アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

占い師の裏話 

 自分は占いを信じるタイプか?
 そう自分自身に問うてみると、若いときは、けっこう占いの結果にこだわる人間だった。

 

 受験の失敗、失恋
 先行きに暗雲が立ち込めてくるようなときは、雑誌の片隅に掲載された星占いの結果ですら、ものすごく重要なメッセージに思っていた。
 そのようなものを意外と信じやすい迷信深い若造だったのだ。

 

 しかし、20代になったばかりの頃か。
 占いというものに対する考え方が変わった。
 占い師の友達ができたからだ。

 

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 まだ、やくざな学生だった時代。
 小雨が宙を舞う東京・吉祥寺の街角で、私は、酔っ払いのオヤジに絡まれた一人の占い師を見つけた。

 

 「バカヤロー! そんなことを聞きたくて金を払ったんじゃねぇや。いい加減なことをホザいていると、てめぇの首根っこをへし折ってやるぞ」

 

 酔っ払いオヤジが、その占い師に向かって吼えている。
 オヤジの罵声を聞き流しているのは、若い男の占い師だった。

 

 ジーンズにTシャツ。
 髪は長髪。
 占い師の格好は、その様子を立ったまま見つめている私とほとんど変わらない。
 年齢的にも似たり寄ったり。

 

 しかし、その若い占い師は、私などが持ち合わせないような豪胆さで、今にも拳を振り上げそうな中年男の罵声をクールな視線で受け止めていた。

 

 「もう一度やり直せってんだよ。このインチキ野郎」
 「何度やっても同じことです。天が一度定めた運命は、私の力でひっくり返すなどできません」

 

 そのやり取りを野次馬していた私は、この占い師を助けてやらねばと思った。

 

 で、占い師とオヤジの間に割って入り、
 「ねぇ、俺の手相を見てよ」
 と、占い師に向かって手のひらを突き出した。

 

 「てめぇ誰だ? このやろー」
 と、しばらくオヤジは騒いでいたが、しょせん酔っ払い。
 いつの間にか、どこかに消えた。

 

 雨のしずくが垂れる髪をかき分けながら、私と占い師は目を合わせた。

 「何が知りたいの?」
 その冷たい目に、ぞっとした。

 

 助けてやったのだから、もう少しフレンドリーな笑顔を見せてくれたってよさそうなのに、彼の眼は、試験管の中で起こる薬物の化学変化を待つように、何の表情も浮かべない。

 

 何が知りたい

 

 私にはその用意がなかったのである。

 

 「 将来」
 かろうじて、その言葉を口にした。

 

 「手を出して」
 無表情に私の手を引き寄せる仕草が、素っ気ないほど事務的だ。

 

 彼は手のひらを10秒ほど見つめてから、目をつぶり、また10秒ほど経って、カッと見開いた。

 

 「あなたは、二つの道で活躍できる人だね」

 

 「どうしてそれが分かる?」

 

 「頭脳線がくっきりと二つに分かれている」

 

 「で、その二つの道とは?」

 

 「それは分からない。ただ、たいていの人間は才能に恵まれたとしても、その才能を一つの分野でしか発揮できないまま一生を終える。でも、あなたは、二つの分野でその才能を使うことができる」

 

 すげぇことを言い出す男だ、と思った。

 「しかし
 と、彼は言葉を継いだ。

 

 「そのことは、あなたを一生苦しめることにもなる。ひとつの道に進んだとき、必ず捨てた方の道に未練が残る。
 その未練にほだされて、捨てたはずの道を模索すると、今度は元の道が恋しくなる。一生その繰り返し。だから、大成するとは限らない」

 

 ふぅん。
 手のひらが汗ばむような緊張を覚えた。

 

 自分の運命というものを、はじめて直視した瞬間だった。
 静かに語る男の背後に、オーラが立ち昇っているように思えた。

 

 
 で、そいつと友だちになったのである。
 そして、飲み屋なんかにも一緒に行くようになった。

 

 「占いって、どうやって勉強するの?」
 「どんなことを尋ねてくる人が多いの?」
 「今まで会った人でさぁ、死相ってのが表れた人いた?」

 

 最初のうち彼は、私の無邪気な質問におごそかなもったいぶった解説を加えていたが、ある日、こんなことを言い出した。

 

 …… 占いを商売にしようと思ったら、占いの勉強だけでは済まないんだよ。人間観察力とか、心理分析の力も当然必要になってくるのね。


 だけど、最後は哲学なの。
 社会がいくら複雑になっても、人間の悩みなんて、ソクラテスプラトンの時代から変わらないんだよ。

 

 シャカ、孔子、キリスト、ソクラテス
 この4人の共通点って知ってる?

 

 彼は、居酒屋のテーブルに空になったお銚子を倒し、こんなことを言い出した。

 

 シャカも、孔子も、キリストも、ソクラテスも、みんなものを書かなかったのね。彼らは本を残さなかったんだよ。

 

 いま残っている教典というのは、全部彼らの弟子たちが編んだものなのね。
 つまり、彼らは弟子たちとのダイアローグ(対話)を深めることで、真理を解き明かしていった人たちなんだよ。

 

 実は、占いも同じなの。

 

 占いってのは相手が黙っていると、実はできないものなんだよ。
 「黙って座ればピタリと当たる」なんてウソ。

 

 一言でもいいから、相手にしゃべらせることが大事なのね。
 で、相手が何を考えているのか探るわけ。
 それを手がかりに、対話(ダイアローグ)を始めるわけね。

 

 そのプロセスで、相手が求めている答が初めて見えてくるわけさ。
 
 その答えは、必ずしも、そのとき相手が望んだものではないかもしれない。
 だけど、もしかしたら、それを機会に相手がまったく新しい考え方を手に入れるかもしれない。
 そのとき、そのお客は哲学したわけさ。

 

 それを聞いて、私は尋ねた。


 「でも、初めて会ったとき、ほとんど対話なんかしなかったじゃない」

 

 「いやぁ、あなたがあの酔っ払いを追い払ったとき、もう対話が始まっていたのさ。 あなたの正義感、あなたの好奇心、あなたの純真さ。それがあの行動だけで分かったもの」

 
 彼の占いで、私ははじめて自分の「運命」と出会ったのだが、今度は、はじめて「哲学」と出会うことになった。

 
 この占い師から、私は二度教えられたことになる。

 

 しかし、それからプツリと、彼は吉祥寺の町から姿を消した。
 友だちだと思っていたのに、ふと考えると、私は、彼の本名も連絡先も知らないことに気がついた。

 

 落ち合う場所は、彼が占いのテーブルを広げていた街角だったから、そこに行けば会えると思っていたのだ。

 

 
 彼の言葉は、いまだに脳裏に深く刻み込まれているが、肝心な占いだけは当たらなかった。

 

 私には、二つの才能を発揮するなどという能力もなく、そのために、その二つの才能の間で悩むなんてこともなかったからである。 

 

 

戦争は平和の使者のような顔して近づいてくる

文芸批評

島尾敏雄『贋(にせ)学生』

 

 いちばん危機が迫った社会というのは、一見、平和な相貌をしている。
 大地は豊かな恵みを人間に与え、物資は潤沢に整い、時間はのんびりと流れ、人々の声は明るい。

 

 ちょうど、太平洋戦争直前の日本がそうだった。

 

 今のわれわれは、あの戦争の悲惨な結末を知っている。
 だから、戦争前夜には、多くの国民が不安な思いに駆られていたと思い込みがちになる。

 

 だが、歴史の素顔を眺めてみると、必ずしもそうではない。
 戦争は、明るく平和な相貌に彩られた社会の中で、ひっそりと身を隠し、ネズミに近づく猫のように、静かに迫っていったのだ。

 


危機こそ「優しい顔」で近づいてくる

 

 島尾敏雄の書いた『贋学生』(講談社文芸文庫)という小説を読んでいて、そういうことがよく理解できた。

 

 この小説が刊行されたのは昭和25年(1950年)。
 私の生まれた年である。
 だから、もう70年ぐらい前の作品ということになるが、私は年を取るまで本作を読んだことがなかった。

 

 どういう小説かというと、著者が昭和11年頃に通っていた長崎高商時代の思い出を描いたもので、前半は、授業をサボって、友人2人と諌早、長崎、島原、雲仙などを旅行したときの思い出が楽しく綴られている。

 

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 主人公の「私」は、友人たちと長崎の海の夕凪を楽しみ、町の食堂でオムレツに舌鼓を打ち、旅館の仲居さんの色っぽい仕草にどぎまぎする。

 

 描かれる情景は、どれも古き良き時代の日本の風情をしっとりとたたえ、出会う人たちはみな人情味に溢れ、主人公たちは、旅の楽しい思い出を次々と蓄積していく。

 


国外退去となった外国人の飼っていた
犬が「野良犬」になっていく哀れさ

 

 しかし、文学者としての島尾敏雄の感性は、そのような平和な日本に、夕暮れの影のように忍び寄る戦争の気配を見逃してはいない。

 

 市民の生き方や思想傾向をチェックする “移動警察(特高)” の刑事が、電車の中で自分たちを見張っていることに気づいたり、戦争の気配を察して退去した外国人が置き去りにした犬が、野良犬として哀れな姿をさらしていることに、やりきれなさを感じたりする。

 

 が、それは、まだ「明確な不安」の形をとっていない。

 

 
遊びの余裕さえ漂わせる軍事訓練

 

 旅行から帰ってきた主人公は、校庭で、三八式歩兵銃を担いで軍事訓練に励むが、それは「気持ちの良い汗をかく戦争ごっこ」でしかない。

 

 軍事訓練が終わると、学生たちは街に出て、映画館や喫茶店に寄り、カフェやおでん屋で雑談にふける。

 

 確実に近づいてくる戦争は、ここでは、夏の終わりに、かすかに漂う秋の気配として感知されるだけなのだ。
 色づいていた秋の木々が、いつの間にか葉を落としていたことに気づいた時の、いわれのない不安。

 

 “近づく戦争” は、そのような微妙な「空気の変化」としてのみ描かれるに過ぎない。

 

 そのような「日常生活の中に見え隠れする不安」は、考えようによっては、学生という中途半端な身分を生きている主人公(「私」)の不安定さから来るものであり、思春期特有の過剰な自意識の産物であるとも取れる。

 

 しかし、実は、この話を小説としてまとめた時の島尾敏雄は、特攻魚雷艇の指揮官として出撃命令を待っていた人間であり、死を覚悟した人間の心の揺れ動きを見つめる体験を持っている。

 

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島尾敏雄が出撃するはずだった特攻魚雷艇の「震洋(しんよう)」。
搭乗員が乗り込んで操縦し、目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。


 だから、彼は、戦争が忍び寄る時代の「危機感」を、いくらでもはっきりした言葉で指摘できたはずなのだ。

 

 しかし、この小説は、そういう言葉では語られなかった。
 そこに、私は逆に、戦争が忍び寄ってくる時代の「空気」というものを教えてもらったように思う。 

 


いやな友人が登場してつきまとう

 

 平和な日常の中に漂う、漠たる不安。
 それを、島尾敏雄は、友人の一人である「木乃(きの)」という学生から受ける 言葉にならない違和感” を通して表現する。

 

 木乃は、知らないうちに主人公に近づいてきた同じ学校の学生である。
 彼は、およそ、「知的なもの」を感じさせない男でありながら、主人公たちが持ち合わせていない「世間知」を身につけた人間である。 

 

 主人公は、木乃を好きになれない。
 本能的に、自分たちとは別人種だと感じる。

 

 この木乃という登場人物のフルネームは、木乃伊之吉(きの・いのきち)である。
 そもそも、この名前自体が不吉だ。

 

 ミイラを漢字で書くと、「木乃伊」となる。
 つまり、作者は、最初から「木乃」という人物を、普通の人間とは異なる存在として描こうとしていたことが分かる。

 

 主人公は、木乃から受けた第一印象は、次のように記す。

 
 「紺のユカタを、歌舞伎の女形のように、胸元まできっちりと合わせ、人間というより、紫のかたまりが、ぼうっと入ってきたようだった」

 

 この表現のなかに、すでに、木乃が普通の人間から逸脱した何かを感じさせる存在であることが伝わってくる。

 

 「いやなヤツだ。この人とはつき合うべきではない」
 主人公の「私」は、そう直感する。

 

 しかし、いつの間にか、私生活のすべてが木乃のペースで進むようになり、彼の巧妙なウソ ということは後で分かるのだが、 そのウソに巻き込まれて、最後は主人公の友人や、実の父親、そして妹まで、奇妙な体験を重ねるようになる。

 

 だが、ウソをつきまくって、周りの人々を狂奔させる木乃の目的が、果たして何であったのか、それは最後まで「謎」のまま残される。

 


「贋学生」は何を意味したのか?

