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退屈な天国、楽しい地獄 (ボッシュの絵画)

絵画批評

 

 
 トルストイの小説(『アンナ・カレーニナ』)に、
 「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸はそれぞれの家ごとに違う」
 という言葉がある。

 もちろん、お互いに似通っていようが 「幸福な家庭」 の方がいいに決まっている。しかし、逆にいえば、不幸な家庭には「ドラマがある」ということかもしれない。
 
 それと同じようなことが「天国」と「地獄」にもいえる。
  
 古来より、さまざまな民族が「天国」をイメージして、いろいろな説話や絵画を残してきたが、不思議と、どの民族が想像する「天国」も似たりよったりだ。
 空が青く、柔らかい草に覆われた大地に花が咲き乱れ、… という感じで、昼寝するのに適した環境という以上のものがない。

 砂漠の民の思い描く天国のイメージというのをある本で読んだことがあるが、そこは枯れることのない泉があり、緑の木々が涼しげな影を水の上に落とし、木々の間を甘い風が吹き抜けるという光景なのだという。

 なんということはない。
 ただのオアシスだ。
 きっと、それだけ彼らは、水の乏しい過酷な環境を生き抜いてきたということなのだろう。 

 

▼ イスラム文化圏の理想とする「楽園」を具現化したといわれるアルハンブラ宮殿ここにも、砂漠の民が憩いを感じるオアシスのイメージが投影されている

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 人々の想像する「天国」が、類型化されたシンプルなスタイルをとるのとは対照的に、こと「地獄」に関していえば、どの民族が思い描く「地獄」も、それぞれ個性があり、豊富なイマジネーションに彩られている。
 「不幸な家庭」と同じように、人間のあらゆるドラマがそこに結集している感じだ。

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 これは何を意味するかというと、けっきょく「平和」や「幸せ」というものは、人間の想像力をあまり刺激しないということなのだろう。
 それよりも、不幸や哀しみ、苦痛に満ちた状態の方が、人間の想像力を活発にさせるということなのだ。
 
 たぶん、それが生物の基本なのだ。
 自然界の食物連鎖の世界に生きている限り、どの生物も、周りは危険ばかり。
 生き残るためには、常に周囲に気を配り、敵の気配に敏感になり、いざとなったら逃げ出せる退路を考えていなければならない。
 
 草や茂みが動けば、それは風のためなのか、それとも自分を捕食する動物が潜んでいるのか、生物は常にそれを考えていなければならない。
 つまり、そのような心の動きが「想像力」の母体となる。

 人類には、そうやって想像力を養うことで危険を探知してきたという長い歴史がある。
 だから、どうしても、危険と苦痛に満ちた「地獄」の方が、人間の心の動きを忠実に反映する。

 

 15世紀から16世紀を生きたフランドルの画家ヒエロニムス・ボッシュの絵には、およそ人間が想像できる「地獄」のあらゆる様相が克明に描かれている。
 これだけイマジネーション豊かな「地獄」というものも、ちょっとほかには見当たらない。

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 上の絵は、有名な『快楽の園』。
 左から右へと物語が流れるようになっており、左側には神との規約を破ったアダムとイブの原罪が描かれている。

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 そして中央(↓)に進むと、アダムとイブの末裔である人間たちが、肉欲に支配され、堕落して、「淫欲の罪」を犯している場面に変わる。

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 そして右に移ると、罪を犯した人間たちが、地獄でさまざまな責め苦に遭っているところが描かれる。

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 地には、虫とも動物ともとれる奇怪な顔をした生き物が駆けまわり、裸の人間たちはその禍々しい(まがまがしい)生き物たちに追われ、顔を苦痛に歪ませて逃げまどう。
 まさに、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)し、阿鼻叫喚(あびきょうかん)にあふれかえる地獄絵図。
 

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 でも、不思議。
 なんか、みんな楽しそうだ。
 ここには、人間が受けるあらゆる悲惨さが克明に描かれているというのに、なぜだか悲壮感がない。
 苦痛に顔を歪ませる人物も、「ひょっとしたら性愛の頂点でエクスタシーを感じているのでは ? 」と錯覚させるほど。
 
 この絵は何を意味するのか。
 
 古来より、いろんな解釈が存在しているのだという。
 まっとうに読み解くと、
 「キリスト教的な道義に逆らって生きた人間たちが “神の裁き” を受けているところ」
 という道徳的な解釈に落ち着きそうだが、一方では、性的な秘技を重視する異教的な喜びを表現していると指摘する人たちも多い。

 なにしろ、ボッシュという画家に関しては史料も乏しく、伝記的にも不明な点が多いので、彼の絵を読み解くには、残された絵そのものに頼るしかないようだ。
 

 
 ボッシュの生きた時代というのは、どんな時代か。
 イタリアでは、レオナルド・ダ・ビンチが活躍した時代である。
 つまり、ルネッサンス文化の最盛期。

 

▼ ダ・ビンチは、人間を描くときにも、解剖学を元にした人体比率を合理的に追求する人であった

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 ダ・ビンチは美を追求しながらも、常に明晰さと合理性を失わない人であったが、それに対して、アルプスの北で生きたボッシュは、「明晰」と「合理性」とは最も遠いところにある「闇」と「混沌」を愛した画家のように思える。

 だが、まぎれもなくボッシュにも、ルネッサンス期の芸術家たち間が手に入れた「人間の真実」を見つめる怜悧な視線が失われていない。
 ダ・ビンチが見つめた「明晰で合理的な人間」は、同時に「心に闇を抱えた不条理な人間」でもある、ということにボッシュは注目したのだ。 

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 ボッシュは、
 「この世には、神の手の及ばぬ領域がある」
 ということに気づいたのだと思う。

 神の手の及ばぬ領域。 
 それこそ、
 「人間の心には、神すらも制御できない荒野が広がっている」
 という真実に気づいたのだ。
  
 だから、彼には、「悲哀」と「快楽」とは常に背中合わせになっており、「恍惚」は「苦痛」と区別がつかない、という人間の奇妙さを描けたのだ。
 そしてそれは、彼がダ・ビンチに劣らぬ正確な人間観察力を持っていたことを物語っている。