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「死にたいのなら一人で死ね」という言葉の不寛容さ

 神奈川県・川崎市登戸駅近くの路上で、50代男性が起こした大量殺傷事件について、落語家の立川志らく氏が語った「死にたいなら一人で死んでくれよ」という発言がテレビのワイドショーやネットで賛否両論を巻き越しているという。

 

 当然、そういう意見は過激すぎるのではないかという意見もネットで公開されたらしい。

 

 それに対して志らく氏は、
 「子供の命を奪った悪魔に対し、死にたいなら一人で死んでくれ!というのは普通の人間の感情だ」
 と説明。

 

 さらに、
 「(私の)言葉が次の悪魔を産むという(意見もある)が、なぜ悪魔の立場になって考えないといけないんだ? (子供を巻き添えにするなというのは)子供を愛している世界中の親の多くが言いたいはずだ」
 と反論したらしい。

 

 驚いたのは、この志らく氏の意見に対し、あるワイドショーでは、視聴者の6
~7割が賛同したということを伝えたことだった。

 

 それを聞いて、なんだか日本人は変わってきたなぁ と思った。
 多くの日本人が、非寛容の精神に染まってきたという気がしたのだ。

 「死にたいなら一人で死ねよ」
 という発言に共感を感じた人というのは、どういう人たちだろう。


 
 罪のない子供たちを巻き添えにした犯人に対する憤りによって、込み上げてきた怒りをそのまま表明したということは、まず分かる。

 

 しかし、「一人で死ねよ」という言葉は、巻き添えにした人たちがいるかいないかは別にしても、はっきりいえば、
 「お前なんか死んじまえ」
 と言ったに等しい。

 

 もし、仮に私がその事件を起こそうと思っていた犯人だとしたら、私は、逆にそう言い切る人間の非情さに反感を覚え、頭のなかだけにあった妄想を、本当に実現するために動き出してしまうかもしれない。

 

 この志らく氏の発言に違和感をいだいた人たちは、次のようにいう。

 
 「犯人はなぜそういう犯行に突き進んだのか。それをしっかり解明し、むしろ犯人の心を閉ざしてしまった闇の暗さに救いの手を差し伸べてあげることの方が大事だ」

 

 私もそう思う一人だ。
 しかし、そういう意見よりも、この事件に短絡的に反応した志らく氏の意見の方が世論をリードしているという話だった。

 

 社会的なテーマに対し、自分の感情のおもむくままに発言することは、確かに発言者の気持ちをすっきりさせるだろう。


 志らく氏は、義憤に駆られた自分の感情を強い言葉で言い切ったときに、精神的な高揚感をいだいていたはずである。

 

 しかし、そういう高揚感から、<他者>に対する非寛容の精神がめばえる。

   
 非寛容の精神は、相手の罪を断罪するという目的以上に、断罪する自分の快楽に酔うときに生まれる。 

 

 それは日本だけに限らないのかもしれない。
 非寛容の世界は、地球上に生まれつつあるような気もする。
  
 世界は、「移民」「宗教」「格差」などというテーマを抱えたまま、大衆の対立構図をどんどん深め、急速に非寛容の色に染まりつつある。

 

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 イギリスのEU離脱騒動も、ヨーロッパや中南米における極右勢力の台頭とそれに対する反対運動も、アメリカのトランプ支持者と反対者も、それぞれ国論を二分するような形で、お互いの支持者同士が敵対勢力を非難する「非寛容」さをむき出しにしている。

 

 非寛容とは、自分のことを100%「正義」の側に置き、敵対する勢力を「悪魔」と断定することをいう。

 

 まさに、今回の志らく氏の発想がそうである。

 

 彼は、この犯人をはっきりと「悪魔」と断定し、「なぜ悪魔の立場になって考えなければいけないんだ?」と言い放った。
 このとき、彼は自分の意見には「100%正義がある」と信じたはずだ。

 

 しかし、“100%の正義” なんてありえない。
 もし、そういうものがあるのならば、世の中に民主主義などというものは生まれていない。


 民主主義とは、50%程度の正義を、反論する人たちと議論を重ねることによって70%ぐらいの正義に持って行こうとする技術のことをいう。

 しかし、最近はそういう考察が空しくなるほどに、「自分こそ世論だ !」と勇ましく言い切る人たちが増えている。 

 

 その一つが、今回の志らく氏の
 「(犯人は一人で死ねというのは)普通の人間の感情だ」 
 と言い切る言葉に代表されている。

 

 そういう氏の発言を不自然に感じる人は少ないのかもしれない。
 しかし、自分の私的な感情が、どうして「普通の人間の感情だ」などと言い切れるのか?

 

 世界の思想や文学(そして落語)は、ずっと「自分の私的な感情にはどれだけ普遍性があるのか?」というテーマを投げかけてきたはずである。

 

 私個人は、感情に任せてこぼれ出た自分の発言を「普通の人間の感情だ」と言い切ることに、とてつもない羞恥を感じる。