アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

海辺の叙景(つげ義春の「夏」)

  

 つげ義春は、“夏の漫画家” である。
 
 彼の重要な作品、もしくは、作品の中の重要な部分には、必ず「夏」の気配が深く刻印されている。
 もちろん彼は、夏ばかりを作品の “舞台” として選んでいるわけではない。
 木枯らしの吹く晩秋を描くこともあれば、粉雪の舞い散る冬を描くこともある。
 
 しかし、作品世界を構成するキーとなる箇所には、必ず夏のべったりとした匂いが立ち込めている。
 
 たとえば、つげ義春の作品が、多くの読者を獲得し始めた頃の代表作のひとつ『紅い花』。
 釣り人である主人公が、山中のさびれた土産物屋で店番をする不思議な少女と出会う話は、むんむんとむせ返るような盛夏の中で繰り広げられる。

 
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 少女は初潮を迎えようとしている。
 そのときの少女を襲う身体が重くなるようなけだるさ。
 まさに、サナギ(少女)が蝶(女)に生まれ変わる前の不安定な状態そのものが、「夏の空気」の形を取ってねっとりと表現されている。

 
 
 つげ義春の描く夏は、いつも時間が止まっている。
 万物が狂おしく生命を謳歌する盛夏であっても、そこには奇妙な静寂が辺りを領している。
 彼の描く夏には、誰にも埋めることのできない白っぽい穴が、ぽっかりと空いている。
 
 たとえば、自分の見た夢をモチーフにして描いたといわれる『夢の散歩』。
 

 
▼『夢の散歩』(1972年)

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 道路も、並木の彼方に広がるはずの遠景も大胆に省略され、おそろしくシンプルな構成になっている。コマのいちばん中核を占めるスペースには何も描かれていない。
 この白さが、この世のすべての「影」を「熱」で溶かしてしまうような、夏の陽のまぶしさを表現している。

 
 
 つげ義春の描く、夏は、けっして生命力が燃え盛る能動的な季節ではない。
 むしろ、生命が生気を失って、けだるさに包まれるアンニュイの季節だ。
 そこでは、夏の陽射しに射すくめられるように、周りのものが動きを失い、物音が絶え、「死」にも近い「眠り」が忍び寄ってくる。
 

 

▼『散歩の日々』(1984年)

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 動きが止まるから、遠くにわき起こる入道雲に視線が吸い寄せられ、音が途絶えるから「チリン」と鳴る風鈴の音や、「ミーンミーン」と鳴くセミの声だけが際立つ。
 
 そのとき、「夏」は、単なる四季のなかの1シーズンという役割を超えて、別の世界へ通じる「扉」に変貌している。
 

 
 夏が旅立ちにふさわしい季節であるのは、人の魂が「夏の扉」を開いて地上から離れるからだ。
 そのことを象徴的に語った作品が、つげ義春の『海辺の叙景』(1967年)である。
 
 舞台は、夏の海水浴場。
 享楽的に過ごす海水浴客たちに対して、ぽつんと距離を置くように、一人の青年が砂浜に座っている。
 彼は、「日陰のもやしみたいだから、黒くなれ」と母親に誘われて、夏の海にしぶしぶやってきた男だ。

 

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 その場違いな雰囲気だけで、彼の「社会」に対するスタンスのようなものが浮かび上がってくる。
 シャイなわけでもなく、人間嫌いなわけでもないのに、なぜか他者とのつながりを器用に結べない青年の孤独が、その表情にも、海辺に座るたたずまいからも伝わってくる。
 
 青年はふとしたきっかけで、ショートヘアの美少女と口をきくようになる。
 当初、無邪気にボーイフレンドたちと海を楽しむ “当世風” の女でしかないように見えた美少女が、実は青年と同じように、どこか鬱屈した心を持てあます孤独な人間であることを彼は知る。
 

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 砂浜を離れて、付近を散歩する二人の心の距離が、次第に近づいていく。
 しかし、それは「恋」の形を取らない。
 二人の心は、お互いに傷つくことを恐れるように、「恋」の周辺を手探りで探りあうだけなのだ。
 
 なぜなのか。 
 
 二人の間に、のっぴきならない「運命」が待ち受けていることを、お互いに予感したからだとしか、言いようがない。
 
 散歩の途中で、断崖絶壁を見下ろすシーンがある。
 眼下に、禍々しい(まがまがしい)姿をさらす岩場が広がる。
 
 それは、甘い恋の予感にときめく男女が見る風景としては、あまりにも恐ろしすぎる。
 黒々としたベタで塗られた岩肌は、まるで二人を襲う巨大な獣の「足」のように見える。

 

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 青年は、「この辺りでは、水死した土左衛門がよく上がる」と少女に話す。
 また、遠くの岬を指し、
 「あの岬の下はタコの巣でね、無数のタコに襲われたら、たちまち骨にされてしまうんだ」
 と語る。
 
 少女は答える。
 「信じられないわ。タコって可愛い感じなのに」
 それに対して、
 「本当はドウモウなんです。あの鋭いクチバシを見ればわかる」
 と、青年は返す。
 
 すでに、「死」のコノテーションが、二人の会話の中に散りばめられている。
 
 散歩を終えた別れぎわに、
 「あしたも来る?」
 と、少女は尋ねる。
 「うん。たぶんお昼すぎに」
 「じゃあ ……

 
  
 しかし、翌日は一転して雨。
 小雨にけぶる海辺には海水浴客の姿もなく、海辺の貸しボート屋の軒先に律儀に座って少女を待つ青年。
 
 やや遅れて、自分でデザインしたというビキニの水着を身にまとって現れる少女。
 「勇気を出して着てきたの」
 と、彼女はいう。
 「すごくきれいだよ、すごく
 少女と同じくらいの勇気を出して、青年はそうほめる。


 
 恋愛ドラマとしてならば、ここから一気に二人の心が高ぶっていくシーンが展開するはずだ。
 
 事実、そういう展開になる。
 なのに、最後のコマで、読者は言いようのない “宙ぶらりん” の状態に追い込まれる。
  
 少女に、泳ぎの上手さをほめられた青年は、さらにその印象をダメ押しするかのように、一人で沖を目指して泳ぎ始める。
 
 最後のコマ。
 

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 見開き2ページを使った大コマに描かれているのは、水平線を重く閉ざす雲と、降りしきる雨と、猛々しく牙をむいた波と、そして、その波に今にも飲み込まれそうな小さな青年の背中なのだ。
 
 彼は、岸辺に戻る気があるのだろうか?
 
 ふと、そんな懸念すら催させるような、不思議な終わり方だ。
 
 「夏の扉」を開けて、彼は地上から別世界へ旅立った。
 そんな思いを払拭しきれない。
 
 そう思うと、青年に向かって、
 「あなたすてきよ」
 と、ささやく少女のつぶやきは、別れいく青年に対する餞別(せんべつ)の言葉のようにも響く。
 

 
 すでに発表直後から、このラストを「青年の水死」に結びつける解釈も無数に存在した。
 しかし、作者は必ずしもそのように描いていない。
 「解釈」を、作品の外に放り出したのだ。
 

 
 これは、夏という季節が、ひとつの「謎」をはらんだ季節であることを見事に描ききった漫画であると思う。
 
 もちろん、「謎」という大げさな形をとったものではないのかもしれない。
 “肌触り” としか言いようのないもの。
 世間一般でいう「感動」を拒否するような、ザラザラした違和感。
 
 しかし、その「違和感」こそが、この漫画に独特のリリシズム(叙情性)を与えている。
 

 
 優れた作品は、そのラストシーンの向こう側に、それまで見えてこなかった世界が広がっていることを暗示する。
 
 ミステリーのようなエンターティメントにおいても、謎が解き明かされ、お話としてはそこで終わりながらも、なおも薄ぼんやりとした巨大な謎が隠されているような感触を残すものがある。
 
 読み終わった後もずっと気になる作品というのは、実は、90%のカタルシスの中に、10%ほど不透明なものが残ったようなものである場合が多い。
 
 つまり、ひとつの「終わり」が、別の「始まり」を暗示させるようなもの。
 おそらく、われわれが「余韻」という言葉で表現しようとしているものは、物語が終わったところからひっそりと始まる「別の物語の予感」のことである。

 

 

さいとうたかお&白土三平

 
 9月24日に亡くなった劇画家のさいとうたかお氏に続き、この10月8日に、白土三平氏が亡くなった。
 さいとうたかお84歳。
 白土三平89歳。

 

 日をおかず、昭和の劇画界の巨人が相次いで逝去したことになる。
 ともに一時代を築きあげた人たちだった。

 

 私は、特にこの2人の劇画家に強い愛着を持っているわけではない。
 ただ、私の青春時代を振り返ると、必ずこの人たちの作り出した文化が周りに影を落としていた。

 

 特に白土三平の『カムイ伝』(&『カムイ外伝』など)は、私の周辺に集まっていた “全共闘学生” たちの愛読書だったから、彼らがキャンパスの芝生に腰を下ろし、『カムイ伝』を掲載した雑誌の『ガロ』を読みふける姿をよく見ていた。

 

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 一時、彼らの雑談は、白土三平の劇画か、高倉健任侠映画を中心に回っていた感があった。

 そこに私は時代の空気を感じた。

 

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 さいとうたかおが創造した孤独なスナイパー『ゴルゴ13』も、白土三平の『カムイ伝』の主人公影丸も、いわば反体制側で戦うヒーローたちである。
 もちろん任侠映画の主役を張る高倉健もしかり。
 彼らの行動には、学生運動が興隆して終息に向かう1960年代末期の空気が渦巻いていた。

 

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 『ゴルゴ13』の連載がスタートしたのは1968年。
 『カムイ伝』の連載を継続するために創刊された『ガロ』(青林堂)が生まれたのは1964年。

 昭和の熱い “うねり” が若者文化という流れをつくって、エンタメにも政治運動にも噴き出した時代だった。
 
 
 『ゴルゴ13』や『カムイ伝』といった劇画は、いったいどうして生まれてきたのだろうか。

 

 おそらく、劇画の描き手たちも、最初は手塚治虫からスタートしたはずだ。

 

 彼らにとって、そして(私たちのような)その下の世代にとって、1950年代から60年代初頭に大活躍していた手塚治虫こそが漫画界の最大のヒーローだった。

 

手塚治虫漫画のキャラクターたち

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 手塚漫画は、その世界観や思想だけでなく、描写力においても唯一無比のパワーを発揮していた。


 だから、劇画の描き手たちにとっても、
 「いかに手塚治虫がまだ描いていない “線” を探すか」
 ということが、大変大きなテーマだったはずだ。

 

 劇画で使われる殺伐ともいえるリアルで力強い “線” は、手塚治虫の優美で丸っこい線とは対極的なものとして発展してきたものだろう。

 

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 そして、劇画の強い線は、それに見合った内容も創造するようになった。
 すなわち、『ゴルゴ13』のような、国際紛争を生き抜くスパイたちとそれと対決するスナイパーの話だったり、『カムイ伝』の権力と戦う忍者たちの話につながっていった。


