アートと文藝のCafe

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トランプ型フェスティバルの熱狂

 

 予測通り、開票日の3日中に集計が出なかったアメリカの大統領選挙。
 郵便投票の結果を待つという事態に進みそうだが、これもトランプ氏が「郵便投票の不正」を主張したり、自分に不利な判定を下した州の結果に異議を申し立てたりしているため、予断を許さない状況だ。

 

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 それにしても、大方の予想を覆し、トランプ氏が善戦していることは明瞭である。

 

 昨日、トランプ氏がフロリダとマイアミを制した段階で、一部メディアは、これを「4年前のデジャブ」 すなわちヒラリー・クリントンが選挙戦終盤に大逆転をくらって敗北した2016年の大統領選の再現ではないか? と報道したりもした。

 

 事実、日本の政治ジャーナリスト木村太郎氏などは、テレビの報道番組で「これでトランプの勝利は9割確定したでしょう」とまで言い放った。

 

 ところが一転、一夜明けた5日の報道では、「バイデン氏勝利」の予想を立てたメディアがじわじわと増え始めた。

 さらに、正午になると、「バイデン氏が大手!」という予測が主導的になった。


 もちろん、依然として、アメリカのトランプ支持者たちは、自分たちの勝利を疑っていないという。

 

 しかし、前述したように、昨日の段階では「トランプ氏の勝利」が見えた瞬間があったことは確かだ。

 そのとき、大統領選を報道している日本のテレビ番組においては、各コメンテーターが口をそろえて、トランプ氏の善戦は、彼自身とその支持者たちの “熱量” のせいだと語った。

 

 トランプ氏が各州を回り、集会に多くの支持者を集め、その熱気をメディアを通じてアメリカ国民全体にアピールする。

 

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 赤いキャップをかぶり、ジェスチャーを交え、自信たっぷりに演説するトランプ氏はもう戦う前から “凱旋将軍” ようだし、「TRUMP」というプラカードをかざして小躍りしている支持者たちはカーニバルの踊り子たちのようだった。

 

 ある専門家は、
 「トランプ支持者はテレビ画面で見るかぎり熱狂的に見えるが、その数は広がっていない」
 と語った。

 

 しかし、テレビを見ていた私には、そんなふうには思えなかった。
 アメリカ国民の大半がトランプを応援しているように見えた。
 おそらく、アメリカの有権者たちもそう感じていただろう。

 

 一方のバイデン氏は、大学生たちを集めて講義をする教授のように見えた。
 冷静で、知的で、教育熱心な教師であるかもしれないが、講堂のすみで居眠りする生徒に対して注意するような覇気は感じられなかった。

 

 言語も文化圏も異なる日本人の私ですらそう感じたのだから、アメリカ人たちにとって、2人のキャラクターの差はもっと歴然としたものに感じられただろう。

 

 今回の2人の戦いは、「祭りの熱狂」と「講義の理性」の戦いであった。
 つまり、「非日常」と「日常」の戦いだった。

 

 「トランプか、バイデンか」という選択を迫れたとき、多くのアメリカ人は「経済か?」、それとも「コロナ対策か?」という選択肢に置き換えて判断を迫られたとよくいわれる。

 

 もちろん、実利的にはそうであったかもしれない。

 しかし、その奥に隠された国民の無意識は、「祭り」か「日常か」という選択  すなわち「陶酔」か、「理性」かという選択でもあったのだ。

 

 今回の大統領選は、世界でいちばんコロナウイルスの感染者が多いアメリカだからこそ出現した戦いであったが、コロナウイルスへの脅威に対して、どう立ち向かうかという戦いでもあった。

 

 人間が恐怖や不安と戦うには二通りの手段がある。
 ひとつは、恐怖と不安の対象となるものを冷静に分析し、合理的にその解決法を模索する方法。
 大統領選でバイデン氏がとった手法がこれだ。

 

 もうひとつは、恐怖や不安に怯える心を、「祭りの興奮」で吹き飛ばす方法。
 トランプ氏はこっちを採ったのだ。
 それも圧倒的な演出とパワーで。 

 

 トランプ氏支持者たちが、マスクをせず、「密」状態で熱狂するのは、まさに「祭りの興奮」である。

 「祭り」というのは、その先に “死” への衝動を秘めている。
 死んでもかまわないと思えるほどの熱狂こそ、祭りの正体なのだ。

 

 今回のトランプ氏の戦い方をテレビで評したある日本人のコメンテーターがこんなことを言っていた。
 「アメリカ人は楽天的なヒーローが好きなのだ」
 と。

 

 楽天的なヒーローとは、“悲惨な境地” から自分たちを救い出してくれる救世主のことである。
 ハリウッド映画『アベンジャーズ』のように。  
 あるいは、昔の『スーパーマン』、『バットマン』、『スパイダーマン』のように。
 その超人的な力で、悪をなぎ倒し、人々に「ハッピーエンド」をもたらしてくれる者。


 それを完璧に演じ切ったのが、今回のトランプ氏だ。

 

 私自身の好みをいえば、勧善懲悪型のヒーロー映画が嫌いである。

 そのストーリーの単純さ、主人公の “頭の悪さ” が退屈に思えてしかたがない。

 だから、トランプ型の “聴衆の煽り方” には目をそむけてしまう。

 

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 だが、それこそ、「大衆の好み」の最たるものかもしれない。

 

 ヒーローには、「理屈」は要らない。
 ヒーローに求められるのは「強さ」だけだ。

 

 トランプ氏は、対立候補のバイデン氏に、「理屈をこねるバイデン」というイメージをかぶせた。
 
 事実、バイデン氏は「パリ協定」への復帰や、シェールガスの掘削法への懸念を表明し、環境問題への関心の高さを示した。

 

 しかし、多くのアメリカ人にとって、“環境問題” などは「理屈の世界」でしかない。
 “頭は悪い” が超人的に勘の鋭いトランプ氏は、そのことをよく知っていた。

 

 ただ、「祭りの興奮」は、祭りが終われば風船のようにしぼむ。

 その後に訪れるのは、うら寂しい秋の夕暮れの景色だ。

 トランプ支持者たちの “トランプ ロス” は、きっと彼らを長くむしばんでいくだろう。

 

 この戦い、2~3日後にはその動向がはっきりすると思うが、もしトランプ氏が勝利を手にするようなれば、アメリカは、世界の先進国でもっとも遅れた国になりかねない。

 

 

大統領選、いま始まる

 いよいよ本日(日本では11月4日)に迫ったアメリカ大統領選挙
 個人的には、今いちばん関心を持っているニュースである。
  


 もちろんヨソの国の選挙なので、トランプ氏が勝とうが、バイデン氏が勝とうが、日本人の私には関係のない話である。

 

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 にもかかわらず、この選挙には、まるでドラマでも見ているような面白さがある。
 現代社会の明日の姿が、すべてここからスタートしていきそうに思えるのだ。
 
 アメリカの国家元首を決めるだけの選挙なのに、ここには国際政治のゆくえ、地球環境問題のゆくえ、格差社会の動向、宗教のあるべき姿、民主主義存続の問題、知性主義と反知性主義の相剋、極東の安全保障問題  現在懸案事項となっている国際社会の動向がすべてこの選挙にかかっていそうな気がする。

 

 それだけに、日本のメディアも本日まで、この選挙戦の報道にたくさんの時間をとってきた。


 
 そこで提出されたいろいろなレポートを見ていると、トランプ支持者たちの熱狂ぶりも伝わってくる。

 

 彼らの多くは、低所得・低学歴の白人労働者である。
 そのなかでも、選挙の勝敗を握るのは、“ラストベルト” といわれるエリアに住む自動車産業や石油・石炭産業に従事する人々である。

 

 かつては米国の主要産業に従事する人たちだが、経済のグローバリズム化にともない、仕事量の漸減に苦しむようになった人々が多数派を占める。

 

 2016年、トランプ氏は、彼らに、「仕事を取り戻す」ことを公約に掲げて支持を集め、大統領に就任した。
 
 今回の選挙でも、この構図は基本的に変らない。

 

 そのため、今回の選挙でも、4年前にトランプ氏に票を投じた支持者たちは、
 「トランプは俺たちに仕事を返してくれた。今までいなかった素晴らしい大統領だ」
 と手放しで評価し、今回も彼の再選を強く望んできた。

 

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 だが、彼らには残念なことだが、世の中の趨勢は、やがて脱石油・脱石炭の方向に舵を切らなければならないようになっていく。


 地球環境を守るために「脱・炭素社会」を実現するという方針は、次第に各国政府の合意事項となり始めているからだ。

 

 そうなると、脱石油・脱石炭を世界が標榜するかぎり、ガソリン自動車を中心としたアメリカの自動車産業も方針転換を迫られるようになる。

 

 アメリカにおいても、トランプの対立候補である民主党バイデン氏は、地球環境を守るための国際会議「パリ協定」から離脱したトランプ氏の方針を批判し、アメリカは再び「パリ協定」に復帰すると宣言した。

 

 日本でも、菅首相が、
 「2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにする」
 と宣言した。

 

 なんと中国でも、習近平主席が、
 「中国のCO2排出量を2060年までに実質ゼロにする」と表明したのだ。

 

 トランプ氏がしなければならなかったのは、こういう世の中の動きを見極め、20世紀的な産業構造に依拠しなければならなかったアメリカの労働者たちに新しい産業方針を示し、そのための支援に労力を惜しまず、彼らを救ってやることだったのだ。

 

 それにもかかわらず、トランプ氏は彼らの今までの仕事を「いっそう振興させる」と大風呂敷を掲げて支持を取り付けた。
 無責任極まりない態度だと思う。

 

 トランプ氏は自分のことしか考えていないということは、こういうことからも分かる。
 大統領としてトランプ氏が活動できるのはわずか4年でしかないが、彼らはまだ10年~20年は現在の仕事に従事しなければならない。
 そうなれば、状況はさらに彼らに不利になり、多くの人は今よりも深刻な困窮と失望のなかで生きていかざるを得なくなるだろう。
 
 
 こういうトランプ氏の無責任な言動を、それでも評価する日本人の評論家もいる。
 政治ジャーナリストの木村太郎氏などがその筆頭だ。

 

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 彼は今回のアメリカ大統領選について、早いうちから一貫して「トランプが完勝する」といい放ち、これまでの4年間においても、
 「トランプには大統領としての実績がある。彼のおかげで国は豊かになり、経済は成長した」
 と高く評価。

 

 さらに、トランプを批判する知識人とトークするときは、
 「ヨソの国のことなのだから、日本人は放っておけばいいのだ」
 と手厳しく議論の相手を突き放した。

 

 トランプを支持する人間は、みなどこかトランプ氏と共通の肌合いを持っている。
 木村太郎氏からも、トランプに似た傲慢さやふてぶてしさが匂ってくる。
 
 また、トランプに期待する日本人評論家のなかには、
 「中国の膨張政策に歯止めを掛けられるのはトランプしかいない」
 と言明する人もいる。

 

 「民主党はこれまでも中国に甘かったから、バイデンでは海洋進出を早める中国に何も手出しはできない」
 という論理だ。

 

 だが、トランプ氏が中国に強硬姿勢を取り続けているのは、ディール(取り引き)でしかない。


 彼は、中国がアメリカとの貿易で、アメリカの有益な譲歩をしてくれば手のひらを返したように中国に甘いアメを与えかねない。

 

 アメリカが貿易で中国とおいしい取り引きを行ったときには、トランプ氏は、あっさりと香港も台湾もみな中国に与えてしまうだろう。

 

 あと数時間で、大統領選が開票となる。
 日本時間の4日未明には、どういう結果が出るのか。
 それともその日には決着がつかず、さらなる混迷が待ち受けているのか。
 
 ヨソの国のことながら、そうとう気になる。

 

マルクスの『資本論』が再びブーム?

若者たちの『資本論』研究の背景にあるもの

 

 今年になってから、若い学者たちの間で、マルクスの『資本論』を再評価する活動が盛んになっている。

 

 今年の4月には、白井聡氏(43歳 京都精華大学教員)の『武器としての「資本論」』が出版され、かなりの話題を呼んだ。

 

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 同書は、出版された直後に佐藤優いとうせいこう内田樹といった著名な評論家たちがこぞって好意的な書評を載せたこともあり、コロナ禍で自粛を要請された社会状況とも重なり、書店での売り上げがかなり伸びたようだ。

 

 また、この9月には、斎藤幸平氏(33歳 大阪市立大学大学院准教授)の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』が出版され、こちらも経済学者の水野和夫、音楽家坂本龍一、書評家の松岡正剛などという人々に注目され、メディアの新刊紹介ページをにぎわした。

 

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 どちらも買って読んだが、若い研究者たちの熱意がしっかり伝わってきて、刺激的な読書体験をもたらせてくれた。

 

 しかし、今なぜマルクスの『資本論』なのか?

