アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

樹と水の文化が日本人を育てた

 今年は、コロナ禍の影響もあって、ほとんど旅することはなかったが、例年なら、GWから雨期に入るまでの季節はよく車で旅していた。

 

 北関東から東北にかけて旅するとき、時間があるときは、高速道路を降りる。
 特にGWの頃になって、車窓を流れる濃い緑の木々を眺めるのが好きなのだ。

 

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 日本の緑というのは、なぜ、かくも色が濃いのだろうか。
 目薬など注さなくても、植物の葉陰を眺めるだけで、目が洗われるようだ。
 
 これほど、鬱蒼とした森林資源を持った国というのは、極東では日本だけかもしれない。

 

 東南アジアまで降りれば、また別なのだろうけれど、木々に対して “繁茂する” という形容を付けられるのは日本しかないような気がする。 

 

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 一般道をずっと走っていくと、この時期、どこにも見事な水田が広がる。
 植えられたばかりの苗が、澄んだ水の上に淡い緑の影を垂らす。
 水面に映り込む木立や山の峰。
 まるで、湖だ。

 

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 規則正しく植えられた苗さえ、人の手を介することなく、あたかも自然の摂理に従って自生しているように思えてくる。


 
 英語で「文化」を意味する単語を「カルチャー Cultuer」という。
 語源は「耕す」。
 そう考えると、日本の “文化” というのは、なんと自然そのものの姿に近いことか。


 
 稲作民族は日本人に限らないだろうが、日本の水田風景は、やはり特殊な美しさがあるように思う。北関東から東北にかけて広がる日本の水田を見ていると、山の緑や木々の葉影と一体となって、自然の景観そのものに溶け込んでいることが分かる。
 
 もともと、日本は森林と水に恵まれた国である。
 日本の森林被覆率は70%弱といわれ、“森と湖の国” といわれるフィンランドに匹敵する世界有数の森林国だ。

 

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 さらに、山から新鮮な湧き水を汲み出す河川にも恵まれた “水の大国” でもある。
 だから、日本の水田は、“緑と水” が当たり前のように周りを囲む豊かな自然環境を背景に広がることになった。

 

 たぶん、そのことが、日本人の自然観や美意識を構成する大きな因子になっているようにも思う。

 

 とにかく、水底が透き通るようにきれいな水。
 そういう光景を、日本人は太古の昔から当たり前のように眺めてきたのだ。

 

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 その美意識が、水田耕作にも投影されている。


 日本人が、自分自身の穢れ(けがれ)を清めるときに、滝に打たれたり、川や海の水で洗い清めるという習慣を持つようになったのは、自然と見事に一体化した水田のイメージとセットになっているはずだ。

 

 そこでは、食物を生産するという経済行為が、自然と融合するという美学の創造にもなっている。
 
 苗を植えた地に水を導き入れるということは、土地に蓄積していく毒素を洗い流すことにもなる。

 

 「清らか」という言葉は、たぶんそこから導きだされた概念ではあるまいか。
 人間同士の軋轢(あつれき)を「水に流す」という言葉で処理するような感受性も、そこから生まれてきたように思う。

 

 

貨幣のいたずらに人間は悩みかつ魅せられる

岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」について

 

 「貨幣」とは何か?
 誰にとっても自明な存在である “おカネ” というものは、実は人類がなかなか究明しきれない謎のかたまりであるそうな。

 

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 人々がおカネを欲しがるのは、どういう理由なのか?

 

 こんなバカげた質問に、まともに答える人は、まずいない。
 たいていの人は、こう言うだけだろう。


 「おカネさえあれば、何でも買えるから」

 

 では、なぜおカネは、商品と交換できるのか?
 ただの紙切れだったり、ニッケルと銅の安っぽい合金だったりするものが、なぜ何千円やら何万円やらの商品と同じ価値を持つのか?
 
 こんな当たり前すぎて、誰も考えようともしない貨幣の謎を、実はどんな経済学者も解いていない。

 そう語るのは、東京大学名誉教授の岩井克人氏である。

 

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 岩井氏が言うには、そもそも人間は、貨幣の起源すら明らかにできていないという。

 昔は、貨幣は美しい貝殻とか、金・銀といった「誰にとってもきらびやかな貴重なもの」が起源だと思われていた(貨幣物品説)。

 

 しかし、今そういう考え方をする人はほとんどいない。
 なぜなら、太古の昔から、おカネは(金・銀といった)モノの価値とは明瞭に異なるものだという認識が定着していたからだという。

 

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 つまり、金・銀ならばそれ以上の価値を持つことはないが、おカネなら、金・銀はおろか、食料や生活物資とも交換できる。


 だとしたら、「金・銀よりもおカネの方が汎用性が高い」と誰でも考えるはずだ。

 

 そこに貨幣の “奇妙さ” がある。

 

 紙幣で、ティッシュペーパーのように鼻をかめるか?
 かめない。
 コインはねじ回しとして使えるか?
 使えない。

 

 つまり、貨幣は「物品」としては、取り引きされる品物よりもほとんど「役に立たない」物なのに、「交換価値」としては、必ず物品以上の価値を帯びる。

 

 そんなことを、いったい誰が決めたのか? 

 

 「貨幣を発行する政府や権力者が決めた」
 という説(貨幣法制説)もある。

 

 しかし、最初に貨幣を発行した国が滅びた後も、貨幣によっては、後年永いこと他国で流通したりすることがある。
 つまり、国家や権力者ですら、貨幣の権威を保証する力があるわけでもないのだ。
 

 
 では、貨幣の価値は、どこから来るのか?

 

 こういう問題設定を明確にして貨幣の謎に迫る書物が、「岩井克人『欲望の貨幣論』を語る」(2020年3月発行)という本である。

 

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 もとは、NHKテレビで断続的に放映されていた「欲望の資本主義」という企画から生み出された本だ。

 

 だから、“著者” としては、その番組のプロデューサーである丸山俊一氏の名前がクレジットされている。


 つまり、この本は、その丸山氏が日本でも屈指の経済学者である岩井克人氏へのインタビューをまとめたものなのだ。

 

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 岩井克人氏は、1985年に『ヴェニスの商人資本論』(筑摩書房)でデビューした経済学者である。

 

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 この本は、柄谷行人氏の『マルクスその可能性の中心』と並んで、私に、「資本主義」を学術的な対象として認識させてくれた本だ。

 

 私のような “70年安保世代” にとって、「資本主義」というのは、人間の不平等や抑圧を推進する存在であって、「倒すべき対象」という考え方に染まる方が自然だった。

 

 しかし、上記の2冊は、“共産主義運動” の鼻祖としてしか意識しなかったマルクスという人間を、「資本主義の不思議さ」に気づいた情熱的な研究家というイメージに変えた。

 

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 マルクスは、「資本主義の謎」とは、「貨幣の謎」であることを見抜き、生涯それをパズルを解くような熱心さで取り組んだ思想家である。
 柄谷行人氏も岩井克人氏も、その研究の流れを追っている。
  
 
 「貨幣の謎」とは、言葉を変えていえば「人間の謎」でもある。

 

 たとえば、「人間はみな平等である」という言葉がある。
 
 それはいったい、いつの時代に、誰が認めたことなのか?

 

 それは古代ギリシャで、民主主義という政治思想が生まれたときに認められたものなのか?
 それとも、イギリスのピューリタン革命のときに、「法の下では人間は平等だ」と宣言されたときに認められたものなのか?
 あるいは、「自由・平等・博愛」を謳ったフランス革命のときなのか?

 
 
 政治的なきっかけはいくつも挙げられるかもしれないが、そもそも、そういう考え方の基本になる思想は、どこからやってきたのか。

 

 それは、「貨幣」から生まれてきたのである。 

 

 マルクスは『資本論』のなかで、「貨幣はレヴェラーズ(平等派)だ」という言葉を残している。

 
 つまり、どのような身分差別が貫かれた世界であっても、おカネは、身分に関係なく、立場上の平等を実現する。

 

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 王侯貴族でも、乞食でも、おカネさえあれば、まったく「同じ物」が買える。
 おカネは、売り買いの現場においては、上下関係も差別も消してしまうのだ。

 

 後世、民主主義が発達した世で、「法の下の平等」が生まれたのは、その前に、「おカネの下の平等」が生まれていたからにほかならない。
 
 
 では、なぜ「貨幣」は、「ヒトはみな平等である」という “普遍的” な思想を人間に植え付けることになったのか?

 

 それは、「貨幣」が、多種多様な性格を持つ「商品」のなかで、唯一、他の何物にも取り換えることのできない、“絶対的な商品” として君臨するようになったからだ。

 

 「絶対的な商品」とは、すなわち、あらゆる商品の価値を超越した「普遍的で抽象的な価値」を持つもののことをいう。
 
 逆にいえば、人間が「普遍的な思考」を身に付けるようになったのは、「貨幣が流通する社会」を知ったときからである。

 

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 このような、貨幣と人間精神のからくりを最初に見抜いたのはマルクスである。
 
 マルクスは『資本論』のなかでいう。
 「貨幣とは形而上学的な不思議さに満ちた存在である」
 と。

 

 マルクスは、貨幣を通じて、資本主義の構造が形而上学(抽象的本質論)的な「謎」に満ちたものであることを認識した最初の思想家の一人だった。

 

 彼は、そこに倒錯があることに気づいた。


 すなわち、ヒトは「貨幣の謎」を解き明かすために、「普遍的・抽象的」な思考力を高めないといけないと思いがちだが、実は逆で、そのような思考こそ「貨幣」によってもたらされたものであると。

 

 岩井克人氏は、「『欲望の貨幣論』を語る」という本のなかで、貨幣が人間の精神形成に与えた役割を、古代ギリシャ文明の形成過程から解き明かしている。

 

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 彼は、リチャード・シーフォードというイギリスの古典学者との対話にヒントを得て、古代ギリシャ文明が、他の古代文明に先駆けて普遍的・抽象的な思考方法を手に入れた理由を、「古代ギリシャ文明がいちはやく<貨幣化>された社会を実現したからだ」と説く。

 

 氏によると、古代ギリシャイオニア地方(現トルコ領)では、紀元前6世紀頃から、「宇宙」は合理的な秩序によって制御された統一的な世界であるという認識が広まっていたという。

 

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 つまり、その時代に、人間の日常的な感覚では雑多にしか見えない具体的な事物の背後に、すべてを支配する抽象的な普遍性が存在すると唱える哲学者たちがイオニア地方に輩出したのだそうだ。

 

 そういう思想を「イデア論」としてまとめたのがプラトンであるが、そこに至るまで、タレスアナクシメネスヘラクレイトスといったイオニア学派の哲学者たちによって、近代哲学にも通じる抽象的・普遍的な思考様式が育っていったという。

 

 なぜ、そういう事態が生じたのか。
 岩井氏は、次のようにいう。

 

 「紀元前6世紀半ばに、古代ギリシャイオニア地方で初めてコインが作られ、その後、ギリシャのポリス全体の貨幣化が急速に進んだ。
 その貨幣によって、多種多様なモノやサービスが、抽象的な価値として統一されるような世界観が誕生した」

 

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 古代ギリシャアテナイで、最初の「民主制」が生まれたのも、貨幣社会が生まれことによって、独立した個人としての自覚を持つ人々が登場してきたからだと、岩井氏は語る。

 

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 さらに、古代ギリシャで「悲劇」という演劇形式が生まれたのも、やはり貨幣のせいだという。


 つまり、貨幣は、古代ギリシャにおいて「平等な市民」をも誕生させたが、一方では、近代社会と同じように、孤立した個人をも生み出した。

 

