アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

アメリカ映画 『バルジ大作戦』

バルジ大作戦
 

映画批評
男の子はこんなシーンに泣く

  
 映画を観ていると、ときどき泣けるシーンというのが出てくる。
 涙腺がゆるんで、ジワッとくる場面。
 それって、自分の場合は戦争映画とか、アクション映画に多い。

 
ドイツ将校がこんなにカッコいいとは!

 

 最近、泣いたのは、『バルジ大作戦』。
 第二次大戦末期のヨーロッパ西部で行われた「ドイツ軍の戦車部隊」と「連合国軍の歩兵部隊」の戦いを描いた戦争アクションもの。

 

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 この映画が1965年に日本で公開されたとき、自分は西部劇や戦争映画の好きな中学生であったが、この映画だけは見逃していた。
 それを、50年経って、ようやくテレビのBS放送で観たのだ。

 

 1960年代というのは、第二次大戦を勝ち抜いたアメリカやイギリスの戦勝気分がまだ濃厚に残っていた時代で、宿敵ドイツを倒した連合国賛美の映画がたくさん作られていた。

 

 ナバロンの要塞 (1961年)
 史上最大の作戦 (1962年)
 大脱走 (1963年)
 『大列車作戦』 (1964年)
 バルジ大作戦 (1965年)
 特攻大作戦 (1967年)
 荒鷲の要塞 (1968年)
 パットン大戦車軍団 (1970年)
 ロンメル軍団を叩け』 (1971年)

 

 これらの作品ではドイツ軍は悪役だから、映画に登場するドイツ軍将校たちのキャラクターはたいてい冷酷で、無慈悲で、傲慢(もしくはマヌケ)。
 映画の途中で殺されちゃうと、観客が「やったぁ !」と心の中で叫んでしまうような役柄をあてがわれていた。

 

 しかし、『バルジ大作戦』に登場するドイツ軍将校のヘスラー大佐という人物だけは違っていた。

 
スーパーヒーロー「ヘスラー大佐」

 

 もちろん、基本的にはこれまでの悪役ドイツ将校ならではの類型が忠実に守られている。
 ところが、ヘスラー大佐の場合は、
 ドイツ将校の冷酷さが、「クール」に見え、
 傲慢さが、「プロとしてのプライド」に感じられ、
 無慈悲さが、「職務への厳しさ」に思えてくる。

 
 そして、「ユーモアも解さないような人間味に乏しい」キャラクターが、なにやら「感情に左右されない知性の人」というように、すべてがカッコいい方向にバイアスがかかっていく。

 

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 ヘスラーを演じるのは、イギリスの俳優ロバート・ショウ(1927~1978年)。
 イギリス人なんだけど、髪をブロンドにして眉の色を薄くすると、ドイツ人のエリート階級に見えてくるから不思議。
 

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 上の写真なんか、いかにも名門出身のドイツ将校という雰囲気だが、下の写真だと、たいした教育も受けていない下層階級のおっちゃんという表情になっていて、同じ人だとは思えない。

 

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 上は、『ジョーズ』(スピルバーグ監督 1975年)のサム・クイント船長に扮したロバート・ショウ
 サメ退治に長けた荒くれ漁師として登場した彼は、『ジョーズ』という映画の実質的な主役であった。

 

 で、このロバート・ショウ
 『ジョーズ』公開の10年前に作られた『バルジ大作戦』においても、連合国側の主役級スターたち … すなわち、ヘンリー・フォンダロバート・ライアンチャールズ・ブロンソンなどを置き去りにして、実質的な主役に収まっている。

 

 アメリカ映画なんだから、アメリカ軍俳優たちの方がカッコよく見えなければならないはずなのに、ドイツ将校のロバート・ショウの方がカッコよく見えてしまうのは、それって、脚本とか演出のせい?
 それとも、ロバート・ショウそのものが持っている存在感のせい?


男の理想像

 

 とにかく、彼の演じるヘスラー大佐は、ともすれば現在の我々が見失いがちな「男」の一つの理想像を見せてくれる。

 

 それは、けっして、今の男たちから見て心地よいものではないし、女性たちから評価されそうなものでもないかもしれない。
 だが、無類にカッコいい。
  
 この映画で描かれたヘスラー大佐は、徹底して「理詰めの人」であり、「計算の人」であり、「人間の曖昧さよりも機械の正確さ」を好み、「人間の優しさをあえて踏みにじることで、自分の退路を断ち、無人の荒野を目指すような男」なのだ。
 
 彼は、自分の目で見たものしか信じない。
 だから彼は、会議室から視察にきたナチスの上官に対しては、言葉を変え、表情を変え、「戦争は会議室で起こっているのではない ! 現場で起こっているのだ !」と熱弁を奮う。

 

 もちろん、それは映画だからこそ可能なことで、戦場で上官の命令をくつがえす現場の指揮官がいるわけはないのだが、ロバート・ショウ演じるヘスラー大佐を観ていると、実際にこういう将校がドイツ陣営にいたような気持ちになってくる。

 

 映画の3分の1が終わるころ、ついに印象的なシーンが登場する。
 ドイツ軍の西部戦線司令室がある地下壕のシーンだ。
 この秘密の地下基地で、ヘスラー大佐は、新しく戦車軍団に編入されることになった新兵たちを閲兵する。

 

 彼は、新兵たちの顔を一目見て、不機嫌な表情になる。
 「Boys … too many boys」(ガキばかりじゃないか !)
 とつぶやいて、彼は、新兵たちに冷たい目を向ける。

 

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 戦車隊の指揮を執るヘスラーからすれば、戦車というマシンが最初から「完成された武器」であるのに対し、戦場も知らない新兵たちは「未完成な武器」でしかない。

 

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 この時代、ドイツ機甲師団の「ティーゲル戦車」というのは、第二次世界大戦中に開発された兵器のなかでは最高の技術水準を誇った兵器だった。
 その乗り手ともなれば、ドイツ陸軍の中でもエリート中のエリート。兵士のなかでも、ずば抜けて頭脳優秀な者でなければティーゲル戦車隊には採用されなかった。

 

 だから、新兵といえども戦車隊に配属されるかぎりは、当時のドイツ陸軍の最精鋭ともいえるのだが、それでも「人間の曖昧さ」を嫌い、「機械の正確さ」を偏愛するヘスラーにとっては、黙りこくっている新兵たちの実力が疑わしくて仕方がない。

 

 戦車隊指揮官ヘスラーと新兵たちの間に、気まずい沈黙が生まれる。

 

 そのとき、指揮官の心を読んだのか、沈黙を守っていた新兵のうちの一人が、突然「戦車兵の唄(パンツァー・リート)を唄い始める。 
 それに合わせ、新兵たちが次々と合唱に加わる。

 
♪ 我らが戦車、風を切り !

 

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 ♪ 嵐でも、雪でも、日の光さすときも、
   うだるような昼、凍えるような夜、
   顔がほこりにまみれようと、我らが心はほがらかに
   我らが戦車、風を切り、突き進む。

 

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 新兵たちの合唱を聞くヘスラーの表情が次第に変わっていく。
 やがて、ヘスラーは自分の身辺の世話をしてくれるコンラート伍長にも「歌え」と命令し、最後は自分自身も新兵たちの合唱に合わせ、「戦車兵の唄」を高らかに唄いだす。

 

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▼ 『バルジ大作戦』 戦車兵の唄が流れるシーン

youtu.be

 


機械を偏愛する男が
ついに「人間」に心を開く

 

 このシーンが、なぜこれほど感動的なのか?

 それは、これまで「人間」を「機械」としてしか評価してこなかったヘスラーが、はじめて目の前に「人間」がいると知ったシーンだからだ。
 
 確かに、人間は、機械のようにいつも同じ正確さを持って作動するわけではない。鋼鉄のようにタフでもなければ、砲火のような破壊力も持たない。
 しかし、人間は「意気に感じる生き物」である。
 仲間を助けるために、自分の身を犠牲にさらすという “狂気” すら持ち合わせている。
 
 ヘスラーは、新兵たちの唄に、「人間の狂気」を感じたのだ。
 すなわち、人間というのは、自分個人の弱さを「団結」という狂気で克服していく生き物だということを。

 そういった意味で、まさにこれは戦争映画史に残る金字塔のようなシーンといっていいのだが、私はこのシーンで泣いたわけではない。
 これは伏線に過ぎない。 

 
ヘスラーの死に、男の子は涙

 

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 『バルジ大作戦』という映画は、やはりアメリカ映画だけあって、ドイツ将校のヘスラーの死を持って終わることになる。

 

 大量のガソリンを浴び、アメリカ軍の十字砲火を浴びて、ヘスラーの乗るティーゲル戦車が炎上する。
 すでに、車内の操縦兵も死傷。


 瀕死のヘスラーは、戦車の床に這いずりながら操縦席に移動し、壊れかけている戦車を操りながら、必死に死地からの脱出を試みる。

 

 しかし、燃え始めているキャタピラーが、もう斜面をグリップする力を失っている。
 それでも、ヘスラーは血で濡れた手で戦車のハンドルを握りしめ、最後の脱出に希望をつなぐ。

 
 そのとき、歯を食いしばった彼の口から、自分自身を鼓舞する歌が流れ始めるのだ。
 
 ♪ うだるような昼、凍えるような夜、
  顔がほこりにまみれようと、我らが心はほがらかに
    我らが戦車、風を切り、突き進む。

 

 男の子は、ここで泣く。
 勇壮な響きを持つ「戦車兵の唄(パンツァー・リート)」が、もうここではヘスラーへの鎮魂歌になることが分るからだ。

 

 そして、“予定通り” ヘスラー車はガソリンの洪水に足を取られ、迫りくる劫火を防ぐこともかなわず大爆発。
 連合軍側にとっては、「めでたし、めでたし」のうちに、エンドマークが降りてくる。

 


スターリングラード』で
異彩を放ったエド・ハリス
  
 というわけで、死んでしまったドイツ将校がいかにカッコよかったか、ということを強く印象付けて、この映画は終わるわけだが、敵役のドイツ将校をカッコよく描いた映画がもう一つある。
 第二次大戦下におけるドイツ軍とソ連軍の戦闘を描いた『スターリングラード』だ。

 

 この『スターリングラード』という映画の特徴は、“団体戦” としての戦争ではなく、“個人競技” としてのスナイパー(狙撃兵)同士の駆け引きを描いたところにある。

 

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 主人公のソ連側のスナイパーを演じたのが、ジュード・ロウ
 その敵役となったのが、アメリカの名優エド・ハリスが演じるナチスの将校ケーニッヒ少佐(写真下)。

 

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 エド・ハリスに与えられた役柄は、定番通りの冷酷で無慈悲なナチス将校なのだが、これがまたなんともカッコいいんだわ。

 

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高級将校が泥まみれのスナイパーに変身

 

 観客が最初に見るのは、端正な軍服に身を包み、ドイツから来た専用列車の個室で優雅に金の吸い口のタバコをくゆらすケーニッヒ少佐。

 
 たぶん、すぐに主人公に射殺されちゃう役なんだろうな … と思っていたら、戦地に着いた彼は、将校の軍服をいさぎよく脱ぎ捨て、敏捷に動ける戦闘服に着替えるやいなや、地を這い、木陰に身を潜めて、主人公のスナイパーを射殺するためのスナイパーとして暗躍し始める。

 

 う~ん …… と、うなるほどの変身ぶりで、これまで映画を通して見てきたドイツ将校のイメージがまたひとつ変わった。


アメリカ人の感じるドイツ的なもの 

 