 劇画は、高度成長を驀進していく昭和の日本にふさわしいテーマをたぐり寄せたのだ。
  
  
 しかし、私自身は、このような劇画の雄大な世界観にちょっとついていけないものを感じていた。


 白土三平の描く構成のしっかりした反体制漫画は、私から見れば、ちょっと堅苦しかった。

 

 だから、同じ『ガロ』に掲載されたものでも、私は少しずつ、つげ義春的な不条理感を漂わせる作品に惹かれるようになった。 

 

つげ義春の『ねじ式

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 つげ義春の描く漫画には、白土三平の世界のような、がっちりした構成力に欠けているところがある。


 そのため、何を語りたいのかよく分からないものも多い。

 

 でも、そこが好きだ。

 今でもつげ義春は、大好きな漫画家の一人である。
  
▼ 『ねじ式

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映画『拳銃の報酬』

 

9歳のときに観た「拳銃の報酬」の衝撃

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 小さい頃、何度か親父に映画に連れていったもらったことがある。
 しかし、記憶に残っているのは、この一本しかない。

 『拳銃の報酬』(1959年)
 私が小学3年生のときのことだ。

 

 映画の原題は、「ODDS AGAINST TOMORROW (明日に賭ける)」
 ギャング映画だった。
   
 お袋が親父に向かって、
 「あなた、休日なのだから、家の中でごろごろしていないで、子供を遊園地にでも連れて行ったら」
 などと焚きつけたのだろう。
 
 お袋がこのように指示を出さないかぎり、親父は、子供に対しては不器用な男であり続けた。
  

 
 私たちは、人もまばらな午後の電車に揺られて、新宿に出た。
 「ピストル映画でも観るか?」
 親父にとって、ギャング映画も西部劇も、みな “ピストル映画” だった。

 

 彼が、本当にそういう映画を好きだったのかどうか、分からない。
 たぶん、子供はみな、派手にピストルを撃ち合う活劇映画を好むはずだ ぐらいの認識だったのだろう。
  
 私は、素直な笑いを顔に浮かべたかどうか。
 なにしろ、どんな会話を交わしたことやら、とんと思い出せないのだ。
 おそらく、2人ともぎこちなく並んで歩いていただけだと思う。
 日頃、子供と遊ぶ時間が取れない親父の、思いっきり不器用な休日だった。
   

 
 1950年代の末。
 当時の新宿は、まだ田舎臭かった。
 新興都市の猥雑さはあっても、田舎の寂しさがたぶんに残っていた。
 それでも、東口には中村屋があったり、紀伊国屋書店があったりして、それなりに活気があった。
  
 しかし、西口には発展のかけらもなく、駅前に居酒屋や喫茶店があったかと思うと、そのままダラダラととりとめもなく住宅街につながっていた。

 

 高層ビルなどは陰も形もない。
 夕空を飛ぶカラスが、そのまま山にでも帰っていくような景色が広がっていた。

 

 商店街が途切れた一角に、「場末」という言葉がぴったりの映画館があった。
 『拳銃の報酬』という看板がかかっていた。
 親父にとって、おあつらえ向きの “ピストル映画” だった。
  
 休日の物憂い午後。
 客の入りもまばらだった。

  

 

 このとき観たこの映画は、後に「フィルム・ノワール」の傑作とまでいわれるほど、マニアックなファンの間で評判となった。(しかし、幼い私は、もちろんそんなことを知るよしもない)
  
 監督は、ロバート・ワイズ。
 後に、「ウエストサイド・ストーリー 」、「サウンド・オブ・ミュージック」の監督として知られることになる。
 
 主役は、黒人歌手のハリー・ベラフォンテ(下の写真左)と、白人俳優のロバート・ライアン(右)。
 この2人が、元警察官の老人(エド・べグリー 写真中央)の仲介により、銀行強盗の仲間としてトリオを組むことになる。

 

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▼ 予告編

  
 ハリー・ベラフォンテの役は、クラブの専属歌手。
 しかし、彼は、別れた妻子への生活費の支給も思うようにいかず、競馬の借金もかさんで、暗黒街のボスから、「金を返さないと妻子に危害を加える」と脅されている。

 

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 一方のロバート・ライアンは、殺人の前科があるため就職も思うようにいかず、情婦に養われながら鬱屈した日々を送っている。

 

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 金が欲しくてうずうずしている2人。
 (というよりも、今の状況から抜け出したくて仕方がない2人)
 そういう状況を察した元警察官の老人が、彼らに銀行強盗のアイデアを持ちかける。

 

 しかし、ロバート・ライアン演じる中年男は、大の黒人差別主義者。
 「黒人が仲間に加わるなら、俺はやらない」
 と、老人に駄々をこねる。
  
 一方、黒人のハリー・ベラフォンテは、そういう人種差別主義者に、激しい憎悪を燃やす。

 

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 最初から、波乱含みの人選なのだが、この計画には、どうしても黒人が加わる必要があったのだ。
  
 つまり、狙った銀行は、6時になると数人の従業員を残しただけでシャッターを閉めてしまうのだが、その15分後には、レストランから運び込まれる夜食を仕入れるために、一瞬だけ裏口を開ける。

 

 その夜食を届けるのが、いつも決まった黒人の給仕。
 ハリー・ベラフォンテがそいつに成りすまして、開いたドアをからまんまと銀行に入ってしまおうというのが、元警官の老人が立てた計画だったのだ。

 

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 しかし、その計画は、結局ロバート・ライアンの人種差別が災いして、頓挫する。
 事件のさなかに火災が起り、犯人たちは全員丸焦げ死体になってしまうのだ。

 

 その状況を検分する警察官がいう。
 「こう真っ黒じゃ、黒人だか白人だか分からねぇや」
 つまり、人種差別を皮肉るブラックジョークでエンディングを迎える。

 

 そういうところも含め、子供心に、ものすごく印象に残った映画だった。
 モノクロームの映像と音楽がよかった。

 

 音楽を担当したのは、MJQ(モダンジャズ・カルテット)。
 ピアニストのジョン・ルイスが、わざわざこの映画のために、テーマ曲「ODDS AGAINST TOMORROW」を書いている。

 

 
  
 演奏していたミュージシャンたちのことを知ったのは、ずっと後のことだが、たぶんこの映画で、私はジャズという音楽を初めて意識したことになる。
 それは、子供が知らない大人の世界を感じさせる音楽だった。
   

  
 この映画が、とても強い印象として残ったのは、(人種差別などという)社会派的なテーマとは関係なく、
 「ああ 大人って辛いんだ」という思い。
 「生きることって、悲しいんだ」という思い。
 そして、大人の辛さと悲しさには、「陰影がある」といったような、様々な思いを抱いたからだ。

 

 それは、コントラストの強いモノクロの映像と、クールなジャズの響きがもたらしたものだと思う。

 

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 音楽が画面に及ぼす支配力は強い。
 買い物客であふれるニューヨークの映像も、ワルツでも流れていれば、人々が舞踏を楽しんでいるように見えるだろう。

 

 同じ画面でも、クールなジャズがかかると、華やいだ人々の笑顔の裏に、けだるい孤独が浮かび上がる。

 

 この映画で使われた音楽は、後者だ。
 そのため、  
 「都会に生きる人間の、砂を噛むようなやるせなさ」
 「同じ生活が続いていくことの、とりとめのなさ」
 「今の生活から脱出したいという、身をよじるような焦燥感」
 主人公たちのそんな思いが、モノクロの寂しい映像に見事に絡み合っていた。

  

 
 映画を観終わった後、私と親父はどうしたのだろう。
 中村屋にでも寄って、カレーでも食べたのだろうか。
  
 親父が、この映画をどう思ったか分からない。
 たぶん、映画の感想を語り合うほど、私は言葉を持っていなかったし、親父の方も、(なにがしかの感想を抱いたとしても、)それを子供が理解するとは思っていなかっただろう。
  
 だいぶ後になって、私はこの映画のテーマ曲の入った MJQ のアルバムを手に入れた。
 自分がジャズというものに最初に触れた、記念すべきアルバムだと思ったからだ。
 しかし、私は、この映画のこともテーマ曲のことも、親父の前で話すことはなかった。
  
 アルバム自体は親父が死んだ今も、時々、思い出したように聞く。
 自分で買ったアルバムなのに、親父からのプレゼントであるように感じることがある。
  

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「美の巨人たち」でとりあげられた「ナイトホークス」

 

 昔、土曜日の夜に家にいるときは必ず観ていた番組があった。
 テレビ東京美の巨人たち』(10:00~10:30)。

 

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 この番組が改変され、タイトルも変わって『新 美の巨人たち』となったのは、2019年4月6日からだった。

 

 新しくスタートした新番組がどんな内容だったか、最初に観たときの印象はあまり覚えていない。
 
 ただ、面白くなくなったという記憶だけが残っている。
 がっかりして、スタートして10分ぐらいでチャンネルを切り替えたと思う。

 

 それまでの(旧)『美の巨人たち』は、古今東西のアート1点にテーマを絞り、それを多角的に解説していく番組だった。
 有名な作品を取り上げて、今までの解釈とは異なる説明を加えた企画もあったし、一般的には知られていなかった無名のアーティストの作品を掘り出して世に知らしめたこともあった。

 

 とにかく、取り上げる対象がよかったし、スクリプト(台本)も完成度が高く、それを語る小林薫氏のナレーションもよかった。
 もう本当に、美術好きにはたまらなく愛しい番組だったのだ。

 

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 それが『新 美の巨人たち』になって、いろいろなタレントが週替わりで解説していく番組に変わった。
 扱うテーマも、「旅番組」を銘打ったせいか、やたら地方の旅館だとか、美術館、遊園地などという建築系が増えた。

 

 つまり、絵画や彫刻が出てくることがほとんどなくなったのだ。
 アート好きの私にはさびしい改変になったが、もっとひどいのは、出てくるタレントたちの感想がつまらないこと。

 

 文学や芸術の番組では、専門家でもないタレントがほどこす内容の薄い解説ほど貧しいものはない。
 もう、スプリクトを書く専門家はいなくなったのか?
 それとも、そういうプロのライターが書いたものを、タレントたちが伝える能力を持ち合わせていなかったのか。

 

 とにかく新シリーズになってからは、私はまったく観なくなった。

 

 だから、私がここで書くものは、すでに放送が終了した昔の『美の巨人たち』についてである。

 

 そのなかで記憶に残ったものの一つに、エドワード・ホッパーの『ナイトホークス(夜更かしをする人々)』がある。
 放映されたのは、2016年の3月26日。
 「ニューヨーク、真夜中の物語」というサブタイトルが添えられていた。

 

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 この回は、もう本当に洒落たつくりになっていた。
 特に、挿入される音楽がドンピシャに決まっていたのだ。

 

 冒頭に流れる曲は、ヴァンゲリスが映画『ブレードランナー』のためにスコアを書いた「愛のテーマ」。
 番組の中ほどに流れる曲は、同じく『ブレードランナー』より、「ワンモア・キス」。

 

 そして、絵の核心に迫るときは、スタンダードジャズの名曲「ラウンド・ミッドナイト」(守山紘二クインテット)。

 

