映画・音楽批評
人間の悩ましい情念の高まりを表現するのに、弦楽器ほどふさわしい楽器はない。
「狂おしい」
という言葉を、もし「音」で表すとしたら、ヴァイオリン、チェロといった弦を使った楽器以上のものはないのではないか。
弦をつかった音楽は、時に人間の愛の高まりを精緻にあらわし、時に嫉妬の情を残酷にあらわす。
なにしろ、弦楽器においては、ピアノなどとは違い、低い音域から高い音域まで「音」が途切れなく繋がっていくのである。
徹底して、“アナログの音” 。
演算能力において、コンピューターがいかに人間の脳を超える作業をこなそうとも、人間の「心」を凌駕することはできない。
なぜなら、「心」は、高速化され緻密化されるデジタル世界の、さらにその網の目をくぐり、精緻な心模様を無限に繰り広げていく超アナログの領域に属するものだからだ。
そんな気の遠くなるような「心」の動きを表現するには、弦楽器が一番なのである。
だから、弦楽器は、人間の心を表現する映画の中でよく使われる。
まずは、その代表的な例をひとつ。
ブラームスの弦楽6重奏1番。
特に、あの有名な第二楽章ニ短調。
人間の官能と懊悩の極致を表現するときに、これ以上の音楽はないといえるほどの “悩ましい曲” である。
フランス映画界の巨匠ルイ・マルは、自分の映画のなかで二度ほどこのブラームスの弦楽6重奏を使っている。
一度目は、『恋人たち』(1958年)。
夜の水面を漂うボートの上で、ヒロイン ジャンヌ(ジャンヌ・モロー)は、後に不倫相手となるベルナール(ジャン・マルク・ボリー)と手を重ね、唇を合わせる。
それを機に、燃えさかっていくヒロインの激しい情念。
その心の動きを、まさに音であらわしたのが、この名曲であった。
ルイ・マルは、1992年の『ダメージ』でも、これを使った。
これは、功成り名を遂げた政治家である主人公が、あるパーティーで若い女性と出会い、心惹かれるものを感じるというところから始まる。
が、その若い女を、ある日、自分の息子が「婚約者」だということで、主人公に紹介するのだ。
偶然といえば、あまりにも偶然なのだが、その若い女に対して主人公は、いつしか “息子の配偶者” という立場を超えて、狂おしいほどの情熱を掻きたてられていく。
女もそれに応えてしまうがゆえに、最後は当然悲劇が待っていることになるのだが、倫理や道徳を超えて心を寄せ合ってしまう男女の心模様を、ブラームスの弦楽6重奏が見事に表現してしまう。
▼ 映画『ダメージ』
「もだえ苦しむ」ほどの感情の高ぶり。
人の道を踏み外してしまうことへの苦悩。
そして破滅を知りながら、突き進んでいくときの男女の鬼気迫る感情の動きを、役者のセリフや動作以上に伝えてくるのが、この曲であった。
誠に、弦楽器の音色は、悩ましい。
たぶん、ヨーロッパ型の恋愛感情の成立をうながしたのは、彼らが弦楽器という音を知ったからではないか。
死への誘惑さえ秘めた甘味な響き。
やつらは、ほんとうに罪深い楽器をつくりだしたものだ。
ギリシャ人の音楽家ヴァンゲリスは、この弦楽器の効果をよく知っている人間の一人だ。
彼はシンセイザーの使い方に精通している人だから、弦楽器の効果をシンセサイザーで再現することも多いだろうが、映画『アレキサンダー』(2004年 オリバー・ストーン監督)では、シンガポールのヴァイオリニストであるヴァネッサ・メイを使った秀逸な曲を作っている。
『ロクサネのベール』という曲だ。
▼ ヴァネッサ・メイ
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ロクサネとは、アレキサンダー大王がペルシャを征服したのち、正式な結婚を申し込まれて妻となったペルシャの豪族の娘である。
そのとき彼女は16歳。
伝承では「輝くような美しさを持った娘」といわれている。
同性愛の傾向を持つアレクサンダーが、唯一恋をした女性であったという話もある。
▼ 映画『アレキサンダー」
もっとも、ギリシャからインドに渡る広大な領土を保有するようになったアレキサンダーにとって、地元の豪族の娘と縁を結ぶのは征服民に対する懐柔政策という意味合いもあり、どれほど純粋の愛であったかどうかは分からない。
しかし、征服された地の旧支配階級の出身であったロクサネにとっては、アレキサンダーは唯一の庇護者であり、必死に頼らざるを得ない存在であったことは間違いない。
アレキサンダーは、権力者の常として、他にも多くの愛人・妾をもっていたから、ロクサネの懊悩は激しいものだったろう。
彼女は、ついにアレキサンダーとの間に息子を設けるに至るが、大王の死後その広大な領土は彼の部下によって四部五裂の状態になり、彼女自身も自分の保身を考えた末、自分の地位を狙う他の妻妾を殺害させるなどといった行動を余儀なくされた。
そして最後は、アレキサンダーの元部下に手によって、息子とともに殺害される。
ヴァンゲリスの作曲した『ロクサネのベール』は、まさにそのような運命に翻弄された女の情念をねちっこく描いて余りある曲になっている。
もう1曲。やはり歴史映画の音楽から。
ミクロス・ローザがスコアを担当した『ベン・ハー』から、「愛のテーマ」。
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『ベン・ハ―』(ウィリアム・ワイラー監督 1959年)は、ローマ時代にローマの支配を受けたユダヤ人貴公子の波乱万丈の生涯を描いた映画だが、観客の度肝を抜く大スペクタクルシーンの連続で、後の歴史大作映画ブームをつくったきっかけとなる作品だった。
また、その壮大なドラマの規模に合わせたミクロス・ローザの音楽は、どのシーンにおいても絶妙の音楽効果をもたらしたという意味で、映画と音楽のもっとも理想的な結合を奇跡のように実現した。
なかでも、主人公ベン・ハー(チャールストン・ヘストン)と、その許嫁となったエスター(ハイヤ・ハラリート)が心を寄せ合うシーンの背景に流れた「愛のテーマ」は、大地を揺るがすような壮大な曲が続くなかで、もっとも静謐に満ちた情緒を喚起する名曲のひとつと思われる。
ここでも、ストリングスが、二人の心が徐々に高まりゆくさまを見事に表現して、文句のつけようがない。
映画自体は、いま観ると、さすがにそのユダヤ・キリスト教的なイデオロギーがあまりにも強すぎて、腹にもたれる感じは否めない。
しかし、この「愛のテーマ」は、昔の映画音楽の “おいしい部分” をしっかりとキャッチして、古典として残る作品に仕上がっているように思われる。