アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

7月のテレビ番組雑感


 パソコンの調子が悪い。
  ということを、ブログの更新が途絶えた “言い訳” にするつもりもないのだが、テキストを入力したり、画像検索をしている途中で、モニターが突然ブラックアウトしてしまう。

 

 原因は分からず。
 ただ、強制終了するか、電源を一時的に抜いたりすると、復旧することがある。
 
 しかし、安定しない。
 作動し始めたと思って安心すると、また画面が暗転してしまう。

 

 そんな状況がここ一週間ほど続いているので、仕事もできないが、ブログを書くのもいやになってしまった。
 
 というわけで、このブログ記事も最後まで書けるかどうか分からない。
  

 
 とりあえず、行けるところまで行く。

 で、テーマは、手っ取り早いネタにすることにした。
 最近のテレビを見て感じたことをランダムに書き散らすつもりである。

 

 
半沢直樹

 

 まずドラマから。
 久しぶりに見た『半沢直樹』は、やはり面白かった。
 テンポがいい。

 

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 あいかわらず、悪役たちの “顔芸” も魅力のひとつだ。

 

 このドラマは、昔の『水戸黄門』のように、画面に登場しただけで、その役者が悪役かどうかがすぐ分かるのが特徴。

 

 そういった意味で、最後まで真犯人が特定できない一般的なサスペンスドラマの対極にある。
 そういう明快さが、この『半沢直樹』というドラマを力強いものにしている。

 

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 ただ、自分が見ているテレビドラマは、それほど多くない。
 楽しみにしているのは『麒麟がくる』と、『雲切仁左衛門』だが、『麒麟 』は8月になるまで再開されないし、『雲切 』は、「4」が終わってしまって、「5」が始まるまでには多少時間がかかるようだ。

 

 そんなわけで、もっぱら見るのはBSの映画かドキュメンタリーである。

  

 
黒澤明 vs 勝新太郎
 
 昨日見たNHK BSの『アナザー・ストーリーズ』がよかった。


 「黒澤明 VS 勝新太郎」というタイトルで、映画『影武者』(1980年公開)で、主役に抜擢されていた勝新太郎が、なぜ監督の黒澤明とケンカして降板したのかという事件に迫る企画だった。

 

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 番組では「2人の天才」という言葉が使われていた。
 黒澤を “天才” と呼ぶことに多くの人はためらわないだろうが、一方の勝新太郎だってまぎれもない天才であった。

 

 勝新が自ら主役を演じ、ときに監督も務めた『座頭市』シリーズなど、黒澤にも負けない素晴らしいドラマであった。

 

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 今回の『アナザー・ストーリーズ』では、ケンカ別れした頃の黒澤と勝新の当時の状況を語る証人たちが何人が登場した。

 

 彼らが口をそろえていうには、黒澤明という人は、とにかく「完璧主義者」で、細部まですべて自分が緻密に構成することにこだわり、他人の意見や判断が加わることを極度に嫌ったとか。

 

 一方の勝新は、すべてを「その場で作り上げていく人」。
 人から提案されたものよりも、自分のひらめきを常に優先する人で、彼の作劇においては、脚本や演出がその場でコロコロ変わっていくことが当たり前だったという。

 

 そういう人間同士がうまくいくわけはない。
 黒澤は、勝新の “ひらめき” が、「無計画な人間の気まぐれ」に見えただろうし、勝新の方は、黒澤の厳格主義が窮屈だっただろう。

 

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 つまり、これはクラシック音楽とジャズの対立のようなものであったのかもしれない。
 
 黒澤は、クラシック音楽を構築するつもりで、スコアもすべて自分で書き、オーケストラの人員配置もすべて自分で決め、そして寸分の狂いもないようなタクトを振るった。

 

 それに対し、勝新は、最初から即興演奏(インプロビゼーション)こそ音楽だと思うジャズ奏者の心境だった。

 

 昔のジャズ奏者は、チャーリー・パーカーにせよビル・エバンスにせよ、“神がかり的な即興演奏” を求めて、ドラッグに手を染めることが多かった。

 

 勝新も、そういうことに目くじらを立てるような性格ではなかった。
 実際に、彼もマリファナとコカインの不法所持で逮捕される経験を持っている。

 

 ところが、黒澤は、そういうものを極端に嫌った。
 最初から、2人のウマが合うわけがなかったのだ。

 

 でも、自分は勝新太郎武田信玄(の影武者を演じる)映画を見たかった。

 

 
ネアンデルタール人の正体 
 
 NHK BS1でやっていた『人類誕生 未来編』というドキュメンタリー番組も面白かった。

 

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 これは、2018年頃にNHKで作られたドキュメンタリー番組をベースに、多少手を加えて再編集したものらしい。


 人類がサルと分かれた経緯から始まり、ネアンデルタール人と現世人類との比較、そして、いかに海を越えて各大陸に広がっていったかということを3回に分けて放映した。

 

 なかでも、第2回目に流されたネアンデルタール人と現生人類(ホモ・サピエンス)との比較という企画が面白かった。

 

 現生人類(ホモ・サピエンス)が今日のような肉体的特徴を獲得するまで、実にさまざまなヒト科の生命が誕生しては絶滅していった。

 その進化の最後に位置したのが、ネアンデルタール人と現生人類であった。
 
 では、この2種類のヒト科生命体のうち、ネアンデルタール人の方はどこに行ってしまったのだろうか?

 

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 番組によると、現生人類よりも、ネアンデルタール人の方が身体が壮健であり、力も強く、脳容量も大きかったという。

 

 昔は、ネアンデルタール人というのは言語をしゃべるような喉の構造を持っておらず、そのため、コミュニケーション力が弱かったという説がまことしやかに喧伝された時代があったが、最近の説では、彼らも現生人類と同じような “しゃべる能力” を十分に持っていたことが確認されるようになった。

 

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 さらに、ネアンデルタール人も埋葬という文化を持っており、「死後の世界」に思いを馳せる想像力も獲得していたことが分かっている。

 

 つまり、能力的に、ネアンデルタール人と現生人類との差はほとんどなかったことが明らかになってきた。

 

 ただ、狩りの仕方に違いがあった。
 ネアンデルタール人の狩りは、マンモスや大型草食動物のような動物たちと真っ向から向き合う肉弾戦のような狩りだった。

 

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 そのため、狩りの途中で傷ついて死んでいく若者も多く、彼らの平均寿命は30歳ぐらいだったそうだ。

 

 それに対して、力の弱かった現生人類は、ヤリを投げるときの補助道具(アトラトル 写真下)などを考案し、エモノから離れたところで戦う技術を磨いていった。

 

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 また、現生人類は、他の生き物より力が弱かったというマイナス面をカバーするため、人間同士が結束し、仲間意識を持つことで “弱い面” をカバーしようとした。

 

 こういうときに、技術(道具)は進歩する。
 誰かが一つの技術を考案したとき、仲間が多ければ、その技術をより優れたものにするためのアイデアが集まりやすい。

 

 この差が、ネアンデルタールと現生人類の生き延びるときの明暗を分けたという。

 

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 ネアンデルタール人のつながりは、基本的に「家族」を中心としたものだったらしい。
 だから、共同生活するときの人数も10人前後。多くても15人規模。

 

 それに対し、現生人類は一つのグループが150人程度のメンバーで構成されていたらしい。


 だから、構成員たちがいろいろ切磋琢磨して、技術(道具)の進歩が劇的に進んでいったことが考古学的にも証明されるという。

 

 一方、構成員の少ないネアンデルタール人の場合は、何万年経っても、ほとんど道具(技術)の進歩は見られなかったとも。

 

 この差は、そのまま人口の差となった。

 

 マンモスのような大型動物を狩ることで食料を確保していたネアンデルタール人は、マンモスのような動物がヨーロッパ大陸から姿を消していく時代を迎えると、食料を確保することが困難となり、それが人口減を招くことにつながった。

 

 そして、彼らは、イベリア半島の海辺の洞窟で暮らしていたという2万年ほど前の生活の痕跡を残したまま、地上から姿を消した。

 

 ただ、昔いわれたような、現生人類が戦いの結果、ネアンデルタール人を滅ぼしたという事実はないという。

 

 彼らは、生活様式も文化も異なるため、互いに無関心であった。
 2万年前のヨーロッパには、今のような人口がいなかったから、お互いが接触することすらほとんどなかったかもしれない。

 

 それでも、男女の個体が、森や草原で偶然出会う機会があり、そこで生殖行為が発生したということは大いに考えられるだろう。

 

ネアンデルタール人の少女といわれるCG画

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 それを実証するように、今の我々のDNAのなかには、2%ほどネアンデルタールの遺伝子が混じっているという。


 ヨーロッパ人だけでなく、アジア人もまたネアンデルタールの遺伝子を持っているのだそうだ。

 

 ただ、ネアンデルタール人の研究はまだ発展途上のままだという。
 今後、彼らに対する知見はさらに塗り替えられていきそうだ。

 


超常現象

 

 同じくNHK BSプレミアムで放映されていた『超常現象』という企画も面白かった。

 

 これは、幽霊、生まれ変わり、透視、テレパシー などという超常現象を、すべて合理的な科学の手法で解決しようという番組であった。

 

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 第一回は、イギリスで評判の “幽霊城” に科学者たちが集まり、電磁波や低周波音測定器などの最新機器を総動員して、様々な心霊現象を解き明かすという企画だった。

 

 結果的に、およその超常現象は、科学的な手法で解明されるということが突き止められた。

 

 また、仮死状態のときに、自分が空中を飛翔し、自分の遺体を見下ろすという臨死体験


 さらには、幼い子供が、ときどき生まれる前の他人の記憶を語り出すという “前世の記憶” の正体も、脳科学的や心理学の手法で解明された。

 

 ただ、そのなかでも、いまだに十分な説明ができないものが、予知能力だという。

 「虫の知らせ」という言葉があるように、人間は、ときにこれから起こりうる事件を事前に察することがある。
 「第六感」とか、「霊感」とか呼ばれるものだ。

 

 もちろん、こういう認知能力にも、やがて “科学のメス” が当てられるだろう。

 

 現段階でいえることは、こういう “能力” は、原始人はみな持っていたかもしれないということだ。

 

 こういう “力” は、自然のなかの空気の流れとか、水の匂いなどで、天候の変化を読み解くように、古代の人間は当たり前のように持っていたものだという気がする。

 

 恐ろしい肉食獣などといった天敵への備えに敏感な原始人たちは、逆にこういう能力がないと、サバイバルできなかった。

 

 しかし、そういう能力は、文明化される過程で、少しずつ退化していった。
 それでも、かすかな力として、現代人にも残っているのが、「第六感」。
 こういうのは、それほど不思議なことでもないような気がする。

  

アリシア・キーズのエジプトメイク

 Alicia Keysの『The Life』という曲が気に入っている。
 どこかカーティス・メイフィールドの『Give Me Your Love』に似たリズムを持っていて、心地よい。

 

Alicia Keys 『The life』

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 で、俺、こういう目つきの女に弱いのよ。

 

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 仕事に疲れてくると いや、疲れてこなくても、YOU TUBE で彼女の画像を拾って、かなり長い時間、「いい女だなぁ 」とため息をついて、その画像を見入ることがある。

 

 何に惹かれるのか ?

 

 美人なんだけど、意地悪げだからだ。
 下の写真など、本当に “意地顔” だろ ?

