なぜか五輪関連の疑問や批判がつきない
東京オリンピック2020が閉会しても、ネットなどでは、いまだにこのイベントに対する話題が途切れることがない。
もちろん、この後にパラリンピックを控えているわけだから、人々の心にはずっと五輪の熱気が残っているという言い方もできる。
しかし、これまでの五輪報道などは、パラリンピックが開かれる前から先行する五輪競技でメダルを取った日本選手の活躍を取り上げる特番が何日か続いたあと、自然にフェイドアウトしていった。
ところが、今回の五輪は、コロナ禍の最中に開かれたという “異例の大会” であったせいか、五輪絡みの話題が尽きることがない。
おそらく、その理由は、今回のオリンピックが、それまで取り上げられることの少なかった様々な問題を国民に突き付けたからだと思われる。
たとえば、イベントを企画したスタッフのさまざまな不祥事に明るみに出てしまった運営上の問題。
そのなかには、組織委員長の森喜朗氏の女性蔑視発言や、ディレクターを統括する小林賢太郎氏が、過去の舞台でホロコーストを揶揄するなど、国産感覚の欠如を物語る事例も含まれる。
さらに閉会後に、表敬訪問してきた女子選手の金メダルにいきなりかじりついてしまった河村たかし名古屋市長の問題。
あるいは、五輪番組を担当したテレビ朝日のスタッフ10人がこっそり宴会を開き、明け方まで盛り上がって、女性スタッフの一人が非常階段から転落したという事件。
それ以外にも、閉会後に “銀ブラ” を楽しんだIOCのバッハ会長の行動が「不要不急ではないのか?」と問う世間の批判に対し、丸川珠代大臣が政府見解として彼をかばったこと。
そういう国民からの疑問や批判が多く噴出したことでも異例の大会であった。
つまり、五輪の内容そのものよりも、“五輪開催” にまつわる関係者のドタバタがあまりにも目立った大会であったということなのだ。
ペーパーを読むだけの菅首相の答弁
なかでも最大の問題は、開催前には中止や延期を求める声が広がっていたにもかかわらず、
「なぜ東京五輪を強引に開催しようとしたのか?」
という根本的な問題を、その総指揮を執った菅首相がいまだに十分に説明していないことだ。
国際政治学者の舛添要一氏(写真下)は、8月14日発信のネットニュースで、このような菅氏の説明不足を、
「菅首相の言葉の貧しさにある」
と指摘している。
すなわち、毎日の定例会見においても、菅首相は、官僚が用意したメモを淡々と述べるだけで、自らの言葉で国民に語ることがなかった。
記者からの質問に対しても、責任を問われるような話題が発生するリスクを避け、安全な言葉だけを選んで繰り返す。
そのため、首相の答弁は常に抽象的で、観念的。
つまり、AI がペーパーで吐き出すような話し方に終始し、人間的な心が感じられなかった。
舛添氏に言わせると、この「言葉の貧しさ」が、国民の気持ちをうんざりさせているのであり、現在の支持率の低下を招いている、とも。
舛添氏の発言を読んで、まぁ、確かにそうだなぁ … とも思う。
しかし、「言葉の貧しさ」というのは、菅首相の資質や能力だけの問題ではない。
それは、都の行政を仕切っている小池百合子知事にもいえることだし、テレビニュースなどに顔を出す自民党の閣僚たちも同様。そういう政権与党と敵対するはずの野党の党首たちにもいえることだ。
さらにいえば、そういう報道に携わるテレビなどのキャスターやMCたちにもいえる。
今や、日本人全体が、「言葉の貧しさ」という問題を抱えてしまっている。
それはいったいなぜなのだろう?
日本人の言葉が貧しくなった理由
戦後日本がずっと追いかけてきた価値観が、ここに至って、ついに崩壊してきたということを意味している。
すなわち、政府、国民、企業が一丸となって、「言葉の重み」などという問題に背を向け、「経済による繁栄」だけを重視してきたことへのツケが回ってきただけの話だ。
国の未来を占うとき、すでに経済重視という方針が危うくなっているのに、それを直視しないでここまできたのが、平成から令和にかけての日本の政治だ。
その象徴的な例が、今回のオリンピックということなのだ。
菅首相は、オリンピックを開催することで、33兆円という経済効果を期待していた。
しかし、それがコロナウイルスを抑制するための無観客試合や、会場周辺の飲食営業への自粛要請などで霧散し、実質的には過大な経済的損失と向き合わざるを得なくなった。
観光業、飲食業などは壊滅しかかっているというのに、人々の人流は収まらず、医療体制は崩壊しつつある。
それを受けて、菅政権の支持率は急降下。
だから、菅氏には、もうこの現状を語る言葉というものがすでにないのだ。
こういうときに、国民を鼓舞する言葉を生み出すことが、一国のリーダーに問われる資質である。
しかし、残念ながら、菅氏にはそれがなかった。
もちろん前任の安倍晋三元首相にもなかった。
のみならず、立憲民主党の枝野氏、共産党の志位氏・小池氏にもそれがない。
メディアの言論人の言葉も貧しい
では、メディア側の人々はどうか?
こちらもお寒いかぎりだ。
政治問題を “辛口” で語ることで人気のある橋下徹氏。
彼は、今やどのテレビ局からも引っ張りダコだが、切れ味の鋭いことを言っているようでいて、実はその中身はあまり濃くない。
私はもう長い間、テレビを通じてこの人の言動を眺めてきたが、とても一貫性があるようには思えない。
彼は発言中に、必ず二つの違う方向のことを語る。
「僕個人の考えは …… なんですが、現在は …… という意見も無視できないんです」
つまり、どういう意見が来ても攻撃されないリスクマネジメントをしっかり計算したしゃべり方なのだ。
口調は威勢がいいが、内容に関しては熟考した後がみられない。
要は、その都度その都度、視聴者の求める答を先回りして取り出し、その場を上手に回していく。
これは(頭のいい)ポピュリストの典型的な手法だ。
自分に敵対する人がいるかぎり、その弁舌はどんどん “爽やかさ” を増す。
彼の本性は、優秀なディベータ―である。
人々の心に突き刺さるような言葉は、ディベートとは無縁のところから生まれる。
つまり、「論争で打ち負かす」というような発想からは生まれ得ないものだ。
では、どこから生まれるのか?
それこそ、若い頃からその人が培(つち)ってきた「教養」以外のところからは生まれない。
「教養」とは何か?
私の言葉でいえば、それは「おのれを恥じる心」ということになるが、いきなりそこに行くと禅問答になってしまうので、えげつない言い方をすれば、それまで蓄積した読書の量、感動した映画や絵画や音楽といったアートの量、信頼できる人との交流の量。
そういったものだ。
別の言い方をすれば、自分自身など小さく思えるような、偉大なものと触れ合う機会の量である。
つまり、自分自身が「羞恥心」を感じてしまうような、自分を超えたものを知ることである。
それこそが、人間が「言葉を得る」ときの原点となる。
そういう心の中に降りてきた言葉でなければ、人を説得することなどできない。