アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

自作短歌の悪評例

 ひょんなことから、“短歌の会” というのに参加するようになって、そろそろ半年になる。

 
 『無窮花植ゑむ』などの著書をお持ちの藤井徳子(ふじい・のりこ先生 = 日本歌人クラブ)のご指導を仰ぎ、月1回くらいのペースで拙作の講評をいただいている。

 

 例会は地域の短歌愛好家が集う15~16人規模で行われ、一人2首ほど提出する。
 参加者がそれぞれの作品の感想を述べあった後、先生の添削を受けるという段取りとなる。

 

 参加者にはご年配のご婦人方が多い。
 皆さん素人ではあるが、さすがにベテランともなると、プロともいえるような秀作を詠まれる。


 短歌を始めて半年という私などは、短歌の極意を会得されたご婦人方に対し、今のところどう足掻いても太刀打ちできない。

 

 正攻法では勝てないという気持ちがつのってしまうと、どうしても天邪鬼な歌が浮かんでしまう。

 

 
 この前、こんな歌をつくって、周りのご婦人方から悪評をいただき、さすが先生からも叱られた。

 

 ヒロセスズアリムラカスミツチヤタオ 似た顔なので区別がつかず

 

 広瀬すず有村架純、土屋太鳳という、今を時めく若手女優を並べただけの何の芸もない歌なのだが、“区別がつかない” というニュアンスを強調したいがために、わざとカタカナに変え、区切りを付けずに並べた。

 

 案の定、
 「人の名前だと気づかなかった」
 「どこで区切るのか分からず、ただ読みづらかった」
 という散々の酷評が続いた。

 先生からは、
 「奇をてらうことだけを意図した凡作」
 と言われた。

  

 やっぱりこの路線はダメだと気づき、すこし趣向を変えた。

 

 逃がさぬぞ黒光りしたその背中 スリッパ手に持ちとどめ刺す

 

 ゴキブリを撃退するところを描いたつもりであったが、これも「黒光りした背中」という言葉が何を指しているのか分からないという声が多かった。

 

 先生だけは、「逃さぬぞ」という言葉に勢いが感じられて、躍動感は感じられると認めて下さった。


 ただ、「その背中」が何の背中か伝わりづらいので、はっきりと「ゴキブリ」という固有名詞を入れてもいいのではないか、という示唆もいただいた。
  
  
 次にはこんなのを作った。

 

ツマミなし 一杯だけのコップ酒 外れ馬券に未練たらたら

 

 これは先生に「面白い」と褒められた。
 地域ごとの短歌会が集まったもう少し広域の短歌大会(多摩歌話会)に応募してみてはどうかと誘われ、推薦してもらった。
 

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 先だって、その「多摩歌話会」の秋季短歌大会(写真上)が行われ、78首の歌が集まったなかで、各首の講評が行われた。


 講評を行ったのは、『ぽんの不思議の』などという歌集を出されている小島熱子先生(現代歌人協会会員)。

 

 小島先生は、78首のうちの約半分を採り上げ、1首1分程度の講評・添削をその場で行われたが、私の歌の番になると、
 「この歌には思わず笑った。すごく面白いと思った」
 と好意的なコメントを寄せてくださった。
 
 ストレートな言葉で、シンプルに歌い上げているところが力強いとのこと。
 ただ、「短歌としては俗っぽい言葉が多いので選に拾われるような作とはいえない」とも評していただいた。

 

 

 大会が終わり、近くの居酒屋で打ち上げが開かれた。
 10人規模の会となり、私は人一人を置いて、小島先生のそばに座らせてもらった。

 

 宴半ば、いつもご指導いただいている藤井先生が小島先生に、私のことを紹介してくださった。

 

 小島先生は、私の「外れ馬券に未練たらたら」の歌を覚えていてくださって、
「あれは面白かった。もっといっぱい作りなさい」と励ましてくださった。
 
 
 この短歌大会の講評を聞いていて、いくつか学んだことがある。

 

 「笑顔」、「いやし」など、誰もが “ほっこりする” ような言葉を歌の中心に置く短歌は、まず凡作だということ。
 こういう月並みの言葉は、短歌の情感を平凡なものにしてしまう。

 これは、小島先生が講評のなかで語った言葉だ。

 

 また、抒情性が勝ちすぎると、逆に “味気なくなる” という逆説。
 詠嘆的に詠い過ぎた歌は、肌がむずがゆくなって、気持悪くなるとも。
  
 歌の中には、ときに “時事詠” というのがある。
 安倍政権がどうだとか、基地問題がどうだとか。
 そういうイデオロギーが強く出た歌は、他人の共感をほとんど呼ばないという。
 これも分かる。
 私も、こういう歌には鼻白む方だから。

 

 ま、その手の歌は、いずれにせよ、私には作れない。

 私が考えるような歌は、次のようなもの。

  
  
 婦人向け下着売り場で目を伏せる 妻の視線を感じたゆえに
 
 東映のヤクザ映画を観た帰り 肩いからしてタコ焼きを買う 
 

「このトイレ定時に水が流れます」 水でよかった血なら怖い

  

 髪上げて うなじ見せたるヤンキー娘 男に混じりて神輿を担ぐ

 

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日本人と韓国人の精神性の違い

 タレントの武田鉄矢がMCを担当する『昭和は輝いていた』(BSテレ東)という番組をときどき観ている。

 

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 武田鉄矢氏と、私は同世代。
 武田氏(70歳)の方が1年先輩だが、若いときに吸った空気が同じなので、彼が取り扱う話題の大半が理解できる。

 

 いつだったか、この番組で、昭和30年代に流行っていた「マドロス歌謡」を採り上げたことがあった。

 
 そのなかで紹介された『憧れのハワイ航路』という曲を聞いていて、ふと面白いことに気づいた。

 

 同曲は、昭和23年(1948年)にレコードが発売された曲である。
 歌手は岡晴夫
 大ヒットしたために、昭和25年(1950年)に映画化もされた。

 

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 私が生まれる前の歌なので、もちろんリアルタイムでは聞いていない。
 ただ、テレビなどの懐メロ番組でよく歌われていたので、メロディと歌詞の一部を記憶している。

 歌詞は、こんな感じだ。

    ♪ 晴れた空 そよぐ風
    港 出船の ドラの音(ね)愉(たの)し
    別れテープを 笑顔で切れば
    希望はてない 遥(はる)かな潮路
    ああ 憧(あこが)れの ハワイ航路
 

youtu.be
 2番・3番の歌詞には、南国の海に沈む夕陽や、ヤシの並木なども歌われ、リゾート地としてのハワイの情景がさんざん歌い込まれている。
 ハワイなどに行ったこともなかった日本の庶民にとっては、なんともエキゾチックな歌に聞こえたことだろう。

 

 しかし、よく考えてみると、この歌がつくられた7年前、実は、極秘のうちにハワイに近づいていた日本軍機動部隊によるパールハーバー攻撃が敢行されていたのだ。
 

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 そして、そのハワイ攻撃の5年後、日本は圧倒的な軍事力を誇るアメリカに屈し、広島・長崎に原爆を落とされたことも含め、軍人・民間人含め300万人の犠牲者を出して終戦を迎えた。

 

 その終戦から3年後に、この『憧れのハワイ航路』という歌ができたのである。

 

 改めてそのことを考えると、日本人の “変わり身の早さ” に驚嘆する。
 「くったくがない」というか、「能天気すぎる」というか ……

 

 ここには、アメリカに対する宣戦布告前に日本がハワイを奇襲したということへの道義的うしろめたさというものはないのだろうか。

 

 あるいは、軍・民合わせ300万人の同胞を殺され、かつ屈辱的な占領政策を押し付けてきたアメリカに対する恨みというものはないのだろうか。

 

 いずれにせよ、この歌には「戦争が終わればノーサイドさ !」と陽気に敗戦を受け入れる日本人のおおらかさが表われている。
  
 
 これが、もし、お隣の国、韓国であったらどうであろうか。
 けっして、この『憧れのハワイ航路』のような歌はつくられなかったろう。
 また、国民の間に、こういう歌を歓迎する空気も生まれないだろう。

 

 韓国人のメンタリティーには、自分たちを悲惨な目に合わせた外国を許さないという強さがある。

 
 たとえば、20世紀初頭に朝鮮半島を植民地支配した日本に対して、彼らは韓国という国が続く限り、日本を糾弾し続けるはずだ。

 

 もちろん日本人も、太平洋戦争中は連合軍に対し、「鬼畜米英」と敵意をむき出しにした。

 
 しかし、いったん戦争が終結すると、日本人は、自分たちの親兄弟や同胞を殺したアメリカの進駐軍に向かって、恥も外聞も投げ捨て、「ギブミー・チョコレート!」と笑顔で物乞いをした。

 

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 なんという変わり身の早さ !
 なんという厚かましさ !
 なんという屈託のなさ ! 

 

 韓国の人たちと比べて、「国民性の違い」といえばそれまでだが、ここ一連の韓国政府の「反日運動」を見ていると、改めて、両民族の気質の違いといったものを考えざるを得ない。

 

 「敵」をいつまでも許さない韓国。
 「敵」すらも、最後はずぶずぶに受け入れてしまう日本。

 

 この違いはどこから来るのか。

 

 身も蓋(フタ)もない言い方をすれば、中国大陸に接した半島国と、島国の違いである。

 つまり、いざとなったら当時最強の中国軍が地続きのまま侵入してくる朝鮮半島の国と、海によって中国から守られた日本の差だ。

 

 言葉を変えていえば、中国文化を丸ごと受け入れざるを得なかった朝鮮と、中国文化を距離を置いて眺められる日本違いである。

 

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 では、その “中国文化” とは何か?

 

 いちばん代表的なものに、朱子学儒学)がある。
 この朱子学の強化に、本場の中国以上に力を入れたことが、朝鮮民族のメンタリティーを確立した。

 

 朱子学とは、何よりも「原理・原則」を重視し、人の生き方を「論理」や「規範」で拘束しようとする学問である。

 

 朝鮮に朱子学が定着したのは16世紀の李氏朝鮮の時代である。
 この時期は、中国の明朝が満州族(清)によって征服された混乱期であったため、中国では朱子学が衰えを見せていた。

 

 それを再興したのが、李氏朝鮮朱子学者たちであった。
 この時期の朱子学は、朝鮮の学者たちが精緻な理論を確立していったため、世界の最高水準に達した。

 

 彼らは、そのとき「我々こそが中国文明を継承する者だ」と自負し、“親” である中国すら超えたと自信を持ったことだろう。

 

 ところが、その半島からさらに南にくだると、朱子学を十分に把握しきれない “劣等生” の日本人がいることを朝鮮の人々は知った。
 朝鮮の優秀な学者たちからすると、日本人は「蛮族のたぐい」に思えたかもしれない。

 

 現在の韓国人の「反日感情」のベースには、このときの韓民族の優越心が反映されていると見ることもできる。
  
  
 では、朱子学は、朝鮮民族の気質をどう変えていったのか。
 
 韓国の文芸評論家の一人(崔元植=チェ・ウォンシク)氏は、自著でこう述べている。

 「16世紀以降(朱子学をベースとした)朝鮮思想史では、何事も正統と異端にはっきり分け、少しでも正統から離脱したら、“乱賊” と罵倒していく風潮が生まれた」(『韓国の民族文学』 1995年)

 

 つまり、社会で起きていることが「事実」かどうかということよりも、「正統」か「異端」かということが重要になっていったのだ。

 

 言葉をかえていえば、「ウソであっても、正義を守るためのウソは許される」ということになる。

 

 この「正義」を何よりも最優先する苛烈な原理主義が、現在の「反日」行動の数々に影を落としている。

 韓国には、「反日無罪」という言葉があるが、その意味はどんな犯罪でも、動機が「反日」ならば許されるという意味だ。

 

 

 こういう苛烈な「正義感」を振りかざされると、多くの日本人はやはりたじたじとならざるを得ない。

 

 日本には、「水に流す」という言葉があるように、いがみ合った仲でも「最後は仲良くやっていこう」という “仲直り文化” がある。

 

 ところが、「正義」こそが人間としての至上の価値だと考える民族からみると、正義を貫く戦いを放棄し、見せかけだけの “仲良し” を志向することは唾を吐きたくなるほど恥ずかしいことなのだ。

 

 そういう強さは、日本人も見習うべきかもしれないが、「正義」と「正義」がぶつかりあったとき、果たして、どちらの「正義」が正しいのか? という問題が出てくる。

 

 答は、「勝った方の “正義” が正しい」ということになる。
  
 だから、韓国の政治では、左派と保守派が選挙ごとに血みどろの戦いを繰り広げ、負けた方の大統領は投獄されるか、自殺に追い込まれるかという悲惨な末路を迎えなければならなくなる。

 

 韓国の政変は容赦ない。
 前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏は、汚職の容疑だけで、懲役25年の刑を科せられている。
 現在彼女は67歳だから、生きて出獄できても92歳。

 

 いかにも、保守派政治家を根絶やしにしようという文在寅ムン・ジェイン)左派政権の容赦ない意志が感じられる。
 そこには、文在寅大統領と、その意向を汲んだ左翼判事のサディスティックな嗜好すら漂っていそうだ。

 

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 こういう激しさを身に付けた民族と、いま日本人は向き合っているということになる。

 
 どちらが正しいかということではない。
 「精神性が違う」ということだけなのだ。

 
 精神性の違いに、“善・悪” はないし、“正・誤” もないし、“勝ち・負け” もない。

 

 ただ、ひとついえることは、人間は「正義」を振りかざすことで高揚感を覚える動物だということだ。


 さらにいえば、人間は、「正義」を掲げて相手を倒すことに快感を感じる動物でもある。
 その度合いが、たまたま今の韓国国民の方が、日本人より高いということにすぎない。

 

 

 このような韓国人と日本人のメンタリティーの違いは、朱子学文化の濃淡だけに還元できるものではない。

 

 両国の自然風土の違いということも大いに関わってくるだろう。

 

 先ほど、「日本人には、水に流すという “仲直り文化” がある」と書いたが、それは、「水に流せるほど水が豊富だ」ということなのだ。

 

 つまり、日本の自然は、立派な保水力を確保していることを意味する。
 すなわち、国土の大半を占める日本の山にはすべて森林があり、そこから生まれる枯葉などが腐葉土となって豊富なミネラルを含む水が海に流れる。
 それがプランクトンのエサとなり、それを食べる魚が増える。
 
 この水資源の完璧な還流が日本という国土を豊かにし、そこで暮らす人々の精神性をも規定した。

 
 すなわち、日本人はこの恵まれた自然資源のおかげで、
 「一度失ったものも、時期がくればまた回復する」
 という楽天性を身に付けたわけだ。

 

 ところが、朝鮮半島の自然は、人々にそういう思考を許さない。
 朝鮮の山間部には「はげ山」が多く、当然保水力がないため、土地は痩せ、洪水や渇水も多発する。
 彼らは、一度失われた自然のめぐみは、そう簡単には戻らないことを知っているのだ。
 

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 韓国では、この朝鮮半島の「はげ山」は、日本が統治していた頃、日本人が朝鮮の資源も食料も強奪したからだ、ということになっている。

 

 しかし、実際は違う。
 作家の井上靖は、『風濤』という小説で、
 「朝鮮半島のはげ山は、元寇の折に、元軍が高麗人に朝鮮半島の木々を伐採して軍船を造らせたことが原因であり、その後も朝鮮半島の森林は十分に回復していない」
 という内容のことを小説内で記している。