 

 彼は天性の詐欺師であったが、その詐欺行為には “営利” の匂いはまったくないのだ。

 

 この木乃という男が、実は贋(にせ)学生であることが最後に明かされるのだが、そのことによるストーリー的な面白さよりも、むしろ、その木乃の身辺から流れ出てくる存在論的な不安感そのものが、何よりも、ここでは「忍び寄る戦争の影」そのものであることが伝わってくる。 

 

 戦争が近づいてきているというのに、あくまでも平和に見える社会の “言いようのない” グロテスクさ。


 その気持ち悪さを、島尾敏雄は、木乃という贋学生のグロテスクさと重ね合わせている。

 

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▲ダリ(内乱の予感)

 
 もちろん、木乃は、近づく戦争の「寓意」ではない。
 「暗示」でもなければ「比喩」でもない。

 

 しかし、戦争前の日本の空気には、どこか「グロテスクな匂い」があり、それは木乃という男が発散する体臭と同質のものだった、と作者はいいたいのだ。

 

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ベルイマンの『沈黙』の1場面。
平和な町の街路に突如登場して去っていく戦車。

この戦車が何を意味しているのか観客には解らない

 

 今の “平和な時代” に、どのような危機が紛れ込んでいるのか、それは誰にも分からない。

 

 しかし、これだけ「平和」なのに、誰もがそれに安住せず、常に漠たる不安を感じて生きているということは、なんらかのカタストロフ(悲劇的な結末)が迫っていることを示唆しているのではないか。

 

 島尾敏雄の『贋学生』をのどかなカフェに座って読みながら、ふと青空を見たりしたときに、そんなことを考える。

 


参考記事
戦争を体験した作家たちの小説 (

campingcarboy.hatenablog.com

 

 

井上陽水の天才性を証明した『傘がない』

 「天才」とは、自分の凄さみたいなものは確信しているけれど、「どう凄いのか」ということを自分で説明できない人のことをいう。

 

 そういう意味で、井上陽水というミュージシャンは、天才ではないのか。
 この土曜日、NHKの歌番組『SONGS「井上陽水」』の2回目を見ていて、そう思った。

 

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 私はあまり井上陽水の良きファンではなかったため、彼をめぐる言説空間で、彼が一般的にどういう評価を下されているのか、また彼自身が、自分をどのように語るのかを聞いたことがなかった。

 

 そういった意味で、『SONGS』のインタビューにはとても興味を持った。

 

 だが、話を聞いた第一印象は、なんと平凡なことしかしゃべらない人間なのだろう というものだった。

 

 謎めいた歌詞が散りばめられたシュールな歌が多いので、さぞや特異な芸術家意識をふんだんに振りまくエキセントリックな人間なのだろうと予測していたのだが、まぁ、お茶目で、少しシャイな  “普通のおっちゃん” 。

 

 ツアー途中のリハーサル室で、インタビューを受ける彼のトークを聞いているかぎり、作詞の世界から感じられる「ミステリアスなアーチスト」という雰囲気はまったくなかった。

 

 むしろ、彼自身が、“斜に構えたアーチスト” っぽいミュージシャンに対して恥ずかしいものを感じるという感覚を持っていることがうかがえた。


 しかし、私は、今でも彼のデビュー作ともいえる『傘がない』(1972年)をラジオで聞いたときの、突然、背中に氷を押し付けられたような冷気を忘れることをできない。

 

 それは決して心地よいものでなかった。

 

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 ♪ 都会では、自殺する若者が増えている、と新聞の報道は伝える。

  というのが、その歌い出しの部分。
 
 しかし、それよりも問題は、傘がないことだ。
  と歌詞は続く。

 歌に唄われる主人公は、そのことを、ひたむきに嘆く。
 
 これから君に会いに行かなければならないのに、外は雨。
 なのに、「傘がない」 。
 自殺する若者が増えているなんてことは、どうでもいい。
 「問題は、傘がない」

 

 この訴えは、たぶんその当時これをリアルタイムで聞いた人間をみな凍らせたことだろう。

 

 1972年。
 学生運動が急速に終焉に向かっていた季節であったから、この歌を、政治闘争に敗れた若者の「うつろな心情」を表現したものであると解釈する人が多かった。
 
 誰だったか、後に、この歌のことを「社会的な問題に背を向けるミーイズム(自分中心主義)世代の登場」をテーマにした曲だと言った人がいたくらいだった。

 

 しかし、陽水は、
 「別にそんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで
 と(いう感じで)淡々と話す。

 

 そして、この歌をつくった23歳の頃と、70歳になった今では、歌に対する思いが少しずつ変わっているともいった。

 

 「それはどういう違いですか?」
 と、インタビュアーが突っ込む。

 

 彼の答は、こうだ。

 「傘がない、というときの “ない” という意味が、ほんとうに “ない” ということなんですよ。
 単に、物質的な意味での傘がない “ない” ということ以上に、 “ない” という意味が広がって感じられるんですよね」

 

 なんのことか、よく分からない。


 彼も苦笑いを浮かべて、
 「うまくいえないなぁ
 と頭をかく。

 

 そして、最後は、
 「やっぱり、説明能力不足ですね。とにかく歌を聞いてください」
 とトークを打ち切った。

 

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 このおしゃべりを聞いていて、思った。 

 

 彼が自作をうまく解説できないということは、そこにこそ、彼の天才性があるのではないか。

 

 「評論家」なら、その歌のモチーフからその社会的意義まで、うまい言葉ですべて説明するかもしれない。

 

 でも、井上陽水はそれができなかった。
 つまり、彼は直感でこの詞を選び取ったわけだ。

 

 直感で拾われた言葉にすぎないのに、この詞は彼の想いを超えて、なにがしかのメッセージを含んでしまった。

 

 生み出されたものが、作者の計算以上の世界を図らずも創ってしまう。
 それは、天才以外にはできないことなのだ。
 
 つまり、天才は、受け手に過剰な読み込みを行わせてしまう「何か」を持っているということに他ならない。たとえ、本人が意図しなくても。
 
 私は、いまだにこの『傘がない』という歌が自分の胸に突きつけてくるものの正体がつかめずにいる。
 
 最初に聞いたとき、どこかホッとするような解放感と、これじゃいけないんだという焦燥感と、取り返しのつかないものを失ってしまったという喪失感と様々な方向に自分の感情が分裂してしまったことを思い出す。

 

 そして、その「分裂の感覚」は、今もなお胸にうずいている。

 

 一つだけいえることは、
 「自殺する若者が増えている」という社会現象や、
 「テレビで、我が国の将来を誰かが深刻な顔でしゃべっている」という政治番組よりも、この歌の主人公は、もっともっと切ない問題を抱えてしまったということだ。
 
 たぶん、その切なさの意味を探り当てる言葉が、その時代にはなかったのだ。
 だから、この歌は新しかったのだ。

 

 そして、この詞は、新しい意味を含んだまま、今もその新しさの内容を説明していない。

 

 だから、すべてが、あいかわらず「謎」。

 

 時代を超える歌というのは、そんなものだ。

 
 好きな歌ではないけれどね。  
 でも、忘れられない歌なのだ。

  

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人類最後の日を人々は何をして過ごすのか?

映画批評
『On the beach 渚にて

    
 原発事故による「放射能汚染」の話題が出るたびに、思い出す映画がある。
 アメリカ映画の『渚にて』( On the beach )だ。


 1959年にスタンリー・クレイマー監督が撮った(当時の)近未来SF映画で、まさに地球規模の “放射能汚染” がテーマになっている。

   

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 1964年に勃発した( ことになっている)「第三次世界大戦」の核被害によって、北半球の人類は滅亡。

 
 南半球は、直接の被爆をまぬがれたが、死の灰が南半球まで及んでくるのは時間の問題という、せっぱ詰まった状況に置かれたオーストラリアが、この映画の舞台となる。

 

 核爆発の時に、たまたま深海に潜っていたアメリカ海軍の潜水艦が1隻だけ助かり、死の灰を逃れて、オーストラリアの軍港にたどり着く。

 

 ストーリーは、その潜水艦の艦長であるグレゴリー・ペックと、彼がパーティで知り合った地元のオールドミス(エバ・ガードナー)との淡くて短い恋愛を軸に、“ゆるやか” に展開する。

 
 それに絡んで、オーストラリア海軍の若い将校夫婦や、核開発にも関わったことのある科学者たちのサブストーリーが散りばめられていく。

 

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 もともとは、ネビル・シュートの小説を映画化したもので、分類でいうと、核戦争後の地球を描いたSFものということになるのだが、地球滅亡ものでおなじみの、大げさなパニックシーンを見せる映画ではない。

 

 むしろ、地味だ。
 だから、核戦争の非情さが、逆に浮かび上がってくる。
 このあたりは、原作の静謐なタッチを、映画もよく踏襲している。

 
  
 北半球を覆った “死の灰” は、南半球までは来ないだろう、と最初のうちは、オーストラリアの科学者たちは予測した。

 

 しかし、そういうオーストラリアの科学者たちが立てる希望的観測は、ひとつひとつ打ち砕かれていく。

  

 迫り来る核汚染を防ぐ手立てがすべて失われてしまったことに、オーストラリアの人々も気づき始めた頃には、残された刻限はあと5ヶ月と迫っていた。

 

 身近に迫る死の恐怖に、自暴自棄になる人々も出てくる。
 しかし、一方で、残された最後の時間を、せいっぱい “人間らしく生きよう” と決意し直す人もいる。

 

 世界の滅亡が秒読みになったとき、人々は無秩序な暴徒と化するのか、それとも、生きている限りは人間の尊厳を保ち、秩序正しい社会を維持しようとするのか。
 この映画は、人類が直面する究極の問いかけを投げかけているようにも思える。

 

 画面では、死を覚悟したオーストラリア国民が、パニックに陥ることなく、休日には渓谷のマス釣りを楽しみ、海岸で海水浴をして、自動車レースを楽しもうとする情景が描かれる。

 

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 人々が人生最後のバカンスを楽しもうとするときに流れるのが、オーストラリアの国民歌謡「ワルチング・マチルダ」である。
 
Waltzing Matilda

youtu.be

 

 草原のキャンプ場で、海水浴場で、そして、親しい家族が集まるホームパーティーで、オーストラリアの人々はみんなで、この歌を合唱する。

 

 映画を見ている観客も、心のなかでこのメロディーの合唱に加わる。

 

 フォークダンスの伴奏曲のような明るく陽気な曲で、これが人々の野外パーティーの合唱歌として使われたりすると、この映画のテーマが悲惨な最終戦争ものであることを忘れさせる。

 

 しかし、その陽気なメロディが、途中から涙が出そうなくらい悲しく響いてくる。
 同じ曲でも、それを歌なしで演奏すると、今度はレクイエムの響きを持つのだ。

 

 そうなると、観客が見つめるオーストラリアの風景そのものが不思議な光彩を帯びて来る。

 

 豊かな緑に囲まれた牧場。
 帆に風をはらんで海原を駆けるヨット。
 家族や仲間で楽しむ川原のバーベキュー。

 

 観客は、それらの美しい風景を、いつしか末期の目を通して眺めていることに気づく。
 そこには、この風景を写し取った監督やカメラマンの心情が反映されているからだ。

 

 単に、「美しい風景」や「優しい風景」というのであれば、撮影機器や画像処理のテクニックが進歩した現代映画の方が、優れた風景を再現できるはずだ。


 ただ、そこに「かけがえのない 」という哀切感を盛り込むことができるかどうか。

 

 平和な日常生活がいかに貴重であるかを訴える映像は、CGのテクニックをいかに研ぎ澄ましたところで、実現できるものではない。

 
 それは、「ありふれた生活」を一瞬のうちに崩壊させてしまう、戦争のむごたらしさを経験した人間の視線からしか生まれてこない。

 

 1950年代は、まだ第二次大戦の惨禍が、人々の胸に強烈な印象として残っていた時代だったのだ。

 
 逆にいえば、戦争がもたらした悲しみと苦しみをリアルな体験として持っていた人たちがいたからこそ、作れた映画だった。

 

 ラストシーンでは、再びアメリカ兵たちが潜水艦に乗り込み、故郷のアメリカ大陸に帰るところが描かれる。

 

 すでに、北半球に「アメリカ」という国はない。
 あるのは、高層ビルが墓石のように取り残された、無人の大地でしかない。
 それでも、彼らは、「どうせ死ぬなら、最後は故郷で眠りたい」と、人影の絶えた北米大陸に戻っていく。

 

 オーストラリアの港を発ったアメリカの潜水艦は、そのレクイエムに送られて、深海へと潜航を開始する。

 去り行く潜水艦を見送るエバ・ガードナーの後ろ姿が切ない。

 

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 静かな終わり方に、反戦への祈りと、戦争によって失われたあらゆるものへの追悼が込められている。

 

Great Scenes: Waltzing Matilda Finale

(しんみりと聞こえるもう一つのWaltzing Matilda  ↓)

youtu.be

 

 

「平成」は現代の「平安時代」だった?

