で。

 

 「俺はハリウッド映画の伝説のヒーロー『ロッキー』だ!」
 おそらく、本気で自分のことをそう思っているに違いない。 
  

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 同じくコロナウイルスに感染したブラジルのボルソナロ大統領(65歳 写真下)も、自分のマッチョぶりを喧伝したがる元首の一人だ。

 

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 一時、アメリカに次ぐコロナウイルスの感染率を示したブラジルだが、彼はそれをまったく考慮せず、
 「コロナなどは風邪と同じようなもので、恐れる必要はまったくない」
 と言い放ち、コロナ対策よりも経済活動を優先。
 都市封鎖などに応じる気配もなく、国民にマスク着用も強制しなかった。

  

 そして、乗馬を楽しむ自分の映像をメディアに公開し、
 「俺はアスリートだから、病気を恐れない」
 と国民に強がって見せた。

  

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 そのため、ブラジルのコロナウイルスによる死者は、7月末で9万人を超えた。
 しかし、同大統領は、
 「人間はいつか死ぬものだ」
 と、まったく意に介さず、最後は自分自身がコロナに感染した。

 

 彼の “反エコロジー” 思想もすさまじい。
 現在、ブラジルのアマゾン川流域に広がる森林地帯が全地球の酸素供給源だということが世界の常識となっているが、彼はそれを無視し、アマゾンの自然林をどんどん伐採し、耕作地や工場予定地を急拡大した。

 

 EC諸国が地球環境の保全のため、アマゾンの森林伐採を止めるようにブラジルに忠告したが、ボルソナロ大統領は、それを「内政干渉」だと退け、森林資源の破壊を止めることはなかった。

 その結果、アマゾン川流域の森は保湿性を失い、大規模な山火事に見舞われた。
  

 
 ヨーロッパでは、反政府デモに見舞われているベラルーシのルカシェンコ大統領(66歳)も、自分のマッチョぶりを喧伝した国家リーダーの一人といえる。

  

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 彼もごたぶんに漏れず、コロナウイルスの蔓延を軽視。
 自分の好きなアイスホッケーに興じている画像を国民に公開し、
 「コロナを追い払う一番の方法は、ウォッカを飲むこととスポーツで汗をかくことだ」
 と、国民のコロナに対する不安を払しょくしようとした。

 

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 しかし、この国においても、コロナに見舞われた国民は増加の一途をたどり、この夏、大統領自身も感染している。


 このルカシェンコ大統領が、退陣を要求する国民の声に対して強気な姿勢を維持しているのは、その後ろ盾として、ロシアのプーチン大統領が存在しているからだ。

 

 プーチン氏自身が、地球の環境保全などよりも、ロシアのシベリア開発に積極的な姿勢を示す人だから、いずれにせよ、ベラルーシもまた経済活動優先の政策に邁進することになる。

 

 彼らにとっては、自分の国家の「現在の発展」が大きなテーマであって、地球環境への配慮などは目に入らない。

 

 なぜなら、国家の発展は、自分が現役のときに目にすることができるが、“地球の滅亡” などは「自分が死んだ後の話」だから関係ないのだ。

 

 
 こういう自己中心的な “マッチョ型元首” の特徴の一つとして、女性関係が盛んだということも挙げられる。

 

 「英雄色を好む」
 のことわざどおり、彼らの多くは結婚しても最初のご婦人とは別れ、途中から若い別の女性と添い遂げている。

 

 現に、アメリカのトランプ大統領の現夫人(メラニア夫人)は、トランプ氏にとって3人目の奥様。
 “ファーストレディ” としてその映像がよくメディアにも紹介されるが、モデル出身だけあって、すらりとした美人。
 トランプ氏の好みがよく分かる。  

  

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 ブラジルのボルソナロ大統領も、二度の離婚を繰り返し、今の奥様(ミシェル夫人)は3人目。
 27歳年下の女性であるというから、彼も若い女性が好みなのだろう。

 

 
 ロシアのプーチン氏はどうか。
 
 彼も最初の夫人とは離婚している。
 再婚したのかどうかは不明だが、“恋人” がいるというのがもっぱらのウワサ。
 
 それが、ロシアの元新体操選手で、アテネオリンピックで金メダルを獲得したアリナ・カバエワさん。
 そうだとしたら、元の夫人との結婚生活が続いていた頃から、彼女はプーチン氏の愛人を務めていたことになる。

 

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 秘密主義国家であるロシアのことだから、大統領がどういう女性関係を保っているかは、これまでいっさい漏れてこなかった。
 しかし、彼女とプーチン氏の間にはすでに隠し子がいるという説が有力だ。

  