 

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 こういう目つきは、背後に「物語」を抱えている目だ。
 「あなたが一番好きよ」とか口では言うが、心の中で何を考えているのか分からない女の目。

 

 笑い顔の奥に、「別の人格が潜んでいる」という目つきなのだ。
 つまり、それは、その内面に “ドラマ” が存在していることを暗示する目だ。

 

 俺は昔から、そういう女が好きだった。
  
 もちろん、俺は実際のアリシア・キーズのキャラクターというものを知らない。
 ま、Wiki などを読んでみると、一筋縄ではいかない恋を成就させた女性のようで、そうとうな “肉食” 系だということを想像させる。

 

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 どうよ。なんか、男を取って食いそうだろ ?
 (↑)
 いいねぇ、そういう女。

  
 彼女の意志がどこにあるのか。
 それはメイクを見れば分かる。

 

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 とか、

 

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 欧米じゃないんだよな。

 

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 目の下側のアイラインを強調したメイクは、明らかに壁画などに残る古代エジプトの化粧法にインスパイアされている。(※ なにしろ息子の名前が「エジプト」君だもんな !! )

 

 つまり、彼女の気質には、エジプトに象徴されるような、非ヨーロッパ文化の血が流れている。
 
 3,000年の文化を積み重ねてきた民族の厚みのようなもの、ヨーロッパ人たちよりはるか昔から、「崇高」なものと同時に、「背徳」も「快楽」も知り尽くしてきたアジア・アフリカの文化の香りがする。

 

 「I Love You」という言葉が、同時に「I Kill You」でもあった時代のメイク。
 たぶん、シーザーも、クレオパトラのこういう目にやられたんだろうと思う。

 

▼ 映画の中のクレオパトラエリザベス・テーラー

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 クレオパトラは、自分の命と引き換えに、ローマを手に入れようとしていたシーザーと手を組むという大博打を打った。

 

 さすがに恋の手練手管にかけてはクレオパトラより一枚上手のシーザーはそれに気づいて逃げ出したが、シーザーの部下であった若いアントニウスは、ものの見事にクレオパトラに食われて破滅した。

 

 もちろん、クレオパトラも自分の乳房をコブラに噛ませて、自ら舞台に幕を引いたけど、代わりに “不滅の美女” という伝説を残していった。

 

 アリシア・キーズの目には、そういう力がある。

 

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 こういうアリシア・キーズの顔を見ていると、この人の内面には2重、3重の幕があって、さらにその奥にブラックホールのような巨大な “闇” が隠れていそうな気がする。
 

  

蘇れ!マカロニ・ウエスタン

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 作曲家のエンニオ・モリコーネが亡くなった(2020年7月6日)。
 追悼ニュースでは、『アンタッチャブル』、『ニューシネマ・パラダイス』などといった映画音楽の作曲家として紹介されていた。

 

 しかし、私のようなシニア世代からみると、エンニオ・モリコーネ(写真下)といえば、マカロニ・ウエスタンのテーマ曲を作り続けた人というイメージが強い。
 『荒野の用心棒』とか、『夕陽のガンマン』とかいったやつだ。

 

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 そんなわけで、久しぶりに、エンニオ・モリコーネが手掛けたマカロニ・ウエスタンのテーマ曲をYOU TUBEで拾い出して聞いてみた。
 
 これがみな素晴らしい!
 昔、ラジオでさんざん流れていた頃は、「単なるヒット曲」という程度の意識しかなかったのに、いま聞いてみるとすごく新鮮だ。

 

 もちろん映画も面白かったが、音楽がこれほどカッコいいという認識は当時はなかった。
  
  
 最初に、エンニオ・モリコーネの音楽を聞いたのは、もう50年以上も前になるだろうか。

 

 その頃、BGM用のムードミュージックとして、『世界残酷物語』の「モア」とか、チャップリンの『ライムライト』のテーマ曲などが街のレストランでよく流れていた。

 

 そういうメロンソーダみたいに甘い曲が流れるなかで、『荒野の用心棒』のテーマが流れてきたときは、魚を釣っていたときに、突然サメがかかったような気分になった。

 
  
▼ マカロニ・ウエスタンの大ヒット作品『夕陽のガンマン』。
エンニオ・モリコーネの美学が貫かれた代表作のひとつ。
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 いま思えば、彼のスコアは、それまでの西部劇の音楽を変えた。
 当時流行り始めていたエレキギターを前面に押し出し、それに哀切感きわまる口笛の旋律を絡める。
 
 エレキギターの異様なテンションと、さびしい口笛の確信犯的なミスマッチ。
 それがまさに、マカロニ・ウエスタンによく登場する荒涼たる原野に吹き渡る「無慈悲な風」を連想させた。
 
 その頃、マカロニ・ウエスタンを「西部劇」と言い切ることにためらいを持つ人々もいた。
 「西部劇のシチュエーションを借りた、ただのアクション映画」

 
 
 1960年代の中頃から70年代初期にかけて世界的ブームを巻き起こしたマカロニ・ウエスタンに対し、当時そういう批評も多かった。
 
 しかし、個人的には、マカロニ・ウエスタンという映画ジャンルは衝撃だった。
 それまでの「西部劇」の思想的な衣をはぎ取ったリアルな開拓時代の実像を視たような気になったからだ。

 

 それは、まさに東映のヤクザ映画が、“ヤクザの思想” を美的に形式化した任侠路線から、粗暴なチンピラたちの暴力をリアルに描く『仁義なき戦い』シリーズに移行したときの感じに近かった。
  

 マカロニ・ウエスタンでは、舞台背景も簡素化された。


 ジョン・ウェイン主演の『アラモ』や、ゲーリー・クーパーとロバート・ランカスターが共演した『ヴェラクルス』みたいに、セットにもロケにもふんだんにお金を使った豪華絢爛なハリウッド映画とは違い、マカロニ・ウエスタンに登場するのは、同じメキシコ国境近く町や村を描いても、みな貧相。お金をかけないB級映画のチープ感が濃厚に漂う。

 

 エキストラも少ないから、町はみなゴーストタウン状態。
 そもそもロケ地には、スペインや昔のユーゴスラビアなどが選ばれていたというから、アメリカ的な “荒野” とはまた違った寂寥感があった。
 

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 人間の描き方も違う。
 主人公も含め、登場人物たちには「正義」も「理想」もなく、ただ貪欲にカネを稼ぐため(もしくは女を手に入れるため)だけに生きている感じ。

 

 その主人公たちのすさんだ精神と、荒涼とした町や村の様子がぴったりと重なりあって、それが、SF映画における「核戦争後の地球」のような不思議な終末感を漂わせていた。

 
 だから、マカロニ・ウエスタンには、西部劇(時代劇)でありながら、むしろ近未来的な匂いがした。無慈悲なバイオレンスや裏切りが描かれても、それが過去にあったものではなく、むしろ、これから起こりそうなリアルさを持っていた。

 

 
 マカロニ・ウエスタンのシリーズでも、やはり面白いのは、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』(1964年)、『夕陽のガンマン』(1965年)、『続・夕陽のガンマン』(1966年)といった初期のものだ。
 特徴をいえば、みなクリント・イーストウッドが主役を張った映画だ。

 

 小学生時代にテレビで『ローハイド』を観ていた世代だから、そのドラマに準主役として登場していたクリント・イーストウッドに対する印象は強く残っている。


 
▼ 『ローハイド』 時代のイーストウッド

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 しかし、その後イーストウッドの活躍を日本で知ることがなかったので、「消えた役者」ぐらいにしか思っていなかった。

 

 もちろん現在は、映画監督としてもかずかずの名声を獲得した人として揺るがない有名人だが、この頃のクリント・イーストウッドを見ると、まだサクセスストーリーの主人公になるという予兆はない。

 

 だから、当時彼がイタリア製の西部劇に出たことを知って、「都落ち」とか「出稼ぎ」という言葉がすぐに浮かんだ。
 
 実際、薄汚れたポンチョを身にまとって、とぼとぼと荒野をさまようイーストウッドの姿には、まさに「賞金稼ぎ」に身を落とした “食いつめ者” の雰囲気が漂っていた。
 
 でも、そのやるせなさが、逆に不思議な存在感につながっていた。
 『ローハイド』でにやけた二枚目を演じていた名残りはすでになく、食うためにイタリアまで流れていった男の悲壮さが、そのニヒルな立ち居振る舞いに横溢していた。
 

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 このクリント・イーストウッドにはしびれた。


 生活のなかに「笑い」を感じる時間を失ってしまった男。
 境遇の悲惨さに、内面まで侵食されてしまった男。


 そんな男が漂わす、飢えた肉食獣のような飢餓感。
 そういう生活が、もう骨の髄まで染み込んだことを自分で悟ってしまったことへの虚無感。
 
 一言でいうと、「ハードボイルド」。
 非情の美学。
 描き方としては、主人公の内面描写をいっさい省き、ひたすらその行動のみを冷徹な “カメラの目” で描ききるというクールさに尽きる。

 

 そのときの無表情な眼だけが、主人公の心を推測する唯一の手がかりとなる。
 イーストウッドがそういう主人公を演じた瞬間に、「西部劇」は変わった。
 

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 クリント・イーストウッドアメリカに帰った後も、マカロニ・ウエスタンはフランコ・ネロジュリアーノ・ジェンマのようなイタリア人の人気スターを次々と輩出させた。特にジュリアーノ・ジェンマは、日本でも女性人気が高かった。
 
 しかし、私が好きだったのは、そのような美男系の主役たちよりも、たいてい準主役のように登場するリー・ヴァン・クリーフのような役者だった。

 

 あの猛禽類を想像させる鋭い眼で見つめられたら、相手が敵意を持っていないことが分かっても、自分などは膝の力が抜けてへなへなと崩れおちていくように思えた。


 
▼ リー・ヴァン・クリーフ

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 さらに好きだったのは、『荒野の用心棒』と『夕陽のガンマン』で、悪役として登場したジャン・マリア・ヴォロンテ


 彼の表情や演技には、人間としての常軌を逸した、一種 “神がかり的” な悪役を演じていて鬼気迫るものがあった。

  
▼ ジャン・マリア・ヴォロンテ

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 どの映画か忘れたが、彼が、部下に火をつけさせたタバコ(一説によるとマリファナ)を吸うシーンがある。

 

 普通、タバコを指にはさむ場合は、人差し指と中指を使う。
 しかし彼は、タバコを中指と薬指ではさみ、口全体を手のひらで覆うように吸った。
 それが、その男の常人とは異なる性癖を描いているようで、いたく印象に残った。
 

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 とにかく、主人公も悪役も、マカロニ・ウエスタンに出てくる人間はみな、どこか壊れていた。
 
 で、またエンニオ・モリコーネの音楽が、そういう登場人物たちの心情を見事に表現していた。

 

 いま聞くと、マカロニ・ウエスタンのテーマ曲は、みなひたすらチープで、通俗的
 しかし、頼れる者を周りに持たない荒野の住人たちの、ヒリヒリするような孤独感だけはしっかりと伝わってくる。

 

 『荒野の用心棒』も、『夕陽のガンマン』も、「あの音楽があったから、あの映画が成立した」と思えるような名曲に恵まれたと思う。
 
 特に『続・夕陽のガンマン』で使われた「黄金のエクスタシー(The Ecstasy Of Gold)」は、映画音楽を離れて、 つまり映像画面の助けを借りなくても観賞できる傑作であるように思う。
 

 

▼ 「黄金のエクスタシー」 ソプラノで歌うスザンナ・リガッチの声が特にいい
Ennio Morricone - the ecstasy of gold

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▼ 『続・夕陽のガンマン

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 マカロニ・ウエスタンのブームは、数年も続かなった。
 一説によると、60年代中期から70年代初期にかけて、500本近い本数が撮られたともいうが、後半になると粗製濫造となり、人々が飽きるのも早かったという。
 
 今では完全に過去の遺物である。
 しかし、一度魅せられた人たちにとっては、永遠不滅のジャンルのようである。

 

 その証拠に、マカロニ・ウエスタンを論じたネット情報は、みな驚くほど緻密で、しかもレベルが高い。それぞれが、さまざまな情報を取り込みながら、読ませるに足る独自の見解を披露している。

 
 
 映画としては駄作も多いといわれているのに、これだけ秀逸なレビューを集める映画のジャンルがほかにあるだろうか。
 そのことが意味するものは、まだ私にも十分に分からない。
   

 

黒光りの季節

 梅雨。
 カラッと晴れることもなく、湿度だけ高いいやな季節だ。

 

 この時期は、あの、黒光りした背中をテカテカと光らせた、あいつの季節でもあるなぁ。
 
 年をとってきたせいで、夜中にもトイレに立つ機会が増えてきたけれど、ある日、電気を付けると、階段の一段目の下に、あいつがいた。 
 
 何を使っていじめてやろうかと、とっさに考えて、とりあえず手元にあった新聞を丸めて、床をビシバシ叩いて追い立てのだけれど、もとよりそんないじめに動じるヤツじゃない。