 古代ギリシャの「悲劇」というのは、貨幣社会が生み出した “負の一面” 、すなわち、孤独な個人の哀しみや辛さに焦点を当てたものだという。

 
 

 本書の狙いは、貨幣の謎を解き明かすことにおいて、資本主義の謎に迫るところにある。

 

 つまり、「人間はなぜ貨幣を欲しがり続けるのか」という謎は、そのまま「資本主義はなぜ存続し続けるのか」という謎に直結している。

 

 いってしまえば、資本主義というのは、「貨幣の無限の増殖」そのものを体現している経済活動だといってよい。

 

 逆にいうと、人間が貨幣を欲しがらなくなれば、資本主義も消滅するということなのだ。
 
 それについては、さらに言及したくなるが、文章量が多くなるので、その説明は別の機会に回したい。

 

 

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1960年代の前衛ジャズ

ジョン・コルトレーン
『スピリチュアル』について


ジョン・コルトレーン

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 「ジャズ」という言葉から、多くの人は何を連想するのだろうか。
 この言葉から、即座に「マイルス・デイビス」とか、「ジョン・コルトレーン」などという固有名詞を思い浮かべる人は、それなりに “(オールド)ジャズファン” といってよさそうだ。

 

 でも、私が昔通っていた居酒屋のオバサンは、「プレスリー」も「ビートルズ」もみな「ジャズ」といっていた。

 

 戦後間もない時代、進駐軍といっしょに入ってきたアメリカ音楽をすべて「ジャズ」と呼んでいた時期があったから、高齢シニア世代のなかには、今でも洋楽全般を「ジャズ」と呼ぶ人たちがいるのは確かだ。

 

 ただ、今の若い人たちがイメージする「ジャズ」は、夜景のきれいなバーラウンジなどにかかるBGMというような印象ではなかろうか。

 

 なにしろ、ジャズは音としての抽象度が高いから、特に耳障りの悪いものでないかぎり、店舗のBGMとして流れていても、ほとんどのお客が気楽に聞き流すことができる。

 

 それでいて、この手の音楽は店内を大人っぽい雰囲気に包む。
 だから、最近はお洒落な和風割烹やお蕎麦屋さんなんかでも流していることがある。
 
 
 今では、そういうBGM的な使われ方が多い「ジャズ」ではあるが、かつてはポピュラー音楽のなかで、もっとも先鋭的で、革新的な音楽と目されていた時代があった。
 1960年代である。
 この時期、ジャズを聴く人間は、前衛的な知的エリートだった。

 

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 小説家の中上健次(写真上)が、新宿のジャズ喫茶に入り浸りながら、小説家を目指すための思索を練っていたように、60年代は、ジャズが「文学」や「アート」、「思想」や「哲学」などといちばん強く結びついた時代だった。

 

 
中上健次のジャズエッセイ集。
有名な「破壊せよ、とアイラーは言った」(1979年)も収録されている

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 村上春樹も、60年代の後半にジャズ喫茶に入り浸った口で、70年代に入ると、自分でジャズ喫茶(「ピーターキャット」)を経営している。

 

 この時代、ストーリー展開にジャズが絡んでくる小説も多かった。
 その先駆けとなったのは、石原慎太郎の『ファンキー・ジャンプ』(1959年)だった。
 これは、薬物依存症のジャズピアニストを主人公にした小説で、文体そのものがジャズのテンポとリズムを再現するという実験的なものだった。

 

 五木寛之は、ジャズ好きの少年を題材にした『さらばモスクワ愚連隊』(1967年)で小説家デビューを果たし、『青年は荒野をめざす』でもジャズをテーマにした。

 
▼ 『さらばモスクワ愚連隊』の朗読CD

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 私が、はじめてジャズ喫茶に足を運び入れたのは、高校生のとき(1967年頃)だった。


 学生服を着たまま、吉祥寺本町の「Funky(ファンキー)」に通った。
 「Funky」は、今でこそ、「バー&キッチン」を謳うレストランだが、60年代はバリバリの本格的ジャズ喫茶だった。


▼ 当時の「Funky」のマッチ

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 その頃の店は今の「パルコ」の敷地内にあって、店の前には「スカラ座」という映画館があった。
 その辺りはかなり広域にわたって再開発が進んだので、今はもう当時の面影を探すことはできない。
 

 

▼ 「Funky」のオリジナルコーヒーカップ
こういう一本足デザインのカップはほかの店で見ることはなかった

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 余談だが、この当時の「Funky」は、桐野夏生・作『抱く女』のなかでは「COOL」というジャズ喫茶名で登場。作品のなかで当時の店内の状況がレポートされている。

 
桐野夏生 『抱く女』

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 私が「Funky」に入り浸るようになったのは、高校の先輩たちの影響が強い。
 当時私は、新聞部と演劇部に所属していたが、どちらの先輩たちもみなジャズを聴いていた。
 
 ジャズ専門誌である『スイングジャーナル』を小脇に抱えて部室に入ってきた先輩たちが、その雑誌が主宰するディスク大賞で、『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』が第一回目の金賞を受賞したということを話題にしていたことを記憶している。

 

 
オーネット・コールマン 『ゴールデン・サークル』

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 オーネット・コールマンスイングジャーナルもよく知らなかったが、そういう知識がないと、新聞部においても演劇部においても、ジャズどころか “音楽” そのものを語れないような風潮があった。

 

 そこで、私は密かにジャズ喫茶に “勉強” に行くことにした。
 「Funky」に入り、コーヒーを注文するタイミングで、ウェイターにリクエストを頼み込んだ。


 先輩たちが話題にしていたオーネット・コールマンという人の『ゴールデン・サークル』というアルバムを聞いてみようと思ったのだ。 


Ornette Coleman Trio at the Golden Circle - Faces and Places

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 う~ん ……
 しばらく言葉が出なかった。

 

 私の知っていたジャズというのは、たとえばデイブ・ブルーベック・カルテットの『テイクファイブ』であったり、アストラット・ジルベルトの『イパネマの娘』のようなものだったから、こういう人の意表を突くようなメロディを持つ前衛的なものを “心地よい” と思う感覚が育っていなかった。

 

 しかし、『スイングジャーナル』というのは、当時のジャズ批評の最高の権威だった。
 “権威” が間違った評価を下すはずはない。
 こういう音を美しいと感じるためには、自分の感性を鍛え直さないといけないと思った。

 
▼ 「スイングジャーナル

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 しばらく、一人だけの修業が続いた。


 この時期は、ちょうど前衛的なジャズの最盛期だったから、オーネット・コールマンのようなフリージャズ運動の推進者はヒーローだった。

 

 間違っても、アントニオ・カルロス・ジョビンのボサノバや、リー・モーガンの「サイドワインダー」や、キャノンボール・アダレイの「マーシーマーシーマーシー」のような軟派系ジャズは、「Funky」ではほとんどかからなかった。

 

 なにしろ、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』とか、羽仁五郎の『都市の論理』、吉本隆明の『共同幻想論』などという本を読んでいるお客さんがいたりする店である。

 

 そういう客は、デイブ・ブルーベックの「テイクファイブ」などが流れて出すと、本から顔を上げ、「あ~あん?」と眉をしかめ、「リクエストしたやつは誰だ?」と蛇のように鎌首をもたげて周囲を見回したりする。
 だから、うかつなリクエストなど出せないのだ。

 

 硬派の客たちのリクエストで人気が高かったのは、やはりジョン・コルトレーンのアルバムだった。


 レーベルでいうとインパルス時代のものが多く、『至上の愛』、『クル・セ・ママ』、『アフリカ』などという作品がよくかかった。
 どれも、薄暗い熱帯ジャングルで、ターザンが道に迷っているような音だと思った。


▼ 「アフリカ」

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 最初は修行のつもりで、目を閉じ、じっと耳を澄ませていたが、やがてこの手の音に、自分の身体が徐々に反応し始めた。
 
 身体の血管が膨張を開始し、大量の血液が体内を駆け回り始めたような感覚といえばいいのだろうか。コルトレーンのサックスには、リスナーの心臓の鼓動を “アンプ” をつないで増殖させるような作用があったのだ。

 

 
ジョン・コルトレーン 「スピリチュアル」
John Coltrane - Spiritual - Live At The Village Vanguard

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 なかでも、1961年に、ニューヨークのヴィレッジ・バンガードで行われたライブを音源とする『Live At The Village Vanguard』は、すごく好きになった。
 そのアルバムのなかでも、特に「Spiritual(スピリチュアル)」には魅せられた。
 

 
 最初、何やらものものしいイントロが流れる。
 前衛劇などを上演する芝居小屋で、幕が上がる前のような緊張感がここで生まれる。

 

 そのイントロ部分を1分ぐらいコルトレーンが吹いた後、おもむろにリズム隊が演奏に参加してくる。
 この入り方のタイミングが絶妙だ。

 

 流れるリズムの基本は3拍子。いわゆる “ワルツ乗り” だが、複雑なシンコペーションが入ってくるため、得も言われぬ浮遊感が漂ってくる。

 

 そのため、前衛ジャズ的な刺激のなかに、ダルでレイジーなアンニュイが生まれ、それが心地よい催眠効果を誘い出す。 


 
 そういう呪術的なリズムの中を、たゆたうように虚空をたなびいていくコルトレーンのサックスは、まさに “神の吐き出した空気” そのもので、「スピリチュアル(心霊的)」というタイトルの意味も十分に伝わってくる。


 
 こういう精神性の強いジャズは、やはり “頭で聞く” 音楽なのだ。
 ロックンロールやR&Bのように、“頭が理解する前に腰が揺れる” という音楽ではない。

 

ヴィレッジ・バンガードコルトレーン

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 コルトレーンの「Spiritual(スピリチュアル)」のような曲が心地よい、と感じるためには、ある程度知的な訓練を通じて、脳内に受容体を作らねばならない。

 

 ディスコでR&Bを聞けば、自然と足がステップを踏み出すかもしれないが、この時代のジャズを味わうためには、少なくともジャズの基礎知識を記した書籍の1冊ぐらいは読む必要があった。

 

 私は、相倉久人氏の著書『モダン・ジャズ鑑賞』(1963年)を読んで、60年代の広範なジャズシーンの状況を概括することができた。
 もちろん、それによって、コルトレーンという音楽家の概要をつかむこともできた。

 


相倉久人 『モダン・ジャズ鑑賞』

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 コルトレーンは人生の後半戦において、西洋音楽の規範から抜け出し、広く、アジア、アフリカ、アラブ、ポリネシアなどのリズムを吸収する形で、人類が積み重ねてきた音楽文化の頂点を極めることに力を注いだ。
 そのために、数多くの古典哲学や宗教書にも目を通したと伝えられている。


 
 彼のそのような努力を評価する知的好奇心を持たないと、こういう音楽に体ごと反応することは難しい。

 

 つまりは、リスナーの想像力が試されるのだ。
 


 「脱・アメリカ/脱・文明」を志向して都会の谷間に潜航したコルトレーンの音から、砂漠を吹き抜ける風の気配や、鼻孔を襲うジャングルの木の葉の匂いを想像する。

 
 
 そうやって、聴覚や視覚、嗅覚まで総動員するような受容体を作り上げないと、コルトレーンの音は身体の中に入ってこない。


ジョン・コルトレーン

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 彼の「スピリチャル」や、「クル・セ・ママ」、「アフリカ」などを受け入れる受容体ができあがってくるにしたがって、私は小説家の中上健次あたりが追いかけていた “ジャズの精神” がようやく理解できるようになってきた。

 

 つまり、
 「こういう音楽こそが、創作活動の刺激になる」
 …… そう確信した。

 