 
 ベラルーシのルカシェンコ大統領の女性関係に関しては、色っぽいウワサは流れてこない。
 しかし、公にされた2人の息子のほかに、婚外子もいるというから、多少複雑な家族関係があるのかもしれない。

 

 ちなみに、アメリカやロシアと並んで、世界の強国としての道を歩んでいる中国の習近平氏(67歳)も一度離婚して、今の美人歌手である彭麗媛(ほう・れいえん)さんと再婚している。

 

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 このように、世界の権力者たちは、みな若い美人が好きなようだ。
 たぶん、自分になびく「若い女性」をそばに置いておくことで、自分の権力が及ぶ範囲を自分の目で確認することができるからだろう。

 

 マッチョマンというのは、自分の肉体を鍛え上げて、タフになるための努力を続けている人たちのことをいうが、その精神を支えるものは、ナルシシズムだ。

 
 つまり、「強い自分」に対する自己陶酔である。

 

 けっきょく、「権力欲」というのは、この自己陶酔を手に入れる欲望にほかならない。
 そして、権力者たちは、しばしば自分が統率する国家に、自分の自己陶酔を投影する。

 

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 トランプ氏の「アメリカ・グレイト・アゲイン」などというスローガンもその一つ。
 そこでは、「グレイトな国家」と「グレイトな自己」が同一視されている。

 

 マッチョ政治家が「独裁者」になりがちなのは、そういう理由からだ。 

 

 

筒美京平の “マジック昭和歌謡”

   
 「歌謡曲」って、食べ物でいうと、カツ丼とか、カレーうどんのようなものかもしれない。

 「演歌」(和食)ではない。
 でも、「洋楽」(フレンチやイタリアン)でもない。
   
 そのどちらでもない不自然さを持ちながら、誰一人、その不自然さに気づかないような存在。
 
 それが歌謡曲だ。
 とくに、“昭和歌謡” といわれる1970年代、80年代ぐらいの曲にそういう感じの作品が多い。

 

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 「和食」なのか「洋食」なのか、ほとんどの人が気にしないということは、それだけ歌謡曲が庶民に愛され、人々の日常生活に根を下ろしていたことを意味する。

 

 そんな歌謡曲の摩訶不思議な味わいをいちばん体現している曲を作り続けてきた人が、作曲家の故・筒美京平氏(写真下)だ。

 

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 特に、1960年代後半から70年代、80年代にかけての歌謡曲は、この人の独壇場だったような気配がある。

 

いしだあゆみ  「ブルー・ライト・ヨコハマ」 (1968年)
尾崎紀世彦   「また逢う日まで」 (1971年)
岩崎宏美   「ロマンス」 (1975年)
太田裕美   「木綿のハンカチーフ」 (1975年)
ジュディ・オング 「魅せられて」 (1979年)
近藤真彦     「スニーカーブル~ス」 (1980年)
  〃      「ギンギラギンにさりげなく」 (1981年)
  〃      「ブルージーンズメモリー」 (1981年)

 

 事実、70年代から80年代にかけて、筒美京平は、作曲家としての年間売上トップ3の上位を独占し続けている。

 

 彼の持ち味は、歌謡曲を作り続けた作曲家の中でも、もっとも洋楽志向を持っていたことだろう。

 

 メロディーは和風テイストだが、そのアレンジには、徹底的に洋楽の仕掛けを施す。
 それが、アメリカンポップスやらブリティッシュ・ロックの洗礼を受けた当時の若者たちの嗜好を捉えた。

 

 上記の一連のヒット曲では、それがあまり伝わってこないが、ヒット曲にならなかったものの中には、「洋楽のような曲づくりが、どれだけ日本人に受け入れられるか?」ということを実験しているような曲がたくさんあった。

 

 きっと、ご自身も洋楽が大好きだったのだろう。
 それも、その時代の先端の洋楽にものすごく好奇心を抱いていた気配が伝わってくる。

 

 たとえば、浅野ゆう子の歌っていた『セクシー・バス・ストップ』(1976年)。
 これなど最初に聞いたときは、海外のヒット曲に、日本語の訳詞をつけたものかと思ったくらいだった。


浅野ゆう子 「セクシー・バス・ストップ」


 この曲は、実に、70年代中頃の “軽佻浮薄(?)” なディスコミュージックのニュアンスを巧みに捉えている。

 

 例を挙げれば、ジョージ・マックレーの『ロック・ユア・ベイビー』とか、ヒューズ・コーポレーションの『ロック・ザ・ボート』、ヴァン・マッコイの『ドゥ・ザ・ハッスル』などの流れを汲んだ作りである。

 