 

 くるりと宙返りして塀を飛び越す忍者のように、あっという間に暗闇に消えた。
 逃げぎわの鮮やかにおいては、天下一品だ。
  
 こいつのことを、「アブラムシ」といった時代もある。
 江戸時代だそうだ。
 現在、一般的に流布している名称はゴキブリ。

 

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 冬場はあんまり見ることはなかったが、「梅雨」といわれる季節に入ってからは、道路でも、ときどきこいつを見かけるようになった。

 

 この前、
 「どの家に入ろうかな
 と物色している表情で住宅街の歩道を歩いているあいつを見つけたことがあった。

 「踏んでやろうか」
 と思った瞬間、そいつは側溝のフタの奥に身を隠した。 
 
 元来、「生命」を尊ぶ気概に満ちた優しい私は、うっかりアリを踏んでしまっただけでも慙愧の念に耐えないぐらいの気持ちになるが、こと、この黒光り野郎だけは、恍惚たる殺意が高揚していくことを抑えることができない。
 
 子供たちに人気のクワガタだって、カブトムシだって、黒光り野郎であることには変わりないのに人類に愛されている。
 ゴキだけが、人間の殺意を引き出すというのは、やはりあの逃げ足の早さが「しゃくにさわる」からだろう。
 
 セコイというか、こまっしゃくれているというか、人を小馬鹿にしているというか。
 とにかく憎たらしい。
 
 なんでも、黒光り野郎の逃げ足は、秒速1.5mだそうである。
 昆虫界のサラブレッドなのだ。
 「エリート」という意味じゃなくて、「速さ」という意味で。
 
 それにまた、どんな狭いスペースにもスルリと潜り込んでしまう、あの薄っぺたさ。

 

 逃げ場をひとつひとつツブして追い立てて、「さぁ、もう観念しろ」とイヒヒと笑った瞬間に、ドアの隙間から逐電するスマートさも、並みの虫とは違う。
 怪盗ネズミ小僧を追い詰めた役人たちが、いつも最後に地団太を踏む悔しさというのは、こんなものだったのだろう。
 
 さすが3億年の年月をかけて、どんな環境にも生存できる身体をじっくり進化させてきたヤツは違う。
 生存への意志が、身体構造にも脚力にも反映された “完全無欠の生き物” だ。(映画『エイリアン1』にも、そんな表現があったな
 
 
 昔、ゴミ屋敷のような家に両親と住んでいた時代のことだった。
 深夜、家族が寝静まったリビングで、テレビの歌謡ショーを眺めていたとき、カシカシとTシャツの袖をひっぱるヤツがいた。

 

 「誰だよ? 何の用だよ?」
 と、振り向きざまに腕を伸ばしたら、ゲジゲジという感触の足に触れた。
 
 ギャ-っと叫んで飛び上がった瞬間、天井に頭をぶつけた。(あいつが じゃなくて、俺が)
 驚いたばかりに、そいつの行方を追えなかったことが、今でも悔しい。

 
 
 昔、会社勤めをしていた頃、ふとデスクの下を見下ろしたら、真っ昼間からあいつがいた。

 ひとつ生け捕りにしてやろうと、生きたまま捕獲したことがある。


 ぴくぴくヒゲをうごめかして警戒しているヤツの真上から、そぉーっと円筒形のプラスチック製フィルムケースを近づけ、バクっと被せた。

 

 水平方向から接近する敵にはやたら警戒心を働かせるヤツだが、真上からの奇襲には意外と弱いということを知った。
  
 フィルムケースの蓋に空気穴を開け、しばらく飼った。


 真横から顔を覗くと、案外可愛い顔をしている。
 情が湧いて、残業夜食のケンタッキーフライドチキンなどに付いてくるコーンをエサとして与えた。
  
 しかし、食わない。
 毒を盛られることを警戒したのかもしれないし、もしかしたら、散りぎわを潔くして、ゴキブリとしての意地を貫こうとしたのかもしれない。
 
 結局、ハンガーストライキを貫徹し、あっぱれにもゴキブリとしてのプライドを保ったまま散った。
 遺体は丁重にティッシュで包んで、ゴミ箱に埋葬した。


 
 南米には、足の長さを含めて体長20㎝ほどの仲間もいるという。
 そうなると、「虫」というよりスリッパだ。

 

 スリッパで叩こうにも、うっかりすると間違えてしまう。
 ゴキブリの方を掴んでスリッパを叩いたんじゃ、洒落にもならない。
 
 人類の生息域にどしどし侵入してくるインベーダー。
 一般的にはそのように思われているけれど、もしかしたら、人間の住環境の方がゴキブリに近づいてしまったのかもしれない。

 

退屈が怖かったマリー・アントワネット

 フランス革命で命を散らした “悲劇の王妃” として、マリー・アントワネットの名前を知らない人は、まずいないと思う。

 

マリー・アントワネットの有名な肖像画

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 「民衆はパンが食べられなくて、みな困っています」
 と侍従からの報告を受けたとき、
 「それなら、ケーキを食べればいいのに」
 と答えたというエピソードによって、贅沢ざんまいに明け暮れた “無知な王妃” という烙印を押されてしまったアントワネット。

 

 しかし、近年の研究によると、アントワネットをめぐる上記のような逸話は、鬱屈したパリ市民の劣情を満足させるためのフェイクニュースだったということがはっきりしてきたという。

 

 2020年の7月3日に、NHKEテレで放映された『マリー・アントワネット最後の日々』というドキュメンタリー番組は、現代の歴史家や研究家が過去の記録を再検討して “アントワネット裁判” の真実に迫った面白い企画だった。

 

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 それによると、フランス革命をリードした指導者たちは、興奮したパリの市民たちの気持ちを鎮めるために、どうしても「王妃の死刑」を実現しなければならなくなり、そうとう苦労したらしい。

 

 リーダーたちを困らせたのは、政治的興奮に酔ったフランスの民衆を納得させるほどのアントワネットの “悪行” がなかなか実証できなかったことだった。

 

 そのため、彼女の不道徳性や傲慢さを訴えるために、ウソにまみれたフェイクニュースがたくさん捏造されという。

 

 その過程で、民衆が求める「王妃の処刑」は、裁判の結果を待つまでもなく、筋書きが確定されていった。
 
 実際のアントワネットの人物像はどうであったのか。
 Wikipedia などを調べてみると、“ナイーブ(アホ)な貴族の典型” と冷笑される部分と、家族思いの優しい賢夫人という両面を持ち合わせていたように見える。

 

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 特に、捕らわれて牢獄に幽閉されるようになってから、彼女はようやく王妃としてのプライドと強さを獲得し、断頭台におもむくまで、凛々しい振舞いを貫き通したという。

 

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 しかし、身柄を拘束されるまでは、思うがままに生きた “わがままな王妃” という一面を見せることも多かった。

 生まれたときから宮廷生活しか知らない王女だったのだから、庶民の生活感覚など理解できなかったのは仕方がない。

 
 オーストリア王家からフランス王家のルイ16世に嫁いだアントワネットは、おそらく、この時代のヨーロッパで、もっとも豪奢で洗練された文化のなかに身を投じた女性だった。
  

 
 彼女が暮らしたベルサイユ宮殿。
 「太陽王」といわれたルイ14世が建てたその宮殿は、まさに、世界の富が流れ込んで来る場所だった。

 17~18世紀のベルサイユ宮殿は、ディズニー映画の宮廷描写のモデルともなるような “夢の御殿” 。

 

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 そこでは夜毎王侯貴族たちによる華やかな舞踏会が繰り広げられ、その会場は、ファッションからジュエリー、食事に至るまで、ゴージャスの極みともいうべき世界中の贅沢品に埋め尽くされた。

 

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 ドイツの経済学者ヴェルナー・ゾンバルトは、『恋愛と贅沢と資本主義』(1912年)という本で、この時代のフランス宮廷で広まっていた豪華絢爛な物質的贅沢が「資本主義を用意した」という説を打ち立てた。

 まさに、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の逆をいく主張である。

 

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 アカデミズムの世界では、ゾンバルトの “贅沢論” よりも、圧倒的にマックス・ウェーバーの『プロ倫』の方が、資本主義のメンタリティを解明するにふさわしいとされた。

 

 生真面目なドイツ系プロテスタントの人々は、ストイックな倹約家の人間が資本主義の倫理観を築いたという説の方に、安心できるものを感じたのだ。

 

 しかし、「贅沢なファッション」、「恋人(愛人)への豪華なプレゼント」というような要素が「資本主義を用意した」という説の方が、現代的であり、日本人にも理解しやすい。
 私などは、ウェーバーの説よりも、このゾンバルトの説の方に魅力を感じる。
 
 
 ゾンバルトがいうように、「贅沢に対する共感」が17世紀のフランス宮廷から生まれてきたというのは、ある意味、ベルサイユ宮殿の文化というのは、「女性を崇める文化」であったというべきかもしれない。

 

 この時代、フランス宮廷のサロンを主宰したのは、みな女性であった。
 ルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人(写真下)をはじめ、夜毎のパーティーを格調高いものに演出したのは、すべて国王や有力貴族の愛妾たちであった。

 

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 宮廷の男たちは、それぞれお気に入りの女性の心を射止めるために、カネに糸目をつけず、世界中の高級品を買いあさった。
 (そこで実現した恋愛は、ほとんど不倫であった)
  
 
 そのフランス宮廷で、ルイ14世の治世が終わったあたりから生まれてきた芸術様式を「ロココ」といった。

 

 ロココとは優美、洒脱、繊細というエレガントな部分と、退廃、倦怠というアンニュイな部分が交じり合った独特の文化で、絵画にせよ、工芸品にせよ、美しいが砂上の楼閣のような、危うさを秘めていた。

 

 そこが、ロココの魅力でもある。

 

ロココ絵画『恋文』(フランソワ・ブーシェ

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▼ 典型的なロココ風デザインの室内

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 ロココが登場するまでの芸術様式を「バロック」といったが、バロックは、ルイ14世の王権が隆盛をきわめる様子を力動的に表現したもので、いわば “男の文化” であった。

 

ルイ14世

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 ルイ14世は、対外戦争も数多く指揮し、ナポレオン以前の国家元首として、フランスの最盛期を築いた。

 

 それを象徴するかのように、バロック美術は、グロテスクと思えるくらいのマッチョ感を演出する。

 

バロック美術を代表するルーベンスの絵画

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 しかし、ルイ14世が活躍したフランス宮廷が落ち着いてくると、フランスの文化様式は、マッチョ感をたっぷり漂わせるバロックから、次第に優美で瀟洒ロココに移行していく。

 

 だから、「バロック」の後に登場してきた「ロココ」の精神には、「もうこの先がない」という、どんづまりの “はかなさ” が漂う。
 つまり、「ロココ」とは、フランス革命の動乱を前にした貴族文化の最後の残照だったともいえる。

 

ロココ的ファッションの女性たち(映画『マリー・アントワネットソフィア・コッポラ監督)

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 革命の足音が近づいてきても、それを感知する感受性そのものが欠けていた若いアントワネットはいう。

 「私は、退屈することが一番恐ろしい」

 

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 すべてが過不足なく満たされた人間にとって、「退屈」こそが最大の恐怖なのだ。
 18世紀の宮廷社会を生きた貴族たちは、退屈に直面しないためには、朝から晩まで、舞踏会で踊り続けるしかなかった。
 
 しかし、そこには華やかさはあっても、ときめきも高揚もない。
 華麗な意匠の裏側には、それを支える何の精神もない。
 
 優美で、洗練されたロココ文化が、同時に退廃と倦怠を秘めているのは、その裏側で、「退屈」という虚無が口を開けていたからだろう。

 

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 革命の波に飲み込まれる直前まで、優雅な舞踏をやめなかったフランス貴族社会は、まさに氷山に突き進む豪華客船タイタニック号のようなものだったのかもしれない。