 ディスコで聞くR&Bとか、コンサートで聞くフォークソングなどが “消費の音楽” だとしたら、コルトレーンオーネット・コールマンアルバート・アイラ―、マイルス・デイビスのジャズは、“生産の音楽” といえる。

 

 そのような音楽を糧として、リスナーが自分自身の創作活動に邁進していくための素材なのだ。

 

 1960年代。
 世界の各地で、その国の政権に対する若者の反乱が起こった。

 


▼ 60年代のフランスの反戦運動

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 そういう反乱の流れが加速するなかで、規制の秩序を壊すという名目のもとに、新しい芸術運動が生まれ、新しい文化が台頭した。
 当然、破壊の後に不毛の荒野が広がったこともあったし、豊饒な土地が現れたこともあった。 


 
 前衛ジャズは、まさに、そういう「1960年代」の空気の中から生まれてきたものだし、またそういう時代でなければ、存在できなかった。

 


中上健次 著 「破壊せよ、とアイラ―は言った」

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 オーネット・コールマン
 ジョン・コルトレーン
 マイルス・デイビス
 アルバート・アイラ―
 エリック・ドルフィー
 ファラオ・サンダース ……

 

 この時代、新しいジャズを創造したミュージシャンたちは、その生み出した作品同様、個人名がさんぜんと輝いている。

 

 ジャズをあまり聞いたことがない人でも、その時代を生きた人ならば、それらの固有名詞をどこかで耳にしたという経験を持っている。

 

 制作者の名がとどろくということは、まさに彼らがアーティスト(芸術家)だったからだ。

 

 「アーチスト」は、庶民が「アート」を求めるような時代でなければ生きられない。

 

 1960年代は、庶民の多くが「アート」を求めた熱い時代だった。


 いま、高級バーラウンジや、高級割烹料亭でBGMとして使われている “心地よいジャズ” の制作者を、いったいどれくらいのリスナーが認知できるだろうか。 

 

 私は、ジャズメンたちがレジェンドになれた1960年代という時代を、彼らとともに過ごすことができたことを幸せに思っている。
 
 

  

ちょんまげコント 鉄砲伝来/武田家の密談 

鉄砲伝来
 
南蛮人】 私たち、ポルトガルから鉄砲もってきました。
      コレすごい威力。バーン!

 

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【漁  師】 この鉄の棒で殴るってか?
南蛮人】  違います。コレはタマが出る道具です。この筒から遠い敵にバーン

 

【漁  師】 そんな重いもん、遠くまで飛ばんがな
南蛮人】  違います。この穴からタマがバーン

 

【漁  師】 何が出るっての?
南蛮人】  穴からタマ、バーン

 

【漁  師】 けっ、つまんねぇ! たまにはスドーンとか、バキューンとかいえよ.

 


武田家の密談

 

武田信玄】 なぁ、勘助。南蛮渡来の鉄砲なるもの、わしらにも手に入らんか。  

 

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山本勘助】 鉄砲を手に入れましても、火薬に使う硝石(しょうせき)がなければタマは飛びません。 

 

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【信玄】 硝石はどのように作るのだ?
【勘助】 しかとは存じませんが、鷹の爪をみじん切りにして、熱したゴマ油にじっくり溶け込ませるのだと聞きおよびまする。


 
【信玄】 トウガラシの粉末ではいかんのか?
【勘助】 市(いち)で売るようなものには、そのようなものはございません。が、手作りで進めれば、可能かと存じます。


【信玄】 それが首尾よく整ったとしても、実戦で使う場合は、酢としょう油の配分がむずかしいの。


 
【勘助】 しもじもの話によりますれば、まず酢を先に皿に注ぎ、しかるのちにしょう油を加え、最後に、先ほどの鷹の爪で味付けしたゴマ油を垂らすのだと聞きおよびまする。


 
【信玄】 焼き具合もむずかしかろう。
【勘助】 まず鍋に少量の油を引き、次に茶碗一杯の水を注ぎ、蓋をいたしまする。

 

【信玄】 焼き具合は、どのように測る?
【勘助】 水がなくなれば、首尾よく完了かと。そのときには表面に焦げ目がついておりまする。

 

【信玄】 焼き上がったとき、羽が付いているものが評判だと聞くぞ。
【勘助】 いかにも。羽つきが香ばしいと人気がありますな。


【信玄】 なるほど。それが上手な焼き方と申すか 。酒より白米と合いそうだの。
【勘助】 御意(ぎょい)!

 

【信玄】 ……
【勘助】 ……
【信玄】 ……
【勘助】 ……

 

【信玄】  なぁ、勘助。しょせん、我らには天下は取れんということか。
【勘助】  御意 … 
  

 


ロシア絵画の不思議な奥行き

 ロシアの絵画というのは、古典絵画であろうとも、また近代絵画であろうとも、同時代のヨーロッパ絵画とは全く異なる世界観を持っている。
 
 ヨーロッパでもなければ、アジアでもない。
 「ユーラシア」という言葉が当てはまるのかどうかも、分からない。

 

 とにかく、ロシアという国を地球儀で見たとき、北半球の大半を覆うロシア領には、必ず私たちの視界に入らない場所が地球儀に残ってしまうという “不思議さ” が絵にも現れてくるように感じるのだ。
 
 
 2018年頃だったか、「東京 富士美術館」(東京・八王子市)で開かれた『ロシア絵画の至宝展』という美術展を観に行ったことがあった。

 

 そのとき集められた絵画は19世紀中頃のもので、ロシアの自然を描いた風景画、および庶民の日常生活の1コマを切り取ったものが大半だった。

 

 だが、何かが違うのだ。

 

 この美術館には、ヨーロッパの古典絵画や近代絵画をそろえた常設展示場もあった。
 しかし、「特別展」に運び込まれた “ロシア絵画” のコーナーに足を踏み入れたとたん、空気が一瞬のうちに変わった。

 

▼ ウラジーミル・マコフスキー 「夜の牧草地」

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▼ アレクセイ・サヴラーソフ 「沼地に沈む夕日」

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 ここに集められた風景画を、いったいどのような言葉で紹介すればいいのだろうか。


 うまい言葉が見つからない。


 それほど、19世紀中期のロシアの大地が、いかに我々のイメージが及ばないような世界であったかということを、あらためて知る思いだった。
 
 
▼ アルヒープ・イヴァノヴィチ・クインジ 「虹」

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 一目見て感じたのは、ロシアの大地を描いた風景画には、どれも得体のしれない “奥行き” があるということだった。


 「広大」とか、「雄大」という言葉でもっても言い尽くせない。
 そういう「水平的な広がり」とはまた別の、「奥行き」の深さに吸い込まれそうになるのだ。

 

 つまり、絵の “果て” が、地平線で終わっていない。
 地平線のその先に、さらに果てしない “何か” が続いている。
 
 
▼ イサーク・レヴィタン 「ウラジーミル街道」

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 我々は、日本の風景のなかに「地平線」を見ることはできないが、アメリカ大陸や中国大陸、ヨーロッパ大陸の大地を絵画や写真あるいは映画を見ることによって、「地平線」というものを画像体験することができる。

 

 そして、それは、「地平線」という水平ラインで閉じられることによって、いちおう視覚的に完結する。

 

 だが、ロシア絵画に描かれる「地平線」は、けっして完結しない。
 絶えず、その奥にある世界を喚起してやまない。

 
 
 雪原の彼方にはシベリアの凍土が広がっており、やがては北極まで続く大地が伸びているように思える。
 
 
▼ フョードル・ワシリーエフ 「雪解け」

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 白樺の森は、そのまま進んでいくと、いつしか熱帯雨林に紛れ込んでいきそうな気配がある。
 
 
▼ イヴァン・シーシキン 「カバの森の中の小川」

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 常にここではない、どこか。
 それを暗示するのが、ロシアの風景画だ。
 そしてそれこそ、ロシアの大地が本来秘めている魔法の力なのだろう。

 

 おそらく、19世紀のナポレオンも、20世紀のヒトラーも、これにやられたに違いない。
 彼らの軍隊は、モスクワを目指して進軍しているうちに、大地がどこまでもどこまでも後退していく恐怖を味わったことだろう。
 
 
▼ イヴァン・シーシキン 「嵐の前」

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 「後退していく地平線」は、限りなく「水平線」に近づく。
 いくら地平線を見渡せる大地に踏ん張ろうとも、彼方の風景がゆらいでいけば、自分の立っている足元も崩れていくことになる。

 

 それは、足元が海面に浸されていることと変らない。
 人間は海の上には立てない。

 

 このときの「ロシア至宝展」の目玉であったイヴァン・アイヴァゾフスキーの『第九の波涛』という絵画は、そのように見ることも可能だ。 
 
 
▼ イヴァン・アイヴァゾフスキー 「第九の波涛」

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 絵画には、鑑賞者がそれまで見たこともないような光景を見せてくれる力がある。
 それは、テレビやCG映画の画像喚起力より数千倍まさる。

 

 なぜなら、そこには画家の頭脳に降臨した想像力のバイアスがかかるからだ。
 たぶんロシアの大地には、画家の想像力を引き出す特別の魔術があるのだろう。

  

 

虫料理の話

 昔、キャンピングカーで北信州の立ち寄り温泉に行ったときのことだった。

 

 駐車場にキャンピングカーを止め、「さぁ、風呂にでも入ろうか」とお風呂セットを手にして、エントランスドアから出た。
 
 ドアを開けた音に驚いたのか、すぐ近くの木に止まっていたセミが、宙高く飛び上がった。

 

 セミの姿が、大空の小さな点になろうとしたとき、山から急降下してきたカラスが、まっしぐらにセミに追いつき、パクっと飲み込んだ。

 

 見事な空中ハンティング。
 セミにしたら、何が起こったのか分からないうちに、カラスの胃袋に飲み込まれたというわけだ。

 
 それを見ていて、ふと感慨が湧いた。

  
 「セミっておいしいのだろうか?」

 

 日常的な意識がそこでスパっと断ち切られ、今まで想像したことのない、新しい食生活に対するイメージが広がった。
 
 セミは食べたことがない。
 あまり食べたいとも思わない。
 しかし、中国の山奥には、セミの唐揚げという料理があって、食べた人によると、
 「カリッとした口あたりで、海老の頭を天ぷらにしたような味だった」
 という。
 
 しかし、昆虫を食べる文化というものは、日本にもある。
 イナゴの佃煮や、蜂の子料理などは有名だ。
 
 ただ、基本的に、欧米には「虫を食べる」食文化がないから、欧米料理が日本に入ってくるようになってからは、日本においても、虫料理は発達しなかった。

 

 ヨーロッパに虫料理が普及しなかったのは、熱帯雨林に囲まれた地域と比較すると、針葉樹林の多いヨーロッパには虫が少なかった という地域的な問題に過ぎないという人もいる。


 ヨーロッパでも、地中海に沿った古代ギリシャ古代ローマでは、セミの唐揚げを食べていたという文献が残っているという。
 
 現在ヨーロッパに残っている “虫料理” は、フランス料理のエスカルゴ(カタツムリ)ぐらいか。
 エスカルゴは、元来泥臭い生物だが、にんにくとバターを効かせて泥の匂いと味を薄めるとおいしい。食感はコリっとしていて、貝に近い。
 
 しかし、足と羽のある昆虫には、なかなか食指が動かない。

 
 足の先にギザギザしたトゲが付いていたり、黒光りする羽があったり、あるいは粉っぽい羽があったりすると、口の中に入れたときに、…… あのギザギザの足や、セロファンのような薄い羽が、ノドにひっかかるような気がする。
 それを想像しただけで、もう、胃がキュッと半分くらいに縮まる。

 

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 ま、そういう拒否反応は、たぶんに視覚的なものから来るのだろう。


