エッセイ・日記
跨線橋を見に行った。
コセンキョウ ……
家内にそう言われても、それが何を意味するのか、にわかにイメージが湧かなかった。
「ほら、電車の線路をまたぐ橋 … 」
そう言われて、はじめて呑みこめた。
そういえば、ずっと前から「跨線橋」というものを、一度見てみたいと思っていたのだ。
もちろん、電車の上を渡る橋だから、どこかでそういう場所は通っているはずだ。
しかし、ことさら意識したことがなかったので、今日まで「跨線橋」というものが、どういうものなのか、記憶のなかの映像をたどっても、具体的な像を結ばない。
ただ、一枚の絵だけは脳裏に浮かんでくる。
松本竣介という画家が描いた 『Y市の橋』 。
昭和17年頃の横浜市にかかる跨線橋を描いたものだという。
夕暮れの寂しさを背負った不思議な形の橋。
無骨な鉄材を組んだそっけない橋なのに、それがなぜか夢のなかに出てくる橋のように見えた。まるで、魔法の国の入り口のように思えたのだ。
もう一枚、やはり松本竣介の 『Y市の橋』 の別バージョン (↓) 。
前の絵より跨線橋が遠ざかっているが、この絵にも、はじめて見る風景に「デジャブ」を感じたときのような、奇妙なノスタルジーを覚えた。
松本竣介の跨線橋の絵を思い出し、にわかに想像力が刺激されて、
「今日は、跨線橋まで、小さな旅をしてみよう」
ということで、家内といっしょに跨線橋を見に行くことにした。
幸い一番近い跨線橋は、家から自転車をこいで30分ぐらいのところにある。
「中央線が好きだ」
というJRのポスターがあった。
そのポスターに使われた跨線橋だという。
今でもそのポスターの絵柄を覚えている。
いくつかのバリエーションがあったと思う。
どれも、夕暮れの情景だったような気がする。
“旅へのいざない” をテーマにしたJRのポスターが多いなか、そのポスターだけは、どこにもありそうな日常の景色を扱っていた。
なのに、不思議だ。
橋の向こうまでたどり着くと、その先には、まったく知らない世界が広がっていそうな気がした。
跨線橋のマジックだ。
もともと「橋」は、文化史的にみても、“この世とあの世をつなぐ場所” だといわれている。
その橋のなかでも、跨線橋は特に異色だ。
「旅」をイメージしやすい電車が通る線路を越えるのだから、もう橋を越えること自体が、ひとつの旅になってしまう。
私たちが向かった跨線橋も、近づくにつれて、「旅」の様相を強め始めた。
周りの家々の雰囲気がもう違う。
いまどき、こんな家屋があるのだろうか? と思えるような古びた木造建築の家があったりする。
昭和30年~40年頃の雰囲気。
すでに、タイムトリップが始まっている。
橋のたもとに、小さな案内板が立てられていた ( ↓ ) 。
太宰治の写真が掲げられている。
生前、太宰治がこの跨線橋をよく訪れたのだという。
「中央線の上にかかる陸橋に友人を案内することもありました。この陸橋は1929年(昭和4年)に竣工した当時の姿を今も留めています」
という一文が、案内板に添えられている。
太宰の書いたものらしい。
いったいどの作品の、どこに出てくる文章なのだろう。
太宰治の作品を全部読んだわけではないので、それが分からない。
階段を上がる ( ↑ ) 。
いつ頃に作られた階段なのか。
敷石は黒ずみ、斜面は急だ。
跨線橋の上にたどり着く ( ↑ ) 。
誰もいない。
秋の太陽に照らされたフェンスの影が、地面に不思議な幾何学模様をつくっている。
フェンスの隙間から電車が見える ( ↑ ) 。
しかし、動いていない。
ここは東京のJRでも、比較的大きな電車庫になっている場所だからだ。
そのため、運転手のいない電車が無造作にレールの上で休んでいる。
ダダン、ゴゴン …… というレールのきしむ音も、ここでは聞こえない。
無数の線路が見える ( ↑ ) 。
それも、奇妙な静けさに満たされている。
登ったときと、反対側の階段を降りる ( ↑ ) 。
なんとも “慰藉のない” 風景だ。
しかし、その “殺風景さ” がまたいい。
どこもかしこも小奇麗に整えられていく東京の風景のなかで、こういう “ささくれだった” 風景に触れると、整備される前の “荒っぽかった昭和” が見えてくるような気がする。
跨線橋の近くに広がる「車両センター = 電車庫」( ↑ )。
こういうそっけない建物を見ると、遠くに去って行った 「昭和」 のエコー(残響)がまだこだましているようで、奇妙な懐かしさを覚える。
うるおいのない風景が、ノスタルジックな美しさを漂わしているという逆説。
自分がとんでもない時代まで生きてしまった、という不思議な気分にとらわれた。
跨線橋を見たあとは、「丸亀製麺」のカレーうどんを食べて帰った。