 
 ロココ文化は、その貴族社会の消滅とともに、革命という嵐によって一瞬のうちに吹き飛ばされる。
 巨木が切り倒されるようにではなく、シャボン玉の泡のように消える。
 その軽さが悲しい。

 

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 マリー・アントワネットは、後世に何の業績も残さなかった平凡な王女だったが、ロココの精神を100%体現した人だったがゆえに、その名を永遠に歴史にとどめることになった。

 

 そういう純度100%のナイーブ(アホ)さは、ある意味で、得がたい「気高さ」に通じる。 

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campingcarboy.hatenablog.com

掌編小説「In A Silent Way(長瀞に行く)」

youtu.be


 夢のなかで、私は、長瀞(ながとろ)という土地に行くつもりでいる。
 そのため、私は中央線に乗って西に向かっている。

 

 ただ、夢のなかの “長瀞” は、埼玉県・秩父にあるあの観光地として有名な「長瀞」ではなく、私のまったく知らない土地になっている。
 
 「長瀞とはどんな土地なのか?」
 夢のなかの私は、長瀞が東京の “北西部” のどこかにある、と思い込んでいるらしく、東京の国分寺か立川あたりまで行って、そこから北に向かう電車に乗り継げば、なんとかたどり着くだろうとタカをくくっている。
 
 やがて、電車が東京西郊外の駅に着く。
 私は、行き先も確認しないまま、今度はそこから北に向かう電車に乗り換える。
 
 ホームに入ってきたのは、濃い褐色に塗られた、見たこともないような電車だった。
 驚いたことに、電車の床は、タールを塗った木の床である。
 車内に吊ってある広告も、いつ作られたのか分からないほど古臭いロゴとデザインで処理されている。
 
 どこかのローカル線であることは分かるのだが、行く先を告げるアナウンスもない。

 さすがに不安になって、車内吊りの路線図を探して、「長瀞」の文字を探す。
 見たこともない、聞いたこともない駅名が連なっているが、「長瀞」という文字はない。
 
 困った ……
 乗客に確認しようと思うが、あいにくどの車両にも人の影が見えない。

 

 今頃になって、事前にネットなどでアクセスを確認しておかなかったことを後悔する。
 せめて、「長瀞」という場所が何県なのか、そこに行くには何線に乗ればいいのかメモを作って頭に入れておくべきだったと悔やむ。
 
 とりあえず、次の停車駅でいったん降りて、長瀞に行くための方策を考えることにする。
 降りた駅にも、人影はない。
 

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 ここは何という駅か ?
 白ペンキ塗りの薄い金属板に、青い明朝体の平仮名で「きたたてぼり」と書かれている。

 漢字に直すと、「北立掘」とでもいうのだろうか。
 いずれにしても、どこの市町村に属する駅なのかまったく分からない。
 
 駅務室を訪ね、駅員に長瀞に行くための交通手段を聞くことにする。
 曇りガラスで閉じられた窓口の奥に人影が揺れているのだが、声をかけても駅員は顔を出さない。 
 
 「長瀞というところに行きたいのですが」
 「ナガトロ ? 」

 

 ガラスの向こうに揺れていた人の影が止まった。
 こちらに気づいてくれたのかもしれない。
 
 「ここから遠いですか ? 」
 「直行する路線はないな」
 「どうしたらいいですかね ? 」
 「行けないことはないがね」
 
 幸いなことに、その駅から歩いてさほど遠くないところに、長瀞行きの単線が通っている鉄道があるという。

 

 教えられた通りに道を歩く。
 牧草地なのか休耕地なのか分からない草原が続いている。

 

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 この道が正しいのか、間違っているのか
 通りすがりの人に聞いてみたいと思うのだが、あいにく、すれ違う人もいない。

 

 近くに民家はないらしく、人の話し声も、犬の鳴き声も聞こえない。 
 このへんには鳥すらもいないらしく、空をかすめる生き物の気配もない。
 
 やがて、錆びた色を見せた線路が見えてきた。
 長瀞行きの単線というのは、これのことを指すのだろうが、はて、駅の姿が見えない。 

 

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 線路に沿って、しばらく歩くと、何軒かの家が連なった小さな町に出た。
 最近ではあまり見かけないような、古風な建物が数軒並んでいる。
 人影が見えないせいか、“神さびた” 空気が漂っている。

 

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 「観光案内」の看板を掲げた小屋のようなものがある。
 中に入ると、ここにも曇りガラスの窓が付いた小さな受付がある。
 人がいるような気配がないのだが、いちおう声をかけてみる。 

 

 「長瀞というところに行きたいのですが」
 
 声を聞きつけて人の影が窓に近づいてくるが、窓は開けようとはしない。

 

 「ここまで来れば、長瀞に行く電車があると聞いたのですが

 

 「ああ、それでしたら、踏み切りを渡ったところの空き地に立っていれば、電車の運転手がお客さんを見つけて拾ってくれますよ」

 

 女の声だった。
 ただし、「電車は1日に4本なので、次の電車が来るまでちょうど2時間ぐらい待つかもしれませんね」といわれる。
 
  
 案内係にいわれたまま、線路沿いをさらに歩くと、道路と線路が交差する十字路のようなものが見えた。
 遮断機も警報機もないのだが、道路と線路が交差する場所はそこしかないので、おそらくそれが “踏み切り” なのだろう。

 
 
 踏切を渡ると、確かに、電車が入って来れそうな広い空き地があった。

 

 そこが “駅” らしいのだが、ホームも改札口もないので、ただの公園にしか見えない。
 それでも、レールらしきものはあるので、ここが “電車の通り道” であることは間違いないようだ。
 
 どこに立っていればいいのか ?

 

 一ヵ所だけ、周囲2~3mにわたり地面が人の足跡で踏み固められているところが見える。
 それが、利用客が電車を待つ場所であるらしい。
  

 
 それにしても、この駅は、いったい何のためにある駅なのか ?
 周囲を見渡しても、民家のようなものは見えない。
  
 薄日が射す空の下、ひたすら電車を待ち続ける。

 

 ところで、「長瀞」というのは、どういう土地なのか。
 そもそも、長瀞に、自分はいったい何をしにいくのだろう ?
 それが思い出せないのだ。

  
 「行く理由を思い出せてなくても、目的地に近づけば、案外思い出すものだ」
 
 そう自分に言い聞かせながら、じっと電車を待つ。

 

 いつの間にか街路灯がともり、夕暮れが迫ってきていることを教える。
 周りの風景が少しずつ黒ずんでいくのに、電車はいっこうに来ない。

 

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 (以上の話は何日か前に見た夢。マイルスの 『In A Silent Way』 を聞くうちに思い出す)
  

 

 

 

岸辺のアルバム

 1974年、台風16号により多摩川の堤防が決壊し、周辺住宅の19棟が水没したという事故(多摩川水害)が起こった。

 

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 その事故を題材に企画されたテレビドラマが、『岸辺のアルバム』だった。

 

 2020年6月30日の「アナザーストーリーズ」(NHK BSプレミアム)で、この『岸辺のアルバム』を取り上げた番組が放映された。
 なつかしい気分で、それを見た。

 

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 同ドラマは、山田太一の小説をもとにしたものである。
 ドラマ化したときのプロデューサーである堀川とんこう氏がこの春に亡くなられたので、それにちなんだ企画であったのかもしれない。

 

 ドラマ放映が始まったのは1977年。
 「幸福の絶頂」にいるように見える家族が内部から崩壊していく様子を描いた話として、明るいホームドラマが主流の時代には、異例の内容だった。

 

 話題を呼んだのは、そのテーマ曲だった。
 ジャニス・イアンの「ウィル・ユー・ダンス Will You Dance? )」が使われていた。

 

 爽やかで優しい曲調で、オープニングの映像やドラマのヘビーな内容とはまったく相容れなかった。

 

 だからこそ、ドラマ全体が視聴者の印象に残り、事実、この曲そのものも大ヒットした。

 

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 いったい誰が、このジャニス・イアンの曲をドラマのテーマ曲として選んだのだろう。
 秀逸としか、言いようがない。
 描かれた家族たちの悲劇を強調するには、これ以上の選曲はないように思えるからだ。

 
 ドラマの骨格は、下記の通り。
 
 美しい川べりに立つ近代的な一軒家。
 そこで暮らす平和で平凡な家族。
 主人(杉浦直樹)は大手商社マン。妻(八千草薫)は美人で貞淑な主婦。
 大学生の姉と、受験中の弟。
 
 このドラマに描かれる家族に、「不幸の影」はどこにも見えない。
 

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 しかし、実は、その主人は、家族には明かさないが、商社の業務のうちダークな部分を引き受けており、妻は密かに不倫をしている。
 姉は、外国人に強姦され、妊娠した子供をこっそり中絶しようとしている。

 

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 「平和な家族」の裏面で徐々に進行していく崩壊の予兆。
 それが、このドラマのテーマだ。
 
 じわっと解体していく家族。
 徐々に表面化していく夫婦・親子間の修羅場。

 

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 そんなことを知らぬげに、ジャニス・イアンが作ったテーマ曲は、春風のような甘い香りをシレッと伝える。
 
 青空に浮かぶ雲のように。
 花の匂いに満ちたガーデンを照らす、午後の陽射しのように。
    
 ドラマとテーマ曲の「違和感」がかもし出す背筋が凍りつくような展開にこそ、このドラマの本質が隠されているように思える。
 
 あまりにも、のどかで、牧歌的なものは、時として、そのままそっくり「不安」と「不幸」の予兆となる。
 
 つまり、「完璧な平和」というものは、ときに、「まだ見えない不幸の予兆」を人に探させるからだ。
 

 『ウィル・ユー・ダンス』は、そんな人間心理をうまく突いている。

 

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 事実、この歌の歌詞には、
 「誰かが泣く」
 「死」と「死者」
 「嘘をつく」
 「滅ぶ」
 などという不吉な響きを持つ言葉が、たくさん沈んでいる。
 そもそも、この歌のメッセージそのものが暗いのだ。
  
 なのに、耳をかすめる「サウンド」は、退屈なくらい、明るく、のどかで、けだるい。
 
 歌詞とサウンド、そして歌とドラマの、なんというミスマッチング であると同時に、なんというベストマッチング!
 この組み合わせだけでも、このドラマは永遠の名作として人々の記憶に刻み込まれることになった。
  
 
 1970年代。
 それまで、農村に暮らしていた大量の若者たちが、都会で仕事を確保し、恋愛結婚の果てに、郊外の新興住宅地に一軒家を構えるようになった。

 

 サラリーマンとなった主人と、専業主婦となった妻。
 そして、子供が二人。
 近代家族のモデルを代表する「標準世帯」が都市近郊で無数に生まれた。
 
 『岸辺のアルバム』が放映された1977年は、そのような近代的な「核家族」が完成したと同時に、その崩壊の予感におびえた時代である。
 
 この世代の父と母には、幼い頃にテレビで見た米国製ホームドラマ『パパは何でも知っている』()のような、都市郊外に幸せな家庭を築く “アメリカ型家族” の理想が染み込んでいた。

 

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 そのアメリカ製ドラマで見た最新の家電や乗用車に囲まれた快適な生活を営むために、一家が協力しあってサラリーマンの父を支える。
 
 そういう素朴なロマンが、崩れ始めたのが、70年代の後半。
 
 まず、サラリーマン社会に適合するために、子供に過度な勉強を強いる学歴・学術偏重主義が、子供たちを圧迫し始めた。


 高度成長を支えるために、父親は深夜にならないと、家に帰らないようになった。

 

 家電の充実によって、家事から解放された妻たちの間には、「自分の人生はこれでいいのかしら?」と疑う余裕が生まれるようになった。

 

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 そのような妻たちの心の隙間に、「恋愛幻想」としての不倫が忍び寄る。

 

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 夫たちは、 残業に明け暮れるか、「接待」にかこつけて、夜の盛り場を飲み歩く。


