高校生の頃、「数学」が苦手だった。(今でもそうだ)
10段階の通信簿で、最高評価が「2」だったし、数学のテストでは、代数も幾何も、100点満点で2~3点を取るのが精いっぱいだった。
「国語」とか「倫理社会」とか「歴史」ってのは、まぁまぁの点を取っていたから、いわゆる “文科系” ってやつなんだね。
それでも、数学って面白いと思うのだ。
数式が出てくると、もう何が何だか分からなくなるけれど、考え方を変えれば、こんなに文科系人間の脳髄を刺激してくれる学問もないのではないか、と思っている。
だから、「フェルマーの定理」とか、「ポアンカレ予想」とかいう “数学の謎” みたいな話になると、妙にワクワクしてしまう。
もう10年ほど前のことだと思う。
「NHKスペシャル」という番組で、「魔性の難問」という番組をやっていたことがある。
「魔性の難問」とは何か。
番組のサブタイトルは、『リーマン予想・天才たちの闘い』。
つまり、数学上の「素数」の謎を、多くの数学者たちが解明するという企画だった。
これがあまりにも面白かったのだ、メモを取りながら見た記憶がある。
「素数」というのは、1とその数自身以外のどんな自然数によっても割り切れない、1より大きな自然数のことである。(Wikipediaより)
で、その「素数」は、2、3、5、7、11、13、17、19、23 …… と続き、それが無限に存在するということは、紀元前3世紀頃のユークリッドの原論において既に証明されていたという。
この「素数」を順に並べていくと、2、3、5 … というように、立て続けに表れる場合もあれば、72個も表れないこともあったりして、まったく気まぐれ。
究極の整合性を約束する「数学」の領域で、まったく整合性を持たない数列なのである。
ところが、多くの数学者は、この一見無秩序でバラバラな数列にしか見えない「素数」が、実は、なんらかの「意味」を持っているのではないか? … と昔から考えていたらしい。
その「意味」とは何か?
番組では、レオハルト・オイラーという18世紀の数学者のことが紹介されていたが、この学者が、無秩序の極みともいうべき「素数」の配列に、きわめて合理的な法則性がありそうだと気づいたという。
彼は、「素数」の一見アットランダムな配列を、ある数式で読み解くと、それが見事に「π (パイ) の2乗を6で割ったもの」に統一されていることを発見したらしい。
残念ながら、私には数学的素養がないので、その数式をここで再現することができないけれど、どうやら「素数」というのは、人智の及ばない “宇宙的合理性” を反映したものではないか? という認識がそこから生まれてきたという。
このオイラーの発見を、さらに緻密に分析した人が、19世紀の数学者で、ベルハルト・リーマン(下)という人だった。
彼は、オイラーの見出した式をさらに徹底させ、ランダムに存在すると思われていた「素数」が、ある数式に置き換えてみると、計算した範囲においては一直線上にきれいに並んでいることを発見したという。
こいつを「ゼータ関数」とかいうらしいのだが、残念なことに、私にはそのカラクリはよく分からない。
分からないなりに書くと、その「ゼータ関数」的に計算すると、おそらくすべての「素数」はきれいに一直線上に並ぶはずだと、リーマンは予想したという。
そいつを「リーマン予想」というのだそうだ。
以降、「素数」に関する研究は、このリーマン予想が正しいかどうかということの証明に費やされるようになる。
ところが、これは実に大変なテーマで、「素数」のからくりに迫ろうとすればするほど、「素数」の正体は遠のいていく。
数学というのは、合理的な計算能力と同時に、哲学的直感ともいえる能力が要求される世界らしく、どの数学者も、自分の計算力と想像力のギリギリのところで格闘せざるをえなくなる。
つまりは、人間の脳を極端にいじめる作業ともなるのだ。
そのため、失意のうちに研究を打ち切るか、精神を病んでしまった学者も多数いるという。
それにしても、なんでそんなことに、世の数学者たちは血道を上げるようになったのか。
彼らはどうやら「素数」が、宇宙を形成する根本的原理を解き明かすものではないか … と考え始めたらしいのだ。
近年の研究によれば、この「素数」というのは、数学上の問題にとどまらず、原子や素粒子などを研究する現代物理学との関連性が強まっていることが分かってきたという。
文科系人間の私がいうのだから、表現的には間違っているのかもしれないけれど、どうやら「素数」の数式的な表現が、原子核のエネルギー運動を表現するときの数式と同一であることが判明したらしい。
こいつは大変な話題だということになって、ついには数学者と物理学者が合同したシンポジウムなどが営まれるようになったそうだ。
番組は、フランスのルイ・ド・ブランジュという数学者が「リーマン予想」の証明に成功したが、それが正しいかどうか、世の数学者たちの検証を待っている段階であることを告げて終わった。
しかし、それにしても、この欧米の数学者たちの一途な研究欲は、いったいどこから生まれてくるのか。
そこには、一種の神がかり的な信念があるように思う。
やはり、一神教的な精神風土の賜物(たまもの)と言わざるを得ない。
彼らの中には、「素数」が宇宙の創造主からのメッセージではないかと考えている人もいるという。
これははっきり言って、「インテリジェント・デザイン」の思想である。
インテリジェント・デザインというのは、この「宇宙」というのは、高度に知的な何者かによって、巧妙に設計されているという世界観を意味し、「キリスト教の神」という言葉を使わずに、その超越的なるものの存在を証明しようという考え方をいう。
つまり、「素数」は、彼らの頭の中では、「数学」を離れて「神学的」な問題となり始めているようだ。
「 “素数” はなんらかの “意味” を持っているのではないか?」 … というような想像力は、一神教的な精神風土からしか生まれてこないように思う。
そういう思考様式に、私は異を唱えるような力も感覚も持ち合わせていないけれど、欧米人というのは、「意味」を追求する姿勢に関しては、われわれ日本人とは異なる情熱の持ち主であることだけははっきりと感じた。
そういう風に考えると、「数学」を考えることは、「宗教」とか「哲学」を考えることにつながる。
きわめて、文科系的な問題だと分かってくる。
興味は尽きない。