 私自身は、こういう「明るく楽しい」ディスコ系の音には関心を持たなかったけれど、日本の「セクシー・バス・ストップ」だけは好きだった。 

 洋楽の意匠をまといながらも、そこに「フェイク(まがい物)」の面白さが感じられたからだ。

 

  いってしまえば「カレーうどん」の味わい。
  日本の庶民的な伝統食品に、無理やり洋食のカレー粉をまぶしたような、一種「人を喰ったような」無責任さがあって、それが妙に印象に残った。
 
 
 しかし、いちばん筒美京平が自分の洋楽志向の実験場として使った歌手は、平山三紀(平山みき)だったのではなかろうか。

 

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 平山三紀には、『ビューティフル・ヨコハマ』、『フレンズ』、『真夏の出来事』、『真夜中のエンジェルベイビー』などのたくさんのヒット曲があるが、そのすべてが筒美京平によって作られている(作詞は橋本淳)。

 

 彼女の歌い方は、「はすっぱ」という言葉がいちばん適切な、遊び好きの不良少女の面影が漂うところに特徴がある。

 

 投げやりな感じの、けだるさ。
 刹那主義的な享楽の匂い。
 若さだけを頼りに、無軌道に突っ走っていくことの「開き直り」の感覚がある。

 

 しかし、そこには、遊ぶことの「楽しさ」と「危うさ」が同居している。
 それゆえに、彼女の歌からは、
 「いま目の前にしている都会のネオンのきらめきが、こよなく愛しい(いとおしい)」
  という切なさがにじみ出る。
  

 
 このような都会性を持つ平山三紀の声質と唱法に、筒美京平はかなり熱い視線を送った。

 そして、彼女のために、アレンジには洋楽のエッセンスをまぶしながらも、メロディーには、どこか和風の味わいが残る旋律を用意した。
   
 彼が狙ったのは、もはや日本でもなく、かといって西洋のどこに存在しない都会の感覚。
  いってしまえば、横浜を「ヨコハマ」と表すような都市の風景だ。

 

 初期のヒット曲『ビューティフル・ヨコハマ』では、登場する「素敵な男たち」の名前も、すべて、ミツオ、サダオ、ジロー、ジョージ、ハルオ、ゼンタというふうにカタカナ表記される。

 

 それによって、横浜は、「ヨコハマ」というルーツも伝統もない、光のきらめきだけしか存在しない無国籍的空間に変貌する。

 

 その夢のようなヨコハマや、ヨコスカ、ハラジュク、ロッポンギを、彼女は “素敵な男” の肩に頭をあずけながら、クルマに揺られ、メリーゴーランドのように回り続ける。

 

 クルマから見上げる都会のネオンは、ミラーボールのように回転し、その上に輝く星々は、プラネタリュームの天蓋(てんがい)を埋める人工的なまたたきとなって、地上に降り注ぐ。
 それは、筒美京平と平山三紀のコンビにしかできなかった魔術だった。

 

 平山三紀に歌わせた筒美京平の曲で、いちばんサウンド的な特徴がよく表れているのは、『愛のたわむれ』(1975年)だろう。 

  

▼ 平山三紀 「愛のたわむれ」

 

 この曲を、かつてYOUTUBEにアップした人へのコメントには、
 「歌謡曲の皮をかぶったフィラデルフィア・ソウルですね!」
 という印象を綴った人がいた。

 

 言い得て妙だと思った。
 イントロのギターのカッティングから、ストリングスの絡み方、そしてメロディー展開からサビの盛り上げ方まで、これは70年代のアメリカで一世を風靡したフィリー・サウンドそのものなのである。
  
 なのに、これは「歌謡曲」なのだ。
 「カレーうどん」 のカレー風味の底に、あんかけと醤油の味がしっかり沈み込んでいる。
 こういう “珍妙な(?)” 曲は、当時、おそらく日本にしか生まれていなかったはずだ。
  
 それは、素晴らしいことではないのか。
 「和洋折衷」などという言葉に収まり切らない、独自の地平が切り開かれている。
 「オリジナリティ」という言葉すらあざ笑うかのような、遊びの心が表現されている。
 どこにも存在しない、幻としての「異国の歌」が歌われている。

  

 この「まがい物」の味わいが、今の J ポップにはない。

 
 J ポップは、今や日本固有の歌になってしまった。
 そこには、退屈な安定感はあるけれど、一人で聞いてニンマリするような、あのうしろめたいような、くすぐったいような遊び心がない。
     
 このような素晴らしい「昭和歌謡」をたくさん残された筒美京平氏が、この10月7日に亡くなった。
 享年80歳だったという。

 

 この人の曲がなければ、洋楽ばかり聞いていた私は、日本の歌謡曲というものに、ほとんど関心を向けなかったかもしれない。

 ご冥福を祈りたい。