 

 世界の状況が、19世紀にマルクスが『資本論』を書かざるを得なかった時代に再び酷似してきたからだ。

 

 
現代はマルクスの生きた時代に似てきた

 

 19世紀半ば。
 イギリスの産業革命によって成長を始めた “資本主義” は、莫大な富を得て贅沢を享受する富裕層(資本家)と、その日暮らしの生活を維持するだけの貧困層(労働者)を同時に出現させた。

 

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 こういう事態を重く見たマルクスは、一方では『共産党宣言』のような、階級闘争を呼びかける書物も刊行したが、それにとどまらず、他方では “資本主義” の構造そのものを分析する『資本論』の執筆も始めた。

 

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 その時代から、すでに150年が経過している。
 世界経済は、マルクスの分析をはるかに超えて、人々に巨大な富をもたらした。

 

 しかし、“富める者” と “貧しき者” の格差は縮まったのか?

 逆に開いてしまった。

 

 高級なワインや牛肉、ハイセンスで安価なファッション、衛生的な住環境、刺激的なゲームや面白いエンターティメントに囲まれた生活を享受しているのは、実は、きわめて限られた先進国の人々にすぎない。(当然日本もそっちの組に入る)

 

 その先進国の人々の “豊かな生活” を保証しているのが、劣悪な条件で過酷な労働を強いられる発展途上国の人々である。

 

 たとえば、先進国の人々がワンシーズン着ただけで気軽に捨てるようなファスト・ファッションの洋服を作っているのは、その日暮らしの生活水準をかろうじて維持しているバングラディッシュの労働者たちであり、その原料である綿花を栽培しているのは、40℃の酷暑のなかで作業を行うインドの貧しい農民たちだ。

 

 “富める者” と “貧しき者” という階層分化が進んでいるのは150年前のマルクスの時代と変わらないが、今はその所得格差がさらに広がり、しかもそれがどんどん固定化してきている。

 

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 人口比でいえば、10%のセレブたちを、90%の労働者が支えているという計算になる。
 詳しくいえば、一生遊んで暮らせるほどの富を確保した1%の特権層を、生活の不安を抱えた99%の一般人が養っているという、すごくいびつな富の偏在が常態化してきている。

 

 それをもたらしたのは、冷戦崩壊(1989年)後に始まった経済のグローバル化と、それを背景に生まれてきた新自由主義思想である。

 このような巨大な格差が地球を覆っている現状を、もし150年前のマルクスが知ったら、
 「まだ俺が生きていた時代の方がましだ」
 と必ずいうだろう。

 

 
新しい視点で解釈された『資本論

 

 現在、若い学者たちが、マルクスの『資本論』に再び光を当てているのは、実はこういう時代背景があるからだ。

 最初に挙げた白井聡氏(写真下)の『武器としての「資本論」』は、このマルクスの「資本論」を読み解くための入門書として役割を帯びている。

 

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 つまり、この書では、マルクスの「資本論」がけっして歴史を知るための古典ではなく、今の “新自由主義” 的な抑圧機構から人が解放されるための現代的な実践書であることを強調する。

 

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 一方の斎藤幸平氏(写真下)が書いた『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』では、これまでの『資本論』像を大きく塗り替えるような新しい視点が強調されている。

 

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 すなわち、マルクスの『資本論』では十分に展開されていなかった環境問題が全面的に取り上げられているのだ。

 

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 著者の斎藤氏によると、マルクスは、このまま資本主義の暴走が止まらなければ、地球環境が壊滅的な打撃を受けることを預言していたという。

 

 これは、従来の『資本論』研究ではなかなかとり上げられなかったテーマである。

 

 もし、『資本論』を完結した一つの書として扱うならば、確かに、「資本主義の環境破壊」を正面的に取り上げた記述はない。

 

 しかし、斎藤氏は、
 「『資本論』は、そこに掲載された文字だけで完結するような書物ではない」
 とも。

 

 『資本論』の周辺には、まだマルクスが論考としてまとめきれなかった膨大なメモやアイデア集が散らばっており、それらを丹念に総合すると、
 「マルクスの晩年の関心は、資本主義と自然環境の関係性を探ることにあった」
 と斎藤氏はいう。

 

 つまり、
 「資本主義は、労働者から “富みを簒奪(さんだつ)する” だけでなく、地球から豊かな自然をも簒奪する」
 ということが、マルクスの残した膨大な “研究ノート” に記述されているというのだ。

 

 
マルクスはすでに現代の環境問題を見据えていた

 

 マルクスが生きた時代には、人間の経済活動によって生じる「温室効果ガス」が、地球の温暖化を進めるなどという議論は生まれていなかった。
  
 しかし、マルクスは、その膨大な研究ノートのなかで、資本主義の暴走が止まらなければ、自然環境の崩壊は必至だということを見抜いていた。
 事実、今の地球は、彼の予言通りの危機に見舞われている。

 

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 たとえば、南米のアマゾン川流域では、熱帯雨林を伐採して農園に代えるという開拓工事が止まらない。

 

 そのため土壌浸食が起き、肥料・農薬が河川に流出して、川魚がどんどん減少している。
 それによって、その領域に住む人々は魚からとっていたタンパク質が欠乏し、十分な食生活が得られなくなると同時に、森林に頼っていた野生動物の生活環境も劣悪化した。

 

 そういうことは世界各地で起こっており、その結果、今までの生活を維持できなくなった人々は、金銭目当てに、絶滅危惧種に指定された野生動物を殺して密猟者を助けるという違法取引に手を染めていく。

 

 そこで密猟された象、サイ、トラなどの野生動物の象牙、ツノ、毛皮などはお金持ちの嗜好品や高価な漢方薬となっていく。

 

 資本主義は何でも金儲けの対象にしてしまう。

 気候変動などの環境危機が深刻化すれば、それさえも資本主義にとっては利潤獲得のチャンスとなる。
 山火事が増えれば火災保険が売れる。
 バッタが増えれば、農薬が売れる。
 すべての環境危機は、資本にとっての商機となる。

 

 これをわれわれは「ビジネスチャンス」という言葉に置き換え、利潤獲得のために貪欲な行動に走る。

 

 だが、そういう「経済優先的な思考」を、いつまでも地球環境が許してくれるだろうか。

 

 
化石燃料の浪費はつい最近の問題なのだ

 

 考えてみれば、「地球環境の危機」というのは、きわめて最近クローズアップされてきたものばかりだ。


 
 たとえば石炭・石油などの化石燃料の消費。
 それは20世紀から一貫して問題にされてきた大きなテーマだが、人類が使用した化石燃料のなんと半分は、実は冷戦が終結した1989年以降に消費されたものだという。

 

 わずか30年の間に、人類は莫大な量のエネルギーを浪費してしまったのだ。

 

 つまり、冷戦終結によって、「社会主義」と「資本主義」の政治的・思想的対立が解消し、世界経済がグローバル化を遂げたことで、大企業のエネルギ政策が野放しになったことが遠因としてある。

 

 この間、新自由主義的なグローバル企業を展開して大儲けをした世界のセレブたちは、みなプライベート・ジェットや大型クルーザー、そして高価なスポーツカーを乗り回し、大豪邸を何軒も所有して、この世の春を謳歌した。

 

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 人口的にいえば、その人たちの比率はわずか0.1%。
 象徴的にいってしまえば、その0.1%の人々が、21世紀の地球環境に深刻な負荷をかけてきたともいえる。

 

 現在、世界でも最も裕福な資本家は20数名だといわれている。
 そのわずかな人たちが、世界の38億人の貧困層(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占しているという。

 

 それでも、マルクスが夢見ていたような “革命” は、現在では起こらない。
 なぜなら、経済格差がここまで広がってしまうと、“貧困層” といわれる人々でさえ、もう自分たちの悲惨さを自覚する想像力を失ってしまうからだ。
 
  
社会主義者はテロリストの同意語なのか?

 

 現在、「社会主義革命」、もしくは「共産主義革命」という言葉を、世界のセレブたちは嫌う。

 

 特に、アメリカの保守系の人々は、“社会主義者” という言葉を “テロリスト” の代名詞として使う。

 

 しかし、富の “いびつな偏在” に気づき始めたアメリカの(リベラルな)若者たちは、“社会主義革命” に積極的な意味を見い出し始めている。
  
 その証拠に、大統領選の時期が来ると、アメリカの若者たちは、自ら「社会主義者」を名乗るサンダース氏(写真下)を熱烈に支持するからだ。 

 

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 そういう若者たちが理論武装しようとするときには、マルクスの『資本論』は、格好の手引書となる。


 “富の偏在” を無慈悲に実現していく「強欲資本主義」の構造を見破るためには、今のところ、これ以上の研究書はない。

 

 
日本の『資本論』研究の古典的名著

 

 そういった意味で、白井聡氏の『武器としての「資本論」』、および斎藤幸平氏の『人新生(ひとしんせい)の「資本論」』の2冊は、マルクスを論じた2020年の好著だといっていい。

 

 ただ、ささやかな感想を付け加えるならば、この2冊から私は、プロパガンダとしての “味気なさ” を若干感じた。
 つまり、読者を「社会主義革命」へと誘導していくための政治的立ち位置が匂いすぎるように思った。

 

 そういうときに思い出すのは、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』(1978年)である。

 

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 私は、この本で、『資本論』が文芸評論のように論じられることを知って驚愕した。
 そこでは、文章の隅々に、文芸的香華がただよっていた。

 

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 文学として『資本論』を語りうる書物を一度ではあっても経験してしまうと、それ以外の “資本論・論” はどこか味気ない。
 それは、私が若い頃に柄谷氏の著作に接したからかもしれない。
  
  
 最後に、『資本論』を考えるときに参考となる著作を、自分の読んだもののなかから列記する。
 
 
 水野和夫・著 『資本主義がわかる本棚』
 資本主義は「煩悩」を全面開花させる
 

 

 岩井克人・著 『欲望の貨幣論
 貨幣のいたずらに人間は悩みかつ魅せられる

 

 

 柄谷行人・著 『マルクスその可能性の中心』
 『資本論』は優れたエンターテイメントである

  

 

「銃」という武器の悪魔的な力 

 

 アメリカ大統領選が近づいてきて、トランプ支持者のなかに、銃で武装して、反トランプ支持者たちを威嚇する(プラウドボーイズなどの)民兵組織が増えてきたことが話題になっている。

 

▼ 「ミリシア」といわれる民間の武装グループ

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 こういう光景は、日本ではまず見ることがない。
 われわれ日本人は、この物騒な人々に心理的な恐怖すら感じる。
 ヨソの国のことであっても、さっさと取り締まってほしいと思うのだが、アメリカ人にとっては見慣れた情景なのかもしれない。
 

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 アメリカの銃規制が進まないのは、銃の所持が法律で認められているということ以上の理由があるように思える。

 

 何か、人間の本能的なもの。
 銃を持つことによってのみ満たされるデーモニッシュな欲望。
 そういう人間の暗い情念にささやきかける魔力が、おそらく “生身の銃” にはあるのだ。

 

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 アメリカの法律では、銃の携帯は「自分の身を守るため」という名目で保証されている。
 特に、「テロに対する備え」という思考が定着し、アメリカでは、家族一人ひとりが一丁ずつ銃を所持する家庭もあるという。

 

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 こういう感覚が日本人には理解できない。
 「そんなことしたら、ちょっとしたトラブルですぐ撃ち合いになるのではないか?」
 そういう危惧がすぐ頭をよぎる。
 実際に、民間人同士の銃撃事件というのは、アメリカでは後を絶たない。

 

 だが、それでも、アメリカの銃規制は一向に進まない。
 一つには、銃の製造・販売で大儲けをしている「全米ライフル協会」が共和党の大きな支持母体であるため、その政治献金による収入を共和党系の議員も大統領も無視できないからだという。

 

 それでも、民主党オバマ前大統領は、任期中に銃規制に踏み出そうとしたことがあった。

 

 しかし、それが実行されることを懸念したアメリカの民衆は、
 「銃が買えるうちに買っておこう」
 と、それまで銃を持ったこともない人まで銃砲店に殺到し、空前絶後の売上げを記録したという。 

 

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 こういうアメリカ人の銃に対する熱烈な思いを、どう説明したらいいのか?

 

 よく言われるのは、アメリカの人民は、自分たちの独立を銃によって勝ち取ったという歴史を持っている、という説だ。
 イギリスに対する独立戦争のことをいう。
 つまり、アメリカ人にとって、「銃は自由と独立の象徴」なのだという。

 

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 しかし、そういう観念的な説明は方便というものだろう。
 銃と人間の関係は、(先ほどもいったように)もっとドロドロした物騒な衝動がからんでいる。


 つまり、人間が銃を持ちたいというのは、その動機として「撃ちたい」という欲望に支えられているはずだ。

 

 何を撃ちたいのか?

