アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

リバプール時代のビートルズ

  

 年を取るということは、涙腺が緩みやすくなってきたということかもしれない。
 感情を制御する機能が衰えてきているせいか、突拍子もなく、そういう状態が襲ってくる。

 

 10年ぐらい前だったか。
 土曜の夜のことだった。


 大森屋の「しらすふりかけ」を手のひらにこぼして、それをツマミとしてべろべろ舐めながら、レント(※ 奄美黒糖焼酎)の水割りを飲みつつ、テレビを見ていたときだ。

 『地球街道』という番組で、女優の藤田朋子夫妻が、リバプールを訪れるというドキュメント映像が流れた。
 
 リバプール

 

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 ビートルズ(上)が、青春時代を過ごした町だ。
 
 ジョン・レノンの生家。
 ペニーレイン。
 ストロベリーフィールド。
 セントピーターズ教会。
 キャバーンクラブ(写真下)。
  などが次々と画面に登場する。

 

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 へぇ こんなとこだったのか
 と、画面を食い入るように見た。
 
 ビートルズは好きだったから、それらの固有名詞はみな知っていたけれど、具体的な映像を見るのは初めてだった。
 


 まず驚いたのは、ジョン・レノンの生家などが、まるで観光資源のように、しっかりと保存されていたことだ。
 ジョンの寝たベッド。弾いたギターなどが、そのままの状態(作為的だったけれど)で残されている。
 
 ああ 連中も、「古典」になったんだなぁ と思った。

 
 昔の音楽の教科書なんかに出てきた「ベートーベンの生家」、「ショパンの生家」みたいなものと同じ扱いだったからだ。
 


 で、セントピーターズ教会というのが出てきた。
 
 そこの体育館みたいなところで、ジョン・レノンがコンサートを開く段取りだったという。 

 

 … ということを、頭の禿げ上がったようなジジイが説明している。

 ジジイはいう。
 「そのとき、ジョンと知り合ったばかりのポール・マッカートニーが、この場所に寄ってきて、いきなりジョンのギターを取り上げ、それを弾き出したのです!」

 

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 「その、ポールがギターを弾いた場所がここです」
 と、頭の禿げ上がったジジイが、大げさな身振りで、教会の床の部分を指差し、興奮気味に叫ぶ。

 

 そのとき、ジョンは、ポールの音楽技量にびっくりして、すぐさま自分のバンド「クオーリィメン」(写真下)のメンバーにポールを誘ったのだという。

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 「まさに、この場所で、歴史が始まったのです! その場を、当時15歳だった私は、一部始終を見ていたのです」

 ジジイの目に涙が浮かんでいたようにも見えた。

 

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 ガーン、と自分の涙腺もゆるくなって、目頭に涙がにじんだ。
 
 体育館のような、ただの板敷の場所で、ジョンのギターをポールが弾いた。
 それがなかったら、ビートルズはこの世に存在しなかった。
 
 そう思ったら、テレビに映ったそのなんの変哲もない空間が、突然、まばゆいばかりの光に満ちた神聖な場所に見えてきた。

 
 
 人間の歴史は、偶然に左右される。
 
 俺が、ビートルズから与えられた愉楽、勇気、快感
 それを可能にしてくれた「偶然」の出会いを実現した場所。
 
 そのとき、それだけで、もう涙が出た。
 
 
 その後、ビートルズのデビュー前までドラマーを務めたピート・ベストが出演した。
 白髪頭の、ただの酒屋のオッサンみたいなオヤジ。

 

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 しかし、彼こそは、ビートルズがレコードデビューを果たす以前、ドイツのハンブルクなどで荒稼ぎをやっていた頃の主要メンバーだったのだ。
 
▼ 現役時代のピート・ベスト

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 ところが彼は、他のメンバーに比べて、音楽技量が劣っているというマネージャーの判断によって、ビートルズを解雇される。
 
 ビートルズのドラマーには、リンゴ・スター(写真下)が加わり、ピート・ベスト以外のメンバーはレコードデビューの後、世界進出を果たす。

 

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 「あのときは辛かったよ」
 と、今は一庶民となったピート・ベストが語る。
 

 
 だけど、彼は日本から来たインタビュアーの質問にも、終始穏かなニコニコ顔を浮かべている。
 本当に幸せそうだ。
 
 その幸せは、今の彼を支える大事な一言を、ジョン・レノンからもらったときに生まれたという。
 
 「ビートルズの最良の音は、レコードになっていない」
 
 超有名人になったジョンが、ある日ピートと再会したとき、そう語ったのだという。


 
 「ビートルズの一番素晴らしかった演奏は、俺たちが無名時代だったとき、お前がドラマーを務めていたハンブルグ時代のライブだ」

 

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 ジョンのその言葉が、ビートルズを解雇されて以来、ずっと失意のどん底にいたピートを救った。
 
 ジョンはお世辞を言ったわけではない。

 

 今、ようやくハンブルグ時代の音源の一部が、CDなどにも出回るようになった。
 音は稚拙で荒っぽい。


 でも、そこには後のビートルズには見られない、自分たちの可能性を信じる楽天的なふてぶてしさが生んだ、みずみずしい音があった。
  
 ビートルズのメンバーは、成熟と引き換えに、メンバー同士の軋轢も重なって、やがて、みずみずしさを失っていく。
 
 ピート・ベストは逆に、メンバーから外されたがゆえに、永遠の「みずみずしさ」を手に入れた。


 だから、テレビに映ったピート・ベストは、今もなお幸せそうな笑顔を浮かべることできるのだ。
 
 ビートルズよ、ピートよ、ありがとう。
 あんたたちのくれた音のおかげで、俺は幸せだったぜ。

 
 
 
MONEY (1962) by the Beatles with Pete Best
youtu.be

 

 

 

分断社会の心理学

 

 アメリカの大統領選にほぼ決着がつき、トランプ氏やバイデン氏の報道も、もう日本のニュースではほとんど流れなくなった。

 

 しかし、選挙の騒動から一ヶ月が過ぎ、ようやく見えてきたものがある。

 

 それは、アメリカ社会に広がった「分断」の予想外の深さだ。

 

 今回の選挙で獲得した得票数は、負けたトランプ氏が7,100万票。
 勝ったバイデン氏が7,500万票。
 その差は、400万票でしかなかった。

 

 さらにいえば、敗れたとはいえ、トランプ氏の得票は前回より800万票以上も上積みされているのである。

 

 これを見ると、この選挙には「勝ち負け」がなかったことが分かる。
 ルール上は「バイデン勝利」となるが、実質的には「引き分け」。
 すなわち、アメリカは、トランプ氏を支持する人たちと、バイデン氏を支持する人たちによって、真っ二つに分かれたという構図が浮かびあがった。

 

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 「21世紀に入り、アメリカ合衆国の大統領選挙が実施されるたびに、アメリカ国内の深い “分断” が浮き彫りになってきたが、この2020年の選挙ほど、世論が二分されたことはなかった」

 

 そう語るのは、同志社大学の藤井光教授である(朝日新聞12月2日夕刊)。

 

 藤井教授によると、
 「1990年代までは、アメリカの民主党支持者と共和党支持者の価値観はある程度重なりあっていた」
 という。

 

 ところが、2000年代に入ると、民主党支持者と共和党支持者が抱く価値観に少しずつ隔たりが生じるようになってきた。

 

 民主党には、都市圏や大学を中心とした支持者が集まるようになり、一方の共和党は、地方に広がる白人ブルーカラー層から支持される傾向が強まった。

 前者がリベラル。
 後者が保守。
 支持者別に表現すると、「都会のエリート層」と、「地方のワーキングプア層」。

 

 大統領選挙中は、このような分け方がアメリカの主要メディアでなされ、日本の報道もそれにならって、この図式を踏襲した。

 

 しかし、この図式は、「分断」の表層的な部分をなぞっただけではないのか?
 つまり、「分断」を招いた要因をさらに詳しく調べると、また違った見方が生れてくるのではないか?
 アメリカでは、選挙後そういう声が次第に強くなってきた。

 

 そういう問題提起を行った学者の一人ハーバード大学マイケル・サンデル教授は、次のようにいう。


 「今回の選挙で浮き彫りにされたのは、アメリカのエリート層の傲慢さだ」 
 (2020年12月2日の読売新聞)

 

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 つまり、トランプ氏が予想外の善戦を繰り広げた背景には、民主党を支持するエリート層に対し、一般のアメリカ庶民の反発が大きくなったという見方が成立する、とサンデル氏は語る。

 

 バイデン支持者とトランプ支持者の学歴を調査したところ、大卒以上の投票先は、バイデン候補が57%。トランプ候補は41%(AP通信)。
 つまり、バイデン支持者の方が高学歴であることが判明した。

 

 しかし、むしろそこに問題がある、とサンデル氏はいう。

 
 「この高学歴者たちの傲慢さが、今回の大統領選では非エリートたちの予想外の反感を呼んだ」
 つまり、その “反感票” がトランプ氏に流れたというわけだ。

 

 エリート層と非エリート層の分断。
 それは何もアメリカ社会に限ったことではない。
 むしろ、グローバリズムによって経済発展を遂げたすべての先進国に共通して見られる傾向といえる。

 

 思えば、2016年に起こったイギリスのEU離脱騒動も、同じ構造だった。
 当時、移民の流入によって自分たちの仕事を奪われることを危惧したイギリスの労働者階級は、移民の受け入れを積極的に進めるEUに反感を持つようになった。

 

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 それに対し、EUに留まる方がイギリスの経済的・社会的地位を保証するといって “離脱派” をけん制したのが、若者を中心としたエリート層だった。

 

 結果はエリート層の敗北に終わったが、そのときに語り継がれるようになったのは、
 「傲慢なエリート層と、それに耐える非エリート層」
 という “物語” だった。

 

 アメリカの非エリート層も、イギリスの非エリート層も、けっして無知で無教養な低学歴労働者ではない。
 両者とも、かつては「健全で、良心的で、豊かな中産階級」だったのである。
 それぞれが、国の中核を担う中流家庭の人たちだったのだ。

 

 そういう人たちが没落していったということは、何を意味するのか?
  
 グローバリズムによる格差社会が到来したということである。
   
 ものすごく乱暴にいえば、グローバル経済の進展によって、とてつもないお金を手にした超富裕層が世界中に出現してきたのだ。

 

 彼らは、一度手に入れた「富」を、子孫にも残すようになる。
 かつての貴族社会のような、金持ちの世襲制が誕生したといっていい。

 

 起業家の慎泰俊(シン・テジュン)氏は、そういう社会構造をもたらした現代社会のお金持ちの心理を、次のように語る。(朝日新聞 12月2日)

 

 「発達した資本主義社会では、経営トップや創業社長など『能力がある人』に富が極端に集中する。
 そのような富の大きさが、現代社会では、あたかも人格的な優越までも示唆するかのように設計されている」

 

 つまり、そこに「勝ち組」と「負け組」という意識格差が生まれ、それが現代社会の大きな「分断」を招く要因になっているというのだ。
 
 前述したハーバード大学マイケル・サンデル氏も、同様の見解を示す。
 すなわち、
 「資本主義社会で “勝ち組” となった人々が、メリトクラシー能力主義)の文化を持ち上げすぎてしまった結果、非エリート層との “分断” が生まれた」
 とも。


  
 人間の常として、「優秀」で、「能力」と「分別」を持つ人ほど傲慢になりやすい。
 そうなると、その傲慢さを嫌う人々もまた自分たちの主張を強めざるを得ない。

 

 その二つがいがみ合ったときは、どちらの陣営も、自分たちの戦意を鼓舞する「物語」が必要になってくる。

 

 アメリカ大統領選の場合、バイデンを擁立した民主党支持者の「物語」を列記するのは簡単だ。
 「人種差別反対」
 「人権の擁護」
 「経済格差の是正」
 「性的マイノリティーへの支持拡大」
 「地球温暖化政策への取り組み強化」

 

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 このような “理知的” な「物語」の提示は、知的エリート層がもっとも得意とするところだ。

 

 それに比べ、トランプ氏を支持した人々の「物語」は、こういう理知的な形をとらない。
 彼らの心理の底にはエリート層への反発があるから、そこから噴き出す「物語」はもっとパッショネート(情動的)だ。

 

 すなわち、
 「民主党の大物がこっそり甘い汁を吸っている “影の政権” を叩きつぶす!」
 というような、Qアノン的陰謀論に近くなる。

 

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 そういうトランプ支持者の陰謀論的な物語に理解を示すか。
 それとも、バイデン支持者を構成するエリートたちの傲慢さを容認するか。

 

 それによって、アメリカ大統領選を考える視点は、まったく異なってくる。

 
 近年、アメリカの民主党的なリベラリズムに対し、それに違和感を抱くような意見が日本にも出てくるようになった。

 

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 哲学者の萱野稔人(かやの・としひと 写真上)氏は、自著『リベラリズムの終わり その限界と未来』(2019年11月20日)において、
 「欧米諸国でも日本でも、リベラル派の主張は現在、かつてほどの支持を集められなくなっている」
 と指摘する。

 

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 「その理由は、リベラル派の人間が、自分たちのご都合主義に無自覚なまま『正義』を掲げる独善性に、多くの人がうんざりしてきたからである」
 という。

 

 このくだりは、前述したマイケル・サンデル氏の、「米国エリート層の傲慢さ」という指摘と呼応している。

 

 萱野氏とサンデル氏は、
 「リベラル派の人間は、自分たちの主張に支持が集まりにくくなっている現状を『人々の意識の低下』、『社会そのものの劣化』と批判するが、そういう批判こそ、自分たちの傲慢さを自覚していない証拠」
 と見るところが共通している。

 

 彼らの指摘は、アメリカの民主党にシンパシーを感じていた日本人にも、ある程度の反省をうながす契機になるような気がする。
 また、無条件に「反トランプ」を掲げてきた人にも、物事を冷静に考えるためのいい刺激となったはずだ。

  

 私などは、米大統領選の間、ずっと「反トランプ」的な視点でニュースを眺めていたから、トランプ支持者たちの心理分析を試みた(サンデル氏らの)指摘は勉強になった。

 

 ただ、最後に触れた萱野氏の “反リベラル論” に対しては、若干批判したいところがある。
 長くなるので、それは稿を改めて語りたいと思う。

  

 

現代の「不倫」が貧しいわけ

 

 「不倫」がこれほど社会的バッシングを受けるようになってきたのは、いったいいつ頃からだろう。

 

 最近のテレビ報道などを見ていると、不倫が発覚したタレント・芸能人に対する番組コメンテーターや視聴者の糾弾がどんどん激しさを増している。

 

 その理由を探ったあるネット情報によれば、スマホの普及を背景に、視聴者が、それまでの自分には手が届かなかったマスメディアに対し、自分の声を反映させるコツを覚えたからだという。

 

 視聴者の声を素直に反映し、ワイドショーのコメンテーターの口調も不倫した者への叱責をどんどん強めるようになった。

 

 こういう動きが顕著になってきたのは、2013年から2015~1016年頃。
 2013年の矢口真理、2016年のベッキー、2016年の宮崎謙介。 
 こういう人たちの不倫がマスコミでも批判的に取り上げられるようになったのは、いずれも、彼らに対するネットユーザーたちの誹謗中傷が激しくなっていった時期と重なっているそうだ。

 

 では、なぜネットユーザーたちは、この時期から、急激に「世の中のモラル」や「社会正義」を声高に主張するようになったのか。

 

 ある社会学者によると、国民のストレスがそれだけ増大するような社会が到来してきたからだという。

 

 要は、マスコミやネットによる不倫バッシングが横行すればするほど、不倫を批判する人たちは、自分がマジョリティーであるという安心感を得ることができる。
 逆にいえば、それほど現代人は、マイノリティーとして孤立していくことを恐れるようになったともいえる。

 

 確かに、そういう説明には一理ありそうに思う。

 

 しかし、私はこれを「文化」の問題としてとらえている。
 不倫を「文化」として考える思考回路が、今の人たちにはなくなってきたのだ。

 

 昔、ある俳優が、自分の不倫をマスコミから糾弾されたとき、「不倫は文化だ」と開き直って、発言がさらに炎上したという話があった。
 たぶんに誇張された談話だったらしいが、この発言には、ある部分「真実」が含まれている。

 

 実際、文学などでも、不倫をテーマにした小説には名作が多い。
 世界最古の “恋愛小説” といわれる『源氏物語』(11世紀)は、現代の基準に照らし合わせてみると、不倫文学である。

 

宝塚歌劇の『源氏物語

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 ヨーロッパで最初の恋愛文学といわれる『トリスタンとイゾルデ』(12世紀)も、はっきりした不倫小説だ。

 

 なぜ、洋の東西を問わず、恋愛小説は「不倫小説」の形をとって始まったのか?

