日本時間の2020年11月7日(土)未明、アメリカの大統領選は、バイデン氏の勝利で終わった。
しかし、トランプ氏が負けを認めず、法廷闘争に持ち込もうとしているので、これから何が起こるのか、あいかわらず不透明な部分が消えない。
それはともかく、これまでの報道を見ていると、不思議な気持ちになることが多々あった。
それは、トランプ支持派の行動だった。
選挙戦終盤に、トランプ氏が記者会見やツィッターで、
「民主党の郵便投票は不正だ」
と発言するやいなや、トランプ支持派はいっせいに投票場に繰り出し、
「郵便集計を中止しろ!」
と、窓を叩いて抗議を繰り返した。
別の投票場前では、選挙管理スタッフが集計状況をメディアに説明していると、いきなりトランプ支持派の男性(写真下)が乱入。
怒りをあらわにした表情で、
「バイデン一家は選挙を盗んでいる。彼らは不正を煽っている」
とわめき散らし、管理スタッフの説明を妨害した。
確かに、郵便投票における集計ミスは多少は生じるかもしれない。
だが、あからさまな不正が堂々と行われているとは、常識的には考えにくい。
しかし、“トランプ親衛隊” たちは、
「郵便投票をやめさせろ!」
とトランプ氏に言われれば、百姓一揆のように大挙して投票場に殺到した。
常軌を逸しているとしか思えないのだが、そう思うこっちの方がおかしいのだろうか?
彼らは、トランプ氏の言動に、一度たりとも疑いを持つことはなかったのだろうか?
これに関しては、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる集団も同じような状態を示した。
「Qアノン」というのは、“ディープステート” という影の政府がアメリカを牛耳っていて、その親玉には、民主党やメディアの大物が関係していると信じた人々のことをいう。
「その “悪の組織” と戦っているヒーローがトランプ氏なのだから、彼を助けて、アメリカを “正しい国” にしなければならない」
「Qアノン」グループは、こういう荒唐無稽の “陰謀論” を信じ、それを声高に主張して、“トランプ応援団” の一翼を形成した。
まるで、魔女や悪魔の存在を信じているヨーロッパ中世に生きる人間の思考回路がそのまま復活してきたように見える。
こういう熱狂的なトランプ親衛隊の “脳内” では、いったい何が起こっていたんだろう?
「分断」の底に流れていたもの
アメリカの大統領選挙が大変な混乱を招いた原因を、メディアは「アメリカ社会の分断」という言葉で表現した。
リベラル、保守という政治的分断。
白人、黒人などの人種的分断。
経済重視の政策か、地球の気候変動を是正する政策の分断。
…… などなど。
メディアが報じる “アメリカの分断” というと、上記のようなものがすぐ思い浮かぶ。
しかし、本当の「分断」は、さらに根深いところから生じている。
1990年以降、アメリカ社会に羽根を伸ばし始めた「反知性主義」がそれに関わっている。
1990年代というのは、(アメリカに限らず)世界中で、「知性」や「教養」といったものが急速に遠ざけられていった時代であった。
それまでは、先進国においては、まだ知的なものへの関心がローソクの炎のように揺れながら残っていたが、90年代に入ると、世界中の国から一気にそれが吹き消された。
世の中から「知性に対する尊敬の念」が遠ざけられたのは、「人間」というものの考え方が変わったからである。
80年代から世界の先進国を覆い始めた新自由主義の思想の根底には、地球上をひとつのマーケットと考えるという発想が力を得てきた。
そこで必要とされてきたのが、「反知性主義的」な社会風潮にのっとったマーケット組織論であり、世界の教育方針もそれに応じた再構築が要求されるようになった。
なかでも、特にアメリカの学問の傾向がそこには強く浸透しているとみてよい。
それは、「人間」を計量分析的な手法で捉える学問である。
つまり、個々の人間の「内面」とか「精神」に踏み込まず、人間を “群れ” として考え、大まかな傾向によってグループに分けて、数の多さ・少なさで人間のタイプを識別していくような考え方である。
繰り返しになるが、そのような学問スタイルが主導的な地位を占めるようになったのは、この時期からアメリカを中心とした多国籍企業が、自分たちのマーケットを広げるための “人間操作” に手を染め始めたからだ。
人間を「個人」としてではなく、「群れ」として考える。
そうすることによって、グローバル企業は、消費者を従順に管理できる広大なマーケットを獲得することができる。
この段階で、従来の心理学や精神医学は後退させられた。