 なぜアメリカ映画は、カッコよいドイツ将校を奇跡的に描いてしまうのか。 
 たぶん、ドイツ的なるものにコンプレックスがあるのだろう。

 では、アメリカ人の感じるドイツ的なものとは何か?
 それは、「機械のように正確に作動する人間」である。
 
 『スターリングラード』に出てくるケーニッヒ少佐は、自分自身が銃器と同化して、“マン=ガン系” ともいうべき合成人間になってしまったようなプロフェッショナルであった。

 

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 『バルジ大作戦』のヘスラー大佐は、機械工学的な視点でティーゲル戦車軍団の戦術を編み出すプロであった。
 こういう “マン=マシン系” の人間像に、アメリカ人って弱いんだろうな と思う。

 

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 ドイツ人もアメリカ人も、ともに合理的な民族であるが、アメリカの合理主義というのは、人間の “ダメさ加減” を補正する意味での合理主義である。
 彼らは、人間の行う作業でマニュアル化できないものはないと思っている。

 

 マニュアルというのは、未熟な者を使いこなすための技術である。
 どんな従業員を雇っても、1時間後には即戦力となるような「マクドナルド」に代表されるファストフード産業は、こういうマニュアル文化の中からしか生まれて来ない。


狂気を秘めたドイツ的合理主義

 

 それに対し、ドイツ的合理主義ってのは、最初から完璧なるものを求める。
 そして、それがどこかで「狂気」に通じていることも分かっている。
 
 合理的思考の中に「狂気」がまぎれ込むのではなく、彼らは、合理性をとことん突き詰めていくと、ある段階で突然白と黒が反転するように、そのまま狂気になることを知っている。
 だから、ニーチェフロイトマルクスは、ドイツからしか生まれてこない。 
 そして、現代のドイツ人がナチスの所為を反省するのも、そこのところに由来する。
 
 それは、そのままアメリカ的な文化と、ドイツ的な文化の違いになって表れてきているような気がする。
  

 

 

My Foolish Heart


選ばなかった方の選択肢
   
 人間の不幸は、常に、過去の選ばなかった方の選択肢にこだわるところから生まれる。
 「あのとき、ああすれば良かった
 という思いは、人間なら誰でも持つ。

 

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 選ばなかった方の選択肢は、いつまで経っても “輝かしい可能性” を保持したまま記憶の底で凍結している。

 でも、もしそちらを選んでいたら、今頃はとんでもない不幸の道を歩んでいたかもしれないのだ。
 今の道を選んだからこそ、現状の生活を手に入れることができたのかもしれないのだ。

 だけど、そうは思わないのが人間の常だ。

 「選ばなかった方の選択肢」は、今となってはすべてが無に帰しているにもかかわらず、残酷にも、試さなかったからこそ残る「可能性」という甘い幻想だけを紡ぎ(つむぎ)続ける。

 それが、人間の不幸の源泉である。
 それを昔から「My Foolish Heart(愚かなり我が心)」という。

 

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 ▼ Bill Evans 「My Foolish Heart」 (1961) 

 youtu.be

ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ『貧しき漁夫』

絵画批評
『貧しき漁師』の豊かな詩情


 昔、シャヴァンヌの『貧しき漁師』という絵を見て、とてつもなく感銘を受けたことがあった。
 見たのはもちろん実物ではなく、美術書に掲載されたカラーグラビアでもなく、市販の日記帳の片隅に印刷された小さなモノクロ写真にすぎなかった。


 なのに、この絵に漂っているいい知れぬ寂寥(せきりょう)感が、じわりと私の心をつかんだ。

 

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 中学生時代 …… たぶん14~15歳ぐらいの頃だったと思う。
 その頃から備忘録として付け始めた市販の日記帳の片隅に、詩人や評論家の書いた短いエッセイや、ポエム、美術解説などが寄せられていた。
 
 ある日、日記を書こうと思って開いたページに、このシャバンヌの絵が載っていたのだ。
 その絵から溢れてくる「暗く沈んださびしさ」と「物憂い静けさ」に、なぜか私は目をそらすことができなかった。
 結局、しばらくの間日記を書くのも忘れ、その小さなモノクロの絵を眺めていたと思う。
 
 この絵の何が思春期の自分を惹きつけたのか分からない。
 「日記を書く」という自分の内面と向き合う作業を強いられるうちに、ちょっとだけ、内向きのテンションが高まったせいかもしれない。
 
 そのときまでの自分は、「さびしさ」とか「静けさ」を、実生活以外に体験することがなかった。
 しかし、『貧しき漁師』の絵から溢れ出てくる「さびしさ」は、実生活で感じる「さびしさ」よりも、さらに遠い世界から来るものような気がした。
 その「遠い世界」を知らない自分は、そこから吹いてくる「さびしさ」には強く感応したけれど、それが何であるかを語る言葉も持たなかった。
 
 簡単にいえば、私の表現力が未熟であったということでしかない。
 しかし、だからこそ、「見えた世界」があったのだ。
 今このシャバンヌの『貧しき漁師』をネット情報から拾って、画面に拡大して眺めてみても、もう当時の私を襲った感動はよみがえらない。
 

 
 いい加減に齢(よわい)を重ね、「ものを書く」ための言葉も少しは習得した私は、この絵を分析的に解説する言葉に困ることはないが、中学生時代に感じた「言葉に表現できない感銘」をもう取り返せない。
 
 なぜだろう。
 
 それは、
 「思春期のみずみずしい感性が、大人になると枯れる」
 というようなことだけでは、説明しきれないもののように思える。
 
 たぶん、「言葉にできない感動」というものは、「言葉にする技術」を持ったときに失われてしまうのだ。
 
 今の私なら、この絵をテーマに何かモノを書こうと思ったときは、小舟に乗る手前の夫よりも、背後の岸辺で花を摘む母子の方に注目することだろう。
 そして、一見、明るく無邪気に振る舞う母子と、憂いと哀しみに満たされた父である漁師の対比において、この絵のドラマツルギー(作劇法)を論じるだろう。
 そこに家族の「心理ドラマ」を読み込むかもしれないし、そのような家族の絆を超えた「人間の絶対的な孤独」という “哲学” を語るかもしれない。
 
 しかし、そのような分析をいかに重ねようが、中学生の私が感じたあの「暗いさびしさ」と「物憂い静けさ」の正体に迫ることはないだろう。
  
 それは言葉になる前にしか生まれない「感情」だからだ。
 「言葉」として成立してしまえば、他者へ伝達することは可能となるが、その人間が固有に感じていた「感情」はもう保存することができない。
 
 言葉をたくさん覚えるに従って、抽象的な思惟は緻密になるが、ものを感じる心は平板になっていく。
 「感受性がみずみずしさを失う」とは、そういうことなのだ。

 

 

奥さんは旦那のことを何と呼んでいるのか

  
 世の中の奥さんたちは、旦那さんに声をかけるとき、なんて呼んでいるのだろうか。
 もちろん「ヘイ・ユー」とか「お~い(お茶)」とかいうわけはないだろう。
 
 なんとなく想像できるのは、「お父さん」か「パパ」だ。
 もちろん、子供がいる夫婦の場合だけど。
  
 ネットでちょっと調べてみたら、実際に旦那さんのことを「お父さん」もしくは「パパ」と呼んでいる妻は52.7%だという。
 
 ま、無難なところだろうな。
 この言葉には、要するに、「あんたは “男” としての役割は終わったから、あとは良い “父親” になればいいから」というメッセージが込められているようで、旦那としては、少しさびしいけれど、それはそれで気楽なところもある。
 
 「お父さん/パパ」の次に多いのが、愛称を呼ぶケースだという。
 つまり、「ポチ」とか「チョコ」とか「ミケ」のたぐいだ。
 これが38.3%。 
 
 堂々と名前を呼ぶというのもある。29.8%。
 「おいヤスオ ! 」、「こらマサキ ! 」などというやつのことだろう。
 
 それ以下は名無し。
 「ちょっと」とか、「ねぇ」とか、「ほら、そこの人」 みたいな呼び方を指す。
 
 「あなた」というのも、この “名無し” の分類に入るらしいが、「あなた」という呼び名は、それを言われるタイミングによっては、ちょっと怖い響きを伴う。
 
 「あなた。夕べ酔っ払って玄関に入ってきたとき、女モノのサンダルを履いていたんですけど。いったいどこに寄っていらっしゃったの ? 」
 なんていうときの「あなた」は怖い。
 
 「あ、あれはね (汗 ! )、 娘のアヤカの成人式のお祝いに買っておいたものなんだ」
 「娘に買ったプレゼントを自分で履いてしまうんですか ? それに、あの子の名前はアヤカじゃありませんよ。誰それ ? 」
 
 こういうように、「あなた」と呼ばれたときは、会話が最悪の方向に向かうことを覚悟した方がいい。
  
 では、私は、カミさんからなんて呼ばれているのか。
 正直にいうと、最後の「名無しグループ」なのだ。
 
 それも、「おい」、「こら」、「ちょっと」の3パターンのうちのひとつ。
 最近は、「また」というのが加わった。
 
 「また、同じパジャマ着ている ! 」
 「また、風呂にも入らずに寝たのね ? 」
 「また、酔っ払って転んだの ? 」
 「また、きのうと同じ靴下はいていない ? 」
 
 この「また」という言葉は、たいがい鼻をつまんで、顔を歪ませた状態て吐き出される。
 3日分ぐらい溜まった生ゴミを捨てるとき、人間はよくそんな顔をする。
 もしかしたら、「あんたはゴミ」というメッセージなのかもしれない。
  

  
 ところで、うちのカミさんは、他人と話すとき私をどんなふうに呼んでいるのだろう。
 
 改まった席では、「うちの主人が申しますには 」みたいな表現になるのだろうけれど、親しい主婦同士での会話となると、「うち はねぇ 」 で片付いてしまうらしい。
 
 要するに、私が存在していることを表す言葉は、「」 という一文字だけなのである。
 まさに「物以前」というか、存在そのものが視野の中に入っていないというか。
 
 で、たまに息子と会話をしているときは、二人で私のことを「おじさん」と呼びあっているようだ。
 だから、犬もそれに同調するようになった。
 「おじさん」という言葉が出ると、なぜか犬も、私をシラッとした目で仰ぎ見るのである。
 
 おじさん
 
 要は「家族外人間」ということだ。
 力の衰えたスポーツ選手は、よく「戦力外通告」というものを出されるけれど、さしあたり、私の場合は、「家族外通告」。

 

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 なんとなく、家族の前を通り過ぎても、誰も振り向かない透明人間にでもなったような気分の今日この頃だ。
 

 

ポール・ドラローシュ 『レディ・ジェーン・グレイの処刑』

絵画批評

絵画史上まれなる恐ろしい絵 

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 19世紀の画家ポール・ドラローシュの描いた「レディ・ジェーン・グレイの処刑」は、世にも恐ろしい絵である。

 

 私がこの絵を見たのは、ちょうど30年前だ。
 朝日新聞の日曜版に掲載されていた『世界 名画の旅』という連載読み物が全5巻の書籍としてまとめられので、全巻そろえた。
 その最終巻に、この絵が見開きで紹介されていた。

 

 なんと「怖い絵」か! と驚いた。
 正直にいうと、「おぞましい絵」だった。
 「リアル」という言葉よりも、「生々しい」という表現の方が合いそうな、生理的な気味の悪さが漂ってくる絵に思えた。

 

 絵の背景となる歴史的事実を知らない人でも、ここに描かれているのは、一人の高貴な少女が首を切られる数分前の情景であることが一目瞭然に分かる。
 
 彼女の名前は、レディー・ジェーン・グレイ。
 16世紀中頃に生まれたイングランド王室の娘で、王室内の権力闘争に巻き込まれ、16歳のときに本人も希望しない「イングランド女王」として即位。
 しかし、反対派の巻き返しによって、在位9日間で女王の座を追われ、幽閉生活を送った後、7ヶ月後に反逆者として処刑される。

