超傑作と超駄作は「珍しさ」において並び立つ?
『戦国自衛隊1549』
土曜日の午後(2020年6月27日)、『戦国自衛隊1549』がWOWOWシネマで放映されていた。
突っ込みどころ満載の映画だった。
『戦国自衛隊』は、1979年と2005年に二度映画化されており、79年のものは、荒唐無稽な話ながら、それなりに楽しんだ記憶がある。
戦国時代に飛ばされてしまった自衛隊の隊長役を務めた千葉真一と、長尾景虎を演じた夏八木勲らの好演もあり、ドラマとしての骨格も備わっていた。
しかし、その後の2005年の制作されたこの『戦国自衛隊1549』は、一言でいうと、「映画もここまで駄作になれば、シリアスドラマというより “ギャグコメディ” になる」というシロモノだ。
(制作された方々やファンの方には、本当にごめんなさい!)
1作目は、自衛隊員が戦国時代に紛れ込んだことへの戸惑いと開き直りの描き方に、それなりの説得力があったが、2作目にはそういう不条理感もなく、あっけなく過去に飛んでしまうので、そのお手軽さに唖然とする。
そして、次はどこで破綻するのか? ということだけを期待して、逆にワクワクする。
2作目(1549)のストーリーは次の通り。
時空の乱れによる事故によって、過去の世界にまぎれ込んでしまった自衛隊グループを救出するために、江口洋介主役の元自衛隊員を中心とした救助隊がプラズマの乱れ(?)を利用して、過去の世界に向かう。
しかし、たどりついたその世界では、訓練中に遭難したはずの自衛隊のリーダー(鹿賀丈史 ↓)が、戦闘中に殺した織田信長に成り代わって日本制覇をもくろんでいた … 。
このニセ信長が、救助にきた江口洋介たちを仲間に抱き込もうとするわけだが、
江口たちは、
「あなたの取ろうとしている行動は、歴史を改ざんすることにつながり、21世紀の日本を滅亡させることになる」
と厳しく批判。
両者はやがて戦国のサムライたちを巻き込んだ対決に進む。
それなりに作れば、けっこう面白くなりそうな話なのだが、脚本家が歴史に疎かったのか、このニセ信長を取り巻く環境が実に変。
信長を支える幕僚は、遭難したときにそのリーダーに従っていた自衛隊の部下だけ。
柴田勝家や佐久間盛信はどこに行ったのだろう? 彼らは本物の信長と一緒に殺されたのだろうか。
また、尾張の信長を継ごうと思っている人間が、尾張とは縁もない富士の裾野に孤立した砦を構えているというのも不思議。
その砦には商人や町民の姿も見えず、およそ生活観というものが感じられない。
町民や農民を支配してこそ「大名」なのに、このニセ信長は何を考えて富士山麓のちっぽけな砦に立てこもっているのだろう?
また、領国支配をしているようには見えないのに、自分や部下たちが食べるご飯代をどうやって捻出しているのだろうか。
ことさら突っ込みを入れる気持ちなどなくても、素朴な疑問がごく次々と湧いてくる。
最大の謎は、やはり元自衛隊のリーダーが、なんで信長に成りすまそうとしたのかが分からないことだ。
▼ ニセ信長
ヘリコプターや戦車という近代兵器を駆使して戦国時代を勝ち抜こうというのなら、別に信長に成り代わる必要もないからだ。
このニセ信長、「腐りきった平成の世を、この時代からやり直していく」という。
しかし、そういう大義名分を持っているのなら、なにも信長などにすり替わることなく、自分の素性を堂々と民に明かして、新しい大名として天下を統一すればよかったのではないか。
それに、この時代から「腐りきった平成の世を直す」なんて、ずいぶん遠回りした話じゃないの?
江口洋介たちが案内される砦に入ると、天守閣の後ろには巨大な石油採掘工場がそびえている。(富士の裾野で原油など採れるのか?)
この奇妙に近代化された風景がひとつの見せ場であり、時代が歪んだ方向に向かっていることを説明するショットになるはずなのだが、ハリウッドの歴史大作映画などに慣れてしまった人間からすれば、映像表現がお粗末で見ていられない。
設定の手抜き加減と同時に、役者たちの演技も貧しい。
江口洋介や鈴木京香がどう見ても自衛隊員に見えないというのも困ったものだ。スポーツジムの指導員と、そこに通ってくる奥様という役柄がいいところだ。
だからこの二人が、“歴史の歪みを元に戻す” ために奔走する姿が、ダイエットに励む奥さんと、それを指導するトレーナーが一緒にジョギングしている姿にしか見えてこない。
映画を支える “世界観” も薄っぺらい。
戦闘などで死んでいく人間たちが、
「お前は生きろ。俺がここで敵を支えるから逃げろ」
… 的な自己犠牲精神をやたら発揮するけれど、そういう見え透いた “お涙頂戴” の設定に鼻白んでしまう。
あまりにもバカバカしい展開で、さすがに途中で観るのをやめてしまった。
その後インターネットに寄せられているレビューを少し読んだが、あらゆる方面から、これだけ酷評されている映画というのも珍しかった。
ま、それもある意味で、日本の映画史に残る作品なのかもしれない。珍作・迷作として。
(制作された方々には、こんなことを書いて、ホントにごめんなさい)