アートと文藝のCafe

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冷たいバラード

 「櫛(くし)を拾うと、つき合っている人と別れることになると、昔の人はよく言ったわ」
 
 そう言って、女は喫茶店のシートに置き忘れられた誰かの櫛を、そっと自分のバッグにしまい込んだ。 

 

 半月形の古風な木の櫛だった。
 アメ色に染まって、べっ甲のようにも見える。
 若い人が使うものとは思えない。
 えり足のきれいな、和服の女性が使うとサマになりそうだった。
 
 しかし、
 「別れることになる」
 という彼女の言葉と、見知らぬ人間の使い込んだ櫛の “不吉な” 色合いが、すでに何かの符号となって、僕の心をむしばんでいる。

 
 
 「そんな縁起でもないもの、捨ててしまえばいいのに」
 
 そう言えばいいのだろうけれど、なぜか、その言葉が口から出ない。
 すでに、僕は覚悟を決めていたのだと思う。

  
 女が「別れることになる櫛」を僕の前で拾い、これみよがしに、自分のバッグにしまう。
 これほど、強烈な “別れのメッセージ” がほかにあろうか。

 
 

 

 その予兆は、いつからあったのだろう。
 もしかしたら、僕が就職活動を始めた頃からだったのかもしれない。

 

 いろいろな会社の面接を受けるために、僕が肩ぐらいまであった長髪を切った。
 それを見て、
 「まるで、『いちご白書よもう一度』の歌みたい」
 と、女は笑った。

 

 その笑いに、シレっとした侮蔑の感情がこもっていたことを、僕は嫌な感じに受け取った。
 言外に、“それがあなたの限界” というメッセージが含まれていたことを、僕は見逃さなかった。

 

 『いちご白書よもう一度』という歌に出てくる男は、就職が決まると同時に、無精ヒゲと長髪を切り、「もう若くないさ」と言い訳する。

 
 学生運動が衰退していく時代に、過去を精算していく若者の気持ちをほろ苦い甘さで包んだ曲だ。

 

 「気持ち悪い」
 その歌がはやったとき、女はそうつぶやいた。
 彼女は、その歌の歌詞に潜む安易な自己憐憫を憎んだのだろう。
 その気持ちはなんとなく理解できた。

  

 

 だが、いつのまにか僕は、その歌の主人公と同じことをしていた。

 

 「大企業と癒着した大学の経営方針には大いに問題がある」
 などと学内で議論していたくせに、就活の時期が来たときには、僕はなりふり構わず大手といわれる会社ばかり狙った。
 それを彼女から笑われて、僕は自分がただの “小者” であることを自覚した。

 

 

 

 高校の先輩と後輩。
 彼女との仲は、最初はそれだけの間柄だった。
 僕はレギュラーも取れないバスケットボール部にいて、彼女はそのマネージャーだった。

 

 普通は、レギュラーメンバーの方がモテる。
 しかし、彼女はなぜか、練習中も目立たず、試合のときもベンチで声を上げるだけの僕を選んだ。

 

 僕は、そんな彼女に負い目があったため、劣等感を克服するために大学に入ってからは、政治・思想を勉強する道に進んだ。
  
 ちょうど学生運動が激しくなり始めた頃だった。
 彼女は、いつのまにか私と一緒にデモに参加するようになり、同じ隊列のなかで、肩を寄せ合いながら腕を組むこともあった。

 

 僕たちは、デモのない日は学校の図書館でいっしょに本を開き、夕暮れの公園を散歩し、ビートルズのバラードをハモッた。

 

 『 Do You Want to Know A Secret 』
 『 Nowhere Man 』
 『 This Boy 』
 『 If I Fell 』

 

 小さい頃からピアノを習っていたという彼女は、ビートルズ独特の6度のハーモニーをつけるのがうまかった。

 

 

 

 「労働者の時代って、来るのかしら」
 デモ隊の前でアジ演説をしている運動家たちの話を思い出し、夜の公園のベンチに座って、空を見上げた彼女が、そう尋ねる。

 

 「さぁな。でも、資本主義の運命はもう定まったようなものだ。これからは、搾取と不平等がない時代がやってくるはずだ。 理屈ではね」
 
 僕は、運動家たちのしゃべっていたメッセージを思い出しながら、聞きかじりの思想を自信たっぷりにいう。

 