 

 その刑の執行シーンを、フランス人画家のポール・ドラローシュ(1797~1856年)が切り取ったのがこの絵だ。
 発表当時から評判となり、夏目漱石もイギリス留学中にこの絵を見て衝撃を受け、小説『倫敦塔』の中で紹介している。


 この絵の「おぞましさ」の正体は何だろう。
 それは、この絵が、鑑賞者の「怖いもの見たさ」をくすぐるショー的機能を持っているからである。

 
 多くの鑑賞者は、この哀れな少女の薄幸さを嘆き、残酷な運命に涙する。
 しかし、その一方で、鑑賞者は、ショーの顛末をこの目で見たいという邪悪な期待感も抱いてしまう。
 その後ろめたい気分が、この絵を見た人を襲う「おぞましさ」の正体である。

 

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 『怖い絵』の作者、中野京子さんは、この絵をこんなふうに紹介している。

 「若々しく清楚な白い肌のこの少女は、一瞬後には血まみれの首なし死体となって、長々と横たわっているのだ。そこまで想像させて、この残酷な絵は美しく戦慄的である」

 

 この一言に、この絵の “怖さ” が集約的に説明されている。
 キーとなる言葉は、
 「 そこまで想像させて … 
 である。

 

 つまり、この絵が怖いのは、この数分後には確実に訪れている凄惨な情景を、もっとも生々しい形で鑑賞者に “想像させる” からである。

 少女に迫る確実な「死」。
 しかし、「死」というものを、人間は見ることができない。
 「死体」を見ることはできるが、“死” を見た人間はこの世には誰もいない。

 

 その見えない死を、想像力を刺激することで、あたかも、見えるぐらいの “距離” までたぐり寄せてしまったのが、この絵である。


 美術史家の解説によると、この絵には創作上の工夫が随所に凝らされているという。
 まず、処刑場を薄暗い壁に囲まれた室内に設定したこと。
 実際の処刑は、ロンドン塔の屋外広場で行われたらしい。
 しかし、あえて舞台を室内に移行させることによって、少女の置かれた環境の陰鬱な閉鎖感を強調しようとしたとか。

 

 次に、少女の人体比率を、他の人間よりも小さくしたこと。
 特に、右側に立つ処刑人と比べると、少女の体は、その70%程度に縮められているという。
 画家の狙いは、少女の可憐さを際立たせることで、彼女を襲った運命の悲劇性を訴えたかったとも。

 

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 また、少女の衣装の色も、事実とは異なるらしい。
 この時代、処刑される人間は一様にダークグレーの囚人服を着させられることになっていた。
 しかし、画家はそういう考証を無視し、少女には光沢のある白のドレスを身に付けさせることによって、彼女の高貴と純潔を表現しようとしたという。

 

 つまり、この絵はショーなのである。
 観客に衝撃を与え、観客を楽しませるために巧妙に計算されたショーなのだ。
 
 だからこそ と言えばいいのか、この絵が訴えてくる衝撃にはすさまじいものがある。
 目を閉じても、この絵は人々の網膜にしっかりと刻印され、目が覚めても消えない悪夢として残る。

 

 中野京子さんが取り上げる『怖い絵』シリーズに紹介されている絵は、中野さんの解説を読んで、はじめて “怖さ” の本質が見えてくるといった性格のものが多いが、この「レディ・ジェーン・グレイの処刑」だけは、解説抜きで、ストレートに怖さが伝わってくる。

 

 「好きな絵か?」
 と問われると、好きではない。
 しかし、この絵には、人間の邪悪な好奇心を満たす仕掛けが巧妙に散りばめられていることに対しては、ほんとうに感心してしまう。

 

 

池田晶子の短い生涯

池田晶子

池田晶子とは編集

  • 1960年生まれ。慶応大学文学部哲学科卒業。専門用語を使わず、哲学するとはどういうことかを日常の言葉で語る。 著書「14歳からの哲学」は27万部のベストセラーとなった。 2007年2月23日、腎臓癌のため死去。46歳。 当時連載していた「週刊新潮」に死後発表さ.. 続きを読む
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文芸批評
才女の最後のエッセイ

  

「哲学者」という言葉の意味を変えた人
 
 池田晶子(いけだ・あきこ ↓ )という文筆家の書くエッセイが好きだった。
 彼女は、誰もが使う平易な言葉で、誰も思いつかないような独特な世界観を提示する人だった。

 「哲学者」
 という肩書を持つ人だったが、本人はそういう構えた呼称を嫌い、「文筆業」と名乗ることが多かった。

 

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 今から10年以上前、私はこの人の連載するエッセイを読むために、『週刊新潮』と『サンデー毎日』を毎週買った。

 
 『週刊新潮』に連載されたエッセイのタイトルは、『人間自身』。
 そこで彼女は人の意表を衝くような、時として、人の気持ちを逆なでするような意見をからりと言ってのけた。

 
 文章は平易だが、常識にとらわれ過ぎた “善意の人々” を挑発するような意地の悪さも潜んでいて、その毒気に当てられて気が滅入った読者も多かったに違いない。

 

 でも、私にはその「毒」がとても爽やかに感じられた。
 できれば、その「毒」のシャワーを全身に浴びて、自分の浅薄な脳にこびりついた垢をきれいさっぱり洗い流したいと思っていた。

 

 ときに、こんな文章がある。

 「多くの大人は、子供より先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは『生活』であって、『人生』ではない。大人は子供に生活を教えることが、人生を教えることだと勘違いしている」

 
 (週刊新潮 2006 10/26号 『人間自身 172回』)

 
フェミニズム」を超えて

 

 あるときは、こんなことを言う。

 「私は『男女平等問題』というものに関心がない。だから私はフェミニズムの陣営からは『女の敵』と見なされているらしい。
 私は、男女の区別は人間にとって本質的な問題ではないと思っている。確かに差別や区別は明らかに存在する。しかし人間にとって大事な生きる死ぬに関しては、男も女も必ず死ぬという意味で、平等である。
 私は、女の口から『男の論理』 『女の論理』という言葉が出てくると、あ、馬鹿だな、と感じる。そういう考え方は、この世に『男一般』『女一般』が存在すると錯覚するところから出てくる。現実には、考え方がそれぞれ異なる個々別々な男と女がいるだけである」

 
 (週刊新潮 2006 10/5号 『人間自身 169回』)

 

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 さらには、次のような記事も。

 「いじめで自殺する子があとを絶たない。追いつめられた子供は、死をもって抗議するしかなくなる。
 死をもって抗議するということは、その良し悪しは別に、人間にだけ可能な行為である。
 誇りのために死ぬ。正義のために死ぬ。
 人間には命よりも大事なものがあると思うから、この行為は成立する。受ける側も、その意味を理解する。『命を賭けた行為だな』と。
 しかし戦後教育は、命よりも大事なものはないと教えてきた。つまり、どのようであれ、生き延びればよいのだと。
 人間には命よりも大事なものがあるということを理解しない社会が、抗議の自殺をも黙殺する」

 
 (週刊新潮 2006 11/23号 『人間自身 176回』)

 
人の「命」という価値を
再度根底から問い直す

 

 「人の命は地球より重い」と教えてきた戦後教育の推進者たちは、上記のような意見を読むと、眼を剥いて怒り出すだろう。
 しかし、「人間には命よりも大事なものがある」という一言は、人間に思考をうながす。
 そこには、「人間」を規定するのは、物理的な肉体なのか、それとも精神なのかという根源的な問が提示されているからだ。
  
 私は、自殺そのものには否定的だが、そのような問の重さは分かる。
 「命を尊重する」ということを是とする人たちも、もう一度この根源的な問いに向き合うことによって、自分の言葉を鍛え直さないといけないように思う。
 

秋のさびしさと向かい合った
静謐なエッセイ

 

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 そのような、辛辣な逆説を胸のすくような語り口に乗せて書かれる彼女のエッセイが、ある日、突然トーンを変えたことがあった。

 

 「季節は、春夏秋冬を繰り返しめぐるものだが、それでもそこに始まりと終わりとがある。
 人は、春は始まり、秋が終わりと感じる。冬が終わりなのではなく、むしろそれは始まりを胎(はら)んで静止する時間のようで、秋の方にこそ人は、終わりへ向かうという感じを持つ。
 日が暮れるのが確実に早くなり、3時を過ぎるともう日差しの気配が変わっている。
 傾いてきた日がつくる物の陰が、淡く、長くなり、急がなくちゃとせかされる気持ちになってくる。
 秋はそれ自体が暮れる季節だから、その夕暮れの寂しさは一段と迫るものがある。もみじが散ってから冬至の日までの夕暮れ時の寂しさは、文字どおり人生の終わりみたいだ。
 独り暮らしの年老いた未亡人が、夕暮れが辛いとこぼしていた。
 『見渡せば 花もモミジもなかりけり 裏のとま屋の秋の夕暮れ』
 (藤原定家
 『終わりに向かう』とは、死へ向かうということに他ならない。
 『寂しい』とは、『生命力が衰えゆく感じ』を指している。
 元気に伸びゆく植物を見ると、我々の心は元気になり、枯れ衰えてゆく植物を見ると、我々の心は沈んでいく。
 なぜそうなのかというと、人間は同じ生命として、自らを植物のように感じるからだ。人間の感覚として最もプリミティブな層にある生命としての原感覚がそう仕向ける。
 季節が人間の心そのものなのは、我々が自分でそう思っている以上に、自然的生命として存在しているからだ」 

 
 (サンデー毎日 2006 12/10号 『暮らしの哲学 33回』)


絶筆

 

 この文章を読んだとき、いったい彼女はどうしたのだろうか? と私は思った。
 このような文芸調の詠嘆は、彼女がもっとも気恥ずかしいものだと回避していたものではなかったのか?