 子供の頃は、好奇心が強いから、身の回りにいる猫や犬と違った形態を持つ虫に興味を感じる。

 しかし、大人になると、そのあまりにも人間や哺乳類と “異なる形態” が、だんだんおぞましく思えるようになってくる。
 
 だから、人間と異なる形態の代表格であるゴキブリが、“神聖なる” わが家に顔を出すと、野山で見る以上に、おぞましく感じられてしまうのだ。

 

 特に、あの黒々と油の乗ったような背中が、家具の隙間などに隠れてしまうと、自分の家なのに、家そのものが、もう自分たちでは管理できない別世界になってしまうような気がする。
 それほど、あの薄べったい背中は、気味が悪い。
 

 
 でもやがて、そういう虫を、人類が常食するような時代が来るのかもしれない。
 
 栄養学的にいうと、虫はなかなか理想的な食材なんだそうだ。
 例えば、蛾のさなぎや幼虫は、その乾燥重量の50%がタンパク質であり、ミネラル類にも富むという。

 

 さらに、加熱することで雑菌等の問題もなくなるので、食糧不足が深刻になってくると、人口孵化させた「養殖蛾のさなぎ」などがスーパーやコンビニで売られるようになるかもしれない。
 
 ただ、そのパッケージに、生々しい蛾のイラストが描かれると、ちょっと抵抗を感じる人が多いだろう。
 だから、チャーミングでコケッティッシュな、イラスト化された “蛾美人” などが登場することになる。
 
 そのうち、カニチャーハン、エビチャーハンと並んで、蛾チャーハンとかも登場するかもしれない。

 イタリアンでは、蛾のさなぎスパゲティ・トマトソースだとかが人気メニューになる可能性もある。

 

 そのうち、寿司のネタとしても登場するだろう。
 「大将! 蛾の軍艦ね!」
 とか。
 
 で、「大将! 今日の蛾は、甘みと酸味のバランスがちょうどいいねぇ! 舌に載せるとトロけそうだね」
 「そうですよ、これアマゾンの “蛾牧場” から航空便で取り寄せた極上モノですから」
 「なるほど! やっぱり違うねぇ」
 
 … とかいう会話になるのかなぁ。

 

親父と酒を飲んだ日

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 親父と一緒に酒を飲んだことは1回しかない。
 いや、本当はもう少しあるのかもしれないが、記憶に残る酒は、1回だけだ。

 

 もともと親父は、酒をほとんど飲まない。
 ビールをコップ一杯飲めば、それだけで顔を赤くし、後は、唇を湿らせる程度にコップの縁をなめているような人だった。

 

 そんな親父が、一回だけ、私をバーに誘った。
 オフクロが、ガンの手術を受けた日の夜だった。

 

 親父は仕事を休んで、病院の手術室の前に1日中座っていた。
 私も仕事を終えてから病院に直行した。

 

 見舞い客の姿も途絶えた暗い通路のベンチに座り、親父はぼんやりと床を眺めていた。

 

 「どうなの?」
 と、私が声をかけると、親父は静かに顔を上げた。

 

 「もうそろそろ10時間が経つ」
 と親父はいう。

 

 「大変な手術じゃない!」
 「いや、悪いことじゃない」
 「どうして?」
 「手術がすぐ終わるようだったら、覚悟してください、と先生が言ったんだ」

 

 手術前に、ガンがあちこちに転移していれば、もう切開したところをそのまま閉じてしまう、と医師は伝えたという。

 

 時間が長引いていることは、むしろ、望みがあるということらしい。

 

 やがて執刀医が部屋から出てきて、
 「悪いところはみな摘出しましたから、大丈夫でしょう」
 と、私たちに話しかけた。

 

 病室にそぉっと入ると、麻酔の効いたオフクロは、こんこんと眠っていた。

  

 
 病院を出ると、夜の雑踏が2人を包んだ。
 親父は、ふと、私の方を振り返り、
 「飲むか?」
 と、一言いった。
 生まれてはじめて聞く言葉だった。

 

 私たちは、カウンターだけの小さなバーに入った。

 

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 話すことが何もなかった。
 オフクロの手術のことを、ひと言ふた言話すと、もう最初の沈黙がやってきた。

 

 私は戸惑っていた。
 親父と連れ立って一緒に酒を飲むということなど、今まで考えたこともなかったからだ。
 
 そもそも、ときどき顔を合わせても、親父との間には、ほとんど会話がなかった。
 戸惑っていたのは、親父も同じだったかもしれない。

 

 しかし、気まずくはなかった。
 酔いが回るにしたがって、お互いに黙って飲む酒も悪いもんではないと思うようになった。

 

 そして、隣に座っている親父が、たまたまカウンターの横に座っている別の男のように思えてきた。
 「親子」ではなく、「男と男」が肩を並べているという感じだったのだ。

 

 隣にいるのは、飲めない酒を無理して胃の中に流し込んでいる寡黙な老人。
 ならば、遠慮なく、はじめて会った人間に、親しみを込めて話しかけてもいいのではないか。
 
  そう思った矢先、
 「もう一杯飲むかな」
 と、親父はいつになく上機嫌な顔を向けた。

 

 「無理すんなよ」
 と私がいうと、
 親父はひと言答えた。
 「今日はいい日だ」

 

 私ははじめて、親父をいい男だと思った。

 

 オフクロは、その後10年生きた。
 その前に、親父の方が死んでしまった。

 

 今でも、ときどき一緒に飲んだ日を思い出す。
 しかし、そのバーは、今はない。

 

youtu.be

 

 

 

  

SOULコンサートにおけるコール&レスポンス

 最近のニュースを見ていると、アメリカにおける黒人と白人の人種対立が激化している様子が伝わってくる。

 

 黒人音楽を通じて黒人文化に親しみを感じてきた私には辛い話だが、今回のコロナ禍が、黒人と白人の労働環境の違いを浮き彫りにしてしまったような気がする。

 

 こういう差別意識は、昔からあった。
 私も一度だけ、アメリカでその一端を覗き見したような経験があった。

 

 もう50年ほど前の話だ。
 日本で手に入らないR&Bのレコードを買い付けるために、サンフランシスコとロサンゼルスに行ったことがあった。
 日本で、「R&B」を聞かせる店を開きたかったのだ。

 

 そんな店を営業しながら、黒人音楽のレコードなどに付いてくるライナーノーツなどを書く。
 それが、20代を迎えたばかりの自分の夢だった。

 

 
「こりゃ人間が歩く街じゃないや」

 

 初めてのロサンゼルス。
 いやぁ、びっくり。
 飛行機が機首を下げて空港に近づくにしたがって、それこそ地平線のかなたまで「街」が広がっている。
 それも、「整然」という言葉がぴったりの、超人工的な雰囲気なのだ。
  
 見ていると、平屋の家屋が多い。
 2階以上の建物を見つける方が難しい。
 土地が広いということは、そういうことか と思った。
 
 予約していたホテルに着いて、ますます面食らった。
 ダウンタウンまで歩いて、きままにレコードショップを探す。

 

 …… そんなことができるような街ではなかった。
 ホテルの玄関から外を見回しても、「人」が歩いていない。
 路地というものがない。
 すべてが「メインストリート」なのだ。
 動いているのは自動車だけ。
 
 ヒューマンスケールで造られた日本の都会とは違って、ここは徹底的に「自動車のスケール」で都市計画が進められた街であることが分かった。
  
 
ようやく見つけたライブコンサート情報

  
 それでも、とにかく「黒人音楽」の匂いのする場に近づきたかった。
 ロビーに、その日のイベントスケジュールのようなものを掲載したニュースペーパーらしきものが置かれていたので、それをむさぼるように読んだ。
 
 「ボビー・ウーマックオージェイズのジョイントコンサート」
 それが本日「グリークシアター」というところで開かれる。
 
 かろうじて、そう読めるインフォメーションを見つけた。
 …… でも、どう行ったらよいのか。
 

 

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▲ ボビー・ウーマックの74年のヒットアルバム。「ルッキン・フォー・ア・ラブ・アゲイン」。 初めて買ったボビーのレコード

 

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オージェイズ「裏切り者のテーマ」。これも擦り切れるくらい聞いた

 


白人の運転手を怒らせる

 

 タクシーを呼ぶことを思いつき、慣れない英語で電話をかけて、イエローキャブを頼んだ。
 そして、エントランス前に横付けになったイエローキャブに乗り込んで、運転手に「グリークシアター」と、行き先を告げた。
 
 温厚そうな白人の運転手は、とても親切に、
 「そりゃいい場所だね」
 と喜んでくれた。
 「何のコンサートがあるのかね? ブラームス? ドビッシ-?」
 
 クラシック音楽が好きな運転手だったのかもしれない。
  この東洋人の若者は趣味がいい ぐらいに思ってくれた気配がある。
 
 「ボビー・ウーマックオージェイズだ」
 と答えると、彼はそれが分からない。
 
 「コンポーザーなのか? アーチストなのか?」
 と尋ねてくる。
 「ブラック・コンテンポラリー・ポップミュージック」
 と答えてしまって、まずい! と感じた。
 彼の顔つきがこわばったのである。 

 

 
「ここから先は自分で歩いてくれ」
 
 やがて、グリークシアターとおぼしき建物が見えてきた。

 … なるほど。

 
 確かに、日頃はクラシックコンサートでも開いていそうな格式高い建物だった。
 ところが、入り口が近づいてくるにしたがって、道路のあちこちに野放図にたむろする黒人たちの姿が増えてくる。

 

 ガムをくちゃくちゃ噛みながら、ストリートダンサーよろしくステップを踏む黒人青年。
 人目も気にせず、抱き合ってキスしあう黒人カップル。
 地べたに座って、無心にハンバーガーをむさぼっている人間もいる。

 
 運転手の口から、次第に呪詛に満ちた言葉がこぼれるようになった。
 はっきり聞き取れたわけではないが、
 「こいつら、こんな神聖な場所を汚しやがって」
  みたいな感じの言葉が、運転手の口からはき捨てられた。
 
 突然、クルマが止まった。
 運転手は、苦虫を噛みつぶしたような顔で振り返った。
 
 「ここから先は進みたくない。歩いてくれ」
 
 私は、まだ入口までかなりの距離がある場所で、クルマから降ろされた。

 

 
「お前、何しに来たんだ?」
 
 会場に足を踏み入れて、また驚いた。
 席を埋め尽くしていたのは、みな黒人ばかり。
 白人の姿などどこにも見ることがなく、ましてや、黄色い肌の東洋人は私一人しかいない。
 
 その私を見る彼らの目が怖い。
 黒人たちが猜疑心と敵意を抱くと、どのような目つきになるのか、私ははじめて知った。

 しかし、私は音楽だけを純粋に楽しみに来たのだから、とにかくそれが彼らに伝われば、猜疑心と敵意に満ちた視線も変るだろうと開き直った。

 

 
本場のライブで知った本物のコール&レスポンス
 
 案の定、私が、ただのソウルミュージック好きの人間だと分かったとき、彼らの対応が変った。

 

 手拍子のリズムが違う、という。
 日本人がよくやる4拍子の手拍子ではなく、8拍子。
 つまり倍テン。
 そのリズム感をつかめたとき、周りの連中が、それだけで、ウォーっと盛り上がった。 
 
 「ヘイユー・ホェア・ユー・フローム?」
 「トーキョー」
 「オゥ、リアリー?」
 
 いきなり丸太みたいにぶっとい腕が私の肩に絡みつき、私の身体は、即座に会場全体のうねりに巻き込まれた。
 
 ステージでは、ボビー・ウーマックがマイクをひらひら振り回しながら、くちゃくちゃ喋っている。
 バックミュージシャンは、とろとろ音を流しているのに、いっこうに歌が始まらない。