 

 確か、司馬遼太郎も同じようなことを言っていた気がする。

 

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 さらにいえば、朝鮮半島の地質は、風化や浸食によって岩盤が露出する傾向が強く、そもそも木が生える可能性が乏しかった。

 
 これに加え、焼畑農業や、オンドルの薪として木を伐採することも盛んに行われ、それが朝鮮半島の自然をさらに貧しいものにした。

 

 もちろん、この両国の自然環境の差は、そこに生きる人間の感受性すらも変えた。
 
 われわれ日本人にとって、豊かな自然環境は「うるおい」とか、「いやし」の象徴となるが、韓国で生きてきた人々からすると、必ずしもそうではない。

 

 朝鮮半島で生まれ、朝鮮で幼少期を過ごした作家の五木寛之は、あるエッセイのなかで、こんなことを言っている。

 

 日本が戦争に負け、半島で暮らしていた日本人もみな祖国に戻ることになったとき、近づいてきた日本の風景を船から眺めた幼い五木氏は、その不気味な光景に立ちすくんだという。

 

 陸地という陸地に木が生い茂り、その葉先が海の上にまでどっぷりと垂れている。
 五木少年は、日本という風土が持っている過剰な生命力に不吉なものを感じ、不気味に思えたらしい。

 

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 もしかしたら、この体験が「作家・五木寛之」を生んだのかもしれない。


 少年期の五木氏が見たのは、あくまでも日本の自然環境でしかなかったが、もしかしたら、彼はその体験に、日本人の精神が抱える “不気味さ” を重ね合わせたのかもしれない。

 
 つまり、日本人というのは、まるで自然が勝手に繁茂するような “成り行き” で生きているということなのだ。

 

 日本では、人間関係においても組織構成においても、はっきりした命令系統があるわけでもないのに、いつのまにか人が動いて、何事かが進行していく。

 
 そこには、人間を超えた「自然」の摂理が、そのまま人間関係までをも支配しているという不気味さがある。

 

 五木氏はそう感じながら、その違和感を文筆活動のモチーフにしていったのかもしれない。

 

 
 このように、韓国と日本では自然環境そのものが異なるため、それが両国の国民感情に “良い面” と “悪い面” をもたらした。

 

 韓国の苛烈な自然は、人間関係においても容赦ない関係をつくり出したが、日本の “豊かな自然” は、ある意味で日本人を甘やかしたともいえる。
 
 つまり、日本人は敵同士になっても、最後は「水に流して」仲良くするという文化をつちかってきたわけだが、けっきょくそれは、「まぁまぁ、なぁなぁ」というお互いを甘やかす関係を生んだ。

 

 たとえば、「喋らなくてもお互い分かるよな」という以心伝心(いしんでんしん)の心とか、阿吽(あうん)の呼吸といった間の取り方。
 そして、
 「命令されるまえに、上司の気持ちを汲んでおこう」
 という忖度(そんたく)。

 

 こういう非会話的なコミュニケーション文化が日本では一般的になったが、それは、ある意味人間関係に「甘えの構造」をもたらした。

 

 言語化されないがゆえに、証拠や証言も残らず、いわば無責任な人間関係をつくりやすくなるのだ。
 
 さらに、これがもっと大きな組織の問題にまで広がると、ある上層部の決断が膨大な被害をもたらしても、誰もその責任を取らないという最悪の事態をもたらすことになる。
 その最たる例が、第二次大戦中の日本の軍部とそれを補佐した政治家たちである。

 

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 あのような悲惨な戦争を遂行しながら、けっきょく誰も責任を取らずに戦後を迎えてしまったために、今を生きるわれわれ自身が、あの戦争を「自分の責任」として自覚する契機を持ちにくくなっている。


 韓国から突き付けられた “歴史問題” というのは、まさにそこを突かれたわけだ。

 

 「あなた自身は関わっていなくても、あなたの属している国家は、かつてひどいことしたのですよ」
 と、“正義” にこだわる韓国人はそう責めているのである。

 

 こういう “責め方” は、昔からライバル同士のいざこざを “水に流してきた” 日本人にとっては理不尽極まりないことだろう。

 
 しかし、そういう日本人の常識が通じないのが、国際社会というものなのだ。
 だから、自国の常識だけ掲げていても、「外交」で勝利することはできない。
 
 
 最後に、結論めいた話になるが、けっきょく豊かな自然を持つ民族、あるいは豊かな風土からは「思想」というものが生まれない。

 

 「文化」には、その土地・その民族の豊かさが反映されるが、「思想」は “欠如” から生まれる。


 ユダヤキリスト教(そしてイスラム教)的な一神教の思想は、砂漠を背景に持つ乾いた風土からしか生まれなかった。

 

 “貧しさ” がはぐくむ「思想」は、人間にものを考える契機を強いるが、ものを考えなくても生活が満足される “豊かさ” は、人間を惰弱(だじゃく = へたれ)にする。
 
 「へたれでもいい」というのが、今の日本人だ。
 「意地を張り合ってケンカするよりも、へたれ同士で仲良くなろう」
 というのも、一つの考え方だからだ。
 誰がそれを責められる?

 

 それはそれで、「幸せ」の一形態であることは確かなのだから。
 

 

 

ラグビーで活躍する “古代戦士” たち

 ラグビーワールドカップを面白く観ている。
 最初はそれほど関心がなかった。
 しかし、日本代表が初戦でロシアを破ってからがぜん興味が湧き、他のチームの試合もフォローするようになった。

 

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 ラグビーに熱い関心を持っていたのは、もう40年ぐらい前の話だ。
 若い頃の年末年始の楽しみは、ラグビー観戦だったのだ。 

 

 北島監督のいた明大ラグビーが好きで、そのときのスタープレイヤーだった松尾雄治の後を追って新日鉄釜石のファンになり、その後は平尾誠二のカッコ良さに惹かれて、同志社神戸製鋼を応援するようになった。

 

 いずれにせよ、古い話だ。
 松尾や平尾が現役を去ってからは、だんだんラグビーへの関心を失い、その後は日本のラグビーがどういう進歩を遂げていたのかも、ほとんど知らなかった。

 

 しかし、今回のワールドカップを観て、一種のカルチャーショックに近い衝撃を受けた。

 

 恥ずかしい話を告白すると、最初はテレビ画面を観ただけでは日本チームとは思えなかった。
 


 外国人が多い。
 相撲取りやプロレスラーを彷彿とさせる体型の人が多い。
 奇抜な髪形の選手が多い。

 

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 サッカーに比べると、同じ「フットボール」を名乗るスポーツでも、選手たちの雰囲気があまりにも違いすぎるため、違和感を払しょくするのにしばしの時間が必用だった。

 

 しかし、観続けているうちに、昔、早明戦やら新日鉄釜石とか神戸製鋼の試合をフォローし続けていた頃の感激がよみがえった。

 

 ただ、今回のワールドカップに出てきた選手たちから受ける迫力は、昔とはまるっきり違っていた。

 

 古代のスパルタ兵やらローマ兵が出てくる歴史映画の戦闘シーンを見ている感覚に近い。


 「古代戦士たちの復活」

 そんな言葉を与えたくなった。

 

 思えば、ここ最近のスポーツは、妙に都会的に洗練されてきた。
 オリンピックの種目をみても、スケートボード、サーフィン、BMX、スポーツクライミング、ビーチバレーなど、元来は遊びの部門から発達してきたものが増えてきた。

 

 そういう競技を支えるのは若者が中心となるから、参加者の顔を見ても、男子はイケメン、女子は美女が増えてきた。
 彼らの身体は細く、スマートで、とても都会的である。

 

 そういうアスリートたちが主流になり始めたとき、ラグビー選手たちが発散する野性的な “男臭さ” には意表を突かれた。

 

 日本人なら、頭の上に戦国時代の兜(かぶと)でも載せた方が似合いそうな顔立ちだし、外国人は、海上から敵地に上陸するバイキングのような顔をしている。

 

 つまり、彼らの肉体は、何百年という時の風雪をかいくぐり、現代に突如タイプスリップしてきたような迫力を発散している。

 

 ニュージランド選手たち(オールブラックス)が試合前に披露する踊り(ハカ)をみても、明らかにサッカー文化とは異なる “匂い” を感じる。

 

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 ニュージランドの先住民マオリ族の男たちが、部族間の戦闘の前に、自分たちの戦意を高揚させる儀式が「ハカ」の起源だというが、そういう太古の儀式にこだわる現代スポーツが、ほかにあるだろうか。

 

 そこにサッカーとの大きな違いをみた。

 
 ひたすら洗練の極致に向かおうとしているサッカー文化に対し、ラグビー文化は、原始時代から一貫して求められてきた “男の生存原理” というものにこだわり続ける。

 

 そういう時代錯誤的な “野蛮さ” と、高度な訓練とスピードに保証されたスマートな戦術。
 そのアクロバティックな取り合わせが、現代ラグビーの面白さなのだろうと思う。
  
 ラグビーワールドカップからはしばらく目が離せない。

 

 

陸の帝国(中国)の復活

 ドイツの哲学者カール・シュミットによると、
 「世界史は、“陸の国家” と “海の国家” の戦いだった」
 という。

 

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 もちろん “陸の国家” の歴史の方が古い。
 古代の西アジアに栄えたアッシリア帝国ペルシャ帝国。
 中世のサラセン帝国。

 東アジアでは、中華帝国モンゴル帝国
 近世の中東を支配したオスマン帝国
  
 古代から近世にかけての世界史は、このようなアジア型専制君主が統治する大帝国が版図を広げる歴史だった。
 フランスの “ナポレオン帝国” やナチスドイツの “第三帝国” なども、陸の国家の部類に入る。

 

 船による大量の物資や軍隊の輸送が可能になるまで、大軍団を派遣するのは陸路しかなかったから、“陸の国家” が近隣の小国を併合し、広大な領土を獲得していくのが当たり前だったのだ。 
 
 
 これに対し、“海の国家” として世界制覇を成し遂げたのが、18~19世紀のイギリスである。

 

 イギリスは大陸型の諸国家に比べ、国土も狭く、人口も少なかった。
 そのため、大陸国家に対し、陸上で戦いを仕掛けるには、ハンディがありすぎた。

 

 そこで、洋上に活路を求め、陸型国家の “海の通商網” を切り裂くという戦略に出た。
 すなわち、海賊である。

 

 近世ヨーロッパ最大の陸軍国家スペインは、南米のインカやアステカを征服し、そこで略奪した金銀財宝を船に積んで本国に搬送することで富を築いていた。

 

 イギリスの海賊たちは、その大西洋を行き来するスペイン船を襲い、スペインが略奪した南米の財宝を海上で横取りしたのだ。

 

 これがイギリスの富の源泉となった。
 彼らは、ヨーロッパ最強の海軍を建設。歴史上初の海洋国家として世界制覇を成し遂げた。
 

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 アメリカもまた、イギリスの血を受け継いだ海洋国家である。
 アメリカ大陸そのものが広大だから、海洋国家というイメージは薄いが、第二次大戦では、大西洋を横切ってナチスドイツと戦い、次に太平洋を越えて日本を制圧した。
 いずれの戦いも、それを支えたのは相手国の海域で空軍を展開できる海軍力だった。


 こうして、20世紀は、イギリス/アメリカというアングロサクソン系民族による海洋国家が、アジア/ヨーロッパの陸型諸国家をコントロールするという形で推移した。

 

 この海洋国家群の勝利を、政治的には「自由主義の勝利」といい、経済的には「資本主義の勝利」という。
  
  
 しかし、21世紀になると、大陸型国家の逆襲が始まった。
 その一つが中国であり、もうひとつはロシアである。
 ともに、かつては「共産主義」というイデオロギーで自国を染め上げていた大国だ。

 

 中国には、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清という壮大な王朝の歴史があり、ロシアにはロマノフ王朝という絶対権力を確立した歴史があった。

 

 その二つの “陸の帝国” が、イギリス・アメリカ型の “海の王国” の優位性をくつがえして、再び地球上にその覇権を確立しようとしているのが現在だ。

 

 特に、経済力でアメリカに次ぐ力を持ち得た中国の発展には目を見張るものがある。
 広大な版図、膨大な人口。
 アメリカをしのぐまでに発展した IT テクノロジー
 今の中国は、歴代中華王朝のなかでも、最強の陸上帝国を築きつつある。 

 

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 このように、「陸」の勢力が「海」の勢力に反転攻勢を仕掛けられたのは、やはり核兵器とミサイルという “海を超える兵器” の配備が充実してきたからだ。
 さらには、21世紀型のサイバー兵器が発達したことも挙げられる。
 サイバー兵器の進展によって、“海” と “陸” という地勢的な区分けはまったく意味を失った。

 

 そうなると、中国のような、広大な領土と莫大な人口に支えられたシンプルな “数の論理” が、けっきょく「国力」そのものとなる。

 

 その中国の “国力” に押されて、現在香港(ホンコン)で起こっている民主化デモも早晩鎮圧されるだろうし、次は台湾が中国に呑み込まれるだろう。

 過去にも、中国はチベット人を弾圧し、ウイグル民族を弾圧して、中国政府への抵抗を封じ込めてきた。

 

 こういう弾圧政策は、ある意味、中国の立場に立つとやむを得ない部分がある。
 中国のように、文化や宗教の異なる多民族がひしめき合う国家になると、個々の民族の自由を容認すると収拾がつかなくなる。

 

 収拾がつかなくなれば、分裂が生まれ、反乱が生まれる。
 それを防ぐために、中国は強力な国家理念を掲げて人民を管理しているのである。
 
 
 では、国家による管理が強くなると、個々の人民はどうなるのか。

 どの人も、人間性を「数値」に還元して理解するような思考を自然に受け入れるようになる。


 具体的には、たくさん儲けて、お金持ちになれる人を「優秀な人間」と評価する傾向が強まる。

 言葉を変えていえば、それは「人間のAI 化」である。
 
 実際、いま中国では、人間の能力や個性をAI を使って数値化していくことがブームとなり、結婚でも企業への就職でも、AI による人間評価が重視されつつあるという。

 

 つまり中国では、新しい “人間観” が生まれつつあるのだ。

 

 こういう人間観の先に見えてくるのは、人間の「個性の違い」よりも「同一性」を重んじる社会だ。

 そういう社会では、「個々人の違い」を前提とする「民主主義」という政治思想も必要なくなる。
 
 
 こういう中国社会の動きを「民主主義の死」として捉えるような危機感は、現在のアメリカにはない。

 

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 トランプ大統領の頭のなかにあるのは、中国との貿易戦争を通じて、最終的には、アメリカがどれだけ利益を確保できるかどうかということだけであり、東アジアの民主主義が危機的状況に陥っているかどうかということに対しては、トランプ大統領の感受性では捉えることができない。

 

 「陸の大国」として復活した中国に、かつての「海洋王国」アメリカが破れていくのは時間の問題という気もする。
 
 アメリカの凋落を招いたのはトランプだという意見も多いが、そもそも斜陽に傾いたアメリカそのものがトランプを登場させたという言い方もできる。
 
 同じことがイギリスにもいえる。
 EU離脱問題にいまだに決着を付けられないイギリスも、かつて海洋国家として “七つの海” を支配した頃の面影はない。

 
 イギリス議会を混乱に導いているボリス・ジョンソン新首相も、凋落していくイギリスそのものが生んだ指導者といえる。

 

 このような “西側諸国” の劣勢を計算した韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は、日米韓の連携を抜け出し、北朝鮮や中国などに歩み寄る姿勢を見せ始めた。