 

 ただ、美しい文章だと思った。
 「秋」という季節を表現するのに、これほど切ない文章はほかにないような気もした。文章の底に、どうしようもない深い哀しみが横たわっていて、読んでいるのが辛かった。

 『サンデー毎日』の連載エッセイは、確かにそれを最後に休止となったように記憶する。
 何度か「休止」の知らせが目次に載ったあと、「エッセイは終了しました」という知らせが掲載された。

 

 池田晶子が腎臓ガンにより、46歳という短い生命を閉じたのは、最後の連載が掲載されてから2ヶ月半ほど経ってからである。
 彼女の描いた “秋にまつわる随想” は、病床から眺めた心の風景であったのかもしれない。

 

 池田晶子 2007年 2月23日永眠。
  

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…………………………………………………………………………

映画『フィールド・オブ・ドリームス』

フィールド・オブ・ドリームス

フィールド・オブ・ドリームスとは編集

 
 

 
映画批評
キャッチボールという文化
 

ボール遊びができない環境が増えている
  
 子供たちが、広場でキャッチボールをしているという風景をあまり見なくなった。
 首都圏の住宅街には「広場」というものがなくなってきたせいかもしれない。
 きれいに植林されたチマチマした小公園はたくさんできたものの、そういう場所はたいてい「ボール遊び禁止」。

 

 もっとも「ボール遊び」をするような子供もいなくなった。
 昔は、男の子が兄弟同士で遊ぶときは、まずボールの投げ合いからスタートしたものだが、今の男の子の兄弟にはそういう場を共有する時間もなく、どちらかが塾に通っていたり、空いた時間があれば家でTVゲーム。

 

 本当に野球をやりたい子供たちには、地域ごとに組織されている少年野球チームに入る道もあるが、そこまでのめり込む気持ちのない子供にとって、ほんとうにボール遊びができる環境が街から消えた。

 私は、これを「父と子のコミュニケーションの危機!」と考えている。

 

 ジーンズと、コーラと、マクドナルド・ハンバーガーという物質文化しか子供に与えることのできなかったアメリカが、唯一子供に与えられる精神文化として育てあげたのがキャッチボール。

 このキャッチボールが、どれだけアメリカの父や子供たちに、そして日本の親子に対して、「会話の交わし方」を教えたかを思うと、まさに気の遠くなるような恩恵の深さを感じる。

 
父親が教えてくれたキャッチボール

 

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 私の親父は、あまり運動神経に恵まれない鈍くさい男だったが、それでも私が小学校に入ったぐらいの年になると、グローブを二つ買い、家の近くの空き地に私を連れ出して、キャッチボールを教えてくれた。

 大人の繰り出すボールは、素人でもそれなりに速い。
 鈍くさい親父の球でも、受け損ねて膝に当てたりすると、けっこう痛い。
 すると、向こうも子供が取りやすい球の速さやコースを考えて放ってくる。
 こっちにも、親父がいろいろと模索していることが伝わってくる。

 「あ、これはコミュニケーションなんだ」
 と思った。

 もっとも、当時 “コミュニケーション” という言葉があることなど知るよしもない。
 しかし、ボールを媒介にした “心のやりとり” が生まれていることだけは子供心にも理解できた。


永遠のキャッチボール映画

 

 「永遠のキャッチボール映画」といえる名画がある。
 1989年にフィル・アルデン・ロビンソン監督がメガホンをとり、ケヴィン・コスナーの主演で話題になった『フィールド・オブ・ドリームス』だ。

 

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 舞台は、アメリカ・アイオワ州
 画面には、見渡す限りのトウモロコシ畑が広がる。
 主人公は、その畑を切り盛りする36歳の男(ケビン・コスナー)。
 妻と幼い娘がいる。

 

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 男は、かつて若い頃に父親と口論し、そのまま家を飛び出してしまったという苦い過去を持っている。
 
 父親は、野球だけが趣味という退屈で頑固一徹な人間だった。
 そんな親父のことを嫌い、思想運動に傾倒していく主人公。
 再会することも叶わぬうちに、息子は遠く離れた地で、父親が死んだことを知る。
 
 そのことが、いつまでも主人公のメランコリーの種になり、彼の心の空洞には、静かなすきま風が吹いている。

  
トウモロコシ畑に降ってきた謎の啓示
  
 時間も風も静止したようなトウモロコシ畑の上には、午後の日差しだけがギラギラと降り注ぐ。

 

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 そんな日が永遠のように続く。
 だが、何も起こらない。
 
 でも、そういう時って、必ず「何か」が降りてくるものだ。
 主人公は、自分のトウモロコシ畑の中を歩いているとき、突然、
 「それを造れば、彼らが来る」
 という謎の啓示を受ける。

 

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 誰が、どこからそうささやくのかは分からない。
 しかし、彼は啓示に動かされ、何を造ればいいのか分からないのまま、トウモロコシ畑の一部を刈り始める。
 
 男が造ったのは、手づくりの野球グランドだった。
 

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 でも、何も起こらない。
 ナイター設備まで整えた無人のグランドの上に、夕暮れの光が降りてきて、グランドを青く照らす。
 それが、いつまでも、いつまでも続く。

 

野球選手の幽霊たちが遊ぶ場所
 
 ところが、ある日、そのグランドに一人のユニフォーム姿の野球選手が現れる。
 今では見ることもない大昔の不格好なユニフォームを着た選手だ。
 
 その選手は、戸惑いながらも、自分がグランドに立っていることに気づき、グランドの脇に放り出されていたバットやボールを眺め、そして主人公の姿を認めて、話し掛けてくる。
 「ここは天国か?」
 
 選手は、かつて伝説のスタープレイヤーとして知られた、亡きシューレス・ジョーだった。
 

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 といっても、日本人にはちょっと、その “凄さ” が実感できない。
 シニア世代なら、すでに伝説化している「長嶋茂雄」のことを思い浮かべると、そんなイメージに近いのかもしれない。
 
 主人公の造ったグランドは、ベースボールを愛し続けながらも、途中で断念せざるを得なかった往年のスタープレイヤーたちを招待する「天国の球場」だったのだ。 
 グランドには、やがてシューレス・ジョーの仲間たちが集まってきて、練習に明け暮れるようになる。
 みな、昔「八百長をした」という疑惑に翻弄され、野球界を去らざるを得なかった選手たちの幽霊だった。

 

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 オカルトともホラーとも取れる設定なのに、ここで描かれる幽霊たちの姿は、どこか明るく、ほのぼのとして、のんびりしている。


父親との再会
 
 最後に、男の造ったグランドに現れたのは、彼の父親だった。
 やはり、野球が好きで、かつてはマイナーリーグでプレーをしたこともある父。
 
 独身時代の若々しい表情を持った父親は、主人公に近づいてきて、こう尋ねる。
 「ここは天国か?」
 
 父親の眼差しは、明るい陽光のもとで、金色に輝く芝生に覆われたグランドに注がれている。
 「ここはアイオワだ」
 と親父の幽霊に答える主人公。
 
 「美しい。天国のようだ
 父親の口からため息がこぼれ出る。
 
 「天国はあるのか?」
 と、今度は主人公が父親に尋ねる。
 
 「あるとも。それは “夢が実現する場所(フィールド・オブ・ドリームス)” のことだ」
 
 トウモロコシ畑の中に消え行こうとする父親の背中に、主人公が叫ぶ。
 「パパ」 
 
 振り返る父。
 見つめ合う2人。
 やがて、2人の間で、静かにキャッチボールが始まる。
 

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 この光景を見た世の父親で、男の子にグローブを買ってやろうと思わない親がいるだろうか。
 
 私は買った。
 息子が小学生になったばかりの頃だったろうか。
 その最初の誕生日のプレゼントがグローブだった。
 
 買ったばかりのグローブを息子の手にはめさせ、私たちは、学校の校庭が広がる丘の上に登った。

  

キャッチボールは父と男の子の会話だ

 

 春休みだったのか、夏休みだったのか。
 近所の女子高の校庭には人影もなく、夕方の黄色みを帯びた光が、校舎に沿って植えられたポプラ並木の影を、校門の近くまで長く引っ張っていた。
 
 息子をピッチャーに仕立て、私は腰を落として、キャッチャーミットのように自分のグローブを構えた。 
 弱々しくも、意外と素直な球道を描いて、ヤツのボールが自分のグローブに収まったとき、ジーンときた。
 自分の「フィールド・オブ・ドリームス」が実現した瞬間だった。
 
 キャッチボールというのは、「男の会話」なのだ。
 
 相手が取りやすい位置を狙い、神経を研ぎ澄ませて、渾身の一球を送る。
 それがうまく相手のミットに収まれば、相手もまた精魂込めた一球を投げ返す。
 洗練された沈黙に守られた、美しい会話。
 
 ファーストフードとジーンズという文化しか世界に広めることができなかったアメリカが、唯一実現した「父親の文化」。
 それがキャッチボールだ。
 
 この「男と、男の子の文化」を生み出しただけでも、アメリカは偉大だ。

 

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教科書に出てくる “泣ける名作”

文芸批評

この不条理感が子供に分かるのか?  
 

 
 2016年の1月から3月まで、約2ヶ月ほど肺の病気で入院していたが、そのとき読んで印象に残った本のなかに、『もう一度読みたい教科書の泣ける名作』(学研教育出版 2013年)という本があった。
 「わが国の小学校・中学校の国語の教科書に掲載された物語から、“懐かしい珠玉の名作” を集めたもの」(同書の前書きより)だという。

 

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 ざぁっと見るに、戦前から終戦直後の作品が多い。
 自分が教科書で読んだものは一つもなかったが、収録作品のなかには、古典として、すでに記念碑的な評価を確立しているものもあり、全体のレベルは高いと思った。 

 ちなみに、収録作品は以下の通り。

 ごん狐(ぎつね)  新美南吉
 注文の多い料理店  宮沢賢治
 大造(だいぞう)じいさんとガン  椋鳩十(むく・はとじゅう)
 かわいそうなぞう  土家由岐雄
 やまなし  宮沢賢治
 モチモチの木  斎藤隆介
 手袋を買いに  新美南吉
 百羽のツル  花岡大学
 野ばら  小川未明
 ちいちゃんのかげおくり  あまんきみこ
 アジサイ  椋鳩十(むく・はとじゅう)
 きみならどうする  フランク・R・ストックタン
 とびこみ  トルストイ
 空に浮かぶ騎士  アンブローズ・ビアス
 形  菊池寛
 杜子春(とししゅん)  芥川龍之介


 これらの作品群を通読してみると、「泣ける名作」と謳うだけあって、瞬時に涙がほとばしるような物語もあったが、読み終えてから、しばらくテーブルの上に本を伏せ、じっと考えさせられるような作品もあった。

 

 戦前から終戦直後にかけての作品が多いということは、それぞれの作品が、どこかで戦争の匂いを潜ませているということだ。
 「死の匂い」
 といってもかまわない。
 どんな作品にも、かならず人間の死、もしくは動物の死が潜んでいる。

 

 本の帯にも紹介されている「ごん狐(ぎつね)」の話というのは、ふとした悪戯(いたずら)心によって百姓に迷惑をかけた狐が、それを後悔し、次からその百姓の家を訪ねては、こっそりと栗やマツタケを置いてくるという話である。

 しかし、ある日狐を発見した百姓は、狐の誠意に気づくこともなく、自分を騙しに来たのだと思い、火縄銃で撃ち殺してしまう。

 

 実に、あっけらかんとした、救いのない結末。
 狐が可哀想だとか、哀れだなどという気分が込み上げる前に、この話が読者にもたらすものは、それこそ “狐につままれたような” 不条理感だ。
 まるで戦場で、“むき出しの死体” がゴロンと転がっているのをいきなり見たような、気持ちの整理のつかない動揺だけがいつまでも残る。
 
 こういう話を、昔の小学生や中学生は、ほんとうに理解できたのだろうか?
 もしそうだとしたら、当時の小中学生というのは、そうとう高度な感受性を備えていたという言い方もできる。

 しかし、考えてみれば、このような不条理感というのは、大人よりもむしろ子供の方が理解するのかもしれない。
 
 理屈の通らない、ある意味では不親切でぶっきら棒な結末というのは、別の言葉でいえば、現実的な物語が、そこから異次元の世界へ飛んでしまうということでもある。
 大人は理屈が通っていない物語からは不安と違和感しか感じないが、子供は、現実感がストンと断ち切られる場所で、想像力を飛翔させる。

 

 「ごん狐」の物語では、狐を撃ってしまった百姓が、これまで栗やマツタケを運んでくれたモノの正体が狐であることを知る。
 そのときに、その百姓の胸を襲ってきた思いは何だっただろう?

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 自分の軽はずみな行動に対する後悔の念か?
 それとも、
 狐への愛おしさか?
 あるいは、もっと漠然とした、「生命」のはかなさのようなものか?
  