 平和ながらも、人々の不安が増大した時代。
 「平安」も「平成」も、そんな印象が強い時代であったように思う。

 

 ただ、794年に始まる「平安時代」といわれる歴史区分のなかに、「平安」という元号があったわけではない。

 
 平安時代というのは、「延歴」から「文治」まで約90の元号が続いた時代の総称で、そのなかに「平安」という元号はない。

 

 しかし、人々の精神状態や文化状況を考えると、「平安時代」と「平成時代」はかなり似ているところがある。


▼ 優雅な貴族文化が栄えた「平安時代

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対外戦争がなかった時代

 

 ひとつは、平成天皇がおっしゃったように、ともに「戦争のない時代」として、国民の記憶に残る時代になったということだ。

 

 日本の近代史では、「明治」も「昭和」も大きな対外戦争に直面した。
 比較的平和だったといわれる「大正」時代も、(局地的な参戦であったが)日本は第一次大戦に関わっている。

 

 しかし、「平成」という時代は、対外戦争のない時代のまま終わろうとしている。

 
 そういった意味で、「平成」は、どこの国とも戦争することなく、390年の平和を維持した「平安時代」の短縮版だといえないこともない。

 

 だが、「戦争がない時代」が、必ずしも健全で安定した時代であったかどうかというのは、また別の話である。

 

 平安時代を振り返ってみると、400年近く大きな戦争こそなかったものの、その時代を生きた人たちの精神状況が安定していたとはいえない。

 

 
平安時代には「怨霊」と「鬼」が実在していた

 

 「平安時代」という言葉から、われわれは優雅な貴族文化が繁栄した時代だというイメージを思い浮かべがちである。

 
 しかし、庶民生活においては、飢饉や疫病への不安が増大し、世情の混乱を背景に、怨霊と鬼が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した時代でもあった。


黒澤明の映画に出て来る荒れ果てた羅生門(1950年)

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 すでによく知られたことだが、平安時代というのは、時の実力者であった菅原道真遣唐使を廃止したことなどもあって、国風文化が栄えた。


遣唐使

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 合理的な思考を重んじる中国風文化が薄められていった結果、平安時代は日本古来の土俗的な精神文化が復活するようになった。

 

 たとえば「鬼」というのは、中国では「死者の霊魂」を指す概念であったが、日本では、古来の土俗信仰などと融合し、「人を食う異形の怪物」というイメージで語られるようになっていく。

 

 人々の心の中に、「鬼」や「怨霊」が実在した時代。
 私は、平安時代という時代をそう理解している。

 

 だから、天皇をはじめとする都の貴族たちは、人間に災いをもたらす「鬼」や「怨霊」を恐怖し、貴族たちの政治行動の大半は、それに対処する加持祈祷(かじきとう)に費やされたといっても過言ではなかった。

 

▼ 映画『陰陽師2』(2003年)に登場した鬼

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「生霊」というのは幽霊か? 人間か?

 

 このように「鬼」や「怨霊」の祟りが日常化していく背景には、疫病、地震、落雷、干ばつといった自然現象があったが、社会生活上の混乱が続くと、人間はどうしても疑心暗鬼になってしまい、次第にオカルト的な考えを引き寄せがちになる。

 

▼ 映画『陰陽師』に登場した生霊

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 日本に「生霊」という思想が誕生したのも平安時代だった。
 紫式部は、『源氏物語』のなかで、人が生きたまま「怨霊」になるというアイデア六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)という人物に仮託して、日本ではじめて創造する。

 

六条御息所は能の世界ではしばしば「般若」の面で表現される 

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 それがきっかけとなり、生きた人間ですら、「あの世の闇」を抱えた存在であるという認識が日本人に広まるようになった。

 

 これをもって、「ホラーの誕生」といっていいかもしれない。

 

 死者が祟るのが「怪談」であったとすれば、「ホラー」は、死者の祟りすら超える恐怖をもたらす “生きた人間”  がこの世に現われる物語だといえる。

 

 
平成もまたオカルト的な空気とともに始まった


 「平成」もまた、「人間が生きたまま化け物になっていく」という社会不安とともにスタートした。

 

 1988年(昭和63年)、宮崎勤という “オタク趣味” を持っていたとされる若者が幼女の連続殺人事件を起こす。

 

 1989年(平成元年)、宮崎は、逮捕後の公判で犯行を認めながらも、その動機を「夢の中でやった」「ネズミ人間が現れて指示した」などと、錯乱した供述を続け、精神鑑定を受ける。

 

 しかし、鑑定の結果もあいまいなままに終わり、けっきょく、その供述が真実なのか虚偽なのか分からないまま、彼は死刑判決を受ける。

 

 犯罪心理の専門家は、これを「昭和」と「平成」を分ける象徴的な事件だったという。

 

 つまり、昭和的な犯行が、「物取り」や「怨恨」といった動機のはっきりしたものであったのに比べ、平成の犯行は、容疑者本人ですら、自分自身の心の<闇>を解き明かせないようなものに変わっていった。

 

 
国際社会から孤立すると人の心は内向きになる

 

 そこには、時代の閉鎖感も関わってくる。
 平安と平成の精神文化を並べてみると、ともに対外的な開放感を失い、人心が内向きになっていく時代であったことが分かる。

 

 平安時代が、当時の世界帝国であった中国(唐)の文化の影響を脱して国風文化になじみ始めた時代だったとするならば、「平成」もまた、国際社会から孤立した社会に向かい始めた時代だった。


 「平成はグローバル化時代の幕開けであった」という説もあるが、逆である。
 平成は、世界のグローバル化から取り残された時代の始まりだったのだ。 

 

 昭和の時代には、あれほど国際競争力を誇った日本企業は、平成になると、のきみな地盤沈下を起こすようになる。

 

 平成3年(1991年)から平成4年にかけて、世界的なブランド力を誇った日本企業の大型倒産が相次ぎ、どこの会社でも「リストラ」「事業所閉鎖」「希望退職」などという言葉が飛び交うようになった。

 

 その理由は、この時代、ソ連共産党が解体されて東西冷戦が終結し、地球全体がすべて資本主義国となったためである。

 

 日本企業は、東西冷戦を前提とした組織作りで勝ち抜いてきたため、このような、“世界同時資本主義” というメガコンペティションが吹き荒れる状況に乗り遅れてしまったのだ。

 


天変地異が次々と日本列島を襲う

 

 さらに、平成になって、天変地異が重なる。
 平成5年(1993年)には記録的冷夏。
 翌6年には、記録的猛暑。
 自然の猛威が、人間生活を脅かすような出来事が次々と日本列島を襲うようになる。

 

 決定的な悲劇が起こったのは平成7年(1995年)。
 その年の1月に、「阪神淡路大震災」が関西を襲った。

 

 これによって、神戸を中心とした関西経済圏は消滅。
 鉄壁の信頼性を寄せられていた都市のインフラも壊滅状態になり、日本の安全神話が崩れた。

 


オウム真理教酒鬼薔薇聖斗事件

 

 世の中が不安定になるときには、人々の精神面も恐怖と不安に満たされる。
 それを象徴するのが、同じ平成7年(1995年)に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件だった。

 
 さらに、警察庁長官の狙撃事件が続いて起こる。
 (この犯人はいまだに特定できていない)

 

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 政情が不安定になってくると、人々は政治にも、お笑い的な “明るさ” を求めるようになり、 平成7年の知事選では、大阪府知事にお笑いタレントの横山ノック氏が当選。
 
 一方の東京都知事には、お笑い作家の青島幸男氏が選出され、いっときの話題性を集めたものの、ともに議会に混乱をもたらせただけで姿を消していく。

 

 都市整備も、犯罪捜査も、政治家も、すべて不透明な霧に包まれはじめ、日本はだんだん、魔界の怨霊たちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代に近づいていく。
  
 それを象徴するような事件が、平成9年(1997年)に起こる。
 神戸連続児童殺害事件である。

 

 これは、犯人が「酒鬼薔薇聖斗(さかきばら・せいと)」と名乗る犯行声明文を地元新聞社に送ったため、“酒鬼薔薇事件” とも呼ばれた。 

 

 この事件は、通り魔に襲われて死亡した複数の小学生のうちの一人の頭部が切断されて、地元小学校の校門に置かれるという、きわめて猟奇性の強い事件として、世間を震撼させた。

 


不安を煽る風聞が続出

 

 犯人が逮捕されるまで、様々な目撃情報がマスコミをにぎわせた。
 ・ 重そうなビニール袋を提げた怪しい浮浪者が小学校の前を歩いていた。
 ・ 事件当日、不審な白い乗用車が小学校の前に停まっていた。

 

 このような目撃情報の広まり方は、まさに『今昔物語』(平安末期)などに書き記されている、
 ・ 比叡山の八瀬の村に、鬼が出没した。
 ・ 羅城門で鬼が琵琶を弾いていた。
 ・ 紫宸殿の上空に、恐ろしい声で鳴く怪鳥が現れた。
  という平安時代の説話をそのまま現代によみがえらせたような感じであった。

 

百鬼夜行

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 しかし、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る容疑者が捕まってみると、それが普通の中学生であったことが、世間をさらに驚かせた。

 

 事件後に押収された少年の日記には、殺した犠牲者を「バモイドオキ」という架空の神に捧げるなどという記述も見られ、この少年の殺人動機を外部から読み取ることは不可能だとされた。

 


ミステリーよりホラーが読まれる時代の到来

 

 高橋敏夫氏が書いた「ホラー小説でめぐる『現代文学論』」という本(宝島社新書 2007年)によると、「ホラー的なものが文学において突出してきたのは1995年(平成7年)以降」だという。

 

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 高橋氏はいう。
 「1989年(平成元年)に起きた宮崎勤事件から、何かが変わった。
 従来は犯人逮捕によって事件は解決され、終わりがやってきたにもかかわらず、宮崎勤事件は、むしろ犯人逮捕によって事件が始まり、さらに終わりも解決も見えないように感じられた。
 それは『解決可能性』というものが消滅した時代の始まりを意味した」

 

 それまで、娯楽小説の王道は「ミステリー(推理小説)」だった。

 
 ミステリーにおいては、どんな複雑な事件も必ず解決され、真犯人が特定されるとともに、物語も終結した。

 

 しかし、ホラーには終わりがない。
 そもそも、ホラーは、合理的な解決を拒むことで、物語たりえるからだ。

 

 このように、「平成」という時代は、娯楽小説の主役がミステリーからホラーに変わった時代でもあった。

 

 平成5年(1993年)からスタートした「日本ホラー小説大賞」(角川書店とフジテレビ)では、ホラー作家として脚光を浴びることになる貴志祐介がカルトホラーの『ISORA』で登場する
 
 『リング』(平成3年 1991年)で人気の出た鈴木光司が続編の『らせん』でベストセラー作家になったのは、平成7年(1995年)。
 平成11年(1999年)には、岩井志麻子が『ぼっけぇ、きょうてぇ』でデビューする。


▼ 『ぼっけぇ、きょうてえ』(角川文庫)の表紙

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ヒューマニズム」という昭和的思想の後退

 

 これらの物語に登場する “魔物” は、幽霊とも、精神疾患者とも、宇宙人とも、超能力者とも断定することができない。
 ただ単に、この世の規範を超えた “異形の者たち” として登場するだけである。

 

 その正体が最後まで分からないというところが、いかにも「平成的」であった。
  
 昭和という時代は、戦争への批判や反省から、戦争への対抗軸として「人間」とか「ヒューマニズム」という概念が大事にされた時代であった。
 
 そういう思想が風化した頃に、ちょうど平成が始まった。

 

 昭和までの怪奇小説では、その “主役” は幽霊だった。
 幽霊は、実体的には捕縛できなくても、存在意義は明確であった。
 彼らの目的は、「怨恨」か「復讐」だったからだ。
 
 しかし、平成のホラーで主役を張るのは、もう幽霊ではない。
 つまり、その出自が「人間」であったのかどうかも不明のものたちが、幽霊に代わって “主役” を張るようになったのだ。

 

 そこに、昭和的な「人間」あるいは「ヒューマニズム」という価値観が後退したことを読み採ることも可能だろう。

 


ノストラダムスの予言』の影響

 

 このような “ホラー的空気” が支配的になった背景のひとつに、『ノストラダムスの予言』(五島勉・著 祥伝社)という書籍の影響があったことも加えておきたい。

 

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 この本が最初に発行されたのは1973年であったが、「1999年の7月に空から恐怖の大魔王が降臨し、人類が滅亡する」という予言のインパクトさゆえに、平成10年(1998年)まで全10冊のシリーズが続いた。

 

 けっきょく、1998年に “人類の滅亡” は起こらなかったが、この予言がもたらした終末論的空気は、平成人の心をどこかで支配し、時代のオカルト気分を助長させた。
  
 実際に、オウム真理教麻原彰晃などは、この『ノストラダムスの予言』を自分たちの教義に取り込んで、独自の終末論を展開していた。
 
 先に紹介した作家の高橋敏夫氏は、
 「このようなホラー的環境が整ってきた背景には、日本経済の沈没ががあり、そのため、毎日どこかで電車の前に身を躍らせるリストラ男の血みどろの惨劇があった。
 そして、崩壊してしまった学級へゾンビのように通う子供たちの姿があった」
 と書く。