 

 要は韓国でも、強大な勢力を確立した文在寅ムン・ジェイン)政権によって、民主主義が死滅しようとしているのだ。

 

 文在寅ムン・ジェイン)政権を支える政治勢力(「共に民主党」)は、民主主義運動を推進する「進歩派」を語っているが、それは現在香港などの若者が掲げる民主主義とはまったく別ものである。


 つまり現在の韓国大統領府(青瓦台)は、自分たちの保身と利益を優先する既得権益集団と化してしまっている。

 

 そもそも「民主主義」という思想そのものが、第二次大戦後の一時期だけ可能になった奇跡でしかなかったという見方もあるのだ。

 

 日本はそれを守り続けるのか。
 それとも、それに代わる新しい政治理念を打ち立てるのか。

 

 いずれにせよ、深刻に考えないと、東アジア全体から「民主主義」は霧散していく。 

文在寅大統領のしたたかな野望

 ここ1ヶ月ほど、日本のメディア(特にテレビ)は、ほとんど連日 “戦後最悪” といわれる日韓関係の報道に徹している。


 現在その話題の中心は、文在寅ムン・ジェイン)大統領の最側近で、文(ムン)氏の後継者として次期大統領の候補と目されている曺国(チョ・グク)氏の不正疑惑について集中している。

 

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 識者のなかには、
 「安倍首相に対する “モリカケ騒動” などをあっさりパスした日本のマスコミが、隣国大統領側近の不正問題などを過熱報道するのはおかしい」
 という人もいる。

 

 確かにそうだが、現在隣国で展開しているこの文在寅ムン・ジェイン/曺国(チョ・グク)騒動の方がはるかに面白いのも事実だ。
 すでに多くの人が指摘するように、これは “生きた韓流ドラマ” であるかもしれない。

 

 しかし、この文在寅ムン・ジェイン)大統領をめぐる一連の騒動は、韓国内の革新勢力と保守勢力の政権闘争を超えた新しい問題を提起している。

 

 すなわち、これは半島国家の韓国が、三方を海に囲まれた “海洋国家” から、大陸の中心部をめざす大陸国家へ移行しようとするきっかけをつかもうとしている騒動なのだ。

 

 文在寅氏の頭にあるのは、北朝鮮と一体となった “ワンコリア” 構想である。
 韓国と北朝鮮が統一されれば、韓国にとって、北朝鮮は大陸への大きな橋頭保となる。

 

 北朝鮮にも海はあるが、その領土的特徴は、半島というよりも、むしろ中国やロシアの国境に食い込む大陸国家としての性質を持っている。

 

 そうなると、統一朝鮮は、国境を接する中国やロシアの旧共産主義陣営と友好的な関係を構築していかなければならなくなる。

 

 「それでいい」
 と文大統領は舵を切った。

 

 「反日」「GSOMIA(ジーソミア)の破棄」といったカードを日本に突き付けた文在寅ムン・ジェイン)大統領は、これまでの “アメリカの飼い犬” という役割を捨て、領土的にも近い中国やロシアとの協調関係を重視するという方針を掲げたのだ。

 

 日・米・韓という自由主義陣営の安保体制を基本に考えてきた日米政府からみると、文(ムン)大統領の方針は、現実を直視することのない無謀な決断に映る。

 

 しかし、もしかしたら、文(ムン)氏というのは、「理想」ばかり追う夢想家ではなく、実はその逆の、案外したたかなリアリストかもしれない。

 彼は、
 「日・米・韓といった軍事同盟は20世紀の遺物にすぎない」
 と、早い時期から見切りを付けていたように思う。

 

 彼は、学生運動のときに身に付けた「社会主義的正義感」を振りかざすだけの原理主義者ではなく、むしろ、中国のプレゼンスが増大していく新しい東アジアの秩序に対応しようとする現実主義者かもしれないのだ。

 
 では、文(ムン)大統領の頭のなかには、どういう韓国の未来像があるのだろうか。
 「朝鮮半島に “核” を持った新国家を誕生させる」
 というビジョンである。

 

 北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)委員長が、アメリカとどういう交渉を続けようが、けっきょく金正恩は「核」を手放さないと文在寅ムン・ジェイン)は見抜いている。
 むしろ、「核」をもった北朝鮮と一体化した方が、文在寅にとっても有利である。

 

 核兵器を持つワンコリアが誕生すれば、同じ核保有国である中国やロシアと対等に接することができるし、アメリカに隷属するという戦後構造から抜け出すこともできる。
 彼の頭のなかには、そういう計算があるように思える。

 
 しかし、問題がひとつ。
 北朝鮮が、はたして韓国との統一話に乗ってくるかどうか。

 

 現状では無理である。
 これに関しては、文(ムン)氏も、北朝鮮の金(キム)委員長が、韓国からの呼びかけに対して冷たい返事しか送ってこないという現実に直面している。

 

 韓国との間に経済格差や文化格差を抱える北朝鮮の金(キム)委員長は、南北統一によって、北朝鮮人民の精神的崩壊を恐れているのだ。

 

 だから、半島の統一が実現するとしたら、それは北朝鮮主導型の “赤化統一” しかあり得ないというのが日本やアメリカの識者のこれまでの見立てだった。
 もちろん私もそう思っていた。

 

 しかし、文在寅氏は、もしかしたら赤化統一ではなく、韓国主導型の半島統一を密かに画策しているかもしれない。

 

 どういうことか。

 

 もし、南北統一が実現されたら、韓国経済や韓国文化に触れた北朝鮮人民は、資本主義社会の豊かさに圧倒され、あっという間に耐乏生活に耐えてきた精神力を骨抜きにされるはずだ。

 

 そうなると彼らは、それまで自分たちを抑圧していた金正恩キム・ジョンウン)政権に反旗を翻すかもしれない。
 場合によっては、北朝鮮軍によるクーデーターが勃発することも考えられる。

 

 そのときは、韓国軍が北朝鮮軍の動きに呼応して、金正恩政権を倒す。
 文在寅氏(ムン・ジェイン)という人は、そのくらいのことをやりかねないしたたかな政治家だ。

 

 南北対談のときは、文在寅ムン・ジェイン)氏は、金正恩キム・ジョンウン)氏に親し気に握手を交わし、顔全面に好々爺といった笑みを浮かべていたが、その内心はどうであったか。

 

 彼は案外、韓国主導による北朝鮮併合を計算していたかもしれない。

 

 もちろん、そういうことが起こったときには、文在寅氏はすでに大統領職から退いている。

 
 しかし、今回法相になった曺国(チョ・グク)が自分の跡を継ぎ、その次も “親北朝鮮” 的な革新政権が続いていけば、文氏の野望はやがて達成される。

  
 曺国(チョ・グク)氏は、その文(ムン)氏の意志をより強固に推進していく政治家だといわれている。

 

 彼らのプロパガンダの推進力となっているのが、「反日」だ。

 

 文在寅ムン・ジェイン)氏や曺国(チョ・グク)氏の掲げる反日思想は、ナチス政権の掲げた反ユダヤ思想に非常に酷似している。

 

 ヒトラーは、ドイツ国民の団結力を高めるために、反ユダヤ主義を呼びかけることを思いついた。

 
 そして、ドイツ人たちに、ユダヤ人商店への不買運動を呼びかけ、ユダヤ商人の店には “立ち入り禁止” の札を貼り、ユダヤ企業をつぶしてその資産を没収した。

 

 「日本製品不買運動」、「日本 “戦犯企業” 商品のレッテル貼り」など、現在の韓国文政権に同調する様々な組織による反日行動は、まさにナチス政権下のユダヤ弾圧そのものを踏襲しているように見える。

 

 だが、ヒトラー反ユダヤ主義が、やがて国際社会の裁きを受けたように、文(ムン)政権の反日主義も長くは続かないかもしれない。

 

 これもすでにいろいろなメディアで報道されていることだが、文政権の極端な「反日プロパガンダ」の異様さに気づいた韓国の若者たちがたくさん生まれているという。

 

 そういう新しい韓国の若者と、どういう連帯を持つべきか。


 それがこれからの日本政府と日本のメディアに課せられたテーマである。
 文政権の「反日」に対抗するために、日本人の間に「嫌韓」を煽ることこそ、もっとも愚かな行為である。

  

民主主義の時代は終わったのか?

 2017年に、トランプ氏がアメリカの大統領に就任して以来、世界が劇的に変わった。

 

 その最大の特徴は、第二次大戦後にスタートした西側諸国による「自由と民主主義」を標榜する政治理念が地盤沈下したことだ。

 

 経済的にみれば、それはグローバル経済の終焉であり、閉ざされた保護貿易の復活という形をとった。


 世界はどこの国においても、「自国ファースト」の政策に急速に舵を切り、国際政治のテーマから国同士の「協調」や「助け合い」という理念が縮小していった。

 

 「自国ファースト」というのは、いってみれば、それを標榜する国家元首の「自分ファースト」を意味する。


 つまり、権力者のわがままがその国の政治を左右し、しいては国際社会のルールすら変えてしまおうという政治が生まれてきたのだ。

 

 アメリカのトランプ大統領
 中国の習近平主席。
 北朝鮮金正恩委員長。
 ロシアのプーチン大統領
 イギリスのボリス・ジョンソン首相。
 そして、いま話題の韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領。

 

 これらの21世紀に出現した政治リーダーは、基本的にみな「自分ファースト」の政治家である。

 

 これに、ブラジルの新しい大統領ジャイール・ボルソナーロ。
 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領を加えてもいいかもしれない。

 

 これらの新興国国家元首に共通していえることは、みなアメリカのトランプの政治を参考にしているか、もしくはトランプに共感していることだ。

 

 すなわち国益よりも、自分の人気の方を優先し、その人気を維持するためには、国民にフェイクニュースを流すことなども日常茶飯事。国民の気持ちが離反しそうになると、国外に仮想敵国をつくり、小気味よい口調でその国を批判する。

 

 こういう政治家が現れると、昔の国民は “独裁者” として警戒したりしたが、現在はその “独裁者” を支持することが国民のひとつの “遊び” になってきている。

 

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 では、世界で何が起こっているのか。

 

 「民主主義」というものが死滅しかかっているのだ。

 

 民主主義が定着するには、その国において、ある程度の経済成長が維持されており、かつ国民の教育レベルが高く、経済格差が少ない社会であることが条件となる。
 
 そういった意味で、20世紀の民主主義をもっとも体現した国家は、戦後の高度成長期を体験した日本だけだったかもしれない。

 

 しかし、21世紀になると、どの国家においても、経済格差や教育格差が拡大し、民主主義が機能する土壌が崩れ始めた。

 

 地球規模で、「21世紀型不平等社会」が出現したのである。

 

 こういう社会においては、国民はみな困っている人に手を差し伸べようという余裕を失い、誰もが自分より裕福な人々にジェラシーを抱くようになる。
 つまり、お互いに相手の意見を尊重し合うという「民主主義」的精神が希薄になっていくのだ。

 

 実際に、ロシアのプーチン大統領は、自由主義諸国が育ててきた「民主主義」に対し、「もうそれは時代遅れの思想だ」と断言するまでになった。

 

 イギリスの新首相になったボリス・ジョンソンも、さっそく民主主義的手法を排除し、自分の独断で議会を閉会してしまった。

 

 韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は、閣僚から裁判官まで自分に忠誠を誓う左派系の人材で固め、反対する声を徹底的に弾圧している。

 

 アメリカのトランプ大統領も、基本的に民主主義という思想にほどんど共感を示さない。

 

 こういう「自分ファースト」を行動原理にしている国家元首たちは、国を統合するという意志を最初から持たない。


 むしろ、「分断」と「対立」を煽る。

 

 国を統合するということは、きわめて理性的な地道な努力を要求する。
 国民の知性を訴えかけなければならないからだ。

 

 そういう努力の積み重ねが「民主主義」の基盤になるのだが、21世紀の国家元首たちは、この理性的な国民統合を放棄し、「分断」と「対立」を煽る道を選んだ。

 

 政治家の演説においては、威勢よく「分断」と「対立」を叫ぶ方が「相互理解」や「友愛」を求めるよりも人気を得やすい。
 人間は、感情的な動物だからだ。
 
 そのことを知っている新時代のリーダーたちは、最初から100%の国民の支持など期待しない。
 40%程度の支持があれば、十分に国家運営ができると思っている。

 

 つまり、知性的な国民の60%の支持を期待するより、感情的に熱狂しやすい40%の岩盤支持層さえあれば、自分の地位は安泰であるということを新しいリーダーたちは分かってきたのだ。


 こういう政治リーダーたちの精神的背景になっているものは何か?

 

 「権力欲」

 

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、その言葉に尽きる。

 
 しかし、権力欲というのは後天的に目覚めるもので、それ自体は人間の本能ではない。

 

 最初から権力欲を満たしたくて、誰もが政治家になるわけではない。
 ほとんどの政治家の場合、その最初の動機は、国民や共同体に奉仕するというピュアな使命感であったはずだ。

 

 つまり、権力欲というのは、権力を手にできるようになった人間が、組織や他人を自在に動かせるようになってはじめて芽生えてくる “欲望” である。

 

 それはすさまじいほどの “快感” を権力者に授ける。
 独裁者というのは、そういう権力に対する “欲望” を自分だけが独占したいと思う人間のことだ。

 

 現在、この欲望にいちばんどっぷり浸かってしまったのが、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領である。

 
 彼は、清廉潔白な “人権弁護士” という看板を掲げて政界に進出したが、大統領に就任してから、権力を行使することの快感を知ってしまった。

 

 (繰り返しになるが、)彼は前政権の息のかかった閣僚をことごとくパージし、最高裁の判事たちまで、自分と同じ思想の人間を抜擢し、韓国の左派系大統領としては、かつてないほど強力な執行体制を築いた。

 

 そうやって、権力の頂点に登りつめた人間は、今度はその座を奪われることに対する恐怖や不安と戦うことになる。
 彼の最近の常軌を逸した日本バッシングの言動などをみていると、すでに病(やまい)の兆候すら感じ取れる。

 

 さらに、GSOMIA(ジーソミア)破棄に関しては、アメリカまで騙そうとして、トランプ大統領に「信用できない人物だ」とまで批判された。

 

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 文在寅ムン・ジェイン)氏の悲願である朝鮮半島の南北統一は、北朝鮮金正恩委員長がいるかぎり実現することはない。

 

 文在寅ムン・ジェイン)氏が、いくら北朝鮮へラブコールを送っても、金正恩委員長から冷たい返事しかもらえないのは、金正恩にその気がないからだ。

 

 考えてみれば簡単なことである。


 アメリカ文化になじみ、豊かな食生活や娯楽文化に慣れ親しんだ韓国の人々が、今の貧しい北朝鮮の人民と交流するようになれば、金委員長には、もう貧しい生活に耐えてきた北朝鮮の人民をコントロールすることが不能になる。

 それは、彼が維持してきた体制の崩壊につながる。

 

 だから、金正恩委員長の頭には、あくまでも北朝鮮主導型の南北統一しか存在しない。


 そして、現状ではそれすらも困難であることを金委員長は分かっているから、彼は即急な半島統一を望んでいない。

 

 それを韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は理解できているのかどうか。

 

 それとも文氏は、北朝鮮に対する韓国の圧倒的な “経済力” と “文化的優位性” で、金正恩体制を圧倒するつもりでいるのだろうか。

 

 いずれにせよ、文在寅氏は、日本人の心を読めない以上に、同族である北朝鮮の人々の気持ちも読めていない。

 