 

 彼らが「撃ちたい」対象は、人工的な標的の場合もあれば、野生動物であることもあるだろう。
 だが、ほんとうのことを言えば、まぎれもなく、彼らは「人」を撃ってみたいのだ。

 

 だからアメリカでは、自分の感情を制御できない人間が、学校などの公共施設で銃を乱射し、人を殺傷するという事件がよく起こる。

 

 脳科学者の中野信子さん(下)によると、多くの男性は銃を手に持つと、唾液のなかに “精神を高揚させる物質” が混じり始めるのだという。

 

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 つまり、武器には、それを手にするだけで、人間の神経を高ぶらせる力があるというのだ。

 

 確かに、昔の男の子たちは、みな銃の玩具(おもちゃ)を欲しがった。
 今でもモデルガンのマニアは多い。
 
 銃の玩具は、子供の心に、自己拡張の幻想を与える。
 自分の攻撃力が、素手のときよりも10倍~100倍も向上するような錯覚を与えることがある。

 

 ましてや、本物の銃ならば、その攻撃力が “幻想” ではなくなる。
 本物の銃が持つ殺傷力は、その所有者に “全知全能の神” にでもなったような高揚感をもたらす。

 つまり、銃は、人間の自己顕示欲が “武器” の形をとったものだ。

 

 そうであるならば、それはもう「法律」では規制できない。
 銃という「武器」を手にした人が、それを使うことをためらわせるような “哲学” が必要となる。

 

 日本刀には、その哲学がある。

 

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 日本刀は、人を殺傷するための武器ではあるが、どこかで、それをそのまま行使することをためらわせるような “力” が付与されている。

 

 「美しさ」である。

 

 歴史学者磯田道史氏(下)は、
 「武器として製造される鉄のかたまりが、そのまま美術品にもなるという不思議な力を発揮するのは、世界でも日本刀だけである」
 という。

 

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 武器としての刀は、たとえ戦場であっても、それを行使して他者を斬るのは、「人命尊重」という倫理を破ることになる。


 つまり、日本刀は、何かを覚悟して、懺悔(ざんげ)の気持ちで振り下ろさないかぎり使えないものなのだ。

 

 そうしたハードルを設定する力が、「美術品としての香華」である。
 すなわち、「美の力」だ。

 

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 「美」であるかぎり、それをドロドロした血で汚すことをためらわせる作用が生まれる。
 その思いを振り払って、他者を斬りつけるのは、それそうとうの覚悟が生じたときに限られる。

 

 これが銃ならばどうか。


 銃は刀剣のように、戦う者同士が至近距離を保つ必要がない。
 その分、ためらわず引き金を引ける。

 

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 至近距離を保つということは、顔と顔が接することで、相手の人間をほんとうに殺す必要があるのか?  ということを問い直す契機が(わずかの時間だが)生まれる。

 

 刀を交わす瞬間のうちに、たとえ戦う相手が「鬼」であろうとも、
 「この鬼も、元は人間としての悲しみを持っていたのではないか?」
  などと推測する時間が与えられる。

 

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 しかし、銃の戦いは、相手をいちいち確認する必要がない。
 つまり、銃における戦いで倒す相手は、「物」なのだ。

 

 日本刀が美術品としての価値を持ち始めるたのは、戦う相手に対しても、「人」を確認する可能があったからだ。

 

 「美」というのは、人間の意識によって見出されるものであることが、そこからも分かる。

 

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「民主主義」とは脆弱なものである

  

 世界各国で、「民主主義」が侵害されることの危機が叫ばれている。
 

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 香港の若者たちのデモ(上)から始まり、タイにおける反政府デモ。
 そして、ベラルーシの反大統領デモ。

 

 さらに、ナイジェリアにおいても、独裁的な軍政権に反対する抗議デモが勃発した。

 

 それらを伝える日本メディアの報道では、決まって、
 「民主主義の危機に対する抗議」
 という言葉で説明される。

 

 アメリカの大統領選挙においても、強圧的なトランプ政権に異議を唱える民主党の発言には、「民主主義を守る」という言葉が折り込まれることが多い。
 
 日本では、菅首相が学術会議のメンバー105人のうち6人を任命拒否したことについても、野党がそれに抗議し、そういう一連の事件を「民主主義の危機」という言葉で説明する報道もあった。

 

 言葉の使い方が間違っている、とはいわない。
 確かに、いま世界各国で広がっている抗議活動は、みな「民主主義の危機」を訴えるものばかりだから。

 

 しかし、これらの問題を、その一言で説明してしまう考え方には違和感がある。

 というのは、「民主主義の危機を訴える」という言葉は、「民主主義は存続するのが当たり前」という思想が前提になっているからだ。

 

 甘い、と思う。

 

 「民主主義」というのは、政府も国民も、そしてメディアも、日々それを守ろうとして必死に努力していかなければ存続できない “脆弱なもの” なものでしかない。
 言葉を変えていえば、「常に危機にさらされている」ものなのだ。

 

 それを守ろうとするならば、私たち自身が日々「民主主義とは何か」、「それはなぜ必要なのか」という不断の問いかけを行っていかなければならない。

 

 ただ、そういう問題意識を持たなくても、日本に偶然「民主主義」が根付いた時期がある。

 

 日本においては、1960年代から70年代の高度成長期にかぎってだけ、世界でもまれに見るような民主主義国家が成立した。
 私たちは、それを “奇跡” とは思わず、当たり前のように享受した。

 

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 しかし、そういう日本型民主主義が可能になったのは、高度成長における経済的安定と、それによって誕生した膨大な中流家庭が生まれたからである。

 

 そのとき日本では、世界中の人々がうらやむような、収入の安定した中間層が誕生した。
 その中間層の経済的繁栄を基に、教育環境が整い、一定程度の知的レベルを持った国民が形成された。

 

 それが、日本の民主主義を築いた。

 
 つまり、「民主主義」というのは、教育の普及による “均一化された知的レベル” を持つ人たちが多数派を占めることによって、ようやく可能になるものなのだ。

 

 言い直せば、同じような知的価値を共有できる人々がたくさんいることが、民主主義の基礎となる。


 そういう条件が整わないと、民主主義に不可欠な “議論” というものが成立しない。

 

 民主主義は、一つのテーマに賛同したり、反対したりするという複数の意見が交差するなかでしか生まれない。
 つまり、「知性」が参加者に要求される。

 

 だから、「民主主義」は、経済格差・教育格差・文化格差がある国には根づかない。
  
 いま各国で「民主主義」を求める運動が勃発しているのは、逆にいえば、どの国においても、さまざまな “格差” が急速に進んできた結果といってよい。
 なかでも、世界的に進行速度を早めている「経済格差」が、民主主義の成長を阻む大きな要因になっている。

 

 いってしまえば、それはすべて「資本主義」の問題なのだが、それを説明すると長くなるので、ここでは省く。

 

 日本においても、世界で広がりつつある経済格差が進行している。
 私たちは、もう「膨大な中間層」に支えられた安定した国家体制を維持できなくなっている。
 つまり、日本の民主主義も危機的状況を迎えつつあるといっていい。
 
 
 では、民主主義の機能しなくなった国とは、どういう状態になるのか?

 

 民主主義を阻害するものとして、軍事政権のような、独裁的な権力機構を想像しがちである。


 もちろん、いま世界で起こっている「反政府デモ」の矛先は、独裁的で強圧的な政権に向かっている。

 

 そういう国家は往々にして、国民の意志をコントロールしやすくするために、「全体主義」的な統治形態をとる。
 まさに、今の中国がそうであり、それを極端に進めた国が北朝鮮である。

 

 ただ、そのような独裁国家だけが、「民主主義」を弾圧しているわけではない。

 

 これまで “民主主義的国家” だと思われていた国でも、国民の多くが「反知性主義」に陥ることによって衰退していくこともある。
  
 民主主義というのは、知的レベルが均一な国民によって支えられるものだと先ほど述べたが、その知的レベルが、経済格差・教育格差によって共有されなくなってくると、とたんに、怪しげな “陰謀論” や “都市伝説” が台頭してくる。

 

 いま大統領選を前にアメリカで広まっているのが、この怪しげな陰謀論・都市伝説のたぐいだ。

 

 アメリカでは、「Qアノン」といわれる陰謀論を信じる人々が、いま猛烈なトランプ支持を展開している。

 

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 これは、ネットを通じて、「Q」と名乗る匿名の人物によって流されているとされるSNS情報のことだ。

 

 その主張というのは、
 「アメリカには “ディープステート” と呼ばれる闇の政府が存在し、それが表の政府を牛耳っている」 
 というものだ。

 

 この “闇組織” は、児童売春を行う陰謀団が中心となり、そのメンバーには、著名な民主党政治家やハリウッドの大物スターも加わっている。

 

 彼らは、自分たちの存在を隠すためにマスコミにも手を伸ばし、国民を欺くような大衆操作を行っている。

 

 こういうデマ情報を簡単に信じるアメリカ人が急増。
 それがトランプ大統領の支持者として急速に発言力を増しているというのだ。

 

 彼らは次のように主張する。

 「これらの陰謀集団に対して、いま断固戦っているのがトランプであり、トランプが勝利しないと、アメリカは陰謀集団に乗っ取られる危険な国となる」

 

 冷静な判断力があれば、「バカバカしい」の一言で処理できそうな話だが、トランプを「現代の救世主」として崇める人たちにとっては、今回の大統領選は「悪魔(= 民主党)との戦い」という構図で理解される。

 

 彼らは、議論を望まない。
 「議論」というのは、必ず “反論” も想定されるから、それに応じてしまうと、闇組織の恐怖を理解させるための運動が阻害されると彼らは考える。

 

 つまり、彼らは(議論を前提とする)「民主主義」そのものを否定しようとしている。

 

 こういう考え方に染まった人は、そのうちテレビも見なくなる。
 新聞も読まなくなる。
 マスコミは、「闇組織」に汚染されていると信じるからだ。
 そのため、ネットで「Qアノン」情報だけをフォローし、それをまた自分でも拡散させていく。

 

 まさに、魔女裁判や異端尋問が横行したヨーロッパ中世の考え方が、現代アメリカで復活しているといっていい。

 

 魔女裁判や異端尋問が庶民を苦しめた背景には、ペストのような疫病が蔓延した時期とも重なる。

 

 ペスト菌の正体を知らなかった時代の人々は、ペスト禍を「魔女」や「悪魔」のしわざだと信じることによって、自分たちの心を納得させようとした。

 

 時代は、また過去へループし始めているといえよう。

 

 
 「Qアノン」の “陰謀論” 的な考え方を、さらに銃で武装することによって徹底させようという集団も生まれている。
 極端な “白人至上主義” を打ち出す「プラウド・ボーイズ」と呼ばれる民兵組織だ。

 

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 彼らは、武器携帯が認められたアメリ憲法を堂々と盾にとり、「アンティファ」や「ブラック・ライブズ・マター」といった、現トランプ政権に批判的な左派勢力に、武器をちらつかせて敵対する。

 

 彼らは基本的に、黒人やヒスパニック系住民の増大に危機感を感じており、白人の生存権を確保することを使命として、そのためには暴力を奮うことも辞さない。
 
 彼らも、自分たちの考え方を容認してくれるトランプ氏を崇拝しており、それと敵対する民主党勢力を鎮圧することに生きがいを感じている。

 

 このように、アメリカでは、国民の内部に、民主主義を崩壊させるような潮流が生まれている。


 
 それだけアメリカでは、経済格差・教育格差・文化格差が広がっているということなのだ。

 

 大統領選挙前の政治集会でみるトランプ支持者の熱狂は、その「格差」を自分たちで見ないようにしている必死な衝動から来るものである。

  

 

アメリカ人は “お茶目な” トランプが大好き

 

 いよいよあと2週間を切ったアメリカの大統領選挙戦。
 ヨソの国の国家元首を決める選挙なのに、なぜかとても気になる。

 

 それは、(あくまでも個人的な嗜好だが)、面白いからだ。
 自分には、いろいろな意味で、この選挙が現在の世界情勢を占う試金石となりそうに思える。
 
 では、この選挙はどういう結果を生むのか?

 

 日本のメディアは、アメリカの世論調査を参考にして、今回の選挙においては民主党のバイデン候補の方がリードしていると、連日報道している。

 

 しかし、キャラクター的にみると、地味で面白みに欠けるバイデン氏よりも、最近ますますその “ヒール役” が身についてきたトランプ氏の方が数倍面白い。

 

 「なりふりかまわず」
 「身も蓋(ふた)もなく」
 「あつかましく」
 「ふてぶてしく」

 

 トランプ氏は、そういう人間のもっとも “カッコ悪い” 部分を堂々とさらけだす怪物だ。
 彼には自分に対する「羞恥心」というものがなく、他者に対する「思いやり」も「誠実さ」もない。

 

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 これほど徹底した憎まれ役を演じ続けるトランプ氏って、何者?