 子供たちは、目の前に広がる小ぎれいな郊外住宅を、父母の過度な期待がこもった「受験勉強の牢獄」として眺めるようになる。
 
 家族が集まる「家」が、いちばん家族の匂いが希薄な空間に変貌していく。
 
 このような時代の気分を背景に、村上春樹の『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』が生まれたように思う。

 

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 『岸辺のアルバム』の放映(1977年)から2年後、村上春樹は、日本のどことも特定できない、空虚なけだるさに満ちた郊外都市に暮らす若者の日常を描いた。
 
 新興の中流サラリーマンのベッドタウンとして開発された郊外都市。
 そこには、極度に人工化された “記号” のような都市風景が広がる。
 建物はみな清潔で、明るく、計算された並木に吹く風は、涼しげで爽やか。

 

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 それは、どこか近代的な “霊園” の雰囲気を帯びる。
 見事に区画割りされたベッドタウンの情景は、そっくりそのまま霊園のイメージと重なる。
 
 とりとめもない空虚感を中心に据えた「虚無の街」。
 村上春樹の初期短編に描かれる明るく清潔な街は、「死の静けさ」をはらんでいる。

 

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 それを音楽として表現したならば、ジャニス・イアンの『ウィル・ユー・ダンス』に近いものになるのかもしれない。
 
 

ミニーマウスのエロティシズム

 世界でいちばん色っぽいネズミは、ミニーマウスだろうな。
 物心がついた頃、俺がいちばん欲情したのは、ミニーマウスの後ろ姿だった。

 いやぁ、物騒な書き出しになってしまったなぁ(汗)
 

▼ 僕のミニー! ディズニーは版権がうるさそうだから、自分で描いた

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 ま、ミニーに憧れていたんだね。

 

 だけど、横恋慕だったの。
 だって、こいつのそばには、いつもしっかりミッキーがいたからね。

 

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 だから、諦めるのも早かった。
 俺の最初の失恋かな。

 

 

 ミニーマウスが生まれたのは、1928年。
 ミッキーと同じ年だ。
 『蒸気船ウィリー』(1928年)で、ミッキーと共演したのが彼女の初登場ということになっている。

 

▼ 蒸気船ウィリー

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 しかし、厳密にいうと、同じ年に制作された『Plane Crazy プレーン・クレイジー(飛行機狂)』で、すでにデビューを飾っている。

 

 この『プレーン・クレイジー』をYOU TUBEで拾ってみると、「It was the first appearance of Mickey Mouse」というアップした人のコメントがあるので、どうやらこの動画が、はじめて人前に登場したミッキーということになるのだろう。

 

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 しかし、そこに描かれたミッキーとミニーは、またなんと今われわれが見ている画像とかけ離れていることか。

 

 とにかく、2人(2匹?)とも野卑である。
 およそ、「洗練」という言葉からはかけ離れている。

 

 ミッキーは、歯を剥きだして、下卑た笑いを浮かべる。
 いたずらは大好きだし、よく怒る。
 
 自作の飛行機の初乗りに、ミニーを誘うが、操縦中にもすきを見て、強引にミニーにキスを迫る。

 

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 そして、ブチューだ!
 この不意打ちに、ミニーも負けてはいないんだな。
 
 「なによ、いきなり失礼な!」
 とばかりに、ミッキーの頬をバシリ!

 

 怒って、飛行機から飛び降りるも、自分のパンティーをふくらませて、パラシュート代わりに使い、無事着地。
 実に健康なお色気に溢れているのだ。

 

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 この自由奔放なミッキーとミニーには、拍手を送らざるをえない。
 2人とも、ピチピチと輝いている。


 そこには、今の「ディズニーランド」にいる飼いならされた2人とはまったく別の、マセたガキどもが放つ天真爛漫な笑いがある。 

 

 

Mickey Mouse: Plane Crazy (1928年)

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戦国自衛隊1549

超傑作と超駄作は「珍しさ」において並び立つ? 
戦国自衛隊1549
 
 
 土曜日の午後(2020年6月27日)、『戦国自衛隊1549』がWOWOWシネマで放映されていた。
 突っ込みどころ満載の映画だった。

 

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 『戦国自衛隊』は、1979年と2005年に二度映画化されており、79年のものは、荒唐無稽な話ながら、それなりに楽しんだ記憶がある。

 
 戦国時代に飛ばされてしまった自衛隊の隊長役を務めた千葉真一と、長尾景虎を演じた夏八木勲らの好演もあり、ドラマとしての骨格も備わっていた。

 

 しかし、その後の2005年の制作されたこの『戦国自衛隊1549』は、一言でいうと、「映画もここまで駄作になれば、シリアスドラマというより “ギャグコメディ” になる」というシロモノだ。

 (制作された方々やファンの方には、本当にごめんなさい!)

 

 1作目は、自衛隊員が戦国時代に紛れ込んだことへの戸惑いと開き直りの描き方に、それなりの説得力があったが、2作目にはそういう不条理感もなく、あっけなく過去に飛んでしまうので、そのお手軽さに唖然とする。


 そして、次はどこで破綻するのか? ということだけを期待して、逆にワクワクする。

 

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 2作目(1549)のストーリーは次の通り。

 

 時空の乱れによる事故によって、過去の世界にまぎれ込んでしまった自衛隊グループを救出するために、江口洋介主役の元自衛隊員を中心とした救助隊がプラズマの乱れ(?)を利用して、過去の世界に向かう。

 

 しかし、たどりついたその世界では、訓練中に遭難したはずの自衛隊のリーダー(鹿賀丈史 ↓)が、戦闘中に殺した織田信長に成り代わって日本制覇をもくろんでいた

 

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 このニセ信長が、救助にきた江口洋介たちを仲間に抱き込もうとするわけだが、
 江口たちは、
 「あなたの取ろうとしている行動は、歴史を改ざんすることにつながり、21世紀の日本を滅亡させることになる」
 と厳しく批判。

 

 両者はやがて戦国のサムライたちを巻き込んだ対決に進む。

 

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 それなりに作れば、けっこう面白くなりそうな話なのだが、脚本家が歴史に疎かったのか、このニセ信長を取り巻く環境が実に変。

 

 信長を支える幕僚は、遭難したときにそのリーダーに従っていた自衛隊の部下だけ。
 柴田勝家や佐久間盛信はどこに行ったのだろう? 彼らは本物の信長と一緒に殺されたのだろうか。

 

 また、尾張の信長を継ごうと思っている人間が、尾張とは縁もない富士の裾野に孤立した砦を構えているというのも不思議。

 

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 その砦には商人や町民の姿も見えず、およそ生活観というものが感じられない。
 町民や農民を支配してこそ「大名」なのに、このニセ信長は何を考えて富士山麓のちっぽけな砦に立てこもっているのだろう?

 

 また、領国支配をしているようには見えないのに、自分や部下たちが食べるご飯代をどうやって捻出しているのだろうか。
 ことさら突っ込みを入れる気持ちなどなくても、素朴な疑問がごく次々と湧いてくる。

 

 最大の謎は、やはり元自衛隊のリーダーが、なんで信長に成りすまそうとしたのかが分からないことだ。

 

▼ ニセ信長

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 ヘリコプターや戦車という近代兵器を駆使して戦国時代を勝ち抜こうというのなら、別に信長に成り代わる必要もないからだ。

 

 このニセ信長、「腐りきった平成の世を、この時代からやり直していく」という。

 

 しかし、そういう大義名分を持っているのなら、なにも信長などにすり替わることなく、自分の素性を堂々と民に明かして、新しい大名として天下を統一すればよかったのではないか。

 

 それに、この時代から「腐りきった平成の世を直す」なんて、ずいぶん遠回りした話じゃないの?


 江口洋介たちが案内される砦に入ると、天守閣の後ろには巨大な石油採掘工場がそびえている。(富士の裾野で原油など採れるのか?)

 

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 この奇妙に近代化された風景がひとつの見せ場であり、時代が歪んだ方向に向かっていることを説明するショットになるはずなのだが、ハリウッドの歴史大作映画などに慣れてしまった人間からすれば、映像表現がお粗末で見ていられない。

 

 設定の手抜き加減と同時に、役者たちの演技も貧しい。
 江口洋介鈴木京香がどう見ても自衛隊員に見えないというのも困ったものだ。スポーツジムの指導員と、そこに通ってくる奥様という役柄がいいところだ。

 

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 だからこの二人が、“歴史の歪みを元に戻す” ために奔走する姿が、ダイエットに励む奥さんと、それを指導するトレーナーが一緒にジョギングしている姿にしか見えてこない。

 

 映画を支える “世界観” も薄っぺらい。

 

 戦闘などで死んでいく人間たちが、
 「お前は生きろ。俺がここで敵を支えるから逃げろ」
  的な自己犠牲精神をやたら発揮するけれど、そういう見え透いた “お涙頂戴” の設定に鼻白んでしまう。

 

 あまりにもバカバカしい展開で、さすがに途中で観るのをやめてしまった。
 その後インターネットに寄せられているレビューを少し読んだが、あらゆる方面から、これだけ酷評されている映画というのも珍しかった。

 

 ま、それもある意味で、日本の映画史に残る作品なのかもしれない。珍作・迷作として。
 (制作された方々には、こんなことを書いて、ホントにごめんなさい)

 

 

かまやつひろし『どうにかなるさ』

 キャンピングカーの中の「独り宴会」が好きである。
 仮に泊まるところが、RVショー会場の駐車場であっても、酒と音楽があれば、窓の外の風景が無味乾燥だろうが、話し相手がいなかろうが、まったく苦痛ではない。
 

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 ただ、酒はなくても、音楽がないと、ちと淋しい。
 だから、どんな短い旅でも音楽ソースだけはいっぱい持っていく。

 

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 昔、名古屋のキャンピングカーショーに出向いたときは、今はもうなくなった長島温泉の駐車場(写真上)に泊まって、かまやつひろしの『どうにかなるさ』を何度も聞いたことがあった。 

 

youtu.be

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 昔、この歌を聞いたとき、日本ではじめて「日本語のカントリー&ウエスタン」が生まれたと思った。


 それほど、作曲したかまやつひろしは、カントリー&ウエスタンのエッセンスというものを、よく捉えたように思えたのだ。

 

 当時の日本語のポップスは、どんなに洋楽の意匠を盛り込もうとも、どこかで歌謡曲の匂いがポロっと表れてしまっていたが、この曲にかぎっていえば、歌詞が日本語であることを除けば、純度100%のカントリーのメロディが再現されていた。
 
 で、また歌詞がいい。
 改めて聞いてみると、実に深い歌詞なのである。
 
 こんな歌詞だ。
 
♪ 今夜の夜汽車で、旅立つ俺だよ
   あてなどないけど、どうにかなるさ
   あり金はたいて切符を買ったよ
   これからどうしよう。どうにかなるさ 

 

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主人公はどんな男なのだろう?

 
 主人公は、いったいどういう人間なのだろう?
 考え出すと、興味がどんどん膨らみ始めた。
 
 面白いのは、主人公のキャラクターだ。
 切符を買うのに、「あり金をはたいてしまい」、「これからどうしよう」とつぶやいているわけだから、彼には危機管理能力というものがまったくないことが分かる。
 
 しかし、それでもこの男は「どうにかなるさ」と開き直る楽天性を備えており、少なくとも、うつ病患者が多いといわれる現代では、ちょっと考えられないようなキャラクターだといえそうだ。

 

 それにしても、そのとき彼は、いったいいくら持っていたのだろう。
 
 今だと、青森県から山口県まで、新幹線を使っても3万円ぐらい。
 この歌が生まれた時代では、3000円といったところか。
 
 その程度の金をつぎ込んで、「使い切る」と表現するいうことは、彼の給料は、現代に換算すると月15~16万程度か?
  
 いったいどんな仕事をしていたのだろう。

 手がかりは2番の歌詞にあった。

 
 ♪ 仕事も慣れたし、町にも慣れたよ
    それでも行くのか どうにかなるさ
   1年住んでりゃ 未練も残るよ
   バカだぜ、おいらは どうにかなるさ

 

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 歌の雰囲気からは肉体系の仕事が連想されるが、ドヤ街の殺伐さも感じられないので、建設系ではないのかもしれない。
 仕事に慣れるのに1年かかっているところをみると、単純労働というよりも技術系の仕事であることも推測される。

 

 
主人公はどんな恋愛をしていたのか?