 

 それは、そもそも恋愛自体が「不倫」から始まったからだ。
 つまり、昔の人は、人間の「恋愛感情」というものを、恋愛が許されない環境のなかではじめて知ったのである。

 

 中世に生まれた『トリスタンとイゾルデ』の話は、もっとも端的にそれを物語っている。
  
 若い騎士のトリスタンは、マルク王という隣国の叔父が結婚するときに、その花嫁となるイゾルデという王女を護衛しながら、王のもとに向かう。

 

 しかし、トリスタンとイゾルデは、本来ならマルク王とイゾルデが飲むことになっていた「惚れ薬」という媚薬を旅行中に間違って飲んでしまい、それがもとで、激しい恋に陥る。

 

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 婚約者であったマルク王は、そのことを知って激怒する。
 そのため、トリスタンとイゾルデは、マルク王の追跡を振り切り、逃亡を重ねる。

 

 長くは説明しないが、当然、こういう不倫の恋が悲劇を招かないわけはない。
 それがゆえに、この話は今もって哀しい恋愛小説の古典として読み継がれている。

 

 こういう不倫文学の系譜は、近世から近代のヨーロッパにおいても途絶えることなく名作を生み続けた。

 『危険な関係』(ラクロ)
 『赤と黒』(スタンダール
 『ボヴァリー夫人』(フロベール
 『アンナカレニーナ』(トルストイ)などは、単なる不倫小説というよりも、普遍的な恋愛文学として多くの読者に愛されている。

  

▼ 話を現代に置き換えて映画化された『危険な関係』(1960年)

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 日本文学でも、不倫を描いた小説は多い。
 多くの愛読者を抱えている村上春樹にも、不倫を真正面からテーマに据えた『国境の南、太陽の西』がある。

 

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 村上龍の方には、『テニスボーイの憂鬱』というラブロマンスがある。

 

 私は、この両村上の不倫小説を読み、ともに「大人の恋愛小説」だと思ったが、正直にいうと、どちらも今ひとつ物足りなかった。

 

 不倫を描きながら、どんな恋愛小説よりも、“倫理的な美学” を打ち出したのは、立原正秋(1926年~1980年)だ。

 

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 立原が作家としての存在感を発揮したのは1960年代後半から70年代にかけてである。
 彼の作品を、私は1970年代半ばにそうとう読んだ。
 25~26歳のときだった。
 
 彼の小説に出てくる男女には、どちらにも “凛とした” 風情があった。
 
 そこに描かれる男女は、不倫をしていても、まさに “死を賭した” とでもいえるほど苛烈なものだった。

 

立原正秋の原作『情炎』をもとにした映画

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 不倫の恋は成就を求めない。
 2人の関係が明日も続く保証はどこにもないからだ。
 だから、逢っていても、一瞬のきらめきの底には、常に闇が沈んでいる。
 
 逢瀬が終わり、別れるときは、二人とも「未練」を噛みしめるどころか、逢うのはこれを最後にしようという「断念」と戦わなければならない。

 

 立原の小説は、この「断念」の苛烈さによって、凄絶な美を生み出していた。

 

 

 もうひとり、すさまじい不倫小説を書く作家だと思った人に、森瑤子(1940年~1993年)がいる。

 

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 彼女の活躍がいちばん目立ったのは、日本がバブル景気に向かう直前(1970年代後半から80年代にかけて)だったので、バブリーでゴージャスな恋愛小説の書き手として人気を博した。

 

 特に、1982年に刊行された『情事』は、80年代の不倫小説の白眉だった。
 この小説に魅せられて、一時期、私はずいぶん彼女の小説を読みあさった。

 

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 アンニュイに満ちた大人の世界を華麗な文体で描き尽す彼女の小説は、日本の新しい都会小説の誕生を感じさせた。

 

 しかし、その文体の隙間に潜んでいたのは、バブリーな生活を重ねてもけっして心を満たしてくれない都会人の「寂寥感」だった。
 
 「華やかなことは哀しいことだ」という諦念を、もっとも華やかな文体で描き出す。
 それが彼女の真骨頂だったかもしれない。

  

  
 立原正秋も森瑤子も、今はあまり話題になることはない。
 しかし、彼らの不倫文学は、
 「不倫には格調を伴った不倫もある」
 ということを教えてくれる。

 

 成就することを断念する恋。
 その苦痛に、目を閉じて耐えるときに見えてくる「もののあわれ」。
 そこまで突き進んで、はじめて「文化」になるような不倫も生まれてくる。

 
 
 ひるがえって、昨今の芸能人が催す「不倫謝罪会見」を見る。
 すると、そこで吐き出される言葉の、あまりの貧しさに愕然とする。

 

 「申し訳ありませんでした」と、涙顔で訴える彼らの言葉の空疎な響き。

 誰に対して申し訳なかったのか。
 誰に自分の言葉を届けたかったのか。

 

 そういうことを事前にまったく考えていなかったことが “不倫男たち” の謝罪会見からは見えてくる。

 

 要は、彼らには覚悟がないのだ。
 一度不倫に踏み切ったからには、その後は山の庵(いおり)にでもこもり、周囲の四季を眺めながら人生をたたむぐらいの覚悟が必要なのに、彼らはあさましくも自分の仕事も家庭も手放そうとしない。

 

 そのような謝罪会見の場で、さらにうすら寒いのは、記者会見に臨んだ人間を、まるで火あぶりの刑に処するように、冷酷な質問を浴びせるレポーターたち。

 

 レポーターたちの口調にも、「自分は正義に加担しているから正しい」という驕りが見える。
 そういう寒々とした光景が、現代の「不倫」を貧しいものにしている。

   

 

エドワード・ホッパーの “晩秋”

  

 師走。
 この年最後の月が来てしまった。
 
 とはいえ、12月初頭は、まだ “晩秋” の気配が残っている。
 年の瀬が近づく頃より、逆に、今の方が「一年の終わり」という空気感が漂う。

 

 真冬になってしまえば、逆に、訪れる春に向かって、生命が待機状態に入っているという気分が強まってくる。
 大地は枯れ果てても、土の中で生命が胎動している気配を感じ取ることができる。
 
 しかし、晩秋は「終わっちゃったよ 」の感じ。
 暮れゆく空を眺めていると、パチンコの最後の玉が穴に消え行くのを目で追ってから、おもむろに席を立つときの、あの心境に近づいていく。
 

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 冬に近づくと、光が変る。

 どこか、この世でないところから射してくる光が感じられる。
 落ち葉の上を、ひたすら、細く、長く伸びていく影。
 地平線があれば、それを超えて、さらにその先まで伸びていきそうな初冬の影を見ていると、影が、この世界とは違う場所に行こうとしているような気がする。
 

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 照射角の低い晩秋の陽は、建物の真横を直撃し、そのために、ただの家の壁さえもメタリカルに輝き出す。
 
 エドワード・ホッパーの絵を見ていると、いつもその晩秋を感じる。
 この世でありながら、この世界を超越するような光景を作り出す不思議な光。

 

 ホッパーの絵に表れる光は、時に恐ろしく、時になつかしい。
 

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 幼い頃に見ていた風景は、大人になって接する風景よりも、はるかに美しく、鮮やかに輝いていたはずだ。

 

 しかし、それは同時に、世界を「言語」を通してみる習慣を持たなかった頃の、生々しい不安や恐怖にも彩られている。

 

 ホッパーの絵から漂ってくる怖さというのは、ちょうど迷子になった子供が感じるような怖さに近い。
 

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 彼の絵から立ち登ってくる言い知れぬ不安感は、幼い日の夕暮れに、買い物をしている親からふとはぐれてしまったときの不安感に似ていないだろうか。
 
 そういうときに見ている街の風景は、見慣れた街であっても、「この世の風景」ではない。
 時間が凍結し、物音も途絶え、「世界」が急に “うつろ” になっていく気配に満たされた風景だ。
 

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 大人になったわれわれは、「迷子」の怖さを忘れている。
 
 「迷子になる」というのは、単に親からはぐれてしまったことをいうのではない。
 自分が何者なのかも分からず、どこを目指そうとしているのかも分からないという、人間の根幹を揺るがすような不安と孤独に接する状態を「迷子」という。
 

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 ホッパーは、「迷子」の不安と孤独を描いた画家である。


 だから、彼の絵に接すると、「自分は今どこにいるのだろう?」と問わざるを得ないような、世界のまっただ中で孤立しているような哀しみがこみ上げてくる。
 しかし、そこには、とてつもない「なつかしさ」も潜んでいる。
 

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 「なつかしさ」と「不安感」は、両立する感情なのだろうか。
 ホッパーの絵では、それが見事に両立している。

 

 彼の絵に漂う「超越的な雰囲気」というのは、その二つが奇跡のように結合したところから生まれてくる。
 晩秋の不思議な光が生み出す魔術のように。 
  

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絵画記事
 
 

 

 

三島由紀夫 没後50年

 

 作家の三島由紀夫が、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた事件(1970年11月)から、今年で50年経つ。

 

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 それにちなんで、テレビも含め、いろいろなメディアで三島の生前の功績やあの事件の意味を問うような企画が続いた。

 

 昨日の夜、その一つであるEテレの『三島由紀夫 没後50年』という番組を見た。
 そこでは、三島が創設した元「盾の会」メンバーへのインタビュー、文芸評論家たちの分析などが行われていた。

 

 また別の番組では、生前の三島を知らない若者たちに、「三島という作家に対する印象」を尋ねたりもしていた。

 

 意外なことに、三島に対して強い関心を持っている若者が多いことを知った。
 作品を愛読している若者も多く、その文章に傾倒していると告白をした人もいた。

 

 今の若者にとって、三島由紀夫とはどういう存在なのだろう。
 私はそこに興味を持った。

 

 たぶん、今の若い人たちは、三島の作品(および行動)から、今の時代に欠けている「精神の強さ」みたいなものを感じたのだろうと思う。

 

 「死」を賭してまでも何かを訴える。
 そういう苛烈な生き方を、今の若者は経験したことがない。
 さらにいえば、彼らの両親や教師からも、そういう人生を歩んできた気配が感じられない。

 

 一見平和で、どんな自由も許されているような現代社会。
 しかし、そこには真の明るさはなく、理由の分からない閉塞感だけが漂っている。

 

 若者たちのそういう “いらだち” が、「死」を賭して決起した三島由紀夫という存在に対する関心を呼び寄せているような気がする。

 

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 1970年。45歳の三島が自ら命を絶ったとき、私はちょうど20歳だった。
 私も “時代の子” であったから、三島由紀夫という作家の著作は多少は読んでいた。

 

 デビュー作ともいえる『仮面の告白』、吉永小百合山口百恵などが出演した映画として評判を取った『潮騒』、金閣寺の放火犯を主人公にした『金閣寺』、2・26事件をテーマにした『憂国』といった話題作もフォローしていた。
 また、小説だけでなく、『私の遍歴時代』や『文化防衛論』のようなエッセイにも目を通していた。

   
 が、はっきり言って、「感動した」といえるほどのものが少ないのだ。
 『花ざかりの森』のような、彼が少年期から青年期に書いた小説にはものすごく愛着を感じたが、彼が大人になってから書いたもの大半は、私にはあまり面白いとは思えなかった。
   
 作家として大成してからの三島作品の印象を一言で語ってしまうと、その文章から「リアリティ」というものが感じられなかったのである。
 
 ところが、彼はこんなことをいったらしい。
 「私は、現実には絶対にありそうもない出来事をリアリスティックに書く」
 (『盗賊ノート』)
  
 この言葉を、どこか別の本で読んだとき、「不思議なことを言う人だな」と思った。
 私の印象はまったく逆で、現実によく起こりそうな出来事を、きわめて観念的に書く作家というイメージがあったからだ。
  
 “リアリスティック” に書かれたものが、リアリティを保証するとは限らない。

 三島由紀夫は、たとえば『金閣寺』において、金閣寺に放火する若い僧の内面を、彫刻を刻むがごとくに、精緻に巧妙に穿(うが)っていくが、そこで描かれる人間の内面世界は、「美への希求」とか「美への嫉妬」などという抽象化された観念に過ぎず、生身の人間の手触りがごっそりと抜け落ちているように思えた。

 

 このように、三島作品そのものからはさほどの感動は得られなかったが、しかし である。
 彼の作品をテーマにした批評家たちの書く “三島論” には、どれも大いに想像力をかき立てられた。

 

 いちばん最初に読んだのは磯田光一の『殉教の美学』(1964年)だった。
 これは、三島自身の書いたどの著作よりも数段面白くて、刺激的に思えた。

 

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 磯田氏の三島由紀夫論は、セルバンテスの書いた有名な『ドン・キホーテ』の紹介から始まる。
 
 『ドン・キホーテ』とは、こんな話だ。
 
 17世紀初頭、中世の騎士の時代が終わったにもかかわらず、騎士を気取るスペイン人ドン・キホーテは、従者のサンチョ・パンサと二人で「騎士道を生きる旅」に出る。
 キホーテは、ただの風車を伝説上のドラゴンと間違えて突進するような人で、いわば妄想に取り付かれた老人である。

 

 その狂人キホーテに、正気のサンチョ・パンサはうんざりしながらも従者として付き従う。

 

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 だから、この物語は、現実を錯誤して空騒ぎを続ける “狂人” と、現実を直視する “理性の人” の物語と読めないことはないという。

 

 そして、後世の評論家たちは、この物語の中に、滅び行く中世的ロマンの世界を生きるドン・キホーテと、勃興する近世の合理主義精神を生きるサンチョ・パンサという、時代が交代するときの「寓話」を読み込んだ。

 

 こういう『ドン・キホーテ』の通解に触れながら、磯田光一氏は、途中から一気にその話を三島由紀夫と結びつけたのだ。

 

 そして、
 「三島由紀夫という作家は、まさにドン・キホーテだ!」
 と言い放った。(まだあの事件が起こる前である)

 

 磯田氏は、『ドン・キホーテ』という作品の歴史的評価とはまったく逆に、
 「キホーテは、風車とドラゴンと間違えたのではなく、冷静に風車を風車として認識したうえで、あえて戦いを挑んだのだ」
 といってのけた。

 

 では、ドン・キホーテのイメージを着せられた三島由紀夫は、いったい何と戦ったのか?

