映画批評
冬の陽射しが、葉を落とした木々の間をかすって、弱々しく地面にたどり着くような淋しい日だった。
かれこれ、30年近い昔のことである。
師走も近いという休日。
あてもなく街をさまよい歩いて疲れ、それでも家に帰る気もしないという中途半端な心境だった。
どこかの居酒屋の暖簾(のれん)をくぐるには早すぎる。
公園を散歩するには寒すぎる。
どうするか …… 。
途方に暮れていたような自分の目の前に、映画館が現れた。
その映画館をはじめて見たわけではない。
毎日といっていいほど、その前を歩いていたにもかかわらず、記憶に残らないような建物だったのだ。
よく見ると、歩道から入口まで10mほど、埃りっぽい石だたみが続いている。
建物の横には、宅地造成地のような無意味な土地が広がっていて、土煙が上がっている。
廃墟か ? と思えるほどの崩れかかった建物。
バス通りに面しているとはいえ、歩道を歩く人も少ない場末の映画館は、その存在自体が、すでに “古めかしい映画” のように思えた。
何を上映しているんだろう ?
ちらっと映画タイトルを見る。
『マッドマックス』
封切り当時ヒットしたという評判は聞いていたが、興味を感じることもなく、いつしか忘れてしまったような映画であった。
入り口のガラス戸に貼られたポスターを見ると、カーチェイスものらしい。
時間つぶしにはなるか …… 。
人気のないロビーを通って客席のドアを開けると、案の定、客席のほとんどが空席で、ところどころに人の頭が浮いているという程度。
なかには、居眠りでもしているのか、頭を仰け反らせて顔を天井に向けている人もいる。
そんな静かな客席とは対照的に、画面では爆音が轟いていた。
途中から見たので話がつながらなかったが、バイクに乗ったならずもの集団と警察官が戦う話のようだ。
画面に荒涼とした風景が広がる。
見渡す限りフラットな大地。
地平線に向かって単調に伸びる乾いた道路。
砂漠とも、草原ともつかぬ物淋しい風景がどこまでも広がっている。
その風景を切り裂くように、暴走族たちのバイクが爆音を轟かして疾駆し、それを追って、異形のなりをしたパトカーが、大地を揺るがすようなエンジン音を咆哮させる。
▼ 視界を遮る物が何ひとつない荒野を、暴走族たちのバイクが駆け抜ける
▼ 暴走族を追う主人公マックスが操るインターセプター(追跡車)
▼ 主人公マックスを演じたメル・ギブソン
主人公のマックスに追われ、スピードを上げすぎたバイクは、対向して走ってくるトラックを避けきれず、スピードを緩めることなくボンネットの真正面に突入して、人もマシンも弾け飛ぶ。
▼ 対向車のトラックと正面衝突をするバイク
救いのないほど残酷で、ドライで、虚無的なバイオレンス。
ああ、何かが違う ……
即座に、そう思った。
派手にクルマ同士をぶつけ合うカーチェイスといえば、ハリウッド映画の定番なので、それなら飽きるほど見ている。
だから、クルマ自体がちぎれ飛んだり、クルマから放り出された人間が宙に舞うようなシーンを見ただけでは何のインパクトも受けない。
しかし、このオーストラリア映画の『マッドマックス』に描かれたカーチェイスは、それまでのハリウッド製アクション映画とは何かが違っていた。
救いがない。
「壊れ飛ぶマシン」と「弾け飛ぶ人間」が、ただの物質として、同等の視線で描かれている。
この映画に登場する暴走族たちは殺戮を楽しむかのように人を殺すが、その彼らに家族を殺され、復讐におもむく主人公(メル・ギブソン)も同じように、快楽殺人のように暴走族を殺していく。
淡々と … 。まるで人の形をした粘土でもひねり潰すように。
▼ 実際にスタントマンが死んだのではないか、と噂された問題シーン
▼ 静かな田舎町に突然やってくる暴走族グループ。不吉な展開を予想させる不気味な場面
▼ 並んでいっせいにバイクを止める暴走族。無秩序のなかにも統制を感じさせるグループの怖さがにじみ出る
▼ 暴走族のリーダー、トゥーカッター
▼ 慌てて町から逃げ出そうとする若者カップルをバイクで追いかけ、斧を振るってクルマの窓ガラスを打ち破る暴走族
▼ バイクを走らせながら斧を振り下ろすトゥーカッター
『マッドマックス(1)』は、ある意味、暗く、鬱々とした作品である。
全編に、乾き切った暴力の匂いが、砂塵のように宙を舞っている。
主人公が、暴走族のリーダーを死に追いやっても、観客にカタルシスは訪れない。
そもそも、ここには「正義」もなければ「悪」もない。
人間の心を失った暴走族たちと、頭の中を復讐の狂気(マッド)で満たした主人公が吐き出す「破壊衝動」だけが荒涼とした大地に体液のように滲み出し、辺りを虚無的な匂いに染めていく。
自分は、その風景に何を見たのか。
たぶん「この世の終わり」を見たのだ。
▼ 「世界の終わり」を暗示する荒涼たる風景
ハリウッド製の娯楽大作映画は、飽くことなく「人類の滅亡」を描き続ける。
そこでは、人々の死に絶えた町の風景が頻繁に登場する。
