アートと文藝のCafe

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余白を読む美学

文芸批評

 

 

 テレビで観たか、本で読んだか。
 俳句の話。

 俳句とは「余白、静寂、余韻」の文学であるそうな。

 五、七、五

 という限られた文字数のなかで、ひとつの作品を完結させなければならない俳句は、言葉を盛り込むよりも、言葉を切り捨てることによって世界を構築しなければならない。
 
 だから、切り捨てられた言葉は、表に出た言葉の影に潜んで、じっとうずくまる。
 すなわち、それが「余白」。
 「無」ではなく、それは「静寂を背負わされた言葉」なのである。

 西洋風にいえば、「残響(エコー)」 ということになろうか。
 発せられた言葉が沈黙に吸い込まれながらも、遠い場所で、かすかに、いつまでも鳴り響く。

 「残響」には、すでに人間の発した言葉は残っていない。
 そのとき、それはもう「人間の言葉」とは異なる別次元のメッセージになっているのだ。
 すなわち、それが「余韻」。

 

 俳句が「余白」を残すのは、連歌の流れを汲んでいるからだという。
 同好の士が集まり、一人が発句を読むと、それを受けて、別人が発句に新しい句をつなげる。

 たとえば、明智光秀本能寺の変を起こす前に出席した連歌の会では、次のような俳句が読まれたという。

 ① ときは今、天(あめ)が下しる五月(さつき)かな (発句 光秀)
 ② 水上(みなかみ)まさる庭の夏山 (脇句 西坊)
 ③ 花落つる 流れの末を せきとめて (第三句 紹巴)
 
 発句に歌われた情景を、二番手の読み手が自由に解釈し、その流れを組みながら、発句で歌われた世界を広げていく。
 その脇句を受けて、さらに次の人が、第三句、第四句と続けていく。
 それはまるで上流から下流へと流れる川が、同じ水ながら、常に両岸の風景を変えていくのに似ている。

 話はそれるが、歴史小説などを読むと、先の光秀の句には、信長を倒す意が込められていたという解釈が多い。
 つまり、「天下を取るのは今でしょ !! 」という決意が思わず発句に溢れ出たというわけだが、ま、これは余談。

 

 話を戻すと、俳句が「余白」を持つのは、発句の後に「脇句」、「第三」、「第四句」 とつなげていく人たちの “想像力” を受け入れる余地をつくるためだ、というわけだ。 

 文学研究的にいうと、きっとそういうことなんだろう … とは思うけれど、そもそも「余白」こそ、日本文化の真髄ではなかろうか。
 
 形にはならないが、「無」ではないもの。
 その “気配” を察することが、風雅を知る心。
 その象徴的な例として、俳句を意識してもいいのかもしれない。 

 考えてみれば、日本の文化というのは、すべてこの俳句のようなスタイルを取っているのではなかろうか。

 たとえば、長谷川等伯の『松林図屏風』(↓)。


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 霧に包まれた松林の情景を描いたものだが、はて、この松たちはいったいどこに生えているものなのか ?
 海岸なのか、山林なのか。それとも、広大な日本庭園の一角にあるものなのか。
 すべては、文字通り “霧の中” 。

 そんなことはどうでもいいのである。
 ここでは俳句と同じように、機能的には霧が「余白」となって、隠されたものの存在を鑑賞者の “心の目” に委ねていることを知るべきである。
 
 絵から漂ってくるのは、大地を覆い尽くす「静寂」感。
 そして、いつまでも鳴り響いている「余韻」。
 「霧」という形をとった屏風絵の中の “余白” が、現実の松林の彼方(かなた)に広がる別の世界を暗示している。

  

 「余白」が、なぜある種の感興を呼び覚ますのか ?

 そこには、「視点の移動」があるからだ。
 つまり、目に見えるものを、そのまま眺めているだけでは、感興は生まれない。
 「見えているもの」の奥に「余白」 を感じたとき、人は眺めているものの背後に隠された世界があることを知る。

 「隠された世界」を感じた瞬間というのは、「表に見えているもの」が、別の何ものかに変わるときである。
 それが「視点の移動」。

      

 これを、脳科学的にいうと、脳領域のTPJ(側頭頭骨接合部 = 大脳皮質の一領域)に変化が表れることを意味する(らしい … 詳しくは知らない)。
 TPJ というのは、自他の区別と関わる重要な役割を担っていると脳の部位だといわれているが、眺めている対象が、それまで漫然と見ていたものと変わって見えてくるときというのは、このTPJ に変化が起こっているときだという。

 で、このTPJ の変化こそが、人間に「知的な喜び」をもたらすらしい。
 
 そう考えると、俳句や長谷川等伯の『松林図屏風』のように、「余白」をたっぷり含んだ芸術形式というのは、人間に不断の「知的な喜び」をもたらせる文化だといえる。

 感受性とは、物事のこの「余白」を読む心をいう。