 

 「三島は、戦後民主主義という人々の虚妄と戦った」
 磯田光一氏はいう。

 民主主義は、戦後の日本人が手に入れた最高の政治形態のように思われがちだが、その副産物として、倫理観を失った金儲け主義などを助長させ、日本人の心をむしばんでしまった。

 

 三島は、自分が狂人と思われることを覚悟のうえで、戦後の国民意識を頽廃させた「戦後体制」そのものに戦いを挑んだ。
 …… と、磯田氏はいう。

 

 当時、高度成長の経済発展を謳歌した日本人たちは、戦後社会がかろうじて保っていた「精神の緊張感」を失い、経済大国への道を歩み始めた日本の繁栄に酔いしれ始めた。

 

 それに危機感を持った三島が、
 「あえてドン・キホーテを演じることによって、堕落しそうな日本人たちに警鐘を鳴らした」
 と磯田光一は喝破した。

 

 そのとき三島が持ち出した「天皇」という概念は、戦後民主主義の虚妄を暴くための方便だった。


 すなわち、三島は、戦後民主主義が毛嫌いする「神としての天皇」をあえて持ち出すことによって、虚偽の「平和」に酔いしれる日本人たちに意識の覚醒を迫った。

 

 この磯田氏の指摘は、私にとってまさに青天の霹靂ともいうべき衝撃を与えた。
 そしてようやく私は、当時の三島の意志がおぼろげながら解かるようになった。

 それまで、私には、三島の実生活がとても奇怪なものに思えていた。

 

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 いきなりボディビルを始めて、筋骨隆々たる肉体を作ってみたり、鉢巻を巻いて日本刀を振りかざしてみたり、映画にチンピラやくざの役で出演してみたり、自衛隊体験入隊してみたり、今のディズニーランドにも似た大袈裟なフランス風邸宅を築いてみたり、天皇制護持者として左翼の東大全共闘と討論してみたり、疑似軍隊のような「楯の会」を結成してみたり、 やることなすこと奇怪なことばかりだった。

 

 しかし、この謎の行動が、磯田光一氏の “三島 = ドン・キホーテ論” である程度氷塊したのである。

  
 そこで、三島に関する論評をさらに読みたくなり、磯田氏の著作に続いて、野口武彦氏の『三島由紀夫の世界』(1968年)という評論を読んだ。
 これも磯田氏の『殉教の美学』に負けず劣らず面白い作品だった。

 

 野口氏は、三島をドイツ・ローマン派の文脈の中に位置づけ、三島のことを「典型的なロマン主義的人間」と定義して、その文学を分析した。

 

 氏にいわせると、「ロマン主義文学」というのは、アイロニー(逆説・矛盾)の力によって成立するという。

 

 つまり、「墜落」を前提とした「飛翔」を求めるのがロマン主義であり、「飛翔」による栄光の獲得は、結果として待ち受ける「墜落(挫折)」によって保証されるというのだ。

 

 野口氏は、そういう「挫折を迎える」ための高揚感や情熱こそが、ロマン主義の精神を支えるとしたうえで、三島の心情にそれを読みとった。

 

▼ 常に「ここではないどこか」をイメージさせるロマン派の絵画や文学
 (ドイツ絵画の巨匠 フリードリッヒの絵)

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 当時私は、磯田光一野口武彦の「三島論」が双璧だという思いを抱いていたが、その後も岸田秀野坂昭如橋本治という人々が、ことあるごとに三島論を書いていて、それも全部読破した。
 

 だが、三島由紀夫に関する論評をどれだけ読破しても、必ず最大の謎が残ってしまう。

 

 それは、1970年に、三島が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で決起(クーデター)をうながし、その後自らの腹を開いて自死してしまったことだ。

 

 けっきょく、50年後の今も、そのことは、三島を語る人々の最大の「謎」として語り継がれている。

 彼のこのときの行動は、何を目的としたものだったのか。
 それを完璧に言い当てた人は、いまだに一人もいない。

 

 いったい、三島は、何をしたかったのだろう?
 
 40年ほど経ってから、私なりに考えたことが一つある。
 それは、映画監督のヒッチコック(1899年~1980年)が、「謎」の本質を突き止めた、ある体験談がヒントになっている。

 

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 ヒッチコックがある日、列車に乗ると、外国人ふうの男たちが「マクガフィン」なるものについて話しているのを目にした。

 

 ヒッチコックは、男たちの会話に興味を抱き、ずっと耳を傾けるが、話を聞いているだけでは、「マクガフィン」が何のことだかさっぱり分からない。
 分からないので、よけい知りたくなり、聞き耳を立てながら、あれこれと推測するのだが、やはり分からない。
 
 そこで、ヒッチコックはふと思った。
 「そうか! 観客を映画に引き付けるためには、映画のなかに “マクガフィン” を一つ設ければいいのだ」
  
 つまり、登場人物たちにあれこれと「謎」の周辺を語らせるけれど、「謎」の正体そのものは語らせない。

 

 すると、映画の観客は、そのもどかしさに耐えられず、どんどんその「謎」の真相を知りたくて、作品を過剰に読み込んでいく。
 
 結局、「マクガフィン」そのものには何の「意味」がないのだが、その「中身」を欠いた空虚さが、ブラックホールのように観客の意識を吸い込んでいく。
 
 このエピソードは、大塚英志という評論家が書いた『物語論で読む村上春樹宮崎駿 - 構造しかない日本』(2009年)という本で紹介されたものである。
 
 この本に登場した “マクガフィン” の話は、それまで私のなかでくすぶっていた “三島由紀夫事件” の「謎」をあっさりと解いたように思えた。

 

 三島由紀夫も、ヒッチコックと同じように、「自分の人生」にマクガフィンを潜ませたのだ。

 

 三島は、優れた洞察力を持つ人であったから、自分が書いた小説が「永遠の古典」として残ることに疑問を抱いた可能性がある。

 

 若い頃から東西の古典文学になじんだ三島は、自分の作品がそれらの古典のように、後世に評価されることに懐疑的であったかもしれない。

 

 ならば、どのようにして、自分の存在を “永遠” にすることができるか?

 

 それには、自分自身が「謎」になることだ。
 人間の生命は、命が尽きたときにすべて終わるが、「解けない謎」は永遠に死なない。

 

 そこで三島は、普通の人が「謎」に思えるような自死を遂げることによって、
 「彼の書いた作品には、きっと読者が理解できないような深い意味が潜んでいるに違いない」
 と読者に思わせる仕掛けを施した。

 

 そうだとしたら、素直に頭が下がる思いもする。
 これ以上の「マクガフィン」を設定することは、もう誰にもできないだろう。

 

 三島由紀夫は最初から “マクガフィンの人” であり、磯田光一氏も野口武彦氏も、みなそのマクガフィンの魅力に引っかかったのだ。
 それはそれで、三島の凄さだなぁ と思う。

 

 最近読んだ本に、佐藤秀明氏の書いた『三島由紀夫 悲劇への欲動』(2020年10月20日刊)という本がある。

 そのなかで、
 「三島由紀夫は死後に成長する作家だ」
 という文芸評論家・秋山駿氏の言葉が紹介されていた。

 

 なるほど、と思った。
 おそらく、没後50年のあと、「没後60年」、「没後70年」という形で、三島は奇跡のように復活を遂げるだろう。
 あの「謎の死」があるかぎり。 
  

  
 最後に、三島の初期短編について触れる。

 冒頭で私は、彼の初期作品に感動したことを書いた。
 それは、『花ざかりの森』であり、『中世』であり、『岬にての物語』である。
 なかでも、彼が16歳のときに書いたという『花ざかりの森』は、いまだに忘れられないほど美しい短編だと思っている。

 

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 この短編には、巻頭にギイ・シャルル・クロスという詩人の作ったエピグラフ(銘句)が添えられている。

 

 こんなフレーズだ。

  かの女は森の花ざかりに死んでいつた。
  かの女は余所(よそ)にもつと青い森があると知つてゐた。
  (堀口大學 訳)
  
 ここでいう「余所(よそ)にある青い森」が何を意味するのか不明だが、想像するに、その場所は、とにかく今いる場所からとてつもないほど遠く離れていて、もしかしたら、人間は到達することもできないかもしれない、という含みを持った場所である。

 

 私は、三島由紀夫という人は、この16歳のときに掲げたエピグラフを、生涯なぞった人のように思える。

 つまり、「死」の彼方にある、「もっと青い森」を生き続けた人なのだと思う。

 

 

 

 



 

 

 

 

a moment of movement (うつろひ)

 

 秋から冬に変わるこの季節。
 1年の中で、景色がいちばん贅沢になる。
 公園を散歩していて、そう思った。

  

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 木々の葉が、絵具を盛ったパレットのように、にぎやかになる。
 朱色に輝く紅葉。
 黄色に燃えるイチョウ
 
 そして地面は、その落ち葉のジュウタンで彩られ、1年のうちでも、もっともゴージャスな大地に変わる。

 

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 あとほんの数週間経てば、冬枯れた風景に一変するというのに、初冬の自然は、豊穣な色彩の恵みを謳歌している。

 

 だからこそ、寂しい。

 

 空がいちばん鮮明に燃え上がる瞬間というのは、日没の直前であるということを、われわれは経験的に知っているからだ。

 

 最も絢爛(けんらん)と輝く光景の中に、来たるべき「滅亡」の影を読む。
 それは、強盛を誇った権力者の衰退や、絢爛たる輝きを持った文化の終焉などに「美」を感じる日本人的な感受性のなせるワザかもしれない。

 

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 日本が誇る古典文学の『平家物語』の冒頭には、
 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音」に「諸行無常の響き」を感じ、
 「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色」に「盛者必衰のことわり」を感じるという日本的感性が描かれている。

 

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 そこに、仏教に基づく “東洋的無常観” を見る声は多いが、しかし、それこそ、明確な「四季」を教えてくれる日本固有の思想であったかもしれない。

 

 外国人観光客が、日本に長期滞在して、いちばん驚くのは、日本の四季の鮮やかな変わりようだという。

 

 夏から秋に、秋から冬というように、時が「微妙な変化」をともなって過ぎていく情感を表現する言葉が英語文化圏にはない、という話を聞いたことがある。

 

 この微妙な変化を、しいて日本語でいえば、「うつろひ = 移ろい」という言葉になる。

  

 この「うつろい」という語感をもっとも象徴的に表すのは、障子に映る木の影だ。

 
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 障子は人間の視界を、あえてストレートな “自然” から遠ざける。
 しかし、遠ざけた分だけ、逆に、見えないはずの「時間」が視覚化される。

 

 つまり、時を経るごとに移動していく障子の影が、「時のうつろい」を教えてくれるのだ。

 

 この「うつろい」を無理やり英訳した外国人は、何という言葉を当てたか。

 

 a  moment  of  movement

 

 「時の流れ中の “瞬間” 」という意味になるのだろうか。

 

 韻を踏んだ語感は美しいし、訳語の意味も「なるほど!」と思えなくはない。
 でも、どこか違うような

 

 要するに、時間や季節が、ひとつのグラデーションを描くように変化していく様子を表現すると、やはり、日本語と英語では微妙な違いが生まれる。

 

 「自然」を、あたかも「アート」や「文学」のように感じる日本人の感性が生まれたのは、この細やかな変化を見せながら移ろう日本独特の「四季」のせいであったかもしれない。

 

 

コント・信玄と勘助の密談

  

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山本勘助】(上) お屋形様、浮かぬ顔していらっしゃいますな。
武田信玄】(下) そちの気のせいだ。ワシは楽しんでおる。ほら、庭の紅葉を見てみよ。良い眺めじゃろう。
 

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【勘助】 日頃紅葉などに興味を持たれないお屋形様が、また今日はどうして庭など眺めておいでなのです?
 もしや、NHK大河ドラマ麒麟が来る』に出てくる明智光秀織田信長の評判を気に病んでいらっしゃるのではございますまいな(笑)。

 

【信玄】 そちは、ちと口が過ぎるぞ。あのドラマはワシのライバルである織田信長が滅ぶ話を描いておるのじゃ。だから、ワシはむしろ愉快な気持ちでいる。
 それにあのドラマはそろそろ終わるぞ。
 

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【勘助】 まぁ、そうではありますが、…… 本来ならお屋形様が、信長や家康を撃ち滅ぼすような脚本でもよろしかったと思いますがな(笑)。
【信玄】 そんなことは特に気にはしておらん が、目障りではあるのぉ。
【勘助】 何が でございましょう?