 幸いなことに、硬直化した文氏の思考に懐疑的な韓国の若者が増えてきているという。
 それは日本にとって朗報である以上に、韓国民にとって素晴らしいことだと思う。

 

 

韓国人のプライドの根底にあるもの

 8月22日以降の夜のニュースは、どのメディアにおいても、韓国によるGSOMIA(ジーソミア=日韓軍事情報包括保護協定)の破棄通告がトップニュースを飾っている。

 

 日本の安全保障問題の解説者はみな一様に、この韓国政府の決定を “愚行” というニュアンスに近い言葉で表現した。

 

 日本政府の高官たちの発言によると、(韓国政府のGSOMIA破棄通告は)軍事合理主義的には考えられないような決断であり、政治的にも経済的にも、理性的な配慮をはなはだしく欠いた行動だという。

 

 しかし、こういう観察は、文在寅ムン・ジェイン)政権による今の韓国が合理性を重んじる “近代国家” だという前提で成り立っている意見にすぎず、「近代国家」という枠組みを外せば、別に驚くに当たらない。

 

 「近代国家」が地球に誕生する以前には、政治常識や経済合理性よりも、国民の感情的な盛り上がりや政権のプライドやメンツを優先して、時に無謀な戦争に突入していった国もたくさんあった。

 

 中世のヨーロッパ諸国で盛り上がった十字軍の遠征などは、意味のない宗教的な高揚感に突き動かされて中東に軍隊を進めた国家的愚行の最たるものだった。

 

 つまり、文在寅大統領は、「日本憎し」のあまり、近代国家としての政治力学や経済成長を無視した情念的決断を下したのであり、それによって、今の韓国は、浮世離れした理想主義によって国民統一をめざすイデオロギー国家だったということが、より鮮明な形で浮き彫りになった。

 

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 20世紀には、ソヴィエト連邦中華人民共和国北朝鮮のような社会主義イデオロギー国家がたくさん登場した。
 それらはみな国民の感情に訴えるプロパガンダを駆使して、国民を洗脳しようとした。

 

 しかし、現実的な視点を欠いた理想主義的国家運営がうまくいくはずはなく、ソ連は崩壊し、中華人民共和国は、当初の理念を修正して共産党独裁による資本主義国家へ宗旨替えし、北朝鮮も「社会主義国家」とは無縁の “金王家” が支配する独裁帝国としての道を歩んだ。

 

 もちろん韓国は、自由主義陣営に名を連ねる “民主主義国家” という体裁をとっている。

 

 しかし、文在寅ムン・ジェイン)大統領の目指しているものは、民主主義の精神を象徴する “多様性” を排除し、自分自身の理想を実現するための実験的な国家である。

 

 すなわち、現実政治とは無縁の抽象的な「夢」や「理想」で国民を引っ張ろうとする国家を目指している。

 

 そういった意味で、今の文在寅ムン・ジェイン)政権のやっていることは、冷戦構造の崩壊によって20世紀型社会主義イデオロギー国家が消滅したあとに登場した “新・イデオロギー国家” といえるものかもしれない。

 

 文在寅氏とその側近たちにとって「政治」とは、「正義」を実現する手段にほかならない。


 その場合の「正義」とは、かつて朝鮮半島を植民地支配した日本を徹底的に断罪し、日本を擁護する保守派勢力を韓国内から完全に排除することである。

 

 文在寅ムン・ジェイン)大統領は、先の8月15日の「光復節」の演説において、「2045年には朝鮮半島における南北統一を実現し、それによって経済的にも日本より優位な立場に立つ」と明言した。

 

 この発言そのものが、現実よりも理念を優先するイデオロギー的判断にほかならない。


 政治形態も国家運営理念も異なる北朝鮮と、いったいどうやって統一を実現しようというのだろう。

 

 そもそも自分の体制の存続しか考えていない北朝鮮金正恩委員長と、いったいどういう連携を取るつもりでいるのか。
  
 もし、今の状態で南北統一が実現すれば、韓国の国民が北朝鮮の人民と同じように、言論弾圧思想統制を受けるような国が生まれることになることは火を見るよりも明らかである。

 

 なのに、文在寅大統領は、そういう未来予測には目をつぶり、半島が統一されることに対する “夢” の部分しか語らない。
 
 南北統一が実現すれば、日本を超える経済大国が極東に出現することになり、長年続いた日本の優位性をくつがえす理想国家が誕生するという。

 
 もちろん、今のところ数値的にそれを裏付ける根拠はなく、文大統領の頭の中にしか存在しない能天気なビジョンにすぎない。

 

 しかし、彼は国民に嘘を言っているのではない。
 ほんとうに “バラ色の未来” を確信しているのだ。 
 ただ、彼のいう “バラ色の未来” は、現実を無視することによってようやく見えてくる幻想の未来でしかない。
  
  
 しかし、それにしても、なぜ文在寅ムン・ジェイン)大統領を中心として現政権は、それほど日本を敵対視するのか。

 

 そこには、日本人には理解できない彼らの「歴史観」というものがあるように思える。

 

 その「歴史観」とは何か。

 

 彼らの歴史観は、
 「我々は日本人より優越した民族である」
 という自負に支えられたものだ。

 

 もちろん、それには根拠がある。
 東アジアの歴史は、政治においても文化においても、常に中国が指導的な立場に立って周辺国をてなづけるという形で推移してきた。

 

 地政学的にも中国の脅威から逃れられないと悟っていた朝鮮半島の人々は、常に中国周辺国のなかのナンバーワンという地位を目指して研鑽を重ねてきた。

 

 つまり、朝鮮民族は、
 「自分たちは、日本よりも早く中国文明に接した先進民族であり、文明的にも人格的にも、日本人より上である」
 という意識を長い時間をかけてつちかってきたのである。

 

 ところが、近代になって、“後進国” であるはずの日本が突然国力を伸ばし、あろうことか、朝鮮半島に侵略を開始した。


 一時的にせよ、今まで見下していた日本人の統治を受けたということは、朝鮮民族にとって忘れられない屈辱だといっていい。

 

 そういう彼らの “痛み” に対して、ほとんどの日本人は無自覚である。

 

 これははっきり日本が悪いといえるのだが、朝鮮を支配した当時の日本人は、あからさまに朝鮮人を侮蔑して差別していた。

 

 それは、朝鮮半島を占領していた昔の日本軍の国策からきた悪しき風習であったと思う。

 

 日本が戦争に負けて、半島から撤退しても、当時の日本人が口にしていた「朝鮮人」という言葉には、どこか侮蔑的な響きがこもっていた。

 

 人をバカにする用語のひとつに、
 「バカだ、チョンだ」
 という表現があるが、その「チョン」とは「朝鮮人」を指す蔑称だという見解もあり、その後、この表現はだんだん使われないようになった。

 

 しかし、そういう表現が生まれるくらい、昔はあからさまな朝鮮人差別があったのだと思う。

 

 私自身の記憶をたどっても、1950年代、私の叔母などが家族の会話のはしばしで朝鮮民族を差別的に語っていたことがあった。

 

 その後、半島系の人々を侮蔑的に語る風潮はじょじょに影を潜めていったが、現在70代から80代ぐらいの日本人のなかには、昔、半島系の人を差別して侮蔑していたという記憶を持っている人がかなりいるのではなかろうか。

 

 当然、在日韓国人のなかには、老人を中心に、日本人から侮蔑的な待遇を受けたという記憶を消せない人もいるはずである。


 現在韓国にいる人でも、古い人は、当時日本人から差別されていたという苦い思い出を持っている人がいるように思う。

 

 もちろんこういうことは、日本人においても、韓国人においても、若い人は知らない。


 私(69歳)自身も、自分の生活のなかには実感がない。
 ただ、私たちの上の世代は朝鮮人を差別していたという事実が当時の記憶をただっていくと、何となく見えてくる。

 

 文在寅ムン・ジェイン)大統領が、
 「日本人は加害者なのだから謝罪しなければならない」
 と常にいうのは、かつて日本人が朝鮮人を差別していたという事実に照らし合わせてみれば、その部分だけは正しいような気もする。

 

 現在の文在寅ムン・ジェイン)政権が日本に要求してくる様々な事案はすべて理不尽な言いがかりにすぎないが、だからといって、事務的に、機械的に突っぱねているだけでは埒(らち)が明かない。 

 

 実際の交渉は政府に任せるしかないが、われわれ民間人は、韓国人のプライドや、それが傷つけられたときの痛みなどについて、少しは想像してやってもいいように思う。

 

 

カントリーミュージックからアメリカを読む

 10代の頃からずっと洋楽を聞き続けて、60年以上経つ。

 

 1960年代初頭のコニー・フランシスニール・セダカのようなアメリカンポップスに始まり、ビートルズストーンズ、さらにはクリーム、レッドツェッペリンというUKロックに移行し、その後はアメリカのソウルミュージックR&B)、ブルース、ゴスペルという黒人音楽にハマった。

 

 しかし、この夏、YOU TUBEアメリカの最近のカントリーミュージックをずっと聞き続けるという1週間を持った。

 

 特に目的があったわけではない。
 偶然拾ったカントリーミュージックの何曲が、これまでまったく接したことがない新しい “文化” に感じられて、なんだかとても好奇心をくすぐられたからだ。


ロックとカントリーの違い

 

 カントリーっぽい感じの音楽に接したのははじめてではない。
 60~70年代ロックに感性を侵食された人間にとって、C・C・R、ドゥービーブラザース、イーグルスなどは避けて通れない音楽だ。


 さらに、私の場合、オールマン・ブラザーズ・バンドZZトップ、レーナードスキナード、マーシャル・タッカー・バンドというサザンロックのアルバムを買い続けた時期も持っている。

 

▼ レーナードスキナード。サザンロックのなかでも最もアメリカ南部の白人的心情を反映したロックバンド。コンサートではよく南軍旗が振られる

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 そういうカントリーフレイバーを持つロックアーチストで、お気に入りといえばやはり、ザ・バンドニール・ヤングだった。  
 特にニール・ヤングの曲は、ギターで音を拾って一生懸命コピーすることに熱中したこともあった。

 

ザ・バンド

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ニール・ヤング

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 話を戻す。
 今回YOU TUBEで、モダンカントリーミュージックを集中して聞いた印象を述べると、それは60年代後半に活躍したザ・バンドニール・ヤングの “カントリー” とは似て非なるものだということだった。

 

 一言でいうと、ニール・ヤングらの音楽は「ロック」だが、今のカントリーミュージックは「ロック」ではない。
 「ロック」と「非ロック」の違いは、楽曲の構造や演奏形式の違いもあるが、より本質的なことをいうと、普遍性の「ある・なし」によって定まる。


ロックには普遍性があったから
世界の人間に愛された

 

 1960年代から70年代にかけて、UKやアメリカのロックが世界的マーケットを獲得できたのは、その音楽性に普遍性があったからだ。


 しかし、今のアメリカのカントリーミュージックを楽しむには、ある程度アメリカ南部の白人社会への共感が必要になってくる。

 

 逆にいえば、カントリーミュージックは、ロックの普遍性を切り捨てることによってアメリカ南部社会の白人音楽としてのアイデンティティを獲得している。


 ザ・バンドニール・ヤングのカントリーソングが世界の人々の共感を呼んだのは、そこに、「喪失感」というテーマがあったからだ。


 彼らが歌っているのは、西部開拓時代のアメリカ人たちの精神がすでにアメリカから失われてしまったことへの悲哀だった。
 だから、彼らの「音」にはノスタルジックな寂しさがあった。
 このノスタルジックな響きが、世界中の人々に通じた。

 

ニール・ヤング 「ハート・オブ・ゴールド」

youtu.be

 

 私見だが、ザ・バンドニール・ヤングの音楽が持っているノスタルジーの正体というのは、おそらく、彼らが人種的にはカナダ人であったことと関係しているように思う。


 すなわち、幼い頃から “自由なアメリカ” を他国(カナダ)から眺めていた人種が、いざアメリカに進出したとき、そこには、もう彼らが求めていた “自由なアメリカ” は死に絶えていたという失望感が、彼らの音楽の底に沈んでいる哀切感のベースになっている。

 

 彼らがアメリカで音楽活動を始めた頃、アメリカはベトナム戦争に勝利するために、若者のあらゆる自由を束縛する国になっていたのだ。 

 

 現在のアメリカ人たちよるカントリーミュージックが主張するのは、「自由」ではなく、白人社会における「家族や仲間の絆」である。
 さらにいえば、「白人のプライド」である。

 

 だから、彼らの「音」は、哀切感よりも、白人共同体の温かさや陽気さを強調する。
 私などは、そこに他国人に対する排他的な匂いを嗅いでしまう。

 

▼ 新しいカントリーミュージックでは、ミュージシャンはテンガロンハットをかぶり、誇らしげに星条旗を掲げる

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カントリーミュージックの中に潜む
男性中心主義
  
 カントリーミュージックの中心的な世界観となるものは、古典的な男性中心主義だ。
 白人男性の強さ。
 白人男性のたくましさ。
 そういうマッチョな美学がカントリーミュージックの流れの一つを形成している。

 

 もちろん、歌われる歌詞の多くは「恋愛」であることにはかわりない。
 古今東西、「恋愛」は大衆音楽のメインテーマだからだ。
 しかし、カントリーで取り上げられる「恋愛」は、基本的に、エモノを「追う男」と、エモノとして「追われる女」という構図を取っている。
 そこには、原始的なハンティング文化がそのまま息づいている。

 

 男は猟犬のように、美しい白人女を追う。
 女は男から逃げながら、男を誘う。

 

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 映像的に見ると、男たちはみなマッチョな肉体を誇示し、女は金髪のストレートヘア。


 基本的にそこで推奨されるのは、完全無欠のヘテロ愛(異性愛)で、間違っても男女の性差が不明な人物は、プロモーションビデオのなかには登場しない。

 

 こういう関係を象徴的にとらえているのが、トレース・アドキンスの『クローム』という歌だ。

 

 この歌のプロモーションビデオには、美しい輝きを放つクロームメッキで彩られたアメ車やモーターサイクルがたくさん登場する。
 そして、そのクロームを盛った妖しいビークルにまとわる金髪の美女たちが描かれる。


 クロームと美女に囲まれているのは、満面の笑みを浮かべるテンガロンハットの白人男性だ。

 

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 つまり、ここで表現されているのは、美しい女と美しい自動車は、ともに男のフェティシズムを満たす意味で等価値であるという思想だ。
 
▼ Trace Adkins - Chrome 

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 テンガロンハットというのは、彼らにとって、「男のシンボル」である。
 それをかぶった「男」は、現代の “カウボーイ” だ。

 カウボーイはモテる。
  と、彼らは言いたいのだ。

 

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いちばん大事なのは「家族の絆」

 

 そういう情景をストレートに表現するプロモーションビデオもある。
 曲は、
 『女たちはカントリーボーイが好きだ』。
 
 この歌にはかなりギャグも含まれているが、この無邪気なカウボーイ賛歌には、やはりカントリーミュージックの理想像が宿っていそうだ。

 

▼ Trace Adkins - Ladies Love Country Boys 

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 モテ男を無邪気に気取りたがるカントリーボーイ。
 もちろん、それは男性中心主義が反映されたものにすぎない。

 

 しかし、カントリーボーイたちは、女に対する優位性を日常的に誇示しながらも、一度結婚した女を捨てない。
 釣った “女” は、保護する対象として愛でられることになるのだ。

 

