「論破」を重んじる橋下徹氏が飽きられてきた?
朝のワイドショーを見ていると、必ずどこかのチャンネルで橋下徹氏の顔を見る。
橋下氏が出る番組に被せられるタイトルは、ほとんど、
「橋下徹が、〇〇を切る!」
「橋下徹が、〇〇に喝!」
とか、
「橋下徹、緊急生出演!」
などという言葉で飾られる。
とにかく、「切った」とか、「生」とか、生きのいいところがこの人の売りらしい。
鮮魚店向けのキャラクターなのかもしれない。
ただ、私が思うに、早晩、橋下徹氏の時代は終わる。
こういう「切った」とか「生」という威勢の良さを売りとするものは、“足が早い” 。
つまり、もうじき賞味期限が切れるということだ。
もう少しいうと、彼には「哲学なきコメンテーター」の哀れさを感じる。
自分自身の思想もなし。
国際感覚もなし。
歴史観もなし。
彼は、頭の回転の早さだけを武器に機関銃のように言葉を連射するが、その言葉はとてつもなく軽い。
だから、「言論人」として扱われても、彼の著作には “評論集” のようなものがない。
その多くは、「交渉術」を教授するようなノウハウ本。
つまり、一貫性のある思想を体系だって展開するものではなく、「しゃべってなんぼ」という、その場しのぎの “コメント集” が中心となる。
一言でいうと、“テレビ向け” 。
4~5分という短い時間に、一つのテーマを威勢よく語り切り、CMが入ると出番も終焉。
チャンネルを変えると、今度は他局の録画収録番組に顔を出しているというパターンだ。
こういうテレビ向けコメンテーターである橋下氏の特徴を、12月10日(金)の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」というコーナーで、倉橋耕平という社会学者が次のように語っていた。
「橋下氏は、〇〇か、それとも〇〇かと二択を作るのがうまい。こういう論法はテレビやネットとは相性がいい」
つまり、橋下氏は、物事の細部を捨象して、議論のフレームを単純化する。
そして、くっきりした二項対立の構図を設定し、その片方に乗って自分の意見を威勢よく語る。
同時に、それと対立する考えを木っ端みじんに打ち砕く。
橋下徹氏に限らず、いまテレビなどでウケのいいコメンテーターの論法はすべてこの手法で統一されている。
朝日新聞の倉橋氏は、こういう図式を「論破型の議論」という。
論破型の議論がウケるのは、なんといっても視聴者を興奮させるからだ。
日常的な会話がだらだら続くより、鋭い言葉で社会や政治の “闇” にズバズバと切り込んでいく方が視聴者は喜ぶ。
実際、橋下徹氏の威勢のいいコメントを聞いていると、私などもスカッとすることが多いのだ。
本当に、この人には、何度もいいくるめられそうになる。
しかし、そういう論法から生まれてくるのは、社会や政治や文化の分断である。
二項対立を前提として議論を進めるわけだから、とうぜん世の中の「分断」は不可避となる。
分断された世論は、何を生むのか?
威勢のいい意見が勝つという実も蓋(ふた)もない単純な世界だ。
朝日新聞の記事では、このような「議論に勝った方が正しい」という風潮が日本で始まったのは、最近ではないという。
すでに、1980年代末から始まった討論系のテレビ番組に見られたものだそうだ。
たとえば、テレビ朝日で始まった「朝まで生テレビ」(1987年スタート)。
この手の討論番組では、社会問題や政治問題を扱う専門家と同時に発言力の高い素人のコメンテーターも登場。ときに、その素人の発言が専門家の声を封じるところがウケた。
この時期から、ディベートや説得力を重視した自己啓発本もブームとなり、「議論で打ち勝つ」ことが重要視される時代が始まった。
このような “ディベート文化” の最前線を走ってきた人が橋下徹氏だと言ってかまわない。
しかし、前述したように、今の世の中は、ディベート文化の軽薄さに気づいてきた。
2年に及ぶコロナ禍のなかで、社会は停滞したが、人々は物事をゆっくり考える時間を持つようになった。
仕事にかまけて忙しいと思っているときは、威勢のいい意見の方がスカッとする。
しかし、じっくり考える時間が増えてくると、威勢のいい意見の薄っぺらに気づくようになる。
あたかも、世は「多様性を重んじる」社会に移行しつつある。
多様性とは、議論する際にも、まず相手方の言い分に耳を傾けるところから始まる。
「令和」という時代も、来年は4年目を迎える。
「平成」という時代は、橋下徹氏に代表される “攻撃型の人” がもてはやされる時代だったが、「令和」という “和” を尊ぶ時代が進んでいくと、攻撃型の人のギスギスした言動に鬱陶しさを感じる人が増えるように思う。