 
 住む場所は、どんなところだったのだろう。


  「町に慣れた」と言っているところをみると、そんなに複雑な大都会ではない。
 生活圏も広そうではない。
 仕事場とアパートの距離も短く、その間に居酒屋が数軒という小さな地方都市が目に浮かぶ。
 

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 気になるのは、2番のサビの部分。
 
  ♪ 愛してくれた人も 一人はいたよ
     俺など忘れて、幸せつかめよ
    一人で俺なら、どうにかなるさ
   
 まず、考えられるのは、行きつけの飲み屋のママさんとか従業員。

 そう考えるのが普通だが、この歌詞はもう少し深掘りできそうだ。

 
 気になるところは、相手が「愛してくれた」 のに、主人公が応えてやらないことだ。
 こういう場合、三つのパターンが考えられる。
 
 ひとつ。
 相手は美人でもなく、性格的にも合わなかったというケース。
 どっちかというと、男の方がストーカー的に追いかけ回されたというパターン。
 その場合は、男が逃げ出したということになる。
 
 二つ。
 男の片思い。
 この場合は、 「これ以上追いかけ回すと、はっきりとフラれるな」という危機感から、相手をあきらめてしまうというケースが想定される。

 

 つまり、自分の自尊心を傷つけないように、「愛されている」という思いを維持したまま、最終的な破局から目をそらすという心の動きが想定される。
 そうなると、「俺など忘れて幸せつかめよ」というのは捨てゼリフとなる。
 
 三つ。 
 最初から、恋が成就しないことが分かっている相手。
 つまり、身分違いの女性。

 

 彼女は、良いところのお嬢さんで、高学歴で高収入の男のもとに嫁ぐことが決まっている。
 
 そうなると、歌詞で使われているボキャブラリーからして、あまり高学歴とは思えない主人公に嫁ぐことなど、親が絶対許さないということになり、それを解っている男は去るしかない。
 
 この解釈がいちばん自然であり、歌の雰囲気とも合う。
 私は、この女性は、主人公の勤める会社の社長令嬢だと推定した。
 
 たぶん、彼女には親が進めた縁談があったのだ。
 彼女は、それを破談にして、主人公と一緒になる決意を固めている。
 当然、親子の関係はこじれ、家庭も職場も収拾がつかなくなる。

 

 そういう事情を解ったからこそ、主人公は、あり金はたいて、急遽、夜汽車に乗る決意を固めたのだ。
 
 これは、カントリー&ウエスタンによくあるパターンといってもいい。 
 日本の演歌でも、“股旅もの” は、このパターンを踏襲する。
 洋の東西を問わず、古典的な人情劇の中軸を担っていたテーマである。
 

 

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人口流動が歌をつくる
 
 こういうテーマが現実性を帯びて感じられる社会というのは、どういう社会なのだろうか。
 
 人口が流動的に動いている社会である。


 カントリー&ウエスタンという音楽は、「家族や村という共同体に縛られず、旅の空の下で死ぬ男」を歌ったもので、その根底には、人口が流動的に動く開拓期の精神風土が反映されている。

 

(ただ、21世紀に入ってからのカントリーウエスタンはだいぶ変わった。共同体志向がものすごく強くなってきている。それには関しては、自分が昔に書いた記事のリンクを下に張った)

 

 20世紀初頭のカントリーウエスタンは、ふるさとを後にした若者たちの「望郷ソング」が基本になっていた。

 

 20世紀に入り、不況下のアメリカでは各地に放浪労働者がたくさん生まれ、彼らが当時インフラ整備されつつあった鉄道網を使い、日雇い労働者として全米に散らばっていったという歴史的事実も、それが当時のカントリー&ウエスタンを支えるバックボーンとなった。

 

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 このような「人が動く時代」では、「住み慣れた町」を離れ、夜汽車に乗って「あてなくさまよう」ことすら、希望であったかもしれない。
 
 世界の大衆音楽の中で、「ロンリー」とか「ロンサム」という言葉がもっとも多用されるのがカントリー&ウエスタンだといわれているが、その曲調は、どれも明るい。
 そこには、「町を去り、人と別れる」ことが新しい「出会い」を約束するという楽観主義が横たわっている。

 

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 日本も、似たような「人が流動する」時代を迎えたことがあった。
 
 『どうにかなるさ』がつくられたのは1970年。
  ということは、60年代の精神風土を色濃く反映した歌だと思っていい。
 
  
1960年代の楽天
  
 60年代というのは、「集団就職」に象徴されるような、日本全域を民族大移動が襲った時代。


 1960年から1975年の15年間のうちに、東京、大阪、名古屋の3大都市圏には、1533万人の人口が流入したという。
  
 『どうにかなるさ』という歌は、恋人と別れても、別の町に行けば、また新しい出会いがあるというカントリー&ウエスタン風の楽観主義に裏打ちされた歌なのだ。

 
  
 歌詞をつくったのは、山上路夫
 かまやつひろしの曲が先にできたのか、山上路夫の詞が先にできたのかは分からないが、両者の目指す世界がぴったり合ったという気がする。
 つまり、カントリー&ウエスタンの精神風土を、日本の土壌に置き換えた名曲だと思う。
 
 …… ってなことを考えながら、自分のキャンピングカーの中で、一人ダイネットシートにあぐらをかいたまま、グダグダと酒を飲む。
 至福の時。

 

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 ▼ 最新カントリーミュージック情報

 

 

 

『雲霧仁左衛門』と「陰翳礼讃」的な日本美学


 NHK総合の「土曜時代ドラマ」枠で放映されている『雲霧仁左衛門』が楽しみになった。
 ハードディスクに録画し、のんびりできる時間を見つけて、ゆっくり見ている。

 

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 もとは、BSプレミアムで、2013年から放送されていたものらしい。
 いま流れているのは、その再放送だ。 
 
 原作は池波正太郎
 これまでも、何度も映画化・ドラマ化が試みられた人気作品だという。

 

 どういう話か。

 

 徳川吉宗の治世であった享保年間。
 「雲霧一党」と呼ばれた盗賊の一味がいた。
 首領の名は、「雲霧仁左衛門(くもきり・にざえもん)」(中井貴一)。

 

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 彼らは、けっして人を殺さず、誰も傷もつけず、しかも不正を働く大金持ちからしかカネを盗まない。
 だから、「盗賊」と言われつつも、庶民から慕われている。

 

 雲霧一味には、ライバルがいた。
 治安組織の火付盗賊改方(ひつけ・とうぞく・あらためがた)だ。
 そのリーダーの名が「安部式部(あべ・しきぶ)」(國村準)。

 

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 ドラマは、雲霧仁左衛門と、この安部式部の執念の戦いを軸として進行する。

 

 ともに知恵者。
 両者とも、常に相手の出方を予測し、お互いに裏をかこうとして秘術の限りを尽くす。
  
 このやりとりが実に面白い!

 

 二人とも部下思いの良きリーダーだから、それぞれの部下たちも必死になって親分に忠誠を尽くす。

 

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 雲霧と式部の間には、いつしか、お互いを信頼する心が芽生える。しかし、「泥棒」と「取り締まり方」だから、どちらも手を抜くわけにはいかない。

 

 主役の中井貴一もカッコいいが、それを追う國村隼(くにむら・じゅん)の演技がいい。
 私は、昔からこの役者が大好きで、彼の出る作品は見逃さないようにしていた。

 

 リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』(1989年)では、鬼気迫る悪役を演じた松田優作の一の子分として、これまた身の毛のよだつような悪人になりきって、観客の度肝を抜いた(写真下)。

 

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 北野武監督の『アウトレイジ』(2010年)では、私利私欲ばかり追う嫌らしいヤクザの親分を好演した。

 

 『シン・ゴジラ』(2016年)では、実直な統合幕僚長を演じていた。
 良い役も悪い役も上手にこなす役者だ。
 末永く素敵な役を演じ続けてほしい人だ。

 

 
 この『雲霧仁左衛門』というドラマの特徴は、映像美にある。
 光と闇のコントラストが実に美しいのだ。
 
 電灯などあるわけもない江戸時代。
 昼間でも、屋敷の奥座敷には十分に光が届かない。

 

 普通の時代劇では、光の届かない屋敷の奥までライトを回らせ、<闇>を消し去った平板な映像で終わらせるところだが、この『雲霧 』では、<闇>の部分を美しく残し、江戸時代の “空気感” を見事に再現している。

 

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 目を見張るのは、障子の “描き方” だ。
 障子のふっくらとした白さの向こうに、庭の木々が影を落とす。

 

 透明ではないのに、外の光景が “気配” として透過される日本式「窓」
 こういう室内造形は、西洋のガラス窓ではまず実現することがない。

 

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 谷崎潤一郎が昭和8年(1933年)に執筆した『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』では、日本座敷の美学をこう説明している。

 

 「もし日本座敷を一つの墨絵にたとえるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。
 われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して、おのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にもまさる幽玄味を持たせたのである」

 

 要は、日本の座敷というのは、モノクロの濃淡の美しさを追求したものだ、というわけだ。
 光の当たった場所から、光の絶えた部屋のすみまで、そこには無限のグラデーションが存在する。

 

 その<光と闇>の配分にこそ、「美」が宿る。
 『陰翳礼讃』とは、そういうことを追求した書物である。

 

 もし、西洋のガラス窓のように、戸外の光をそのまま透過してしまうと、何もない場所は、「モノの不在」をそのまま伝えてしまう。

 

 谷崎潤一郎は、それを「虚無の空間」と呼んだ。

 

 しかし、日本の座敷は、虚無そのものを遮蔽する。
 つまり、<光と闇>が美しく融けあう空間を残すことによって、人間が、そこに不可視の何かがあるような錯覚を抱くよう、誘導していく。

 この「錯覚」を、すなわち「幽玄」という。

  

 
 ドラマ『雲霧仁左衛門』の映像スタッフが、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を意識していることは明白である。

 

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 そのため、このドラマは、まさに江戸時代の “空気感” を創造することになった。

 

 江戸の人々の暮らしは、現代人よりも豊かであったかもしれない。
 『雲霧仁左衛門』の世界は、それを伝えてくる。

 

 障子を通して伝わってくる座敷の光の美しさ。
 

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 川面に乱舞する陽の光の躍動感。

 

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 ここで再現されているのは、近代人が忘れてしまった「美しくもリアルな江戸」だ。

 
  
 谷崎潤一郎は、金や銀といった「光り輝く装飾品」もまた、暗い空間の中で鑑賞するものだという。

 

 たとえば黄金色に包まれた能舞台や、きらびやか能衣装。

 

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 今日のわれわれは、能を観るときも、近代的なライティングのもとで鑑賞する。
 しかし、昔は松明や燭台の灯りのなかで鑑賞した。

 

 能役者のきらびやかな衣装や黄金の舞台は、適度な暗さがあってこそ、はじめて荘厳な輝きを発揮する。
  
 「能につきまとう暗さと、そこから生じる美しさは、昔は、さほど実生活とかけ離れたものではなかったろう。
 能役者たちの着ていたものも、当時の貴族や大名の着ていたものと同じであったろう」

 

 そう書いて、谷崎は、
 「昔の日本人が、とくに戦国や桃山時代の豪華な服装をした武士などが、今日のわれわれに比べて、どんなに美しく見えたであろうかと想像すると、思わず恍惚となる」
 と告白する。

 

 昔、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)という映画を見たことがあった。
 モノクロ映画であった。

 

▼ 「雨月物語

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 しかし、不思議なことに、そこに登場する魔性の姫君が身に付ける衣装は、どんなカラー映画よりも、雄弁に黄金色の輝きを放っていた。

 

 谷崎は、
 「建物の奥の暗がりにある、金屏風や金のふすまや仏像は、夕暮れの地平線のような沈痛な美しい黄金色を投げかけている」
 と書く。
 実に “詩的な” 表現である。