 つまり、彼らは彼らなりに、幸せなファミリーのイメージを大事にしている。
 その証拠に、カントリーミュージックのプロモーションビデオには、仲睦まじい老夫婦の画像がくりかえし登場する。

 

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 ときに、年老いた旦那は腹も出てみっともない姿をさらすことが多い。
 女房も美人とは言い難い老婆だったりする。


 それでもその二人がその年になるまで仲たがいすることなく睦まじく生きてきたということが伝わる映像になっている。
 アラン・ジャクソンの歌う『リメンバー・ホエン』がそういう歌を代表している。
 (これは歌詞もメロディーもきれいな曲である)

 

▼ Alan Jackson 『Remember When』 

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 もうひとつよく登場するのは、笑顔をうかべた子供たちの画像だ。
 家庭の中で、学校で、郊外の運動会で、子供たちはほんとうに幸せそうな顔で走り回る。

 

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 カウボーイの父と、カウガールの母は、子供が自分で幸せをつかめるように野山で子供を鍛え上げる。
 『カウガールは泣いちゃういけないのよ』 と。

 

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▼ Brooks and Dunn 『Cowgirls Don't Cry』

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いまだに生きている「西部劇」の精神

 

 このような “家族愛” を強調するカントリーミュージックの思想はどこから来るのか。

 

 それは、「守るべきものを守り抜く」という西部劇の精神が土台になっている。
 西部開拓時代に、“凶悪なインディアン” や強盗団と戦いながら自分たちの畑や牧場を守り抜いた祖先を持つ誇りが潜んでいるといっていい。

 

▼ かつての西部劇を代表するスター「ジョン・ウェイン」は、いまだにカントリーミュージックのヒーローである

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 「守るべきもの」というのは、もちろん自分の家族であり、子供たちであるが、さらにいえば、仕事仲間であり、週末に居酒屋で顔を合わせる友人たちである。

 

 そのように “目に見える” 同胞意識に支えられたカントリーミュージックの世界観では、それを脅かすものに対する敵意の激しさも徹底している。

 

 「彼らの生活を脅かすもの」とは、田舎のルールを知らないヨソ者であり、軽佻浮薄な都市文化であり、“知性” をひけらかす(東部の)エリートたちであり、さらには「不倫」であり、同性愛婚であり、違法ドラッグであり、異教徒である。
 つまり、小市民的な生活に逆らうものすべてから、カントリーボーイたちは「自分たちの共同体を守ろう」と声を出す。

 

カントリーミュージックのジャケットやコンサートには、よく南軍旗が登場するが、そこには、現在のアメリカ政治を牛耳るエリート層に対する反感がこめられている

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ヨソ者は出ていけ !

 

 カントリーボーイたちが、田舎のルールを知らない都会人に対して、どういう振舞いをするのか。


 それを描いた面白いプロモーション・ビデオがある。

 

 トビ―・キースが歌う『アイ・ラブ・ジス・バー』だ。
 南部のカントリーボーイたちが週末に通うホンキートンク(居酒屋)に、ある晩、見るからにカントリーボーイとは異質な若者がまぎれ込んできて、横柄な声でビールを注文する。

 

 店員の女性が、お灸をすえる意味を込めて、その若者が取れないようなスピードでビールのジョッキをカウンターに走らせる。

 

 当然、ビールジョッキは若者の手をすり抜けて、カウンターの奥にいたゴッツいカントリーボーイたちのグラスを打ち砕く。
 
 闖入者の若者の運命は?

 

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Toby Keith「 I Love This Bar」

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 この動画では、ホンキートンク(南部の居酒屋)の卑猥で荒々しい風情を描きながら、そこに集まる仲間の団結心もまた描き尽している。

 

 こういう共同体意識が移民対策に向かったときは、メキシコとの国境に建設される壁を望む声となり、仕事と絡んだときは、さびれた地方都市の商業的復権を求める主張となり、異教徒のテロに対する恐怖を感じたときは、銃撃戦すら辞さない防衛意識の高まりという姿をとる。
 
 そこに、今のトランプ政権を支持する人たちのメンタリティーを読み込むことが可能だ。

 

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 トランプ大統領がことあるごとに口にしている「アメリカを偉大な国にする」というときの「国」は、ネーションではなく、このような白人グループの生活共同体を中心とした “カントリー” である。

 

 つまり、政治的な意味での「国家」ではなく、自分たちが耕す農園であり、馬を飼う牧場であり、自動車を造る工場であり、週末に仲間があつまる「酒場(ホンキートンク)」のことを指す。
  

田舎町のダンスパーティーの幸せ
 
 このような南部の田舎者たちの愛する「平和な生活」とはどんなものなのか?

 

 彼らが描く「平和」のイメージは、田舎町で繰り広げられる近隣住人とのパーティーに象徴される。

 

 アラン・ジャクソンが歌う『南部人たちが住む小さな町』は、アメリカ南部の田舎町の人々の暮らしをよく伝えている。

 

▼ Alan Jackson 「Small Town Southern Man」 

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 田舎町の結婚式パーティーの情景を描いたこの動画では、誰もが適度に着飾っている。

 

 しかし、けっして彼らのファッションは大都会の社交パーティーに集まる男女のように洗練されていない。


 まるでニューヨークあたりで開かれるセレブのパーティーで見るような洗練されたファッションは、「虚偽」と「欺瞞」に満ちた「詐欺師」の社交場であるかのような思い込みが働いていそうだ。

 

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 この動画に描かれたカントリーミュージックの演奏では、アコースティックギターウッドベースフィドル(バイオリン)やスチールギターが絡み、サウンド的にも典型的なカントリーミュージックの体裁が整えられている。


 つまり、「音」としても、カントリーミュージックをイメージしやすい仕上がりになっているといってよい。


 一連のプロモーションビデオを見てくると、カントリーミュージックを支えているメンタリティ―というものが、少しずつ見てくる。

 

 まとめてみよう。
 カントリーミュージックは、次のようなアイコン(小道具)によって表現される。

 

 すなわち、
 男たちのテンガロンハット。
 田舎町の居酒屋(ホンキートンク)。
 金髪の白人娘。
 広大な農場。
 無骨なピックアップトラック
 ハーレーダビッドソンのモーターサイクル。
 乗馬を楽しむための馬。
 田舎町のホールで催されるダンスパーティー

 
銃は “アメリカの文化” である

 

 このような愛すべきものを守るために、時として「銃」に頼らざるを得ないという意識も彼らには強い。


 彼らにとって「銃」とは、相手を攻撃する “道具” ではなく、自分たちの価値観を守るための “文化” なのだ。

 

▼ ライフルをこれみよがしに手にしたジャケット写真に登場するカントリーミュージシャン。テンガロンハットをかぶって銃を持つ男は、日本でいう「サムライ」としてリスペクトされているようにも感じられる。

 

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 このへんが、日本人には分からない感覚なのだと思う。
 我々日本人は、アメリカで悲惨な銃撃事件が起きるたびに、一向に銃規制が進展しないアメリカ政府の在り方に異常なものを感じるが、それは日本人の勝手な思い込みなのかもしれない。

 

 銃撃事件で人間が死ぬことを、彼らは「交通事故」のようなものだと割り切っているようにも思える。

 

 憲法で保障され、文化として200年以上も国民の間に浸透した武器を捨てさせることは、おそらく、200年間それを放置してきた国家にはもうできない。


 日本も明治期になって、侍の文化であった「刀」を武士たちに捨てさせるためには、国家規模の戦闘(西南戦争)を体験しなければならなかった。

 

 たぶん、アメリカで本格的な銃規制を始めるためには、第二の南北戦争必用になるだろう。


テイラー・スウィフトの登場

 

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 カントリーミュージックの世界を、そのプロモーションビデオを眺めながら見続けるということは、いろいろな違和感が蓄積していく過程でもあったが、彼らの家族愛、共同体愛、地域愛の強さと真摯さだけは、こちらにもまともに伝わってきた。
 これほど仲間同士の “美しい絆” を強調する音楽もほかにはないかもしれない。

 

 しかし、それを日本で聞いている我々日本人は、彼ら白人共同体の “外” にいる。つまり、彼らが守るべき対象として認知している集団から外れているのだ。


 もし、現地(ディープサウス)のバーに行って、そこの客らに「トランプ批判」などを展開しようものなら、そうとう敵意のこもった視線を送られることは間違いないだろう。
 場合によっては、身の危険にさらされるかもしれない。

 
 しかし、近年カントリーミュージックを支える層も変わりつつある気もした。
 テイラー・スウィフト(写真下)の登場だ。

 

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 彼女はカントリーシンガーソングライターとして、南部のナッシュビルで人気を集め、今では “カントリーの歌姫” として全米中に影響力を持つアーチストになっている。

 

 しかし、女性蔑視や人種差別傾向の強いトランプ大統領には反感を感じており、2018年に行われた全米の中間選挙では、トランプを支える共和党議員よりも、民主党議員を支持すると表明。
 多くの若者に「投票に行くように」と呼びかけた。

 

 この発言を聞いたトランプ大統領は、
 「私は彼女の音楽が25%ほど嫌いになった」
 と発言したというが、彼女の呼びかけによって、選挙に無関心だった若者の票が伸びたともいわれている。

 

 カントリーミュージックの愛好家に支えられつつも、彼女はLGBTフェミニストたちに対しても支持を広げている。

 それに合わせて、彼女の音楽もカントリー傾向を脱して、ポップスやロックに近づいている。


 カントリーミュージックが変わり始めている兆候かもしれない。

 

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▼ Taylor Swift 『Our Song』

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韓国は日本の何を嫌うのか

 昨今のニュースを見ていると、韓国と日本の “経済戦争” の推移をレポートする報道が連日続いている。
 
 特に、日本が、韓国に対する輸出管理上のカテゴリーを見直すこと(ホワイト国除外)が決定した後は、韓国が国を挙げて日本批判を過熱させている様子が伝わって来て、怖いくらいだ。

 

 文在寅ムン・ジェイン)大統領を筆頭に、韓国政権の日本政府批判はますますトーンを高めているし、一般国民は対日批判のプラカードを掲げて、日本に対する怒りを体全体にみなぎらせている。

 

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 特に、文(ムン)大統領の日本批判のトーンは、常軌を逸している。
 彼は、日本に対して、
 「問題がこじれた責任はすべて日本側にあり、加害者である日本が、盗っ人たけだけしく大きな声で騒ぐ状況は絶対に許さない」
 と、閣僚を招いた緊急会議の席上で発言したとか。


文(ムン)大統領の過激な発言の真意

 

 日本語に訳すとニュアンスの違いも出るのだろうが、いずれにせよ彼の発言には、聞いている相手の心を傷つけることだけを狙ったかのような “えげつない” 空気がみなぎっており、日本人にとってはただの無慈悲な恫喝にしか聞こえない。

 

 これほど他国に対して、容赦ない罵詈雑言(ばりぞうごん)を放つ国家元首というのも珍しい。


 アメリカのトランプ大統領も言いたい放題のスピーチをするが、彼の場合はユーモアのオブラートに包む余裕を見せるときがある。

 

 それに対して、文(ムン)大統領のスピーチにはユーモアもなければ余裕もない。
 思考が硬直化しているからだ。
 だから、彼の言葉は冷酷であり、響きは下品である。
 たぶん、人格が下劣なのだろう。
 
 しかし、文(ムン)大統領の激しい口調は、韓国民には心地よく聞こえるのか、彼の支持率はここのところ回復基調にあるという。

 

 日本のメディアが流す映像だけみると、韓国人が口々に日本批判を繰り返すシーンだけが映し出される。
 買ったばかりの日本車を自分で壊す韓国人オーナーの姿が登場することもあれば、「五輪ボイコット」を叫ぶ人の顔もアップされる。
 激高した顔で、「日本人の来店はお断り」とまくしたてる飲食店のオーナーも登場する。

 

 なんで、そんなに日本が憎いのか。
 われわれ日本人には、日本に憎しみを持つ韓国人の情熱がどこから湧いて来るのか、ちょっと分からない。


韓国人はすべて日本に敵対的なのか?

 

 もっとも、一部のメディアの報道によれば、韓国人のすべてが日本批判をしているわけでもなさそうだ。

 

 親日的な感情を持っている人も多いらしいが、そういう人たちに対し、いまの韓国全体の空気は、とてもそんなことを許すような感じではないらしい。
 周りの勢いに押され、心とは裏腹に「日本を糾弾しよう !」と叫ばざるを得ない人も多くいると聞いた。


経済的に不遇な韓国人ほど反日的?

 

 ある日本のメディアは、韓国で「反日」を叫ぶ人々の素性を明かすデータを探し出してきた。


 それによると、教育レベルが低く、経済的にも不遇な人ほど “反日的” であるという結果が得られたという。
 逆に、経済的に余裕があり、教育レベルの高い人には親日派が多いそうだ。

 

 つまり、韓国内における「日本批判」というのは、経済的にも教育的にも貧しい立場に置かれている韓国人のうっぷん晴らしというのがその真実に近いようだ。

 

 こういうデータがもし本当だとしたら、そこから見えてくるのは、「財閥解体」や「経済の向上」を訴えて人気を集めた文在寅ムン・ジェイン)政権というのは、けっきょく自らの失策を日本批判でかわそうと姑息な政権であるということだ。 

 

 政治問題に詳しいある日本人ジャーナリストは、日本批判を繰り返す文在寅大統領と、一般の韓国民というのは分けて考えた方がいいという。

 

 日本人から見ると、韓国人がすべてが「反日スローガン」を掲げて日本に牙をむいているように見えるが、実態はそうでもないとか。

 
 文(ムン)大統領を支持する一部の過激な思想集団が国民を煽っているだけで、そのような圧力に対し、口で「反日」を叫んでも、心のなかではそういう動きに同調していない韓国人も多いのだという。

 

 ただ、現在韓国人のメンタリティーを主導しようとしている思想集団の主張は、やはりどこか昔から韓国人が培ってきた精神性と切り離せないところもある。


韓国人の内面を規定する儒教キリスト教

 

 韓国人のメンタリティーを保証してきたものは、歴史的にいえば「儒教」である。
 儒教というのは、為政者が民を薫陶する術を述べた啓蒙書だから、基本的に「正義」とか「徳」といった抽象的情熱を称揚する傾向が強い。

 

 そこにキリスト教的な思想が加味される。

 韓国は東アジアでは珍しくキリスト教的な精神風土に色濃く覆われた国だが、(文氏もカトリック信者だといわれている)、キリスト教においても、「正義」と「徳」は賞賛される。

 

 キリスト教的発想では、基本的に「正義」の敵対者は自動的に “悪魔(サタン)” とみなされる。
 ある意味、宗教的「原理主義」である。
 今の文在寅ムン・ジェイン)政権の根幹にあるのが、この「原理主義」である。

 

 彼にとって、日本と政治的な課題を話し合って妥協策を講じるなどというのは、「サタン」と妥協することになるから、忌むべき戦術なのだ。(原理主義にとって、“妥協” は最大の敗北となる)

 

 文(ムン)大統領の対日戦略の根幹には、常にこの思想がある。
 彼にとって、いま最大の悪(サタン)は「日本」である。
 こういう彼の思い込みは、まさに “信仰” そのものだから簡単にひるがえることはない。

 
両国の民間協力が再構築されることに期待

 

 ただ、私たちはいつまでも、この頑迷固陋な文(ムン)大統領の方針に従っているわけにはいかない。

 

 現段階では難しいだろうが、文(ムン)氏の主張に対し、心の底では意を唱えている韓国の人たちと水面下で手を握り合って仲良くしていかなければならない。

 