 まぁ、決まり過ぎ ともいえなくはないが、やはりあの「ナイトホークス」という絵に音楽を付けるとすれば、ノスタルジックで物憂い映画音楽か、1950~60年代のクールなジャズしかないと思えた。

 

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 番組スタッフも見事にそういう空気感を察知し、次から次へとお洒落なBGMを探してきた。
 絵と音がぴったりと合ったおかげで、まるで映画を観ているような気分になった。

 

 特に、1982年制作のSF映画ブレードランナー』は、監督のリドリー・スコットがこの『ナイトホークス』の絵を掲げ、「俺はこんな雰囲気の画面を撮りたいんだ!」と叫んだといわれているだけあって、画面に使われたヴァンゲリスの音楽と、『ナイトホークス』との相性はよかった。

 

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当時の番組冒頭に流れた曲は、これ。

 

他のシーンでは、次の曲も使われていた。  
One More Kiss … Dear

 

『ナイトホークス』という絵のタッチにもっとも合っていたのは、この曲。

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エドワード・ホッパー「ナイトホークス」

フィルム・ノワールに影響を
与えたエドワード・ホッパー
 

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エドワード・ホッパー 「ナイトホークス」(1942年)

 
 「ホッパーの作品はしばしば映画のワンシーンに例えられる」
 と、よくいわれる。
 特に、この「ナイトホークス(夜ふかしする人々)」という絵は、まるで古典的なアメリカのギャング映画のポスターなどに使われそうな雰囲気がある。

 

 1950年代、アメリカに限らず、フランスなどでも、まさにこの絵のようなタッチの映画がたくさん作られた。「フィルム・ノワール」といわれる犯罪映画である。


フィルム・ノワールの代表作『ビッグ・コンボ』(1955年)

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 「ノワール」とは、フランス語で黒の意味。
 これらの映画においては、基本的に白・黒のコントラストの強いモノクロフィルムを使い、音楽にはジャズを使うのが一般的だった。 
 
  ● ルイ・マル監督の『死刑台のエレベーター』(音楽 マイルス・ディビス) 1958年
  ● ロジェ・ヴァディム監督の『大運河』(音楽 MJQ) 1959年
  ● 同じくロジェ・ヴァディム監督の『危険な関係』(音楽 モンク/アート・ブレイキー) 1959年
  ● ミシェル・ガスト監督の『墓にツバをかけろ』(アラン・ゴラゲール) 1959年
  ● ロバート・ワイズ監督の『拳銃の報酬』(MJQ) 1959年

 

 50年代の後半には、フィルム・ノワールの傑作といわれる映画が集中している。

  
▼ 『死刑台のエレベーター』(1958年)で、愛人に自分の
  夫を殺させた夫人を演じるジャンヌ・モロー

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下はマイルス・デイビスの演奏するメインテーマ

 

 これらの映画に共通しているのは、夜の都市に垂れ込む霧、噴き上げる蒸気、点滅するネオンサイン、乗り物のヘッドライト、タバコの紫煙がよどむ暗いナイトクラブ …… 

 

 こういう「光と闇」がきわ立つさびしい画面に、1950年代のクールなジャズはよく似合った。

 登場人物たちも、ジャズの香りを持った者たちばかり。
 犯罪映画であるから、犯人と探偵・刑事などが登場するわけだが、追う者(探偵、刑事)も追われる者(犯罪人)も、いずれも逆光の暗がりから抜け出せないような「スネに傷を持つ者」である場合がほとんど。

 

 だから、どちらが勝利しても「敗残者の自覚」を抱えた者同士なのだから、観客にカタルシスを与える明快なハッピーエンドは訪れない。

 

 そういう映画のペシミスティックな雰囲気が、このエドワード・ホッパーの「ナイト・ホークス」から色濃く伝わってくる。

 

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 この絵の右側カウンターで、肩を並べてぼそりと話し合う男女の荒廃した感じはいったい何を意味しているのか !?
 この絵が伝えるものは、すさまじいほどのアンニュイ(倦怠)だ。
 都会の喧騒が絶えた深夜のカフェの静寂に、息がつまりそうだ。

 

▼ 「ナイトホークス」(部分アップ)

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 年代的な考証を試みると、このホッパーの絵が制作されたのは1942年。太平洋戦争が起きた2年後のことだ。
 だから、一連のフィルム・ノワールの映画が作られ始めた頃よりも、16~17年ほど早いことになる。

 

 逆にいえば、このホッパーの「ナイトホークス」が、戦後の娯楽映画として脚光を浴びるようになる「フィルム・ノワール」に影響を与えたということもできる。

 

 40~50年代のフィルム・ノワールの映画を観ると、もう映画に流れる大都会の空気感そのものが「ナイトホークス」的なのだ。


 闇と光のコントラストがかもし出す、ミステリアスな陰影。
 すなわち、都会の夜をさすらう人々の寂寥感、孤独感を、フィルム・ノワールの映画はホッパーの「ナイトホークス」から学んだといえそうだ。
  

 
 「ナイトホークス」は、その後も映画にも影響を与え続けた。
 1982年に公開されたリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』がそれだ。
 
 リドリー・スコットは、猥雑なにぎわいを見せる未来のロサンゼルスの光景にも、夜の都会の孤独感を導入することにこだわった。

 

 そのときに集められたサンプリングの中には、この「ナイトホークス」もあり、スコットは、プロダクション・チームの面々にいつもこの絵の複製をかざし、「私が追い求めている気分は、映像にすればこんな調子だ」と言い続けていたという。


▼ 「ブレードランナー」に描かれる深夜のビルの一角

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 1997年になると、『パリ・テキサス』、『ベルリン・天使の詩』などで知られるドイツ人映画監督のヴィム・ヴェンダースが、『エンド・オブ・バイオレンス』(The End of Violence)という作品を撮った際に、映画の中に出てくる映画セットとしてこの「ナイトホークス」のバーカウンターの場面を再現したともいう。(私は未見なので詳しいことは言えない)。


▼ 「ザ・エンド・オブ・ザ・バイオレンス」

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 20世紀に制作された数々の映画に影響を与えた「ナイトホークス」。
 それは、この絵が、20世紀になって出現した「都会の憂愁」というものをはじめて描いた絵であったからかもしれない。

 

 ホッパーは、これ以外にも、都会の夜の深さと、そこに住む人々の孤独を描き続けた。

 

▼ 「カフェテリア」

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▼ 「ドラッグストア」

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 資本主義文明の興隆とともに、パリ、ロンドン、ベルリン、東京と、数々の近代的な国際都市が地球に誕生した。


 しかし、その多くは人類の繁栄を謳歌するかのように、華やかで享楽的な色彩を帯びた都市として文明の上に君臨した。

 

 その繁栄の極致を行く世界都市として、ニューヨークがその頂点に登ったとき、ホッパーは逆に、そこに繁栄に疲れた都市の素顔を視てしまったのだ。 

 
 「疲れ」を知った都市は、さびしくも、謎めいて、美しい。
 「ナイトホークス」は、20世紀の享楽的な都市が、厚化粧の裏にふと潜ませた荒廃の美学をいち早く先取りした絵であったかもしれない。
   
   

 

映画『拳銃の報酬』(Odds Against Tomorrow)に出てくるジャズの演奏シーン。本物のミュージシャンであるハリー・ベラホンテが好演

 

 

▼ホッパーに関する参考記事


史上最も貧しい衆議院選

 

 衆議院選挙が公示され、各党派の政策発表がマスコミで取り上げられるようになった。
 それらを見るにつけ、
 「なんと貧しい選挙戦か」
 と暗澹たる気持ちにならざるを得ない。

 

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 与党も野党も、主張する政策の内容が乏しく、しかも基本的な認識に間違いが多い。

 

 自民党の岸田首相は、言葉だけ聞いていると、よどみなくしゃべっているように見えるが、政策の射程距離が短く、いってしまえば、近視眼的な主張に終始している。
 話の骨子が抽象的で、現実性に乏しいのだ。

 

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 もっと悪いことは、岸田首相の発言の裏には、安倍・菅政権の思想の残滓が濃厚に立ち込めていることだ。
 たとえば、原発推進政策。

 

 これなどは、安倍路線をそのまま受け継いで、東電などの電力会社の利益をそのまま維持させてやろうという主張にほかならない。

 

 東日本大震災で福島の原発事故が起きるまで、日本全国で稼働していた原発はようやく減価償却を終え、「さぁ、これから儲けるぞ!」という時期を迎えていた。
 それ以降は、稼働すればするほど、原発関係者たちの懐はうるおう状態に入ろうとしていた。

 

 そのときに起こったのが、2011年の3・11原発事故である。
 安倍元総理や甘利氏が、原発事故の状況をひたすら覆い隠し、東電などの意向を尊重する対応に踏み切るのは、こういう電力会社の経営戦略をサポートしてやりたいという意向が反映されたものだ。
 
 
 憲法をどう扱うかという議論においても、安倍元首相の意見ははっきりしている。
 憲法9条に、「自衛隊」という文言をはっきりと追加し、国民に対しても、海外の為政者たちに対しても、自衛隊のプレゼンスをしっかりと打ち出すというのが安倍氏の悲願と言われていた。

 

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 しかし、10月19日の「プライムニュース」(BSフジ)に出演していた元参議院議員藤井裕久氏(89歳)は、この安倍氏の意向に反対意見を述べた。
 
 藤井氏は、89歳という年齢であるため、戦前の明治憲法大日本帝国憲法)の理念を知っているという。 
 明治憲法では、軍人出身の大臣も保証していたため、結果として、閣僚に選ばれた軍人政治家たちが戦争への引き金を用意することになった。

 

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 新しい平和憲法においても、もし「自衛隊」の存在を表記してそれを揺るぎないものにすれば、軍人政治家的が台頭してきた場合、それを阻止する論理が成立しなくなる。
 そういうロジックを排除する意味においても、憲法に「自衛隊」を明記する愚を避けた方がいい。
  というのが、藤井氏の意見であった。

 

 私は、この藤井氏の論理に対し、今ひとつはっきりしたイメージを持てないのだが、自衛隊憲法に表記されることによって、今まで以上のプレゼンスを持つことになれば、やがてその存在が政治にも影響力を持つだろうということは、感覚的にも分かる。

 

 自民党タカ派の人々が求めるものも、けっきょくそこに行きつくのだろう。
 つまり、いつまでも「自衛隊違憲だ」と放置するのではなく、憲法によってはっきり認められた “軍隊” として扱おうじゃないか、ということなのだ。 

 こういう自民党内右派の声を、岸田首相は無視できないだろう。


 
 さらにいえば、このタカ派グループが主張する「対敵基地先制攻撃能力の確保」という主張も、岸田氏は踏襲していくことになるはずだ。

 

 しかし、「対敵基地先制攻撃能力の確保」などという防衛方針は、もう技術的に無理だ。
 それは北朝鮮がしきりに実験しているミサイルシステムの動きなどを見れば一目瞭然だろう。


 もし、日本がそんな防衛戦略を立てれば、たちどころに全面戦争になる。
 
 これに関しては、同じ与党内にいる公明党山口那津男代表がはっきりと異を唱えている。
 山口氏によると、
 「敵基地攻撃能力というのは昭和31年に提起された古めかしい議論の立て方だ」と述べ、そういう愚を犯さないように、早くも自民党執行部を牽制した。

 また、同党の山口氏は、自民党の安倍・菅政権が進めてきた原発推進運動にもクギを刺し、もう少し広い視野に立った “カーボンニュートラル” 戦略に言及している。

 

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 こういうように、同じ「政権与党」という立場を維持しながら、自民党公明党はかなり主張が異なる。


 このあたりを一緒くたにして議論してしまうと、「与党」全体を理解するときの理論が薄っぺらになる。

 

 このように、自民党の岸田首相の政策は、非常に危うい。
 特に、安保・外交に関しては、安倍元首相や高市政調会長という保守派の息のかかった政権運営にならざるを得ないので、「安倍・菅路線の延長」と野党が批判するのも当然と思える。
 
 
 では、今回の選挙における野党の主張はどうなのか?