 

【信玄】 明智光秀という男、決してあのように眉目秀麗ではないわ。
【勘助】 これはしたり! 役者の演じる光秀役に、お屋形様が本気で関心を示されるとは(笑)。いつものお屋形様とは思われませぬ。

【信玄】 ワシは、あの役者の顔を見ていると、興が削がれると言ったまでじゃ。
 実際の光秀があのようなイケメンであろうはずはなく、それこそ歴史の冒涜じゃ。

  
【勘助】 気になさいますな。明智ごとき武将などしょせん裏切り者でございます。後世のウワサもかんばしからずと。
 それよりも、お屋形様が数々の武勲を上げられたことは、後世の歴史家が見逃すはずはございません。

 

【信玄】 ほんとうにそう思うか?
【勘助】 もちろんでございます。特に、上杉謙信と戦った「川中島の戦い」などは、戦国の合戦の白眉として後世の歴史を学ぶ者が称賛することでしょう。

 

【信玄】 待て待て。勝ったとはいえ、ワシは馬上から謙信に斬りつけられたのじゃぞ。

 

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【勘助】 ご心配なく。しょせん、謙信が単騎突入してきたというのは負け戦の腹いせ。
 一軍の将が、あのような軽挙妄動の振る舞いを起こすこと自体、頭の弱さを知らしめているようなものでございましょう。

 

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【信玄】 そう決まったわけでもないぞ。後世、あの謙信の振る舞いを講談などに採り入れてはやし立てる講釈師が出るに決まっておる。斬りつけられたワシは、いい面(つら)の皮じゃ。

 

【勘助】 そこを堪えたからこそのお味方の大勝利。お屋形様のご威光が薄れることなどありますまい。

 
【信玄】 ところで、勘助。そちは何でここにおる? 川中島の戦いで死んだのではなかったか。
【勘助】 そのようなことを、あまり気にする読者もおりますまい。「信玄公」といえば、この「勘助」。2人揃ってこそ、武田の伝説というものが維持されるのでございます。
 
【信玄】 そのようなものかのぉ
【勘助】 「信玄餅」に「勘助饅頭」。きっとこれが、後世にまで当地の土産物として残ることでございましょう。

 

【信玄】 「餅」として残ったとてしょうがないわ。この正しき信玄の姿を、どれだけ後の世に残すことができるのか、それを思うと、気も晴れぬわ。
 なにしろ、ここ最近、このワシを主役としたドラマがさっぱり作られなんだわ。勘助、ゆゆしきことぞ。

 

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【勘助】 何を申される。かつてはNHKの大河ドラマ風林火山』にご出演なされたではないか。
【信玄】 あれはそちが主役ぞ。このワシは、引き立て役じゃったわ。
 
【勘助】 ならば、黒澤明の『影武者』がございましたぞ。

 

【信玄】 何を申すか。あれこそ「影武者」が主役の映画。本物のワシなど、ほとんど出んかったわ。
 それに比べ、負け戦で名の売れた真田幸村のような武将を堺雅人が演じたり、戦国武将としては影の薄い黒田官兵衛岡田准一が演じたりして、それぞれ評判をとっておる。

 

【勘助】 真田幸村黒田官兵衛も小物でござる。
【信玄】 信長はどうじゃ? あやつは『信長の野望』などというゲームの主役を務め、いい気になっておるぞ。
 このままでは、武田は、織田家明智家にも真田家にも後塵(こうじん)を拝すことになろうぞ。
 

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【勘助】 ならば、ここで後の世に残す大きな業績をつくらねばなりませぬな。
 信長は、市場経済の先駆者などといわれ、一時は経営者向けの経済誌などの主役として引っ張りだこに成り申し、近代日本の創始者のごとき扱いを受けておりまする。
 また謙信も、「義」に生きる爽やかな武将として再評価も高いとか。
 お屋形様も、ここらで後の世の評価を万全なものとするセールスポイントをアピールするのが肝要と心得ます。
 

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【信玄】 それ、それよ勘助。先ほどより、ワシはそのことを勘案しておったのよ。
 そちが見たワシの美点とは何か。ざっくばらんに申してみよ。

 

【勘助】 信長、謙信になきもので、お屋形様だけが有している最大の力は、常人が逆立ちしても太刀打ちできぬ、その冴え渡った「智謀」でございましょう。
【信玄】 智謀か 。 『チボー家の人々』、マルタン・デュ・ガール。
【勘助】  …………………………
 
【信玄】  どうした勘助。何か反応してみよ。
【勘助】 …… いや、申し訳ございませぬ。ちと聞き逃したようでございます。

【信玄】 そちは、今がっかりしたような顔をしたが、他に良き思案がなきと思ったゆえか?
【勘助】 いえいえ、良き思案が生まれましたでござりまする。

 

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【信玄】 言うてみよ。
【勘助】 思えば、我らの旗印は『風林火山』。これを売り込もうではございませぬか。
【信玄】 どのように?
 

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【勘助】 風、林、火、山。これ、みな「自然」を意味しておりまする。次の世は、アメリカの頭領バイデン殿が国を率いるようになり、パリ協定とかいう約定に馳せ参じるとか。
 おそらく世を挙げて「環境問題」が大きく審議されることになりましょう。

 

【信玄】 なるほど。環境問題か。
【勘助】 そこで、先手を打ち、この『風林火山』を「自然の恵みを尊重する」エコロジーの旗印として、後の世に訴えかけてはいかがでござろう。

 

【信玄】 おお、それは妙案だの! 
 

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【勘助】 すなわち、まず「風」。これは風力発電を得んがための標語となす。
 次なる「林」は、森林保護をめざしたるもの。
 「火」というのは、石油や石炭といった化石燃料に頼ることなく、薪や炭といった天然資源によるエネルギーの獲得を訴えるもの。
 そして、「山」とは、健康のための登山を奨励するがためのもの。
 このように宣伝すれば、お屋形様の先見性を、否が応でも後世の者どもが認めることになりましょうぞ。


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【信玄】 そちはなかなかの知恵者じゃのぉ。さすがは武田家の軍師じゃ。
【勘助】 なんの。お屋形様の頭の中にあるお考えを、この勘助、厚かましくも取り出しただけでござる。勘助一人では、とてもこのような知恵は回りかねまする。

 

【信玄】 しかし勘助、どのような形で、そのことを後の世に訴える所存ぞ。

 

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【勘助】 それを書き留めた書状を頑丈なる大箱に収め、「武田の埋蔵金」と偽って、後世の者たちが発見するまで、地中に埋めておくというのはいかがでござろう。

 

【信玄】 なるほど。「隠れ軍資金」というウワサのみ流しておけば、後の世の者たちが、血なまこになって探し回るであろうな。
 勘助、良き知恵を出したものよ。これで武田は安泰じゃ。
 

   


 

 

陰謀論はウイルスである

  
 アメリカ大統領選も、選挙から3週間経って、ようやく決着がつく気配が見えてきた。

 トランプ氏がいまだ敗北を認めないまでも、国家の機密情報などを次期大統領のバイデン氏に移行させることを同意したことによって、ようやく一連の騒動に終止符が打たれる模様だ。

 

 しかし、それとは別に、いまメディアが関心を示している大統領選の話題に、もう一つのテーマが浮上してきている。

 それは、
 「アメリカ国民の間で、なぜ “陰謀論” がこれほど大きな影響力を持ったのか?」
 ということだ。

 

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 これについて、慶應義塾大学渡辺靖教授が、『文藝春秋2020 12月号』において「米大統領選を揺るがすQアノンの正体」という原稿を寄せている。

 

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 また、BS-TBSの『報道1930』(11月23日)では、『誰かが裏でアメリカを操っている 「陰謀論」』というタイトルで、国際基督教大学の森本あんり教授、慶應義塾大学の中山俊宏教授らをゲストに招き、アメリカ大統領選で浮上した陰謀論について語り合っている。

 

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 陰謀論といえば、トランプ支持者の間に広まった「Qアノン」が代表的なものとされるが、陰謀論そのものは最近話題になったものではない。
 1770年代から、ずっとアメリカ社会を覆ってきた問題だという。

 

 そこには、アメリカという国を支える人々の「特殊な思想」、「特殊な信仰心」などが絡んでいる。
 それを抑えておかないと、アメリカという国の真実を把握することはできない、と識者たちはいう。

 

 「報道1930」という番組では、アメリカの陰謀論の歴史を簡単に紹介していた。

 

 最初に、陰謀論らしきものがアメリカに登場したのは、1770年頃。
 世界制覇をもくろむ「フリーメーソン」という秘密結社が、アメリカの中央政府を操っているというデマだった。

 

 これはそのうち沈静化したが、1850年代になると、カトリック信者がプロテスタント信者を追い払おうとしているという陰謀説が広まった。
 これも次第にデマだということが分かり、そのうち下火になった。

 

 さらに時代が下り、1950年になると、マッカーシーという共和党上院議員が、「共産主義者アメリカ政府の転覆を図っている」と議会で訴え、またたく間にそのデマを国中に広めた(マッカーシズム)。

 

 このデマもやがて沈静化したが、「共産主義」に対するアメリカ人の恐怖はいまだに根強く残り、それが今回の大統領選でも、「民主党共産主義からアメリカを守る」というトランプ氏の主張を説得力のあるものにした。

 

 最近の陰謀論で有名なのは、「ディープステート」という考え方。
 これは、
 「今のアメリカは、闇の国家(ディープステート)に支配されており、それが国民をむしばんでいる」
 というもの。

 

 そのディープステートを組織しているのは、民主党のリベラル派議員や財界の金持ち、ハリウッドの大物スター、そして大手メディアの記者など。
 彼らは児童の人身売買や性的虐待に関わっており、自分たちだけの快楽にふけっているというのだ。

 実は、これが最近話題になっている「Qアノン」という “陰謀論信者” たちの主張だ。

 

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 こういうデマは、2016年頃からささやかれるようになったが、2020年にトランプ氏の二期目の大統領選が過熱するようになってから、
 「トランプこそディープステートと戦う救世主だ」
 という主張がトランプ支持者たちの間で広まり、トランプ氏を神格化する原動力となった。

 

 正常な神経を持った人には、このニュースの怪しげなところを即座に見抜けるだろうが、この情報を信じたトランプ支持者は選挙戦の後半、ますます過激になっていった。

 

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 その手の主張のなかには、
 「新型コロナウイルスは、トランプをおとしめるために、リベラル派の科学者が作り上げたものだ」
 とか、
 「コロナウイルスは、中国の生物兵器だ」
 などという “トンデモニュース” がまことしやかに入り交じり、ネットからネットへと、人から人へと、ものすごい勢いで拡散した。

 

 このような、Qアノンを中心とした人々が訴える「ディープステート」という陰謀論にはそれなりの根拠がある、と語るのは慶応義塾大学の中山俊宏教授だ。

 

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 「そもそも最初から、アメリカ人は連邦政府を信じていない」
 という。

 

 西部開拓時代、五大湖の岸に上陸し、そこから幌馬車を買って西へ旅した人たちが信じたのは、自分の家族とその周辺にいる仲間だけだった。

 

 やがてそのグループを中心に「町」がつくられる。
 そこでようやく、信じるに足る人々の数が、町の住人の規模にまで広がる。

 

 そういう「町」がいくつも集まって、「州」になるわけだが、「州」の規模にまで広がってしまうと、「町」の住人たちには、生活実感として「州」を把握することが難しくなる。

 

 その「州」の上に、「連邦政府」が君臨することになるわけだが、それは多くのアメリカ人にとっては、もう正体の分からないもの すなわち「ディープステート」そのものなのだ。

 

 そういった意味で、陰謀論が力を持つのは、基本的に、「連邦政府」の方針に関心のない地方(田舎)の人々の間である。
 
 こういう場所に住む人々には、「連邦政府」のやっていることはみなインチキ臭く思える。
 
 自由貿易の推進。
 移民の流入
 多国籍企業同士の連携。

 

 すなわち「連邦政府」が推進しているグローバリズムは、地方の労働者たちからみると、自分たちの暮らしや労働を奪う政策にしか見えなかった。

 

 実際、グローバリズムによって、工場がアメリカから他の国へ出ていったため、製造業の雇用が失われた。
 同時に英語を話さず、宗教も違う人たちが移民としてアメリカに流入してきた。

 

 こういう事態にさらされたアメリカの白人ブルーカラーからみると、「連邦政府」は信用のならない存在に思えてくる。

 

 そうなれば、「連邦政府」そのものが「ディープステート」に見えるまでには、それほど時間がかからない。

 

 白人ブルーカラーを中心に陰謀論が勢力を持つようになったのは、これまでアメリカ社会を構成していたヒエラルキー地殻変動が起きたからだという。

 

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 『報道1930』というニュース番組によると、アメリカ人たちの意識を規定してきたヒエラルキーはかつては、次のようなものだったそうだ。

 

 まず、社会の最下層に「難民」がいる。
 その次が「移民」となる。
 その上に、「白人ブルーカラー」がいて、さらに上に「白人ホワイトカラー」がいる。
 そのようなヒエラルキーの最上層に君臨するのが、白人大富豪である。

 

 このヒエラルキーのなかで、「女性」と「黒人」の社会的地位は、せいぜい「移民」と「白人ブルーカラー」の間ぐらいとされていた。

 

 ところが、1980年代以降、アメリカのグローバリズムが世界を席巻するにつれ、それまでアメリカ社会を構成していたヒエラルキー地殻変動が訪れた。

 

 「難民」、「移民」が労働力として認められるようになり、それにつれて、彼らの地位が向上した。
 それと歩調を合わせるように、「女性」や「黒人」の地位も向上した。

 

 相対的に地盤沈下を始めたのは、白人ブルーカラーだった。
 彼らは、「移民」、「女性」、「黒人」よりも下位の存在に見られるようになり、経済的にも困窮し、プライドも傷つけられた。

 

 それを “救った” のがトランプ氏だった。
 だから、白人ブルーカラーたちは、「トランプが仕事を取り戻してくれた!」と歓声をあげた。
 さらにいえば、トランプ氏は、白人ブルーカラーたちのプライドも取り戻したのだ。
 トランプ氏の神格化は、これによっていっそう強化された。

 

 陰謀論が力を得ていったのは、このトランプ氏の神格化と歩調を合わせている。

 

 トランプ氏が、大統領選挙の結果に不満を抱き、「私が選挙に負けたのは民主党が不正を働いたからだ」と氏が叫べば、それは “神の声” だった。

 

 もともとアメリカは、強固な信仰心を持つ人々が暮らす心宗教国家である。
 
 なにしろ、イギリスから、メイフラワー号に乗ってアメリカに渡ってきた最初の “アメリカ人” たちは、
 「自分たちは、汚れたヨーロッパの地を離れ、新しい大陸で神聖国家をつくるのだ」
 という理想に燃えて上陸した。

 

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 そのときすでに、自分たちの「聖なる生き方」と異なる宗教、民族、文化に対する警戒心と嫌悪感が彼らの胸の内に宿っていた。
 
 陰謀論というのは、このような “異質なもの” に対する警戒心と嫌悪感から生まれる。
 すなわち、そういう考え方が目指すものは、異物を排除するときの爽快感である。
 
 「爽快感」を求めるわけだから、陰謀論には科学も合理性も必要ない。
 
 よって、陰謀論はいつの時代にも、主張を変え、敵を変え、ウイルスのように人に取り付いてくるはずだ。

 

 

『七人の侍』の主役は野武士たちだ


 三船敏郎 生誕100年にちなみ、WOWOWシネマで、彼の代表作が続けて放映された。

 そのなかで、黒澤明監督による『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『七人の侍』(1954年)の3本をピックアップして見たが、やはり『七人の侍』が群を抜いて素晴らしかった。

 

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 この映画に関しては、以前このブログに感想文を書いたことがある。
  ↓
 『「七人の侍」のような映画は今後100年生まれない』
 (2019-03-23)
https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2019/03/23/181622

 

 上記のブログで、私は自分の言いたいことをほぼ言い尽した気持ちでいた。
 だから、再び同作品を採り上げる必要もないと思ったが、やっぱりあらためて鑑賞してしまうと、何かを書かざるを得ない気分になる。

 

 それほど、この映画は、見た人間に「何かを語らせたくなる」映画なのだ。

 

 ただ、今回見て思ったのは、黒澤明監督の “最高傑作” であると同時に、なにか “不幸な映画” だなぁ  という気もした。

 

 というのは、この映画を見てしまった観客は、この後の黒澤作品にも同じレベルのものを期待してしまうからだ。

 

 言い換えれば、黒澤監督がこの映画のあとにどんな傑作を撮ろうが、『七人の侍』に感動した観客は、もう満足できなくなってしまうのだ。

 

 同じ戦国モノということで、私は『影武者』(1980年)にも、『乱』(1985年)にも、喜び勇んで映画館に足を運んだ。
 だが、2作とも、1954年につくられた『七人の侍』ほどの興奮をもたらせてはくれなかった。

 

 あたためて、『七人の侍』は、別世界から舞い降りたような映画だと思った。
 まさに、「100年に一本しか生まれない映画」。
 奇跡のような作品といえる。

 