 この夏、たくさん計画されていた韓国と日本の民間交流もずいぶん中止されたようだが、こういうものは、話し合う場を再構築し、なんとか計画通りに実行できるようにできないものだろうか。

 

 そして両国の政治首脳に対し、「民間は政府同士のケンカには飽き飽きしている」という姿勢を訴えていくことはできないか。

 

 そのためには、日本人も、韓国に敵対するような言動や思想をまきちらす人間たちに自粛をうながす空気をつくらなければならないのではなかろうか。

  

「N国党」のうさん臭さ

 「N国党」(NHKから国民を守る党)という政治団体がマスコミの注目を集めている。
 2019年の参議院選挙において、代表の立花孝志氏が全国比例区で当選し、生まれてまだ2週間も経たない党だ。

  

 しかし、この立花氏のメディアでの露出度は高い。
 彼の登場を批判する人もいれば、評価する人もいる。

 

 私は、この党と立花という代表者に “うさん臭さ” しか感じない。
 特に、立花氏が、テレビカメラの前で右手を振りかざし、
 「NHKをぶっ壊すぞぉ !」
 と雄たけびを上げる顔を見ていると、自分がバカにされたような嫌なものを感じる。

 

 この人の
 「NHKをぶっ壊す」
 という主張は、真面目なのか。
 それとも、冗談なのか。
 そこのところが、どうもよく分からない。

 
 「ぶっ壊す!」
 と叫ぶとき、立花氏の右腕は思いっきり虚空に突き出される。
 しかし、力強く振り上げた拳(こぶし)は、次の瞬間、力なく胸の前にたぐり寄せられる。

  

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 そのとき、彼の眼は笑っている。
 批判者に対してあらかじめ、
 「冗談ですよ」
 と言い訳しているような眼なのだ。

 

 その目の中には、ずるさと、したたかさが同居している。
 うさん臭さは、すべてそこからかもし出されている。

 

 彼はいったい何をしたいのだろう。

 

 マスコミの情報を拾ってみると、彼の「NHKをぶっ壊す」という主張の中身は、「NHKスクランブル化を実現する」ということらしい。

 

 すなわち、
 「NHKの放送を見たい人だけが受信料を払い、NHKを見たくない人は受信料を払う必要はない」
 というシステムを実現したいようだ。

 

 つまり、「NHKから国民を守る」という主張の中身は、「受信料を払いたくない人を守る」ということらしい。

 

 バカな主張である。

 

 私はNHKという放送局が存在することによって、今の日本のテレビ番組が、かろうじて品位と知性を保っていると信じている。

 

 NHKの番組というと、朝ドラと大河ドラマしか思い浮かべない人が多いかもしれないが、BSやEテレも含んだNHKの番組は、知性と教養の宝庫だ。
 アフリカの大地に生息する動物たちのドキュメント。
 宇宙開発の現在。
 歴史上の事件や人物たちの再評価や深堀り。
 そして資本主義社会の現在の流れ。
 AI テクノロジーの最先端の解説。

 

 そういうものに興味や関心を持っている人からすると、NHKの受信料などほんとうに安いものだ。

 
 番組がいちばん盛り上がったところに挿入されるエゲツナイCMなどから解放される爽快感も捨てがたい。

 

 民放では、CMのスポンサーの意向を外すような企画が組めない。
 何事も視聴率優先の企画になるため、国民の多くが煙たがるような社会問題も政治問題も、歴史や文芸においても取り上げられることがない。
 NHKは、受信料を徴収しているから、そういう良心的な番組を企画するコストが確保できるのだ。

 

 しかし、NHKに対するこのような評価は、立花氏から言わせると、
 「NHKに洗脳されている」
 ということになるだろう。

 

 その前に、ひとつ覚えておいていいことがある。
 「(誰かに)洗脳されている」
 という言辞は、往々にして、それを口にする人間が他者を洗脳するときに使う常套句なのだ。 

 

 確かに、NHKという放送局には、いろいろな不祥事もあったし、放送内容が現政権与党寄りだという批判も尽きない。
 しかし、私はそういう批判を口にする人間は、より大きなものを見逃していると思う。
 
 NHKの番組に興味のない人でも、なんかの拍子にNHKを見てしまうことはあるだろう。
 そして、「けっこう役に立つ番組だったなぁ」とか、「意外と面白かった」と思ったことはあるだろう。

 

 そういう機会を持つことが、実は人間の幅を広げるのだ。

 

 たとえば、欲しい本があったとする。
 一番効率がいいのはアマゾンで買うことだ。
 しかし、本屋に足を運べば、欲しい本の隣に、興味を引きそうな別の本があることを発見したりする。

 

 そっちの本の方が、実は自分が求めていた本よりもさらに面白いということだってありうる。

 NHKというのも、実はそういう要素を持った放送局である。
 派手さはなくても、どこかに知性と教養を漂わすような番組が多い。
 チャンネルを何気なくNHKに合わせると、「おぉ勉強になるなぁ!」と感心するものがけっこうある。

 

 そういう放送局を “ぶっ壊そう!” と主張することは、国民から知性と教養をはぎ取ろうとする行為以外の何ものでもない。

 

 こういう人に率いられた党が、今回の参院選で98万票を獲得した。
 立花氏に好意的な感情を寄せる人は、
 「(彼は)既成政党が打ち出せなかった “分かりやすさ” と “面白さ” を選挙戦で発揮した」
 と評価する。

 

 私から言われせれば、日本に “バカ” が98万人いたということにすぎない。

 

 そもそも「分かりやすい政治」なんて意味がない。
 政治というのは、分かりにくくていいのだ。
 分かりにくいものを、自分の頭を使って理解しようとするところに、人間の知性が宿るのだ。
 それがその人間のリテラシーとなるのだ。

 

 今回の参議院選挙では、この「N国党」と「れいわ新選組」という新しい党派が躍進したことを受けて、立憲民主党や国民民主党、そして共産党までが「自分たちの主張は分かりにくかった」と反省しているという。

 

 だから、野党はダメなのだ。
 繰り返す。
 “分かりやすい政治” なんて意味がない。

 

 “分かりやすい政治” というのは、有権者の「知性」ではなく、「感情」に訴える政治のことで、人々に興奮と熱狂を与えることを主目的にしている。

 

 このような政治を「ポピュリズム」という。

 

 ポピュリズムが人々に与える快感とは何か?
 既成のルールを壊すことの快感である。
 
 彼らは、
 「人間というのは規制のルールを破ることに快感を感じる動物である」
 ということをよく知っているのだ。

 

 N国党の主張の根幹にあるものもそれだ。
 現在、NHKが国民から受信料を徴収することは憲法で認められており、それを払わないと、“法律違反” になる。

 

 しかし、立花氏はいう。
 「法律のなかには、国民が守らなくてもいい法律というものがたくさんあるんですよ。
 たとえば、自転車で歩道を走ること。
 あれなんか、法律違反ですよ。
 だけど守らなくても誰も罰せられない。
 つまり、日本の法律には守る必要のない法律がたくさんあるんです。
 NHKに受信料を払うという決まりもその一つです」

 

 あまりにも自信たっぷりにいうから、開いた口がふさがらない。

 

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 ネット情報によると、N国党の立花氏は、NHKスクランブル放送を実現するために、安倍政権にすり寄って、それをバーターに「憲法改正派」に与してもいいと安倍首相に持ち掛けるつもりだとか。

 

 なりふりかまわずである。
 スクランブル放送の実現が、なぜ憲法問題と結びつくのか。
 論理の整合性がまったく取れていない。
 立花氏の政治信条というものがますます分からなくなる。

 

「死にたいのなら一人で死ね」という言葉の不寛容さ

 神奈川県・川崎市登戸駅近くの路上で、50代男性が起こした大量殺傷事件について、落語家の立川志らく氏が語った「死にたいなら一人で死んでくれよ」という発言がテレビのワイドショーやネットで賛否両論を巻き越しているという。

 

 当然、そういう意見は過激すぎるのではないかという意見もネットで公開されたらしい。

 

 それに対して志らく氏は、
 「子供の命を奪った悪魔に対し、死にたいなら一人で死んでくれ!というのは普通の人間の感情だ」
 と説明。

 

 さらに、
 「(私の)言葉が次の悪魔を産むという(意見もある)が、なぜ悪魔の立場になって考えないといけないんだ? (子供を巻き添えにするなというのは)子供を愛している世界中の親の多くが言いたいはずだ」
 と反論したらしい。

 

 驚いたのは、この志らく氏の意見に対し、あるワイドショーでは、視聴者の6
~7割が賛同したということを伝えたことだった。

 

 それを聞いて、なんだか日本人は変わってきたなぁ と思った。
 多くの日本人が、非寛容の精神に染まってきたという気がしたのだ。

 「死にたいなら一人で死ねよ」
 という発言に共感を感じた人というのは、どういう人たちだろう。


 
 罪のない子供たちを巻き添えにした犯人に対する憤りによって、込み上げてきた怒りをそのまま表明したということは、まず分かる。

 

 しかし、「一人で死ねよ」という言葉は、巻き添えにした人たちがいるかいないかは別にしても、はっきりいえば、
 「お前なんか死んじまえ」
 と言ったに等しい。

 

 もし、仮に私がその事件を起こそうと思っていた犯人だとしたら、私は、逆にそう言い切る人間の非情さに反感を覚え、頭のなかだけにあった妄想を、本当に実現するために動き出してしまうかもしれない。

 

 この志らく氏の発言に違和感をいだいた人たちは、次のようにいう。

 
 「犯人はなぜそういう犯行に突き進んだのか。それをしっかり解明し、むしろ犯人の心を閉ざしてしまった闇の暗さに救いの手を差し伸べてあげることの方が大事だ」

 

 私もそう思う一人だ。
 しかし、そういう意見よりも、この事件に短絡的に反応した志らく氏の意見の方が世論をリードしているという話だった。

 

 社会的なテーマに対し、自分の感情のおもむくままに発言することは、確かに発言者の気持ちをすっきりさせるだろう。


 志らく氏は、義憤に駆られた自分の感情を強い言葉で言い切ったときに、精神的な高揚感をいだいていたはずである。

 

 しかし、そういう高揚感から、<他者>に対する非寛容の精神がめばえる。

   
 非寛容の精神は、相手の罪を断罪するという目的以上に、断罪する自分の快楽に酔うときに生まれる。 

 

 それは日本だけに限らないのかもしれない。
 非寛容の世界は、地球上に生まれつつあるような気もする。
  
 世界は、「移民」「宗教」「格差」などというテーマを抱えたまま、大衆の対立構図をどんどん深め、急速に非寛容の色に染まりつつある。

 

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 イギリスのEU離脱騒動も、ヨーロッパや中南米における極右勢力の台頭とそれに対する反対運動も、アメリカのトランプ支持者と反対者も、それぞれ国論を二分するような形で、お互いの支持者同士が敵対勢力を非難する「非寛容」さをむき出しにしている。

 

 非寛容とは、自分のことを100%「正義」の側に置き、敵対する勢力を「悪魔」と断定することをいう。

 

 まさに、今回の志らく氏の発想がそうである。

 

 彼は、この犯人をはっきりと「悪魔」と断定し、「なぜ悪魔の立場になって考えなければいけないんだ?」と言い放った。
 このとき、彼は自分の意見には「100%正義がある」と信じたはずだ。

 

 しかし、“100%の正義” なんてありえない。
 もし、そういうものがあるのならば、世の中に民主主義などというものは生まれていない。


 民主主義とは、50%程度の正義を、反論する人たちと議論を重ねることによって70%ぐらいの正義に持って行こうとする技術のことをいう。

 しかし、最近はそういう考察が空しくなるほどに、「自分こそ世論だ !」と勇ましく言い切る人たちが増えている。 

 

 その一つが、今回の志らく氏の
 「(犯人は一人で死ねというのは)普通の人間の感情だ」 
 と言い切る言葉に代表されている。

 

 そういう氏の発言を不自然に感じる人は少ないのかもしれない。
 しかし、自分の私的な感情が、どうして「普通の人間の感情だ」などと言い切れるのか?

 

 世界の思想や文学(そして落語)は、ずっと「自分の私的な感情にはどれだけ普遍性があるのか?」というテーマを投げかけてきたはずである。

 

 私個人は、感情に任せてこぼれ出た自分の発言を「普通の人間の感情だ」と言い切ることに、とてつもない羞恥を感じる。 

 

『雨月物語』の黄金色に輝くモノクロ映像

 この5月12日(2019年)に、女優の京マチ子さんが亡くなられた。
 享年95歳。
 若い人には、この女優の名を知らない人も多いのではなかろうか。 

  

 しかし、邦画がようやく海外の映画ファンに認められるようになった時代を代表する女優として、ぜひその名を覚えていたい人だ。 
 

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 今回紹介したいのは、その彼女の代表作の一つ『雨月物語』。
 1953年に溝口健二監督が手掛けた大映作品である。

 

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 1950年代というのは、まさに邦画の第一期黄金時代だったかもしれない。
 黒澤明の『羅生門』(1950年)や『七人の侍』(1954年)、初代の『ゴジラ』(1954年)も同じ時期に生まれている。
 『雨月物語』も、その黄金時代の代表作に入れてよい作品だと思う。

 

 さすがに、映像表現は古い。 
 なのに、その “古さ” が、逆に美術品のような香りを伝えてくる。

 

 本物の “手触り” といっていいのか。
 長らく地中に埋もれていた高級土器を掘り出し、きれいに磨いて床の間に飾ったらこんな感じか という映画なのだ。

 

 戦国時代を扱った作品だが、村や町の風景がまず違う。
 大道具で作った建物のかなたに広がる風景からは、見事に “現代文明の匂い” が消し去られている。
 CGで作られた画像とは違う本物の “土ぼこり感” 。
 1953年の日本には、まだ戦国末期のような風景が残されていたということなのだろう。

 

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 そのことが、この映画に独特のエキゾチシズムを添えている。
 言葉で表現すれば、「戦国時代に、南蛮船に乗って日本を訪れた外国人の見た “日本” 」といったところか。

 

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 脚本のベースとなったのは、江戸時代後期の作家である上田秋成が書いた『雨月物語』という小説。
 その中に収録されている「浅茅が宿(あさじがやど)」と「蛇性の婬(じゃせいのいん)」という二つの物語を組み合わせたものだという。
 
 ともに怪異譚である。

 しかし、単なるホラー映画ではない。原作がきわめて洗練された美意識に貫かれた文学だけあって、その艶やかな香りは、映画の中にもしっかり取り込まれている。
 
 
 以下、簡単にストーリーを紹介する。
 
 戦国時代末期、琵琶湖北岸の村に暮らす百姓の源十郎は、陶芸の才を発揮し、焼物を町まで売りに行くことで生計を立てていた。
 いつものように源十郎は、妻と子を村に残し、町まで焼物を売りに行く。

 

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 町の路上で自作の焼物を売っていると、公家風の衣装を着た姫君と召使の老女が源十郎の前に立つ。

 

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 二人の女は、「いくつの焼物をまとめて買うから、屋敷に届けてほしい」と告げる。
 源十郎が屋敷を訪ねると、そのまま奥の間に招かれ、酒肴の接待を受けることになる。

 

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 そのとき、源十郎をもてなすために姫君が披露する日本舞踊が圧巻である。
 昔の上流階級が楽しんでいた、あの変化に乏しい “退屈な舞踊” が、当時はどれほど淫靡で妖艶なものだったのか。
 それをはじめて理解した気になった。