 「そうね。これからの時代のことを、もっと勉強しないとね」
 彼女の首が、僕の肩に寄せられる。

 

 

 

 そういう時代があっという間に過ぎて、今はもう社会人となった僕たち2人が、こうして向かい合っている。

 

 彼女は、今では肩パッドの入った黒のスーツが似合う女になっている。
 小さいながらも、広告代理店に勤め、自分の企画したものが認められ、大手クライアントがつくようになったという。


 その頃から、彼女の生き方が変わったように見えた。
 「尖ってきた」というのだろうか。
 着るものにせよ、身につけるアクセサリーにせよ、ドラマに出てくるヒロインのように輝き始めたのだ。

 

 あるときは、まるで上流階級の貴婦人が着るような、豪華な毛皮のコートを着て現れたこともあった。
 今までの彼女の趣味では考えられないファッションだった。

 

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 「誰かにプレゼントされたのか?」
 と、僕はほんとうはそう尋ねたかったのだけれど、そのような質問をする自分がみじめに思えて、けっきょく無言のまま彼女のコートを眺めているだけだった。

 

 

 「クルマを買ったわ」
 と、別の日にはそういわれた。
 
 「どんなクルマ ? 」
 「中古。 安かったの。でも赤くて可愛いのよ」

 

 「クルマなんか興味がなかったくせに」
 「今、それで深夜の首都高を飛ばすのが面白いわ」

 

 「あそこには、かなり怖いカーブがいくつもあるよ」
 「そういうのを走り抜けたとき、“自分に勝った” と思うの」
 
 僕は、そのとき自分のクルマをまだ持っていなかった。
 だから、じっと聞いているしかなかった。
 僕の心のなかで、どんどん知らない彼女が育っていっていくような気がした。

 

 

 一度、ドライブに誘われた。
 待ち合わせ場所に来た彼女は、まったく「見知らぬ女」に見えた。
 雑誌のグラビア広告に出てくるモデルのようだったのだ。
 

 「さぁ、乗って」
 声に挑むような響きがある。
 目が笑っていなかった。

 

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 「私、いますごく孤独」
 ちょっと前だったか、彼女がそんなことを話したことがあった。
 
 「孤独って ? 」
 
 「誰も助けてくれないの。最初は50万円とか100万円ぐらいのプロジェクトだったのに、いま私が抱えているのは、もうその10倍くらいになっているの。
 うちの社長に言われたことがあるわ。
 新人のくせに一番の稼ぎがしらだって。
 でも、企画のことで困ったことが出てきても、誰も相談に応じてくれないのよ。
 みんなライバル同士だったのね。
 上司だって、すきあらば、自分が思いついたもののようにアイデアをかっさらっていくし 。そのことに気づくのが遅かったわ」

 

 そのときの彼女は、暗い草原で牙を向く狼に見えた。

 
 だが、いま目の前にいる彼女は、そんなふうには見えない。
 眠そうな目をしばたかせて、生あくびを噛み殺し、僕の顔よりも窓の外の景色ばかり眺めている。
 
 「眠いのか ? 」
 と、僕は聞く。


 「ごめんなさい。月曜にプレゼンする企画書を作るために、昨日始発で帰ったから」
 
 いったい、どんな日常を送っているのだろう。
 テレビドラマなどに出てくるCM制作の現場の空気を毎日浴びているのだろうか。
 定時に出社して、定時に退社するような普通のサラリーマン生活を送り始めた僕にはよく分からない。

 
 
 「ねぇ、覚えている ? 」
 窓に差し込む陽射しをまぶしそうに眺めながら、彼女が言った。
 
 「同じデモの隊列にあなたがいて、機動隊の実力行使に隊列が崩されて、みな散り散りになったとき、私は倒れたの。
 機動隊やら、逃げようとした学生やら、みんな私を踏み越えて行ったの。
 でも、私、怪我一つしなかった」

 

 覚えている ?
 と彼女は、もう一度きいた。

 

 「覚えている」
 と僕は言った。

 

 「あなたが私の上に覆いかぶさって、守ってくれたから」

 