 

 平成11年(1999年)に高見広春が書いた『バトルロワイヤル』は、中学生たちが閉じこめられた小さな空間で殺し合いを強いられる物語だったが、そのような学級崩壊は、昭和から平成にかけて顕著になり、今はだいぶ沈静化してきたとはいえ、いまだに「いじめ」という形で各学校に痕跡をとどめている。

 

 
ネットの普及が平安時代の精神文化を再現

 

 「平成」という時代のオカルト的、 というか、ホラー的な空気が生まれてきた背景として見逃せないのはネット文化の普及である。

 

 そもそも「携帯電話」の登場そのものが、日本古来の “霊聴現象” を意味する。

 

 つまり、携帯を持参するというのは、どんな場所においても、肉体の耳(聴覚器官)では聞くことができない “声” や “音” などを認識する現象であり、昔ならば、憑依状態に陥っている人間でしか体験できないようなものだった。

 

 さらにネット文化の普及で、顔も氏素性も分からない人間同士が、SNS、メール、ブログなどを通じて、日常的に交信することが可能になった。
 
 このような、リアルコミュニケーションからはみ出した交信は、昔だったら “霊界” との接触を意味していた。

 

 すなわち、現代人は、科学やテクノロジーという言葉で自分を納得させつつも、もののけが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代の闇世界を再び生き始めたのだ。
 
 この不可思議さに、現代人は誰も気づいていない。 

 

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平成の中盤から時代の空気が変わる
 
 ただ、いままで述べてきたようなことは、平成のスタートから中盤にかけて生じたもので、平成も終わりを迎えた昨今はこのような “暗さ” からだいぶ解放されてきた。
  
 「失われた20年」という言葉がささやかれるようになった平成20年代(2010年代)以降、次第に世の中の “オカルト的空気” は薄らいでいった。

 

 おそらくそれは、平成の中頃から、すでに新しい時代がスタートしていたからである。
 つまり、平成20年以降、ようやく日本経済が回復期に入ったのだ。

 

 
「令和」への明るい橋渡しに期待

 

 経済の専門家にいわせると、
 「これまで企業は、リストラやコストカットによって収益を確保し、先行きが不透明なため、内部留保金を貯め込んできたが、業績が上向いてきたことを実感する企業が増えてきたため、今後は従業員が働いて稼いだカネを従業員に還元していく企業が増えていく可能性がある」
 とか。

 

 もし、労働者の賃金が上昇すれば、消費が回復し、企業の業績がさらに伸びることも予想される。

 

 なによりも心強いのは、インフラ整備に対する事業計画がそうとう進んでいること。

 

 リニア中央新幹線の開業予定は’27年。
 首都高速の大規模改修も、’20年に羽田線の上りが完了したあと、’28年まで継続して整備が進む。

 

 そうなると、オリンピックが終わった後でも、10年以上にわたる莫大な経済波及効果が見込まれるというのだ。

 

 経済が豊かになれば、人々の心にも合理的な思考が育っていく。

 

 そう考えれば、「平成」という時代は、戦後の経済復興を遂げた「昭和」が、その壮大なジャンプからいったん着地し、次の「令和」へのジャンプに備えて、膝を屈めた “準備の時代” だったといえなくもない。

  

 

まっすぐな道はさびしい

 俳句とか短歌が持っているなんともいえない情感が好きである。
 病院などに入院して、退屈な午後をやり過ごしているとき、デイルームなどで拾った週刊誌などを開いていると、必ず短歌や俳句のページに目が行く。

 

 病院という閉鎖空間に閉じ込められていると、週刊誌の時事ネタやスキャンダルネタに目を通すよりも、短歌や俳句のページを開いている方が、心が “旅する” ような気持ちになるからだ。

 

 昔、入院中に、『サンデー毎日』(2016年10/30号)の “サンデー俳句王(はいきんぐ)” というページで、次のような句を拾った。

 

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ

 

 作者は高野素十(たかの・すじゅう)。

 

 俳句という文芸にうとい私にとってはじめて聞いた作者だったが、この句を選んだ石寒太(いし・かんた)氏の解説によると、高野素十は、1895年に生まれて1976年に亡くなった茨城生まれの歌人だとか。

 

 たぶん『サンデー毎日』を読まないかぎり、一生知ることのなかった作家であったかもしれない。

 

 この句のインパクトは何か?
 それは、100%情景しか詠(うた)っていないことの鮮烈さである。
 
 描写されているのは、「まっすぐな道」と「秋の暮れ」の二つだけ。
 それを見て、「面白い」とか「さびしい」とか「悲しい」とか「切ない」などという作者の詠嘆は一言も詠われていない。

 

 なのに、この句が孕んでいるとてつもない “さみしさ” は、いったいどこから来るのだろうか?


 これを病院のデイルームで読んだとき、鳥肌が立つような切なさに襲われた。

 

 目に浮かんでくるのである。
 晩秋の弱々しい陽射しに照らされた、何の変哲もない直線路の寂寥感が。
  
 とにかく、構成がうまい。

 

 最初の「まっすぐな道」という一言では、まだ何も語られていない。
 しかし、それに続く「に出(い)でけり = に出てしまった」という言葉で、にわかに読者の心にさざ波が立つ。

 

 おそらく、この句の読み手(主人公)である人間は、それまで、うねうねと曲がった見通しの悪い田舎道でも歩いてきたのだろう。
 
 ところが、突然視界が開け、そこに見通しの良いまっすぐな道が現われた。
 それは読み手に、なにがしかの驚きをもたらした。

 

 その驚きとは、“見通しが良いのに誰もない” という「さびしさの発見」がもたらすものである。

 

 「誰もいない」ということが、どうして分かるのか?

 

 もし、直線路に人がいたり、牛がいたりすれば、「道」ではなく、見たものが語られるはずだからだ。

 

 この “不在感” が、この句の最大のポイントである。

 

 「出でけり」 = 「出しまった」という途方に暮れた感じの言葉づかいが、詠み手の “心細さ” のようなものを表現してあまりある。

 

 そして、ひっそりとした直線路が、“弱々しい秋の陽光に照らされている” という終句で飾られることによって、寂寞たるさしびさが完成する。

 
 「まっすぐな道」はなぜさみしいのか?

 

 それは、見通しが良いのにもかかわらず、目が何も捉えることができないからだ。

 

 「見えるはずだったのに、何もなかった」
 人間の感じる “挫折” というものを一言で言い表せば、そういう言葉になろう。
 「視界が良い」ということは、「さびしい」ということでもあるのだ。

 

 この “一本道のさびしさ” は、また多くの画家が好んで取り上げる画材の一つでもある。

 
 たとえばエドワード・ホッパー(1882~1967年 アメリカ)の描く道。

 

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 上のような絵とからめて、再び前の句を読んでみると、また新しい感慨も湧いてくる。

 

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ
 
 絵画などを眺めながらこの句を噛みしめてみると、見通しの良い直線路こそ、むしろ「迷宮の入り口」ではないかという気分になってくる。

 

 この句を取り上げた石寒太氏は、同じテーマを追求した句として、次の二句も挙げている。

 

 この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉

 

 まっすぐな道でさみしい (山頭火
 
 ともに、秋の寂寥感(せきりょうかん)のようなものが色濃く立ち込めて来る句である。
   

 

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リキテンシュタイン『ヘアリボンの少女』

絵画批評
アメリカンコミックを “芸術” にした男

 

 
 「ポップアート」というと、誰でもアンディー・ウォーホールの名前を思い浮かべる。
 しかし、もう一人忘れてならないアーティストがいる。
 ロイ・リキテンシュタインだ。
 彼の制作した『ヘアリボンの少女』こそ、まぎれもなくポップアートのなかの “ポップアート” である。
 

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 「ただのアメコミじゃない !?」
 見た人は誰でもそう思う。
 
 現に、この絵がポップアートとして登場した1960年代。アメリカの美術関係者の多くは、「低俗なアメリカン・コミックを模写しただけ」と批判し、この絵が美術品の仲間入りをすることを嫌悪したという。


 しかし、結果的に、この絵がアメリカ絵画の歴史を変えた。
 
 1960年代、アメリカではアブストラクト・アート(抽象画)の全盛期だった。
 写実的なうまさを競い合う古典絵画の決まりごとを「呪縛」と感じていた若いアメリカの画家たちは、抽象画の世界こそ、「創造者の自由な魂の発露」だと主張し、奔放な線と色だけで構成される絵画制作に励んでいた。
 
 当然、鑑賞者には、何が描かれているのかさっぱり分からない。
 
 人々は、次第に現代美術に興味を失い、美術館からも遠ざかっていく。
 それにもかかわらず、アメリカのコンテンポラリーアートの描き手たちは、大衆との隔離こそ、むしろ「孤高の芸術家」の証(あかし)と読み違え、ますます独りよがりの芸術に邁進。 


 そのような作品を「価値」と認める少数の美術関係者たちだけが、自分たちのステータスを満足させるために、画家たちをサポートしていた。
 
 で、ロイ・リキテンシュタインである。 
 彼もまた、最初は流行のアブストラクトに専念していた。
 
 しかし、一向に芽が出ない。
 
 ある日、彼の子どもが言う。
 「パパは絵描きなのに、なぜそんなに絵が下手なの?」
 
 これに参ったロイ。
 「じゃ、絵がうまいところを見せてやろう」
 
 ということで、子どもに対して、流行のコミックをたくさん模写してやったのだそうだ。
 
 「あ、パパ絵が上手じゃない!」
 子どもは大はしゃぎ。
 
 「じゃ、次はスーパーマンな」
  ってな感じで、子どもを喜ばせるコミックヒーローを次々と描いているうちに、ふと気づく。
 
 「もしかしたら、絵画ってのは、これが本物じゃなかろうか
 
 そこで、彼はアメコミを題材にした新しい作風にチャレンジすることになるのだが、彼が目指したのは、コミックそのものを描くことではなく、安いペーパーに印刷されて流通する「大量消費財」としてのコミックをコピーすることだった。
 
 だから、彼の描くコミックは、原画ではなく、印刷された状態であることを示すドット(点描)によって埋め尽くされることになる。 
 つまり、わざと印刷物を拡大した時のような、機械的で無機質的な雰囲気をキャンバスにていねいに描き込んだのだ。

 

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 彼は何をしたかったのか。
 
 従来の絵画は、一部のスノッブなお金持ちのステータスを満足させる商品として、一点モノの贅沢品でなければならなかったが、ロイ・リキテンシュタインは、大量生産品の下世話なコミックをそれらと同列に扱うことで、既成の画壇に風穴を開けようとしたわけだ。
 
 それは、「オリジナリティこそ芸術家であることを証明する」という、それまでの画家たちが持っていた自意識の拡大願望に対する挑戦状でもあった。
 
 しかし、ロイの面白いところは、そのような姿勢が、同時に絵画に対して関心を失った大衆に対する挑発にもなっていたことだ。
 彼は、彼なりに「絵画って面白いよ」というメッセージを大衆に発信したのである。
 彼の子どもが、現代コミックを模写した彼の “落書き” に興奮した事実を知っていたからだ。
 
 こうして、ロイ・リキテンシュタインやアンディー・ウォーホールらの作品をまとめて公開した「ポップアート展」は、今まで絵画に無関心だった一般大衆の注目を大いに集め、興行的にも大成功を収めた。

 

▼ アンディー・ウォーホールの作品

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 ロイはこう言いたかったらしい。
 「皆さんがあまり注目することのなかったモンドリアンたちの抽象画は、実は私の作品と同じなのです。色の配合や線の軌跡はまったく変らない。ただ片方は、描いたものが何ものにも似ていなかっただけ。私の作品は、たまたまコミックに似ていただけ」
 
  ってなことを、本人が言いたかったのかどうか、そこはよく分からないけれど、私流の言葉に直すと、そういうことになる。

 

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モンドリアンの 「赤、黄、青、黒のコンポジション」 ロイ・リキテンシュタインは、この絵と同じ色使いで、「ヘアリボンの少女」 を描いた
 
 ロイは、「芸術を創ったり鑑賞したりできるのは、庶民とは “人種 ”の異なる天才だ」という従来の先入観をぶっ壊し、「芸術を解き明かすことは、どんな人間にとっても平等にスリリングだ」ということを訴えたかったのだろう。
 
 ね、絵画って面白いでしょ?
 絵画を観ることは、推理小説の謎解きを楽しむのと同じようなものである。
  と、思う。

 
 

速報 地球外生命体がついにフロリダ沖に飛来

 アメリカの航空宇宙局(NASA)の発表によると、昨日の未明、フロリダ沖に謎の飛行物体が墜落し、その中から地球外生命体らしき存在を確認して保護していたことが判明した。
 
 この地球外生命体は、外見的特徴としては、地球上に存在する類人猿に近く、保護した当初は、どこかの国がチンパンジーを乗せた人工衛星を打ち上げたのではないかと推測された。
 