 

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 「5年前、俺はある女にホレたんだ」
 ボビーが甘い声でうなる。
 
 すると、私の斜め前にいた女が、突然立ち上がって、
 「イッツ・ミー!」
 と叫ぶ。

 

 すると、ボビーがその女に視線を合わせ、
 「やぁ、元気だったか?」
 と答える。
 
 「お前を得るために、俺はいろんな男とケンカしたぜ」
 そうボビーがいうと、別の席から、
 「負けていたのは、いつもお前だったな」
 と、男が笑う。

 
 
 ああ、本場のコンサートはこういうものか …… と思った。

 

 コール&レスポンス。
 ライブ会場におけるミュージシャンと観客のコミュニケーションの取り方の一つをそう呼ぶ。

 特に、黒人音楽のライブで使われる言葉だ。
 その背景には、ゴスペル音楽がある。

 

 黒人教会で、牧師が、聖書の言葉などを引用して唄い始めると、聴衆が「エーイメン」とか、「ハレルヤ」などと合いの手を入れる。
 そういうやり取りが、黒人音楽のライブ会場では広く浸透している。
 私は、はじめて本場モノのそれに接したのだ。

 

 
「ヘイユー、この後飲みに行こうぜ」
 
 日本でも、来日した黒人ミュージシャンのコンサートにはたくさん出かけた。
 
 ジェームズ・ブラウン
 スティービー・ワンダー
 ウィルソン・ピケット
 テンプテーションズ
 スタイリスティックス
 
 しかし、彼らは歌こそ唄えども、喋ることはほとんどなかった。
 どうせ英語で喋っても、何も返ってくることはあるまい。
 そう思っていたのだろう。
 だから、コンサートも、40分か50分ぐらいで終わってしまうものがほとんどだった。
 
 でも、この日はボビーのステージだけでも2時間近くあったような気がする。
 ほとんどが、歌ではなく、客席との「コール&レスポンス」だったのだ。

 

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 オージェイズとボビーが一緒にステージに立つ頃になると、私には、たくさんの知り合いができた。
 「終わったら、どこそこに行こう。今晩は飲み明かそう」
 そんな誘いばかりだった。
 
 さすがに、それには不安があったので、結局、終わるとまたイエローキャブを呼んでホテルに帰った。

 
  

「お前、誘われたヤバかったぞ!」 

 

 何日かして、当時サンフランシスコに住んでいた日本人の友だちに、その日のことをとくとくと話した。
 
 友だちの声が、突然うかぬ調子になった。

 

 「お前知っている? その翌日、あの会場近くでお客同士のケンカがあって、一人がナイフで刺されて死んだんだぜ。
 ヤツらの中には物騒な連中もいるんだよ。旅行者をだまして身ぐるみ剥ぎ取るようなヤツだっている。
 ホテルに戻れただけでも儲けものなんだぜ。白人の運転手さんの方が正解なの」
 
 うへぇー!
 なんと運の良いことか。
 まぁ、知らないことは、案外いい結果を生む。
 おかげで、私はいまだに、黒人音楽に対して無邪気なファンでいられる。

 

 

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『松田聖子と中森明菜』80年代歌姫たちの対決

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 この2020年4月に、松田聖子はデビュー40周年を迎えたという。
 
 40年前といえば、1980年。
 山口百恵が引退して、日本の女性アイドルが変った年だ。

 

 この1980年という年は、アイドルが変わっただけではなかった。
 時代そのものが変化し始めていた。

 

 その変化を、1980年に登場した新しい女性アイドル二人を取り上げて分析した好著がある。
 中川右介さんが書かれた『松田聖子中森明菜』(朝日文庫)だ。
 
 この本は、80年代を象徴する2人のアイドルを論じながら、立派な1980年代論になっていて、80年代を、政治や経済の文脈で捉えた専門書などより、はるかに時代の意味を伝えてくれる。

 

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松田聖子の詞を書いた松本隆の世界観

 

 作者の中川氏は、こう述べる。

 

 松田聖子の歌を、社会学的に分析したテキストは豊富にあっても、作品論的に語ったものはなかった
 
 どういうことか。
 
 原文を引用すると、


 「松本隆松田聖子の作品論がめったに論じられないのは、松本・松田作品そのものに、論じられることを拒む要素があったからだろう。

 何も意味はない、意味を持ってはいけない、世の中と関わるな、恋人にも深い期待はするな、一瞬のきらめきこそが素晴らしい。
 …… そんなことを歌った曲を、肯定的に評価するのは難しい。

 しかも、その “意味がない” ということを “すみれ/ひまわり/フリージア” と三つの花の名前を並べることで表現するという、かなり屈折した方法が駆使されていたので、歌詞の真意はますます遠のいていった」
 
  いきなり引用したのでは何のこっちゃ? であろうけれど、ここでは、松田聖子のヒット曲の大半を手掛けた、松本隆(下)の世界観が語られている。

 

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 松本隆は知る人ぞ知る、「はっぴぃえんど」の伝説的なドラマー。ドラマーというよりも、むしろ作詞家としての才能の方が世に知られ、日本語のロックの創始者という評価を受けている。

 

 松田聖子の代表的ヒット曲『赤いスイートピー』、『小麦色のマーメイド』、『渚のバルコニー』、『秘密の花園』などはみな彼の作品である。
 
 松田聖子は、松本隆の「世界」を歌い込むことで、80年代に日本の歌謡曲シーンを劇的に変革した。

 

 
自虐ソングから決別した聖子
 
 どのように変革したのか?
 それまでの日本の歌謡曲の主流は、演歌から反戦フォークに至るまで、基本的に「自虐ソング」だったと、著者の中川さんはいう。
 
 「私は不幸だ」
 「生い立ちが貧しい」
 「恋人に捨てられた」

 不幸の原因を、裏切った恋人に求めたものが「演歌」で、政治や社会のせいにしたのが「反戦フォーク」だというわけだ。

 

 それらの歌は、基本的には情緒性を喚起するところに主眼が置かれ、そこにドラマとしての構成は認められなかった。

 

 そこに阿久悠が登場し、3分から5分という歌謡曲の世界に、一篇の映画や小説にも匹敵するドラマを盛り込んだ。

 

 そのときから歌謡曲の流れが変わった。
 沢田研二ピンクレディーが歌謡曲の主役に躍り出て、感情に流されてばかりいた演歌的世界に、メリハリの利いた時代性を吹き込んだ。

 

 で、松田聖子松本隆がつくり出したものは、その阿久悠が構築した「時代の雰囲気」をさらに洗練させ、そこから、阿久悠が目指した「ドラマ」を抜き取ったものだという。

 

 どういう意味か?

 

 
「物語」の解体

 

 中川氏は見解は、こうだ。

 

 松田聖子を得た松本隆とその周辺の人々は、阿久悠の改革をさらに次のステージへと進めようとしていた。
 それは “物語” を解体させ、イメージのみを提示し、歌詞から意味性を排除することだった。
 
 瞬間のきらめきを、3分から4分にわたって持続的に積み重ねる。
 それによって、じめじめと湿っていた日本の歌をドライなものにする」

 

  そういうことを松本隆は目指していた、と中川さんは語る。

 

 つまり、怨念だとか、情念だとか、女の性(さが)とか、運命とか、故郷とか、家族とか、そういった重苦しいものをすべて排除し、はかなくも美しいイメージの連鎖に終始する曲づくりを、松本隆は目指していたというわけだ。

 

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 そのような松田聖子路線を支援する強力なパートナーとなったのが、作曲を手掛けた「ユーミン」こと松任谷由美だった。

 

 ここでも、中川さんの分析を引用する。

 

 「松任谷由美は、自分の音楽を “中産階級サウンド”、“有閑階級サウンド” と命名し、その一方で、前の時代の音楽を “四畳半フォーク” と名付け、否定すべきものとしていた。
 
 松田聖子の歌は、リゾート地を舞台にした中産階級の若者の恋を描くことを目指しており、その意味でも、松任谷の目指していたものと、松本隆の世界観には共通するものがあった」

 

 松本隆ユーミンという両天才によるコラボレーションが、松田聖子という歌姫を通して、80年代の音楽シーンを完全に席巻してしまったことは、あらためて書くまでもなかろう。

  

 
謡曲の歌詞から「社会」が消えた

 

 ユーミンが作曲を担当し、松本隆が詞を付けた松田聖子の歌からは、「社会」が完全に排除された。

 

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 彼らの歌には、外国の地名は出てきても、国内の具体的地名はまったく登場しない。
 故郷も祖国も出てこない詞からは、すべての組織・共同体と積極的な関わりを持とうとしない世界が出現した。

 

 これが、1980年代というものの「正体」だ。
 と、中川さんは言いたいのである。

 

 それは、この80年代こそが、2020年代の今でも続くグローバル資本主義のスタート地点であったことを物語っている。

 
 つまり、「ヒト、モノ、カネ」が、ローカルな特殊性から解き放たれ、無個性な表情のまま、瞬時に地球上を駆け巡り始めたことを描こうとしたのだ。

 松本隆は、そういう状況に染まる時代を「新しい快感」として感じ取っていたのかもしれない。
 
 話を戻す。 

  

 ところで、この本のもうひとりの主役である中森明菜は、松田聖子に対して、どういう役割を与えられているのだろうか。

 

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売春、万引き、暴走族を
連想させた明菜の『少女A』

 

 「『少女A』で中森明菜は完全にブレイクした。当時は校内暴力が社会問題化しており、少年Aや少女Aが新聞紙上によく登場していた。
 NHKは “犯罪的で内容が挑発的すぎる” との理由で、この曲を放送しないことに決めた。

 

 しかし、実際には、少女売春も、万引きも、暴走族の集会も歌詞には出てこない。ひとつひとつの単語、一節ずつのフレーズには、とりたてて問題はない。
 歌詞のどの部分が “犯罪的” なのかと追求されれば、NHKも返答に困ったであろう。

 

 だが、確かに、この曲には犯罪的なムードが漂っていた。曲やアレンジにも責任はあるだろうが、無表情に歌う中森明菜そのものに、犯罪的・挑発的なイメージがあった」

 と、中川さんは書く。

 

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 松田聖子が、実態のないイメージのユートピアを歌い続けていたのに対し、中森明菜は、すでにデビュー2曲目から、「社会」とのっぴきならない関係に立たされた、少女の決意と困惑を表現していたのだ。

 

 
『飾りじゃないのよ涙は』
で聖子の対極に立った明菜

 

 私にとって、中森明菜のイメージを決定づけたのは、1984年にリリースされた『飾りじゃないのよ涙は』のように思えてならない。

 

 作詞・作曲は井上陽水
 中川さんも、この曲が、松田聖子的な世界に対する強烈なカウンターパンチを意識したものであることを認めている。

 

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 松田聖子の代表的なヒット曲に『瞳はダイヤモンド』があるが、その最後の歌詞は、「♪ 涙はダイヤモンド」という言葉で終わっている。


 それを、横目でにらみながら、井上陽水中森明菜に、
 「♪ ダイヤと違うの涙は 」と歌わせた。

 

 「1年の時間差があったので、気づいた人は少なかったかもしれないが、松田聖子のファンは、“あ、やったな!” と思ったに違いない」
 と、中川さんは、見事に突いている。

 

 『飾りじゃないのよ涙は』という歌は、「♪ 私は泣いたことがない」という出だしで始まる。
 
 そして、「♪ 灯の消えた街角で/速い車にのっけられ」たり、
 「♪ つめたい夜のまんなかで/いろいろな人とすれ違ったり」
 「♪ 友達が変わるたび/思い出ばかりがふえた」けど、それは「泣いた」のとは違うと思う。
 そして、自分は「ほんとの恋をしていない」と悟る。

