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コスパ思想で始まり、そして終わった「平成」

 新しい元号が発表になって、いよいよ「平成」という時代も、あと1ヵ月を切るようになったが、そのせいか、テレビなどでは「平成」という時代を事件や歌で振り返る番組が増えた。

 

 「平成」とはどんな時代であったか?

 

 私が思うに、「平成」という時代は、“コスパ” という概念に人々が異様に敏感になった時代だったのではないかという気がする。
 これは、私が考えたというより、すでに今年の正月にNHKEテレで行われた「ニッポンのジレンマ」(写真下)でも取り上げられたテーマだった。

 

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 その番組で指摘されるまで、自分でも気が付かなったが、確かに、日常的に “コスパ” という言葉をなんのためらいもなく使っていた。

 

 「自動販売機やコンビニでペットボトルを買うのってさ、コスパ悪いよな。スーパーまで行かないと
 とかね。

 

 なんのことはない。
 「20~30円高いよな」 ってことを言うだけなのに、“時代に乗り遅れない感” を強調するため「コスパ」とか使っていたわけだ。

 

 で、あらためてコスパとは何か?

 

 知ってのとおり、コスパとは「コストパフォーマンス」の略だけど、この言葉がいつから一般的になったかは諸説あるらしい。

 

 ネット情報によると、すでに1970年代には、自動車とかオーディオといった趣味性の強い高額商品を評価するときに使われていたらしいが、私はその時代、そんな言葉を得意げに語れる裕福な環境にはいなかった。

 

 しかし、その後「コスパ」という言葉は、インフルエンザ・ウィルスのようにじわじわと一般的な企業用語として広がっていった。

 

 普通の家庭の主婦が当たり前のように、この言葉を口にするのに気づいたのは、「平成」の中頃である。

 

 カミさんの友だちが、うちのカミさんに向かって、
 「◯◯のランチは、ワンプレート1,000円もするんだけれど、▲▲に行けば、サラダとデザート、コーヒーもついて980円。もうだんぜん  “コスパ”  が違うのよ」
 とかいっているのを聞いて、びっくりした。

 

 会社の営業会議の会話が、主婦層にまで浸透していることを知って、大変な時代になったもんだと思った。
 

 それにしても、なぜ「コストパフォーマンス」なる経済概念が、平成という時代になると “コスパ” という言葉に縮められて、庶民の日常生活にまで浸透してしまったのだろう。 

 

 平成がスタートしたのは1989年。
 社会主義政権のソビエト連邦が崩壊した年(1991年)とほぼ重なっている。


 つまり、「平成」とは、世界の自由主義国家が「資本主義の勝利だ!」と確信した時代の始まりを告げる年号でもあったのだ。

 

 当然、「コスパ」は、資本主義社会を生き抜く日本企業にとっても最重要課題となった。


 「無駄なものを排して純益だけを追求する」
 この精神がないと、経営は成り立たない。

 

 しかし、問題は、それが経営者たちの意識にとどまらず、一般消費者の考え方まで規定するようになったことだ。

 

 バブル崩壊後、日本の経営者たちがそろって口にした言葉に、
 「これからは社員1人ひとりが、みな経営者の立場に立ってモノを考えないと、会社が存続しない」
 というのがあった。

 

 そういう意識がサラリーマンたちに浸透した結果、「コストカット」や「成果主義」、「自己責任」などという言葉が日本中に溢れるようになった。

 

 こういった風潮は、やがて、家庭の主婦やその子供たちまで巻き込むことになった。
 つまり、平成生まれの子供たちは、無意識のうちに、コスパ的世界観のなかで育ったのだ。


 しかし、「令和」とかいう新しい時代になったのだから、そろそろこの平成的な “コスパ的” 世界観から脱却してもいいのではないか?

 

 たとえば、本を買うとき。
 最近は誰でもアマゾンを利用する。いちいち本屋まで行くことは、手間もかかるし、時間もかかる。つまりコスパが悪いということになっている。

 

 しかし、本屋までいけば、探していた本の隣に、さらに魅力的な本があることを発見するチャンスもある。

 そして、その本の方が、10年先20年先の自分にとって重要な本であったりする可能性がある。
 アマゾンで欲しいものだけ注文するのはコスパ的には正しいが、けっきょくは自分の可能性を閉じてしまうことにつながりかねない。
 
 
 つまり、「コスパ」という言葉が浮上してくることによって、われわれは何かを見失ってしまったのだ。 
 そこで見失われたものこそ、「美意識」とか「古典」、「歴史」という概念である。

 

 「コスパ」を意識していると、どうしても考え方が近視眼的になる。コスパは “取りあえず現在の無駄を省く” という考え方でしかないから、10年後20年後の展望を語ることは不得手。

 

 たとえば、2030年ぐらいの地球がどうなっているかなどという問題は、コスパ的思考では語れない。

 

 もしかしたら、2030年の地球では、世界的な温暖化がさらに進行していて、住んでいる土地が沈没してしまう島の住民もたくさん出ているかもしれない。

 

 そういう問題に直面している時代なのにもかかわらず、“コスパ” のような短期的な利益を求めていていいのか? もっと人間の命とか、生活環境とか、そういうものに考えをシフトさせていくことが大事ではないのか。

 

 最初に触れた『ニッポンのジレンマ』という番組では、誰がいったか忘れたが、次のような発言をした人がいた。

 

 メモを取ったわけではないから、正確な表現ではないかもしれないが、いちおう記しておく。
 それをもって、この稿の結論にしたい。
 
 「“コスパ” という経済合理性だけで物事を考えていくと、哲学や社会科学的な思考はすべて “無駄なこと” になる。
 しかし、今の段階では  “無駄なこと”  であっても、それが20年30年先になると、経済合理性のうえでも必要だったというものが必ず出てくるはずだ。
 だから、目先のコスパ的価値観にとらわれず、これからは、絶えず哲学とか社会科学的なテーマにおいても議論を重ね、ものごとの本質を語りあっていくということが大事である」