 

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 この見事な舞を披露した姫の名は「若狭(わかさ)」といい、織田信長に滅ぼされた朽木氏の生き残りだという。

 

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 美しい姫君の心づくしの接待に乗せられた源十郎は、そのまま朽木家に居ついて、“浦島太郎” 状態になってしまい、夜は屋敷内で酒を酌み交わし、昼は湖畔で陽光とたわむれて過ごす日々を繰り返す。

 

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 もちろん、この姫は幽霊である。
 しかし、源十郎にはそれが分からない。
 むしろ、幽霊だからこそ備わっている “この世のものとは思えない” 妖艶な色香に惑わされ、次第に「このまま死んでもいい」という境地に引きずりこまれていく。
 

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 この幽霊美女を演じるのが、「当代きっての美人女優」といわれた前述した京マチ子
 洋風の顔だちの人だが、それだけに、平安女性の眉化粧を施すと、かえって妖艶さが引き立つ。

 

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 現代女優で、このような公家風眉化粧を施しながら、それでも「美女」を維持できる女優さんなんて、ちょっといない。
 
 この公家風女子のメイクで登場する京マチ子の顔を見ているだけで、いい意味でも悪い意味でも、鳥肌が立つ。
 能面の目の部分だけに、人間の心が宿ったような恐ろしさがあるからだ。

 

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 女神か魔物か。
 いずれにせよ、人間界のルールとは別の生存原理を持つ「魔性の女」を京マチ子は巧みに演じる。

 

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 ある意味で、エロ映画すれすれ。
 制作陣は、かなり色っぽい映画を意識したらしく、当時公開された宣伝ポスターには、下のようなものもあったようだ。

 

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 ただ、映画のなかでは、京マチ子が肌をさらすようなシーンは一度も出てこない。
 なのに、源十郎を演じる森雅之(もり・まさゆき)と濃厚な “濡れ場” をたっぷり演じたな ということを匂わせる演出が随所に施されている。

 

 たとえば、最初に泊った日の夜が明け、朝の寝所を訪れる姫君に対し、目を覚ました源十郎は姫に問う。
 「はて、私はどうしたんでしょう?」

 

 魔性の姫は、はじめて恋を知った少女のようにうつむき、「まぁ、何もかもお忘れになられたようで 」と恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 

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 ちらりと源十郎を振り向くときの動作はうぶな乙女のものだが、その目は妖怪の目になっている。
 おお、こわっ ‼
 でも、こういう女の怖さに男は弱いものだ。
 
 町に買い物に出た源十郎は、すれ違った旅の僧に呼び止められ、「あなたの顔には死相が出ている」と告げられる。

 

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 朽木家の姫君は、やはり魔性の女なのか?
 旅の僧から体中に経文を書いてもらった源十郎は、姫の正体を探るべく、朽木屋敷に戻る。

 

 出迎えた姫は、源十郎の体に触れるや否や、その肌に経文が書かれていることを知り、電気ショックを与えられたようにのけ反る。

 

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 「源十郎様 ‼ 、なんと恐ろしいことを
 怒りの悲しみが、姫の心を襲う。
 正体を知られ、次第に悪鬼の相貌に変わっていく姫君。

 

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 だが、その表情からは、大切なものを失う痛切な悲しさが溢れてくる。 

 

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 この映画の美しさというのは、もしかしたら、モノクロフィルムであるところから生まれてくるのかもしれない。


 白黒画面なのに、色を感じるのだ。
 実際の色よりも、さらに鮮やかで艶やか(あでやか)な色。

 

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 ブラック&ホワイトだけの世界なのだが、その玄妙な濃淡を見ているうちに、白黒画面が金糸銀糸の織り成す黄金色に輝き始める。

 

 その幻の色使いに、何度まぶしい思いをしたことか。
 ここでは「色情報の欠如」が、逆に鑑賞者の想像力を刺激し、モノトーン画面が満艦飾に光り出すというマジックが披露される。
 映画の豊かさとは、そういうものだと私は思う。

 

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 魔性の姫の正体を知り、その呪縛を断ち切って気絶した源十郎は、朝を迎え、自分が寝ていたところが荒野に打ち捨てられた焼け跡だったことを知る。

 

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 ようやく目が覚めた源十郎は、家に残してきた妻子を思い出し、焼物を売った金もなくし、無一文のまま故郷に戻る。
 (それはそれで衝撃的な結末が待っているのだけれど、ここでは触れない)。

 

 映画全般を通じて、主人公を演じた森雅之(もり・まさゆき)の演技力もたいしたものだ。
 この人、泰然とした優雅な紳士こそ似合う役者なのに、腰をかがめて歩く卑しい百姓を見事に演じきる。

 

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 動作だけでなく、百姓の心も上手に表現する。
 町の人間に対してあこがれる気持ちと、それとは裏腹にわき起こる都会人への猜疑心、嫉妬心、対抗心。
 そして、そこから生まれる百姓のずるさと、したたかさ。

 

 そんな田舎者の心の動きを、森雅之は無言のまま演じるのだ。
 京マチ子といい、この森雅之といい、この時代の役者はほんとうに芸達者だと思う。

 

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 昔の映画を観ることは、ほんとうに豊かな気分にさせてくれるが、残念ながら、今のBSやWOWOWでは、その上映本数が少ないのがさびしい。

 

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正義の恐ろしさを描いた『20世紀少年』

 WOWOWで、10年ほど前に公開された映画『20世紀少年』を観た。

 

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 テレビ放映されたものは、これまでも一度か二度、部分的に観たことがある。
 でも、さほどの興味を感じなかったので、すぐチャンネルを変えてしまった。

 

 しかし、今回その三部作を改めて鑑賞し、その面白さに驚嘆した。
 なんで、こんな優れた作品を10年も見逃していたのだろうと、多少後悔した。

 

 原作は、浦沢直樹のコミックであるということは今さら触れる必要もあるまい。
 ただ、私はそのことを映画を見るまで知らなかった。
 だから、以下述べるのはあくまでも映画についての感想である。

 

 一言でいう。
 とにかく、独特の世界観をもった作品である。
 この映画の面白さは、その世界観を読み解くときのスリルにある。

 

 では、その世界観とは何か。

 

 それは、人間にとって “最も普遍的な価値” として信じられているものこそ、実はもっとも不気味なものであるという世界観である。

 

 友情
 人類の進歩と調和
 世界平和

 

 そういう誰も反論できないような “正義” が隠し持っている本質的な不気味さ。
 それを余すところなく描き切ったのが、この作品である。

 

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 ここに登場する悪役の名は、「ともだち」(写真上)。
 SF冒険映画などによく出てくる世界征服の亡者である。
 彼は、細菌兵器やロボットなどを使い、人類を滅亡させることをもくろみながら、目的を達成するまでは、むしろ人類の救世主として振舞い、絶大な支持者を集める。

 

「ともだち」という言葉の不思議な響き

 

 この悪役のネーミングから、人間同士の絆を意味する「ともだち」という言葉が、この映画ではもっとも不吉な響きを持っていることが強調される。

 

 その「ともだち」が自分の理想郷として建設するのが、東京のウォーターフロントに展開する「新・万国博覧会」のパビリオン群だ。
 それは、彼が幼少期に憧れた1970年の「大阪万博」を21世紀に再現させようという試みである。

 

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 しかし、「ともだち」が造ろうとしている新しい万博の光景は、死の都市ともいえる不気味な静寂に満たされ、その象徴的存在である「太陽の塔」(ともだちの塔)は、岡本太郎のデザインを模したものでありながら、不吉な暗さを抱えている。

 

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 「人類の進歩と調和」
 を謳った70年大阪万博のモニュメントを再現したものが、ことごとくグロテスクな様相に包まれるのはなぜか。

 

 そこに、人類の滅亡を楽しむ「ともだち」の歪んだ内面が反映されていると見ることも可能だ。

 

 しかし、もしかしたら、そもそも “人類の明るい未来” を謳った70年大阪万博そのものが異形であったということなのかもしれない。

 


70年万博に「人類の明るい未来」はあったのか?

 

 1960年代に日本が抱えた高度成長期のひずみ たとえば公害、格差社会の広がり、政治闘争の行き詰まりが生んだハイジャック事件などの新犯罪、幼児を狙った性犯罪の増加、いじめの増大、カルト的な宗教の広がりなどは、万博のような “お祭り” で癒えるものではなかった。

 

 そのような60年代末期に吹き出した様々な社会問題から目を逸らし、国策として “偽りの繁栄” を謳歌しようとしたのが、70年代大阪万博のように私には思える。

 

 当時、今は亡き国民的歌謡歌手の三波春夫が、「万博音頭」という民謡を歌って世に流行らせた。

 

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 この映画では、そのときの三波春夫をパロディ化した春波夫(古田新太)が万博PRソングを歌う(写真上)。
 その光景がなんともグロテスクなのだ。

 

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 この気持ち悪さはどこから来るのか。
 
 もちろん、それもまた、「ともだち」が企画したニセ万博のグロテスクさが表面化したものではあるのだが、私には、やはりオリジナルの70年万博そのものが内包していた “異様さ” を訴えているように感じ取れた。

 

 あの歌には、「過剰な能天気さは思考停止をうながす」というメッセージが潜んでいるように、私には思えたのだ。

 

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 映画のなかで、主人公たちが幼少期を過ごした昭和45年当時の古い街並みがたくさん出てくる。


 それは、登場人物たちの回想という形で出てくるものもあれば、「ともだち」が自らの幼少期を懐かしみ、現代にテーマパークとして蘇らせた街並みとしても登場する。


ノスタルジーというのは
本当は不気味なものなのだ

 

 しかし、「ともだち」が蘇らせた “幻の昭和” の街は、やはりどこか不気味である。
 映像的にはノスタルジックな意匠を保ちつつ、なぜか本質的な “懐かしさ” が欠けている。 

 そこには、映画『三丁目の夕日』のセットを見るような空々しさがある。

 

 つまり、こういうことだ。
 意図的に再現されたノスタルジーは、すべて本質的にウソの不気味さを引きずってしまうのだ。 

 

 この映画における映像的違和感はほかにもある。
 「ともだち」が権力を把握し、“世界大統領” になったときの政権運営を行う議事堂の異形なデザイン。

 

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 まるでインドのヒンズー寺院か、イスラム教のモスクのように見える。
 議事堂の周辺に配される無数のミナレット(尖塔)。
 それは、国会議事堂が宗教施設になったことを暗示している。

 

 しかし、それもまた現実の国会議事堂そのものが持っている宗教建築的な超越性をそのままなぞっているといえなくもない。

 


「国会議事堂」とは何か?

 

 普段われわれがテレビ映像などで眺めている国会記事堂。
 そのフォルムそのものが、実は “墓石” のスタイルであることに誰も気づかない。

 

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 このようにこの映画は、われわれが日頃気づかずに見逃しているもの多くが、実は不吉な暗号を秘めていたことを再発見させようとしている。

 

 ただ、ストーリーの展開は荒唐無稽である。
 というか、支離滅裂といってもいいかもしれない。

 

 地球上の人類を滅ぼそうとする悪役である「ともだち」が、主人公たちの幼なじみの一人であるという設定そのものが強引すぎるのだ。

 

 主人公たちの幼なじみの一人ならば、仲間の誰かが、すぐにその人物を特定できるはずである。


 なのに、たった9人しかいない仲間の誰もが「ともだち」の正体を特定できない。

 いくら人間の記憶があいまいなものであったとしても、そんなことは現実的にはあり得ない。

 

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 そもそも “ともだち” が、幼い頃に主人公たちから “ハブかれた” という個人的な恨みを「世界征服」という形ではらすという設定が飛躍しすぎていて、説得力がない。

 

 しかし、ストーリー展開の破綻と世界観の構築は別問題である。

 

 この作品は、支離滅裂なディテールを濁流のように呑み込みながら、全体像として、ものすごく強烈な世界観を提示したのだ。

 

 それは、先ほどもいったとおり、どんな人間も黙らせるような「正義」こそ、実はもっとも邪悪なものであるというテーゼだ。

 


「ともだち」教団は成功したオウム真理教である

 

 この映画では、「正義」というのは宗教であるということが明かされている。
 つまり、「正義」は人間同士の合理的な判断によって定められるものではなく、神によって人類に一方的に押し付けられる “掟” なのだ。

 

 そこには、1985年に起こったオウム真理教地下鉄サリン事件に対する人々の記憶が重なっている。


 オウム真理教の教祖麻原彰晃は、「ポア」という言葉を使い、殺人を教義のなかで「正義」の行動だと謳った。
 
 オウム信者は誰一人、教祖が下した “神の掟” に逆らうことができなかった。
 そう思って眺めてみると、映画のなかで “世界大統領” になった「ともだち」は、オウム真理教の “成功した” 姿を語っているようにも見える。

 

 オウムの麻原彰晃は、信者たちの前で数々の奇跡を行った。
 たとえば「空中遊泳」というような、写真合成によるインチキ映像ですら、信者たちには “奇跡” に見えた。

 

 『20世紀少年』の「ともだち」も、信者の前で奇跡を披露する。
 それが、世界中の信者たちの前で、暗殺されたはずの自分の死体を蘇らせることだった。

 

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 だが、暗殺された「ともだち」と、復活した「ともだち」が同一人物であるという保証はどこにもない。
 なぜなら、仮面の下の素顔を誰一人見たことがないからだ。

 


仮面を付けた者は「人間」を超えた存在になる

 

 ここに「仮面」という文化に対する作者の世界観が表出している。
 すなわち、「仮面という文化を発明した人類には真実が把握できない」というテーゼだ。

 

 人間は本質的に、仮面をかぶって身を隠す存在である。
 太古の人類にとって、祭儀に使う仮面は「人間を超える」存在になることだった。

 

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 現代においても、自分を超えた別人になりたいとき、人々は仮面をかぶる。
 サングラス、マスク、化粧などというのは、現代人が使うマイルドな仮面のバリエーションである。

 

 人が限りなく人から遠ざかっていく状態を、この作品では「ともだち」の仮面を借りて訴えていく。


 人から “遠ざかった” 人間は、神なのか、獣なのか、悪魔なのか。
 それとも、そういう概念すら超越した非存在の何かなのか?