 

 青空の下に広がるビーチには、いつも上品でおとなしい「あなた」がいて、その「あなた」をウブな表情で誘いながら、密かに恋の主導権を取ろうとしている松田聖子の歌とは、またなんと違った世界が展開されていることだろう。

  

  
地方都市の夜のコンビニ
の前でうずくまる少女

 

 中森明菜のこの歌では、ヒロインはまだ「あなた」に会っていない。
 いつの日か「恋人に会える時」が来て、その時にこそ「泣いたりするんじゃないか」と、ヒロインは感じるにすぎない。

 

 地方都市のコンビニを唯一のたまり場として、長く退屈な夜をもてあましながら、身の凍るような寂しさに耐えている少女の姿が浮かんでくる。

 

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 井上陽水は、やっぱり凄い表現者だと思わざるを得ない。
 そして、それを歌いこなす明菜ののっぴきならない切なさも、じんじん伝わってくる。

 

 松本隆が、来たるべきグローバル資本主義の時代を “新鮮な風” として捉えたのに対し、井上陽水は、そういうグローバルな “風” から取り残される女の子を描いた。

 

 そこには、すでに、やがて日本に訪れる “失われた20年” の痛みすら予感させるものがある。
 しかし、ここではそれ以上触れない。

 

 
 この本には、「松田聖子に対する記述の方が多く、中森明菜は添え物にすぎない」という批評もあるようだ。
 確かに、文章的な量では、松田聖子を論じる部分の方が圧倒的に多い。
 
 しかし、著者が、どちらに密かにシンパシーを感じているかは、読めばすぐに伝わってくる。

 

 
松田聖子の歌は、日本の
謡曲をどう変えたか?

 

 終章近くには、こんな記述も見えてくる。

 

 「松田聖子が歌う世界では、社会は無意味なものになり、男女の関係すら意味を失っていった。
 “私” と“あなた” は、永遠に “私たち” にはならない。

 

 松田聖子が無自覚に、そして、松本隆が確信犯的に破壊した日本の旧来の男女関係や個人と社会との関係は、それ以降、修復されることがなかった。

 

 歌はますます意味がなくなっていき、言葉遊びすらなく、ただメロディーとリズムに乗せられるだけになっていった。歌詞カードなしでは、日本語なのか英語なのかも分からなくなっていった」

 

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 ちょっと、そう結論づけるのは「勇み足ではないか?」と、私などは思う。
 しかし、そういうレトリック(言い回し)に説得力を持たせてしまうのも、本書の力だ。

 

 本の面白さは、作者のレトリックの力に負うところが大きい。
 たとえ、それがウソであっても、シビレる表現にはシビレてしまうことがあるのだ。

 

 学術論文や思想を真剣に扱った評論などにおいては、レトリックの巧みさはむしろ警戒しなければならない。

 

 だけど、読書は「遊び」だと割りきっている私には、上記のような酔えるレトリックに出会うことが無上の喜びとなった。


 この本は、そういう素晴らしいレトリックが多いように感じられた。

  

ニール・ヤング的哀愁

 ニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』が発売されたのは、1970年だった。
  
 その年、日本では学生運動が各地に広がり、よど号ハイジャック事件があり、三島由紀夫の割腹自殺があり、社会は騒然とした雰囲気に包まれていた。

 

 その一方で、「人類の明るい未来」を謳う大阪万博が開催され、ケンタッキーフライドチキンの 1号店が日本に上陸し、東京の銀座では歩行者天国が生まれ、“楽しくウキウキした(?)時代” の到来も告げていた。

 

 未来を呪詛するような「混沌とした現代」と、それとは関係なく進んでいく「明るい未来」。
 今から思うと、なんとも奇妙な時代だった。

 

 そんな時代の中に、そぉっと忍び込んできたニール・ヤングの歌声には、「この世の終末の影」があった。

 

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 苛立ちを隠せないようなギターサウンドを持つ「サザン・マン」や「アイ・キャン・リアリー・ラブ」にも「すべてが終わった」という諦念が潜んでいたし、「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」や「テル・ミー・ホワイ」のような静謐な歌には、「貴重なもの」が失われていく姿をじっと、見守るような喪失感が漂っていた。

 

 その2年後に発売された『ハーヴェスト』になると、ニール・ヤングの「消え行くもの」への挽歌は、より一層鮮明な形を取る。
 大ヒットした「ハート・オブ・ゴールド(孤独の旅路)」や「オールドマン」などは、もう涙なくしては聞けない。

 

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ニール・ヤング 『オールド・マン』

Neil Young - Old Man(1972年)

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 あれほど、繊細な哀しみを音として表現できたアーチストは、あの時代ニール・ヤング一人だった。 

 

 あの頃のニール・ヤングの哀愁の正体が、今になって、よく分かる。
 
 彼はあのとき、はっきりと、アメリカから失われていくものを見ていたのだ。
 アメリカ人から見れば “外国人” であるカナダ人として。

 

 これは、同じカナダ出身のロックバンドである「ザ・バンド」においても同様なのだが、彼らは、アメリカ人以上に、アメリカの伝統的国民歌謡であるカントリー・ミュージックのエッセンスを身につけ、そして、それを追求した音に「滅び行くもの」への哀悼を込めた。

 

 ニール・ヤングにもザ・バンドにも共通して「カントリー・ロック」への志向がうかがわれる。
 しかし、それはすでに、アメリカから失われたカントリー・ミュージックなのである。
 
 彼らの音から伝わる “何やらカントリーっぽい雰囲気” というのは、実はアメリカ本土で流布している現実の「カントリー&ウエスタン」とは別物である。

 
  
 アメリカ人たちのカントリー&ウエスタンが、トラックドライバーたちが眠気覚ましに口ずさむBGMのように消費される音楽だとしたら、ニール・ヤングザ・バンドの音は、さらに、そこから100年昔の空気を伝える。

 

 西部開拓時代に、幌馬車隊が、馬車の円陣の中で、1日が無事に終わったことを神に感謝しながら食後を終え、食後のひとときに、誰ともなく歌いだすような歌。それが、ニール・ヤングザ・バンドの歌の根底にある。

 

 それは、アメリカ流のグローバル資本主義が、世界中に猛威を奮うような時代に失われてしまったもの。
 つまり、世界を「アメリカ流の価値観」で統一するという、アメリカ人の傲慢さによって、かき消されたもの。
 
 それを偲ぶような形で、ニール・ヤングザ・バンドの「カントリー・ロック」があったのだ。


ザ・バンド

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 カナダ人にとって、アメリカは微妙な国だ。
 人種的には、ほぼ似た民族であり、建国の歴史も似通っていながら、カナダはアメリカのように、世界をリードしたこともなく、世界を混乱に落とし込めたこともない。
 そして、自らその国家を批判する “声” を上げたこともなかった。
 
 それは、言葉を変えていえば、カナダには、アメリカが持っていた「物語」が欠けているということなのだ。

 

 だから、カナダ人は、アメリカ人が引き起こす戦争や、人種差別や、傲慢な経済政策は憎むが、アメリカが持っている「物語」には憧れるというアンビバレンツ(二律背反)な立場に置かれる。

 

 ニール・ヤングザ・バンドアメリカ観には、その二つの気持ちへの分裂がうかがえる。
 彼らは、アメリカの持っている「物語」を愛するがゆえに、だからこそ、それを平然と打ち捨てていく今のアメリカをも憎む。

 

 ニール・ヤングが昔から(そして今も)一貫して、アメリカ政府に対する抗議の姿勢を失わないのも、そこに起因する。

 
 彼にとって、アメリカは、グローバル資本主義を推進させて世界市場を独占し、さらに世界の文化の多様性をも抹殺する非人間的システムそのものなのだ。

 

 もちろん、彼のデビュー当時は、平然とベトナム戦争を遂行していくアメリカがあった。

 

 そのベトナム戦争が終わったあとは、アメリカは経済で世界を制覇し、地球上に格差が広がっていくことを平然と容認した。

 その姿勢は、グローバル資本主義から自閉していくトランプ政権に移った今も変わらない。

 
 アメリカの姿勢は70年当時と変わらなくても、ニール・ヤングは、デビュー直後の作品を評価するリスナーを挑発するように、めまぐるしく自分の音楽スタイルを変えていく。
 テクノポップやパンクに接近したかと思うと、トラディッショナルなカントリー・ミュージックに回帰したり。

 彼は、そのつどそのつど、彼のスタイルで、ロックの最前線に踏みとどまろうとする。まるで、その時代の “コンフォートな音” に対して、徹底的に戦おうとするかのように。
 
 ライク・ア・ローリング・ストーン

 

 まさに、とどまるところを知らない、転がる石である。


 そこには、確かに、 “ロック魂” とも名づけられるような不屈の精神が感じられる。

 

 しかし、私は、自分の青春と照らし合わせてみても、あの「身を切られる」ような寂しさを秘めた『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』と『ハーヴェスト』のアルバムに、“自分のニール” を感じる。

 

 何かが終わったときの音楽。
 草原を渡る風のように、とりとめもない寂しさを宿したあの2枚のアルバムは、いつまでも頭の中に鳴り続ける。


 
▼ クレイジーホース時代の名曲 「カウガール・イン・ザ・サンド」

Neil Young - Cowgirl In The Sand

youtu.be

 

 

 

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タクシーゲイシャ

 ゲイシャって言葉の響きから、漢字を当てると「芸者」の方が先に思い浮かぶけれど、電話なんかでタクシーを呼ぶときも「ゲイシャ」だ。
 こっちは「迎車」だけど。

 

 で、タクシーの迎車ってのはほとんど使ったことがないのだが、昔、肺を患って、病院に通っていた頃だけ、よく家に迎車を手配してもらった。
 迎車料金はプラス410円となる。

 

 ま、こういう料金は、タクシー会社やお願いするときの時間帯、距離などによって違うのだろうけれど、私の場合、家から電話して病院まで走ってもらうと、だいたい410円かかった。


 しかし、この410円。
 いったいどういうサービス内容が含まれるのだろうか? と、最初のうちはそこに好奇心が集中した。
  
 
 「迎車タクシー」で、まず驚いたのは、家の前で待っていても、タクシーのドアが開かないのだ。
 普通、客を乗せるときは、自動ドアがパッと開く。
 が、迎車の場合は、運転手は自動ドアを使わない。

 

 代わりに、ドライバーが急いで運転席から飛び降りてきて、腰をかがめ、うやうやしく手でドアを開けるのだ。
 
 「お待たせいたしました。お暑いなかをご迷惑をおかけしました。さぁ。どうぞお乗りください」
 
 「お待たせ」 といったって、そのタクシーが来たのは、配車センターが予告した到着時間より5分も早い。
 つまり「お待たせ」というのは、お客に挨拶するときの “まくら言葉” みたいなものらしい。

 

 次に、自己紹介が念入り。
 「私、生まれも育ちも葛飾・柴又です。帝釈天で産湯をつかい
  みたいな、寅さんの口上に近いほど、芝居がかった丁寧さだ。

 

 「私、◯◯社の◯◯地区を主に担当する◯◯と申します。
 このたびはご利用いただき、誠にありがとうございました。
 それでは、ご指定いただいた目的地まで、すみやかにご案内申しあげます。
 ご利用中なにかご希望があればなんなりとご用命ください。
 エアコンの設定温度はいかがですか? 
 それでは安全運転でまいります。」

 

 聞いている方も、「それでは何卒よろしくお願い申し上げます」と立ち上がって頭を下げなければならないほどの丁重なるご挨拶だ。

 