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 どのような内容なのかは、すでに上記のエントリーで触れているし、いろいろな人が書いている評論もネットにも溢れているので、詳しくは述べない。

 

 だが、この映画がもたらす興奮の秘密が今回あらためて分かったような気がする。

 

 馬だ。

 

 7人の侍たちが守る村を襲ってくる40騎の野武士。
 この騎乗した野武士たちがいなければ、この映画は成立しなかった。
 
 百姓と野武士。
 侍と野武士。

 

 本来ならば同一次元に存在するはずのない二つの生存原理が、ここでは偶然の作用によって衝突してしまう。
  
 剣をかざして待ち構える侍たちと、そこに突進する騎馬の野武士たち。
 どっしりと地に立つ侍たちの「垂直力学」と、道を疾駆する騎馬兵たちの「水平力学」。

 

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 これほど見事な「静」と「動」の対比はほかにあろうか。

 

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 この時代、多くの日本人は、従順に農作業を繰り返す “百姓” の感覚で生きてきたから、疾風のごとく野武士が襲ってくる状況など、まさに想像の範囲外だったろう。

 

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 未知なる存在が人間の日常性を脅かすという意味で、この映画は、当時の観客にとっては、同年(1954年)公開された東宝映画『ゴジラ』に匹敵する衝撃であったはずだ。

 

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 西洋史においても、中央アジア史においても、人類の戦いは騎馬部隊と歩兵部隊の戦闘だった。

 

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 歩兵で構成されたローマ軍団(上)とフン族の騎馬軍団(下)。

 

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 漢の歩兵部隊と、匈奴の騎馬部隊。
 
 農耕民族と騎馬民族との戦いは、みなすべて『七人の侍』で描かれた戦闘のスタイルをとった。

 

 突進してくる騎馬軍団は、歩兵部隊から見ると「脅威」だ。
 しかし、訓練された歩兵部隊は、騎馬軍団の突撃力をかわし、それを粉砕することもある。

 

 つまり、この映画の戦闘シーンには、人類が2000年以上の歳月をかけて繰り広げてきた戦いの原型が刻まれている。

 

 人馬一体となった騎馬兵の姿は、安全な場所で眺めるならば、人間のロマンをかき立てる。
 それは、馬のスピードを意のままに操れる人間に対する驚愕となり、憧れとなる。

 

 『七人の侍』に登場する野武士たちは、みな凶悪な面構えをした極悪人として登場する。


 しかし、映画を見ている観客は、無意識のうちに、馬のスピードを意のままにコントロールできる野武士たちの姿に颯爽したものを感じるようになる。

 

 この映画には、農耕民族(百姓)と騎馬民族(野武士)という、異質の原理に生きてきた二つの人間集団の歴史そのものが凝縮している。

 

 

ジョン・レノン『イマジン』の世界観とは何か?

 

 NHKBSプレミアムで、『“イマジン” は生きている』というドキュメンタリー番組が放映された。(2020年11月21日)

 

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 現在東京で開かれている『DOUBLE FANTASY - John & Yoko』展に焦点を合わせた企画らしい。

 

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 この『イマジン』という曲が誕生したのは、1971年。
 曲をつくったジョン・レノンは、歌の冒頭、
 「想像してごらん、天国などないんだよ」
 と歌った。

 

 さらに、
 「地面の下に地獄もない」
 「国家や宗教もない」
 「世界はひとつだ」
 と続けた。

 

 その歌から50年。
 地球は、いま、この歌のような世界になりつつある。

 

 『イマジン』は、国家や宗教を超えて、人類が一つにまとまるという平和の “理想郷” を歌ったものだが、それを実現したのは、この歌に託された「人間の想像力(イマジン)」 ではなく、グローバリゼーションと呼ばれる資本主義の運動であった。
 
 この歌が注目を集めた1970年代。
 「国家」を超えようとする “何か” が地球上に広がり始めていた。
 「世界市場」である。
 
 『イマジン』が誕生した時代というのは、欧米先進国の自動車や電気製品といった耐久消費財が自国内の市場ではさばき切れなくなり、それぞれ輸出に活路を求めなければならない状態になっていた。
 
 さらに、80年代の終りになると、冷戦構造が崩壊して、ソ連をはじめとする社会主義国も資本主義社会に参入するようになった。

 

 こうなると、各国の経済は、ますます国内だけでは完結しなくなり、国外の市場を求めて活発に動き始めるようになった。

 つまり、ジョン・レノンの『イマジン』で歌われたのは、グローバル資本主義がそれぞれの国境を超えていこうとする姿そのものであったといっていい。

 

 グローバル資本主義は、国境を超えるだけではない。
 宗教も超える。
 人種も超える。
 文化も超える。

 結果、「世界はひとつになる」。
 
 歌のテーマは「世界平和」だが、それはまた資本主義のテーマでもあったのだ。
 なぜなら、戦争や紛争がある地域では「市場」というものが成立しないからだ。

 

 グローバル市場を成立させるためには、まず地球上から戦争地域が消滅しなければならない。
 次に、流通する商品が、個々の国の宗教や文化、人種によって差別されてはいけない。

 

 そのため、グローバル資本主義を推進する多国籍企業は、地球上のすべての宗教、文化、人種がすべてフラットな価値観で統一されるような世界観を目指した。
 『イマジン』は、その様子を予言した曲だった。

 

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 もちろん、ジョン・レノン自身は無邪気な平和主義者に過ぎず、グローバル資本主義の動向など意識することはなかったろう。

 にもかかわらず、その10年後に訪れる世界経済の動向を予言したのだとしたら、それこそ、ジョン・レノンの透徹した想像力(イマジン)によるものだったといっていい。

 

 こういう世界観を秘めた曲であったから、いろいろと物議をかもしたこともあったらしい。
 国家を否定していることから、「共産主義思想」の歌だと思われ、欧米の保守層からは警戒されたこともあったという。

 

 そういう保守派の警戒心は、まったく的外れというわけでもない。
 なぜなら、「共産主義思想」もまた、資本主義から生み出されたものだから、骨格は同じものなのだ。
 つまり、どちらも「国境を超える」ことを目的とした運動だといえる。

 

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 そもそも、20世紀のイギリスとアメリカに登場した「ROCK」という音楽形式そのものが「グローバル資本主義」の象徴的形態であったかもしれない。

 

 この日(11月21日)、ジョン・レノンの『イマジン』特集を組んだNHK BSプレミアムでは、それに続いて、ザ・ローリング・ストーンズキューバコンサート(2016年)のLIVEを放映した。

 

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 キューバ革命を領導したフィデル・カストロが死去した後、経済の自由化が進んだとされるキューバだが、体制はいまだに「社会主義国家」である。そのため、2001年までは、西側のロックバンドの公演は許可されなかった。
 
 しかし、2016年に行われたローリング・ストーンズキューバ公演(「ライブ・イン・ハバナキューバ」)では、地元の若者が熱狂している様子がしっかりと映像に残されていた。
 彼らの熱気は、自由主義諸国のライブよりも激しかった。

 

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 こういうことからも、ROCKは「国やイデオロギー、宗教、体制、民族」を超えるものだということがよく分かる。
 まさに、20世紀の半ばに台頭したROCKは、グローバル資本主義が作り出した「熱狂」だったのだ。 

 

 ちなみに、このキューバ公演では、会場の中と周辺に集まった観客が70万人。
 さらに音だけを聴くために、別の場所に集まった聴衆が50万人。
 合わせて120万人のキューバ人がストーンズの音を楽しんだという。
  

 あとは、余談だけどさ。
 俺も今年で70歳になったわけ。
 そうなると、カッコいい “老人像” というものを少しずつ考えるようになるのね。

 

 今のところさ、「カッコいいなぁ!」と思うのは、ローリング・ストーンズキース・リチャーズ(76歳)。
 自分の生きざまを表現する自慢のギターなんかを抱えてさ、笑ってステージに立っている姿なんかは、見ていて惚れ惚れするね。

 

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若者たちの昭和歌謡ブーム

  
 「昭和歌謡」に興味を抱く、平成世代の若者が増えているという。

 

 あるワイドショーを見ていたら、(どの番組か忘れたが )、レポーターが街行く若者にマイクを突き付け、「昭和歌謡をどう思うか?」と聞きまくっていた。

 

 それに答えた若者たちの話を総合すると、昭和の歌というのは、
 「メロディに親しみがあって、歌詞が覚えやすい」という。
 
 なかには、
 「歌詞にリアリティーがあって、まるで物語を聞いているような気がする」
 と答える人もいた。

 

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 このような若者の昭和歌謡ブームに乗り、昭和のアイドルや歌手のブロマイドも人気が高まってきたとも。


 都内のブロマイド専門店には、遠方からも平成世代の若者が押し寄せ、松田聖子中森明菜沢田研二といった昭和のスターの写真を買い込んでいくという。

 

 家族や親の影響が大きいのだろう、と専門家は分析する。
 平成生まれ(1989年~)の若者の “親世代”(1960~70年代生まれ)といば、子供の頃から昭和アイドルたちの音楽になじんだ人たち。
 
 “昭和まっただ中” の70年代といえば、キャンディーズピンクレディー山口百恵松田聖子天地真理近藤真彦といったアイドルを軸に、荒井由実中島みゆきテレサ・テン桑田佳祐井上陽水玉置浩二といった実力派の歌手やミュージシャンも活躍し、昭和歌謡が質的にも量的にも全面開花した時代だった。

 

ピンクレディー

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 そういう歌になじんでいた親たちが、家事をしながら口ずさんだり、子供たちとドライブするときに流していた曲が、徐々に平成の若者たちの “耳の肥やし” になっていったのではないか、とある専門家は語った。

 

 もちろん、親が歌っていたからといって、それを聞いた子供がそのまま好きになるとは限らない。
 やはり、「この歌はいいな !」と若い世代が思えるような何かがなければ、昭和歌謡再評価のブームは起こらない。
  
 平成の若者からみた昭和歌謡の魅力とは何なのか?

 一つのヒントがある。
 昔、NHKが、「若者の好きな音楽」というテーマでアンケート調査を行ったことがあったが、それによると、平成元年にデビューしたJ ポップの人気者小室哲哉よりも、昭和50年に引退した山口百恵の方が、若者たちの認知率が高かったというのだ。

 

 小室哲哉といえば、音楽プロデューサー兼ミュージシャンとして「TM NETWORK」、「globe」などの音楽ユニットを結成して大活躍。安室奈美恵華原朋美などをスターに育てた人としても知られる。


 まさに1980年代~90年代におけるJ ポップのカリスマ的存在であるが、その彼よりも、さらに20年も古い山口百恵の方が若者に親しまれているというのは、どういうことなのだろう。

 

山口百恵

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 これぞ、まさに「サウンド」と「歌」の違いなのだ。

 

 80年代の中頃、いわゆる「J ポップ」が台頭するようになって、曲づくりがサウンドを中心に回り始めた。

 

 もともと J ポップは音楽ビジネス関係者たちによって、かなり意図的に企画されたプロジェクトだった。
 狙いは、「洋楽のように洒落た国産ポップス」という新しいマーケットの創出だった。

 

 “洋楽っぽい” ことが絶対条件だったから、J ポップのメロディー、リズム、コード、アレンジなどが、一斉に “脱・歌謡曲” に向かったのは言うまでもない。

 

 和音構成として、わが国独特の哀調感を持つ日本音階(ヨナヌキ)が影を潜めていくというのも、その顕著な例といえるだろう。

 

 こうして、日本のポップスは、サウンド的には恐ろしいくらい華麗かつオシャレになっていったが、それを徹底していく途中で、「歌詞」がストンと抜けた。

 

 もともと、日本の流行歌は、分業体制で作られていた。
 作詞、作曲はそれぞれ別のプロが担当し、さらにプロの歌手が渡された曲をそのまま歌う、という手法で世に送り出されてきた。

 

 ところが、フォークソングブーム、シンガーソングライターブームが起こることによって、分業体制の一部でしかなかった「歌手」の地位が突出するようになった。

 

 彼らは「アーチスト」と呼ばれるようになり、歌のコンセプト全体を代表する表現者と目されるようになった。


 J ポップの担い手はバンドで占められることも多かったから、バンドのリーダーがそのまま作詞・作曲・アレンジを手掛ける率も高くなった。

 

 もちろん、そのことによって、J ポップの音楽的統一感は際立つことになった
 
 ただ、バンドのリーダーやシンガーソングライターが優れたミュージシャンであったとしても、必ずしも “優れた詩人” であるとはかぎらない。

 

 歌詞づくりというものは、自分の日常の断片を綴ったり、自分の身に降りかかった事件を取り上げていればいい、というものでもないからだ。

 

 自分の体験からネタを拾っている限り、常に人をハッとさせたり、人の意表を衝いたりする詞を量産することはできない。

 

 シンガーソングライターたちの詞を聞いていると、その歌詞に表現された等身大の世界観に共感することもあるが、そのうちに曲のレベルが尻すぼみになっていくこともある。

 

 こうして、J ポップの詞は、いつしかみな似たり寄ったりのテーマばかりが繰り返されるようになり、聴衆に、通り一遍の “感動” と、通り一遍の “勇気” と、通り一遍の “元気” を与えるだけの存在になっていった。
 だから、飽きられるのも早い。
 
 平成生まれの若者たちは、今の音楽の “歌詞不在” に気づいたのだ。
 
 昭和歌謡が好きだ、という若者の声に、こんなものがある。 

 

 「今の歌って、歌詞がウソくさい。でも昔の歌って、歌詞が本音で書かれているような気がする」

 

 この一見稚拙な表現のなかに、今のJ ポップと昔の昭和歌謡の根本的な差異があらわれている。

 

 これは、「昔の歌の方が人間の本音」を語っているという意味ではない。
 昔の「詞」は、プロの作詞家によって書かれていたということなのだ。

 

 つまり、人間の心理を鋭く追及できるプロの作詞家が、人々の生活に使われる言語の中からこだわり抜いた言葉を選び出し、繊細な手つきで並べ変え、一語ずつ、人の心を震わすフレーズに組み直していったということなのである。

 

 では、「プロの作詞家」とは何か?
 それは、曲があってもなくても、小説のような作品を書いてしまう人たちのことをいう。

 

 昭和歌謡の詞をつくり続けていた人たちの名をざっと並べてみよう。
 
 阿久悠星野哲郎山口洋子なかにし礼安井かずみ阿木燿子竜真知子井上陽水松本隆岩谷時子吉田拓郎中島みゆき来生えつこ ……

 

松本隆

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 もちろん、この人たちは昭和歌謡をつくった作詞家の一部でしかないけれど、どの人も “文学者” としてもの実力を備えた人たちである。
 事実、上記の人たちのなかには、すでに著名な文学賞を受賞している人もいる。
  
 阿久悠山口洋子なかにし礼などは実際に小説も書いているし、他にもエッセイを書いているような人がたくさんいる。

 

 つまり、プロの作詞家というのは、そういう作業を通じて、言葉が人間の想像力を刺激するツボを心得ている人たちなのだ。

 

 では、人の想像力というのは、いったい、どういうときに刺激されるのだろうか?