 

 その “悪役ぶり” を見るにつけ、ドラマ『半沢直樹』をにぎやかした “憎まれ役俳優” たちをナマで見るような好奇心がつのる。

 

 「トランプは絵になる!」
 あくまでも悪役としてだが、私はそう感じる。

 だから、アメリカに「隠れトランプ派」といわれる支持者たちが一定程度いることも理解できる。

  

 
 「トランプ人気」というのは、日本でいえば、2005年に郵政選挙で圧勝した「小泉純一郎人気」に似ている。

 

 あのとき、小泉首相は、「自民党をぶっ壊す!」と叫んで、既成政治にうっ憤を感じていた庶民の気持ちをキャッチ。

 衆議院選挙では、「民営化法案」に反対する自民党議員の選挙区にことごとく “刺客” と呼ばれた対立候補を送り出して、政治を “ドラマ化” した。

 

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 この “小泉劇場” に、当時の日本人の大半は熱狂した。

 

 けっきょく、あのとき日本人が選んだ小泉政権によって、日本は新自由主義政策に積極的に乗り出し、結果、経済格差が広がった。

 

 もちろん、功罪はある。
 確かに、“小泉政策” により、郵政や道路公団の民営化は進んだ。
 それによって、一時的に経済が活性化され、不良債権処理も進んだ。

 

 しかし、この一連の施策で大企業の景気は回復したが、低所得者の救済は進まず、逆に経済格差が広がった。

 

 金持ちたちの間にはアメリカ流のマネーゲームや拝金主義ばかりが横行し、「持てる者」と「持たざる者」の間に亀裂が入った。
 それにより、経済格差が広がっただけでなく、モラルも低下した。

 

 小泉純一郎氏は、そういった意味で、日本の政治・経済・文化に負の遺産をもたらした。

 

 それなのに、政治家としての人気はいまだに高い。
 それは、彼にはパフォーマンスの力があり、明るく、陽気で、そのしゃべり方には熱気があったからだ。

 

 そして、小泉には、何よりも “やんちゃっ子” の可愛らしさがあった。

 

 「人生には三つの坂がある。登り坂、下り坂、まさか」
 などという駄洒落をどうどうと国会で披露するお茶目ぶりも面白かった。

 

 だから、当時の民衆は、小泉純一郎の発揮するこの手のパフォーマンスに好意を持った。(こういうヨタ話の特技を、後の安倍晋三菅義偉は持っていない)

 

 「政策の実効性や誠実さではなく、面白さ」。
 そういう政治家が好まれる時代が、小泉のせいで、このとき日本でも始まった。

 

 アメリカのトランプ氏は、そういう政治家の最たるものといっていい。
 アメリカ人は、トランプのあの「やんちゃなお茶目」が好きなのだ。
 そういうトランプ支持者の心情は、小泉政権の熱狂とその後の地獄を経験してきた私にも分からないでもない。

 

 ただ、この手のパフォーマンスを面白く感じる人たちというのは、基本的に「テレビ文化」になじんだ人々である。
 日本でいえば「団塊の世代」。
 アメリカでいえば「ベビーブーマー」。

 

 つまり、青春時代に「ネット文化」というものを知らなかった人たちである。
 そういった意味で、ネット配信のニュースやYOU TUBEの動画で社会に接することが当たり前となった世代とは異なる。

 

 団塊の世代ベビーブーマーの人々は、テレビの前に座っていれば、
 「何もしなくても情報が向こうからやってくる」
 と信じていた世代といっていい。

 

 だから、アメリカでトランプを支持する人たちというのは、テレビでトランプ氏の政治集会を眺め、氏のパフォーマンスを “ショー” として楽しんでいる人々ともいえる。

 

 そういう人々は、テレビ以外のメディア たとえば新聞などでトランプ氏の批判がどれだけ展開されようが、まずそういうものを見ないし、見てもそれを信じない。

 

 今のアメリカに「トランプ文化」というものがあるとしたら、それはテレビによって仕掛けられたものであり、そのため、テレビの衰退とともに終わる。

 ただ、それにはまだそうとう先の話になるだろう。 
 

 

マッチョマンたちが世界を動かす時代

 

 今の世界のリーダーは、例外なく、“マッチョマン” である。
 
 いちばんそれを体現しているのが、猟銃を持った半裸の写真を国民に見せたがるロシアのプーチン大統領(68歳)だ。

 

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 上は、毎年制作されるロシアの “プーチン・カレンダー” の1ページだが、一国の元首が、自分の肉体美を誇るような写真をたくさん載せたカレンダーを制作して国民に売りつけるというのも珍しい。

 

 しかし、この “プーチン・カレンダー” は意外とロシア国民に人気があるようで、けっこう売れているらしい。

 

 
 いまアメリカの大統領選を争っているトランプ大統領(74歳)も、相当なマッチョマンだ。
 彼の場合は、「精神のマッチョ」が売りだ。

  

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 とにかくタフ。
 コロナウイルスに感染しても、わずか5日で現場に復帰。
 持ち前の戦闘精神を発揮して、選挙演説では、対立候補のバイデン氏をののしること、ののしること。

 

 くり出す言葉は小学生のケンカのレベルを超えるものではないが、相手を非難するときの熱量とスピードはすさまじい。

 

 おそらく、他人を非難するときの高揚感を得るために、トランプ氏は政治の世界を降りたくないのだろう。

 この人、やることなすことナルシストの典型だ。

 

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 コロナウイルスを克服して、国民の前に自分の健康な姿を見せたかったトランプ氏は、壮大なBGMを流しながら、大型ヘリコプターで大地に降りたち、カメラの前で拳を振り上げ、「俺は病気などに負けない」と吠えた。

 

 とにかく、強いところを人に見せつける。
 それも、なりふりかまわず大げさな演出で。

 

 「俺はハリウッド映画の伝説のヒーロー『ロッキー』だ!」
 おそらく、本気で自分のことをそう思っているに違いない。 
  

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 同じくコロナウイルスに感染したブラジルのボルソナロ大統領(65歳 写真下)も、自分のマッチョぶりを喧伝したがる元首の一人だ。

 

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 一時、アメリカに次ぐコロナウイルスの感染率を示したブラジルだが、彼はそれをまったく考慮せず、
 「コロナなどは風邪と同じようなもので、恐れる必要はまったくない」
 と言い放ち、コロナ対策よりも経済活動を優先。
 都市封鎖などに応じる気配もなく、国民にマスク着用も強制しなかった。

  

 そして、乗馬を楽しむ自分の映像をメディアに公開し、
 「俺はアスリートだから、病気を恐れない」
 と国民に強がって見せた。

  

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 そのため、ブラジルのコロナウイルスによる死者は、7月末で9万人を超えた。
 しかし、同大統領は、
 「人間はいつか死ぬものだ」
 と、まったく意に介さず、最後は自分自身がコロナに感染した。

 

 彼の “反エコロジー” 思想もすさまじい。
 現在、ブラジルのアマゾン川流域に広がる森林地帯が全地球の酸素供給源だということが世界の常識となっているが、彼はそれを無視し、アマゾンの自然林をどんどん伐採し、耕作地や工場予定地を急拡大した。

 

 EC諸国が地球環境の保全のため、アマゾンの森林伐採を止めるようにブラジルに忠告したが、ボルソナロ大統領は、それを「内政干渉」だと退け、森林資源の破壊を止めることはなかった。

 その結果、アマゾン川流域の森は保湿性を失い、大規模な山火事に見舞われた。
  

 
 ヨーロッパでは、反政府デモに見舞われているベラルーシのルカシェンコ大統領(66歳)も、自分のマッチョぶりを喧伝した国家リーダーの一人といえる。

  

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 彼もごたぶんに漏れず、コロナウイルスの蔓延を軽視。
 自分の好きなアイスホッケーに興じている画像を国民に公開し、
 「コロナを追い払う一番の方法は、ウォッカを飲むこととスポーツで汗をかくことだ」
 と、国民のコロナに対する不安を払しょくしようとした。

 

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 しかし、この国においても、コロナに見舞われた国民は増加の一途をたどり、この夏、大統領自身も感染している。


 このルカシェンコ大統領が、退陣を要求する国民の声に対して強気な姿勢を維持しているのは、その後ろ盾として、ロシアのプーチン大統領が存在しているからだ。

 

 プーチン氏自身が、地球の環境保全などよりも、ロシアのシベリア開発に積極的な姿勢を示す人だから、いずれにせよ、ベラルーシもまた経済活動優先の政策に邁進することになる。

 

 彼らにとっては、自分の国家の「現在の発展」が大きなテーマであって、地球環境への配慮などは目に入らない。

 

 なぜなら、国家の発展は、自分が現役のときに目にすることができるが、“地球の滅亡” などは「自分が死んだ後の話」だから関係ないのだ。

 

 
 こういう自己中心的な “マッチョ型元首” の特徴の一つとして、女性関係が盛んだということも挙げられる。

 

 「英雄色を好む」
 のことわざどおり、彼らの多くは結婚しても最初のご婦人とは別れ、途中から若い別の女性と添い遂げている。

 

 現に、アメリカのトランプ大統領の現夫人(メラニア夫人)は、トランプ氏にとって3人目の奥様。
 “ファーストレディ” としてその映像がよくメディアにも紹介されるが、モデル出身だけあって、すらりとした美人。
 トランプ氏の好みがよく分かる。  

  

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 ブラジルのボルソナロ大統領も、二度の離婚を繰り返し、今の奥様(ミシェル夫人)は3人目。
 27歳年下の女性であるというから、彼も若い女性が好みなのだろう。

 

 
 ロシアのプーチン氏はどうか。
 
 彼も最初の夫人とは離婚している。
 再婚したのかどうかは不明だが、“恋人” がいるというのがもっぱらのウワサ。
 
 それが、ロシアの元新体操選手で、アテネオリンピックで金メダルを獲得したアリナ・カバエワさん。
 そうだとしたら、元の夫人との結婚生活が続いていた頃から、彼女はプーチン氏の愛人を務めていたことになる。

 

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 秘密主義国家であるロシアのことだから、大統領がどういう女性関係を保っているかは、これまでいっさい漏れてこなかった。
 しかし、彼女とプーチン氏の間にはすでに隠し子がいるという説が有力だ。

  

 
 ベラルーシのルカシェンコ大統領の女性関係に関しては、色っぽいウワサは流れてこない。
 しかし、公にされた2人の息子のほかに、婚外子もいるというから、多少複雑な家族関係があるのかもしれない。

 

 ちなみに、アメリカやロシアと並んで、世界の強国としての道を歩んでいる中国の習近平氏(67歳)も一度離婚して、今の美人歌手である彭麗媛(ほう・れいえん)さんと再婚している。

 

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 このように、世界の権力者たちは、みな若い美人が好きなようだ。
 たぶん、自分になびく「若い女性」をそばに置いておくことで、自分の権力が及ぶ範囲を自分の目で確認することができるからだろう。

 

 マッチョマンというのは、自分の肉体を鍛え上げて、タフになるための努力を続けている人たちのことをいうが、その精神を支えるものは、ナルシシズムだ。

 
 つまり、「強い自分」に対する自己陶酔である。

 

 けっきょく、「権力欲」というのは、この自己陶酔を手に入れる欲望にほかならない。
 そして、権力者たちは、しばしば自分が統率する国家に、自分の自己陶酔を投影する。

 

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 トランプ氏の「アメリカ・グレイト・アゲイン」などというスローガンもその一つ。
 そこでは、「グレイトな国家」と「グレイトな自己」が同一視されている。

 

 マッチョ政治家が「独裁者」になりがちなのは、そういう理由からだ。 

 

 

筒美京平の “マジック昭和歌謡”

   
 「歌謡曲」って、食べ物でいうと、カツ丼とか、カレーうどんのようなものかもしれない。

 「演歌」(和食)ではない。
 でも、「洋楽」(フレンチやイタリアン)でもない。
   
 そのどちらでもない不自然さを持ちながら、誰一人、その不自然さに気づかないような存在。
 
 それが歌謡曲だ。
 とくに、“昭和歌謡” といわれる1970年代、80年代ぐらいの曲にそういう感じの作品が多い。

 

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 「和食」なのか「洋食」なのか、ほとんどの人が気にしないということは、それだけ歌謡曲が庶民に愛され、人々の日常生活に根を下ろしていたことを意味する。

 

 そんな歌謡曲の摩訶不思議な味わいをいちばん体現している曲を作り続けてきた人が、作曲家の故・筒美京平氏(写真下)だ。

 

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 特に、1960年代後半から70年代、80年代にかけての歌謡曲は、この人の独壇場だったような気配がある。

 

いしだあゆみ  「ブルー・ライト・ヨコハマ」 (1968年)
尾崎紀世彦   「また逢う日まで」 (1971年)
岩崎宏美   「ロマンス」 (1975年)
太田裕美   「木綿のハンカチーフ」 (1975年)
ジュディ・オング 「魅せられて」 (1979年)
近藤真彦     「スニーカーブル~ス」 (1980年)
  〃      「ギンギラギンにさりげなく」 (1981年)
  〃      「ブルージーンズメモリー」 (1981年)

 

 事実、70年代から80年代にかけて、筒美京平は、作曲家としての年間売上トップ3の上位を独占し続けている。

 

 彼の持ち味は、歌謡曲を作り続けた作曲家の中でも、もっとも洋楽志向を持っていたことだろう。

 

 メロディーは和風テイストだが、そのアレンジには、徹底的に洋楽の仕掛けを施す。
 それが、アメリカンポップスやらブリティッシュ・ロックの洗礼を受けた当時の若者たちの嗜好を捉えた。

 

 上記の一連のヒット曲では、それがあまり伝わってこないが、ヒット曲にならなかったものの中には、「洋楽のような曲づくりが、どれだけ日本人に受け入れられるか?」ということを実験しているような曲がたくさんあった。

 

 きっと、ご自身も洋楽が大好きだったのだろう。
 それも、その時代の先端の洋楽にものすごく好奇心を抱いていた気配が伝わってくる。

 