 しかし、各国の科学調査機関に問い合わせたところ、そのような事実はなく、生命体自身が、「自分は、滅亡を間近にひかえた惑星から、移住の可能性がある星を探索にきた」と告げたことから、ようやく地球外生命体との確証を得た。
 

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 この生命体は、英語の70%を解読し、さらにスペイン語と中国語を20%程度理解することが確認されている。
 
 生命体の話によると、
 「地球は、我々が支配する星になるという映画を信じてここまで来たが、映画に裏切られた」
 と語っているという。
 
 専門家たちは、その映画とは、『猿の惑星』のことではないかと、推測している。
 
出典 「国際 USO ニュース」

  
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北極海に異変か? 大量の白クマが日本をめざす
 
  
 海上保安庁より、昨日、流氷に乗って東京湾に漂流してきた白クマを保護したという発表が行われた。
 
 この白クマは、東京湾沖で漁をしていた「第6福水丸」の船長、小早川秀俊さん(53歳)が発見したもの。

 
 早朝、小早川さんが流氷に生物が載っていることを発見し、近づいてみると、瀕死の白クマが横たわっていたという。
 
 小早川さんの通報により、海上保安庁の巡視艇「大和2号」が現場に急行。無事白クマを保護した。
 
 このクマは推定年齢4歳のオスで、北極圏から途中エサを採りながら南下してきたと推測される。

 

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 なお、先月は、北海道の知床沖でも、同じように流氷に乗って日本に接近する白クマが確認されており、アラスカ沖でも、流氷に乗って日本を目指す白クマの群れを発見したというカナダの漁船からの報告も入っている。
 
 このことに関し、神奈川科学大学の森山光三郎准教授(45歳)は、次のようなコメントを発表している。
 
 「このような大量の脱北グマが発生したのは、やはり地球の温暖化によって、北極圏が暑くなってきたことを反映していると思われます。
 なぜ大量のクマが日本を目指しているのかは謎ですが、ひとつには某家電メーカーのエアコンが、“白くまくん” と名づけられており、クマがエアコンの前で涼んでいる映像がクマたちに伝わり、日本に行けば涼しいのではないか、という誤解がクマたちの間に広まった可能性があります」


  
 なお、東京湾で保護されたクマは、海上保安庁の職員食堂で、ヒレカツ定食を5人前ほどたいらげ、味噌汁まで飲み干して安堵した表情になったという。
 
 政府は、今後増加すると思われる脱北グマへの対応を検討するために、民間の研究機関とも協議の上、「白クマ歓迎委員会」を設立。

 
 わが国の各動物園に「シロクマ・ワールド」コーナーを新設し、観光資源として育成することを検討する模様。

  
出典 「国際 USO ニュース」
  

「コミュ力」という言葉の軽さ  

 前回のブログで、
 「平成という時代は、コスパ思想が席巻した時代だった」
 という内容の記事を書いたが、実はもうひとつ、「平成」の精神風景を語るときに無視できない概念がある。

 

 それが、「コミュ力」という言葉だ。

 

 平成という時代は、老いも若きも「コミュ力」を高めるために必死にあがいてきた時代だったという気がするのだ。

 

 では、「コミュ力」とは何なのか?
 (こう縮めてカタカナ書きすると、「こみゅか」とも読めてしまう。なんか変な言葉である)
 
 そもそも「コミュ力」とは、「コミュニケーション能力」の略語であるが、略語化した段階で、間の抜けた響きになってしまい、なんか本来の意味から外れてくる感じがする。 


 そして、そこには本来の語義とは異なる日本語としての意味が生まれている。

 

 「コミュニケーション能力」と「コミュ力」の違いは何か?

 

 「コミュニケーション能力」と、最後までこの言葉を言い切った場合、そこには、暗黙のうちに、人間の「スキル」や「キャリア」まで問うような “真剣勝負” の必死さが込められている。

 

 大げさにいえば、真剣勝負の気合が試される場に立つという意味が浮かんでくる。
 
 それに対し「コミュ力」は、他人のインスタに「いいね!」をつけるタイミングの問題にすぎない というわけでもないだろうけれど、そういう軽さがある。

 

 日本人は、この軽さの方を選び取ったのだ。
 
 「コミュニケーション能力」と大上段に構えてしまうと、当然、「コミュニケーションとは何ぞや?」というやっかいな問題も引き受けざるを得ない。

 

 これは、すでに哲学的な問題であり、
 「同じ言語、同じ思考、同じ生活習慣に染まっている者同士が意見交換しても、それをコミュニケーションとは言わない」
 という極端な主張が哲学の世界では、昔から論じられている。

  

 その主張から導かれてくる結論は、
 「言語も、生活習慣も異なる世界に住んでいた者同士が、何かを伝えようと必死になること自体が、すでにコミュニケーションなのだ」
 ということになる。

  

 つまり、結果的に、意志一致が成立するかどうかは、些末なことに過ぎず、
 「自分と意見も、思想も、言語も、思考体系も異なる “他者” 同士が、お互いに相手の存在を認めて対峙すること」


 それこそが、真の “コミュニケーション” だというわけだ。

 

 事実、国際外交の世界では、こういう考え方で臨まない限り、相手のふところには飛び込めない。

 

 「コミュ力」という短縮形は、その面倒くさい議論を切り捨てたときに生まれた、日本人だけを相手にした言葉である。
 
 つまり、「コミュ力」とは、(ボディランゲージも含めた)「おしゃべり上手」という意味でしかなく、「空気を読む」とか、「忖度する」という気配り能力しか意味しない。

 

 こうも言える。
 「コミュニケーション能力」という言葉から哲学と社会学を引いたものが、「コミュ力」である。
  
 
 で、そういう文脈で「コミュ力」をみて、あるネットでは、「コミュ力が高い人に見られる共通の特徴」という情報が載せられていた。

 

 それによると、コミュ力が高い人というのは、
 ① 話題を多く持っている
 ② 協調性がある
 ③ ポジティブで明るい
 ④ 笑顔が絶えない

 

 要は、必死で忖度して空気を読む人になれ、ということなのだ。
 バカなんじゃないの? これつくった人。

 そんなことで、「コミュ力」を高めたところで、日本人が国際社会で生き抜く力は育たない。

 

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 私は、「コミュ力」を身に付けるために必死になっている若い者を可哀想だと思う。

 

 確かに、いま会社の新卒採用の基準に、「コミュ力」を挙げる企業が増えているという話は聞く。


 なんでも、ここ13年連続で、新卒社員の選考基準のトップは「コミュ力」だったとか。

 

 それは、産業構造の変化に伴って、モノを生産する製造部門よりもサービス部門の方に力点を置く企業が増えていることを意味しているのだそうだ。

 

 しかし、企業側も就活側も、何か勘違いしているのではなかろうか。

 ・ 協調性がある
 ・ ポジティブで明るい
 ・ 笑顔が絶えない

 

 もし、そんな属性を「コミュ力」だと定義しているのだとしたら、「体育会系」の人間しか引っかからないことになる。

 

 人間の「想像力」と「創造力」は、無理してポジティブになることによって萎えてしまうことだってあるのだ。

 

 ペラペラしゃべる前に、自分の言葉がどう相手に届くのか。
 そっちの方を想像することの方が大事。

 

 「想像力」によって鍛えられないかぎり、他者の気持ちに届く言葉というのは練り上げられない。

 

 面接官の前で、途切れることなく話す。
 合コンで、狙った女の子の気持ちを会話でそらさない。

 

 そういうのを「コミュ力」とはいわない。

 

 「コミュ力」とは、むしろ、謎めいた人間に思われることである。
 相手に対し、自分を魅力的な “パズル” として差し出す。
 そのためには、無理してポジティブになる必要もないのだ。 
 

 

コスパ思想で始まり、そして終わった「平成」

 新しい元号が発表になって、いよいよ「平成」という時代も、あと1ヵ月を切るようになったが、そのせいか、テレビなどでは「平成」という時代を事件や歌で振り返る番組が増えた。

 

 「平成」とはどんな時代であったか?

 

 私が思うに、「平成」という時代は、“コスパ” という概念に人々が異様に敏感になった時代だったのではないかという気がする。
 これは、私が考えたというより、すでに今年の正月にNHKEテレで行われた「ニッポンのジレンマ」(写真下)でも取り上げられたテーマだった。

 

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 その番組で指摘されるまで、自分でも気が付かなったが、確かに、日常的に “コスパ” という言葉をなんのためらいもなく使っていた。

 

 「自動販売機やコンビニでペットボトルを買うのってさ、コスパ悪いよな。スーパーまで行かないと
 とかね。

 

 なんのことはない。
 「20~30円高いよな」 ってことを言うだけなのに、“時代に乗り遅れない感” を強調するため「コスパ」とか使っていたわけだ。

 

 で、あらためてコスパとは何か?

 

 知ってのとおり、コスパとは「コストパフォーマンス」の略だけど、この言葉がいつから一般的になったかは諸説あるらしい。

 

 ネット情報によると、すでに1970年代には、自動車とかオーディオといった趣味性の強い高額商品を評価するときに使われていたらしいが、私はその時代、そんな言葉を得意げに語れる裕福な環境にはいなかった。

 

 しかし、その後「コスパ」という言葉は、インフルエンザ・ウィルスのようにじわじわと一般的な企業用語として広がっていった。

 

 普通の家庭の主婦が当たり前のように、この言葉を口にするのに気づいたのは、「平成」の中頃である。

 

 カミさんの友だちが、うちのカミさんに向かって、
 「◯◯のランチは、ワンプレート1,000円もするんだけれど、▲▲に行けば、サラダとデザート、コーヒーもついて980円。もうだんぜん  “コスパ”  が違うのよ」
 とかいっているのを聞いて、びっくりした。

 

 会社の営業会議の会話が、主婦層にまで浸透していることを知って、大変な時代になったもんだと思った。
 

 それにしても、なぜ「コストパフォーマンス」なる経済概念が、平成という時代になると “コスパ” という言葉に縮められて、庶民の日常生活にまで浸透してしまったのだろう。 

 

 平成がスタートしたのは1989年。
 社会主義政権のソビエト連邦が崩壊した年(1991年)とほぼ重なっている。


 つまり、「平成」とは、世界の自由主義国家が「資本主義の勝利だ!」と確信した時代の始まりを告げる年号でもあったのだ。

 

 当然、「コスパ」は、資本主義社会を生き抜く日本企業にとっても最重要課題となった。


 「無駄なものを排して純益だけを追求する」
 この精神がないと、経営は成り立たない。

 

 しかし、問題は、それが経営者たちの意識にとどまらず、一般消費者の考え方まで規定するようになったことだ。

 

 バブル崩壊後、日本の経営者たちがそろって口にした言葉に、
 「これからは社員1人ひとりが、みな経営者の立場に立ってモノを考えないと、会社が存続しない」
 というのがあった。

 

 そういう意識がサラリーマンたちに浸透した結果、「コストカット」や「成果主義」、「自己責任」などという言葉が日本中に溢れるようになった。

 

 こういった風潮は、やがて、家庭の主婦やその子供たちまで巻き込むことになった。
 つまり、平成生まれの子供たちは、無意識のうちに、コスパ的世界観のなかで育ったのだ。


 しかし、「令和」とかいう新しい時代になったのだから、そろそろこの平成的な “コスパ的” 世界観から脱却してもいいのではないか?

 

 たとえば、本を買うとき。
 最近は誰でもアマゾンを利用する。いちいち本屋まで行くことは、手間もかかるし、時間もかかる。つまりコスパが悪いということになっている。

 

 しかし、本屋までいけば、探していた本の隣に、さらに魅力的な本があることを発見するチャンスもある。

 そして、その本の方が、10年先20年先の自分にとって重要な本であったりする可能性がある。
 アマゾンで欲しいものだけ注文するのはコスパ的には正しいが、けっきょくは自分の可能性を閉じてしまうことにつながりかねない。
 
 
 つまり、「コスパ」という言葉が浮上してくることによって、われわれは何かを見失ってしまったのだ。 
 そこで見失われたものこそ、「美意識」とか「古典」、「歴史」という概念である。

 

 「コスパ」を意識していると、どうしても考え方が近視眼的になる。コスパは “取りあえず現在の無駄を省く” という考え方でしかないから、10年後20年後の展望を語ることは不得手。

 

 たとえば、2030年ぐらいの地球がどうなっているかなどという問題は、コスパ的思考では語れない。

 

 もしかしたら、2030年の地球では、世界的な温暖化がさらに進行していて、住んでいる土地が沈没してしまう島の住民もたくさん出ているかもしれない。

 

 そういう問題に直面している時代なのにもかかわらず、“コスパ” のような短期的な利益を求めていていいのか? もっと人間の命とか、生活環境とか、そういうものに考えをシフトさせていくことが大事ではないのか。

 

 最初に触れた『ニッポンのジレンマ』という番組では、誰がいったか忘れたが、次のような発言をした人がいた。

 

 メモを取ったわけではないから、正確な表現ではないかもしれないが、いちおう記しておく。
 それをもって、この稿の結論にしたい。
 
 「“コスパ” という経済合理性だけで物事を考えていくと、哲学や社会科学的な思考はすべて “無駄なこと” になる。
 しかし、今の段階では  “無駄なこと”  であっても、それが20年30年先になると、経済合理性のうえでも必要だったというものが必ず出てくるはずだ。
 だから、目先のコスパ的価値観にとらわれず、これからは、絶えず哲学とか社会科学的なテーマにおいても議論を重ね、ものごとの本質を語りあっていくということが大事である」

 

60年代R&Bバラードの頂点に立つ男スモーキー・ロビンソン

 音楽の好みでいえば、1960年代から70年代初頭のリズム&ブルースがいちばん好きである。
 
 仕事で頭が疲れてくると、まずグラスにペットボトルの紅茶を注ぎ、そこにウィスキーを数滴垂らす。
 それをチビチビ舐めながら、パソコンの前に座り、YOU TUBEを頼りに、60~70年代のR&Bを探す “旅” にさまよい出る。

 

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 この前、そういう “旅” の途中で、スモーキー・ロビンソン(写真上)の『Ooo Baby Baby』にぶち当たり、久しぶりに聞きほれた。

 やっぱりいいんだなぁ、これ!