 

 昔、NHKの歌をテーマにしたトーク番組で、ゲストのミッツ・マングローブがこんなことをいっていた。

 

 「今の音楽は、すべてを説明して答まで消費者に提供しようとしている」
 しかし、それでは、かえって聞き手の想像力が奪われてしまう、という。

 

 同番組でインタビューを受けた作詞家の松本隆も、似たようなことを述べていた。

 

 「歌には “余白” というものが大事。つまり、言葉と言葉の “間(ま)” のようなもの。詞における『美』というものは、そういう “余白” とか “間” に生まれる」

 

 つまり、詞における「余白」とか「間」というのは、すなわち「想像力」が舞い降りるスペースになるというのだ。
 
 昭和歌謡というのは、概してこういう方法論によって編み出されてきた。
 音楽評論家の近田春夫氏は、「今のJ ポップの作り手のなかで、昭和歌謡のような作詞能力を持っている人が現れたら、詞の世界で必ず頭を取れる」と言い切る。

 

 おそらく、これからは、昭和歌謡を聞き始めた平成の若者のなかから、きっと将来の逸材が現れてくるに違いない。

 

議論大歓迎!

 

トランプ的 “反知性主義” を語った
当ブログに対する読者からの反論

 

 下に紹介するのは、11月8日に私が掲載したブログ記事(「アメリカ社会の『分断』とは何か」)に対して、「タカ」さんと名乗る方から寄せられたご意見である。

 この方とは、すでに過去2回ほど、コメント欄を通してやりとりを繰り返した。
 最初にコメントをいただいたのは下記のエントリーだった。

 https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2020/11/08/180758

 タカさんは、
 「(アメリカの分断の責任を)トランプ大統領になすりつけるこのブログの文脈は理解できない」
 とし、とても示唆的なご批判をくだされた。

 

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 私はそれに返信を書き、いったんはご理解をいただいたように思えたが、後日再反論をいただいた。
 ここに紹介する下記のご意見が、それである。

 

 このブログではあまり議論をするような経験がなかったが、私はとてもこの議論を有意義だと感じたので、タカさんのご意見を紹介した後で、自分の返信も掲載することにした。

 

 コメント欄ではなく、本文に掲載する以上、さらにいろいろな読者の方から私に対する新しい批判、反論があることも覚悟している。
 しかし、それはとても大事なことであるように思える。
 
 このようなブログの場で、健全な議論が交わされることは望むところである。

 

……………………………………………………………………………………………

タカ

 あなたは反知性主義が嫌いのようです。しかしこれほどあいまいなことばもないでしょう。

 
 それが反聖書的姿勢なのか反権威なのか反エリートなのか。あなたの場合は「知的でない」と解釈されているように見受けられますが、それほど狭義なのであればここでこのことばは使うべきでない。

 

 むしろ現在の米国民主党の左傾がよりラジカルに進化すれば、それこそ反知性主義なのではないか。


 なぜなら、行き着く先は共産主義的なのだから。信仰のないところに知性は宿らない。反知性です。

 

 民主主義なんてたいしたシステムではないにせよ、選挙があるだけマシなのであって、最低限の民意を汲み取るだけ現行優れたものは他にない。この時期に懸念されるのは少しづつ漏れ始めている民主党の選挙不正疑惑。もし事実であればそれこそ知性もへったくれもない。

 

 私も白人至上主義はクソ食らえだし差別的な政治発言も笑えないと思っている。ここはトランプの最たる欠点。それが分断に向かわせたのは事実。

 

 バイデンはどうだろう。一見紳士的。しかし実はそれがもし利益至上主義だったと考えられる節がある。
 多国籍企業、金融資本をバックにつけ中国とよろしくやっていてマスコミもSNSさえ味方につけている。

 

 なぜみなバイデンを応援するのか? 彼らの反トランプが実は民意によるものではなく利益の追求が真の目的?
 真のビジネスマンはバイデンたちなのでないか。
 いや、アメリカのさらなる左傾化か。

 

 トランプがオバマを嫌悪しているのは人種的なものでなくそれは2016年の選挙まで遡ればその理由がみえてくる。

 トランプがこの日本を守ってくれるというのは幻想です。そしてバイデンもしかり。
 そこはなにも期待できない。

 

 さらにあなたの言うように民主党は人権にうるさい。そこは賛同します。
 なのに歴史を振り返ると民主党政権時代に戦争が多い事実。
 ここを調べるとまた違う事実がみえてくるからトランプを単に感情的に批判しているとことの真相がみえなくなってしまうと私は懸念しています。

 面白い議論でした。

…………………………………………………………………………

>タカさん、ようこそ

 

 とても、“論点” が鮮明に浮かび上がるようなコメントをいただき、ありがとうございました。
 おかげさまで、タカさんと私の間で、何が問題になっているのか、あるいは何が誤解のもとになっているのか、さらにいえば、この先お互いにどういう了解事項が成立するのか、それらを多少なりとも整理できるようになりました。
 そういった意味で、とても貴重なコメントをいただいたと思っております。

 

 いくつかのご指摘に対して、私なりにご説明させていただきたいと思います。まず冒頭の「反知性主義」という用語に関して。 

 

 私が使っている「反知性主義」というのは、さほど特別な使い方ではありません。いみじくもタカさんがおっしゃったように、あっさりいえば、「知的でない」という意味です。

 

 「反知性主義」という言葉は、最近使われた用語ではなく、1950年代から使われていた言葉だともいいます。
 しかし、日常的にこの言葉が浸透してきたのは、2000年代に入ってからだと記憶しています。
 
 たとえば、白井聡氏と笠井潔氏の対談『日本劣化論』(ちくま新書 2014年)などでは、「1980年代の消費社会の興隆をうながしたものは日本人の “知性に対する軽視” である」という趣旨を解説する用語として、「反知性主義」という言葉が使われています。

 

 また、作家で、政治・宗教・社会・哲学を総合的に俯瞰してモノを書いている佐藤優氏は、その著作『知性とは何か』(祥伝社 2015年)において、「反知性主義の罠にとらわれないための3箇条」という稿で、
 「SNSなどで流布する情報にとらわれることなく、自ら哲学書思想書などに触れる機会を増やし、自分の言葉で世界をまとめること」
 を奨励しています。

 

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 つまり、私はこのような用語例に従って「反知性主義」という言葉を使ったにすぎません。
 したがって、「ここでこの言葉は使うべきではない」というタカさんのご指摘には、素直に首肯する気持ちにはなりません。

 

 もう少しいうと、トランプ氏が大統領になって以降、アメリカ論壇では「ポスト・トゥルース(脱・真実)」とか、「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」という概念が台頭してきました。

 

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 どういうことかというと、トランプ氏の大統領就任式(2017年)のときに、トランプ氏は、「俺の就任式に集まった聴衆の方がオバマより多かった」と自慢しましたが、集会所の後ろの方にいた群衆はそうとうまばらでした。
  
 それをメディアの記者に指摘されたトランプ陣営のスパイサー報道官は、記者会見の席上、「大統領はオルタナティブ・ファクトを述べただけだ」と言い放ちました。
 つまり、「事実などはいくつも存在する」と言い切ったわけですね。

 

 あるメディアは、この発言を採り上げ、トランプ政権の閣僚たちの間に広がる認識のあいまいさを「反知性主義」という言葉で表現しました。
 「知性」というものが、しっかりした事実認識に基づく情報を大切にするのなら、トランプ氏の報道官は早々とそれを放棄した。つまり、トランプ政権全体が「反知性主義」だといったわけですね。

 

 さらに、タカさんのその先のくだり。
 「米国民主党の左傾がよりラジカルに進化すれば、それこそ反知性主義なのではないか?」
 というご指摘。

 

 ずばりお聞きします。
 その論点の根拠は?

 

 アメリカや日本のマスコミは、民主党左傾化に神経質すぎます。
 確かに、アメリカ民主党にはバーニー・サンダース氏(写真下)やエリザベス・ウォーレン氏のような “左派” を自認するような人々もいます。だが、そう人たちが実際のアメリカ国民全体に与える影響力というのは、現状ではほとんどありません。

 

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 民主党がバイデン候補を立てたのは、サンダース氏やウォーレン氏ではアメリカ国民の主流層の心を捉えることができなと判断したからでしょう。

 

 トランプ氏は、選挙戦の間も、ずっと「アンティファ」の過激性・暴力性を攻撃していましたが、アンティファというのは、トランプ派の「Qアノン」と同じようなネットを軸にゆるやかに連携する消極的な集団なので、プラウドボーイズのような銃で反対派を威嚇する武装集団とははっきり区別する必要があるでしょう。

 

共和党支持者によって組織される「ミリシア」といわれる武装グループ

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 今、アメリカ社会が直面している分断の問題は、「右」か「左」かというところにはありません。

 

 格差社会が進行している状況で、コロナの感染が恐ろしくても、人と接する仕事をしなければ食べていけない人と、それを横目で見ながら、テレワークができる恵まれた環境で働ける人たちとの乖離が「分断」という形で現れてきていると思うのです。
 だから、「右」か「左」かではなく、今や、格差社会の「上」か「下」かということが問題となる時代が来ています。

 

 それと、もうひとつ。
 左派の行く先は「共産主義的」というご意見。
 もうそろそろ、こういう認識から卒業されてはいかがですか。

 

 現在、地球上に、厳密な意味で「共産主義的」な国家というのは存在しません。
 中国や北朝鮮というのは、その創設期に「共産主義」を理念に掲げたかもしれませんが、今はそういう理念からまったく逸脱した凶暴で強権的な独裁国家です。プーチン下のロシアもそういう傾向がありますね。

 

 これらの抑圧的な強権国家をすべて「共産主義国家」と決めつけるのは間違いです。

 

 ある意味、上記の国家は、アメリカやEUと同じようなグローバル資本主義に属する国家です。
 ただ、アメリカやEUと違うのは、「民主主義」という概念を抹殺した国々ということですね。
 いわば、国民を厳重な管理システムのもとでコントロールする「独裁資本主義国家」です。

 

 このことは世界の常識であり、「キューバ共産主義国家」と喧伝してフロリダのキューバ撤退移民を怖がらせたトランプ氏の幼稚な手法に乗ってはいけないと思います。

 

 それよりも、いま世界中で深刻な問題となっているのは、(前述したように)一部のお金持ちだけが低所得者の富を簒奪する強欲資本主義がもたらした格差社会です。
 アメリカで、サンダース氏などに期待を寄せた若者たちは、それを問題にしたものです。

 

 ただ、彼らの力はまだ微小です。
 タカさんはコメントの後半で「アメリカの左傾化」を心配されているようですが、当分の間、そういうことは起こらないと思います。
 アメリカ社会の「社会主義アレルギー」はそうとう強烈だからです。

 

 私はむしろ、アメリカ国民が少しは「左傾化」するぐらいの方が健全だと考えています。

 

 タカさんの今回のコメントを拝読するに、私がトランプ氏よりもバイデン氏の方に肩入れしていると思われている気配が濃厚ですが、先に言ってしまうと、私は別にバイデン氏を評価しているわけでもなく、アメリカの民主党を応援しているわけでもありません。

 

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 ただ、民主主義の最低のルールさえ守ろうとしないトランプ氏に対して、あきれているだけです。

 

 タカさんは、「いま少しづつ漏れ始めている民主党の選挙不正疑惑。もし事実であればそれこそ知性もへったくれもない」
 とおっしゃっていますが、その指摘にはどれだけの確証がありますか?

 

 確かに、選挙結果に多少の誤差はあるでしょう。
 なにしろはじめての大量の郵便投票でしたから。

 

 ですが、常識的に考えて、トランプ氏が主張するほどの不正疑惑があるとはとえも思えません。現在ジョージア州などでは手作業による再集計が行われているようですが、専門家たちは、「多少の誤差が明らかになったとしても、トランプ氏が逆転勝利をつかむまでには至らないだろう」と推測しています。

 

 トランプ氏の狙いは再集計による逆転勝ちではなく、「今回の選挙全体が不正なものであったという印象付けを狙ったものだ」という見方が強いようです。
 
 現に、そのトランプ氏の発言を信じる支持者たちの一部は、いまだに「この選挙は違法なものだ」と言い続けています。

 

 それって、すでに「選挙を前提とした民主主義」への信頼を揺るがす現象ですよね。
 「選挙の不正」を言い続けるトランプ支持者たちの声は少しずつ減ってきているともいわれていますが、たぶんそういう声は地下に潜んだまま、今後もアメリカ社会をずっと揺すぶり続けていくでしょう。

 

 タカさんはまたコメントの後段のところで、こう言われていますよね。
 ≫「本当の利益至上主義者というのは、実はバイデンの方で、彼は中国とよろしくやっていて、マスコミもSNSさえ味方につけている」

 

 私は別にバイデン氏に対して、何の批判も期待もありませんから、「そういう見方もあろうだろうな 」という意見にとどめます。

 

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 ただ、一般論として、アメリカの大統領というのは、みなアメリカ企業の利益を守ることを重要だと考える人たちですから、トランプ氏であってもバイデン氏であっても、その基本姿勢は変わらないのではないでしょうか。

 

 一点違うとすれば、トランプ氏はアメリカ企業の利益獲得を自国民に分かりやすい形でアピールしますよね。


 それに対し、バイデン氏は、自国の経済利益を考えながらも、それが同盟国との利益配分を考えたとき、他国の不安や不満を助長しないだろうかということに多少の配慮をするかもしれません。

 

 だから、彼の国際協調路線や貿易路線は、トランプ氏のように、アメリカ国民からは見えづらいものになる可能性はあります。


 もちろんこれは実際にバイデン政権が動き出さないかぎり、なんともいえませんが。

 

 どちらの政策が日本にとっていいのかどうかも、今ははっきりわかりません。
 いずれにせよ、「いい面」と「悪い面」はメダルの裏と表ですから、どちらにもメリットとリスクは伴います。

 

 最後に、「歴史を振り返ると民主党政権時代に戦争が多い」というご意見がありました。

 これはどうなんでしょうか。


 戦争というのは、党の力によって起こるものではありません。
 そのときの国際関係の力学の変化によって起こるものなので、「戦争を起こしたのは民主党共和党のどちらが多いか?」という議論はあまり意味がないように思えます。

 

 第二次世界大戦以降のアメリカの戦争を見てみると、確かに、ベトナム戦争を開始したのは民主党のJ・F・ケネディとそれを継承したジョンソン大統領でした。

 

 しかし、それ以降の主だった戦争を拾ってみると、湾岸戦争(1990年)時の大統領は共和党ジョージ・ハーバート・W・ブッシュ(パパブッシュ)ですし、その後のアフガン戦争(2001年)は、その子供のジョージ・W・ブッシュ共和党)、そしてイラク戦争(2003年)もまたジョージ・W・ブッシュでした。

 

 最近の戦争だけにかぎっていえば、共和党系の大統領の方が戦争に加担する率が高いようです。

 

 トランプ氏も戦争を恐れない大統領の一人ですね。
 つい最近の話では、自分たちの側近に、「(自分の任期中に)イラクの核施設を攻撃する選択肢はあるか?」と尋ねたそうです。

 