 たとえば、浅野ゆう子の歌っていた『セクシー・バス・ストップ』(1976年)。
 これなど最初に聞いたときは、海外のヒット曲に、日本語の訳詞をつけたものかと思ったくらいだった。


浅野ゆう子 「セクシー・バス・ストップ」


 この曲は、実に、70年代中頃の “軽佻浮薄(?)” なディスコミュージックのニュアンスを巧みに捉えている。

 

 例を挙げれば、ジョージ・マックレーの『ロック・ユア・ベイビー』とか、ヒューズ・コーポレーションの『ロック・ザ・ボート』、ヴァン・マッコイの『ドゥ・ザ・ハッスル』などの流れを汲んだ作りである。

 

 私自身は、こういう「明るく楽しい」ディスコ系の音には関心を持たなかったけれど、日本の「セクシー・バス・ストップ」だけは好きだった。 

 洋楽の意匠をまといながらも、そこに「フェイク(まがい物)」の面白さが感じられたからだ。

 

  いってしまえば「カレーうどん」の味わい。
  日本の庶民的な伝統食品に、無理やり洋食のカレー粉をまぶしたような、一種「人を喰ったような」無責任さがあって、それが妙に印象に残った。
 
 
 しかし、いちばん筒美京平が自分の洋楽志向の実験場として使った歌手は、平山三紀(平山みき)だったのではなかろうか。

 

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 平山三紀には、『ビューティフル・ヨコハマ』、『フレンズ』、『真夏の出来事』、『真夜中のエンジェルベイビー』などのたくさんのヒット曲があるが、そのすべてが筒美京平によって作られている(作詞は橋本淳)。

 

 彼女の歌い方は、「はすっぱ」という言葉がいちばん適切な、遊び好きの不良少女の面影が漂うところに特徴がある。

 

 投げやりな感じの、けだるさ。
 刹那主義的な享楽の匂い。
 若さだけを頼りに、無軌道に突っ走っていくことの「開き直り」の感覚がある。

 

 しかし、そこには、遊ぶことの「楽しさ」と「危うさ」が同居している。
 それゆえに、彼女の歌からは、
 「いま目の前にしている都会のネオンのきらめきが、こよなく愛しい(いとおしい)」
  という切なさがにじみ出る。
  

 
 このような都会性を持つ平山三紀の声質と唱法に、筒美京平はかなり熱い視線を送った。

 そして、彼女のために、アレンジには洋楽のエッセンスをまぶしながらも、メロディーには、どこか和風の味わいが残る旋律を用意した。
   
 彼が狙ったのは、もはや日本でもなく、かといって西洋のどこに存在しない都会の感覚。
  いってしまえば、横浜を「ヨコハマ」と表すような都市の風景だ。

 

 初期のヒット曲『ビューティフル・ヨコハマ』では、登場する「素敵な男たち」の名前も、すべて、ミツオ、サダオ、ジロー、ジョージ、ハルオ、ゼンタというふうにカタカナ表記される。

 

 それによって、横浜は、「ヨコハマ」というルーツも伝統もない、光のきらめきだけしか存在しない無国籍的空間に変貌する。

 

 その夢のようなヨコハマや、ヨコスカ、ハラジュク、ロッポンギを、彼女は “素敵な男” の肩に頭をあずけながら、クルマに揺られ、メリーゴーランドのように回り続ける。

 

 クルマから見上げる都会のネオンは、ミラーボールのように回転し、その上に輝く星々は、プラネタリュームの天蓋(てんがい)を埋める人工的なまたたきとなって、地上に降り注ぐ。
 それは、筒美京平と平山三紀のコンビにしかできなかった魔術だった。

 

 平山三紀に歌わせた筒美京平の曲で、いちばんサウンド的な特徴がよく表れているのは、『愛のたわむれ』(1975年)だろう。 

  

▼ 平山三紀 「愛のたわむれ」

 

 この曲を、かつてYOUTUBEにアップした人へのコメントには、
 「歌謡曲の皮をかぶったフィラデルフィア・ソウルですね!」
 という印象を綴った人がいた。

 

 言い得て妙だと思った。
 イントロのギターのカッティングから、ストリングスの絡み方、そしてメロディー展開からサビの盛り上げ方まで、これは70年代のアメリカで一世を風靡したフィリー・サウンドそのものなのである。
  
 なのに、これは「歌謡曲」なのだ。
 「カレーうどん」 のカレー風味の底に、あんかけと醤油の味がしっかり沈み込んでいる。
 こういう “珍妙な(?)” 曲は、当時、おそらく日本にしか生まれていなかったはずだ。
  
 それは、素晴らしいことではないのか。
 「和洋折衷」などという言葉に収まり切らない、独自の地平が切り開かれている。
 「オリジナリティ」という言葉すらあざ笑うかのような、遊びの心が表現されている。
 どこにも存在しない、幻としての「異国の歌」が歌われている。

  

 この「まがい物」の味わいが、今の J ポップにはない。

 
 J ポップは、今や日本固有の歌になってしまった。
 そこには、退屈な安定感はあるけれど、一人で聞いてニンマリするような、あのうしろめたいような、くすぐったいような遊び心がない。
     
 このような素晴らしい「昭和歌謡」をたくさん残された筒美京平氏が、この10月7日に亡くなった。
 享年80歳だったという。

 

 この人の曲がなければ、洋楽ばかり聞いていた私は、日本の歌謡曲というものに、ほとんど関心を向けなかったかもしれない。

 ご冥福を祈りたい。

 

 

 

アメリカ大統領選挙の本当の意味


 アメリカの大統領選挙戦も、残るところ3週間を切った。
 コロナウイルスを患った共和党のトランプ氏に対し、アメリカでも「病気に対する危機管理が甘い」という批判が巻き起こったが、トランプ氏はまったく気にする様子がない。

 

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 果たして、彼の大統領再選はありうるのか?

  

 日本のメディアは、対立候補のバイデン氏(民主党)の有利を伝えながらも、トランプ氏の巻き返しがありうるという報道を流し続けている。
 トランプ氏がどんな劣勢に立たされようが、彼を支える岩盤支持層の熱烈な応援が崩れる気配はないからだ。

 

 その支持層とは、いわゆる “プアホワイト” と呼ばれる経済的に恵まれない白人労働者階級。
 そして、キリスト教福音派(長老派)という宗教原理主義たち。

 

 福音派は、厳格な聖書解釈を目指す人たちだから、
 「人間と猿が同一の祖先を持っている」
 などという説を許さない。

 

 人間と猿は、神が最初から別々に生命を与えた生き物だから、まったく違う生き物である、と彼らは信じている。
 つまり、ダーウィンの進化論を否定しているために、「進化論」を教える学校に子供を登校させないという親までいる。

 

 こういう宗教家たちに加え、トランプ支持者には、黒人やヒスパニック系住民の増加に不満を持つ白人たちがいる。


 これに、「共産主義」「社会主義」という言葉に恐れを感じる人たちを加えてもいいだろう。
 
 いずれも、政治的には、変革を嫌う保守的な人々である。

 

 彼らは、海外から流入してくる移民を不安視し、同性愛者婚や妊娠中絶を批判する。
 外交的には、キリスト教福音派の心情に従って、中東における極端なイスラエル寄りの方針を支持する。

 

 「トランプ政治」というのは、こういうアメリカ保守派の意向を汲んだ形で進められてきたため、国内的には、人種差別が深刻化し、経済格差も広がり、世界的には、かなりいびつな国際関係を志向する形になっていた。

 

 唯一歓迎されたことといえば、アメリカの富裕層に対し、株価が高値で推移することを保証したことだろう。

 

 しかし、そろそろそういうトランプ型政治が、アメリカでも終焉に向かいつつある。

 

 トランプ氏の政治志向は、政権発足当時から数々の批判を招いてきた。
 国論は分断され、トランプ支持派と反トランプ派は、お互いが憎み合う暴力沙汰すら巻き起こした。

 

 一言でいうと、いまアメリカで起こっていることは、「多様性」を排除しようとするグループが、トランプ氏の思想を利用して、自分たちの「同一性」を強固にしようとする動きを強めているということなのだ。

 

 だが、いつまでも、そういう異様な緊張状態が続くことはありえない。

 

 今年で、たぶんトランプ氏の治世は終わる。


 もし、彼が民主党のバイデン氏を土壇場で破り、大統領としての2期目を迎えたとしても、続く4年間は、アメリカにとっても、世界にとっても、最悪の時代を迎えることになるだろう。

 

 なぜ、そうなのか。
 
 その大きな理由の一つは、ここ数年の間に劇的な様相を呈してきた地球環境の変化だ。

 

 現在「100年に一度」と呼ばれるたぐいの異常気象が世界各国で起き始めている。

 

 広範囲にわたる山火事の多発。
 ハリケーンや台風の強大化。
 「熱中症」が深刻な危機をもたらす “真夏日” の増加。

 

 その原因の多くは、地球の温暖化だ。
 そしてそれは、世界中で増え続ける二酸化炭素のせいだといわれている。

 

 この6月には、シベリアで気温が38度℃に達した。
 このままいけば、永久凍土が融解することになる。
 そうなれば、大量のメタンガスが放出され、気候変動がさらに進行する。

 

 そのうえ水銀が流出したり、炭疽菌のような細菌やウイルスが解き放たれするリスクも生まれる。

 

 ところが、トランプ氏は、
 「地球温暖化などという説は、一部の学者がまき散らすフェイクニュースに過ぎず、信じるに値しない」
 と言い放ち、温暖化を抑制しようとするパリ協定から離脱。化石燃料を大量に使用する産業活動をさらに加速させた。

 

 たぶん今の地球に、こういうトランプ氏の判断を許容する余裕はない。

 

 最新の研究によると、このままのペースでの温室効果ガスの排出が続けば、短い年月のうちに、世界の平均気温は4度℃以上の上昇が起きるとされている。

 

 そうなると、南極・北極の氷の融解が始まり、その海面上昇によって、30年後には1.5億人の人々が住む地域が浸水を経験するようになり、「大洪水」による環境難民が発生するとか。

 

 もちろん、こういう “温暖化危機説” は、トランプ氏のいうとおり、学者のなかでも反対論を唱える人たちがいることも事実だ。

 

 彼らは、
 「地球の温暖化と寒冷化は、何万年~何千年という単位で周期的に繰り返されるもので、今回の温暖化が、産業の振興によって生じた二酸化炭素の増加という人為的なものだとは言い切れない」
 という。

 

 確かに、そうかもしれない。

 
 しかし、そういう学者たちがいる一方、その見方に異を唱える学者たちもいる。
 そういう学者たちは次のようにいう。

 

 「産業の振興が起こした温暖化かどうかを見極めているうちに、その結論が見えたときは、すでに地球の救済は手遅れになっているはずだ」

 
 どちらの説が正しいのか?

 

 それを判定するには、高度な政治的・経済的思惑が絡んでいることを考慮しなければならない。

 

 経済活動を優先する人々は、当然「地球の温暖化は、地球固有の自然現象に過ぎない」と主張する。

 そういう思想には、「資本主義的なバイアス」がかかっていると見なすこともできるだろう。

 
 つまり、学術的な判断だけで真偽を確かめることは難しいのだ。
 
 ただ、トランプ氏の政策が、地球環境への配慮を欠いたものであることを示す証拠が出てしまった。

 
 それは、彼自身が “コロナ禍” を軽視したため、自分自身が感染してしまったことを指す。

 

 ブラジルのボルソナル大統領とトランプ大統領は、ともに、コロナを軽視し、産業振興に前のめりになり過ぎたゆえに、自分自身が感染してしまったという意味で、とても象徴的な人物のように思える。

 

 そもそも、新型コロナウイルス自体が、人類が自然ヘの配慮を欠いた対応を繰り返してきたことへの結果であるのだ。

 

 もともとウイルスというのは、野生動物に寄生していたものである。
 つまり、野生動物と人間の生存圏が適当な距離を保っていれば、人間が感染するリスクは低かったのだ。

 

 しかし、近年、人間による自然環境の破壊が驚くほどのスピードで進み、野生動物と人間の住環境が極端に近づくようになった。
 
 熱帯雨林の破壊。
 無秩序な耕作用地の拡大や都市開発。

  
 それによって、野生動物の生態系が壊され、動物にしか寄生しなかったウイルスが、より棲みやすい宿主(しゅくしゅ)を求めて人間に触手を伸ばすようになった。

 

 SARS、MERS、エボラ出血熱、ジカ熱、そして新型コロナ。
 ここ20年ほどの間に、これほど頻繁に新しいウイルスが人間を脅かすようになったのは疫病学史上はじめてのことだという。

 

 つまり、この “20年” のうちに、人類による自然破壊はかつてないほどのスピードで進んでしまったといえる。

 

 アメリカの大統領選挙は、アメリカ国内のリーダーを決めること以上の意味を持っている。
 地球環境の破滅を回避するリーダーを選び出す選挙でもある。

  

 

 