 

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 本当に、スモーキー・ロビンソンは素敵だ。
 上は、ミラクルズを率いていた時代(1965年)の貴重な動画。

 

 もちろん、この時代、私はラジオでしか、この曲を聞いたことがなかった。
 その曲が収録されたテレビ番組が、こんなふうであったことを知り、もう感無量である。

 

 スモーキー・ロビンソンは、もちろんシンガーとしても大好きな人だけど、ソングライターとしてもっとも敬愛する人の一人だ。
 特に、バラードを作らせたら、R&B界でこの人の右に出る人はいない。
 
 70年代に入って、ソウルミュージック界では、フィラデルフィアサウンドが一世を風靡して、ギャンブル&ハフとかトム・ベルのような人たちが、数々の華麗なバラードを作ってきたけれど、スモーキーの素晴らしさにはかなわなかった。

 

 なんといったって、スモーキーのバラードは、“鼻歌” で歌えるのだ。
 つまり、演奏(カラオケとか )の助けを借りなくなって、気持ちの良い朝に、自転車を漕ぎながら歌えてしまう。
 
 これぞ、“名曲” の原点である。
 坂本九の「上を向いて歩こう」だってそうだけど、鼻歌で歌えるからこそ、世界に広まったのだ。

 

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 YOU TUBEの面白さは、検索しているうちに、思いもかけないアーチストの見たこともないライブに接したりするところにある。

 

 で、このスモーキーつながりで、次に発見したのが、ホール&オーツのダリル・ホールと共演しているライブ映像。
  
 これは、ほんとうに涙モノだった。
 演奏された場所は、あの有名な「Daryl’s House」。

 

 では、この映像のいったい何が「涙」なのか。
 
 それは、ダリル・ホールのソウル・ミュージック(R&B)へのリスペクトがしっかりと感じられるからだ。

 
 彼にとっては、まさにソウル・ミュージック界の神様のようなスモーキーへの熱いリスペクトが、こちらにも伝わってくる。

 

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 ダリルは、スモーキーを横に座らせ、そのスモーキーの持ち歌である「ウー・ベイビー・ベイビー」のイントロを、ちょっと恥ずかしげにギターで引き出す。

 

 たぶん、打ち合わせもない選曲なのだろう。
 ダリル・ホールが歌いだすと、スモーキーの方も、「ええ? オレの歌やるの?」とばかりに、照れとはにかみを漂わせながら笑う。

 

 バックのミュージシャンも、ニヤニヤしながら、その成り行きを見守る。
 で、 “師匠” の前で、あの、あのですよ! あのダリル・ホールが、ずぶの素人のような初々しさで「ウー・ベイビー・ベイビー」を歌い始め、師匠がバックに回ってサポートする。

 

youtu.be

 

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 この心の通い合う温かいやりとり!
 師匠スモーキーを慕うダリル・ホール。


 弟子の成長ぶりを温かく見守るような、スモーキーの笑顔。
 ソウル好きには、感涙なくして見られない。
 
 ああ、紅茶に垂らしたウィスキーがうまい!

 

 次に紹介する「ベイビー・カム・クローズ」は、70年代にFENで聞いたものだが、その時代、日本版どころか、輸入盤も手に入らなかった。

 

 これを買うために、( だけでもなかったけれど)、昔、アメリカに行ったことがある。
 

 で、この『Baby Come Close』
 ねっとりとした甘みを持つ、極上のワインの味わい。
 触れると肌がとろけそうな、シルクの感触。


 ストリングスのアレンジがなんともいえずに心地よいんだけど、決してフィリー系のような華麗さを追求するものではなく、繊細さを大事にしている。
  
 この「ベイビー・カム・クローズ」という曲には、自分が思い描ける最高の快楽の姿があった。


 自分の「恋愛シーン」を思い浮かべるとき、愛する女性とベッドインする機会があったら、ぜったいBGMはこれだ! と思い込んでいた時期がある。 
 
 結局、その思い込みはいまだに果たしていない。
 (結婚したあと、カミさんとも、こういう機会は持たなかった)
 
  ということは、これから来るというのだろうか?
 もうじき69歳なんだけど。

 

youtu.be

 

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人は誰も自分の記憶の古層にはたどりつけない

 すべての人間は、「自分は橋のたもとで拾われた子どもではないか?」という疑問を解消することはできない。

 

 両親の温かい愛に包まれた幸せな幼年時代
 そのような記憶があったとしても、それははたして本当の記憶なのだろうか。

 

 1982年に公開された『ブレードランナー』という映画では、ある人間の記憶をそのまま移植されて、その記憶を自分のものと信じ込んでしまうレプリカント(人造人間)が登場する。

 

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 「レイチェル」(↑)と名付けられたその美貌のレプリカントは、レプリカント産業を創設したタイレル博士の姪の記憶をそっくり移植されていたため、自分のことを「人間」だと信じ込んだまま過ごしている。
 
 だが、ある日、レプリカントを “抹殺する” 仕事の総称である「ブレードランナー」のデッカードハリソン・フォード)のテストを受けた後、レイチェルは自分が人間ではないのかもしれない という悩みを抱える。

 

 彼女は、もう一度、自分の脳裏の底に沈んでいる自分の記憶を再検証する。
 幸せな幼少期を過ごした実家の美しいグリーンに輝く芝生の庭。
 優しい父と母の笑顔。

 

 彼女がそのような記憶をたぐり寄せるときに、画面に流れるのが下の曲である。
 ヴァンゲリスが作曲した「グリーンの思い出」という曲は、「愛のテーマ」と並ぶ、このサントラでもっとも美しいメロディといっていい。

 

youtu.be

  
 彼女は、この曲を思い出しながら、思う。
 「こんなに鮮明な記憶を持っている私が、レプリカントなんかであるはずはない」。

 

 しかし、レイチェルの自信は、美しいメロディとはうらはらに、どんどん揺らいでいく。


 レプリカントとはいえ、一人の美女が自信を失っていく過程に、こんな甘い旋律の曲が使われるというのは、またなんと残酷な演出なのだろうか。
 制作側の美しくも邪悪な意図に、心が寒くなる。

 

 しかし、レイチェルの不安は、実は、人間が誰しも抱える不安でもあるのだ。
 人間のアイデンティティが、個人の「記憶」に頼っている以上、幼少期の「記憶」などは、 両親の人為的な操作などによって、いかようにもにつくり変えることができるからだ。

 
記憶の古層から浮上する “見知らぬ記憶”

 

 人の記憶の古層には、自分が意識しているものとはまったく別の記憶が眠っていることがあるということを、自分で体験したことがある。

 

 昔、会社の同僚が運転するワンボックスカーの助手席に座って、長旅の退屈を持て余し、車内にあった輪ゴムを何気なくよじっていたときのことだった。
 
 輪ゴムのねじれた場所が、数珠玉のように固まっていく。

 

 それを見ながら、遠い昔、ヒマを持て余してこんな行為を飽くことなく繰り返していたな と思っ瞬間、大脳皮質に亀裂が入り、40年以上思い出しもしなかった一つの情景が浮かび上がった。

 

 私は、広場の一角にいる。
 そこでは、露天商がいろいろな物を売っている。
 夕方の太陽が地面に弱々しい陽射しを投げかけている。

 

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 その市場の背景には何があるのか。
 何もない。

 
 異国の砂漠の中で開かれた市場であるかのように、その日最後の夕陽に照らされたぼんやりとした空間が広がっているに過ぎない。 

 

 私はおもちゃの露天商の前に立って、熱心におもちゃを見ている。
 貧しい時代の貧しいおもちゃが並んでいるが、それは今の時代の感じ方で、そこに立っている私は、様々なおもちゃを揃えた店先の贅沢さに心を奪われている。

 

 特に、体に突き立てると刃の部分が引っ込んで、あたかも刺さったかのように見えるブリキのナイフのおもちゃに、私は特別な興味を覚えている。

 

 そのナイフをねだりたいのだが、親の姿は見えない。
 おそらく親が近くで用事を済ませている間、その場所を離れないように とでも言いつけられたのかもしれない。

 

 そのとき、突然、もう二度と親とは会えないのではないかという心細さが襲った。
 自分は、この場所に捨てられたのではないか。

 

 そう思う不安感と、それとは別に、露天商の店先に並ぶ珍奇な品々の輝きに魅入られている自分がいる。

 

 別離の予感と、好奇心と誘惑に彩られた孤独な充実感。

 

 突然脳裏をよぎったその情景は、一瞬の雷光のように、闇に消えた。

 

 

 イメージに残った露天市場の情景は、印象からいうと昭和20年代末期といった雰囲気だった。
 年齢でいうと2歳か3歳頃。

 

 今住んでいる場所に引っ越す前の場所にいた頃だが、その露天商が並ぶ場所がどこなのかは全く分からない。

 

 もちろんなぜそんな情景を思い出したのかも分からない。
 ねじった輪ゴムの記憶も、直接その情景とは結びつかない。

 

 ただ、輪ゴムをねじるという単調な遊びが、逆にそれを退屈と感じさせなかった「黄金の幼年期」に対するノスタルジーを引き寄せたのかもしれない。


デジャブとは何だろう?

 

 私たちは、はじめて訪れた場所なのに、ある光景に接して、前にもその場所を訪れたような錯覚に陥ることがある。

 

 世でいう「デジャブ(既視覚)」。

 

 人間にそのような心理状態が訪れることを、心理学は解明しきれていない。
 だが、記憶の古層に眠っていた光景が、突然何の前触れもなく現出して、それが今見ている風景に重なることはありうるだろう。

 

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 それにしても、私の意識の届かない記憶の底に、封印されたもう一つの私の世界があるというのは不思議な気持ちにさせる。

 

 私の幼年期の記憶というのは、(先ほども言ったように)後になって親から聞いた話を元にして想像で組み立てられた部分もあるに違いない。

 

 そのような人為的に構成された「記憶」に、自分の想像力が絡まって、実際の記憶とは異なる「物語」が創作される。
 そういう可能性は、誰にでもあるはずだ。

 

 いずれにせよ、幼年期に自分がどんな世界に住んでいたのかは本人にも分からない。 

 
 つまり、誰にも、何らかの理由で自ら封印してしまった世界があるのだ。
 その封印を解くことは、もしかしたら「自我」の崩壊を導くことになるのかもしれない。


 冒頭で言ったように、すべての人間は、「私は橋のたもとで拾われた子なのか?」という疑問から一生無縁ではいられない。

 

 本当の自分はどこから来たのか。
 それこそ、人間が抱える根本的な「謎」なのかもしれない。
 

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朝鮮半島の地政学的な悲劇

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 韓国の裁判所が決定した元徴用工訴訟における日本企業への差し押さえの範囲が広がっている。

 その前には、韓国海軍による日本の自衛隊機に対するレーダー照射問題があり、さらにさかのぼれば、日韓合意に基づいて設立された「慰安婦財団」を、韓国側が一方的に解散するという問題も起きている。
 
 韓国政府がくり出してくるさまざまな日本への攻勢は、我々日本人から見ると、常軌を逸した過激な言動に思えるのだが、韓国世論は、そういう政府の方針を大方支持しているという。

 
 
韓国人の反日感情はどこから来るのか?