 確かに、運転は丁寧。
 信号などは黄色になりかける前に停まる。
 もちろん急発進、急加速、急ブレーキのたぐいは一切ない。
 
 
 迎車を何度か経験すると、運転手さんによっては、
 「今日は良いお天気でございますねぇ。雲一つなく、行楽日和というのでしょうねぇ」
 などと、退屈しのぎに とばかりに話しかけてくる。
 

 
 ま、天気が良いのは窓の外を見れば分かるから、何かを教えてあげようというつもりの会話ではないようだ。天候の話をするのも迎車サービスの一環なのだろう。

 

 病院に着いたときの対応もまた丁寧。
 車寄せに停まるまで、前のタクシーが並んでいたりすると、スペースが空くまで静かに待機する。
 
 私なんかは、入り口手前の道路で、
 「もうここでいいから降ります」というのだけれど、「いえ、もう少しお待ちください、すぐ入口前に着けられますから。それに、ここは車の出入りが激しいゆえ、危のうござります」


  なんて、まるで戦場で家臣の武士が主君に語りかけるような言い回しだ。
 こっちも、
 「お、そうじゃな。ひとまず弓矢の届かぬ陣の奥まで引き下がるか」
 などと言いそうになる。

 

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 料金を払うとき、お札のほかに端数の10円玉を用意すると、
 「あ、わざわざご便宜を図っていただき、恐縮です」 
 … だって、さぁ。
 
 10円玉を出すことが、“便宜” だったとは。
 コンビニのレジ打ちの女の子なら、一言「1,010円からお預かりします」で終わるんだけどな。 

 

 で、降りるときも、運転手は自動ドアを開けようとしない。
 「あ、お待ちください、すぐ開けます」
 と、運転席から飛び出そうとする。
  


 そうなると、こっちも、
 「あ、いいです。自動ドアを開けてください」
 というのにも勇気がいる。

 

 でも、ここは勇気の奮いどころだと思って、意を決して、「自動ドアでいいです」 と言ったことがあった。

 

 「あ、いいんですか? ほんとうに “ドア開けサービス” をしなくていいんですかぁ? それではお言葉に甘えて、自動ドアを使わせていただきます」

 

 ようやくこっちも、410円というのは 「ドア開けサービス代」だということが分かった。
 
 …… う~ん ……
 微妙なサービスだな。

 

 乗るときと降りるときで、ドア開けサービスが1回ずつ。
 ということは、1回205円のサービスということになる。
 ドアを開けてもらうのに、205円というのは高いのか、安いのか
 
 確かに、何でもかんでも機械化されている世の中で、わざわざ人の手を煩わすドア開けサービスは、“人のぬくもりを伝える” という意味では貴重なものなのかもしれない。

 

 この頃は、全部で5~6回送迎用タクシーを呼んだけど、自動ドアを使った運転手さんは一人しかいなかった。

 

 そっちの方が気が楽なのだけれど ……

 

 …… でも、不思議だった。
 ドア開けサービスに慣れてしまうと、今度は自動ドアだと、なんか “損した” 気分になった。

 人間って、贅沢で、横着にできているんだな。

 

 
  

フリードリッヒ『山の十字架と聖堂』

絵画批評
フリードリッヒの描く異形の「自然」

  
 カスパール・フリードリッヒの絵にはじめて接したのは、二十歳ぐらいの頃だった。
 ひまに任せて、家にあった『芸術新潮』をめくっているときに、突然、衝撃的な絵が目に飛び込んできたのである。

 

 荒れた岩山の向こうに糸杉の林が広がり、その中央に教会がそびえ立っている絵だった。
  
 思わず息を呑んだといっていい。
 教会といい、その前に掲げられた十字架といい、一目でキリスト教的な世界を表現した絵であることは分かったのだが、私が受けた衝撃は、そのような宗教的な印象とは異なる、もっと人間の根源を揺るがすような何かだった。
 
 それは、 雑誌のグラビアという2次元的な平面を突き破って、何か異形のものがヌッと顔を現わしたというようなショックだったといっていい。

 


自然界にはあり得ないシンメトリーの構図

 

▼ フリードリッヒ 「山の十字架と聖堂」

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 特に異様に見えたのは、十字架を中心にして、左右がシンメトリー(左右対称)になっていることだった。

 

 画面中央を占める教会。
 そして、その教会を挟む形で、両わきに立っている6本の糸杉。
 それがみな、ものの見事に左右対称を成している。

 

 十字架の立つ岩盤だけは、左右の岩の形が微妙に異なるが、その両脇の傾斜は、ぴたりと同じ角度を保っている。
 
 シンメトリーというのは、極度に人工性を感じさせる構図である。
 なぜなら、自然の風景の中で、右と左がまったく同じという景色というのはよほどの偶然でないかぎり、ありえないからだ。

 

 人間のみが、左右対称の建造物を建てることができる。
 だからシンメトリーの構図というのは、「自然」に対する、人間の「文化」の勝利 を意味するものとなる。
  
 フリードリッヒの『山の十字架と聖堂』の不思議さは、その自然に対する人間の勝利を意味するはずのシンメトリーを、逆に、自然の方が備えてしまっているところにある。
 それは、人間以外の何者かの意志による、ひとつの「秩序」が存在していることを教えている。

 


異世界の秩序に満たされた自然

 

 つまり、この絵から伝わる異様さとは、人間界の秩序など及びもつかない圧倒的な “異世界の秩序” と向かい合ったときの異様さなのだといっていい。
 
 画面上方に漂っている光源の定かではない不思議な光も、太陽のような自然の光源とは別の、人間に見えない光の発生源があることを暗示しているかのようである。
 
 この異世界の秩序を、西洋絵画の伝統にのっとって、「神の秩序」として視ることは、ある意味で簡単だ。
 そこには、確かに教会や十字架といった、キリスト教的なシンボルが、画面の中心に描かれているからだ。
 
 しかし、この絵が示す「神」は、どうもわれわれの理解している「愛の宗教」としてのキリスト教の「神」というイメージからは遠いような気がしてならない。
  
 この絵に、峻厳さはあっても、慈悲は感じられない。
 そこに「神」が降臨していたとしても、それは人間の悩みや苦しみには無関心な「神」であるように思えるのだ。

 

 いわば、人間とのコミュニケーションを拒絶する、“ディスコミュニケーション” を体現する「神」だ。
 それがもはや神といえるのかどうか、一神教的な風土のない日本で暮らしている私にはよく分からない。

 
▼ フリードリッヒ 自画像

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 フリードリッヒが、当時のキリスト教の教義をどれだけ咀嚼(そしゃく)していたのか、詳しい文献を調べたわけではないからよく分からない。
 しかし、おそらく彼の持っていた宗教観というのは、今日われわれがイメージするようなキリスト教の教義とはまったく異なったものではないか、という気がする。

 

 彼の絵から汲み取れる「神」は、別の言葉に置き換えれば「虚無」に近い。
 救済を求めて、慈悲を乞うても、それにはまったく応えることなく、森閑と静まり返っている神。

 

 人間が感知しようにも、思索しようにも、その想いが届かない神。
 この絵から、現在のわれわれがイメージする「神と人間のコミュニケーション」を、読みとることはできない。

 
▼ フリードリッヒ 「海辺の修道士」

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 『海辺の修道士』という絵がある。
 どんより曇った海辺に、一人の修道士が立ち尽くしている。
 印象的なのは、空のボリュームだ。
 修道士は、その空の巨大さ圧倒されるように、なすすべもなくたたずんでいる。
  
 ここに描かれている自然は、“自然科学の対象” となるような自然ではなく、人間による対象化をはねつける「意志ある自然」といってよい。

 

 しかし、「意志ある自然」のその “意志” は、人間に読み取られることを拒否している。


 圧倒的な自然の力の前で、一人ポツンと立ち尽くす修道士の姿を見ていると、そんなふうにも思えてくる。
ここに描かれているのは、自然と人間のディスコミュケーションである。
 
 フリードリッヒの、この超越的な《自然》を理解するカギはあるのだろうか。

 


現代人には理解しがたい “畏れ” の感覚

 

▼ フリードリッヒ 「ヴァッツマン」

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 フリードリッヒは、実にさまざまな自然を描いた画家だった。
 浜辺、森、山、平原。
 描写は的確だし、デッサンは正確だ。
 もちろん、19世紀後半の写実主義とは違った意味だが、リアルである。

 
 にもかかわらず、彼の風景画には、写実主義の絵画には見られない自然に対する “畏れ(おそれ)” の感覚がある。
 あたかも、自然に「命」が宿る瞬間をこっそり覗き見するような、禁断の風景を眺めるときの緊張感がある。

 
 そして、そのことが、彼が感じていた「神」がどんなものかであったかを、物語っているような気がする。

 
▼ フリードリッヒ 「孤独な木」

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宗教画を描かない宗教画家

 

 フリードリッヒは、「宗教画」を描かない宗教画家だった。
 言い方を変えれば、「神の姿」を描かない宗教画家だった。

 

 多くの宗教画家は、磔刑にされたキリスト像聖母マリア像のような、「神のアイコン」を描くことで、神の存在を暗示する手法を選んだ。

 

▼ ラフェロ 「聖母子」

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 しかし、フリードリッヒは、「神」はアイコンなどでは表現しきれないものであることを知っていたように思える。
 
 アイコンで捉えられるような神は、人間と交流できる神である。
 そのような神は、戒律に反した人間を罰することもあるが、人間の祈りも聞き届けてくれる。

 

 そういう神の元では、確かに、神と人とのインタラクティブ(双方向的)なコミュニケーションが可能となる。


 しかし、そのような関係が成立したときに、その神は、一般的な宗教共同体の “統合のアイコン” に収まるしかない。
 
 フリードリッヒが捉えた神は、けっして宗教共同体のアイコンなどにはならない神だった。


 その神は、人を救済することも、罰することもしない代わりに、人間が想像することも、思惟することも許さない。
 
 にもかかわらず、その神は、人間を含むこの世のありとあらゆるものをコントロールしている。


▼ フリードリッヒ 「氷の海」

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自然の奥に姿を隠す神

 

 彼は、そのような神を、《自然》の中に見出した。
 人間が手を加えなくても、定期的に四季を向かえ、秩序的な生態系を維持している《自然》に、彼は「神の存在」を視た。
 ただし、「神の “影” 」として。

 

 影でしかないために、人間は、「神」が目の前を横切っている時ですら、それに気づかない。

 

 しかし、何かの拍子に、人はふと、《自然》の中に、異形のものが立ち現れている瞬間を視ることがある。
 視覚的には何も変化が起こっていないのに、なぜかいつもと違う風景であるかのように感じられることがある。


 
 フリードリッヒは、そこに神の「影」が通り過ぎていくのを視たはずだ。

 影は、地上に黒ぐろとした痕跡を残すが、それを見ているだけでは、どのようなものの影なのか判然としない。
 他の影と重なれば、地上からも姿を消す。
 


 その影を発見するのは、とてつもなく鋭敏な感受性を備えた画家にしかできない。
 おそらく彼は、画家としての自分の能力を、その「神の影の発見」に見出したのだろう。
 
 フリードリッヒの風景画が、どこか神秘的な気配を漂わせるのは、まさにそれが「神の影の通り行く瞬間」を捉えたものだからである( と思うのだ)。

 

▼ フリードリッヒ 「エルベ川の夕暮れ」 

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ビルの谷間の空海

 会社勤めをしていた頃、いちばん忙しいときは、土日も会社に泊まり込んでいた。

 

 ある日曜日、会社を離れて街に出たときの情景を、今でも思い出すことがある。

 