50年経って再び『イージー・ライダー』を見る

 WOWOWシネマで、アメリカ映画『イージー・ライダー』を久しぶりに見た。
 1969年の作品である(日本公開は1970年)。

  
 この映画を最初に見たのは、私が二十歳のときだった。
 それからちょうど50年経つ。
 
 漠然とした記憶として残っているのは、アメリカの荒野の一本道を淡々と走っていく2台のオートバイ。
 その映像に絡む60年代のアメリカンロック。

 

 それ以外の細部はほとんど忘れていた。
  

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 見終わって、奇妙な気分のなかにいる。

 

 50年経って、アメリカはずいぶん変わったなぁ という感慨と、50年経ってもアメリカはまったく変わっていないという印象が両方襲ってきたからだ。

 

 映画には、60年代~70年代の若者たちの文化と風俗がふんだんに登場する。
 
 オートバイ
 旅
 ロックミュージック
 マリファナ
 長髪
 ヒッピーコミューン

 

 二十歳だった私は、そういう当時の “若者のアイコン” に自然になじんでいたので、映画に出てくる情景を「最先端の風潮」として違和感なく受け止めることができた。

 

 しかし、いま見ると、異様な部分もある。
 特に、「脱・文明/脱・都会」を志向して、自然のなかで共同生活を送るヒッピーコミューンの男女たちの生き方は、なにやらカルト的な宗教集団を見ているようで、気味の悪さを感じた。

 

 それは、私自身がその後、そういうヒッピーコミューン的な集団の退廃や崩壊を見てしまったからである。
 
 殺人犯として名を残したチャールズ・マンソンの「ファミリー」。
 信徒たちを集団自決に追い込んだジム・ジョーンズの「人民寺院」。 

 ヒッピー集団は、狂信的なリーダーに統率されると、ときにカルト的な狂想に引きずられてしまうこともあったのだ。

 

 映画は、そういう “脱社会” 的な若者の文化や風俗と同時に、その対極にある因習的な南部の白人社会の様子も描き出す。

 

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 オートバイで旅する二人の若者(演じるのはピーター・フォンダデニス・ホッパー)。
 それと、途中から仲間に加わったジャック・ニコルソンたちは、旅先で立ち寄った田舎町のレストランで、地元の白人グループからあからさまな嫌がらせを受ける。

 

 南部の町で暮らす白人労働者や農夫たちは、都会から流れてきた長髪の若者たちが気に食わないのだ。
 
 彼らは、主人公たちに敵意の目を向けるだけでなく、野宿している場所を襲い、そのうちのジャック・ニコルソンをナタで惨殺する。

 

 惨殺される前に、ジャック・ニコルソンデニス・ホッパーにいったセリフが印象的だ。

 

 「地元の白人たちが、君に敵意をむき出しにするのは、君の長髪が気に入らないからだよ」
 とジャック・ニコルソン

 

 「なぜだ?」

 とデニス・ホッパーが聞き返す。

 

 「その長髪に彼らは “自由” を感じるからだよ」

 

 「なぜ “自由” はいけないんだ?」

 

 「アメリカ人はみな “個人の自由” というのが大好きだ。しかし、実際にそれを発揮している人間を見ると、胸がむかつくんだよ」

 

 このセリフは、50年経った今、アメリカの黒人を平気で射殺するアメリカの白人警官たちの行動を予言したかのようだった。

 

 アメリカの白人警官は、口では「黒人の自由と平等」を認めるといいつつ、実際に、自由と平等を手にした黒人の姿を見ると、“胸がむかつく” のだ。

 

 そして最後に、旅を続けるピーター・フォンダデニス・ホッパーも、バイクで走行中、田舎町の道路でトラックを運転している地元の白人たちにあっけなく撃ち殺される。 

 

 『イージー・ライダー』という映画は、すでに50年前にアメリカ社会にはびこる「自由な人々」に対するいら立ち隠さない人々を描いていたともいえる。

 

 「よそ者は排除せよ」

 

 それが今のトランプ政権の基本姿勢である。
 彼は、メキシコ国境に壁を建設してヒスパニック系移民の流入を断ち切り、国内ではあからさまに黒人を蔑視して、白人警官の横暴を擁護する。

 

 そういうトランプ氏の白人優先思想と、『イージー・ライダー』に出てくる頑迷固陋の南部白人の表情が、50年経った今重なった。

 

 
  最後に、この映画のテーマについて。

 

 「自由とは何か?」
 それを追求した映画であると、改めて思った。

 そのことを、制作者たちは、言葉を使って説明していない。

 
 
 ただ、映像には、
 「これが自由だ!」
 という主張が最初から最後まで、しつこいほど繰り返されている。

 

 それは荒野を走るオートバイ。
 そして、その映像にかぶさるロックミュージック。

 

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 「自由」を語るときに、それ以上の説明が必要だろうか?

 

 そういうメッセージが、あまりにも鮮烈だったがゆえに、この映画は古典的青春映画となりえたのだ。

 

 

youtu.be

 

水平線を越える夕陽


 このブログに、ときどき示唆的なコメントを寄せてくださる Tokyo Cabin さんから、
 「海というのは、“日本の原点” ともいうべき存在ではないのか?」
 という、日本人の精神が海と深い関係を持っていることを示唆するコメントをいただいた。

 

 Cabin 氏は、そのことを、
 「海を舞台とした日本映画には、古典的な名作がたくさんある」
 という映画論の視野から考察されていた。

 

 以下の論考は、そのときのTokyo Cabin さんに対する私の返信を基に書いたもので、若干加筆している。

 

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 日本人の若者にとって、海がドライブの目的地として選ばれやすい理由について、昔、作家の村上龍がこんなことを書いている。 

 

 彼は、
 若者がドライブに行くときの目的地として、よく海を選ぶのは、
 「そこが、とりあえず、どん詰まりだからだ」
 というのだ。
 
 つまり、そこから先は道がないので、もう「どこへ行こうか?」と悩む必要がない。

  
 だから、失恋した若者が、衝動的なドライブの目的地として海を目指すことは、理にかなっている。
 …… と、村上龍はいう。

 

 行き場を探して燃え盛る「未練」の業火に、「あきらめ」という鎮静剤を与えることになるからだ。

 

 なるほどと思った。 


 水平線の彼方に別天地が広がっているというのは、たとえば太平洋の向こう側にハワイやアメリカがあるという地理的知識を仕入れた現代人の感覚に過ぎない。

 
 昔は、海の彼方にある世界に対する知識のない人々にとって、海は、現実的にはただの「行き止まり」でしかなかった。
 その向こう側に広がる世界を想像するには、気持ちの “切り替えスイッチ” が必要だった。
  
 すなわち、「幻視」が要求された。
 言葉を変えていえば、「想像力」である。

 

 つまり、海は、現実的には「陸地の果て」にすぎないが、その先には、「観念の虚空」が広がっている。
 要するに、海辺というのは、「現実」と「虚構」が交差する空間ともいえる。

 

 
 「海」に対する観念性が十分に育っていない時代、多くの日本人にとって、海の向こうは、現実的には「虚無の世界」だった。

 

 この感覚が、日本人独特の、仲間同士の “絆” を大切にする心を発展させた。
 すなわち、同一民族・同一言語を語る “島国の住民” 日本人というアイデンティティが誕生した。

 

 それは、この国の歴史が、近代にいたるまで、13世紀の元寇を除き、他国の侵略を受けたことがないということとも関連している。
 すなわち、「海」を “砦” にして、防御を固めた国家だったからである。

 

 そのため、日本人は、(飛鳥時代の一部のエリート層を除き)他民族をイメージする機会を失っていった。
 言葉を変えていえば、それは日本人の閉鎖性を意味した。

 

 日本人のメンタリティーは、こういう他文化への無関心を軸として成長してきた。
 すなわち、言葉の異なる者は、“よそ者” だという意識を発達させた。

 

 「空気を読む」
 などという風潮もそこから発している。
 つまり、「日本人同士なら言葉で説明せずとも、場の状況から察してしかるべきだろう」
 という意識が、“KY文化” を生んだ。

 

 日本人が「同調圧力に弱い」というのも、それと関連している。

 阿吽の呼吸(あうんのこきゅう)
 以心伝心(いしんでんしん)
 などという “非言語的” な意思疎通が常態化したのもその延長線上にある。

 

 ただ、このような “非言語的” なコミュニケーションは、一方では、「無言のうちの察し合い」の文化を育んだともいえるので、いちがいにネガティブにとってはいけない。

 逆にいえば、日本的美意識は、この「察し合いの感性」から生まれてきたともいえるのだ。

  

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 話がだいぶ脱線した。
 「海」のテーマに戻る。

 

 「海は、現実的には “陸地の果て” にすぎないが、その先には、“観念の虚空” が広がっている」
 と先ほど書いた。

 

 こういう感覚は、日本人の浄土信仰に結びついている。 
 昔の人にとって、海は、「現実世界の終わり」であり、「浄土の始まり」であったともいえるのだ。
 
 日本の中世においては、仏教の高僧たちや行者たちが、即身仏となって浄土に渡るため、小型の木造船を仕立てて、大海原に乗り出した。

 

 それを「補陀落 渡海(ふだらく わたり)」という。
 その船には、艪(ろ)や、櫂(かい)、帆などは搭載されておらず、沖合いで搬送船から切り離された後は、基本的に海流に流されて漂流するだけ。
 
 現実的には、死の漂流だが、飢餓と疲労で意識がもうろうとした高僧たちは、水平線の先に、金銀の仏塔を並べた西方浄土が浮かび上がるのを見たかもしれない。

 

 極楽浄土へ落ちゆく夕陽のゴージャスな輝き。
 それを “浴びる” というのは、やはりひとつの愉楽でもあったろう。 

 

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 この宗教的法悦には、もしかしたら、日本人のノスタルジーが反映しているような気もする。

 

 というのは、日本人のなかには、太古にポリネシアあたりから丸木舟を仕立てて、黒潮に乗って日本にたどり着いた人々がいるからだ。

 西方浄土への憧れというのは、そういう祖先を持った人々のノスタルジーからきた思想であるかもしれない。


 
 全天を真っ赤に焦がしながら、水平線を越えていく夕陽は、恐ろしいまでに美しい。

 そこに昔の人間は、「行き止まりの海」を越えて、その向こう側に行こうとしている “何ものか” を観たのだろう。

 

 

 

黒沢清 『回路』

 

恐怖の正体は “物の不在感” にあり 

  

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 日本映画の監督で「クロサワ」といえば、世間的にはまだ黒澤明(くろさわ・あきら)の方が知られているが、この2020年、『スパイの妻』でヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞(監督賞)をとった黒沢清(くろさわ・きよし)に、いま世間の注目が集まっている。

 

 私は、この黒沢清(写真下)の映画が大好きで、2001年の『回路』、2007年の『叫(さけび)』、2013年の『リアル~完全なる首長竜の日』などといった一連のホラー系作品をことのほか愛している。

 
 
 彼のホラーは、美しいのだ。
 「恐怖」より、「美」が際立つ。

 特に、『回路』などは、そういった特徴が色濃く漂う作品だ。 

 

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 パソコンのあるサイトが、“あの世” と接続しており、そこにアクセスすると、「幽霊に会いたいですか?」というキャッチが送られるとともに、モニター画面に異変が現われ、かつ日常生活においても、不気味なことがたくさん起こるようになる。

 

 そういった意味で、これは鈴木光司の原作を映画化した『リング』(中田秀夫監督)や、秋元康のつくった『着信あり』などと同じ系譜に属する現代ホラーといえる。

 

 つまり、『リング』ではビデオが。そして『着信あり』では携帯電話が、それぞれ恐怖を引き寄せる小道具として使われたという意味で、伝統的な幽霊話が現代的なテクノロジーによって復活しているところに特徴がある。

 

 『回路』においては、パソコンが重要なアイテムとなった。

 

 パソコンは、2000年代に入るとどの家庭にも普及し、日常的な環境の中に定着した機器だけに、それが、日常性からもっとも遠い “あの世” からの信号を送ってくるという設定はそうとう怖い。
 

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 考えてみれば、パソコンの回路は無限の闇に通じている。
 そこで飛び交うデータが、どこの世界から発信されているかは、実は誰にも分からない。

 

 となれば、当時、家や会社のデスクに当たり前のように置かれていたパソコンそのものが、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界の「入り口」であるというのは、きわめてリアリティある設定といえる。

 

 当時、この映画を鑑賞したサラリーマンたちには、深夜の会社のデスク上に整然と並んだパソコンが、もしかしたら一番怖いものに思えたかもしれない。

 
 冒頭でいったように、黒沢清は、ホラーを題材にしながらも、そこに “恐怖美” ともいえる独特の映像世界を創造する監督である。

 

 この『回路』の7年後に作られた『叫(さけび)』という映画を観たことがあるが、これも実に美しい作品であった。

 

 怖いことが美しい。
 いや、美しいからこそ怖い。
 『叫』では、そんな映像がふんだんに散りばめられていた。

 

 何が怖いのか。
 幽霊が出てくるシーンが怖いのではない。

 
 幽霊の出てこないシーンが怖いのだ。
 たとえば、運河べりに建つ廃屋。
 人気のない病院の廊下。
 家の窓から眺める田園風景。

 