 

 このような、韓国の反日感情はなぜこれほどまでに激しさを増してきたのか。

 

 その理由を考えると、そこには二つの問題がありそうだ。
 ともに、歴史の問題がからむ。

 

 一つは、現代史をめぐる問題。
 もう一つは、古代より続く朝鮮半島の歴史の問題。

 

 その二つが、互いに絡まり合って、韓国国民の精神文化に複雑な陰影を与えている。

 まず、現代史の問題から読み解くと、「韓国の建国記念日」をめぐる議論が浮上してくる。
 「建国記念日」というのは、文字通り、その国の歴史認識を具体的に語る記念日だ。

 その「建国記念日」をどこに置くかということで、韓国内ではいろいろな議論が巻き起こっているというのだ。

 


建国記念日をめぐる議論

 

 現在の韓国の建国記念日は、李承晩(イ・スンマン)大統領が「大韓民国政府樹立」を宣言した1948年8月15日とされている。

 

 しかし、現大統領の文在寅ムン・ジェイン)氏は、これに異議を唱え、朝鮮半島が日本の植民地支配下にあった1919年3月1日を「建国記念日」に指定し直したい意向を持っているという。

 

 1919年の 3月 1日というのは、日本の占領に抵抗しようとした韓国民たちが、ソウルではじめての大々的デモ行進を行った日であり、それをきっかけに、半島全土に独立運動が広がったとされている。

 

 つまり、文在寅ムン・ジェイン)氏は、あくまでも日本という侵略国に対する韓民族の抵抗が “建国の理念” であることを強調しよという構えなのだとか。

 

 そうなると、韓国においては、今後日本は、ずっと韓国の敵対的国というイメージで語られるようになっていく。

 

 さらにいえば、文在寅大統領は、目下いちばんの関心事である北朝鮮との融和政策を進める意味において、北朝鮮と一体となって日本を仮想敵国として位置づけることを進めようとしているともいわれている。

 

 以上のように、最近異様に高まりを見せている韓国の反日感情の原因として、このような文在寅大統領の政治指導が大きく反映されているというのが、日本の専門家たちの見方のようだ。
 

 
韓国人と中国人のメンタリティーの違い
 
 しかし、韓国の反日感情の特徴をよく見てみると、すべてが文在寅大統領の政治的意向を反映しているとも言い難い面もある。

 

 そこには、韓国の人々が抱えるもっと古いメンタリティの問題が絡んでいそうだ。
  
 韓国人のメンタリティーの特徴をよく見ると、まず非常に観念的であることが挙げられる。


 現実を冷静に直視するよりも、頭のなかに沸き起こってくる「観念」や「原理」の方を重視する傾向が強い。 

 

 同じ東アジア民族である中国人と比べると、その違いは歴然としている。

 

 概して、中国人は「観念」よりも「実利」を重んじる。
 原理がどうの、プライドがどうの、 などとこだわるのは損。
 「人生は儲けてナンボ」
 というのが、中国人の基本的なメンタリティーである。
 
 そういう中国人の精神構造は、中国人民が3,000年の歴史のなかで培ってきた「政権への不信感」がベースになっている。

 

 彼らは、歴史上の為政者が(今の共産党政権も含めて)自分たちの権力維持だけに神経をつかい、人民を守ってこなかったことをよく知っている。

 

 だから、中国の人民は、為政者の国家理念や統治思想などに耳を傾けるよりも、まず自分たちの家族やその利益を守ることの方に神経を注いできた。

 

 韓国人はそうではない。

 

 彼らは、中国のような巨大で安定した政権を築いたという経験を持たない。朝鮮半島の歴史は、常に3ヵ国ぐらいが覇を競い合う流動的な傾向が強く、李氏朝鮮のような統一国家が生まれても、政権内の派閥争いが激しすぎて、中央集権的な統制を貫くことができなかった。
  
 だからこそ、彼らは「王朝の正統性」、「君主の徳の高さ」、「正義の尊さ」という理念的なものに憧れた。

 

 それらの理想に実体が追い付かない場合は、事実を捏造しても、虚構の「神話」にすがるようになった。

 

 もちろん、「理念」を重んじるためには、理性的・合理的な思考力が要求される。

 しかし、実体の伴わない虚構の「神話」を信じるとなれば、むしろ非合理的な情熱の方が必要となる。

 
 そのため、韓国国民は “反日” を掲げたときには、常軌を逸するほどのエモーショナルな行動をとることになる。
 
 
地政学的に朝鮮半島が抱えた問題
 
 そのような韓国人のメンタリティーというのは、やはり、韓国が昔から抱えていた地政学的な問題が根深く絡んでいる。

 

 巨大な大陸と地続きになった小さな半島。
 それが、韓国が抱えた歴史的宿命のすべてだ。

 

 巨大な大陸にいる “親分” は、常に中国であった。
 歴代の中国王朝は、朝鮮半島の国々を属国に置くか、独立国として認めたとしても、文化的・政治的支配権からの独立を許さなかった。

 

 つまり、朝鮮半島の歴史というのは、常に巨大な中国王朝の支配のもとでしか存続を許されなかった小王朝の歴史であった。

 

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 この中国に対する文化的・政治的隷属状態が長く続くうちに、次第に朝鮮民族のメンタリティーのようなものが確立されていった。

 
 すなわち、日本人や満州人、ベトナム人といった中国文化圏に組み込まれている住民のなかで、朝鮮民族が最も優等生であることを中国に認めてもらおうと、彼らは思い始めたのだ。
  
 
朝鮮文化の形を決めた朱子学
 
 特に13世紀、中国の朱子学が朝鮮に伝わってからは、歴代の朝鮮王朝は、朱子学を国家イデオロギーの最高形体として認知し、それを統治理念の根幹に据えた。
 結果、朝鮮の朱子学研究は本場の中国をしのぐほど精緻を極め、壮大な体系が樹立されていった。


▼ 朝鮮朱子学を完成させた代表的学者の李退渓(イ・テゲ)
 江戸期の日本の思想史にも影響を与えた

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 このように、朝鮮民族は、その模倣の忠実さにおいて、中華帝国周辺諸国のなかでは群を抜いた優等生だった。
  
 しかし、朱子学というのは、生活の規律を厳密に重視する学問であったから、政治においても文化においても、「異端」を許すことがなかった。

 

 当然、朱子学を根本原理に据えた統治政策では、世の中の新しい動きをすべて封印せざるを得ず、結果的に人々の進取の気性を削いでいくことになった。

 

 朱子学的空気のなかでは、儀礼の知識とその遵守だけが大事にされ、それに疎い人々を「下等人種」として蔑む気風が生まれていった。

 

 特に、“隣国の日本人” は、朱子学を尊重する気配もなく、礼もおろそかにしている野蛮人だという認識がインテリ朝鮮人の間に広まり、中世以降、日本人に対する優越意識が台頭するようになった。
 
 
中国へ向かうはずの怨念が日本に向かった
 
 その “劣等民族” であるはずの日本人が、室町時代の「倭寇」、豊臣政権下における「文禄・慶長の役」、昭和の「日韓併合」と、三つの侵略戦争を仕掛けてきた。

 

 まさに、文化も礼も知らない野蛮国の愚行だ !
  と彼らは思ったことだろう。


 実際、日本人から見ても、これらの侵略戦争は民族として反省しなければならないところがたくさんある。

 

 ましてや、一方的に侵略された韓民族がそのことを恨むのは当然という気もするのだ。
 つまり、韓民族の感情のベーシックな部分には、そういう恨みの気持ちが連綿と続いている。

 

 彼らにとって最大の悲劇は、歴代中華王朝に隷属するという屈辱の歴史を強いられたことだが、しかし、彼らにとって、中国はすでに “偉大な父” のような存在になってしまっているため、反抗すること自体がおそれ多かった。
 
 そのために、自分たちが団結するときの “旗じるし” として、中国よりも軽い存在に収まっている日本という仮想敵国が必要になってきた。

 

 そのような反日思想が固まっていく背景には、「文明的に劣った日本人に統治された歴史を持つことの悔しさ」という、きわめて “民族的な哀しみ” も横たわっていただろう。 

 

 これが、反日感情のベーシックな部分を形成している空気であるが、ただ、彼らのおかげで、日本は大陸の脅威から守られてきたという事実もあるのだ。

 

 
朝鮮半島が日本の “防御壁” となった

 

 韓国と同じ極東に位置する日本にとっても、歴代中華王朝の膨張政策は脅威であった。

 それこそ、万葉の時代から、日本人は中国の脅威から国土を守るたくさんの対策を立ててきた。

 

 その心配が当たってしまったのが、鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)だった。

 

 「神風」が実際に吹いたか、吹かなかったかというのは、今日議論の分かれるところであるが、いずれにせよ、日本を取り巻く海が “防波堤” となり、日本は中国大陸からの大軍を食い止めることができた。

 

 しかし、このとき日本を救ってくれた要因は、「神風」のような自然災害だけでなく、実は元側にもあったのだ。


 それは元の先軍を務めた高麗兵たちの厭戦気分であった。

 

 元軍は、日本攻撃部隊の先兵として、大量の高麗兵を朝鮮半島から動員した。
 のみならず、派遣艦隊の製造も高麗に請け負わせた。
 
 大量の木造船をつくるために、朝鮮半島の樹木はことごとく伐採され、自然破壊が進んだ。朝鮮半島にはげ山が多いのは、このときの森林伐採からいまだに立ち直れていないからだという。

 時の高麗王は、元の圧力から逃れることができず、大量の兵士、大量の軍船、大量の食糧を供給せざるを得ない羽目に陥った。

 

 朝鮮半島の男たちは、徴兵のためにみな駆り出され、田畑は荒れ、国中が疲弊した。
 ※ このときの朝鮮半島の悲劇は、井上靖氏の『風濤(ふうとう)』(新潮文庫)に詳しい。

 

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 過酷な状況に置かれた高麗兵たちに、日本とまともに戦う気力など残っていなかったのは当たり前の話である。

 

 高麗兵たちは、日本を占領しても元軍の手柄になるだけだと知っていたから、本心は、さっさと戦いを止めて国に帰りたかったのだ。
 
 このような高麗軍の厭戦気分が、元軍全体の士気を下げ、日本武士たちが勝機をつかむきっかけを作った。
  
 この例からも分かるとおり、「朝鮮半島」という “地理的防波堤” があったために、日本は、中国の脅威に直接さらされることから逃れたという事実も見逃せない。


 地政学的にそういう地域に国を持ってしまった朝鮮民族というのは、つくづく気の毒な民族であると思う。

 

 われわれ日本人も、そういう朝鮮半島に国を構えてしまった民族の悲劇を、もう少し忖度してあげてもいいような気がする。
  

 

キリコ作『街の神秘と憂鬱』の謎

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アート批評
ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画

  
 われわれは「イタリア」という言葉から、人間性謳歌する享楽的で、現世的な文化風土を想像しがちである。
 しかし、そのような「明るく陽気な」風土が広がるイタリアというのは、ローマ以南、ナポリシチリアのような地中海世界に限られたものだ。
 
 トリノのような北イタリアには、それとは違ったイタリアが存在する。
 春や夏のイタリアではなく、秋と冬のイタリアがある。
 シュールレアリズムの祖といわれるジョルジョ・デ・キリコは、そのようなイタリアを描いた画家だ。
  

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 かーんと晴れ渡った、限りなく透明な空の下に横たわる、人のいない街。
 午後の一瞬を、「永劫の時」に凝固させたまま動かない空。
 地面に伸びる影もまた、秋の日差しを凍結させたまま、流れの止まった「時」の中に眠っている。

 

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 地上に立たされた人影は、人なのか彫刻なのか区別もつかず、永劫の時間に閉じこめられた風景に「不安」の彩(いろどり)を添える役割しか持たされていない。
 そこには、人間の住むことを拒むような、どこか超越的な気配に染められた世界が描かれている。

 

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 キリコは、自らの絵画を「形而上絵画」と呼んだ。
 この世を超越した思念や感性に満たされた「絵」という意味だ。

 

 つまりは「この世ではない世界」を描いた絵であり、現実としては見ることのできない風景を捉えた絵ということである。
 
 かといって、それはダリやルネ・マグリットの描いたシュールレアリズム絵画のように、「この世に存在しないもの」が描き込まれた絵ではない。
 イタリアには普遍的に存在するファサード、広場、噴水、彫刻などが描かれているに過ぎない。
 
 この世にないものなど一つも描かれていないのに、なぜ彼の絵からは「非現実感」が伝わってくるのか。

 

 それを考えることは、われわれの住んでいる「世界」 …… すなわち「近代」という時代区分の中で生きている私たちの「精神風景」が、いったいどのようなものであるかを問い直す作業につながってくる。

 

▼ キリコ自画像

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遠近法的な世界観の誕生 

 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、彼が近代絵画の手法を意図的に “無視した” ところから生まれている。

 具体的にいうと、彼は、近代の具象画の常識となった「消失点作図法」をわざと壊したのだ。
 
 「消失点作図法」というのは、一般的に「遠近法」といわれる技術を指し、画面の中心に、すべての物を吸い込んでしまう「消失点」を設け、そこから放射状に逆放射される “架空” の放射線に沿って、建物、人物などを配置していく描き方をいう。

 

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 こうすると、遠景の建物は、放射線に沿って小さく描かれ、手前の建物は大きく描かれることによって、見かけ上の “奥行き” が生まれる。
 
 この手法は、ルネッサンス絵画の時代に少しずつ生まれ、その後、近代絵画の時代に精緻に理論化されていった。
 

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 現在のわれわれは、こういう “遠近法” で描かれた絵を観たときに、それを「リアル」と感じるように訓練されている。
 
 しかし、実は、それは人間の自然な眼の動きではなく、「消失点作図法」という絵画上の技術によって確立された人工的な “視線” でしかない。

 

 そのことは、江戸時代の浮世絵やルネッサンス初期の宗教画のような、近代絵画が誕生する前のフラットな絵画と比較してみると、よく分かる。

 

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 近代以前の人々が描いた「空間」は、近代以降の人々と同じ「空間」を見ていたはずなのに、奥行きを失った、ベタっとした平面で描かれている。

 

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 このことを、「昔の絵描きは幼稚で、現代の絵描きは上手くなった」
 と、捉えてはいけない。
 
 近代以前の絵描きたちは、それでも十分に、「リアルな現実」を描いたつもりでいたのだ。

 
「奥行き」を必要としなかった中世の人々


 なぜ、近代以前の人々は、このような奥行きを失った絵画を「リアル」だと感じていたのだろうか?