 

 総じて、自民党の “危うさ” に引けを取らないくらいの危なっかしさが感じられる。

 

 まず、「財源」の考え方が、どの野党もお粗末。
 コロナ禍で苦しんだ人々に対し、給付金を与えたり、消費税を低減して生活の立て直しを図るという方針をどこの党も大きく掲げたが、その財源を確保する目途を立てた野党はひとつもない。

 

 常識的に考えて、(限定的処置とはいえ、)消費税を5%に戻すとか、消費税そのものを廃止しようといいながら、10万円程度の給付金をばら撒くという主張は何を根拠にしているのか?

 

 まさに狂気の沙汰としかいいようがない。
 どこにその財源があるというのか?

 

 「お金持ちから取ればいい」
 というのが、共産党をはじめ、ほとんどの野党の基本戦略だ。
 
 バカげた考え方だ。
 「富裕層に課税して、それを財源にする」
 という主張に、今どきの国民がどれほどの説得力を感じるだろうか。

 

 確かに、今の日本は高度成長期を支えた膨大な中間層が没落し、富裕層と低所得層という二極分解が進んだ。

 

 それを「格差社会」と名付けていいが、アメリカや中国のような、とてつもない大金持ちとホームレスぎりぎりのようなビンボー人という格差社会は、まだ成立していない。

 

 だから、共産党社民党がいうような、「富裕層や大企業からカネを取ればいい」という主張には、(現在のところは)説得力がない。

 

 まず、富裕層や大企業と、一般的な中間層や中小企業との線引きはどこに置くのか?

 

 日本は、個人の所得においても、企業の収益に関しても、そのピンとキリの間には、そうとう広範なグラデーションが形成されていて、明瞭な線引きの難しい国なのだ。

 

 だから、「富裕層・大企業の資産を財源にする」という主張は、けっきょくは生活を守らなければならない中間層や中小企業の収益すら削り取っていくリスクを抱えることになる。

 仮に、大企業に課税することが決まったとしたら、そういう企業が海外に拠点を移していくことだって十分に考えられる。
 そうなれば、国内産業の空洞化が始まる。

 

 そういった意味で、現在の野党の大多数が掲げる政策はお粗末きわまりないとしかいいようがない。

 まず、「野党共闘」によって、仮に政権交代が生じたときに、いったいどういう政権が誕生するのか。

 想像もできない。
 もちろん、期待もできない。
 むしろ、そら恐ろしい世の中が生まれてきそうに思える。 

 
 もうひとつ野党に言いたいことは、その言葉の貧しさだ。
 自民党を批判することしかしゃべらない。
 それも、余裕なく絶叫しているだけ。


 
 こういう貧しい言葉の連鎖には、やがて有権者もそっぽを向くだろう。
 
 なんで日本の与党も野党も、言葉の貧しさを克服できないのか。

 

伊勢海老のおつくりが脱走

 

 緊急事態宣言が解除され、県をまたぐ移動に対する制約も解かれるようになった。
 そのため、神奈川県の小田原市までドライブし、所用をこなすついでに、有名な「だるま食堂」で、伊勢海老定食を食べることにした。

 

 それは2年越しの目標であった。

 

 伊勢海老が出回る季節というのは、8月頃から10月上旬までといわれている。
 だから、昨年の秋もその時期を狙って、「だるま食堂」を目指した。
 しかし、そのときは、9月中に行ったにもかかわらず、「今期はすでに完売」とのこと。
 「う~ん、残念  」と、悔しい思いをした。

 

 今回は事前に問い合わせをした。
 店のスタッフがいうには、予約はできないが、お昼ごろまで着けば、おそらく食べられるだろう、とのこと。

 

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 朝食を7時頃に終え、お腹を空かせた状態で、11時の開店直後に店に入った。

 

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 伊勢海老定食は4.500円。(単品では3.300円)
 なにしろ2年越しの目標だったので、カミさんともども、ここは奮発して、伊勢海老定食を2人前注文した。

 

 しかし、そこで事件が起こった。

 

 皿に盛られた伊勢海老が動き出したのだ。
 ヒゲがぴくぴくと動くぐらいなら、まだいい。
 しかし、この日は、足まで動き出し、カミさんの見ている前で、皿から逃れてテーブルに脱走し始めたのだ。

 

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 まぁ、それだけ新鮮なネタであったといえば、それで終わる話で、私などは元気な伊勢海老を見て大感激したのだが、臆病なカミさんは違った。

 

 「きゃぁー!」
 というカミさんの絶叫に、店内騒然。
 
 怖がったカミさんは、もう刺身に調理された部分ですら食べられないという。

 

 そこで仕方なく、というか、ありがたく2人前の伊勢海老のおつくりをいただくことになったのだが、まぁ、とにかくおいしいこと。

 

 皿から逃げだすくらい元気な海老であったため、その身がコリコリと引きしまって歯ごたえ十分。
 思わず、御飯をおかわりしてしまった。

 

 食べ終わった後の頭の部分は味噌汁にしてもらった。
 もう動くこともなかったので、ようやくカミさんも食べることができた。

 これもうまかった。

 

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 ここで一首。

 伊勢海老のつくりが皿を脱走す カミさん叫び店内騒然

 

「親ガチャ」という言葉を好む若者の意識

 「親ガチャ」という言葉を巷でよく聞くようになった。

 

 主に若い人が使う言葉で、
 「自分の親に対する不満」を、
 「こんな親のもとに生まれてしまって、ビンボーくじを引いた」
 という意味で使う。

 

 “ガチャ” とは、コインを入れて手に入れる自販機の玩具。
 取り出すまでは中身が分からない仕組みになっていて、うまくいけば、欲しいものを手に入れる喜びも得られるが、要らないモノを手にしたときの失望感を味わうことも多い。

 

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 「親ガチャ」という言葉には、この失望感が投影されている。
 つまり、自分の方から親を選べない子供が、自分の両親に失望したときの気分を代弁した言葉なのだ。

 

 「自分はビンボーな家に生まれた」
 「両親には社会的な地位もなければカネもない」
 あるいは、
 「両親がブサイクだから、俺(私も)ブスになった」


 
 つまり、生まれた環境に対する不満をすべて “親のせいにする” という発想が「親ガチャ」という言葉に集約されている。

 

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 私は、こういう言葉が流行してきた背景として、
 「格差社会が若者の間にも根を下ろしたな」
 という気分を抱いている。

 

 つまり、どんなに努力しても超えられない貧富や美醜の差。
 「持てる者」と「持たざる者」との “壁” が、これほどはっきりと立ちはだかるようになったのは、昭和や平成の時代にはなかったことかもしれない。
 
 ある学者は、「この言葉には、世代間の認識ギャップが表現されている」という。
  
 つまり、日本経済が大きく成長していた1990年代までを体験した中高年は、進学・就職・昇進などで自分のなした努力以上のリターンを得ることができた。

 

 しかし、30歳代以下は、生まれたときから経済成長1%台の世界を生きてきたため、努力しても報われない経験をたくさん知ってしまった。

 そのため、「親が裕福でないかぎり、充実した人生を歩むことなどできない」と考えがちになっていった。

 

 つまり、
 「親ガチャに外れた場合は、あきらめるしかない」
 そう思う若者が増えたのだ。
 (朝日新聞 2021年10月14日オピニオン&フォーラム)。

 

 では、これとは逆に、「親ガチャ」によって得した若者や、その親たちはどう思っているのだろうか。

 テレビ朝日のモーニングショー(羽鳥慎一アナウンサー)で、コメンテーターの玉川徹氏はこんなことを言っていた。

 

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 「親ガチャという言葉が流行る背景には、確かに経済格差の広がりがある。しかし、よく考えると、そこには、もう一つの格差がある」

 

 玉川氏は、それを「教育格差」だと指摘した。
 つまり、
 「おカネがあり、教育レベルの高い家庭を営むことができた親たちは、子供にも高い教育を授けようとする」

 
 それが「塾」であり、「家庭教師」であり、さらには、教育レベルの高い地域に引っ越していくなどという手法である。
 そういう家庭環境に恵まれた子弟たちは、その親の力で優秀な進学校に進んでいく。

 

 一方、教育格差の下位に沈んでいる家庭の親は、子供に、
 「好きなことをしなさい」 
 と甘やかす。

 

 ある意味、これは「個性を伸ばしなさい」という親のメッセージとも受け取れる。

 

 だから、子供にとってそれはうれしい言葉だ。
 しかし、現実的には、そういう子供たちは、「塾」にも行かず、「家庭教師」をつけてもらうこともなく、家で野放図にゲームに没頭する日々を送ることになる。

 つまり、それが結果的に、その子が成人したとき、「親ガチャ」という不満を形作るようになる。

 

 もちろん、「モーニングショー」の玉川徹氏は、そういう家庭の状況を嘆いたわけではない。
 「親ガチャ」という若者言葉が生まれる背景として、経済格差のほかに、教育格差というものが無視できなくなったことを指摘したにすぎない。

 
 玉川氏によると、このような “格差” は、情報格差も醸成しているという。
 つまり、都市部と地方の間に格差が生まれ始めているとか。 

 

 要は、進学などの情報において、都市部と地方では、「塾」や「家庭教師」たちが取得する情報の蓄積量の差が開きつつあるというのだ。

 

 人口密度の高い首都圏では、教育レベルを向上させるためのノウハウや知識が幾何級数的に蓄積していく。
 そういう “空気” を呼吸することによって、教育指導者たちも生徒たちも、頭の構造を劇的に変えていく。


 
 こうして生まれてくる “頭のいい子” は、勉強ができるだけでなく、モテ度も学んでいく。
 テレビのクイズ番組で人気の高い「東大王」などという出演者たちは、そういう若者たちだ。

 

 こういう社会現象をどうとらえればいいのか。

 

 いろいろなことが考えられる。

 

 「経済格差」は、確かに、お金持ちとビンボー人を差別していく世の中をつくる。

 

 しかし、「教育格差」というのは、ある意味、国(政治)が関わってくる問題だ。
 つまり、国が力を入れて教育の問題に取り組んでいけば、それは、若者たちの教育レベルを均一に引っ張り上げていくことも可能であり、そうなれば「格差」ではなく、「平等」が生まれる。

 