 それが、もう怖い。
 そして、その怖さは、同時に “あの世の美学” ともいる詩情をたっぷりと含んでいる。

 

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 『回路』においても、やはり “幽霊の出ない”シーンが怖くて美しい。


 廃墟のような工場の鉄塔。
 遊ぶ者のいないゲームセンター。
 定員のいない静まり返ったコンビニ。
 主人公以外の乗客のいない電車。
 それらが、夢の世界から浮上してくるような、玄妙な “恐怖美” を形づくる。

 

 

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 それに比べると、幽霊が登場する映像の方が怖くない。
  ということは、恐怖とは、「あるべきものが不在である」という感覚から生まれてくるのかもしれない。

 

 なぜかというと、「あるべきもの」が不在であることは、“あってはいけないもの” が忍び寄ってくるということだから。

 

 人間には、恐怖の対象が実際に登場するよりも、むしろ自分の中に湧き起ってくる想像力の方が怖いということがあるのだ。
 そして、そういう怖さこそが、ホラーの美学となる。

 

 

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 『叫(さけび)』でもそうだったが、『回路』においても、人のいない街が出てくる。

 

 通行人や自動車が溢れているはずのビル街は、白昼それらが姿を消すと、この世でもっともさびしく荒涼とした世界に生まれ変わる。
 黒沢清は、人一倍、静かな大都会というものの怖さを感じ取れる感性を持っている人のようだ。

 

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 映画を観終ってから、自分のパソコンの前に座り、麻雀ゲームのソフトで少し遊んだ。

 

 思いもかけないことが起こった。

 映画の印象が脳裏に残っていたせいか、今まで感じたこともない怖さに襲われたのだ。

 

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 自分以外の3人の対戦者が、バシャバシャっという効果音とともに、規則正しく、牌(パイ)を繰り出してくる。

 

 もちろん、彼らの顔も手さばきも見えない。
 目の前に現われるのは、彼らが河(ホー)に打ち捨てた牌のみ。
 それが事務的に、かつ正確に繰り返される。
  

 
 「俺は、一体どんなやつらと打っているんだ?」

 

 そう思うと、麻雀ゲームを繰り広げているモニターが、にわかに、映画『回路』に示された “あの世” とつながったような気分になった。

 

掌編小説 『幽霊狩り』

 

 コロナ禍で夏休みも短縮され、長女が宿題として出された「幽霊の標本作り」が間に合わないというので、仕方なく夏休みの最後の土日は、長女を伴って幽霊狩りに出かけた。

 

 私はあまり幽霊に関心がなかったから、長女の話を聞いてびっくり。
 いま、子供たちの間では幽霊の標本作りがブームになっていて、ここ4~5年は学校でも、「幽霊集め」を夏休みの宿題として提出させるようになっているという。

 

 世の中もずいぶん変わったものだと思い、念のためにネットで調べてみたら、確かに、「幽霊狩り」、「幽霊ハンティング」、「幽霊標本」、「レア幽霊」などという検索ワードがずらりと並んでいるではないか。 

 

 Wikipedia を読んでみると、この「幽霊狩りブーム」の発端は、大手印刷会社の大日販印刷が蒸着フィルムを作る技術の延長で、幽霊のような実体のないものでも、スクラップブックなどに貼り付けられる特殊な糊を開発したからだという。

 

 その糊で貼り付けている限り、幽霊はどんなにジタバタ暴れても、標本箱やスクラップブックから逃れられないらしいのだ。

 

 「幽霊狩り」に関連する情報をなおも検索してみると、興味深いものがいっぱい出てきた。


 
 それらによると、どうやら幽霊も、その生きていた時代によって価値が変わるらしい。

 

 一般的に、江戸時代以前のものはレア物として珍重されるとか。
 2004年に、七里ヶ浜で、鎌倉期の甲冑を身にまとった幽霊が捕獲されて以来、レア物幽霊は “レアレイ” と呼ばれ、マニアの間で高額取引されるようになったという。

 

 特に、歴史上有名な人物の幽霊は、投機の対象にもなるらしいのだ。
 私は見逃していたが、2016年の記録によれば、「武蔵坊弁慶の幽霊を捕まえた」という人が、テレビの『開運 ! とんでも鑑定団』に出てきたことがあったらしい。

  

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 その人物は、岩手の衣川古戦場近くで土産物を営む店主で、古戦場近くを歩いているとき、全身に矢を浴びた法衣を被った甲冑姿の武者幽霊と遭遇。執拗に追跡して捕捉し、衣裳や表情から弁慶の幽霊だと確信して狂喜乱舞。

 

 「鑑定団」の番組に出たとき、当人は5,000万円の評価額を掲げたが、弁慶とは別人の僧兵であることが分かり、50万円の評価に落ち着いたという。

 

 鑑定団の中島尊之助さんは、「弁慶ではありませんが、平安末期の僧兵であることは間違いないので、とても貴重なもの。どうぞいつまでも大切に飾ってあげてください」というコメントを残したそうだ。
 
 
 別のネット情報では、岐阜県の関市あたりで、もじゃもじゃの頭髪とヒゲを伸ばした体毛の濃い幽霊が捕捉され、「縄文人の幽霊が捕らえられた」と大反響を巻き起こしたが、けっきょく昭和中期のホームレスの幽霊だったことが判明し、世間をがっかりさせた  なんていう話も紹介されていた。

 

 ちなみに「幽霊標本」という言葉で検索してみると、どこかの学校の校長先生の談話がPDFになっていて、次のようなことが書かれていた。

 

 「ネット環境の進み過ぎで、子供たちは自然から遠ざかるようになった。そのため、当校では、夏休みの課題として、幽霊を補足して標本をつくるというテーマを与えることにした。
 それがことのほか子供たちの関心を集めることになり、テレビやパソコン、スマホなどに夢中だった子供たちが、幽霊を探して野や山をのびのびと遊びまわるようになった」
   というのである。
 
 その先生の談話は、
 「なお、幽霊が出没しやすい “幽霊屋敷” などといわれるところは足場も悪く、危険区域に指定されていることも多いので、幽霊狩りには保護者の同伴が必要」
 と結ばれていた。

 

 なるほどと思い、私は長女を呼び出し、「幽霊屋敷に連れていってやろうか?」と聞いてみた。

 

 「お父さん何も知らないの ? 」
 と、長女は言い返す。
 「夏休みの後半の幽霊屋敷はどこも子供がいっぱいで、整理券を手に入れていないととても入れないのよ」

 

 そんなすごいことになっているとは知らなかった。

 

 幸い我が家にはキャンピングカーがあったので、前夜から幽霊屋敷に出向き、早朝から並んで整理券を手に入れることにした。

 

 金曜日は会社のパソコンを使い、仕事をしているフリをして「幽霊屋敷」を検索し、川崎の工業団地の奥で、かつて病院だった建物が廃墟となり、「幽霊屋敷」として脚光を浴びているという情報を得た。

 

 そこで、金曜の夜から、幽霊狩りに使えそうな網とロープを用意し、キャンピングカーで出かけた。

 

 しかし、やはり幽霊狩りブームを反映してか、その前夜から “幽霊病院” に通じる道路は大渋滞。
 臨時に設けられた駐車場にはガードマンがずらりと並んで、交通整理をしている始末。

 

 なんとか駐車場の一角にもぐり込むことに成功。
 整理券は早朝の5時から配られるというので、それまで4時間ほどクルマの中で仮眠することにした。

 

 すると、トントンとボディをノックする音が。
 窓から覗いてみると、隣のキャンピングカーのお父さんが、缶ビールを掲げてニコニコ顔で立っている。

 

 「いやぁ、やはり幽霊狩りですか ? 」
 と、そのお父さんが訊いてきた。
 「ええ、子供の夏休みの宿題なもので」
 「同じですな。どうですか ? 子供はもう寝たので、外で軽く一杯」

 

 私たちは、森の奥にある病院の廃墟を眺めながら、缶ビールに口をつけた。

 

 「それにしても何ですな。明日は朝から幽霊の争奪戦ですな。たぶん、ここに集まってきた人全員には行き渡らないのではないかな」
 と、彼はいう。

 

 「幽霊って、そんなに少ないんですか ? 」
 と私は聞く。
 
 「ここは病院だったから、病棟で死んだ人も多いでしょう。だから、普通の幽霊屋敷よりも多いんじゃないかな。でも、最近はやつらも逃げ足が早くなっているから、捕まえるのは昔より難しくなっていますね」
  
 「ほぉ。では、上手に捕まえるコツってのがあるんですかね?」
 「慣れてくれば簡単ですよ。足のある幽霊を狙えばいい」

 

 「幽霊って、みんな足がないはずじゃ …… ?」

 

 「いや、新しい幽霊なら足はありますよ。幽霊って、だいたい自分を虐待した人に恨みをはらすために出てくるじゃないですか。
  でも、幽霊が半永久的な生命を与えられているのに対し、恨みを買った人間の方は幽霊に比べて長生きするわけでもないでしょ?
 恨む相手が死んじゃうと、化けて出るモチベーションも希薄になってしまうから、幽霊の “出現力” も衰えて、徐々に足が退化するらしいんですよ」

 

 「知らなかった

 

 「そういう足のない幽霊は、体全体も透き通っていて捕まえにくい。だから足のあるヤツを狙えばいいんですよ。
 昭和・平成に死んだ幽霊は、まだ足があるヤツが多いから捕まえやすいよね。レア物はいないけど


 翌朝の病院の廃墟は、異様な熱気に満たされていた。
 目を釣り上げた父母たちが、網やらロープやら虫カゴなどを手に抱え、門が開かれるのを待って殺気立っている。

 

 開門は朝の7時。
 「整理番号順に並んでくださ~い ! 」
 というガードマンの声も虚しく、門が開くと同時に、堤を切ったように人が病院内に突入した。

 

 相手もいちおう幽霊だから、手をダラリと下げて、「うらめしや~」 と脅したりするのだが、欲に目がくらんだ人間たちを押しとどめる力もなく、次々と引き倒され、洗濯物のように畳まれて虫カゴの中に放り込まれていく。

 

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 慣れない私など、人の波に呑まれて、手も足も出ない。
 すると長女が、
 「あ、お父さんあっち。『リング』の貞子みたいなのがトイレに逃げていく ! 」
 と私の手を引っ張るので、貞子型の幽霊を追ってトイレに踏み込んだ。

 

 トイレの中には、壊れたテレビが転がっていて、貞子はあわてて、そのテレビの中に逃げ込もうとしているところだった。


 私はその足を捕まえ、引きづり出そうとしたが、さすが若い幽霊の敏捷さにはかなわず、間一髪のタイミングで逃してしまった。

 

 「せっかくのチャンスだったのに ……
 と泣き出す長女をなだめすかし、私はその貞子の入ったテレビを持ち上げて、クルマに運ぶことした。

 

 以来、そのテレビをずっと書斎に置いて、出てくるのを待っているのだが、あれから3ヶ月経っても、一向にテレビに変化は訪れない。

 

 残念なことに、長女の夏休みの宿題には間に合わなかったが、それでも私は貞子が出てくるのを楽しみに、今晩もウィスキーをチビチビとなめながら、何も映らないテレビを見続けている。    

 

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※ この物語はフィクションであり、登場する団体・人物名などの名前はすべて架空のものです

「半沢直樹の時代」が意味するもの


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 TBSのドラマ『半沢直樹』は、今や社会現象化している。
 その平均視聴率は25%。
 この日曜日に放映された第8話は25.6%を記録した。

 

 特に、ドラマ展開のカギを握る大和田常務(香川照之 54歳)のアドリブ。
 「お・し・ま・い・DEATH!」
 「死んでもやだね」
 などという名セリフは、子供に宿題を迫る親たちに対し、「死んでもやだね」などという子供の反応を量産していると聞いた。

  

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 このドラマ。
 何がそれほどウケるのか?
 一言でいうと、“役者の力” である。

 

 あれほど誇張されたセリフと “顔芸” のオンパレードは、並みの役者が演じると “ギャグ” としても通用しない。


 しかし、このドラマでは、それが不自然にならず、むしろ他のドラマにはない緊張感を叩き出している。

 

 特に香川照之が表現する “顔芸” は、もうただの “芸” を通り越して、「芸術」ですらある。 

 

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 もちろんこのドラマの主人公は堺雅人の演じる「半沢直樹」だが、視聴者は心の奥底で、密かに香川照之の方を “主人公扱い” にしているのではなかろうか。

 

 香川の “ゴジラ級” ド派手演技に引っ張られ、堺雅人の顔芸もどんどん “鬼化” してきた。 

 大音量で叫ぶ「半沢直樹」の顔アップが登場するたびに、
 「このドラマは役者全員が妖怪化してきた」
 と思わざるを得ない。

 

 もちろんいい意味で言っている。

  

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 ドラマのテーマは銀行・金融業界の舞台とした現代ドラマであるが、その根底には、勧善懲悪を目指した時代劇、派手な大だちまわりの歌舞伎、あるいは犯人捜しのサスペンスといったすべてのエンターティメント要素がてんこ盛りになっている。
 
 それを盛り立てているのが、香川照之市川猿之助片岡愛之助という、一癖も二癖もあるヒール軍団だ。 

  

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 このような、個性の強い “憎まれ役” たちが “主役” になってきたというのは、どういう時代になったことを物語るのか?