 それは、「何に感動するのか?」という感動の原点が、現代人とは異なっていたからだ。
 
 たとえば、ヨーロッパ中世から近世にかけての時代。
 遠くから旅を続け、各地に散らばる町の教会を訪れた巡礼たちは、そこに掲げられる宗教画を眺め、人智を超えた神の世界から届くメッセージを受け止めたはずだ。

 

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 それらを眺めた彼らは、キリストの受難に涙し、背徳にまみれた町が劫火に包まれることに恐怖し、赤子を抱きかかえるマリア像に癒されたことだろう。
 

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 すなわち、そこに描かれた「世界」が、もうストレートなメッセージだったのだ。
 
 中世において、人間にメッセージを与える存在は「神」しかいなかった。
 「神」は、そもそも “奥行き” などを超越した世界にいるから、2次元空間の絵画などには描きようもない。

 

 おそらく、中世の人々は、近代絵画から生まれた「遠近法的空間」などを知ったとしても、何の興味を示さなかっただろう。

  


自然科学的な世界観が生まれて人間の感性が変わった
 
 しかし、近代社会が成立するようになると、宗教的世界観に代わり、自然科学的な世界観が浮上してくる。

 

 自然界は、数学的に、物理的に計測可能なものになり、その数学的な計算に従って、絵画空間を再構築しようという動きが出てくる。
 
 「消失点作図法」という遠近法は、そのような “近代の眼差し” から生まれたものだ。
 

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 そのような、“奥行き” のある絵画を眺めることによって、人は、やがて、世界を眺める揺るぎなき「自己」という存在に気づくようになる。

 

 眺める「自己」
 眺められる「自然」 

 すなわち、「主体」
 そして、「客体」
 
 この二つが明瞭に分離できるという思想こそ、近代合理主義の源になっている。

 

 どのように自然界が混沌としたものに見えようとも、それを眺めている「自分」だけは揺るがない。

 「近代的個人」というのは、そこから生まれた。
  
 
「自己」が不安にさらされる時  
 
 ジョルジョ・デ・キリコは、その近代に確立された「揺るぎなき自己」を、もう一回解体するような絵を描いた。

 

 彼は、「近代的な個人」というものが仮構の存在であり、「個人」を成立させるはずの合理主義的などというものは、実に安定感を欠いたものであることを、自らの絵で示そうとした。
 
 キリコの絵を前にすると、理由のはっきりしない不安、けだるいメランコリー(憂鬱)、得体の知れない恐怖が、足音を忍ばせながら、そぉっと近づいてくる気配を感じるわけだが、それは、「自己」が解体していく過程に立ち会うからだ。 
 


絵の中に無数の消失点が生まれる不可解さ

 

 その例を、彼の絵で具体的に追ってみよう。

 下の絵は、有名な『街の神秘と憂鬱』という絵だが、左側の白い建物と、右側の黒い建物の輪郭をなぞる線が、それぞれ別の消失点に向かっていることが分かるだろう。
 
 さらに、黒い建物の隅にうずくまる馬車は、両側の建物とはまた別の方向に向かう輪郭線を示しており、この絵の中に、「無数の消失点」が存在することを伝えてくる。 

 

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▲ 「街の神秘と憂鬱」

 

 「消失点」が一つしかないということが、近代的遠近法を成立させる “お約束事” であったのだが、ここでは、その近代的遠近法を狂わせる手法がわざと多用されている。

 

 つまり、ここには、「世界」を見る確固たる「自分」は存在しない。
 「自分の眼」は無数に増えて散らばり、「統一された自己」を裏切り続ける。
 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、「現実を捉えきれなくなった自己」へのおののきから生まれてくる。
 そこにはまぎれもなく、「自己の絶対性」を主張して止まない「近代」への懐疑が潜んでいる。
 
 だから、ここに描かれているのは、近代の意匠に包まれた人間が、その意匠を剥ぎ取られたときの、生々しい「生の実感」そのものなのだ。
 
 実は、人間は、本来はこのようにして「世界」を観ているといっていい。
 
 今われわれが、絵画、写真、映画、ゲーム類を通してなじんできた「3D画像」は、実は「安定した自己」を前提とした “近代的感受性” に支えられた虚構の視点でしかない。
 
 それは、「見る自己」と「見られる対象」の間には、科学的に計測可能な「距離」があるという盲目的信仰に依拠するもので、その「距離」への信頼を失ってしまえば、「世界」はたちどころに、夢のような世界に近づいていく。
 
 しかし、それは、ダリやマグリットが描く幻想世界とは別のものだ。
 

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▲ ダリ 「内乱の予感」

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▲ マグリット 「ピレネーの城」

 

 
キリコの絵に漂うノスタルジーの秘密
 
 絵画の中には「幻想的な絵」というものが数多くあるが、多くの幻想画が、単なる “不可解” なるものをたくさん集めたコラージュによって荒唐無稽の世界を描いているのに比べ、キリコは近代的な作図法そのものに中に、その破綻を見出した。
 
 そこには、揺るぎないと信じていたものが遠のいていくときの、取り残された者を襲う「根源的な寂しさ」が宿っている。
 
 そして、その寂しさは、人が、様々な近代的意匠を脱がされて、原始の人間に戻っていくときの懐かしさにも通じている。
 
 キリコの絵に漂うメランコリー(憂鬱)が、ノスタルジー(郷愁)ともつながっているのは、そこに理由がある。
  

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“オネェ系” の店でモテるコツ    

 “オネェ系” というのか、昔は「オカマ」っていったんだけど、あの人たちって、面白いよね。

 ときどき顔を出す居酒屋で、カシラを塩で焼いてもらって遅い夕食をとっていたら、隣りのオカマバーのママさんがふらりと入ってきた。
 
 「マスター、やきそば! お客が来ないんで、鏡を見ながら自分を口説いていたら、フラれちゃったわよ。
 あんな “ブス” にフラれるなんて、私も落ちたものよ」
 
 はるな愛というよりは、マツコ・デラックスに近いそのママさんのひと言で、店内の雰囲気が一変した。
 
 独り者の老人たちしかいないどんよりとした店だったのに、オカマの《彼女》が入店しただけで、とたんに、マフィアや芸人や、不倫カップルがひしめく妖しくも華やかなナイトクラブのように見えてきたのだから不思議である。

 

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 あの人たちが持っている「空気を変える力」というのは、どこから出てくるのだろう。

 

 テレビを見ていても、マツコ・デラックス、IKKO、ミッツ・マングローブ美輪明宏あたりが登場するだけで、場の空気がさぁ~っと変化する。

 

 それは、《彼女》たちのしゃべりが、たとえ「毒舌」であったとしても、そこに冷徹な真実が隠されているという説得力に裏打ちされているからだ。
 
 その説得力というのは、自分自身を自虐ネタとして使える、ふてぶてしいサービス精神から生まれてくる。
 
 《彼女》たちの会話が面白いのは、自分自身をピエロ化して、「自分を笑ってもらう」精神に徹しているからだ。

 

 だから、オカマバーに行っても、大半のお客は、“バカで間抜けな” そのオカマを、遠慮なく笑い飛ばす快感を与えられる。
 
 しかし、調子に乗ると怖い。
 《彼女》たちは、自分自身を冷静に分析する視線を、今度はお客の方に向ける。
 
 その “取り引き” のタイミングを飲み込めない客は、《彼女》たちから辛らつな皮肉を浴びることになる。
 オカマバーは「人間道場」だな と、つくづく思う。

 

 

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 昔、オカマバーで、給料の半分を一晩で使ってしまったことがある。
 その月の後半は、ほとんど水だけを飲んで寝ていたが、それでも後悔しなかった。
 
 池袋の場末のスナック街を一人でふらついていたとき、妖しげなバーの前にたたずんでいた不二家のペコちゃんみたいな女の子に声かけられた。
 「1時間2千円でいいから、遊んでいかない?」
 声は、男そのものだった。

 

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 そこは、剥げかけたカウンターの前に、ひび割れたスツールが6脚だけ並んだ粗末な店だった。
 真ん中のスツールに腰掛けた私は、たちまちのうちに、ドサ回りの田舎芝居のような一団に取り囲まれた。

 

 ペコちゃんとママさんは “美人系” 。
 残りの2人は “怪物系” 。

 

 《彼女》たちの乾杯の音頭が店内に鳴り響き、たちまちのうちに、店は、リオのカーニバルのような喧騒に包まれた。
 
 “異次元” の世界に引きずり込まれるのは、あっという間だった。
 気づくと、すでに私は、飛び込みでこの店を訪れた「芸能スカウト」の役を振り当てられていたのだ。

 

 ママさんがいう。
 「あなたさぁ、芸能界の雰囲気を知っている感じの人よね、ひょっとして、新人タレントを発掘しているスカウトマンじゃない?」
 
 もちろん《彼女》たちだって、本気でそう思っているわけではない。
 話題をスタートさせるための、“空気” をつくっただけなのだ。
 
 「おいおい、よせよ。今日は仕事を忘れて、飲みに来ただけなんだから。俺が芸能スカウトマンだとしても、今日は仕事をしないよ」
 
 冗談めかしてそう答えただけなのに、それで、《彼女》たちの、今晩のお客のからかい方が決まったようだ。
 つまり、店全体が、タレントになりたいためにオーディションを受ける人間が集まる疑似イベントの場となった。
  
 そうなると、私の役はオーディションの審査委員だ。

 「だめだめ。そこは高音部がヴィブラートしないとだめ。全盛期の松田聖子でも勉強しろよ」
 と、《彼女》たちがうたう歌に、私が “ダメ出し” をする。

 

 「じゃ、先生ひとつ歌ってよ」 
 と、今度は《彼女》たちが迫る。

 そこでテキトーな歌をうたう。

 

 「すごい! さすがプロ。勉強になるぅ!」
 と、虚偽の賛美の大嵐。
 
 すべては「虚偽」。
 《彼女》たちのタレント志望も虚偽ならば、私のスカウトマンも虚偽。

 

 しかし、“まじめに” 虚偽の人格を装い続ける私に、虚偽の「女性」を生きてきた《彼女》たちは、そこに「同僚の匂い」を嗅ぎ取ってくれたのだと思う。

 

 もし、本当に私が芸能関係の仕事に就いていたら、《彼女》たちの反応はもっと冷ややかなものだったろう。 

 


 
 「1時間2千円」の制限時間はとっくに過ぎて、「ここから後は1時間3千円コースだけどいい?」
 その後は、 「これからは、1万円コースよ。いい?」
 どんどん高くなっていく延長料金。
 
 いい加減に神経もマヒしていた。
 でも、それだけ楽しかったのだ。
 「よーし、ナミちゃんに水割り一杯。ママさんにはブランデーロック」
  ってな感じで、ついに明け方を迎えてしまった。

 

 ああ、 こんな感じで、カネをむしりとられるのだな と分かった時には、もらったばかりの給料の半分を、一晩で使い果たしていた。
 
 でも不思議と私は、それを後悔していない。
 あの時、自分は、八方ふさがりのどん底に追い詰められていた。
 「自分はこうであらねばならぬ」という目指すべき自分と、そこに到達できない自分との乖離を感じてアセっていたときだった。

 その鬱屈した思いが、一晩で、洗い流されたように思う。
 

 

 虚構の「性」を生きるオカマたちは、その不安定さと引き換えに、透徹した認識力を獲得する。
 《彼女》たちは、女であることに甘えている女性も許さないが、それ以上に威張った男を許さない。

 

 別の店で、女を粗末にしていることを吹聴した男が、オカマたちからコテンパンにやりこめられる現場を目撃したことがあった。
 《彼女》たちは、女以上に、「男の既得権益」のようなものを振りかざす男に容赦がない。

 

 自分がどういう「男」なのか知りたい男性は、一度オカマバーに行くといいのかもしれない。