 そのように、学力が均等に上昇していけば、今度は国力を押し上げていくことにつながる。 
  
 ただ、それは理想論だ。
 現実的には、経済格差と教育格差は、同じ度合いで推移していくことが多い。
 
 このように、「親ガチャ」という言葉は、いろいろなことを考えさせてくれる。
  

 

『家族ゲーム』という映画の謎

 
 今年(2021年)は、映画監督の森田芳光デビュー40周年、没後10年に当たる。
 それにちなんだのかどうか知らないが、この夏テレビのBS放送で、森田監督の代表作ともいえる『家族ゲーム』が再放映されていた。

 

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 この映画を最初に見たのは、2011年の暮れ。
 まさに、森田監督の没年を焦点を当てた放映だった。

 

 そのときすでに、制作されてから30年以上経っていたが、全体に流れる奇妙な不条理感をとても面白く感じた。
 
 ただ、派手なつくりの映画ではまったくない。
 
 子供の教育には熱心だが、愛とうるおいを欠いた夫婦(伊丹十三由紀さおり)と、不良になることもなければ上昇志向もない子供たちとの、なんとも取りとめもない家庭ドラマといえば、それ以上つけ加えることはあまりないのだ。

 

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 その間に割って入る家庭教師(松田優作)も、ときどき型破りな行動でハラハラさせるが、喜怒哀楽を表に出さない、とらえどころのない青年として登場するだけ。

 

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 映画の背景となる場所も、工場の間に宅地造成値のような無意味な空間がやたらと広がる人の息遣いを欠いた情景が中心となる。

 

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 家族が住むのは、取りとめもなく広がる街並みを見下ろす高層マンション。
 そこからの眺めは、展望のよさに恵まれる喜びよりも、生活の基盤が “宙に浮いている” という頼りなさの方を強調している。

 

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 公開された80年代当時に観ていたら、どんな感想を持ったか分からないが、ここには、明らかに、あの時代特有の空気のようなものが漂っているのを感じた。
 
 なんといったら、いいんだろう。


 私にとって、(後にバブルの時代として華々しく語られる)1980年代の始まりは「古典的な人間像や世界像が崩壊していく時代」の始まりだった。 
 
 この映画が制作された1983年という年は、写真家の藤原新也が『東京漂流』を書いた年でもある。
 藤原新也は、この評論集の中で、東京という街が80年代に入ってからは、自然の根っこを失った完全なヴァーチャル空間に変容し、人が「人」でなくなっていく様相を、まさにカメラのシャッターを押すがごとくに切りとった。

 

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 藤原新也の切りとった “風景” の中でも、全体のトーンを決める核となったのが、エリートサラリーマンの家庭で起こった「金属バット殺人事件」だった。
 受験勉強をうるさく迫る父親を、高校生の息子がバットで殴り殺すという事件で、当時、それは「家族の崩壊」を象徴するエピソードとして人々を震撼させた。
 
 この事件のことは、映画『家族ゲーム』の中にも出てくる。
 受験目標をレベルの低い高校に設定しようとする次男のことを、父親と母親が相談し合うシーンだ。

 

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 母親がいう。
 「あの子がどうしても神宮校を受けるといっているんですけど」


 父親が答える。
 「そんなバカなことがあるかよ。西武高じゃなきゃだめなんだよ」
 「じゃあ、お父さんが言ってくださいよ」
 「オレがあんまり深入りすると金属バット殺人が起こるんだよ。だから、お前や家庭教師に代理させてるんじゃないか」
 
 伊丹十三の、いかにも身勝手な父親役が光っているせいもあって、ここでは、子供と面を向かい合うことを避けている親たちの姿が見事に描かれている。

 

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 『家族ゲーム』は、そのような「人間が人間と触れ合う」ことを微妙に回避するような時代の始まりを、巧みに捉えた映画だ。
 しかも、徹底的に、わかりやすく捉えた。
 
 たとえば、よく話題になる、家族の食事シーン。
 家族が、細長いテーブルの片側だけに並び、誰とも顔を合わせることなく食事を続ける。

 

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 その食卓では、父親を中心に、いかに受験競争を勝ち抜くかという話題が一方的に繰り広げられる。
 だが、受験戦争を勝ち抜くことの「意味」が語られることはない。
 
 いや、語られてはいるのだが、それは「レベルの高い学校に進学してレベルの高い企業に就職するため」という理屈を超えるものではなく、では「なぜレベルの高い企業に入ることが幸せなのか?」という疑問は封印されたままである。
 というか、お父さんの頭には、そのような “問” そのものがない。
 
 


 この映画は、はたして何を描きたかったのだろう。
 
 ある意味で、分かりやすいのだ。
 
 紆余曲折の果てに、めでたく息子を志望校に進学させた両親は、家庭教師を招いてホームパーティーを開く。

 

 しかし、父親はその “めでたい席” で、はやくも今度は、まったく勉強をしない上の息子を責め始める。
 「今度は、お前が勉強する番だ」といいながら、食事がまずくなるような説教を延々と垂れ流す。
 
 その父親に向かって、隣りに座った家庭教師が、粗相をしたふうに装いながら、わざとワインを父親にかける。

 父親は、それにも気づかず、下の息子への説教をエスカレートさせる。
 その間に、親子・兄弟同士のケンカも始まる。

 

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 家庭教師の方も、徐々に父親に対するいたずらをエスカレートさせ、スープをこぼし、マヨネーズをふりかけ、最後はテーブルをひっくり返して、「失礼します」と家を出ていってしまう。
 
 それは、まさに画一的な教育論で子供たちを締めつける俗物オヤジに対する家庭教師の抗議ともいえるシーンだった。 

 
 たぶん、多くの観客が溜飲を下げるのは、このときだろう。
 「ダメおやじ、ざまーみろ! 松田優作よくやったね」と。
 
 家庭教師が去ったあと、家族は床に散らばった食べ物や皿を拾いながら、ようやく面と向かって顔を合わせる。
 それは、バラバラだった家族が、はじめてひとつの “目標” に向かって協力し合うことに目覚めた瞬間のようにも思える。
 
 
 ここで終われば、『家族ゲーム』は、非人間的な教育体制にプロテストする “反・受験競争映画” としての整合性を持ち得たかもしれない。
 
 しかし、森田芳光は、そこで終わらせなかった。
 
 最後に、なんとも奇妙なエンディングを持ってくるのだ。
 
 戸外には暖かい空気が流れていそうな、のどかな昼下がり。
 テーブルの上で手仕事をしていた母は、ふと上空に漂う不穏なヘリコプターの音にきづく。
 
 「あら、何か事件でも起こったのかしら?」

 

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 そう思って、母親は、高層マンションの窓から外を覗く。
 外には、何事もなかったような平和な光景が広がっている。

 

 子供たちの部屋を覗くと、二人とも床の上にゴロンと昼寝をしていて、起きない。
 
 ヘリコプターの音は、依然として頭上で鳴り響いている。
 なのに、その母親は、のんきそうなあくびをしてから、そのままテーブルに突っ伏して、けっきょく自分も昼寝をしてしまう。
 
 眠りに落ちていく3人と、鳴り止まぬヘリコプターの音。
 不吉な、しかし、あくまでも平和で、のどかなエンディング。
 

 
 これは秀逸なラストだと思った。
 森田芳光のマジックに、まんまと乗せられてしまったと思った。


 
 この奇妙なエンディングこそ、作者が感じ、さらにその当時の観客も感じた「80年代の始まり」だったのだ。
 
 今の私たちは、このときから始まった80年代という時代をよく知っている。
 それは、「バブルの時代」として、日本中が消費文化の頂点で狂乱を極めた時代のように思われている。
 
 しかし、その時代の始まりは、決して、“狂乱の時代” の様相を呈していなかった。
 むしろ、静かな時代の始まりだった。
 ただ、それまでの日本人が信じていた伝統やら、親・兄弟の絆やら、もっと大仰にいえば、“人間観” のようなものが、不思議なものに変容していく時代の始まりだったのだ。


 
 今、この映画を観て、私は思い出す。
 80年代の始まりは、「平和」や「豊かさ」が、同時に「不安」に転じる時代の幕開けだったことを。
 
 そのことを、森田芳光は、のどかにまどろむ親子の頭上に鳴り響く「ヘリコプターの音」として捉えた。
 
 そこには、死の気配がある。
 「殺人による死」ではない。
 平和に慣れてしまうということが、豊かさに慣れてしまうということが、何かの死を暗示するという意味での、「死」の気配が漂う。
 
 それは、“豊かさが腐りかけていた” あの時代特有のもので、たぶん今のような、本物の貧しさが到来してしまった時代には、このような映画は作り得ないように思う。
  

 

『飾りじゃないのよ涙は』の衝撃

クラシック J ポップ「飾りじゃないのよ涙は」
 

  
 こんにちわ。
 ディスクジョッキーたぬき がお送りする「クラシック J ポップ」の時間がやってまいりました。

 

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 さて、今日は、1984年に中森明菜さんがヒットさせた『飾りじゃないのよ涙は』を取り上げてみようと思います。

 

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 実はですね、ごく最近のことなんですが、朝日新聞の「be」という土曜日版(2021年10月9日)で、中森明菜さんの特集をしておりましたですね。
 タイトルは、「今こそ! 聴きたい 中森明菜」。

 

 なんでも、来年の5月というのは、中森明菜さんがデビュー40周年を迎えるということなんですな。

 

 いやぁ、まぁ、すごいですねぇ!
 デビュー40周年。
 彼女の歌を青春時代に聞いていた人たちというのも、もう50歳から60歳ぐらいということになるんでしょうかね。
 月日の経つのは、実に早いものであります。

 

 で、その朝日新聞の記事には、読者アンケートによる「好きな曲ランキング」というのが載っておりまして、なんと『飾りじゃないのよ涙は』(1984年)が967票を獲得して1位にランクされておりました。

 

 ちなみにですね、2位は『少女A』(1982年 768票)。3位は『スローモーション』(1982年 628票)の順になっておりました。

 

 以下、
 4位 『セカンド・ラブ』(1982年  626票)
 5位 『DESIRE』(1986年  611票)
 6位 『北ウイング』(1984年  566票)
 7位 『ミ・アモーレ』(1985年  557票)
 8位 『難破船』(1987年  465票)
 9位 『十戒』(1984年  268票)
 10位 『サザン・ウインド』(1984年  253票)
 


中森明菜

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 で、新聞には、この『飾りじゃないのよ涙は』を選んだ読者の声というのも紹介されておりました。

 

 「はじめて聴いたときは圧倒された。かわいいにもかかわらず、若い女の子がドキッとする鋭い歌詞をカッコいいパフォーマンスで歌う。その姿に魅了された」(千葉、73歳男性)

 

 「この歌は衝撃的な名曲。作詞・作曲の井上陽水さんもセルフカバーしていたが、唯一、作り手本人が勝てなかった曲。明菜バージョンをもう一度聞きたい」(東京、59歳男性)

 

 なるほどね。
 確かに、この曲はですねぇ、J ポップ史の中でも、ひとつのエポックメーキング的な作品として、永遠に残る曲になっているかと思います。

 

 この歌がヒットした頃、このタヌキもまだ30代でしたけど、最初に聞いたときの衝撃は、今でも生々しく身体の中に刻まれているという感じがしますです。はい。
 
 すてばち っていうか、開き直りっていうのか。
 つまり、男に対しても、社会に対しても、「負けちゃいけない ! 」と壮絶に生きている女の子の “魂のツッパリ” という気配が伝わってきますよね。
 
 『少女A』(1982年)という、これまた非行少女をイメージさせるような挑戦的なタイトルの曲でブレイクした中森明菜のイメージを決定づけたのが、この『飾りじゃないのよ涙は』(1984年)であったように思います。
 
▼ 「少女A」

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 ま、とにかく聞いてみましょう。
 お話は、その後で。

 

youtu.be

 

 いかがでしたか?
 