 

 これが、「ともだち」という存在を借りて、作者が訴えたかった究極の問だ。

 

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 幼年時代の主人公たちは、後年「ともだち」として登場することになる少年に向かって、こういう。
 「お前、その不気味な仮面とっちゃえよ」

 

 そうなのだ。
 仮面が不気味なのは、その裏側に「人間」が存在しているという事実を無化してしまうからだ。

 

 仮面を眺めている人たちは、言葉に出さずとも、誰もが本質的な怖さをいだいてしまう。


 それは、仮面の向こう側に、見たこともない顔が出現する恐怖ではなく、仮面の向こう側に、何もない空間が広がっていることに対する恐怖である。

 

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 『20世紀少年』という作品は、その本源的な恐怖感まで描き切れたからこそ、多くの人々に衝撃を与えることになった。

 

冷たいバラード

 「櫛(くし)を拾うと、つき合っている人と別れることになると、昔の人はよく言ったわ」
 
 そう言って、女は喫茶店のシートに置き忘れられた誰かの櫛を、そっと自分のバッグにしまい込んだ。 

 

 半月形の古風な木の櫛だった。
 アメ色に染まって、べっ甲のようにも見える。
 若い人が使うものとは思えない。
 えり足のきれいな、和服の女性が使うとサマになりそうだった。
 
 しかし、
 「別れることになる」
 という彼女の言葉と、見知らぬ人間の使い込んだ櫛の “不吉な” 色合いが、すでに何かの符号となって、僕の心をむしばんでいる。

 
 
 「そんな縁起でもないもの、捨ててしまえばいいのに」
 
 そう言えばいいのだろうけれど、なぜか、その言葉が口から出ない。
 すでに、僕は覚悟を決めていたのだと思う。

  
 女が「別れることになる櫛」を僕の前で拾い、これみよがしに、自分のバッグにしまう。
 これほど、強烈な “別れのメッセージ” がほかにあろうか。

 
 

 

 その予兆は、いつからあったのだろう。
 もしかしたら、僕が就職活動を始めた頃からだったのかもしれない。

 

 いろいろな会社の面接を受けるために、僕が肩ぐらいまであった長髪を切った。
 それを見て、
 「まるで、『いちご白書よもう一度』の歌みたい」
 と、女は笑った。

 

 その笑いに、シレっとした侮蔑の感情がこもっていたことを、僕は嫌な感じに受け取った。
 言外に、“それがあなたの限界” というメッセージが含まれていたことを、僕は見逃さなかった。

 

 『いちご白書よもう一度』という歌に出てくる男は、就職が決まると同時に、無精ヒゲと長髪を切り、「もう若くないさ」と言い訳する。

 
 学生運動が衰退していく時代に、過去を精算していく若者の気持ちをほろ苦い甘さで包んだ曲だ。

 

 「気持ち悪い」
 その歌がはやったとき、女はそうつぶやいた。
 彼女は、その歌の歌詞に潜む安易な自己憐憫を憎んだのだろう。
 その気持ちはなんとなく理解できた。

  

 

 だが、いつのまにか僕は、その歌の主人公と同じことをしていた。

 

 「大企業と癒着した大学の経営方針には大いに問題がある」
 などと学内で議論していたくせに、就活の時期が来たときには、僕はなりふり構わず大手といわれる会社ばかり狙った。
 それを彼女から笑われて、僕は自分がただの “小者” であることを自覚した。

 

 

 

 高校の先輩と後輩。
 彼女との仲は、最初はそれだけの間柄だった。
 僕はレギュラーも取れないバスケットボール部にいて、彼女はそのマネージャーだった。

 

 普通は、レギュラーメンバーの方がモテる。
 しかし、彼女はなぜか、練習中も目立たず、試合のときもベンチで声を上げるだけの僕を選んだ。

 

 僕は、そんな彼女に負い目があったため、劣等感を克服するために大学に入ってからは、政治・思想を勉強する道に進んだ。
  
 ちょうど学生運動が激しくなり始めた頃だった。
 彼女は、いつのまにか私と一緒にデモに参加するようになり、同じ隊列のなかで、肩を寄せ合いながら腕を組むこともあった。

 

 僕たちは、デモのない日は学校の図書館でいっしょに本を開き、夕暮れの公園を散歩し、ビートルズのバラードをハモッた。

 

 『 Do You Want to Know A Secret 』
 『 Nowhere Man 』
 『 This Boy 』
 『 If I Fell 』

 

 小さい頃からピアノを習っていたという彼女は、ビートルズ独特の6度のハーモニーをつけるのがうまかった。

 

 

 

 「労働者の時代って、来るのかしら」
 デモ隊の前でアジ演説をしている運動家たちの話を思い出し、夜の公園のベンチに座って、空を見上げた彼女が、そう尋ねる。

 

 「さぁな。でも、資本主義の運命はもう定まったようなものだ。これからは、搾取と不平等がない時代がやってくるはずだ。 理屈ではね」
 
 僕は、運動家たちのしゃべっていたメッセージを思い出しながら、聞きかじりの思想を自信たっぷりにいう。

 

 「そうね。これからの時代のことを、もっと勉強しないとね」
 彼女の首が、僕の肩に寄せられる。

 

 

 

 そういう時代があっという間に過ぎて、今はもう社会人となった僕たち2人が、こうして向かい合っている。

 

 彼女は、今では肩パッドの入った黒のスーツが似合う女になっている。
 小さいながらも、広告代理店に勤め、自分の企画したものが認められ、大手クライアントがつくようになったという。


 その頃から、彼女の生き方が変わったように見えた。
 「尖ってきた」というのだろうか。
 着るものにせよ、身につけるアクセサリーにせよ、ドラマに出てくるヒロインのように輝き始めたのだ。

 

 あるときは、まるで上流階級の貴婦人が着るような、豪華な毛皮のコートを着て現れたこともあった。
 今までの彼女の趣味では考えられないファッションだった。

 

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 「誰かにプレゼントされたのか?」
 と、僕はほんとうはそう尋ねたかったのだけれど、そのような質問をする自分がみじめに思えて、けっきょく無言のまま彼女のコートを眺めているだけだった。

 

 

 「クルマを買ったわ」
 と、別の日にはそういわれた。
 
 「どんなクルマ ? 」
 「中古。 安かったの。でも赤くて可愛いのよ」

 

 「クルマなんか興味がなかったくせに」
 「今、それで深夜の首都高を飛ばすのが面白いわ」

 

 「あそこには、かなり怖いカーブがいくつもあるよ」
 「そういうのを走り抜けたとき、“自分に勝った” と思うの」
 
 僕は、そのとき自分のクルマをまだ持っていなかった。
 だから、じっと聞いているしかなかった。
 僕の心のなかで、どんどん知らない彼女が育っていっていくような気がした。

 

 

 一度、ドライブに誘われた。
 待ち合わせ場所に来た彼女は、まったく「見知らぬ女」に見えた。
 雑誌のグラビア広告に出てくるモデルのようだったのだ。
 

 「さぁ、乗って」
 声に挑むような響きがある。
 目が笑っていなかった。

 

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 「私、いますごく孤独」
 ちょっと前だったか、彼女がそんなことを話したことがあった。
 
 「孤独って ? 」
 
 「誰も助けてくれないの。最初は50万円とか100万円ぐらいのプロジェクトだったのに、いま私が抱えているのは、もうその10倍くらいになっているの。
 うちの社長に言われたことがあるわ。
 新人のくせに一番の稼ぎがしらだって。
 でも、企画のことで困ったことが出てきても、誰も相談に応じてくれないのよ。
 みんなライバル同士だったのね。
 上司だって、すきあらば、自分が思いついたもののようにアイデアをかっさらっていくし 。そのことに気づくのが遅かったわ」

 

 そのときの彼女は、暗い草原で牙を向く狼に見えた。

 
 だが、いま目の前にいる彼女は、そんなふうには見えない。
 眠そうな目をしばたかせて、生あくびを噛み殺し、僕の顔よりも窓の外の景色ばかり眺めている。
 
 「眠いのか ? 」
 と、僕は聞く。


 「ごめんなさい。月曜にプレゼンする企画書を作るために、昨日始発で帰ったから」
 
 いったい、どんな日常を送っているのだろう。
 テレビドラマなどに出てくるCM制作の現場の空気を毎日浴びているのだろうか。
 定時に出社して、定時に退社するような普通のサラリーマン生活を送り始めた僕にはよく分からない。

 
 
 「ねぇ、覚えている ? 」
 窓に差し込む陽射しをまぶしそうに眺めながら、彼女が言った。
 
 「同じデモの隊列にあなたがいて、機動隊の実力行使に隊列が崩されて、みな散り散りになったとき、私は倒れたの。
 機動隊やら、逃げようとした学生やら、みんな私を踏み越えて行ったの。
 でも、私、怪我一つしなかった」

 

 覚えている ?
 と彼女は、もう一度きいた。

 

 「覚えている」
 と僕は言った。

 

 「あなたが私の上に覆いかぶさって、守ってくれたから」

 

 なぜ、そんな話を今ごろ持ち出すのか。
 
 「過ぎたことだよ」
 かろうじて、そういうのが精一杯だった。

 「そうね」

 

 

 それから、長い沈黙が訪れた。
 しばらくの間、彼女はレモンソーダのストローが入っていた紙をくるくると指で丸めていたが、やがて退屈したのか、それをぽんと灰皿に捨てた。 
   
 「なに考えているの ? 」
 と僕はきいた。

 

 彼女は、僕から視線を逸らせるように窓に目を向け、
 「私、もっと勉強がしたくなったの。昔よりも今の方がもっと
 と、つぶやいた。

 

 「何の勉強さ ? 」 
 「あなたが、もう教えてくれなくなったもの」
 さびしそうな笑顔が浮かんでいた。
 
 ほとんど会話もないまま、僕たちはその喫茶店を後にした。

 


 


 弱々しい冬の太陽とはいえ、陽はまだ中天に漂っていた。
 以前だったら、
 「昼メシ、なに食う?」
 と、無邪気に食べたいもののメニューを言い争った2人だが、喫茶店を出た僕たちは、もう言葉を交わし合うほどの距離すら保っていなかった。
 
 「今日はこれで帰る」
 と “背中で語る” 彼女の後を、ただぼんやりとついて行く。
 
 歩数にして、わずか4~5歩。
 しかし、もうその距離がうまらない。
 
 思い出したように、彼女が振り向いた。
 
 「じゃ、ここで」
 
 中途半端に挙げられた彼女の手が、ふと宙に止まる。
 彼女自身も、掲げた手をどのように戻せばいいのか、戸惑っているようにも見える。
 
 「じゃ ……
 
 僕もそう言い返し、なんとか笑顔をつくった。

 

 


 
 人混みに消えていく彼女の背中を見つめながら、僕は、残された中途半端な休日をどう過ごすか、それを考えて途方に暮れている。
 
 自分のアパートに戻る前に、商店街のスーパーに寄って、牛肉の大和煮の缶詰を一つ買った。
 それをオカズに、後は米でも研いで、一人分の昼飯をつくるつもりだったが、気が変わって、酒屋で日本酒を買った。

 


 
 部屋の中には、外よりも寒々とした空気が澱んでいた。
 FMラジオのスイッチを入れ、茶碗に日本酒を注いで、首をのけ反らせながら、一気にあおった。
 
 しかし、昼間から酒を呑むという「解放感」からは遠かった。
 体と心がダルくなって、「眠りたい」という心境に早くなりたかった。
 
 そのとき、FMラジオから、まさに「眠りなさいよ」といわんばかりの曲が流れてきた。
 子守唄のようなゆるいテンポに、甘いメロディ。
 
 でも、心の奥底を冷やすような、無機質的な響きがある。
 シンセサイザーの音の膜に人の声が閉じ込められ、遠い夢の世界で流れている歌のように思える。

 僕には、それがSF映画にでも出てくる未来の音楽に聞こえた。
 
 それまで、「バラード」といえば、歌手が生の声で優しく歌い上げる音楽だと信じていた。
 しかし、その曲は、古典的なバラードから脱し、テクノロジーの冷たさを心地よいと感じる新しい時代の感性を表現していた。
 
 「バラードが変わっていたんだ」
 
 そのとき、はじめて気づいた。
 もうビートルズの『 If I Fell 』は、どこからも流れない。

 

 自分の好きな音楽ですら、とっくに自分を置き去りにして、遠いところに行っていた。

 

 人間だって、そうかもしれない。
 常に同じ場所にはとどまっていない。
 もっと早くそれに気づくべきだった。

 

 FMラジオから流れてきたバラードは、そんな自分をあざ笑うかのようでもあり 。慰めてくれるようでもあり

 

 せっかく買った大和煮の缶詰を開けることなく、曲を聞きながら、ひたすら酒をあおった。
 クールに研ぎ澄まされたバラードは、安い日本酒の “苦味” とよく合った。

 

 流れていたのは、10cc(テンシーシー)の『 I’m Not In Love(アイム・ノット・イン・ラブ)』という曲だった。
  
 それから数日経って、レコード屋に行き、僕はそのレコードを買った。
 1976年の冬の午後だった。

 

youtu.be

 

祝 たぬき様ご生誕69周年

 本日、東京都内において、たぬき様(本名 町田)のご生誕69周年を祝う記念式典が、本人および奥様を含む総勢2名という多数のご家族ご列席のもとに、盛大に行われた。

 

▼ 式典に用意された直径10メートルのバースデーケーキ。屋敷内に入らなかったため、クレーンで屋上に上げ、ドローンに付けたカメラで撮ったという

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 Wikiperia によると、町田氏は、1950年(昭和25年)4月28日生まれ。
 ご生誕後、即座に「おぎゃあ」という完全なる日本語を発語して「天童」の名をほしいままにし、0歳児でありながら「末は博士か大臣か」と当時の新聞・ラジオをにぎわせた。

 

 また、お誕生時に、お釈迦さまと同じように、右手で天を指し、左手で地を指して、
 「天上天下、唯我独尊(ゆいがどくそん)」
 とのたまわれたとも伝えられているが、この発言に関しては、本来の意味とは異なった「この世で俺さまだけが偉い」という発言に勘違いされるという批判も提出され、今風にいう “炎上” しかかったこともあった。

 

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 なお、このご生誕を祝うために、星に導かれて東方より3人の博士が来訪。
 「将来は人類を救うノーベル賞ものの大聖人か大富豪になるだろう」
 と予言したとの逸話もあるが、70年近く経った現在、そのどちらも実現に至らず。

 

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 いまだノーベル賞が実現していないことに関しては、「大器晩成なのだろう」との好意的な観測もあるが、一方で、氏の親御さんが、博士たちの来訪を謝する意味で多額の謝礼金を支払ったという情報もあり、今風にいう「振り込め詐欺」に遭ったのではないかという説も有力。

 そのため「ノーベル賞もの」という評価そのものを疑問視する声もある。

 

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 なお町田氏は、御幼少の頃には、「まことちゃんの再来」と騒がれ、マスメディアに採りあげられて評判となったが、最近の研究によると、上記の写真が撮られた頃には、楳図かずお氏の漫画『まことちゃん』はまだ誕生しておらず、時間的整合性がとれていないことが判明。
 そのため、現在、町田氏の「まことちゃん再来説」は取り下げられている。

 

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 また、今回の生誕69周年を機に、地元の人たちの間では駅前に銅像を建立したり、氏をモデルにしたゆるキャラをつくろうという話ももち上がったが、一部の市民からは、「理由が分からない」と疑問視する声や、「税金の無駄ではないか」という反対意見も提出されており、銅像ゆるキャラに関しては、現在見通してが立っていない。

 

銅像を作るためのサンプルに採りあげられた町田氏の画像。この画像そのものが「何かの誤解を招きそうだ」と反対される理由になったという説もある

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 なお、町田氏は、今度のアメリカ大統領選に向け、ドナルド・トランプ氏を相手に、大統領選に出馬する意志を固めたという報道もなされたが、「自分はアメリカ国民ではなかった」というご本人の判断により、出馬は断念されたようだ。

 
 
 氏自身の談話によると、『MHKスペシャル』という21時台の報道番組で放映される「町田の69年の歩み」という記念特番の制作が進行しているということだったが、NHKに問い合わせたところ、そういう事実はないことが判明。


 
 氏に再度問うたところ、「MHK」という局であるとのこと。
 ここ数日間、各記者が「MHK」なる放送局を捜索中だが、今のところ所在地の確認が取れていない。

 

 若い頃(写真下)は、政財界の表裏の大物を密かに護衛するSPの仕事をしていたという噂もあったが、近年、それとは逆に、地元の反社会勢力の “若頭” ではなかったのか? という情報も浮上。
 
 本人は沈黙を保っているので、確認が取れていない。

 

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