 結末の説明が乏しければ乏しいほど、逆に、読み終わった後に想像力が飛んでいく射程距離は長くなる。
 

 印象に残った作品は数多くあるが、やはり突出した文章力を持っていると感じたのは、芥川龍之介(『杜子春』)と、宮沢賢治(『やまなし』)だった。
 
 芥川の『杜子春』は、かつて芥川全集に収録されたものを読んだことがある。
 そのときは、教訓話としてのあざとさの方が目についたが、再読してみると、そのストーリー展開の巧みさにはあらためて目を見張った。 
 ここには、ワクワクドキドキという、あの物語を読むときの高揚感が凝縮している。

 

 宮沢賢治の文章力にも舌を巻いた。
 『やまなし』というのは、谷川の浅瀬で暮らすカニの親子の話である。

 物語の大半は、水底から水面を見上げるカニの視点で描かれる。
 水の中に屈折して入ってくる太陽の光。
 魚が身をひるがえすときに生まれる気泡の流れ。

 
 いつのまにか、まるで自分がカニにでもなったような気分で、水中の光の乱舞を見ていることに気づく。
 事件らしい事件がほとんど起こらない短い話だが、読んでいるときには、異次元の世界をさまようような酩酊感があった。

 

 

桐野夏生 編 『我等、同じ船に乗り』

桐野夏生とは編集

 
 
文芸批評

日本の小説は「昭和」で終わってしまったのか?

 

 日本の「小説」というのは、もしかしたら「昭和」で終わってしまったのではないか。
 そんな思いを強くさせられたのが、『我等、同じ船に乗り』(文春文庫 2009年)という本だった。

 

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 ここには、島尾敏雄松本清張太宰治谷崎潤一郎坂口安吾などはじめとする昭和を代表する作家たちの短編が、編者の独特の視点を通して集められている。
 
 著名作家の作品ばかり集めたアンソロジー(選集)自体は珍しいことではないが、この本がユニークなのは、それらの短編を選び出した「編者」が、数々の話題作を提供し続けている直木賞作家の桐野夏生氏であるということだ。
 つまり、この短編アンソロジーは、作家・桐野夏生が、読者として選んだ「心に残る物語」集なのだ。
 
 選ばれた作品は下記のとおり。(括弧内は発表年)
 
 「孤島夢」 島尾敏雄 (昭和21年)
 「その夜」 島尾ミホ   〃
 「菊枕」 松本清張 (昭和28年)
 「骨」 林芙美子 (昭和24年)
 「芋虫」 江戸川乱歩 (昭和 4年)
 忠直卿行状記 菊池寛 (大正 6年)
 水仙 太宰治 (昭和17年
 「ねむり姫」 澁澤龍彦 (昭和57年)
 「戦争と一人の女」 坂口安吾 (昭和21年)
 「続戦争と一人の女」 坂口安吾 (昭和21年)
 「鍵」 谷崎潤一郎 (昭和31年)
    
 桐野氏が、これらの作品を選んだ基準は何であったのか。
 
 「私の最近の好みは、“生々しい小説” に尽きる」
 と語る桐野氏は、選考の基準として、
 「作者の生理が感じられるもの、そして、どうしてもこれを書きたかったという切迫感のあるもの」
 に絞ったと「あとがき」に書く。
 
 「作家は、自分の生理を感じさせないように、自分という人間が出ないように粉飾する一面もある。
 それでも生理が滲み出る作家は、なるべくして作家になった人々である。
 さらに、切迫感がある小説を書ける作家は、自分をさらけ出す勇気がある。というか、自分が何と思われようと、どうでもいい人々だ」
 
 桐野氏は、そう前振りをしてあとで、
 「そんなわけで、粉飾の感じられない10人の作家、11の作品を選んでみた」
 と続ける。


小説において、リアルなものの
手応えは何から生まれて来るのか?
 
 「 粉飾の感じられない」という言葉を、「リアルなものへの手応え」と訳してみると、そこには、ある一つの共通したものが浮かび上がってくる。
 
 選ばれた作品をみると、例外はあるが、ほとんどが「昭和」に書かれたもので、しかも、その大半が第二次世界大戦直後に発表されたものに集中している。
 つまり、編者の桐野夏生(↓)は、「自分がリアルなものを感じた小説」として、日本の終戦直後に書かれたものを意図的に選んだということになる。
 

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 第二次大戦が終結し、日本全体が焦土となり、誰もが「生きる」こと以外のことを考えられないような時代が訪れ、かつ日本人全体がそれまでの価値観に大きな転換を迫られた終戦直後。
 桐野夏生氏が選んだ「自分の好きな小説」は、みなそのような時代に生まれてきたものばかりだ。
 
 このことは、また作家・桐野夏生が、自分の創作活動の原点をどこに据えているかということも物語っている。
 結論から先に言ってしまうと、ここに集まった作品には、そのどれをとっても、どこかに『OUT』の雅子が潜んでおり、『ダーク』のミロが隠れていて、『グロテスク』の “わたし” が顔を覗かせ、『魂萌え』の敏子の後ろ姿が見える。

 

 編者・桐野夏生が、このアンソロジーのタイトルを『我等、同じ船に乗り』と決めたことは示唆的である。
 それは作家としての桐野夏生が、「人間」というものを同じ視点で眺めた先達たちと「世界」を共有しているという思いだけでなく、作者たちが描いた人物像(主人公たち)もまた、なぜか、同じ船の切符を買ってしまった人々なのである、という認識を持っているということである。

 その船が、ひたすら大海をめざす停泊地を持たない「孤船」であることを知りながら。

 
最近の若い作家の小説が
つまらないのはなぜか?
 
 とにかく、ここに集められた「昭和の作品群」には、圧倒された。
 「日本の小説は、昭和の時代に終わってしまったのではないか?」という思いは、もう最初の数編を読んだだけでこみ上げてきた。
 
 私は、最近の若い作家の小説も読まないではないが、なかなか最後まで読み通したものが少ない。
 最近の小説は、文庫本でも単行本でも、活字が大きく、行間もたっぷり取られ、読みやすい構成になっているのだが、なぜか、とても疲れてしまうのだ。
 途中まで読むと、結論が見えてしまうものもあり、その結論に至るまでの残されたページの量をみると、読み通す気が萎えてしまうものも多い。
 
 しかし、このアンソロジーは、活字がびっしりとページを埋め尽くし、黒々とインクが盛り上がっているようなものばかりであったにも拘わらず、読み始めると、すらすらと進んだ。
 
 恥ずかしながら、ルビがないと読めないような漢字も出てくるのだが、それも気にならなかった。
 昔の小説は、難しい漢字が出てきても、今のように親切にルビを振ったり平仮名に直したりということはなかった。 
 それでも、何度かその漢字を見ているうちに、読み方も意味も覚えるようになったものだった。

 今回は、久しぶりに、その感覚がよみがえった。
 だから、ページの隅々にまで目を通し、細部の描写を噛みしめ、主人公の気持ちの動きを追っていくことが面白くてしょうがなかった。
 そういう経験を、最近の若い作家たちの書いたものから与えられたことがない。
  

「言葉を失う場所」から文学を始める

 

 ここに集められた昔の作家と、今の作家では、何が違うのだろう。
 やはり、「戦争」を見てしまった作家たちと、それを知らない作家たちとの違いという、ごく単純なところに行き着くほかはないと思った。
 
 「悲惨な戦争を自分で体験すれば、表現力が身につく」
 … そんなことをいうつもりはない。
 
 むしろ、「言葉を失う」ような世界を見て、文字どおり「言葉を失った」体験があるかないかの違いだろうという気がした。
    
 桐野夏生氏は、この本の前に出した『対論集・発火点』において、こう語っている。
 
 「私たちの言葉も教育等で得た経緯からして、コストのかかった特権階級のものなんですよね。だからアフリカやインドといったところの、ものすごく貧しい地域の言葉にもならない苦しみというものは小説家は書けない。
 だから小説を書くということは、冷たい風がビュービュー吹いているようなところでやっている仕事だと思う」
 (柳美里氏との対話)
 
 戦争を生き抜いた昭和の作家たちは、一度はみな「言葉にもならない貧しさと苦しみ」しか残されていない場所に立った。
 彼らは、「聖戦」を主張した日本の軍国政権の崩壊を目の当たりに眺めながら、「平和と民主主義」を標榜する新しい時代のイデオロギーにも組みせず、死んでいった者たちの記憶をたどりながら、「生と死を分けた」ものは何かと考えた。
 
 そのとき、おそらくそれを説明する「言葉」などなかったろう。
 たぶん、そこは「冷たい風がビュービュー吹いている」場所だったのだろう。
 
 その中で、彼らは「自分の生」を成り立たせるものの根源を考えた。
 あらゆる価値観が錯綜していた時代だから、「思想」とか「イデオロギー」に寄り掛かることはできなかった。
 自分が生きている、 というたったそれだけの「事実」から、トンネルを穿(うが)つしかなかった。
 
 だから、このアンソロジーに集められた作品からは、みなものを根元的な場所から眺めた人々のリアルな眼差(まなざ)しが伝わってくる。
 桐野夏生氏の感じた「作家の生理と切迫感」というのは、まさにそのことを指している。


イデオロギーから解放されたはずの現代人
の方がイデオロギッシュに生きている
 
 それに比べると、「思想」とか「イデオロギー」などが死滅してしまったといわれる今の時代を生きる作家たちの方が、よほど人間をイデオロギッシュに捉えているように思える。
 あらかじめ「人間とはこうだ」、「ドラマとはこうだ」という方程式を頭の中に詰め込んで、それを機械的に消化しながら小説を書いているように感じられる。
 そういう小説は、どんな “予想外” の結末を持ってこようが、結局は「予定調和」の構造に収まってしまうしかない。
 
 しかし、この作品集の中に登場する人物たちは、そうではない。
 誰もが、どう転ぶか分からないギリギリの場所に立っている。
 
 それは文字通り「生と死」が交差するギリギリの場所であり、人間としての「矜持(きょうじ)」が保たれるかどうかというギリギリの場所であり、「倫理」が問われるギリギリの場所であり、「男と女」が間合いを取るギリギリの場所である。
 
 そして、それらの作品を読み終えた後は、どんな読者にも、必ず「人間というのは、何をやらかすか分からねぇなぁ … 」という戦慄が襲ってくる。

 これらの作品群は、どれもみな読者に「元気」を与えてくれない。
 「感動」も押し付けない。

 「泣き」もくれない。
 「教訓」も教えてくれない。
 ただただ「人間の怖さと崇高さ」を見せてくれるだけである。 
 
 不思議だったのは、これらの作品の向こう側に、必ず「桐野夏生」という作家が見えていたということだ。
 ときどき、みな彼女自身が書いた作品ではないか? と錯覚することすらあった。
 逆にいえば、そういう効果が生まれなければ、この種の企画は成功したとはいえない。
 
 私も、昭和の作家の書いた小説になじんできた人間の一人だと思っていたが、今回のアンソロジーに集められた11編の小説のうち、かつて読んだことのあるものは2編しかなかった。
 このアンソロジーが出なければ、それ以外の作品には一生無縁であったかもしれないと思う と、こういう企画が出てきたことは貴重なことだと思う。

   

  

村上春樹 『若い読者のための短編小説案内』

村上春樹とは編集

 
 
文芸批評

村上春樹が小説の書き方
を明かした珍しい書

 

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 村上春樹という作家は、自分のことや自分の書いた作品についてあまり語らない人だという印象がある。
 メディアにも出たがらない。
 もちろん個人の私生活を明かしたり、時代や政治についても直接語ることもない。
 
 とにかく彼には、マスコミが期待する「作家像」などを演じる気はまったくない。
 サラリーマンのように、定刻がきたらデスクの前に座り、夕方までは律儀に執筆に励む。
 休日には、決められたコースを黙々とジョギングする。
 そのようなクールでストイックな生活を守っている人という印象が私にはあったので、そういう人が、「小説作法の秘密」などを得々と人に向かってしゃべる姿が想像できなかった。
 