 歌の背景となっている情景がぷつぷつと泡立ってくるような、まぁイメージ喚起力の強い歌であったように思います。
 
 歌い出しは、「私は泣いたことがない」であります。

 

 そして、この歌の主人公は、
 灯の消えた街角で 速い車にのっけられたり、
 冷たい夜のまんなかで いろいろな人とすれ違ったり、
 友達が変わるたび 思い出ばかりが増えたり … するわけですけど、それは「泣いた」のとは違うと思うわけですね。
 
 そして、自分は「ほんとの恋をしていない」と悟るわけです。
   

  
 では、本当の恋とは何でしょう?
 
 もちろん、それが何であるかは、この歌詞には描かれておりません。
 しかしながら、本当の恋をするときの「自分」と、さびしくて空虚な思いに沈んでいる今の「自分」との距離感だけはビンビンと伝わってきます。
 
 ここには、地方都市のコンビニを唯一のたまり場として、長く退屈な夜をもてあましながら、身の凍るような寂しさに耐えている少女の姿が浮かんできます。
 さらに、ゆきづりの男たちとの火遊びをいっぱい経験しながら、それには決して癒されることのないヒロインの虚無的な孤独感も伝わってきます。
 

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 で、この曲を語るときに欠かせないのが、松田聖子さん(上)という、明菜さんのライバルの存在ですね。
 
 実は、この曲、松田聖子的な世界に対する “全面戦争” だったんですね。
 
 どういうことか。
 
 この当時、松田聖子は、80年代 J ポップシーンの代表的アイドルでした。
 彼女の歌は、80年代ポップスの甘くてファンシーで、夢のように華やかな世界を全面開花させたものだったんですねぇ。
 
松田聖子

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 なんといっても、松田聖子のバックについたスタッフたちがすごい。
 曲はユーミンこと松任谷由実さん。詞は松本隆さん。
 日本のJ ポップシーンを代表する “三松” が結集したんですね。
 
 ユーミンという人は、なにしろ、自分の音楽を “中産階級サウンド”、“有閑階級サウンド” と命名したくらいの人ですから、もう徹底してセレブ志向です。

 

 つまり、それまでの “四畳半フォーク” といわれた土俗的な歌を完全否定することによって、自分の世界を築いてきた人なんですね。
 
 一方の歌詞を担当した松本隆も、はっぴいえんど時代から洋楽のセンスを取り入れた日本語ロックを目指してきた人ですから、まぁ、これもあか抜けた歌詞をつくります。
 
 従って、この二人が松田聖子に歌わせる歌というのは、どこか架空のリゾート地を舞台にしたような、お金に困らない中産階級の若者たちの恋を描いた歌だったんですね。
 それが、ちょうどバブル期の日本をぴったり表現した曲になっていたことは否定することができません。
 
 そういうセレブ志向に真っ向から挑んだのが、心の血を流しながら唇を噛みしめる『飾りじゃないのよ涙は』の少女だったんですね。

 

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 歌詞にも仕掛けがあります。
 松田聖子の代表的なヒット曲に『瞳はダイヤモンド』があるんですが、その最後の歌詞は、「涙はダイヤモンド」という言葉で終わっています。
 
 それに対して、中森明菜は、
 「ダイヤと違うの、涙は !」と、
 きっぱりと歌い切ります。
 
 ね! どこかのお坊ちゃんの腕に抱かれて、将来の社長夫人を夢見る松田聖子的な女の子像に対し、コンビニの前にしゃがみ込んで夜をつぶすしかない明菜的な女の子が、つぶやくわけです。
 『飾りじゃないのよ涙は』
 って、唇を噛み締めながら。
 
 80年代の光と影。
 
 聖子と明菜は、まさにそのように棲む場所を分けながら、それぞれのファンにメッセージをおくっていたわけですね
 
 というところで、時間となりました。
 それでは皆さん、また来週。
  

    

 

(↓)より詳しい記事は、こちらをどうぞ。
 

 

 

 

自分にとって最高のドライブ音楽は「ジェシカ」

オールマン・ブラザーズ・バンド

ジェシカ」

 

※ 2020年の1月にUPしたものを多少改稿して再録

 

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 オールマン・ブラザーズ・バンド(写真上)の音を最初に聞いたのは、ラジオのFM放送だったが、あるいはFENだったか。
 放送局も番組名も忘れてしまったが、曲名だけははっきりしている。
 『ジェシカ』だ。

 

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 1973年に発表された『ブラザーズ&シスターズ』(写真上)のなかに収録された曲だが、私がそれを聞いたのは、1970年代の後半だった。

 
 当時、私が好んで聞いていたのは、ビートルズ、クリーム、ブラインド・フェイスレッド・ツェッペリンというブリティッシュ系ロックだった。

 

 その後アメリカの音楽にも興味が出てきたが、主に聞くようになったのは、BLUES、R&B、SOUL MUSICという黒人音楽ばかりで、アメリカの白人ロックにはまったく関心がなかった。

 

 そういう自分の好みを変えたのが、オールマン・ブラザーズ・バンドの「ジェシカ」だったのだ。 

 

 「あ、心地いい!」

 

 一回聞いただけで、思わずのけ反った。

 

オールマン・ブラザーズ・バンドジェシカ』

 

 こういう躍動感を持った曲をそれまで聞いたことがなかった。
 自分がずっと身体(からだ)の中に蓄え込んできたのは、「ブルースの波動」であり、本家の黒人ブルースをもとより、白人系ロックでもクリームやツェッペリンのようなブルースのコード進行やリズム感を維持した曲しか受け入れなかった。

  

 「ジェシカ」という曲は、そういうブルース好きの私の好みをあっさりとくつがえした。

 

 なぜ、そういうことが起こったのか。
 この曲を聞いたとき、自分は自動車を所有するようになっていたのである。
 買ったのはトヨタスターレットKP47だった (▼ 写真はレース仕様)

 

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 つまり、この車を買ったことで、自動車の走行感覚にフィットする音楽というものを意識するようになったのだ。
  
 自動車を手にしたことは、新しい音楽への扉を開いた。

 

 その代表的な例が、ディープパープルの「ハイウェイスター」で、ラジオなどでこの曲が流れると、それまではプチンとスイッチを切っていたが、カーラジオで聞く限り、これが妙に車の走行感とマッチすることを知った。
 
 ドゥビー・ブラザーズの「ロングトレイン・ラニング」なども好みの曲になった。
 あれは “トレイン(列車)” をテーマにした曲ではあるのだが、やはり軽快なギターカッティングによる “疾走感” の表現が素晴らしいと思った。

 

 一方、テクノポップ系でも、“疾走感” を追求した音楽というものがあった。
 ドイツのクラフトワークである。
 彼らには「アウトバーン」(写真下)という曲があって、これはドイツのアウトバーンの走行感覚を無機的な電子音でなぞった音楽として一世を風靡した。 

 

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 このように、自動車に乗るようになって、世の中には、モビリティーをテーマにした音楽というものがたくさんあることに気づいた。

 

 それらは、室内の固定した環境で聞いているかぎり何の感興もわかないことが多いが、「リスナーの肉体が車で水平移動するとき」に聞くと、がぜんそれまでとはうって変わって刺激的な音に生まれ変わる。

 

 しかし、オールマン・ブラザーズ・バンドの「ジェシカ」は、もう机の前に座って聞いただけで、自分が運転しているときの情景が浮かんだ。

 

 そのとき脳裏に浮かんだのは、アメリカ中西部あたりに広がる乾いた荒野だった。
 そして、そこを貫いて地平線まで伸びている一本道。
 「この曲を聞きながら、そんなところを走ってみたい !」
 そういう衝動を強く喚起する音だった。

 

 ちょうどその頃、テレビCMなどでは、片岡義男がナレーションをつとめる「ロンサムカーボーイ」(パイオニアカーステレオ)などのCMが流行っていた。

 

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 そういうシチュエーションに憧れ、アメリカを走りたい欲望が募っていく。


 実際に、ラスベガスでレンタルモーターホームを借りてアメリカの中西部を走ってみたが、それは2007年になってからである。(このモーターホームにはCDプレイヤーが付いていたが、『ジェシカ』のアルバムを持ってこなかったことをそのとき後悔した)

 

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 アルバム『ブラザーズ&シスターズ』に収録されている「ジェシカ」の演奏時間は7分28秒である。
 
 アコースティックギターのカッティングに始まり、それにディッキー・ベッツ(写真下)の奏でる主旋律が重なっていく。

 

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 ディッキー・ベッツのギターは、どことなくカントリーミュージックのフレイバーが効いていて、いい意味で軽い。


 苦悩も内面的な深みもないかわりに、陽光のきらめきを感じさせるような、あっけらかんとした明るさがあって心地よい。
 これを聞いた後は、そういう「アメリカ白人の楽天主義もいいものだ」と思うようになった。

  
 「ジェシカ」では、このディッキー・ベッツのギターを引き立てるように、2台のドラムスとベースのリズム隊が、レシプロエンジンのピストン運動を想像させるような軽快なリズムを刻み続ける。

 

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 聞きどころは 2分30秒を過ぎたあたりから始まるチャック・リーヴェルのピアノソロ。
 多少、えげつない表現を使えば、この個所から、ベッドの上で上下動する男女が、来たるべくエクスタシーを予感し、リズム隊と呼吸を合わせて、絶頂を迎えようと準備を始めた気配が伝わってくる。
 
 ピアノの音が、海面を跳ねるイルカのように踊り始めると、それに呼吸を合わせて、リズム隊が追う。

 

 いよいよそのときが迫る。


 チャック・リーヴェルのピアノソロからバトンを受けて、ディッキー・ベッツのギターソロが始まる瞬間が、そのときだ。
 リスナーの頭の中で “何か” が弾ける。

 

 そのとき、リスナーが口にするのは、
 「来た ! 来た !(Come  Come!)」という言葉。
 車などを運転していると、もう本当にヤバイ。

 スピードがあがっていくことに対して、ドライバーの神経が麻痺してしまうのだ。

 

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 この「ジェシカ」は、リスナーに何を伝えようとしているのだろうか。

 

 本当によくできたドライブミュージックには「性交の快感」があるということを教えようとしているのだ。
 つまり、(多少上品な表現に変えれば)モビリティの本質が “エクスタシー” にあることを伝えようとしている。


 『ジェシカ』については、別のWEBサイトでより詳しく書いた。
 興味をお持ちの方は、そちらも開いてみてほしい。


 (↓)