人間の個性や才能はすべてステレオタイプ化された「分類項目」に仕分けられるようになり、「個」を主張する人間は、マーケット管理の網の目からこぼれ落ちるように運命づけられるようになっていった。
“知性を軽んじる盲目的な大衆”
それこそが、グローバル企業にとって効率よくスムーズに市場を広げるためのいちばんの特効薬と考えられたのだ。
その段階で、ドイツの哲学も、フランスの芸術も、「19世紀的なパラダイムから脱出できない旧態依然たる思想」というレッテルを貼られることになった。
アメリカは、経済ブロックとしてのEU に脅威を感じていたから、文化的な潮流としても、ヨーロッパ的な伝統を打ち崩していく必要があった。
一方ヨーロッパにおいても、一時一世を風靡したフランス現代哲学の影響力が一気に失われるようになった。
サルトルに始まって、ミシェル・フーコー、デリタ、ドゥールーズらを輩出したフランス哲学は、80年代までは世界の知的シーンを領導したが、それはアメリカとソ連が対立した冷戦時代に、そのどちらの世界観にも与さない “第3極” を目指すというスタンスが新鮮だったからだ。
しかし、そのフランス哲学の潮流も、冷戦が終結し、世界の2極構造が崩壊していく過程で目指すべき3極目を失い、衰退していった。
頭を使わない作品ばかり
になったハリウッド映画
こうして、アメリカ流の新自由主義思想がグローバル経済の担い手となるやいなや、先進国の文化はのきなみ “反知性主義” の色合いを強めていった。
それは学問領域だけでなく、娯楽の領域にまで及び、ハリウッド映画では、知性をまったく必要としないアクションシーンだけが連続する作品が高収益をあげるような風潮が生まれた。
なにしろ、映画で興行成績を上げるには、頭を使わせるような映画にしてはダメだということが映画会社の方針となった。
そのためには、子供と親を同時に劇場に呼べるように、子供の知能で理解できる作品にしなければならなくなった。
そうしないと、莫大な広告費を回収できないからだ。
そういう新自由主義の文化傾向は、1990年代の日本でも広まった。
むしろ、日本の場合は、ヨーロッパなどに比べて反知性主義の浸透がスムーズだったといえる。
それは、1980年代に、日本が未曽有のバブル景気を迎えたからだ。
金を派手に使って遊ぶことを覚えた文化に、知性は育たない。
知性というのは、「本を読む」「師との対話を続ける」など、わりと地道な作業を通じてしか身に付かない。
しかし、バブル狂乱のなかでは、そのようなコツコツした作業を積み重ねることは「野暮ったいもの」として遠ざけられていった。
その風潮は、そのまま日本の1990年代に受け継がれた。
このような世界中に蔓延した「反知性主義」は、政治的にはポピュリズム(大衆迎合主義)に傾く。
多くの人が、すでに自分で考える習慣を捨ててしまっているので、そういう人の心にも響くような、攻撃的な言葉で分かりやすく “世直し” を訴えるポピュリストが人気を得る。
これが2016年以降アメリカを襲った “トランプ現象” だ。
トランプ氏は、自分を支えてくれる支持者たちに、「エリートへの反感」を植え付け、ものの見事に、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」の潮流を巻き起こした。
彼は、「本を読まない習慣」に価値をおき、
「自分が生涯のうちに読んだ本は2冊。1冊は聖書で、もう1冊は自分で書いた自分の自伝だ」
と豪語。
「読書など、時間の無駄づかいだ」と言い切って、読書コンプレックスを抱いていた “反知性主義者” たちの拍手を浴びた。
こう見ていくと、“トランプ親衛隊” こそ、悲しむべき被害者であることが分かる。
彼らはトランプ氏のこれまでの発言に留飲を下げたが、結局は “いい気持ち” させられて、政治的に利用されただけだった。
トランプ氏によって、経済が上向き、雇用も増えたと評価する人々もいるが、逆に、それと同じぐらいの量で、工場の閉鎖や町の衰退を嘆く人も多かった。
私はかつて、今回の大統領選の激戦区といわれたアリゾナ州、ネバダ州、ユタ州をレンタルモーターホームで旅したことがあったが、そこで出会った人々 … その大半は今回トランプ支持に回ったと思うが …… 彼らはみな観光客にはとても優しく、気持の良い人々であった。
彼らの大半は、純朴で、笑顔がチャーミングで、心の温かさがそのままこちらに伝わってくるような人たちなのだ。
そういう彼らが、ポピュリストのトランプ氏に煽られ、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」を貫く過激思想に染まっていったのは哀しい。