絵画批評
ジュリアン・オピーを語る
もう、そうとう昔の話になるけれど、会社のパソコンのファイルの底に、「TURBO FREEWAY(TF way)」というゲームソフトが眠っているのを発見したことがある。
自動車レースのゲームだった。
といっても、サーキットではない。
▼ ターボフリーウェイ(TFway)
まばらな木々が植わっている公道で繰り広げられるレースなのだが、パソコンの黎明期のソフトという感じの情報量を極端に絞ったシンプルな風景に、何か不思議なものを感じて、けっこうハマった。
殺風景な景観が、むしろシュールに思えたのだ。
それは、ちょうど映画『マッドマックス』のロケ地である荒涼としたオーストラリアの風景にも似ていた。
こんな風景の場所に独り取り残されたら、寂しさで発狂しそうだ … と思う反面、この画面を額にでも入れて部屋に飾ったら、案外面白いかも … とも思った。
が、つい最近、この「TURBO FREEWAY」の画面とそっくりのアートを発見した。
イギリスの現代アートシーンで有名な( … ということを、そのとき知ったのだが) ジュリアン・オピーの作品だった。
本棚を整理していたら、本と本の間に眠っていた『美術手帖』の2000年9月号に、その絵が載っていたのである。
どうして、そんな雑誌を買ったのか、その雑誌のどの記事を読みたかったのか、今では思い出せない。
で、買ったときには、たぶんジュリアン・オピーのグラビアを見ていなかったか、見ていても意識の中に入らなかったのだろう。
しかし、改めて、この風景は「すごい!」と思った。
いま流行りの3D画面とは真っ向から逆を向いているのに、なぜか、この奥行きを欠いた画面の方に、魅せられている自分がいる。
そもそも、これは絵なのか、イラストなのか、デザインなのか。
商品のパッケージに使われそうなチープ感もあれば、ポップアートとしての存在感も漂わせている。
『美術手帖』の説明を読んで、それが、1990年代の終わり頃から2000年代にかけて話題を呼んだ「スーパーフラット」という潮流に乗った手法であると知った。
その流行から20年遅れて、ようやくその存在に気づいたことになる。
こういう絵の、いったい何に自分は魅了されるのか。
この奥行きを失ったベッタリした画面が、逆に、近代絵画とは別の次元の “奥行き” を感じさせてくれるからだ。
木は、かろうじて木と分かる形にまとめられ、まさに「木」の記号と化している。
木がなければ、その背後に控えている「大地」と「空」を想像することさえ難しい。
まさに、幼児の下手くそな塗り絵。
これを「絵」として認めたがらない人も多いような気もする。
しかし、この絶望的な遠近感の喪失には、別の意味での “奥行き” がある。
奥行きを拒否したフラットな画面が、逆に、その背後にたたずむ何かを感じさせる。
このようなフラット化された空間を追求した20世紀絵画として、すでにマチスやゴーギャンのような巨匠たちがいる。
しかし、彼らとジュリアン・オピーとの決定的な差異がひとつだけある。
それは、「デジタル以前」と「デジタル以降」という言葉で語られるべきものかもしれない。
「象徴」とか、「暗示」とか、「寓意」といったアナログ的な想像力では到達できないデジタル社会の感性で捉えた “彼方(かなた)” がここにはあるように思うのだ。
人間の脳がスーパーコンピューターに置き換えられ、人間がアンドロイドとしての「眼球」を与えられた時に見る光景とは、ひょっとしてこんなもんではなかろうか。
近代絵画の遠近法は、このような空間を描くことができなかった。
遠近法とは、絵画を眺める鑑賞者が、あたかも「その絵の中に入っていける」と錯覚するような作図法で貫かれたもののことをいう。
それは、神を讃えたヨーロッパ中世の宗教画や、仙人の理想郷を描いた東洋の山水画のフラット感を “否定するもの” として登場した。
要するに、それは、「この世に神秘はない」という近代主義思想が生んだリアリズムであった。
ジュリアン・オピーのスーパーフラット絵画は、その近代主義思想を、もう一度転倒させたものかもしれない。
作図法としては、西欧中世美術や、東洋の山水画の構造に近い。
もちろん、そこには「神」も「仙人」もいない。
「理想」も「教訓」もない。
だけど、近代主義的なリアリズムを超えたモノの気配がある。
「何もない」という虚無に向き遭ったときの「畏れ(おそれ)」みたいなものが、そこには刻まれている。
「畏れ」とは、心がおののくことだ。
おののきとは、驚愕でもあり、恐怖でもあり、愉悦でもある。
オピーの静かな絵の中には、耳を澄ませると「驚愕」と「恐怖」と「愉悦」が山々にこだまして、無数のエコー(残響)として鳴り響いているのが聞こえてくる。
「書くこと、それは、語り終えることのないものの残響になることである」
というモーリス・ブランショの文学論は、このジュリアン・オピーの絵に対しても当てはまる。
すなわち、
「描くこと、それは、描き終えることのないものの残響になることである」
私たちが、ある文学、あるいはある絵画に感動するのは、そこに描かれたものを “手に入れた” からではない。
むしろ、手に入れられなかったものを追おうとするからだ。
追っても、追っても、夏の道路のかなたに燃えたつ “陽炎(かげろう)” のように、まばゆい乱反射を繰り返しながら、逃げていくもの。
その乱反射を、ブランショは「残響」と言ったのではなかったか。
ジュリアン・オピーの極限まで “説明” をはぎ取られた「木」や「空」は、実体とは無縁の単なる “記号” であり、具体物の残響(= エコー)にすぎない。
しかし、実体物が去った後にこだましている「残響」とは、すでに実体物とは別の「何者か」である。
ちょうど雲一つない冬の青空が、もはや「空」とは言えない別のモノになっているように。