 その村上春樹が、珍しく自分の小説作法の奥義をいろいろと披露したのが本著『若い読者のための短編小説案内』(2004年 文春文庫)である。
 もともとは、米国プリンストン大学での講義を基に書かれたもので、初版は、1997年に文藝春秋社から刊行されている。 

 

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 この本のなかに、村上春樹自身が書いた作品はない。
 基本的に、吉行淳之介安岡章太郎庄野潤三といったいわゆる「第三の新人」と呼ばれる作家群の短編小説を解説したものにすぎない。
 
 しかし、他人の短編を解剖するだけであっても、そこには当然「作家」村上春樹の視線が加わるわけだから、その「視線」のゆくえを追うことによって、読者は、村上春樹の小説作法というものをたどることができる。

 

どんなところにも「謎」を
発見する感受性
 
 では、村上春樹流「小説作法」というものは、どんなものなのだろう。
 それを考えるためには、彼がこの著作で採り上げた「第三の新人」たちの作品の中から、そのどんな部分に注目しているかを探ってみると分かりやすい。
 
 村上春樹が「第三の新人」たちの作品を解析するとき、彼はどんな作家に対しても、必ず次のような表現をどこかに据えている。
 「この文章は謎に満ちています」
 「その先からが謎です」
 「謎が解けたわけではありません」
 
 とにかく「謎」という言葉が、この本にはふんだんに出てくる。
 読者が読むかぎり「謎」でも何でもないようなところに、村上春樹は「謎」の匂いを嗅ぎ出す。
 おそらく、それは天性のものなのだろう。
 「謎」の匂いを嗅いだとき、初めて彼の文学的感性は生き生きと働き出すようだ。
 
 「謎」とは、見えている部分の奥に、見えない「何か」を感じることである。 
 それに関する村上春樹の嗅覚は敏感だ。 
 たとえば、長谷川四郎という作家の短編に出てくる風景描写の特徴について、彼は次のようにいう。
 
 「むずかしい言葉なんかひとつも使っていないのに、骨格がぴりっとしている」
 「感情を具体的に表現する言葉はひとつも出てこないのに、その奥にある寂寥感(せきりょうかん)がすぅっと伝わってくる」

 

活字に表現されない “匂い”
を行間から嗅ぎ取る
 
 つまり、彼は、言葉として表現されていないものこそ、作品を決定していると言っているのだ。
 たとえば、長谷川四郎が書いた『阿久正の話』という短編を語るとき、村上春樹は、この戦後社会を生きるしがないサラリーマンのうらびれた日常生活の話に、戦場の「硝煙」の匂いを嗅ぐという。
 
 「この阿久正という主人公は、戦争に行ったなどということは一言も言ってはいませんけれど、ひょっとして、兵隊として戦争を体験した人間じゃないかと思うのです。
 本の活字の間から、非日常的な匂いとして、戦争の影を感じることがあるのです。
 そのときに、自然発生的に “何か訴えかけるもの” がかもし出されます」
 
 ここに、村上文学の極意が語られているように思う。
 つまり、「何か訴えかけるものをかもし出すためには、言葉として書かれないものの存在が必要だ」と彼はいうのだ。
 言葉を変えていえば、文学とは「謎」があって初めて成立するものだ、ということにほかならない。

 

文学における「謎」の役割
 
 一般的な小説やドラマの世界では、「謎」は常に解明されるために存在し、克服されることでその使命を終える。
 「謎」は、あくまでもストーリーを予定調和の世界に着地させるための「お膳立て」であり、「プロセス」であり、時には「抵抗」である。
 
 だから、良い「推理小説」というのは、この「謎」が読者の前に大きな「抵抗」として立ちはだかるものとされる。
 そして、その頑強な「抵抗」が主人公たちの合理的・論理的な推理の力で打ち破られたときに、読者が得るカタルシス指数も高くなる。
 
 しかし、村上春樹の文学では、そのような「謎の克服」よりも、むしろ「謎の発見」こそが重要となる。
 彼が「第三の新人」の作品を語るとき、どの作品からも必ず「謎」を取り出して見せたのは、自分もまたそのように「謎」に意味を見出す作家であったからだ。
 
 彼の小説における「謎」は、まさにブラックホールのように機能する。
 中心点は虚無なのに、その虚無に向かって、すべてのものが渦巻くようにそこに流れ込んでいく。
 彼の小説が、みなどこか終末論的なメランコリーを漂わせているのは、いずれはこの虚無へむかって流れていかざるを得ない万物の哀しみがあるからだ。


作家自身も自作の結末を知らない
 
 彼はいったいどのようにして、物語の真ん中にブラックホールのような謎を仕込むのだろう。
 そのことを明かす面白い例がある。
 
 彼は、小説(特に短編小説)を書くとき、全体の構成などを考えてから書き出すことはあまりないのだという。
 たとえば、
 「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティをゆでているところだった」
 という書き出しの1行がひらめけば、彼は、もうその先を考えずに書き始める。
 
 で、書きながら、
  その女は誰だろう?
  いったい僕に何の用があるのだろう?
 などと、浮かんでくる「謎」を自分自身が解明するために書き進めていく。
 すると、さらに「謎」が「謎」を呼び、雪だるまのように肉を付けながら転がっていく。
 
 しかし、核心となる謎は、最後まで明かされることはない。
 なぜなら、作者の村上春樹ですら、十分につかんでいないことがあるからだ。
 
 村上春樹はこの著作の最後の方で、あと数行を残したぐらいのところに、次のような言葉を記す。
 
 「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」
 
 私は、この彼の一言を読んで、村上春樹の小説の秘密がほぼ分かったような気になった。

 

引き算の文学
 
 たいていの文学が「足し算」の文学だとしたら、村上春樹の文学は「引き算」の文学だったのだ。
 引き算では、答として出された数より、答には出てこない「引かれた数」が意味を持つ。
 「答」は、引かれた数の残骸でしかない。
 
 しかし、その残骸は常に、引かれない前の「姿」に人間の想像力を向かわせる。

 それは、廃墟を眺めながらに、朽ち果てる前の建築物を想像するようなものだ。

 村上文学というのは、基本的に、廃墟を語る文学なのだ。
   
 

 
 

日本の歌は「雪」と相性がいい

今週のお題「雪」

音楽批評


 日本の歌は、「雪」と相性がいい。
 演歌でも、J ポップでも、雪をテーマにした曲は名曲ぞろいである。
 J ポップ、フォーク、ニューミュージック系でいえば、まず筆頭にあがってくるのは、イルカの『なごり雪』。
 あるいは、レミオロメンの『粉雪』。
 そして、中島美嘉の『雪の華』。
 
 このなかでは、イルカの『なごり雪』が作詞的(伊勢正三・作)には群を抜いている。
 これは、少女から大人に脱皮していく女性を見つめる男性の視点で描かれた歌だが、何が切ないかというと、
 「♪ 春が来て、君はきれいになった/
     去年よりずっときれいになった」
 と認めながら、この男性が少女に対し、何も手を出せないところにある。

 「好き」ともいえない。 
 手を握ることもできない。
 再会を約束することもできない。

 「好き」といえない事情は、歌詞の奥に隠されている。
 いろいろと理由はあるのだろうけれど、そこが伏せられているところに、ほとんどのリスナーの勝手な思い入れを吸収するスペースが広がっている。

 

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  人の気持ちを萎えそうにさせる冷たい「雪」が、ここでは唯一主人公の気持ちを支えている。
 「雪よ,溶けないで」
 そういう願いのようなものが、この歌詞の底に沈んでいる。

 人間は、「春を待つ」ことの方が自然なのに、むしろこの歌は「春が来ること」の悲しみを歌っている。
 そこが、かつて一世を風靡した韓流ドラマの『冬のソナタ』の哀切感にも似ている。 


 一方、演歌に目を向けてみると、こちらも、“雪” の名作が目白押しだ。
 吉幾三のヒット曲は、たいてい「雪」もしくは「雪国」をテーマにしている。
 代表曲は、『雪国』。
  「♪ 暦はもう少しで、今年も終わりですね」
 という歌の出だしを年末に聞くと、いつも涙が出そうになる。

 

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 歌に出てくる主人公は、酒場の女性。
 店には、最後の客が一人いるだけ。
 彼女は、入り口に吊るしていた暖簾をしまい、客の隣に座ってお酌する。
  「♪ そばにいて、少しでも、話を聞いて」
 つまり、見知らぬ客に甘えたくなるほど、彼女の心はさびしさに打ちのめされている。
  「♪ 窓に落ちる風と雪は、女ひとりの部屋には悲しすぎるわ」
 
 ステレオタイプの歌詞ではあるが、こういうストレートな歌詞は、逆にどんなリスナーの気持ちにも寄り添えるので、無敵である。
 この歌詞では、戸外を舞う雪の冷たさが、無性に人の温かさ、人の優しさを引き寄せようとしている。
 これが「雨」でも「風」でも、こういう効果は出ない。 
 

 新沼謙治の歌う『津軽恋女』も、雪をうたった名曲のひとつ。
 都会に住む人間にとって、「雪」はほとんど一種類だと思われている。
 しかし、津軽では、
 「七つの雪が降る」
 とされる。

 「♪ こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、
     みず雪、かた雪、春待つ氷雪」

 

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  雪をこれだけ微細に鑑賞する術は、都会人にはない。
 都会人にとって、「雪」は天候の表現する言葉の一つでしかない。
 しかし、「雪国の津軽は違う」という。
 それぞれの雪に、独特の個性と美しさがある。
 これはまさに、“雪の美学” を教えてくれる歌なのだ。


 個人的にもっとも切なくなる雪の歌を一つだけ挙げるとすれば、それは吉田拓郎が歌った『外は白い雪の夜』(作詞・松本隆)である。

 

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 これは雪の夜に、別れ話を切り出す男と、それを黙って聞く女のストーリーだ。
 2人が最初に出会ったという店に女を呼び出した男は、こういう。
 「♪ 勘の鋭い君だから、
    何を話すか わかっているね」
 つまり、「傷つけあって、生きるより、
      なぐさめあって、別れよう」
 と、男は切り出すのだ。

 要は、この男は「もうお前とは別れるよ」と一方的に言い始めているわけだ。

 しかし、そういう男の言葉を覚悟していた女の対応が美しい。
 「♪ 今夜で別れと知っていながら、シャワーを浴びたの。
    哀しいでしょう?」

 ああ、もうこの一言で、この男女がどういう年月を過ごしてきたのか、それが見事に語られている。
 そして、いよいよ別れ話が煮詰まってきたとき、彼女はいう。

 「♪ あなたの瞳に、私が映る。
     涙で汚れて、ひどい顔でしょう。
     最後の、最後の化粧をするから、
     私を綺麗な想い出にして」

 そして、女はいうのだ。
 「席を立つのはあなたから。後姿を見たいから」

 こうして、誰もいなくなったさびしい店で、男が女を残して、先に退出する。
 そこにリフレインがかぶさる。
 「♪ Bye-Bye Love 外は白い雪の夜
     Bye-Bye Love 外は白い雪の夜

 “雪の別れ” を歌った秀逸な歌のひとつであると思う。

  

 

マル・ウォルドロン『忘却のワルツ』

  
 

音楽批評 
WALTZ OF OBLIVIOUS
「忘却のワルツ」 

 この曲は、ジャズピアニストのマル・ウォルドロンが、1966年3月1日、イタリアのミラノで吹き込んだソロアルバム『All Alone(オール・アローン)』の中に収められた1曲である。
 アルバムのトップは、彼の代表作といわれる「レフト・アローン」と並ぶ名曲といわれる「オール・アローン」(↓)で飾られている。

 

 

