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奥行きを失った絵が獲得したリアル感

 

絵画批評
日本の屏風絵の魔術

 
 長谷川等伯尾形光琳らの “屏風絵” について、何かひと言書きたいと思っていたのだが、鑑賞眼もないし、予備知識もないので、何も書けないままでいた。
 
 でも、圧倒されるのだ。
 いったい、こういう空間造形は、どういう精神から生まれてくるのか。 
 それを考え始めると、とてつもない魅力的な課題に立ち向かっているような気になってくる。


▼ 長谷川等伯「楓図」全体

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なんでこんなにポップなの?

 

 西欧近代の絵画を見なれた人からみると、等伯狩野派の屏風絵に描かれる世界は、奥行きを失った、立体感の乏しい平面的な図像にしか見えないだろう。

 
 しかし、現代のポップカルチャーに親しんだ人なら、逆に、このような絵は “絵画” というより、新しい都市環境を彩る “デザイン” だと感じるはずだ。
 
 下の絵は有名な尾形光琳の『紅白梅図屏風』である。
 18世紀(江戸時代)に描かれたものだが、もし、これが現代の高級ホテルのロビーに飾られていたら、どうだろうか。
 ほとんどの人が、現代のアーチストが手掛けるポップアートだと思うのではないだろうか。
  

尾形光琳紅白梅図屏風

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 実際に、デザイナーズ旅館や新意匠の割烹料理店などで見かけるインテリアには、けっこうこのような意匠をモチーフにした装飾が見られる。

 

 それらを称して「和モダン」などともいうが、そういう意匠は、今や大都市圏の店舗設計の中などに相当採り入れられており、西欧風の意匠を施したインテリアを古臭いものに見せるほど、現代の都市空間の中では主導的なデザイントレンドになっている。
 
 現代の「和モダン」的意匠と、安土桃山時代の巨匠の絵画が類似しているのは、いったいなぜだろう?
 それは、どちらも、現代アートとは異なる視点で描かれたものだからだ。

 

 
「絵」ではない、別の何か

 

 長谷川等伯にしても、狩野永徳にしても、彼らは「絵」を描いているという自覚はなかった。
 いや、もちろん「絵」は描いていたのだけれど、それは近代西洋絵画でいわれるような、芸術家が自分の主観のおもむくままに描く “アート” ではなかった。

  
 では、どんなものを描いていたのかというと、建築物の一部を飾る “装飾” だったのである。


 つまり、時の権力者の壮麗な建築物をきらびやかに飾るために、請われるままに細工した室内装飾だったのだ。 

 

 確かに、等伯の代表作といわれる『楓図』にしても、永徳の傑作といわれる『唐獅子図屏風』にしても、要するに “家具” である。 
 彼らは、その “家具” を造形するための「職人」としての自覚をもって制作に励んだ。
 

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狩野永徳 『唐獅子図屏風』

 


奥行きを失った世界の深い「奥行き」
 
 しかし、それにしても、その不思議な空間造形は、圧倒的な迫力でわれわれの胸に迫る。
 そこには、ヨーロッパ的な芸術観などでは解釈できないような、異次元の空間が造形されている。

 

 遠近法という絵画表現を手に入れたヨーロッパ近代絵画は、「奥行き」を手に入れた。
 それを見ていると、われわれは、その絵の中に入っていけるような “深さ” を感じることができる。

 

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▲ 遠近法で描かれたヨーロッパ絵画

 

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▲ 日本の屏風絵
 
 それに対し、日本の屏風絵は、自然がテーマであっても、奥行きがない。
 すなわち、屏風絵に描かれている “自然” は、「絵」としては、人が入ってくることを拒んでいる。

 

 しかし、「家具」としては、(取り外しが自在な屏風絵は)簡単に人の出入りを許す。

 

 つまり、「家具の実用性」と「絵画の芸術性」が、互いに反目し合いながら、溶け合っているという言い方ができるだろう。
  
 この相反するベクトルのせめぎ合いから、一種の “超越性” が立ちのぼってくる。
 奥行きを失ったことが、逆に、見せかけの「奥行き」では表現できない、手が届くことのない世界の存在を浮かび上がらせてくるのだ。
  
 絵画ににじみ出てくる “超越性” というのは、けっして “神秘性” のことをいうのではない。

 
 むしろ、日本の屏風絵のような、奥行きを排した “超フラット空間” から生み出されてくるものだという気がする。

 

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▲ 長谷川久蔵 『桜図』

 

 

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