 なぜ、そんな話を今ごろ持ち出すのか。
 
 「過ぎたことだよ」
 かろうじて、そういうのが精一杯だった。

 「そうね」

 

 

 それから、長い沈黙が訪れた。
 しばらくの間、彼女はレモンソーダのストローが入っていた紙をくるくると指で丸めていたが、やがて退屈したのか、それをぽんと灰皿に捨てた。 
   
 「なに考えているの ? 」
 と僕はきいた。

 

 彼女は、僕から視線を逸らせるように窓に目を向け、
 「私、もっと勉強がしたくなったの。昔よりも今の方がもっと
 と、つぶやいた。

 

 「何の勉強さ ? 」 
 「あなたが、もう教えてくれなくなったもの」
 さびしそうな笑顔が浮かんでいた。
 
 ほとんど会話もないまま、僕たちはその喫茶店を後にした。

 


 


 弱々しい冬の太陽とはいえ、陽はまだ中天に漂っていた。
 以前だったら、
 「昼メシ、なに食う?」
 と、無邪気に食べたいもののメニューを言い争った2人だが、喫茶店を出た僕たちは、もう言葉を交わし合うほどの距離すら保っていなかった。
 
 「今日はこれで帰る」
 と “背中で語る” 彼女の後を、ただぼんやりとついて行く。
 
 歩数にして、わずか4~5歩。
 しかし、もうその距離がうまらない。
 
 思い出したように、彼女が振り向いた。
 
 「じゃ、ここで」
 
 中途半端に挙げられた彼女の手が、ふと宙に止まる。
 彼女自身も、掲げた手をどのように戻せばいいのか、戸惑っているようにも見える。
 
 「じゃ ……
 
 僕もそう言い返し、なんとか笑顔をつくった。

 

 


 
 人混みに消えていく彼女の背中を見つめながら、僕は、残された中途半端な休日をどう過ごすか、それを考えて途方に暮れている。
 
 自分のアパートに戻る前に、商店街のスーパーに寄って、牛肉の大和煮の缶詰を一つ買った。
 それをオカズに、後は米でも研いで、一人分の昼飯をつくるつもりだったが、気が変わって、酒屋で日本酒を買った。

 


 
 部屋の中には、外よりも寒々とした空気が澱んでいた。
 FMラジオのスイッチを入れ、茶碗に日本酒を注いで、首をのけ反らせながら、一気にあおった。
 
 しかし、昼間から酒を呑むという「解放感」からは遠かった。
 体と心がダルくなって、「眠りたい」という心境に早くなりたかった。
 
 そのとき、FMラジオから、まさに「眠りなさいよ」といわんばかりの曲が流れてきた。
 子守唄のようなゆるいテンポに、甘いメロディ。
 
 でも、心の奥底を冷やすような、無機質的な響きがある。
 シンセサイザーの音の膜に人の声が閉じ込められ、遠い夢の世界で流れている歌のように思える。

 僕には、それがSF映画にでも出てくる未来の音楽に聞こえた。
 
 それまで、「バラード」といえば、歌手が生の声で優しく歌い上げる音楽だと信じていた。
 しかし、その曲は、古典的なバラードから脱し、テクノロジーの冷たさを心地よいと感じる新しい時代の感性を表現していた。
 
 「バラードが変わっていたんだ」
 
 そのとき、はじめて気づいた。
 もうビートルズの『 If I Fell 』は、どこからも流れない。

 

 自分の好きな音楽ですら、とっくに自分を置き去りにして、遠いところに行っていた。

 

 人間だって、そうかもしれない。
 常に同じ場所にはとどまっていない。
 もっと早くそれに気づくべきだった。

 

 FMラジオから流れてきたバラードは、そんな自分をあざ笑うかのようでもあり 。慰めてくれるようでもあり

 

 せっかく買った大和煮の缶詰を開けることなく、曲を聞きながら、ひたすら酒をあおった。
 クールに研ぎ澄まされたバラードは、安い日本酒の “苦味” とよく合った。

 

 流れていたのは、10cc(テンシーシー)の『 I’m Not In Love(アイム・ノット・イン・ラブ)』という曲だった。
  
 それから数日経って、レコード屋に行き、僕はそのレコードを買った。
 1976年の冬の午後だった。

 

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