核戦争が起こったり、殺人ウィルスが猛威をふるったりして無人化した町。
最近の映画ではCGが発達しているので、いとも簡単に、死の静けさをはらんだゴーストタウンを表現してしまう。
しかし、そういうCGを多用したアメリカ映画の「地球滅亡」よりも、この『マッドマックス』の加工されない荒野の方がよほど「世界の終わり」を感じさせた。
「世界の終わり」は、人間が死に絶えたことによって訪れるものとは限らない。
人間が何も気づかず、普通に生活している間に、実はひっそりと世界は終わっているのかもしれない。
なんか、そんなことすら感じさせるほどの映画なのだ。
今から思うと、1970年代の末期は、世界的に見ても、妙に “世紀末的な気分” が蔓延したような時代だった。
「世紀末」といえば、本当は1990年代の末まで待たねばならなかった。
しかし、90年代に人々が迎えた本当の「世紀末」は、いろいろなところでフェスティバルの企画に取り上げられ、さまざまな消費行動のなかで霧散した。
それよりも、70年代後期の方が、もっと世紀末的なデカダンスを感じさせるものが出回っていた。
特に、この1979年につくられたオーストラリア映画『マッドマックス』には世紀末的な荒廃の匂いを強く感じる。
70年代に入って、「地球がいつまでも続くものではない」という認識が、はじめて先進国を覆った。
石油採掘の有限性が明るみにのぼり、それをタテに取った原油供給国が石油の採掘量を自分たちの手で管理しようと思い始めたのだ。
オイルショックである。
石油資源を無尽蔵に使うことで自分たちの文化を築きあげてきた欧米先進国が、はじめてエネルギーの有限性というリアルな現実に直面せざるを得ない時代が始まった。
70年代というのは、欧米文化の絶対性が崩れ始めた時代の幕開きでもあったのだ。
そういう兆候が、この時代のアメリカ映画においても影を落とし始める。
『タクシードライバー』(1976年)、『カッコーの巣の上で』(1976年)、『ディアハンター』(1978年)、『地獄の黙示録』(1979年)。
テーマもいろいろ作風もさまざまだが、基本的にはアメリカが受けたベトナム戦争の傷跡がモチーフの根底に眠っている。
第二次世界大戦の勝者として、その後の平和と繁栄を謳歌したアメリカが、はじめて経験した軍事的・政治的敗北。
心の底では軽蔑していた “肌の黄色い” 民族に敗れたという屈辱。
ベトナム戦争の敗北は、アメリカの自信をひとつ失わせた。
さらに経済的にも、日増しに強まる新興日本の勢いに押され、アメリカ産業は地盤沈下を続ける。製造業において、「サルまね」とバカにしていた極東の島国に勝てなくなってきたのだ。
戦いの敗北と産業の衰退、それと不況が重なって、アメリカ社会に「終末感」が漂い始める。
それは、同じ欧米文化圏に属するオーストラリアにおいても同じようなものだったろう。
『マッドマックス』という、世の終わりを暗示させる映画が生まれた背景には、それまで世界のスタンダードを作り続けてきた「白人文化」の凋落といった事情が隠されているような気がする。
世の中は無秩序になっていく。
あの荒野を疾駆する、無軌道な “暴走族” たちのために。
ここで描かれる暴走族 とは、“白人の正義” をおびやかす異教徒や異文化の民族パワーが台頭してきたことを象徴していたのかもしれない。
当時の欧米人のそういう不安と諦めが、この映画にメランコリックなニヒリズムのスパイスを振りかけた、といえないこともないのだ。
だから … なのかどうか分からないが、この映画で、暴走族たちが乗り回すオートバイには、みな「KAWASAKI」、「HONDA」などの日本メーカーのエンブレムがくっきりと刻印されている。
もちろんそれは、日本製バイクが高性能マシンとして認知され、白人の若者たちの憧れを一心に集めていたという単純な理由を反映しているにすぎない。
しかし、ガソリンタンクに刻印された「KAWASAKI」や「HONDA」は、もしかしたら、戦闘機の「ZERO FIGHTER(零戦)」と同じように、一種の恐れと忌々しさを感じずには視線を向けることのできない「ハイメカマシンの記号」であったのかもしれない。
それは、「憧れ」と 「恐怖」が表と裏に張り付いた1枚のメダルのようなものだったのだろう。
▼ 日本製オートバイに乗って残虐の限りを尽くすトゥーカッター(右)と副リーダーのババ
この『マッドマックス』のことを考えるたびに、私は、町の中に取り残された場末の映画館のことを思い出す。
それは、必ずセットでよみがえってくる記憶なのだ。
弱々しい、冬の午後の光。
それを眺めるときの、とりとめもなく、やるせない気持ち。
その弱々しい光に照らされたまま、時間を持て余していた人間に、まるで肩ごしに “声をかけてきた” ような朽ち果てた映画館。
その中に入っていくと、スクリーンが、そのまま「終末」の色を帯びた淋しい世界につながっていく。
全体がひとつの映画的な体験だった。
その映画館は、今は無味乾燥な、ただの広い駐車場になっている。