 

 陰翳の乏しい二枚目(イケメン)俳優の時代が終わろうとしているといっていい。

 
 いわゆる、清潔感あふれる端正なイケメン。
 10年ほど前は、こういう人たちが主役を張らなければドラマは成立しなかった。

 

 たとえば、福山雅治
 あるいは、ディーン・フジオカ
 竹内涼真
 故・三浦春馬

 

 かつては、こういう人たちが画面に登場するだけで、周りの空気がさぁ~っと浄化されるような清潔感が生まれ、それがドラマのカタルシスを生み出していた。

 

 しかし、そういう時代が終わろうとしている。

 

 今は「清潔感」だけでは、ドラマが成立しない。
 そうではなく、香川照之のような “あくどさ” 。
 あるいは、片岡愛之助のような “ねちっこさ” 。
 さらに、市川猿之助のような “いやらしさ” 。

 

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 そういうヒールの味わいが誇張されるような演技を視聴者が理解するようになったのだ。

 

 

 「イケメン」という概念が定着して、すでに20年経つ。
 20年前は、「イケメン」であれば、精神的成熟や知性などは問題にされなかった。

 

 しかし、さすがに20年経つと、「イケメン」にも付加価値が必用となってきた。

 
 20年前ならば、「ジャニーズ」という男性アイドル集団は、歌って踊れるだけで、価値があった。

 
 だが、今のジャニーズはみな高学歴になり、クイズ番組で知識を披露したり、小説を書いたり、ニュース番組でMCを務めたりしなければならなくなった。

 

 それは、男性アイドルを求める女性層が、イケメンにも付加価値を求めるようになったからである。

 

 たぶん、今年の暮れにジャニーズの「嵐」が解散すると同時に、ジャニーズは2極分解するだろう。
 
 キスマイ、キンプリ、セクシーゾーンといった従来のジャニーズ路線で活躍できる若手軍団と、役者としての存在感を確立した井ノ原快彦、岡田准一といったベテランが存在感を競い合うようになって、中間層が没落していく。

 

 山Pや亀梨は徐々に活躍の場が少なくなり、“大御所感” が増してきたキムタクも危ない。

 

 キムタクは、日産のCMで、「やっちゃえ日産!」などといって、ヤンキー路線に帰ろうとしたり、マクドナルドの “ちょいマック” シリーズでお茶目な個性を強調しているけれど、そこには47歳を迎えた彼自身の焦りと同時に、事務所の焦りが見てとれる。

 

 繰り返すけれど、付加価値のないイケメンは、これからは、役者としても歌手としても食べていけない。

 

 「カッコいい」という概念が変わったのだ。
 人間の美醜だけが評価に対象となった時代は終わった。

 

 それを『半沢直樹』は教えてくれる。

 ヒール役として、いま脚光を浴びている役者たちは、歌舞伎畑の人で占められている。

 

 香川照之(九代目 市川中車
 片岡愛之助
 市川猿之助

 

 それは何を意味するのか。
 「日本の伝統芸」という “付加価値” をたっぷり備えた人たちなのだ。

 

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 言ってしまえば、そういう「伝統芸」の厚みが、そのまま彼らの「知性」、「教養」になっている。
 そういうことを、『半沢直樹』は教えてくれる。

 

 

 

 

ホラー小説「眼鏡の少女」 


 夏も終わろうとするのに、地獄のような猛暑が続いています。
 それを乗り切るには、全身にサァーッと鳥肌が立つような「怪談」が効果的です。
 残暑厳しいこの季節。このブログでもときどき「怪談スペシャル」をお送りしたいと思います。
 
 
 
第一回 眼鏡の少女 
 
 「平野愛子です」
 と、電話口で名乗った女性は、
 「旧姓、吉沢愛子といえば、分かるかしら?」
 と言い直して、クスっと笑った。
 
 10年経っても、その声は忘れない。
 
 別れた女。
 正確にいうと、「去っていった女」だ。

 
 
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 「見てもらいたいものがあるの」
 
 夕刻、オフィスビルの中にあるカフェに座った愛子は、そう言ってバッグから1枚の写真を取り出した。

 運動会の一コマを押さえたものだろうか。
 赤い運動帽を被った小学生ぐらいの女の子が、土の上に引かれた石灰の白線の上を懸命に走ってる。
 
 「これが何か?」
 
 写真から目を上げて、私は愛子の顔を見つめた。
 目の周りには小ジワが目立ったが、10年経っても愛子は美しかった。
 
 この間、「未練はなかった」といえば嘘になる。
 一時は、社会で功なり名を遂げて、愛子を見返してやりたいと思わぬこともなかった。

  

 しかし、この年になっても、相変わらず愛子の旦那より偉くなるどころか、自分一人の食い扶持を確保するのもままならぬ安サラリーマン生活を維持するだけで精いっぱいだ。
 
 「あれはもう死んでしまった女だ」
 そう思い込むことで、いわば記憶の底に封印してしまった女。
 
 その愛子が、10年ぶりに目の前に座って差し出した写真。
 自分の娘が走っている子供の運動会を見せて、どうするつもりか。
 懐かしさのこもった甘い言葉を期待していた私は、正直、意表を突かれて、少し鼻白んでいた。
 
 「この写真を見せるために、わざわざ電話を?」
 愛子はそれには答えず、私を試すように、
 「2番目に走っている子はどんな子?」
 と言って、私の顔を覗き込んだ。
 
 「2番目?」
 もう一度、写真に目を落とす。
 
 赤い帽子を被った女の子のすぐ後を、白い帽子を被った眼鏡の女の子が追いかけている。

 その2人がコーナーを回って競り合っており、その後は3~4人がダンゴ状になっているために順位が明瞭ではない。たぶん愛子の言った「2番目の女の子」とは、その白い帽子の眼鏡の子を指すのだろう。
 
 「白い帽子を被った眼鏡の子が、2番目にいるけど 
 
 そう言いながら、愛子に視線を戻した私の目に、恐怖にひきつったような、愛子の見開かれた目が飛び込んできた。
 その異様な表情に圧倒され、理由の分からない不安が私の身体にも広がり、気づくと両腕に鳥肌が立っていた。
 
 「あなたには見えるのね?」
 愛子は念を押すように、私の顔を覗き込んだ。
 
 「見えるって?」
 思わず聞き返した。
 
 「眼鏡の女の子」
 
 とっさのことで、愛子の言っている意味が分からなかった。
 
 何かの謎掛けか。
 それとも、ひょっとしてゲームか。
 
 「何を言いたいのか、教えてくれてもいいだろう」
 私がそう言うと、愛子は真顔で答えてきた。
 
 「その眼鏡の女の子は、私以外の誰の目にも存在しなかったの。あなたが見つけるまでは。
 ねぇねぇ、ではこっちの写真を見てくれない」
 
 愛子がバッグから取り出したもう1枚の写真は、家族のピクニックの情景だった。
 芝生の斜面に敷かれた水玉のビニールシートに、3人の人物が腰を下ろしている。母親と子供たちという感じだ。真ん中にいるのは愛子だ。
 
 2~3年ほど前の写真か。目の前にいる愛子より頬がふっくらして幸せそうだ。

 

 その右側には、先ほど運動会で先頭を走っていた赤い帽子の女の子が陣取り、得意満面の笑顔を浮かべてピースサインを送っている。たぶんそれが愛子の娘なのだろう。
 
 そして、その隣りに、ちょっとはにかんだ笑いを浮かべている眼鏡をかけた女の子がいる。

 先ほど見た運動会の写真で、愛子の娘を追いかけていた少女だ。
 愛子の娘よりはシャイなのか、照れ笑いを浮かべている。

 しかし、そのはにかんだ笑顔から真面目そうな性格がしのばれて、愛子の娘よりも可愛い感じもする。
 
 どこにもありそうな、ピクニックを楽しむ親子と、その子の友だち。
 不自然なところが何もない、平和で、のどかで、平凡なスナップだ。
 
 「まさか、ここに写っている眼鏡の女の子も、ほかの人には見えないとか ?」
 私が言いかけた言葉を継ぐように、愛子が続けた。
 
 「そうなの。この写真は私と娘だけがいるところを撮ったものなの。そのとき周囲には誰もいなかったのよ。カメラを構えていたのは主人だから、いたずらのしようもないわ」
 
 「この女の子に心当たりは?」
 
 そう尋ねた私に対し、愛子は無言で、首を横に振っただけだった。
 
 「これはデジカメではなくフィルムカメラだろ?  ということは、素人ではそんなに簡単に画像をいじれないということだ。ネガと見比べてみた?」
  
 「みたわ。ネガにはこの眼鏡の子は写っていないの。
 しかし、プリントすると、私だけには見えるのよ、この子が。
 主人にも、娘にも、学校の友達にも、誰にもこの娘は見えていないの。
 何度プリントしても同じ。現像所を変えても同じ。私、自分で気が狂ったと思ったわ」
 
 「で、ついにこの女の子の姿が見える人間が、この世にもう一人現れたと
 しかしねぇ、俺には理解しがたいね。信じられないといった方がいい。
 だって、これは心霊写真なんてもんじゃない。細部まではっきりと見える。なにもかも。

 周りの人に、君をからかう理由がきっとあるんだよ。みんなで示し合わせて、こういう合成写真を作ったんだ。からかわれる理由を考えた方が早い」
 
 「私、知り合いの精神科の先生にも相談したことがあるの」
 「そうしたら?」
 「先生は写真を見て、『疲れていますね』と精神安定剤をくれただけ」
 
 そういう愛子の表情を見るかぎり、ふざけているようにも、冗談を言っているように見えなかった。
 
 私は、もう一度、実在しないという眼鏡を掛けた女の子を見た。
 
 確かに、何か妙だ。
 愛子の娘が、いかにも親の愛をたっぷり受けてすくすくと育った女の子に見えるのに対し、その隣りにいる眼鏡の子は、愛子の娘より一歩引いている感じがする。 
 
 王女にかしずく侍女。
 本妻の子に対する妾の子。  
 そういう “日陰者のはかなさ” がその子から漂ってくる。
 たぶん今どき珍しい黒ブチの眼鏡をしているせいかもしれない。
 
 しかし、その黒ブチ眼鏡には、愛子の娘を目立たせるために自分がブスの役を引き受けようという、その女の子の意志すら感じられる。

 

 だが、黒ブチ眼鏡の子は、端正な顔をしている。ひょっとしたら、愛子の娘よりもきれいかもしれない。
 なのに、なぜこの子は愛子の娘の方を立てて、自分は一歩下がろうとしているのか。
 
 その顔には、後悔と諦めが潜んでいるようにも見える。
 「来てはいけないところに来て、見てはならないものを見た」
 そういう意志を、その子の表情から読みとることができる。

 

  そのはにかんだような笑い顔の底に、幸せな家庭を外から見つめながら、自分ではそれを諦めざるをえない人間の哀しみが浮かんでいた。
 
 そのことを愛子に伝えると、愛子は思い詰めたように自分の膝に目を落とし、ため息をついた。
 そして、うめくように、言った。
 
 「この女の子は、きっとあなたの子よ。私が堕ろした 。だからあなたにも見えるのよ」 
 
 「まさか
 今度は私が絶句する番だった。
 
 
 愛子と別れて、一人で居酒屋に入った。
 バカバカしい話を、アルコールで流してしまいたかったからだ。
 しかし、酔えば酔うほど、「ありうる話かもしれない」という気もしてくる。
 愛子が最後に言った言葉が、頭のなかで鳴り響く。
 
 「この子は、今まで別の世界で独りぼっちで生きてきたのよ。自分の親たちを捜していたんだと思う。
 だけど、この子の暮らす世界では、この子の親は見つからなかったの。
 そして、こちらに来て、ようやく母親だけを見つけたんだと思う」
 
 だったら
 と、私は、手酌でお猪口に日本酒を注ぎながら、うめいた。
 その娘を、独りぼっちで闇の世界に送り出したのは誰だ!
 
 愛子は、私よりあの男を選ぶために、私の元を去っていった。
 そして、結婚の障害になるというので、こっそり私との間にできた子供を堕ろした。

 

 俺と愛子が一緒になっていれば、あの眼鏡の女の子は、この世を恨むことも、はかなむこともなく、すくすくと育っていたんだ。
 
 私は気づかないうちに、居酒屋のカウンターで涙をこぼしていた。
 そして、夜の街をさまよい、深夜になってから独り住まいのアパートに戻った。
 
 アパートには、窓ガラスから明かりが漏れてくる部屋は、ひとつもなかった。
 錆びた鉄骨に支えられたアパートの階段を登る。
 
 鍵穴にドアキーを差し込むと、部屋の中で音がした。
 
 廊下をこちらに向かって歩いてくる誰かの足音。
 かろやかな、女の子の足取りを思わせる音。
 
 私がドアのノブに手を掛けると、中から聞いたこともない、幼い女の声が漏れてきた。
 
 「お父さん、お帰りなさい」