 佐藤旅宇氏が主催するウエブマガジン「GoGo GaGa


  
 

片岡義男の再評価が始まる

  

 このところ、小説家・エッセイストの片岡義男を再評価する動きが顕著になってきている。
 朝日新聞では、現在「文化」欄で、片岡氏のロングインタビューの連載を開始した。

 

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 さらに、9月17日には『片岡義男を旅する一冊』(株式会社SHIRO 2,200円)というムック本が発行された。

 

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 このムック本は、元モトナビ誌の編集長であり、片岡ファンを自認する河西啓介氏が、インターネットを通じて片岡氏の作品に共感している組織や個人に資金の提供・制作協力を呼び掛けて(クラウドファンディング)実現したもの。

 

 内容は、『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『湾岸道路』など、1970年代後半から80年代にかけて発行された人気作品の紹介や片岡ファンたちの座談会などを集めたもの。


 総ページ数は130ページ。
 アメ車、バイク、音楽、サーフィンなど、片岡作品が扱う趣味の世界をより深く掘り下げた内容になっている。

 

▼片岡作品にはどこかアメリカの乾いた風が感じられる
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 この『片岡義男を旅する一冊』というムックは、9月26日より富士山マガジンサービスおよび代官山蔦屋書店などの協力書店、店舗で販売がスタートするという。
 問合せは株式会社SHIRO(TEL 03-5790-9035)まで。

 

 実は、私も(本名を使って)見開き二つ(4ページ)ほどのエッセイを書かせてもらった。

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▼ 『片岡義男を旅する一冊』に収録してもらったエッセイ


 

 

 

片岡義男が創ったアメリカと音楽の世界

アメリカの明るさ、爽やかさ、さびしさ

 

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 エッセイストの温水ゆかりさんは、かつて、団塊世代の男性の “アメリカ好き” を揶揄(やゆ)して、こう言った。
  


 「(私の知り合いの団塊世代は)週末になると福生の米軍ハウスに住む友人宅に集まってバンドの練習をし、終わったら芝生のバーベキューをするのが楽しみだ、という。
 この世代のアメリカン・スタイルへの憧れは、のんきなまでに不滅。けっきょく進駐軍の最大の手柄は、この刷り込みに成功したことだったかもしれない」
 

 
 確かに、この意見も分からないでもない。
 「アメリカが好きだ」
 という年寄りは、いまだに私の知り合いにもいる。
 

 
 その基本のところには、アメ車があり、ロックミュージックがあり、(時にハーレーがあったり)、それらのアイテムが現在の生活から遠く離れてしまっても、彼らは心の中にずっとそれを持ち続けている。

 

 のんき
 といえば、あまりにも「のんき」に、彼らは青春を回顧する心を忘れない。

 私の場合は、同じ団塊世代の端くれであったが、青春時代の交友関係ではアメリカ好きがいなかった。


 私自身にも、アメリカ文化に対する奇妙な反発心があった。
 それよりも、「人間をとりこにするディープな快楽」を教えてくれるヨーロッパ文化。
 そっちの方がはるかに魅力的に思えたのだ。

 

 音楽においては、黒人のソウル/R&B系が好きだったが、それは “アメリカ文化” ではなく、アメリカの白人文化に対するカウンターカルチャーという意識で接していた。

 

 それが、社会人になった頃に逆転した。

 

 片岡義男の小説を知ったからである。
 最初に読んだのは、当時すでに評判になっていた『スローなブギにしてくれ』の入った短篇集だった。


 新しい世界を見たような気になった。
 なんだか熱病に浮かされたように、『人生は野菜スープ』などを立て続けに買って読んだ。

 

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 当時、まだ赤い背表紙の角川文庫は書店には並んでいなかった。
 だから、ハードカバーの単行本を買うわけだが、それを棚から引き抜いてレジに向かうところから、もう読書が始まっていた。

 

 文庫とは違った、適度に重いハードカバー本の厚みの中に、ムスタング・マッハ1の風切り音やら、海岸道路のバーカウンターで飲むビールの味やら、ジュークボックスから流れるアメリカンロックや、キャメルの香りや、ポップコーンの匂いがぎっしり詰まっているのを感じた。

 

 そこには、われわれの世代がとっくに経験していた(そして私が無視していた)アメリカの明るさと、爽やかさと、さびしさがあった。

 

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 アメリカの文化のどうしようもない “軽薄さ” 。
 それが、なぜか、そのときになって “いとおしい軽さ” に変ったのだ。
 
 もちろん、私の意識にそういう変化をもたらしたのは、片岡義男の持つ文体の力である。
 アメリカ文化の軽さの中にこそ、そこを吹き抜ける風のおおらかさが詰まっているのを教えてくれたからだ。

 

 『スローなブギにしてくれ』が、「野性時代」の新人文学賞を受賞した1975年(昭和50年)。
 私のあらゆる生活面で変化が起こっていた。


 この頃、やっと遅い就職を果たし、少し貯まった金で、ようやく自分の自動車を手に入れた。
 粗末なカーオーディオを取り付けて、はじめてクルマの中で音楽を聞くという体験を持った。
 
 すると、音楽の好みが変わった。
 今まで大好きだったソウル/R&B系の音が、クルマの疾走感とは合わないことを知った。
 それまで、むしろ(思想上の理由で)毛嫌いしていたアメリカのサザンロックに急激に惹かれるようになった。
 
 オールマン・ブラザーズ・バンド
 レーナード・スキナード
 ZZトップ
 マーシャル・タッカーバンド。

 

 荒々しく、ラフで、白人っぽいノーテンキさに溢れたアメリカ南部のロックが、第三京浜や湘南道路や、横浜の本牧や、さらに16号線の福生ベースあたりを流すときにぴったり合うことを知った。

 

 

ドライブの風景を変えた魔法の言葉

 

 片岡義男の小説と出合ったのは、そんなときだ。  

 それまで読んでいた三島由紀夫とか、高橋和巳とか、野坂昭如吉行淳之介などとはまったく違った世界だった。

 

 自動車とロック。
 それだけに肩入れしていた時期だったから、片岡義男の小説を読むことは、ドライブに出かけるときの高揚感を事前に手に入れるための精神的ドラッグのようなものだった。
 
 クルマをテーマにした小説としては、五木寛之の作品などもあったが、まったくテイストが違っていた。
 五木寛之のカー小説は、しょせん湿った風土の日本の小説。
 それに比べ、片岡義男のものは、とどろくエンジン音ですら、荒涼としたアメリカ西南部の渇いた空気を運ぶ音のように描かれていた。

 

 「アメリカを走ってみたい」
 そう思い始めたのもその頃。
 ちょうど、パイオニアのカーオーディオの「ロンサムカーボーイ」のCMがいろいろなメディアから流れ始めたような時代。

 

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 地平線まで連なる真っ直ぐのハイウェイ。
 テレビでは、ライ・クーダーあたりの音楽を使った、乾いたセンチメンタリズムを漂わす映像。


 そういうCMを見るたびに、目の前にふさがる霧のようなものが切り裂かれて、くっきりとした視界が広がっていく気分を味わえた。

 

 テレビCMの場合は、片岡義男の小説に出てきそうなコピーが添えられ、時に、本人がナレーションでそれをつぶやいていた。

 

 「120マイルを過ぎると、風の音だけではさびしすぎる」

 

 魔法の言葉だった。
 実際に、自分でクルマを走らせたときは逆で、100㎞ぐらい走ると音楽に飽きて、風の音だけを聞きたくなることがあった。
 しかし、そういう気分を楽しめたのも、その「魔法の言葉」が頭にひっかかっていたがゆえであった。
 
 
 彼の小説が実現した世界とは、どんなものだったのだろう。

 「アメリカの香り」
 一言でいうと、そんな空気に満ちた世界である。

 

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 そういった意味で、ちょっと後に登場する村上春樹の初期作品のテイストに近い。
 実際に、両者が似通っているという指摘をする人も多い。

 

 しかし、明瞭な違いがある。
 片岡義男の描く “アメリカ” は、「日本にしかないアメリカ」なのだ。
 事実、彼の小説には、具体的な地名がたくさん出てくる。
 
 第三京浜
 国道122号線。
 黒磯。
 陸羽街道。
 小田原。
 真鶴道路。

 

 『スローなブギにしてくれ』だけに限ってみても、そのような具体的な地名をランダム拾うことができる。
 もちろん、中には本場のアメリカを舞台とした小説もあるが、彼は圧倒的に日本の具体的な場所を小説の舞台に選んでいる。

 

 なのに、片岡義男は、登場させるアイテムや人物たちの会話で、アメリカの匂いを描く。
 それは、彼の文体によってのみ切り取ることができた “アメリカ” であり、いわば、ある種の精神を研ぎ澄まさなければ発見できないアメリカなのだ。

 

 それに対して、村上春樹の初期作品は、場所を特定できない。
 なんとなく、ちょっと洒落た地方都市のさびしい一角を匂わすだけで、その舞台がボストン郊外であっても、ルート66沿いの地方都市であっても、あるいは日本の神戸あたりでもおかしくないような設定になっている。

 
 
 片岡義男が「日本にしかないアメリカ」を描いたとするならば、村上春樹は、「どこにもないアメリカ」を描いたのだ。

 

 だから、村上春樹の小説を読むときは、ベッドに寝そべったままアメリカ気分を味わうことができる。
 しかし、それを読み終わった後に、クルマにエンジンキーを差して、どこかに行きたいという気分にもならない。 

 

 片岡義男の小説は、常にアクションを喚起する。
 環八を抜けて、第三京浜を通り、横浜新道から茅ヶ崎あたりまで走りたいという衝動をうながす。
 「自分の心に浮かぶアメリカを探す」ために。

 

 別の言葉でいえば、頭脳でアメリカを「感じる」村上春樹
 身体を通じて、アメリカを「発見する」片岡義男

 私にとっては、そんな違いにみえる。

 

 

私の感性に溶け込んだ
片岡作品のエッセンス

 

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 そんな片岡義男が好きで、原稿を頼んだことがある。


 空前絶後の大ブームが起こる前だったが、当時すでに売れっ子作家であった片岡さんは、電話だけで、気軽に仕事に応じてくれた。
 あまりにもあっけなくこちらの願いがかなったので、かえってキツネにつままれたような気がした。

 

 原稿のテーマは、「自動車の中で聞きたいお気に入りの音楽」。
 400字詰めの原稿用紙で3枚程度の量だった。
 
 受け取りは、下北沢の喫茶店だった。
 片岡さんは、定刻どおり、まったく普通のお客のようにフラッと入ってきた。
 
 「もう、片岡さんの大ファンで、実は一度お会いしたいと思ったために、原稿を頼んだくらいなんですけど … 」
 どぎまぎしながら、そんなことを口走ったように思う。

 

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 彼は尊大な素振りも見せず、かといってテレもせず、素直ににっこり笑った。
 私は、多少あがってしまったのだろう。
 その後、どんなことをしゃべったのか、あまり覚えていない。

 

