前回のブログで、
「平成という時代は、コスパ思想が席巻した時代だった」
という内容の記事を書いたが、実はもうひとつ、「平成」の精神風景を語るときに無視できない概念がある。
それが、「コミュ力」という言葉だ。
平成という時代は、老いも若きも「コミュ力」を高めるために必死にあがいてきた時代だったという気がするのだ。
では、「コミュ力」とは何なのか?
(こう縮めてカタカナ書きすると、「こみゅか」とも読めてしまう。なんか変な言葉である)
そもそも「コミュ力」とは、「コミュニケーション能力」の略語であるが、略語化した段階で、間の抜けた響きになってしまい、なんか本来の意味から外れてくる感じがする。
そして、そこには本来の語義とは異なる日本語としての意味が生まれている。
「コミュニケーション能力」と「コミュ力」の違いは何か?
「コミュニケーション能力」と、最後までこの言葉を言い切った場合、そこには、暗黙のうちに、人間の「スキル」や「キャリア」まで問うような “真剣勝負” の必死さが込められている。
大げさにいえば、真剣勝負の気合が試される場に立つという意味が浮かんでくる。
それに対し「コミュ力」は、他人のインスタに「いいね!」をつけるタイミングの問題にすぎない … というわけでもないだろうけれど、そういう軽さがある。
日本人は、この軽さの方を選び取ったのだ。
「コミュニケーション能力」と大上段に構えてしまうと、当然、「コミュニケーションとは何ぞや?」というやっかいな問題も引き受けざるを得ない。
これは、すでに哲学的な問題であり、
「同じ言語、同じ思考、同じ生活習慣に染まっている者同士が意見交換しても、それをコミュニケーションとは言わない」
という極端な主張が哲学の世界では、昔から論じられている。
その主張から導かれてくる結論は、
「言語も、生活習慣も異なる世界に住んでいた者同士が、何かを伝えようと必死になること自体が、すでにコミュニケーションなのだ」
ということになる。
つまり、結果的に、意志一致が成立するかどうかは、些末なことに過ぎず、
「自分と意見も、思想も、言語も、思考体系も異なる “他者” 同士が、お互いに相手の存在を認めて対峙すること」
それこそが、真の “コミュニケーション” だというわけだ。
事実、国際外交の世界では、こういう考え方で臨まない限り、相手のふところには飛び込めない。
「コミュ力」という短縮形は、その面倒くさい議論を切り捨てたときに生まれた、日本人だけを相手にした言葉である。
つまり、「コミュ力」とは、(ボディランゲージも含めた)「おしゃべり上手」という意味でしかなく、「空気を読む」とか、「忖度する」という気配り能力しか意味しない。
こうも言える。
「コミュニケーション能力」という言葉から哲学と社会学を引いたものが、「コミュ力」である。
で、そういう文脈で「コミュ力」をみて、あるネットでは、「コミュ力が高い人に見られる共通の特徴」という情報が載せられていた。
それによると、コミュ力が高い人というのは、
① 話題を多く持っている
② 協調性がある
③ ポジティブで明るい
④ 笑顔が絶えない
要は、必死で忖度して空気を読む人になれ、ということなのだ。
バカなんじゃないの? これつくった人。
そんなことで、「コミュ力」を高めたところで、日本人が国際社会で生き抜く力は育たない。
私は、「コミュ力」を身に付けるために必死になっている若い者を可哀想だと思う。
確かに、いま会社の新卒採用の基準に、「コミュ力」を挙げる企業が増えているという話は聞く。
なんでも、ここ13年連続で、新卒社員の選考基準のトップは「コミュ力」だったとか。
それは、産業構造の変化に伴って、モノを生産する製造部門よりもサービス部門の方に力点を置く企業が増えていることを意味しているのだそうだ。
しかし、企業側も就活側も、何か勘違いしているのではなかろうか。
・ 協調性がある
・ ポジティブで明るい
・ 笑顔が絶えない
もし、そんな属性を「コミュ力」だと定義しているのだとしたら、「体育会系」の人間しか引っかからないことになる。
人間の「想像力」と「創造力」は、無理してポジティブになることによって萎えてしまうことだってあるのだ。
ペラペラしゃべる前に、自分の言葉がどう相手に届くのか。
そっちの方を想像することの方が大事。
「想像力」によって鍛えられないかぎり、他者の気持ちに届く言葉というのは練り上げられない。
面接官の前で、途切れることなく話す。
合コンで、狙った女の子の気持ちを会話でそらさない。
そういうのを「コミュ力」とはいわない。
「コミュ力」とは、むしろ、謎めいた人間に思われることである。
相手に対し、自分を魅力的な “パズル” として差し出す。
そのためには、無理してポジティブになる必要もないのだ。