 
 『雨月物語』といい、この『雲霧仁左衛門』といい、優秀な日本人スタッフは、闇の奥を照らす光の美しさを見逃していない。 

 

 

手越はジャニーズ最後のヤンキーだった

手越祐也のジャニーズ退所記者会見というのをずっと見ていた。

 

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 いい男である。
 よくしゃべる。
  という印象だった。

 

 この人がなんでジャニーズを辞めるようになったのか、よく知らない。
 ファンや芸能人仲間からどういう評価を得てきた人なのか、ということもよく分からない。

 

 ただ、ひとつ。
 この人は、「ジャニーズ最後の “ヤンキー” 」だったんだな ということだけはよく分かった。

 

 「不良」とかいう意味ではない。
 反抗的 という印象も、少なくとも記者会見を見ているかぎりは感じなかった。

 

 ただ、事務所の顔を立て、仲間に気を使い、ファンに詫び という気の回し方の裏に、ヤンキー特有の「オレオレオーラ」が沸騰してくるのを感じた。

 

 ヤンキーの基本文化のひとつに、人が見ているときは、いつだって「パワー全開」というのがある。

 

 ヤンキーが「マイルドヤンキー」と言われるようになって、エグさや、キワドさが薄味になってきたとしても、社会や職場、学校といったシステムを「斜に構えて」眺める態度。すなわち、エリートたちをあざけるようにパワー全開で挑む精神にこそ、ヤンキー魂の真骨頂がある。

 

 彼の場合、「行儀のいいエリートたちの巣窟」が今のジャニーズであった。
 
 ジャニーズが多種多様な若者たちが集まる雑然としたアイドル組織であったのは、もう昔の話。

 

 最近のジャニーズには、飼いならされた若者たちの集まりに化し、まるで、エリートサラリーマンばかり選ばれたような “高学歴オーラ” の集団になりつつあった。

 

 小説家として二足のワラジを履く若者。
 深夜のニュース番組でキャスターを務める若者。
 クイズ番組に出場すれば、これまでのレギュラー出場者たちをよそに、視聴者も分からないような難問をさらりと解いたりする若者。

 

 今の指導部の方針なのかどうか知らないが、最近のジャニーズは、ものすごい勢いで “知性派・ジェントルマン路線” に舵を切ろうとしていた。

 

 もちろん「ジャニーズ」という看板を背負った子供たちだから、みな無類のイケメン。
 爽やかな清潔感もあり、行儀もいい。

 

 そういう今風ジャニーズのなかで、やっぱり手越君は異色だった。

 

 もちろん彼も早稲田大学中退という学歴ブランドを持っているし、記者会見で2時間の長丁場を、ほぼひとりで語り尽すというトーク力もある。

 

 しかし、彼は、はっきりと、今のジャニーズが求める「高学歴・ジェントルマン」路線に決然と異を唱えた。

 

 「これからは自分のやりたいことをやる」
 という宣言は、まさに、
 「ジャニーズにいるかぎりは許されなかったことをやる」
 という意味だ。

 

 それは、SNSYOU TUBEを使った情報発信だというが、具体的には何をやりたいかということはほとんど見えてこない。
 「女性向けブランドをデザインして立ちあげる」
 という趣旨のことを語っていたが、それが何なのかは、今のところはっきりしない。

 

 ただ、彼は、
 「俺は、今のジャニーズ事務所が強制するものなどに従う気はない」
 と宣言したかったのだ。

 

 品行方正な知的路線なんて、クソくらえだ!
 俺がやろうとすることこそ、正統派ジャニーズのメインストリームだ。

 

 彼は、にこやかに、さわやかに言い切った。 

 

 それは何か?

 

 「ジャニーズとは、ファンの女の子に、モテて、モテて、モテまくることで生命力を発揮してきた組織なんだ」

 「ジャニーズは、モテることがすべてだ!」
  


 記者会見の席で、彼は、そのチャーミングな笑顔とよどみないトークで、まさに、そう “絶叫” したのだ。

 

 それをアピールする格好の場として、コロナの猛威が吹き荒れる外出自粛期間中、複数の女性を伴って飲みに行くという舞台を用意したのだろう。

 

 バカである。
 反知性的である。

 

 ただ、彼は、ジャニーズ最後のヤンキーとしての色気と意地を見せたように思う。

  

 

ちょんまげコント 鬼退治/水戸黄門最後の旅

鬼退治
 
犬・猿・キジ  「わぁーい、桃太郎さん! 鬼退治に連れていって!」
桃太郎     「よしよし。殊勝な心がけじゃ。首尾よくいったらキビ
         団子をあげよう」

犬・猿・キジ  「なんか話が違うなぁ 。キビ団子は行く前にくれるん
         じゃなかったの?」

 

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桃太郎    「キビ団子は成功報酬じゃ。成功する前から報酬を出す
        なんて契約は、最近はないぞ」

犬・猿・キジ  「わかったよ。で、鬼とどうやって戦うの?」
桃太郎    「寝込みを襲うんだ。皆殺しだ! でも美しい女の鬼は、
        裸にして縛って、風俗に売りとばす。儲かるぞぉ!」

 

犬・猿・キジ  「 やっ ぱ、俺たちここで帰ります」
 

 

水戸黄門 最後の旅

 

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黄 門  「これ、悪人たち、この “葵の御紋” が目に入らぬか!
         ふにゃふにゃ
悪人たち 「お客さん、そりゃ困りますぜ」

 

黄 門   「助さん角さんや、葵の御紋も通じない時代になったん
       かの? ふにゃふにゃ
助・角   「おそれながら、船着き場では印篭を見せるより、やは
       り、船賃を払われた方がよいかと思われますが

 

黄 門   「昔と違って、ずいぶんせちがらい世の中になったもん
       じゃのぉ
助・角   「違うだろ!」
 
 
三河

 

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代 官 「おい “三河屋” 。最近、 “越後屋” の様子がおかしい
     と思わぬか」
越後屋 「おそれながら、手前どもは “越後屋” でございます」

 

代 官  「おっとそうか。では “越後屋” に聞くが、最近 “三河
      屋” の様子がおかしいと思わぬか」
越後屋 「おかしいとは、どのような意味でお尋ねでありましょ
     うや?」

 

代 官 「わざと店の名前をあやふやにして、まぎらわしくさせ
     ている気配がある」
越後屋 「 ………

 

代 官  「そうは思わぬか? “三河屋”」
越後屋 「思いませーん!」

 

 


 

レールのある風景(RAILWAYS)

 中井貴一が主役を務める映画『RAILWAYS(レイルウェイズ)』(2010年公開)を観た。
 BSのWOWOWで。
 途中からなんだけど。

 

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 49歳の男性がエリートサラリーマンの生活を捨て、故郷に戻って、小さい頃からの憧れであった「電車の運転手」としての再スタートを切る話。

 

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 悪人の出ない映画で、親子の絆、夫婦のコミュニケーション、電車の乗客や地元の人たちの交流などが、淡々と、しかし温かい筆致で描かれる。
 
 実に退屈な設定。
 だけど、随所にふと目頭が熱くなるような、人間の交わりの美しさが丹念に描写されている。
 地味だけど、いい映画だと思った。

 

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 “主役” は、島根県を走る単線のローカル電車。
 この電車の走る情景が、映画のほぼ半分くらいを占める。
 そういった意味で、これは鉄ちゃん・鉄子のためにつくられた映画なんだろうな、と思う。

 

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 私は鉄道趣味というのがないので、どうして鉄道に人を惹きつける力があるのか、そのことに興味は感じても、それを実感するには至らなかった。
 しかし、この映画を観て、なんとなく鉄道を愛する人たちの気分というものに少し近づけたような気がした。
 
 もちろん、筋金入りの鉄道ファンからすれば、見当違いの感じ方なのかもしれないけれど、ひとつ言えるのは、「レールのある風景は美しい」ということだった。
 
 無人駅のような駅舎が連なる地方の単線電車だから、当然、田舎の風景が中心となる。
 畑が広がる。
 山が見える。
 海もときどき現れる。
 
 街中を走るときも、くすんで、少しさびれた、時代の進歩から取り残された地方都市の風景が車窓の外を流れていく。
 
 その情景がみな美しい。
 高度成長と自動車の普及によって失われてしまった日本的風景の原型が、レールの両側だけに、かろうじて踏みとどまって残っているという感じがするのだ。

 
 この映画で描かれた人情話が、ひとつのリアリティを獲得しているのは、まさに「鉄道を主役にした映画」だったからだという気がする。

 

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 つまり、鉄道が交通機関の主役であり、それが人と物を搬送するだけでなく、「人の心」も搬送していた時代に対するノスタルジーが、この映画には凝縮している。
 
 もし、これが「自動車」を軸として展開する映画だったとしたら、どうなるだろうか。
 たぶん、ここで描かれる人情話は、もっと切実な現代的テーマをはらみ、親子の断絶や、会社の人間関係の複雑な相克を描き込まざるを得なかったろう。
 
 しかし、この映画では、舞台を “レールの上” に設定したおかげで、人と人との細やかなつながりをストレートに訴える力を得ている。

 

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 その差はどこから来るのか。
 
 「歴史」の差かもしれない。
 
 鉄道の歴史は、蒸気機関車が始めて走った時代から数えて、約200年。自動車の歴史は、ヘンリー・フォードガソリンエンジン車を産業化してから、約100年。
 
 その100年の間に、世界の産業構造はガラッと代わり、人々のライフスタイルも感受性も劇的に変化した。

 

 鉄道の時代に、人々が有機的な連帯を保っていたコミュニティ社会は、自動車の時代になると、むしろ地域的・血縁的コミュニティからの独立を果たそうとする個人を圧迫するものとして、意識されるようになる。

 

 自動車は、「近代的な個人」を目指す人々が、古いコミュニティ社会の束縛から自由になるための移動手段として意識されることによって、大衆化した。

 

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 人間のライフスタイルや感受性は、その時代の先端的な産業構造の影響を受けざるを得ない。
 
 しかし、人間の文化は、千年単位の生活様式が重層的に積み重なって出来ている。

 

 だから、自動車社会の時代の真っ只中を生きるわれわれにも、「文化としての鉄道」は生きている。鉄道の時代からつちかわれた「人と人との交流様式」は、決して滅びてはいない。


 
 映画の中では、運転手の中井貴一が、酔っ払って家に戻れなくなった客を介抱するシーンや、ホームの上に荷物を落とした客を助けるために、業務を忘れて、いっしょになって荷物を拾うシーンがふんだんに出てくる。

 

 のんびりしたローカル電車の乗務員だからこそできることかもしれないけれど、見ていてウソ臭くない。素直に「いいなぁ 」と感動できるシーンになっている。

 
 
 たぶん、このような “善意” を、誰もがイライラ走らざるをえない自動車道路の上で見せられると、その偽善性・欺瞞性の方が先に鼻につくはずだ。

 

 交通手段としての主役を、すでに自動車に譲ったがゆえに見えてきた「優しさ」が、レールの世界にはあるのかもしれない。
 
 そういう「優しさ」を運んでいく電車が通る風景は、美しい。

 

 

誰か『ワンピース』の面白さを教えてよ

 BSのWOWOWシネマで、『ONE PIECE(ワンピース)』の劇場版アニメを延々と放映していた。

 

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 コロナ禍のせいか、最近のWOWOWシネマは、ステイホーム中の “子供&若者” 向けの企画ばかりで、私のような年寄りにはまったく面白くないのだけれど、そういうときに、1日中『ワンピース』を流されてしまうと、やっぱりちょっとやりきれない。 

  
 この作品を、どう楽しめばいいのか。
 もし、上手に解説してくれる人がいたら、ぜひ楽しみ方を教授してもらいたいと思っている(皮肉とか挑発で言っているわけではない)。

 

 いうまでもなく、『ワンピース』は、日本の若者の大半に愛されている “国民的コミック” である。 
 Wikipedia によると、この漫画の累計発行部数は(2020年4月3日データによると)4億7000万部を突破しており、「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネスの世界記録に認定されているのだとか。

 

 だから、もしこの漫画(およびアニメ)を批判したりしたら、たちまち大炎上ということになりそうだ。

 

 でも、私は、この作品を好きになれない。
 その理由をちょっとぐらい書いてみたいという衝動に駆られている。

 

 これまで私は、この「はてなブログ」においては、多くのファンを持つような作品をなるべく批判しないように心がけてきた。
 私にとって、「自分の趣味には合わない」と思える作品であっても、世の中には、それをこよなく愛しているファンたちがいる。
 
 そういう人たちは、好きな作品を他人にけなされたりしたら、悲しくなるだろうし、傷つくだろうし、腹も立つだろう。

 

 それは十分に分かるのだが、それでも私は、このコミック(というか)アニメの絵をまったく好きになれない。
 ま、見なければいいだけの話なんだがな 

 

 そう突っ込まれることは分かっているのだが、長いことディズニーアニメや、ジブリ系や、押井守の『イノセンス』のような絵を愛してきた私としては、『ワンピース』の絵には得も言われぬ違和感を感じてしまうのだ。

 

 いったい、なぜ作者(尾田栄一郎氏)は、このようなタッチの荒い線画にこだわるのだろうか?