 このアルバムを手に入れたのは、二十歳ぐらいだったろうか。
 時代でいえば、1970年か、1971年。
 もちろん、収録曲ではいちばん有名な「オール・アローン」に惹かれたことが、その購入動機だった。
 
 その曲と、どのようにして出遭ったのか。

 高速道路のアスファルトが、晩秋の色に染められた夜明けだった。
 交通量の少ない第三京浜の玉川インターが迫り、薄紫に明け行く道の彼方に、照明をともしたままの料金所の建物が見えてきた頃である。

 

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 ドライバーを務めていた友人が、トラックドライバー向けの演歌番組からラジオのチャンネルを変え、ジャズ番組に切り替えた瞬間だった。
 「オール・アローン」のとつとつとしたピアノの響きが、薄く開けたフロント席から流れ込む風とともに、首筋に絡みつき、背中を伝って流れた。
 
 …… 冷気に触れた ……

 そんな思いだった。
 フロントガラスの向こうを、神がさびしそうな背中を見せて遠ざかる姿を眺めるような、厳粛な気分がこみ上げてきた。

 「これ、誰のピアノ?」
 私は、眠気を必死にこらえながらハンドルを握る友人に、そう尋ねた記憶がある。
 「さぁな
 友人は、無愛想に吐き捨てて、眠気ざましの煙草を口にくわえた。

 リヤシートからは、深夜のドライブに同行した3人の友人たちの寝息が聞こえてくる。
 ドライバーは、その3人の寝顔をルームミラーでときどきにらみ、
 「なんで俺だけが、睡魔と闘いながら運転しなきゃならねぇんだよ」
 という気持ちを、露骨に横顔に浮かべていた。

 
 酒、麻雀。そしてどきどきナンパ。
 その車に乗っていたのは、そんな目的でつるんでいた友人たちであった。
 
 「横浜に行こうぜ」
 四畳半一間の安アパートで酒を飲んでいた4人のうち、誰かが酔った勢いで、突然叫んだのだ。
 「何しに行くんだよ、こんな夜中に」
 「ナンパだよ、ナンパ。… 横浜って、けっこうまぶいスケが多いんだってよ」
 「よし、行こう !」
 「どうやって行くんだよ。電車なんて動いてないぜ」
 「ミズノ・キヨシを呼び出そう。やつを起こして、あいつの親父の車を運転させよう」

 午前2時だった。
 友人を友人とも思わぬ傍若無人のワガママが、当時の私たちの流儀だったのである。
 
 深夜の突然の電話に起こされた友人は、それでも律儀に親父の車をこっそり車庫から持ち出し、私たちが飲んだくれている安アパートに姿を現した。

 「ひょー、車、車 !」
 当時、私たちは、まだ車はおろか、運転免許すら持っていなかった。
 だから、免許を取得し、家に車がある友人というのは、貴重な存在であったが、その友人に対し、私たちは尊敬の念を持つこともなく、ただ、いいように利用していたのだ。


 深夜の本牧、元町はさびしいところだった。
 伊勢佐木町あたりにでも行けば別だったのかもしれないが、私たちは横浜という町に対する知識をほとんど持っていなかった。

 いしだあゆみの「ブルーライト ヨコハマ」
 平山三紀の「ビューティフル ヨコハマ」

 私たちが知っていたのは、歌謡曲で歌われる、ネオンライト輝くカタカナ書きの無国籍空間の横浜でしかなかった。

 人気が絶え、どの店もシャッターを下ろしていた元町の車道に乗り入れ、
 「ここ、ほんとに横浜?」
 と疑った仲間もいたくらいだった。
 
 洒落た店舗の連なる元町の表通りは、人の姿が消えてしまうと、逆に廃墟のような寂しさを浮かび上がらせる。
 その通りを、風に舞う紙切れでも滑っていけば、それこそ西部劇に出てくるゴーストタウンだった。

 本牧あたりの車の通らない道は、もっとさびしかった。
 だだっ広いだけの産業道路は、街路灯の無機質な光を照り返らせ、まるで人の死絶えた、核戦争で滅びた未来都市に見えた。

 

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 「帰ろうぜ」
 誰かが、物憂そうな声をあげた。
 「そうだな。歌舞伎町か六本木にでも行けばよかったな」
  
 帰りの車内は、来るまでのバカ騒ぎがウソのように消えた、静まり返った空気に包まれた。

 ―― いつまでもこんな生活が続くわきゃねぇよ。
 私は、ドライバーの運転するトヨタ・コロナの助手席に体を沈め、流れる街路灯を横目で追いながら、一人で思った。
 ―― 「学生」という身分に踏んぞりかえって、親のスネをかじって遊ぶ毎日。
 ―― お前 (と自分自身に問う)  お前、将来何をやりたいの?
 
 心の中に、空虚な空洞が広がっていく。
 吸う煙草も切れて、車の灰皿から吸えそうな吸殻を見つけて、火を付ける。
 そのとき、マル・ウォルドロンの「オール・アローン」がかかったのだ。

 絶対的な孤独。
 頼れるものを失い、ヒリヒリするような虚無と向き合うことの恐ろしさ。
 夜明けの空の下に流れて来た「オール・アローン」は、そんな感情も呼び起こしたが、なぜか “爽やか” だった。

 

 ―― さびしいってことは、すがすがしいものなのかもしれない。

 そのとき、まだ考えたこともなかった “大人” になることの切なさというものに、かすかに触れたような気がした。

 

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 このアルバムは、マル・ウォルドロン( ↑ )がアメリカからイタリアのミラノに渡り、そこのレコーディングスタジオで録音したものだと言われている。
 彼にとって、ヨーロッパは新天地。
 自分の新しい仕事の展開に希望もあっただろうが、未知の土地での初仕事に不安もあったのだろう。

 そのかすかな “おののき” が、シングルトーンでくり出されるピアノの響きに深く垂れこめている。

 「これはジャズではない」
 という人もいる。
 ジャズの条件となる、スウィング感に乏しいとも。
 確かに、ジャズよりはクラシック音楽のタッチに近い。


 しかし、人間の感じる “さびしさ” というものを、これだけ「音」で表現尽くした音楽というものを、私はほかに知らない。

 実際に、このレコーディングのとき、ほんとうはベースとドラムスを担当する2人のサイドメンが来るはずになっていたという話がある。
 しかし、待ち続けるマル・ウォルドロンのもとに、ついに彼らは姿を現さなかった。
 仕方なく、彼は一人でスタジオのピアノに向かった。 

 

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 このエピソードが事実なのかどうか、私は知らない。
 確か、レコードのライナーノーツにそう書いてあったような記憶もあるが、今そのレコードは倉庫のようなところに仕舞われているので、確証が取れない。
 いずれにせよ、そんな話がまことしやかに語られるほど、このアルバムは、絶対的な “孤独” というものを表現しているということなのだろう。

 もう一つの名曲「レフト・アローン」と比べてみると、こちらの方が、より絶望の度合いが濃いように感じられる。
 「レフト・アローン」の方には、かすかなセンチメンタリズムが漂う。
 甘さが残るのだ。
 しかし、この「オール・アローン」には、その甘さがない。
 そこが、私は好きだ。
 
 
 『オール・アローン』というアルバムは、タイトル曲以外の曲にも、みな静かな憂愁が刻印されている。
 通して聞いていると陰々滅々たる気分になるが、心が塞いでいるときは、それが「癒し」になる。
 人間、さびしいときは、“明るいもの” に癒されるとは限らない。 
 むしろ、暗くてさびしいものから、元気をもらうことだってあるのだ。
 『オール・アローン』は、そんなことを教えてくれるアルバムだ。

 

 どの曲もみないいが、私は最後に収録されていた「忘却のワルツ」からいろいろなインスピレーションをもらった。
 「忘却のワルツ」では、メインテーマが奏でられたあと、延々と同じ旋律がリフレインされる。
 「不器用」という言葉が当てはまりそうな、とつとつとした演奏だが、深夜一人で聞いていると、それが、恐ろしく感じられてくる。
 底の見えない螺旋(らせん)階段を、ずっと下降していくような気分になるのだ。
 一生かかっても降りられない地下への道が見えるような気がする。

 

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 昔、この曲にインスパイアされて、小説を書き始めたことがある。
 盲目の美少女に、叶えられることのない恋をしてしまう青年の話だったが、書いている途中、とてもマルの「忘却のワルツ」の凄さに敵わないことが自分でも分かってしまい、途中であっさりとあきらめた。

 

 芸術作品は、未完であることを恥とするものなのだろうが、この「忘却のワルツ」に触発されて創造されるアートのたぐいは、おそらく絵でも小説でも、終わることのないものへの “おののき” を呼び覚まして、中座するだろう。
 そこには、人間の感性では捉えることのできない「永遠」というものが、横たわっているからだ。

 

▼ 「忘却のワルツ」

youtu.be


 

『愛の年代記』より「エメラルド色の海」

塩野七生とは編集

  
 
文芸批評   

塩野七生の珠玉の
ロマンチック・ストーリー
   
 私がかつて読んだ本のなかで、もっとも華麗で、美しく、切ない恋物語は何かと尋ねられれば、ためらうことなく、塩野七生氏が書いた「エメラルド色の海」を挙げるだろう。

 

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 1975年に発表された『愛の年代記』に収録された一編で、わずか26ページほどの短い物語にすぎないのだが、ここには人間が恋愛を語るときに思いつく、想像力の限界に挑戦するかのような、耽美なレトリックが盛り込まれている。

 

 語られる時代は、イタリアルネッサンス期。 
 舞台は、ヨーロッパのキリスト教国家と、アジアのオスマン・トルコ帝国が対立していた地中海世界
 主人公は、イタリアの有力都市国家であるサヴォイア公国女官長を務めるピアンカリエリ伯爵夫人。

 

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 その伯爵夫人が、運命のいたずらによって、極悪非道な振る舞いで恐れられているトルコ海賊の首領に恋をしてしまうという話である。
 イタリアの民間に語り継がれている伝承をベースに、塩野氏が脚色した物語のようだ。

 トルコ海賊の名は、ウルグ・アリ(有名な人物だ)。

 

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 そのウルグ・アリの巧妙な作戦によって、領国を巡行していたサヴォイア公とその兵士たちが浜辺の戦いで捕虜になってしまう。  

 海賊の要求は、膨大な身代金のほかに、もう一つあった。
 それは、「サヴォイア公妃に直接拝謁して挨拶を申し上げたい」というものだった。

 身代金だけならば、払ってしまえば後腐れはないが、公妃が身分の卑しい海賊に拝謁を許したということになれば、他の西洋諸国からどのような嘲笑を浴びせられるか分からない。
 

トルコ海賊との駆け引き

 

 困り果てたサヴォイア公国の宮廷は、偽物の公妃を立てて、海賊の首領であるウルグ・アリを騙すことにした。
 そのニセの公妃に志願したのが、女官長のピアンカリエリ伯爵夫人だったのである。
 
 伯爵夫人は、こみ上げてくる恐怖と緊張に耐えながら、謁見の広間で、公妃の席に座り、ウルグ・アリの来訪を待つ。
 不気味な人相の下品な男を想像していた夫人は、目の前に現れた男の美しさに驚嘆する。
 
 以下、引用しよう。

 「きらびやかな金色のどんすのトルコ風長衣とガウンにつつまれ、白絹のターバンが東洋風な威厳さえただよわせながら、男は、ひざを折って丁重に礼をした。
 夫人は、トルコ帝国のスルタンを眼前にしているのではないかと、一瞬ではあったが思ってしまった。
 それほど、海賊アリの容姿は洗練されていた」
 
 
 もともとウルグ・アリという男は、トルコ人ではない。
 南イタリアの生まれで、漁村を襲ったトルコ海賊に拉致され、若い頃から奴隷船の漕ぎ手として酷使されたイタリア人だったのである。