 ペンス副大統領もポンペオ氏も、さすがにそれに関しては「殿ご乱心!」といさめたそうですが、放っておくと、トランプ氏は人気取りのために戦争を始めることも厭わない人のように思えます。

 

 そう考えると、「日本を守ってくれるのはトランプか? バイデンか?」という議論もあまり意味がないのではないでしょうか。

 

 日本を守るのは、最終的に日本人であって、そのためには軍備による防衛力を強化しなければならないのか、そうではなく、外交努力の積み重ねが必要なのかという議論が国民レベルで要求されます。

 

 特に、中国の驚異的な拡張主義によって、急激に緊張感を増してきた極東の平和と安定を守るためには、われわれもまたアンテナを鋭敏にして、国民内の議論をしっかり深めていかなければならないと感じています。

 

 そういった意味で、タカさんのコメントは非常にありがたいものでした。
 こういう形で議論が進化し、継続していくことが「民主主義」ですよね。
 タカさんは、そのへんを本当に理解されていて、素晴らしいと思いました。

 最後に「面白い議論でした」と添えてくださっていることをとてもうれしく思いました。

  

AKB48が社会現象だった時代

  

 2020年度NHK紅白歌合戦の出場者が発表されたが、昨年まで12年連続出場していたAKB48が選考から落ちた。

 

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 櫻坂46、乃木坂46、日向坂46などは出場するらしいが、なんといっても、その手のガールズユニットの頂点に立っていたAKBが「紅白」に出ないということは、秋元康系アイドルグループの「終わりの始まり」を見るような気がする。

 

 もっとも、私は指原莉乃がAKBのセンターを張ったとき(2013年)から、なんとなくAKBの終わりを感じていた。

 

 指原というのは、ある意味で、才能のありすぎる娘で、セルフプロモーションがうまい。
 だから、卒業してからのタレント活動の方が輝いて見える。

 つまり、AKB全体の “オーラ” を、独立していく指原1人が奪い尽してしまった感じがするのだ。

 

 いってしまえば、タレント(あるいは役者)として大成するのは、けっきょくは個人の力でしかなく、AKBというシステム自体は、スターを輩出するユニットとしては無力だった、ということを指原が証明してしまったようにも思える。

 

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 しかし、今から8年ほど前、つまり2012年当時を振り返ってみると、AKB48というユニット自体が時代を超えた巨大な存在だった。


 彼女たちが繰り広げる「握手会」や「総選挙」などというイベントは、その時代にもっとも成功したショービジネスだといわれ、多くの企業人たちの熱い視線を集めた。

 

 つまり、「AKB48」は、単なるアイドルという存在を超えて、2000年代全般を代表するような “社会現象” だったのだ。 

 

 彼女たちが巻き起こした旋風がどれだけ凄まじいものだったか。

 

 それを示す一冊の本がある。
 『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書 2012年8月26日)。

 

 今、本棚からたぐり寄せて、パラパラとページをめくってみたら、とんでもない熱量を持った本であることが改めて分かり、軽いめまいを覚えた。

 

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 どういう本なのか?

 

 年齢的にはすでに中年の域に入った男性4人が、
 「自分がどれだけ熱いAKBファンなのか!」
 ということを競い合って語り明かす本なのだ。

 

 この “論争” に参加した人たちは、以下のとおり。

 

 小林よしのり 1953年生 当時59歳 漫画家(下写真左上)
 中森明夫    1960年生 当時52歳 ライター(下写真右上)
 宇野常寛    1978年生 当時33歳 評論家(下写真左下)
 濱野智史    1980年生 当時32歳 社会学者・批評家(下写真右下)

 

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 この人たちがすごいのは、みな例外なく、自ら「AKBにハマった!」と豪語したところにある。


 それもハンパじゃなく、実際に握手会や総選挙などに足を運び、自分のお気に入りの子を “推す” ために、大量のCDを買い込んだという。
 
 トークに参加した小林よしのり氏は、こう語る。

 

 「わしはCDを10枚買ってしまった時点で、異常な世界に踏み込んでしまったという感覚があったよ(笑)。普通なら、同じCDを2枚買ったら無駄なことをしていると思うわけだから」
 
 濱野智史氏の弁。


 「僕も、CDを58枚買ったときは、ついに戻れない世界に足を踏み入れたなと思いました」

 

 本の前半は、こういう中年ファンたちの無邪気な自慢話で埋め尽くされている。
 しかし、話はだんだんすごいところに分け入っていく。

 

 途中から、使われる言葉が尋常ではなくなってくるのだ。
 「資本主義」
 「世界宗教
 「プロテスタンティズムの倫理」
  などという用語が飛び交い始める。
 
 とりあえず、話をリードする論客の一人、宇野常寛氏(写真下)のトークを(少し長くなるけれど)拾ってみる。

 

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 「AKBは売れているからけしからん、というようなことをいう左翼的な人間がまだいる。
 資本主義の論理をどんどん追求したほうが、多様で民主的で、表現としても豊かなものがたくさん出てくるのに、純文学や美術の世界では『アニメやアイドルやポップミュージックみたいな大衆に媚びる文化はダメだ』という恐ろしく頭の悪い発言をする人が後を絶たない。

 

 彼らは、『資本主義の論理に逆らって書かれたものだけが本物だ』みたいなことをいうけれど、そういうのはもう古い。

 

 つまり、彼らは、消費社会のことがまったくわかっていない。自動車だって食品だって、すでに存在する欲望に迎合するだけではなく、徹底的に利潤を追求することで、今まで誰も見たこともなかった新しいモノを生み出してきたわけ。


 媚びるどころか、むしろ大衆に新しい欲望や快感を教えてやらなければ負けていくのが消費社会というゲーム。
  
 そうやって、お金儲けを追求することで新しい価値が自動的に生まれていくのが、資本主義という自己進化システムに他ならない。教条的な左翼の人たちは、消費社会を矮小化してとらえている」

 
 
 ま、宇野氏の気負いは分からないでもないが、AKB48にこれほど思想的なこだわりを持つ理由がいま一つ不明。
 自分の “学識” を読者に伝えたかったのだろうか?
 


 宇野氏と同じぐらいの年齢(当時30代前半)の濱野智史氏(写真下)も、宇野氏と同じぐらいの熱を持って、AKBの存在意義を力説する。

 

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 彼は、こういう。
 
 「(AKBをつくった)秋元康さんほど、今の時代に世界平和を実現するのに近い人間はいないと思っている。

 

 なぜかというと、今の世界は冷戦も終わって、イデオロギー闘争もなくなった。そういう世の中で、何がいちばん危険なのかと考えると、セックスできずにモヤモヤしている非モテ男性のルサンチマン(怨念)みたいなものが、もっとも暴力につながりやすい。

 

 でも、AKBのような方式で世界中にアイドルを展開させていけば、そのルサンチマンが解消される。

 

 世界平和を実現するには、この “恋愛弱者” をいかに物理的に減らすかしか道はないと思う。


 現実的に、セックスできない奴は世の中にたくさんいて、そいつらに救済を与えているのがAKB」

 
 
 ふぅ~ん …… 
 すごいことを言っていたんだなぁ この人。
 AKBファンをすべて「非モテ系の恋愛弱者」と規定してしまう一方的な決め付けに対し、当時こう言われた若者たちは、どう感じていたのだろうか。
 

 
 この本を読んだ2012年には、私はすでに62歳になっていたが、もし自分が “若者” だったら、この発言にそうとうな反発を感じただろうと思う。

 

 だが、この本において、宇野氏や濱野氏の暴走はさらに加速する。
 彼らは、ついに、「AKBこそ新しい世界宗教だ」と言い切る。

 

 以下、濱野氏の発言。 
 
 「日本は(AKBに代表される)アイドル的な国家を目指すべきだ。そしてJKT(AKBのインドネシア版)のように、こういうシステムを外国に輸出していくべきである。

 

 AKBみたいな劇場を他の国へ作っていけば、資本主義社会における自由恋愛では負け組になってしまうモテない若い男子がどんどん救済されていく。

 

 AKBの仕組みは、劇場でAKBが見られたり握手できたりするだけのシンプルなもので、資本主義と結託して恋愛弱者のオタクから搾取しているだけのビジネスに見えるが、その裏側では、確実に負け組の救済になっている。

 

 (AKBが)負け組の若者たちに生きる意味を与えているということで、キリスト教イスラム教みたいな新しい『世界宗教』になり得るのではないか」
 

 おい、濱野さん。
 AKBファンをすべて “負け組” なんて言い切っていいの?

 

 今、この濱野氏の発言を聞くと、彼がこのときに、(AKBウイルス !? に冒されて)誇大妄想的な興奮状態にいたことが分かる。
 
 もしこの発言が、キリスト教原理主義の人やイスラム原理主義の信者に届いたら、「バカなこというんじゃねぇ!」と怒られただろうと思う。

 

 世界の一神教は2000年以上の歴史を持っているが、AKBはこのとき、デビューしてたかだか3年ぐらいの歴史しか持っていない。
 「世界宗教」を語るには、最低でも20年ぐらいの歴史が必要となるのだ。

 

 濱野氏が今どういう世界で、どんな仕事をしているのか知らないが、もしこのときの自分の発言を思い出したら、どんな気持ちになるのだろう。

 

 自分は正しいことを言ったと今でも思うのだろうか。
 それとも恥じるのだろうか。
 知りたいところである。 
 
 濱野氏は、このときのAKBの総選挙で、一位になった大島優子の発言の途中で登場した前田敦子のことをこう表現する。

 
 「(そのとき前田敦子はAKBを)やめているのに、やめていない。まさに記号論でいう『ゼロ記号』じゃないけど、“不在のセンター” になってしまった」
 
 “ゼロ記号” !
 記号論における「ゼロ記号」というのは、確かに、一世を風靡した言葉である。
 しかし、この言葉は、80年代ぐらいには、消費されすぎてすでに死語になっていた。
 それを再び持ち出してくる濱野氏の言語感覚にため息が出た。
 

 そういう濱野氏の脱線振りに輪をかけて、宇野氏も次のような過激発言を繰り出す。

 

 「(マックス・ウェーバーの『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』が指摘したような西洋の一神教的な資本主義の展開ではなくて)今は、アジアにおける資本主義受容という事態が起きた結果、次のステージとして多神教的な世界観と資本主義の結託が始まった。
 僕はそれがAKBじゃないかと思う。21世紀以降は、多神教原理の資本主義のほうが勝つ可能性がある」

 

 彼が興奮していたことは、この発言から伝わってくる。
 ただ、大げさだよ!
 
  まぁ、インテリがアイドルに入れ込むときは、こういう感情になってしまうのだろう。

 

 上記の2人の “過激な(?)” 発言に対し、中森明夫氏と小林よしのり氏は比較的冷静に対応していて、それがいま読み返してみると、好感が持てる。

 

 しかし、それでも4人のトーク全体が熱を帯びていることには変わりない。

 

 8年前。
 いやまぁ、なんという激しい本が出ていたのだろう。

 

 ただ、この本が当時握手会や総選挙に殺到していたファンの心に届いたかどうかは分からない。

 おそらく、本当のファンはあまりこの本を読まなかったように思う。
 あまりにも “インテリたちの言葉遊び” という面が強すぎるから。

 

 宇野氏も濱野氏も、AKBの熱心なファンのような振りをして、(言葉は悪いけれど)本当は自分たちの理屈をひけらかしたかっただけではないか? …… とすら思えるのだ。

 

 それでもまだ、彼らの “資本主義分析” が正しければ読み応えがあったかもしれない。

 

 しかし、宇野氏のいっているようなことは、80年代のニューアカブーム時代に、浅田彰たちによってさんざん言い尽くされたことでしかない。


 それから、30年経った2012年に、それを蒸し返した段階で、宇野氏などの発言は決定的に古くなっている。

 

 資本主義を肯定的に捉える言説は、冷戦構造を背景にした時代のものだ。
 だから、宇野氏や濱野氏が「資本主義」を語りたかったのなら、新自由主義グローバリズムに染まった「冷戦以降の資本主義」を語らなければならなかったはずだ。

 まぁ、今頃そういっても遅いけれどね。

 

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 この本は、AKB48という存在を記録する貴重なデータとして残るのだろうか。
 それとも、トンデモ本のような扱いを受けて、闇の中に消えていくのだろうか。
 違和感を抱きながらも、私はそれなりに面白く読んだけれど

  

 

権力者が舞台を去るときの悲哀

映画『ニコライとアレクサンドラ』

トランプ大統領
 
 ロシアのロマノフ王朝の最後を描いた『ニコライとアレクサンドラ』(フランクリン・J・シャフナー監督)という映画がある。

 

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその皇后アレクサンドラ、そしてその5人の子供たちが、ロシア革命が勃発したことによって処刑されるまでを描いた作品だ。

 

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 制作されたのは1971年(日本公開1972年)。
 そのとき私は、22歳だったが、当時この映画の公開にはまったく気づかなかった。
  
 その作品を48年後、テレビの「BSプレミアム」(2020年10月27日)でようやく見ることになった。

 

 3時間を超える大作だったが、飽きもせずに、面白く鑑賞した。
 なにしろ、フランクリン・J・シャフナーという監督は、『猿の惑星』を撮った人だけに、面白い映画に仕上げるコツは会得していたようだ。
 しかし、その感想をこのブログなどに書き起こす気持ちはなかった。

 

 なのに、今こうして、その映画に触れてみようという気になっている。

 

 栄耀栄華を極めたロシア皇帝ニコライ2世の没落に、なぜか権力を失って政治の場から追われて行くトランプ大統領の姿が重なったからだ。

 

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 ニコライ2世というのは、日露戦争のときに、日本と戦うロシア軍を統括していた皇帝である。
 日本はこの戦いを青息吐息状態でしのぎ、ようやく戦勝に漕ぎつけた。

 

 しかし、実は日本よりもさらに疲弊していたのは、ロシア政府の方だった。

 

 このときロシア政府の要人たちからは、極東の地からはやばやとロシア軍を徹底させ、日本との戦いを終結させようという意見が出ていた。

 
 
 その理由は、莫大な戦費がかかるうえに、得るものが少ないという判断からきたものであったが、もう一つの理由として、ロシア国内に、皇帝を打倒して労働者の国家をつくろうという動きがあったからだ。

 

 しかし、見栄っ張りのニコライ2世は、極東の貧しい国に戦争で負けるということを屈辱に感じ、戦局が好転しないまま、ますます戦争継続に前のめりになっていった。

 

 この間の出来事をまとめた司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』によると、当時の日本政府は、ロシア国内で勢力を持ち始めた革命勢力と秘密裏に接触し、革命グループにこっそり資金援助をしていたという。

 

 そういう日本側の裏工作も功を奏して、けっきょくニコライ2世は、名誉ある勝利を手にしないまま、日本との講和を受諾。朝鮮半島満州支配で得た利権を手放すことになった。
 
 彼が講和に踏み切ったのは、頼みの綱であったバルチック艦隊日本海海戦で敗れたことも大きかったろうが、日本のような小国など、“一休み” したあとに、もう一度戦いを起こせば簡単に踏みつぶせると思っていたかららしい。

 

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 そういう読みの甘さからも、ニコライ2世という統治者の実務レベルがそうとう低いものであったことがうかがえる。

 

 しかし、皇帝の私生活は充実しており、血友病を患っていた長男のアレクセイを除けば、どの娘もみな健康状態が良好で、優秀な教育者たちに囲まれ、優雅な青春を謳歌していた。

 

 ニコライ2世自身も、妻のアレクサンドラと仲睦まじい夫婦関係を満喫していた。

 

 「歴史スペクタクル映画」と銘打つだけあって、映画の前半は華麗なるロシア宮廷の栄耀栄華がド派手なくらい描き尽される。

 

 宮廷における夜毎のパーティ。
 風光明媚な離宮でくつろぐ皇帝家族の贅沢なランチ。
 皇帝に忠誠を尽くす軍隊をバルコニーで閲兵する皇帝ファミリー。

 

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 そこには、「ロシア」という地球上まれにみる広大な領土を持った皇帝一族の華やかな暮らしぶりが、「これでもか! これでもか!」というくらい執拗に繰り返される。

 

▼ ニコライ2世ファミリーの肖像(実写

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 しかし、レーニンスターリントロッキーといった革命派が台頭してくるにしたがって、皇帝一家の生活にも少しずつ暗い影が広がっていく。

 

 まず日露戦争後に皇帝が決断した第一次世界大戦への参戦。
 これがニコライ2世のつまづきのもとになった。
 
 このときのロシアには、もう敵対するドイツ・オーストリア連合軍との戦闘を継続する力は残っていなかった。

 

 連敗を続けるロシア軍の士気はみるみる衰え、無謀な戦いに踏み切った皇帝への不満が軍隊内に広がっていく。

 ロシア軍の将校たちの皇帝に対する忠誠心も低下し、彼らは皇帝の命令をも鼻でせせら笑うような態度を見せ始める。

 

 こういう場面はほんとうに見ていると辛くなる。

 

 ニコライ2世の全盛期には、「皇帝万歳!」と叫んでいた兵士たちが、次第に皇帝の警護をさぼり始め、将校たちは露骨に侮蔑の表情を浮かべ、最後は、皇帝に対して “ため口” を叩くようになる。


▼ 処刑されるニコライ2世ファミリー(映画)

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 権力者の末路というのは、これほど残酷なものなのか !?