 

 主人公のルフィの目は、ものすごくシンプルな円形。
 瞳は “ナカグロ(黒点)” 。
 その円形構造が、喜怒哀楽に応じて直径を伸ばしたり、縮めたりするだけ。

 

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 口は両頬に達するほど大きく、笑っても、怒っても、上下の歯ががっちり噛み合っていることが多い。
 つまり、基本的にルフィという人間は、いつでも歯を食いしばっているのが常態ということを暗示している。
 
 他の登場人物も基本的に同じ。
 シンプルな線画で、丁寧さよりは粗さが強調される。

 

 自分の好みを優先してしゃべる機会を与えてもらえるのなら、私はまずこの荒いタッチの人物造形が好きになれないのだ。
 そこにキャラクターの内面の貧困さが露呈しているように見えるからだ。
 
 ま、それは個人の好みの問題だから、私がそう言い切っちゃうと『ワンピース』の信奉者は腹立たしい気分になるだろうけれど、嫌われることを覚悟ではっきり繰り返す。

 

 「俺は、この漫画に出てくるキャラクターたちの “顔” が嫌いだ!」

 

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 彼らの表情はみな怖い。
 ルフィの仲間であるサンジやロロノア・ゾロは、常に相手を威嚇しているようにしか見えない。


 才色兼備の美女とされるナミも、絵が荒いだけでなく、男に対する態度が荒いし、言葉もきつい(ツンデレ狙いなんだろうけれど)。

 

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 だから、最初に観たとき、そういう人物たちが、ルフィの仲間ではなく、みな敵役だと勘違いしてしまったほどだ。
 
 彼らは、仲間同士が声をかけ合うときも、物腰が荒く、表情も言葉も優しくない。
 だからこそ、逆説的に、表面に現れない仲間同士の絆の強さを強調することになるのだが、こういう感情表現って、基本的にヤンキーである。

 

 このアニメを観ていて、すぐに感じたのは、ヤンキー文化だった。
 「考えるな、感じろ」の世界。

 

 「自分が幸せかどうかは、夢を持てるかどうかで決まる」
 「大事なのは、冷静さではなく、気合」
 「法や道徳的規範よりも、仲間の絆が大事」

 

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 「ワンピース」の中心にドカッと居座っているのは、このようなヤンキー文化だ。

 

 特に、ヤンキー気質のなかでも「気合」は何よりも尊いものとされ、体も小さく、さほどクレバーとも思えないルフィが主人公でいられるのは、「気合」の激しさで、一個人の限界を超えた力を発揮するからだ。

 

 ヤンキー的なノリは、ルフィに限らない。
 仲間全体がそうだ。
 基本的に “麦わらの一味” は喜ぶときも、騒ぐときも、さらには戦う前でも、常にアゲアゲ・ノリノリの「テンションMAX」。
 恒常的に躁状態でいるのが、彼らの特徴である。

 

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 日本に、現在のようなヤンキー文化が定着したのは、1990年代だといわれている。

 

 それ以前の若者には、他者を威嚇して犯罪を犯すような “不良グループ” しかいなかった。

 しかし、1990年代になると、その不良グループが形を変え、強面(こわもて)キャラを維持しつつも、お茶目で、和気あいあいと仲間同士のコミュニケーションを楽しむ今のヤンキー気質を見せるようになってきた。

 

 「ワンピース」の漫画連載が始まったのは、1997年。
 まさに、ヤンキー文化の興隆と期を同じくしている。

 

 両者には、どういう関係があるのだろうか。

 

 ネット情報によると、過去に、NHKの『クローズアップ現代』という番組で、「漫画 “ワンピース” メガヒットの秘密」という特集が放映されたという。

 

 それによると、そこに登場した解説者が、
 「『ワンピース』の魅力は、登場人物が仲間を大切にするところ、仲間のために敵に立ち向かうところにあり、それこそ『ワンピース』が連載された時代の世相と関係がある」
 といったそうな。

 

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 どういうことか。
 そのネット情報を多少意訳しながら、紹介してみる。 
 
 「『ワンピース』の連載が始まった1997年というのは、日本ではバブルが崩壊し、経済が停滞した時期だった。

 このときに、「就職氷河期」という言葉が生まれ、やっと就職した若者も、企業の終身雇用制の廃止やリストラの実施で、閉塞感につつまれていた。

 これまでの価値観がそうやって崩壊していくなかで、若者が努力しても報われない社会状況が進み、『ワンピース』のように、挫折やトラウマを抱える登場人物たちが、仲間との絆を強めながら過去の欠落感を埋めつつ未来に向かっていくという話が読者の共感を誘った


 NHKはそう言ったらしいが、たぶん、この分析は外れていないだろう。


 というのは、(最近ずっとブログで書いてきたことだが)、1990年代は、日本人を取り巻く社会環境がドラスティックに変化し、それに応じて、日本人の価値観や人生観がガラッと変わった時代だったからだ。

 

 慶應大学経済学部の井手英策教授(写真下)は、あるテレビ番組(BSフジの「プライムニュース」)で次のように語っている。

 

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 「90年代の後半に、日本社会や日本経済は劇的に変わった。政治・経済・社会・文化のデータを見ると、どの分野でも、驚くほど一斉に変わったことが分かる。

 この時期、日本はグローバルな経済戦争に巻き込まれ、その過酷な競争のなかで日本企業はひん死の状態にあえぐことになった。

 

 さらに、バブル崩壊によって、土地の地価が下がり、銀行の融資を受けようとしても土地の担保価値がどんどん減少していった。

 

 (そのため)96年から97年にかけて、日本の各企業は内部留保を増やす方向に舵を取った。(つまり)人件費を削って、非正規雇用を増やしていく方向にはっきりと転換した。

 このときの自殺者の数は33,000人に達した。それは雇用の場を奪われた人々の悲鳴だった。
 そのすべてが、グローバリズムの中で生き延びるという国際競争のなかで起こった悲劇だった
  


 この時期、格差社会の下層に甘んじなければならない若者が大量に生まれた。
 『ワンピース』は、そういう時代に登場した作品だった。

 

 この物語の主人公たちが “海賊” であることは象徴的である。
 つまり、社会のエリートコースに進むことをあきらめざるを得ない若者たちに対して、この漫画は、アウトローである海賊のように、優等生的な規範の “外” に飛び出す勇気と夢を与えることになったのだ。

 

 

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 そういう漫画(&アニメ)だけに、ネットに出てくる『ワンピース』をめぐるファンの言論は、少し宗教がかっている。
 つまり、“神マンガ” として熱狂的に崇拝する人たちの熱気がすさまじいのだ。

 

 ごく一部だが、この作品に対して批評的な意見を述べたブログもあった。

 

 そのブログ主は、『ワンピース』という作品に対して、
 「“信念と叫び” ばかりが強調される無内容な作品。主人公のルフィの心情を占めているのは、空虚な精神論だ」
 という結論でしめくくっていた。

 

 案の定、この記事は真っ赤に炎上した。
 あらんかぎりの罵詈雑言が、そのブログ主の記事に書き込まれた。

 

 いわく、
 「“人気漫画を否定してる俺カッコイイ” っていう典型的な奴ですね(笑)」

 

 いわく、
 「論ずるのであれば、全巻(100巻近い)を読んでからすべきだと思いますよ」

 

 いわく、

 「嫌いなら嫌いでいいけれど、ネットで批判するなよ。チラシの裏に書いてろよ」
 
 いわく、
 「面白くなかったら売れてねーよボケナス、頭おかしいんじゃね?」

 

 いわく、
 「あんたが時間かけてこの小さいアンチ記事を書いて『ONE PIECE』に噛み付いてる同じ時間に、(作者の)尾田は世界規模で評価されてる漫画の原稿を描いて、とっくに一生遊んで暮らせる金を稼いでるんだぜ。
 人の書いたものを批評してるヤツが何言っても、説得力ないんだよ」

 

 まだまだ批判コメントは続くが、内容は大同小異であった。


 基本トーンとして、「売れたものこそ正義」というジャッジがそこで働いているようだった。

 コロナ禍のまっただ中で外出自粛規制が発令されたあと、営業を続けるパチンコ店などにネット上の批判が集中したが、その “正義感” に近いパワーがそこには漂っていた。

 

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 『ワンピース』の連載が開始されてから、約25年。
 イメージとしての “海賊” に鼓舞された若者たちは、いま35歳から45歳ぐらいになっている。

 

 ネット情報によると、今の『ワンピース』の読者層の9割は大人だという。
 そのコアとなる読者層は、20歳代から40代半ばまで。 
 一般的に、ジブリアニメを愛した世代より10歳ほど若い。

 

 ジブリ作品の場合は、『風の谷のナウシカ』が1984年。『天空の城 ラピュタ』が1986年。『となりのトトロ』が1988年。

 

 現在も語り継がれるジブリの初期の名作といわれるものは、いずれも1980年代に登場しており、その作品に接したファン層も、1990年代後期に登場する『ワンピース』より1世代古い。

 

 10年の違いでしかないが、80年代のジブリと、90年代の『ワンピース』がそれぞれ背負っている “世界観” はあまりにも違う。
 
 『ワンピース』のファンは、物語の背後に貫かれている世界観の深さを強調したがるが、それはジブリ系作品と比較した上でのことだろうか。
 
宮崎駿もののけ姫

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 これは、私の個人的感想だが、ジブリ作品は観客に「宿題」を残す。
 たとえば、『もののけ姫』を観た後には、
 「文明と自然は共生できるのだろうか?」
 「人間という存在は文明なのか? それとも自然なのか?」
 などという宿題を渡された。

 

宮崎駿風立ちぬ

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 『風立ちぬ』を観た後は、
 「国家が戦争に向かうとき、技術者には何ができるのか?」
 「技術者や科学者に戦争を止めることは可能なのか?」
 といった宿題を与えられた。
 
 しかし、『ワンピース』には宿題が何もなかった。
 「悪人が退治され、仲間がみな帰ってきて、めでたしめでたし」
 で終わってしまったのだ。

 

 エンターティメントはそれでいいという意見もある。
 “芸術” ならば、作者からのメッセージも必要だろうが、エンターティメントには観客の頭を悩ませるようなメッセージは不要だという人が多い。
 
 事実、『ワンピース』の原作者である尾田栄一郎氏自身が、
 「世の中に対してどうこう言うような難しいメッセージは、作品に持ち込まないようにしている」
 と言っているのだから、ジブリ系アニメのような思想性を『ワンピース』に求めるのは “お門違い” ということになるだろう。

 

 まぁ、世の中にいろいろな作品があっていい。
 芸術的な嗜好が強い人もいれば、エンターティメントにのみ関心を寄せる人もいるからだ。

 

 ただ、自分がアニメを鑑賞するなら、ジブリ系の方が好きだ。

 

 さらに好みをいえば、自分が思っている日本のアニメの最高傑作は、(現在のところ)2004年に押井守が制作した『イノセンス』だ。
 たぶん、ここで追求された映像美は、21世紀アニメの金字塔となるはずだ。

 

押井守イノセンス

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