 「また、何かあったら、書いてもいいですよ」
 別れしなに、そんなことを言ってくれたように思う。
 多忙な作家であるにもかかわらず、あまりお金にもならない自動車PR雑誌に、そう言ってくれる人は珍しかった。

 

 原稿のタイトルは、「ロックンロールは軽やかな疾走のリズム」。
 書き出しは、彼が教習所で運転を学んだ頃に体験した自動車の車種から始まっていた。

 

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 自動車とのつきあいがはじまったのは、1958年だという。
 18歳だった。
 「シヴォレー、フォード、ダッジなどのガタビシの車の感触を、体がいまでも覚えている」 
 彼はそう書く。
 そして、免許をとって、クルマを運転するようになる。

 

 「1958年ぐらいから、1962年くらいまでの間に、ぼくたちの身辺にあった音楽は、映画『アメリカン・グラフティ』に出てくるような音楽だった。
 図体だけ大きくて、ほかになんのとりえもないアメリカ車の雰囲気やスピード感に、このころの軽いロックンロールは、じつによく合っている。
 たとえばカーブを曲がっていくとき、鈍いステアリングの向こうに送り込まれていく大きい平たいノーズの感じと、それを追って、つるつるのビニール張りのベンチシートから尻に伝わってくるロールの、かったるい、のんびりした操車感覚に、この頃のロックンロールはとても調和する」

 

 まさに、望んでいたような原稿だった。
 そして、読み進むうちに、あっと息を呑んだ。
 
 「いま、もし東名高速を夜中に走るとき、そのスピード感にふさわしい音楽を選ぶとしたら、たとえばオールマン・ブラザーズ・バンドレーナード・スキナードZZトップのような音楽がまっさきに頭に浮かぶ」

 

 なんという偶然の符合。
 まさに自分がドライブミュージックとして選びとった音楽を、そのまま片岡さんも選んでいる。

 

 そのときは、自分の感性が片岡さんと肩を並べたとうぬぼれたが、よく考えれば、それは片岡義男の小説から汲み取ったエッセンスが、自分の中に血肉化していただけのことだったかもしれない。

 

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 原稿をいただいてから、別れる間際に、私は携えていった『スローなブギにしてくれ』の単行本を差し出して、サインをもらった。
 今でも大事な宝になっている。 

 

株式会社SHIRO 『片岡義男を旅する一冊』より

   

  

campingcarboy.hatenablog.com

映画のノイズ(ターミネーター3を観て)

 
 『ターミネーター3』(2003年公開)をBSのWOWOWで観る。

 未来の地球で起こるアンドロイド(ロボット)と人間の戦いの話。
 第一作は1984年に公開されたが、その後シリーズ化されて、現在6作まで制作されている。

 

 全作とも、タイムマシンに乗って、「未来」から飛来するアンドロイドと、「現在」を生きるに人間が戦う話。
 基本的には、未来の戦いで敗れることになるアンドロイド側が、敗北の原因をつくった人間側のキーマンを除去するために、未来の世界から侵入してくるという設定となっている。

 

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 シリーズ1作目では、未来から来た不気味なターミネーターをアーノルド・シュワルツネッガーが好演して大ヒット。
 これが彼をスターの座に押し上げるきっかけとなった。 

 
  
 『ターミネーター3』は、そのシュワルツネッガーが、今度は人間側を助けるアンドロイドとなり、未来社会から送られてきた女性型ターミネーターと闘うという話だ。

 女性型ターミネーター「TX」を演じる女優(クリスタナ・ローケン)がチャーミング。美しい容貌と肢体を持ちながら、人間の心を持たない冷酷な殺人マシーンとして機能するというアンバランスさがこの映画の魅力になっている。
  

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 見せ所は、とにかくアメリカ映画らしい自動車や建物をド派手に壊しまくるアクションシーン。
 人間をワイヤで吊るしてCGと絡めるという非現実的なアクションとは違い、あくまでも “生身” の肉体と肉体、さらに自動車と自動車がフィジカルにぶつかりあう古典的なアクションであることが特徴となっている。

 

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 確かに、「撮影中にけが人が出なかっただろうか」と心配させるほどのリアリティは確保できたが、単にそれだけの映画ともいえる。
 見終わった後には何も残らない。

  
 私のような旧世代人間は、こういうド派手さだけが売りのハリウッド系アクション映画を観ると、どんな映画もみな同じに見えてしまう。
 視聴覚に携わる神経をシャワーを浴びせるように刺激するという意味で、遊園地のジェットコースターのようなアトラクションに思えてしまうのだ。

 

 つまり、アクションは派手だが、そこに登場する人間たちは、行動も思考も観客に分かりやすいようにパターン化され、視神経を心地よくマッサージされることだけを望んでいるお客の「ノイズ」にならないように設定されている。

  
 この場合の「ノイズ(雑音)」というのは、いわば監督が表現したかったものと、実際に表現された映像のズレのことをいう。
 監督の意図したものが、100%のうち10%ぐらいしか達成できなかったもの。
 あるいは逆に、150%ぐらいまで過剰になってしまったもの。

 

 そういうように、監督の独りよがりで観客には伝わらないものも含めて、映画には、そういうアンバランス感が混入してくることがある。
 それを、ここでは「ノイズ」と呼んでみたい。
  
 たとえば、
 好意とも侮蔑とも取れるような、俳優のあいまいな笑い。
 何かを言いかけて、言葉を止めてしまった唇のアップ。

 

 そういう解釈不能の映像を差し挟むことは、画面のスムーズな流れに竿をさすという意味では、一般的な意味での「ノイズ(雑音)」でしかない。

 しかし、そういう微かなノイズの中に、逆に、その監督が描こうとしたものが何であるかを観客に想像させる余地が生まれる。
   
 小説では、これを「行間を読む」という言葉で表現をする。
 つまり、文字として刻印された言葉と言葉の空白に、作者の複雑な思いやその苦闘ぶりを読むことをいう。

 

 「行間を読む」とは、文学のノイズに耳を傾ける行為だ。
 近代に生まれた「小説」という文学のジャンルは、読者がこのノイズという「ざらつき感」に注目することによって、市民権を得た文芸形式ともいえる。

 

 このような「ざらつき感・抵抗感」がないと、観客は生理的快感のおもむくままに、スムースな流れに乗って最後まで押し流されてしまう。 
 で、「面白かったね、気分がさっぱりしたね」だけの映画になってしまう。
  
 昔の映画監督は、そのへんを心得ていて、登場人物の心がストレートに画面に出ないような演技を、わざと役者に求めた。

 

 しかし、最近のハリウッド映画は、俳優の「分かりにくい演技」を極力排除しようとする。
 俳優の演技もストーリーも徹底的に定型化し、代わりに、視神経的な刺激が効率よく観客に伝わるような映画づくりを進めている。

 

 余談になるが、私は、「ノイズ」というものこそ、民主主義の根幹を担う感性だと思っている。


 つまり、耳障りな雑音としか思えない「ノイズ」のなかに、隠された意味を見いだそうとする感性。
 それこそが、民主主義的な思想のように思える。

 

 このような「ノイズ」を完全に消去しようとすると、独裁国家の思想になる。
 今の中国共産党のように、国民全体を習近平思想に統一しようとするとき、人間の多様性を主張する声は、党指導部にはみな「ノイズ」に感じられるはずだ。

 
   
 で、『ターミネーター3』に戻る。
 この映画は、アクション系ハリウッド映画のそういった特徴をよく備えた作品であるが、私にとって面白かったのは、「人間の心を持たない」とされるターミネーターたちの方がはるかに人間っぽくて、逆に、悪いターミネーターに追われる人間の主人公たちの方が “つくりもの” っぽい印象に描かれていることだった。

 

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 つくりものっぽく見える理由は、喜怒哀楽の表現がまったくパターン化されているからだ。
 人間の主人公たちは、
 「人間というものは、こういう “刺激” をインプットされると、必ずこういう “反応” をアウトプットする」
 という、まるで正確な機械のような行動を示す。
  
 それに対し、表情を凍らせたまま沈黙するターミネーターたちは、「苦労に耐える人間」の風格を漂わせている。
 彼らは、心の奥に去来する思いを静かに封印し、与えられた任務だけに忠実になろうとする真面目人間の悲哀を表現しているかのようだ。
 どっちがターミネーターなんだよ と、つい思ってしまう。

 

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 私のような旧世代の映画ファンは、俳優たちのパターン化された演技というものに “つくりものっぽさ” を感じてしまうのだけれど、たぶん、新世代の映画ファンにとっては、そこはどうでもよいことなのかもしれない。

  

眞子さまの結婚が危うく見えるのはなぜか

 

 このコロナ禍の夏、東京オリンピックアフガニスタンタリバン復活、自民党の総裁選といった話題と同じぐらい、世間を騒がせたニュースがあった。
 秋篠宮家の眞子さまと小室圭氏の結婚が決まったという話である。

 

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 二人の交際については、すでに4年前から取り沙汰されていた。
 それがようやく結婚という形で収束しそうだというのだ。

 

 なぜ、この二人の話がテレビや週刊誌のネタになり続けるのか?

 

 たぶん、多くの日本人が、「この結婚で眞子さまが幸せになることはない」ということを確信しているからだ。

 

 もちろん、
 「二人とも愛し合っているのだから、素直に祝福してあげればいい」
 という意見も根強い。

 

 しかし、大方のマスコミの論調は、眞子さまの結婚相手となる小室圭氏という男性に対して手厳しい。

 

 現在流布している情報では、小室圭氏とその母親は、これまでの金銭トラブルをまったく解消する姿を見せず、女性皇族に支払われる約1億4000万円の結婚一時金をしっかり着手しようとしているとか。
  
 つまり、お金に対しての欲をあからさまにむき出しにする小室親子の身勝手なふるまいが、多くの国民の不興を買っているという。

 

 もちろん、私などにはその真相は分からないし、そのことについては、さほど興味もない。

 

 ただ、ひとつ言えることは、眞子さまは、小室圭氏を「唯一の男性」として熱愛する前に、もっと多くの恋愛をするべきだった、ということだ。

 

 というか、もしさまざまな恋愛経験を持ったならば、小室圭氏を「絶対的な男性」と思い込むこともなかったかもしれないと思うのだ。

 

 「恋愛」に対する免疫性が不十分のまま「結婚」すること。
 そのこと自体が、ある意味、「不幸」の始まりでもある。
  
 結婚後の夫婦関係がうまくいくのは、お互いにいくつかの恋愛経験をした後か、そうでなければ、逆にお見合い結婚だ。
 どちらも、結婚相手を冷静に見る余裕を持てるからだ。
 
 しかし、熱に浮かされたような恋愛をしている最中には、相手の本当の姿が見えない。
 これは、古今東西、多くの小説や演劇などのテーマとなってきた事実だ。

 

 結婚後に、相手の本当の姿に気づいてがっかりすること。それを一般的な言葉で「幻滅」という。


 眞子さまの場合、もし結婚後に小室圭氏に対して「幻滅」したとしたら、(他の男性を知らないのだから)、小室氏一人に対する「幻滅」が、そのまま “男性一般” に対する「幻滅」に変わってしまう。
 
 多くの日本人は、それが予見できるがゆえに、この結婚に危ういものを感じるのだ。