 

 この映画は、次々と特権をはく奪されていく皇帝一家の悲惨な生活をドキュメンタリー作品のようにフォローしていく。

 

 その過程が、なんだかトランプ氏の失墜と重なる。

 
 トランプ氏は、その就任当初、これまでの大統領が行わなかったような政策と人事でアメリカ国民を驚かした。

 

 しかし、やがて彼は従順な部下以外の人たちを、些細な失策を理由に、次々と解雇していく。


 
 国防長官となったマティス氏、国務長官となったティラーソン氏、バノン大統領首席戦略官、ボルトン大統領補佐官、そして最近ではエスパー国防長官。
 その数は30人近くだともいわれている。

 

 これらの人は、みなトランプ氏が「裸の王様」であることを指摘し、それなりの助言を試みようとしたが、そういう言動はトランプ氏にみな「反抗的だ」という印象を与えたようで、即座に解任されていった。

 

 ロシアのニコライ2世も、やはり側近の忠告に耳を貸さなかった。
 そして、軍隊に不穏が動きが見えてきても、自分のひと声で、軍隊の統率が図れるものだと高をくくっていた。

 

 ニコライ2世とトランプ氏の共通点は、ともに庶民の人気は高かったことである。
 ロシア革命が起きたとき、ニコライ2世の処刑を決断した革命派は、彼が「人民を抑圧した暴君である」と宣伝した。

 

 しかし、実際のニコライ2世は、必ずしもロシアの民衆から見捨てられたわけではなかった。

 純朴で信仰心の厚いロシアの農民たちは、ロシア革命を指導したインテリ層とは異なり、皇帝を「神」と同一視していた。
 今のトランプ氏同様、ニコライ2世は、ロシアの庶民にとっては救世主であり、ヒーローだったのだ。

 

 だからこそ、革命派はそういうロシアの農民心理を抑圧するために、皇帝の処刑を早めなければならなかった。

 

ロシア革命を指導したレーニン(実写)

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 そのことを今回のアメリカ大統領選に照らし合わせてみると、インテリ層の支持を集めた民主党支持者と、純朴で宗教心の厚い共和党支持者の「分断」をそこに重ねることができる。

 

 ニコライ2世は、革命前夜、身内の抵抗や反乱から、自分の環境が変わっていくことをおぼろげながら察知するようになった。

 

 トランプ氏においても、その任期が終わろうとする頃、数々の暴露本が発行され、社会的な糾弾を受けるようになった。

 

 “忍び寄る不安” というものは、人間の心を少しずつむしばんでいくものである。

 

 トランプ氏の場合も、側近の反乱やメディアの糾弾に対し、たびたびいら立つ表情を見せるようになった。
 彼が精神の高揚を体験するのは、選挙戦が始まり、多くの支持者の前で演説するときだけだったかもしれない。

 

 現在、トランプ氏には、いろいろな借金を抱えているという事実と過去のスキャンダルにより、いくつかの訴訟が迫ってきているという。
 それだけでなく、メラニア夫人との離婚話もウワサにのぼるようになった。

 

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 四面楚歌になりつつあるトランプ氏。
 その姿には、どことなく悲哀の色が深まりつつある。

 

 権力者の最後は、(暴君であろうが名君であろうが)、悲劇性を帯びる。
 権力の頂点にいたときの輝かしい栄光と、それが破滅に向かって行くときの落差が、巨大な瀑布を仰ぎ見るようなドラマになるからだ。

 

 ただ、革命期のロシアと違って、アメリカは民主主義の法治国家である。
 トランプ氏が、ニコライ2世のような銃殺に処せられることはない。 
  

 

 

アメリカ社会の「分断」とは何か?

 

 日本時間の2020年11月7日(土)未明、アメリカの大統領選は、バイデン氏の勝利で終わった。

 

 しかし、トランプ氏が負けを認めず、法廷闘争に持ち込もうとしているので、これから何が起こるのか、あいかわらず不透明な部分が消えない。

 
 
 それはともかく、これまでの報道を見ていると、不思議な気持ちになることが多々あった。
 それは、トランプ支持派の行動だった。

 

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 選挙戦終盤に、トランプ氏が記者会見やツィッターで、
 「民主党の郵便投票は不正だ」
 と発言するやいなや、トランプ支持派はいっせいに投票場に繰り出し、
 「郵便集計を中止しろ!」
 と、窓を叩いて抗議を繰り返した。

 

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 別の投票場前では、選挙管理スタッフが集計状況をメディアに説明していると、いきなりトランプ支持派の男性(写真下)が乱入。
 怒りをあらわにした表情で、
 「バイデン一家は選挙を盗んでいる。彼らは不正を煽っている」
 とわめき散らし、管理スタッフの説明を妨害した。

 

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 確かに、郵便投票における集計ミスは多少は生じるかもしれない。
 だが、あからさまな不正が堂々と行われているとは、常識的には考えにくい。

 

 しかし、“トランプ親衛隊” たちは、
 「郵便投票をやめさせろ!」



 とトランプ氏に言われれば、百姓一揆のように大挙して投票場に殺到した。

 

 常軌を逸しているとしか思えないのだが、そう思うこっちの方がおかしいのだろうか?
 彼らは、トランプ氏の言動に、一度たりとも疑いを持つことはなかったのだろうか?


 
 これに関しては、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる集団も同じような状態を示した。
 「Qアノン」というのは、“ディープステート” という影の政府がアメリカを牛耳っていて、その親玉には、民主党やメディアの大物が関係していると信じた人々のことをいう。

 

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 「その “悪の組織” と戦っているヒーローがトランプ氏なのだから、彼を助けて、アメリカを “正しい国” にしなければならない」

 「Qアノン」グループは、こういう荒唐無稽の “陰謀論” を信じ、それを声高に主張して、“トランプ応援団” の一翼を形成した。
 まるで、魔女や悪魔の存在を信じているヨーロッパ中世に生きる人間の思考回路がそのまま復活してきたように見える。

 

 こういう熱狂的なトランプ親衛隊の “脳内” では、いったい何が起こっていたんだろう?
 

 

「分断」の底に流れていたもの
  
 アメリカの大統領選挙が大変な混乱を招いた原因を、メディアは「アメリカ社会の分断」という言葉で表現した。

 

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 リベラル、保守という政治的分断。
 白人、黒人などの人種的分断。
 経済重視の政策か、地球の気候変動を是正する政策の分断。
 …… などなど。

   
 メディアが報じる “アメリカの分断” というと、上記のようなものがすぐ思い浮かぶ。

 しかし、本当の「分断」は、さらに根深いところから生じている。

 1990年以降、アメリカ社会に羽根を伸ばし始めた「反知性主義」がそれに関わっている。


 1990年代というのは、(アメリカに限らず)世界中で、「知性」や「教養」といったものが急速に遠ざけられていった時代であった。

 

 それまでは、先進国においては、まだ知的なものへの関心がローソクの炎のように揺れながら残っていたが、90年代に入ると、世界中の国から一気にそれが吹き消された。

 

 世の中から「知性に対する尊敬の念」が遠ざけられたのは、「人間」というものの考え方が変わったからである。

 

 80年代から世界の先進国を覆い始めた新自由主義の思想の根底には、地球上をひとつのマーケットと考えるという発想が力を得てきた。

 

 そこで必要とされてきたのが、「反知性主義的」な社会風潮にのっとったマーケット組織論であり、世界の教育方針もそれに応じた再構築が要求されるようになった。

 

 なかでも、特にアメリカの学問の傾向がそこには強く浸透しているとみてよい。

 

 それは、「人間」を計量分析的な手法で捉える学問である。
 つまり、個々の人間の「内面」とか「精神」に踏み込まず、人間を “群れ” として考え、大まかな傾向によってグループに分けて、数の多さ・少なさで人間のタイプを識別していくような考え方である。

 

 繰り返しになるが、そのような学問スタイルが主導的な地位を占めるようになったのは、この時期からアメリカを中心とした多国籍企業が、自分たちのマーケットを広げるための “人間操作” に手を染め始めたからだ。

 

 
反知性主義」に人々を
誘導した多国籍企業

 

 人間を「個人」としてではなく、「群れ」として考える。
 そうすることによって、グローバル企業は、消費者を従順に管理できる広大なマーケットを獲得することができる。

 

 この段階で、従来の心理学や精神医学は後退させられた。
 人間の個性や才能はすべてステレオタイプ化された「分類項目」に仕分けられるようになり、「個」を主張する人間は、マーケット管理の網の目からこぼれ落ちるように運命づけられるようになっていった。

 

 “知性を軽んじる盲目的な大衆”

 

 それこそが、グローバル企業にとって効率よくスムーズに市場を広げるためのいちばんの特効薬と考えられたのだ。
 
 その段階で、ドイツの哲学も、フランスの芸術も、「19世紀的なパラダイムから脱出できない旧態依然たる思想」というレッテルを貼られることになった。


 アメリカは、経済ブロックとしてのEU に脅威を感じていたから、文化的な潮流としても、ヨーロッパ的な伝統を打ち崩していく必要があった。

 

 一方ヨーロッパにおいても、一時一世を風靡したフランス現代哲学の影響力が一気に失われるようになった。

 

 サルトルに始まって、ミシェル・フーコー、デリタ、ドゥールーズらを輩出したフランス哲学は、80年代までは世界の知的シーンを領導したが、それはアメリカとソ連が対立した冷戦時代に、そのどちらの世界観にも与さない “第3極” を目指すというスタンスが新鮮だったからだ。
 
 しかし、そのフランス哲学の潮流も、冷戦が終結し、世界の2極構造が崩壊していく過程で目指すべき3極目を失い、衰退していった。
 
 
頭を使わない作品ばかり
になったハリウッド映画

 

 こうして、アメリカ流の新自由主義思想がグローバル経済の担い手となるやいなや、先進国の文化はのきなみ “反知性主義” の色合いを強めていった。
 
 それは学問領域だけでなく、娯楽の領域にまで及び、ハリウッド映画では、知性をまったく必要としないアクションシーンだけが連続する作品が高収益をあげるような風潮が生まれた。

 

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 なにしろ、映画で興行成績を上げるには、頭を使わせるような映画にしてはダメだということが映画会社の方針となった。

 

 そのためには、子供と親を同時に劇場に呼べるように、子供の知能で理解できる作品にしなければならなくなった。
 そうしないと、莫大な広告費を回収できないからだ。
 
 そういう新自由主義の文化傾向は、1990年代の日本でも広まった。 
 むしろ、日本の場合は、ヨーロッパなどに比べて反知性主義の浸透がスムーズだったといえる。

 

 それは、1980年代に、日本が未曽有のバブル景気を迎えたからだ。
 金を派手に使って遊ぶことを覚えた文化に、知性は育たない。

 

 知性というのは、「本を読む」「師との対話を続ける」など、わりと地道な作業を通じてしか身に付かない。

 

 しかし、バブル狂乱のなかでは、そのようなコツコツした作業を積み重ねることは「野暮ったいもの」として遠ざけられていった。 
 その風潮は、そのまま日本の1990年代に受け継がれた。 
 
 
 このような世界中に蔓延した「反知性主義」は、政治的にはポピュリズム大衆迎合主義)に傾く。


 多くの人が、すでに自分で考える習慣を捨ててしまっているので、そういう人の心にも響くような、攻撃的な言葉で分かりやすく “世直し” を訴えるポピュリストが人気を得る。

 これが2016年以降アメリカを襲った “トランプ現象” だ。


 トランプ氏は、自分を支えてくれる支持者たちに、「エリートへの反感」を植え付け、ものの見事に、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」の潮流を巻き起こした。

 

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 彼は、「本を読まない習慣」に価値をおき、
 「自分が生涯のうちに読んだ本は2冊。1冊は聖書で、もう1冊は自分で書いた自分の自伝だ」
 と豪語。

 「読書など、時間の無駄づかいだ」と言い切って、読書コンプレックスを抱いていた “反知性主義者” たちの拍手を浴びた。

 

 こう見ていくと、“トランプ親衛隊” こそ、悲しむべき被害者であることが分かる。
 彼らはトランプ氏のこれまでの発言に留飲を下げたが、結局は “いい気持ち” させられて、政治的に利用されただけだった。

 

 トランプ氏によって、経済が上向き、雇用も増えたと評価する人々もいるが、逆に、それと同じぐらいの量で、工場の閉鎖や町の衰退を嘆く人も多かった。

 

 私はかつて、今回の大統領選の激戦区といわれたアリゾナ州ネバダ州、ユタ州をレンタルモーターホームで旅したことがあったが、そこで出会った人々 … その大半は今回トランプ支持に回ったと思うが …… 彼らはみな観光客にはとても優しく、気持の良い人々であった。

 

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 彼らの大半は、純朴で、笑顔がチャーミングで、心の温かさがそのままこちらに伝わってくるような人たちなのだ。

 

 そういう彼らが、ポピュリストのトランプ氏に煽られ、「反エリート」「反マスコミ」「反民主党」を貫く過激思想に染まっていったのは哀しい。