 何年前のことか忘れた。
 ただ、画像を焼くCD-Rが切れたので、それを買うために、昼食を兼ねて外に出たことがあった。
 
 自分の会社のある町を、休みの日に出歩くことはあまりなかった。

 

 店のシャッターはみな下りていた。
 人通りはほとんどない。
 クルマの姿もまばらなので、空気が澄んでいる。
 ふと、正月元旦の昼下がりに街を歩いているような気分になった。

 

 お目当ての文具屋も休みらしく、閉じたシャッターの向こう側でまどろんでいた。
 進路を変えて、新市街の方に向かう。

 

 できたばかりのトンネルをくぐると、町の景観が一変した。
 鉄とガラスだけでできた摩天楼の群れが、背の高さを競うように昼下がりの空を支えていた。

 

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 オフィスを効率よく集合させた新都市のビジネス空間は、さらに人影が少なかった。
 歩いているのは、セーターを着せたプードルを散歩させている近所のオバちゃんと、デート場所を間違えて迷い込んでしまったような学生風のカップルのみ。

 

 コンビニも閉まっているし、ベンチ脇の噴水も止まっている。
 文具屋でCD-Rワンセットを買ってから、カフェに入った。
 ホットドッグとホットコーヒーを受け取り、店の奥の空いた席を陣取る。
 といっても、店のなかには、ほとんど人影がなかった。


 
 ボサノバがかかっている。
 アストラット・ジルベルトが、寝起きざまに鼻歌でもうなるように、「おいしい水」を歌っている。

 

 半音進行のピアノ伴奏が、螺旋階段でも下るようなフレーズを繰り返している。
 モダンで無機的な内装のカフェと、ボサノバのけだるさはよく似合う。

 

 コートのポケットから文庫本を取り出し、ホットドッグを頬張りながら、ページを開く。

 

 司馬遼太郎の『空海の風景』。
 これを読むまで、空海という人も、真言密教の教義もほとんど知らなかった。

 

 空海=「弘法大師」という言葉の響きには、世俗的な解釈を厳しく拒絶するような神秘的な光彩がつきまとっている。

 

 しかし、司馬さんの描く空海は、いたってなまなましい。
 彼の持つずるさ、したたかさ、けれんみを見逃さない。

 

 それでいて、高度な抽象化能力と哲学的な直観力を持つ天才としての空海のスケールの大きさが、この小説では余すところなく描き出される。

 

 空海は30を過ぎて、遣唐使の一員として、大唐帝国の都「長安」に留学した。

 

 当時の長安は、今のニューヨーク、パリ、ロンドン、東京をもしのぐ巨大な国際都市だった。

 
 青い目・白い肌を持つ西域人、精悍な北方騎馬民族、肌の浅黒い東南アジア人やインド人、そして日本人が路地裏の隅々にまで満ち溢れ、街全体が、鍋の湯がたぎるように沸騰していた。

 

 世界中の思想が一時、長安に凝縮した。
 中国古来の儒教老荘思想、インドの仏教、ペルシャゾロアスター教、ヨーロッパのキリスト教

 

 司馬さんは、これらの世界思想が、空海の思想形成の温床となったことは間違いないと説く。
 そういった意味で、この時代の長安には、世界の先端文化が奇跡のように集中していた。

 

 空海の天才性が花開くためには、歴史のいたずらが生んだ、この古今東西まれなる「奇跡」との遭遇が不可欠であった。
 司馬さんは、そう言わんとしているようだ。

 

 多様性というものは、抽象性をも引き寄せる。
 つまり、いろいろな人種や文化が集中することによって、そういう雑多なものを超える高次な普遍性というものも浮かび上がってくる。

 

 それを別名「哲学」ともいう。

 

 そういう思考を組み立てるときの助けとなるものは、都市の貨幣経済であるとも。

 

 司馬さんはどこか別の本で、
 「(仏教の)密教を最初に支持した人たちは商人だった」
 と言っていた。

 

 つまり、あらゆる雑多な商品を厳粛に、かつ公平にさばいていく貨幣の力が浸透することによって、人間の思考に「抽象性」や「普遍性」というものが宿るのだと。

 

 だから、世界の商人たちが同一の貨幣で取引を行う巨大都市において、人間の思考が「抽象性」、「普遍性」を獲得していく。

 

 そういう動きが最も沸騰した空間が、この時代の長安だった。

 

 本を閉じると、窓の外は、人気のない休日のビル街。
 大唐帝国長安のにぎわいは、一瞬のうちに幻となる。

 
 
 空海が、時空を越えて、この物憂いボサノバの流れるカフェに迷い込んだら、何を始めるだろうか。

 

 状況の呑み込みが早い、頭の良い人だったそうである。

 自分のいた時代に戻れないと知ったら、案外、翌日あたりからは、ネクタイを小器用に絞め、現代の会社員たちを相手に、グローバル経済時代の密教講義でも始めただろうか。

 

 

諸星大二郎『暗黒神話』

スケール感にあふれる
壮大な宇宙ロマン
 

 
 諸星大二郎の『暗黒神話』を、また読み返す。
 何度読んでも、面白い。

 

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 ストーリーが分かっていても、絵を観るだけで楽しい。
 歴史、古代神話、考古学、宇宙科学という取り合わせによって描かれる彼の宇宙ロマンは、とてつもなくスケールが大きく、奥行きもある。

 

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 『暗黒神話』のテーマは宇宙の終わりである。
 主人公は、古代文明が滅亡していく過程を調べるうちに、どの文明の終焉にも、ある共通した特徴が現れていたことを知る。

 

 その「特徴」をたどっていくと、今われわれの住む世界が、最終的な破滅に向かっていることが推理されてくる。


 では一体、何が宇宙を破滅させようとしているのか?
 本書は、太古の恐竜を死滅させ、地球上の古代文明や古代国家を滅亡させ、今なお地球を壊滅させようとする “スサノオ” の秘密に迫ろうとする。
 
 スサノオとは、あの日本神話に出てくるスサノオノミコトのことだが、実はこの神様は、日本神話だけに登場したのではなかった。マヤやインダス文明のような謎の滅亡を遂げた文明には、その終焉を示唆する文献や出土品にすべてスサノオの影が刻印されていた というわけである。

 

 
驚くべきスサノオの正体


 
 ストーリーの後半部は、このスサノオの正体を解明することに費やされていく。
 それまで考古学的な遺物や古代史の文献に小さく閉じこめられていたスサノオの存在が、そこで一気にドドドォっと宇宙規模に拡大していくときのスケール感がすごい。

 

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 最初に読んだとき、私などは、思わず「おおぉぉ!」と声を上げてしまった。
 これは、マンガでなければ描けなかったパノラマ感であり、かつ、諸星大二郎でなければ創造できなかったビジュアルだろう。 
 
 スサノオが、宇宙空間を滅ぼす巨大なブラックホールのごときものであることを暗示するところなどは、光瀬龍のSF小説『たそがれに還る』や『百億の昼と千億の夜』などを下敷きにしている雰囲気もある。エンディングも謎めいた部分が残り、それが余韻につながる。 

 


古代中国モノはどれも傑作ぞろい
 


 この人の作品では、ほかに『諸怪志異』の連作や『無面目・太公望伝』なども好き。
 『碁娘伝』(↓)なども夢中になって読んだ。 

 

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 一番好きなのは、やはり『孔子暗黒伝』だ。
 古代中国や古代インドの呪術めいた風俗が、豊かな想像力と緻密な描写力によって鮮やかに描き出されている。

 

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 これだけ、緻密な歴史絵巻を繰り広げながら、諸星大二郎が、一度も中国を旅した経験がないというのも面白い。

 

 すべて、美術書や歴史書から得られる情報を基に作画されたのだという。
 天才にとっては、実際の現場に立ち会うよりも、書籍という限定された世界で得られる情報の方が、はるかにイマジネーションを膨らますことができるのかもしれない。

 

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 画風はおどろおどろしくて、不気味。
 人体描写などは、ときどき稚拙さのせいでバランスが崩れて見えるようなところもある。

 

 でも、構図の取り方や、遠景・近景を適切に組み合わせたコマ割りのバランスがすごく美しい。
 うまい絵ではないが、味がある。
 1コマだけ取り出して、額縁に入れて、部屋に飾っておきたくなるような絵だ。

 

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 毎晩、寝床に入ってから、眠くなるまで気に入った部分を少しずつ読む。
 閉じたまぶたの裏側に、暗黒星雲をも巻き込んだ広大な宇宙が広がっていく。  
 

 

▼ マンガシリーズ

campingcarboy.hatenablog.com

 

自分を売り込んでも、自分の値段は自分で決められない

 自己啓発本のほとんどは、「自分を売る」ことのノウハウを教えるものといってもかまわない。

 いかにしたら、自分の能力や個性を相手に認めさせるか。
 そのためには、「謙虚になること」、「相手に優しくなること」、「相手の立場を想像すること」などと諭されるが、それも結局は「自分を売る」ことの戦略論・戦術論として語られているに過ぎない。

 

 「自分を売る」
 
 確かに、コツと度胸さえ備わってくれば、それは誰にだってできる。
 ただし、人は「売った自分」に、自分から値段を付けることはできない。


 「売った自分」にいくらの対価を払ってくれるのかは、相手が決めることであって、自分の方ではない。

 

 自分には、どれほどの価値があるのか ?

 

 自己啓発本の多くは、そこになると沈黙を守り通す。
 一般論が通用することのない世界に入り込んでしまうからだ。

 

 多くの自己啓発本は、世の常識や思い込みから解放された「自由な個人」を目指すことを提唱する。
 
 だからこそ、多くの自己啓発本は、「あなたは自由のつもりでいるが、本当はものすごい束縛の中で生きているのです」という書き出しで始まる。
 そして、「あなたの本当の価値に、あなた自身が気づいていません」というふうに誘導していく。

 

 しかし、
 「自分にどれほどの価値があるのか ? 」
 という問に対しては、永遠に自分の方からは答が出せない。

 

 つまり、自分を売り込んでも、その報酬を自分で決めることはできない。
 たとえ、かつて何らかの仕事を世に残し、それの報酬額が定まっているからといっても、それが次の仕事を保証するとは限らない。

 

 クライアントの担当者が変わるかもしれない。
 世の中の情勢が変わるかもしれない。
 それにつれて、人々の価値観が変わるかもしれない。
 自分の能力が、その変わった世の中に対応できないようになっているかもしれない。
 それらを判断するのは、すべて相手方であって、自分ではない。

 

 そう考えると、「自分を売った」ところで、相手が値をつけてくれなければ何も始まらないということになる。

 

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 しかし、こうも言える。
 「売り込まなくたって、価値があれば、黙っていても人は寄ってくる」

  PRって、そんなもんだ。


 昔、20年近く商品PRの世界にいて感じたことは、価値のないものは、売り手がどんなにキャッチの力やデザインの力でカバーしようとも、結局爆発的なヒットにならないということだった。(そこそこまでは行くけれど

 

 逆に、本体そのものに価値があれば、たとえ凡庸なキャッチや垢抜けないデザインでパッケージされても、それらを破ってオーラが輝き出す。

  

 人間も同じ。
 自分の権威を認めさせようとして、ことさら尊大に振舞ったり、自分に教養のあるところを見せびらかそうとして先端のビジネス用語を並べたって、その人間に本当の「価値(魅力)」がなければ、誰も尊敬しないし、付いていかない。
  
 そういう人に限って、「自分の価値」を自分で決めたがる。
 学歴や家柄にこだわったり、職務上のポストにこだわるような人たちは、たいていそのような人たちだ。

 

 世の中には、そんな人が多い。
 だけど、いかに自分を売り込もうが、その対価を決めるのはいつの場合でも、結局は、自分以外の「他者」なのだ。