 

 しかし、並外れた胆力と、鋭敏な頭脳に恵まれたアリは、やがて一隻の海賊船を指揮する船長に抜擢され、さらにアフリカの各港町を治める総督に出世し、最後はトルコ帝国海軍の総司令官にまで上り詰めた人物である。

 だから、小国の伯爵夫人が一目見ただけで魅了されてしまうのもやむを得ない男であったのだ。

 塩野氏が描くアリの容貌は次のようなものだ。
 
 「トルコ風の細い口ひげの顔は、長い海の上の生活のためか、浅黒く陽焼けし、栗色の眼が、夫人をじっと見据えて動かない。(そして話す言葉は)南イタリアの男がしゃべるときの荒々しく官能的な響きをたたえていた」

 

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 夫人には、目の前にいるウルグ・アリに比べ、サヴォイア公国の男たちの方が卑しく思えてくる。
 生まれの良さだけを誇りにし、出身の貧しい者を常に嘲笑い、そのくせ臆病で、政治や軍事にもうとく、宮廷の女官たちとの恋だけにうつつを抜かすサヴォイア宮廷の男たち。

 

 それに対し、ウルグ・アリの夫人に対する礼儀作法は、どのキリスト教徒の男よりも洗練され、会話は機知に富んでいた。
 アリの持っていた美質は、自分の夫も含め、夫人の周りにいるキリスト教徒の男たちが、持ち合わせていないものばかりだった。
 伯爵夫人は、はじめて女の心をときめかせる “本物の男” に出会ったのだ。


美しき海賊王

 

 夫人と最後の挨拶を交わした後、海賊アリは、
 「そばに控えていた従者に、トルコ語で鋭く何かを言った」
 すると、
 「打てば響くような素早さで、従者が進み出、夫人に小箱を捧げた」
 
 中に入っていたのは、首飾り。
 「まるで金の雲の切れ目からのぞく地中海のように、大きな角型のエメラルドのまわりは、繊細な唐草(からくさ)模様の金細工でふちどられ、そのまま金雲がたなびくよう弧を描いて、緑色の宝石にもどってくる」

  という見事な芸術品を送られた夫人は、男が立ち去った後も、その場にぼう然と立ち尽くし、やがて城壁に登り、去っていく海賊船を眺める。

 

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 「5隻のトルコ船が、いっせいに櫂を(かい)を水平にあげ、水鳥が飛び立つ瞬間の姿になった時、夫人の胸の奥に、熱い何かが急にこみあげてきた。
 翼を広げたように水平に並んだ櫂が、次の瞬間、ふわりと海面に落ちる。そのまま軽やかに、海水を切り始めた。
 たたまれていた帆が、するすると帆柱を伝わって伸びたかと思うと、すぐにいっぱいの風をはらんだ。


 5隻のトルコ船は、一隻ずつ列をつくって、みるみるまに遠ざかっていく。
 あの船は、薄い青色のこの海を離れて、濃い緑色の輝く地中海の中心に向かうのだろう、自分は見たことはない、だが人づてに聞く話では、まるでエメラルドのような色をしているという、海に向かって」
  
込み上げて来る “切なさ”

 

 いやぁ、なんとも見事な描写 !!
 一糸乱れぬ美しい操船によって、トルコ船団が立ち去る情景は、そのまま司令官ウルグ・アリの統率力や自信や美意識のあり方を描いており、その船が向かう先に広がる “見たこともないエメラルド色の海” は、夫人がはじめて「恋」という未知の体験を知ったことを表現している。
 もう、この人の文章のうまさには、一生かかっても追いつくことができない。

 
▼ 『ルネッサンスの女たち』でデビューした頃の塩野氏

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 伯爵夫人は、そのたった1回の出会いを大切な思い出として胸の奥深くしまい込んだまま、静かな宮廷生活を送る。
 敵対する異教徒の、しかも “卑しい” 海賊に恋をしたなどと打ち明ける相手が、宮廷の中にいるはずもない。
 誰もが、“無知で野蛮な” 海賊をだまし通した夫人の胆力を賞賛するが、そのことで、夫人はいっそう傷ついていく。

 

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 一方、海賊の首領ウルグ・アリは、やがてトルコ正規海軍の提督として、全キリスト教徒の軍隊から憎まれる存在となり、地中海世界に君臨する。
 
 しかし、彼もまた、二度と会うことのなかった伯爵夫人に、キリスト教徒の騎士が胸に秘めるような尊敬の念を、生涯抱きつづける。

 

 ある日、サヴォイア公国に出入りする商人の一人が、伯爵夫人に、ウルグ・アリと会ったことをそっと打ち明ける。

 「ウルグ・アリは、あの時会ったのが、公妃でなかったことを知っています」
 と商人はいう。


 「しかし、アリは、あなた様の正体を尋ねたあと、ふと微笑をもらし、大胆で勇気があって、それでいて優雅で美しい方だった、と独り言のようにつぶやいたのです」

 そして、商人は、ウルグ・アリから預かったという贈り物を夫人に見せる。
 それは ヨーロッパ社会では手に入らないような、見事な刺繍に彩られたエメラルド色の布地だった。


光によって色を変える
エメラルド色の布地
 
 「緑色と金と銀が微妙に織り込まれた布地は、日の当たる角度で色が変わった。それは、織物を扱いなれた商人ですら、見とれてしまうほどの素晴らしいもので、朝と昼と晩で、別の布のように見えた」
 と、塩野氏は書く。

 商人が立ち去った後、夫人は侍女も遠ざけ、部屋に閉じこもり、錦の巻き物を部屋中に広げて、小箱からエメラルドの首飾りを取り出し、そっと布の海に置く。
 そして、耐えきれなくなり、寝台の上に倒れ伏したまま、少女のように声を放って泣くのである。

 

 そこまで読んだとき、もう「ロマンチック」という言葉は、この物語のためにあるような言葉だと、私には思えたものだった。

 もちろん、夫人は、自分の恋心を相手に伝えるすべも知らず、アリの方も、夫人がプレゼントをどのような思いで受け取ったかを知らない。
 でも、本当の恋愛というのはそういうものである、という思いが私にはある。
  
 
 実は、私にも、自分が海賊ウルグ・アリにでもなったような思い出がある。
 たった一度だけの機会であったが、仕事で塩野七生さんと会うことがあり、彼女が泊っているホテルの部屋に出向いたことがあるのだ。

 昔から、塩野さんの著作を読み続けてきた私にとって、塩野七生さんは、それこそ、「エメラルド色の海」に登場する伯爵夫人のように、生涯まぶしく輝き続けている人であった。
  
 仕事の打ち合わせを終え、私は、1冊だけカバンの中に忍ばせていた彼女の著作を差し出し、サインを所望した。
 それが、「エメラルド色の海」が収録された『愛の年代記』だった。

 この本は、生涯自分の宝になっている。

 

▼ お仕事をお願いした頃の塩野七生

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ハイテク時代のオランダを描いたフェルメール

ヨハネス・フェルメールとは編集

 

 

絵画批評   
フェルメールは “庶民派” の画家だったのか?
  
 ヨハネス・フェルメールといえば、市民のささやかな暮らしぶりを優しい眼差しで描く「庶民派の画家」というイメージが強い。

 

フェルメール「牛乳を注ぐ女」

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 彼の絵には、尊大な王侯貴族が登場することもなく、男を惑わす妖しい美女の姿もない。
 ミルクを鍋に注ぐ家政婦。
 手紙を書く少女。
 レース編みに没頭する女。
 当時のオランダの家を覗けばどこでも見られるような、ごくありふれた人物と、何の変哲もない光景が描かれているに過ぎない。

 

フェルメール「レース編みをする女」

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 なのに、この “何気ない” 光景にこそ、実は17世紀ヨーロッパの激動の歴史がすべて凝縮している。
 フェルメールの絵は、この時代のオランダが世界に冠たる海洋国家に成長していく姿と、オランダの資本主義がどのように興隆していったかを物語る “生き証人” のような存在でもあるのだ。

 

フェルメール「デルフトの眺望」

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 このことは、実は過去にも考えたことがある。

 しかし、今回、経済学者の水野和夫氏と、東京画廊社長の山本豊津氏の対談『コレクションと資本主義』(角川新書)という本を読んで、これまでのフェルメールの論考に少しだけ書き加えたいことが生まれた。
 そこで、「資本主義の誕生」という側面にしぼって、フェルメールの業績に再度触れてみたい。  

 

▼ 『コレクションと資本主義』

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市民階級だけが支配する巨大都市の誕生
 
 『コレクションと資本主義』によると、フェルメールが活躍していた17世紀のオランダは、大型帆船の技術力を高め、大航海時代を迎えたヨーロッパを代表する海運国家に成長していたという。
 もともと、オランダ、ベルギーを含むフランドル地方は15世紀ごろから毛織物産業によって北ヨーロッパでも屈指の工業地帯としての実力を蓄えていた。

 

▼ 遠洋航海を可能にしたオランダの帆船

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 ただこの地方は、政治的にはスペイン国王の領土であったため、商業利益のほとんどは宗主国のスペインに収奪されていた。
 そのことを不満に思うオランダの商人階級が結束し、1568年にスペインに対して独立戦争を挑むことになる。

 その結果、どういうことが起こったか。
 オランダ市民軍がスペイン王国の軍隊を打ち破り、ヨーロッパで初の「商人階級」による政府が誕生したのだ。
 
 それによって生まれたフランドル諸都市の自由闊達な空気は、ヨーロッパ中の商人を魅了してやまなかった。
 オランダ・ベルギーの主要都市には世界の商人が利益を求めて集まるようになり、やがて、国家自体がひとつの「世界市場」を形成するようになった。

 

▼ 国際商業都市アムステルダム

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 当然、そこでは様々な国の言語、習慣、宗教、文化が交差するようになる。
 そのなかでも、スペインの宗教的弾圧から逃れてオランダに移住してきたユダヤ人の存在は大きかった。
 彼らは、ヨーロッパ各地に張り巡らせていた金融ネットワークと、それまで各地で培ってきた金融テクノロジーを駆使し、オランダをヨーロッパでも屈指の経済大国に押し上げることに貢献した。
 
 余談ではあるが、近代哲学の祖ともいわれるルネ・デカルトは、こういうオランダの “無国主義的” な風土を味わうことがなければ、あの「コギト(われ思う)」という哲学的省察を手に入れることはできなかっただろう。
 
▼ ルネ・デカルト

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 フランス人であったデカルトは、世界のどこの哲学体系からも切断されたオランダの言説空間に触れて、はじめて自分が育ったフランス共同体の思考から解放された。
 
 そういう「普遍」を見据えた思考は、多民族、多宗教、多言語、多文化が交錯する(一見カオスにも見えるような)流動的な社会からしか生まれない。
 そういう “文化的マグマ” のようなものが、この時代のオランダの地下から地上に向かって一気に噴き出していたのだ。
  
 フェルメールの絵画というのは、こういう新興国オランダの燃えたぎるような経済的繁栄を背景に生まれてきた芸術であることを、まず念頭に置いておいていいだろう。
 
 では、彼の一見つつましやかで静かな画風のなかに、グローバル経済を牛耳っていた当時のオランダの姿は、いったいどういう形で描き込まれていたのだろうか。
  
 
フェルメール絵画に登場する
「地図」と「地球儀」の謎
  
 フェルメールの後期の作品を代表する『天文学者』および、『地理学者』には、壁の背景や机の上の小道具として、世界地図や地球儀がさりげなく描かれていることにまず注目してみたい。

フェルメール天文学者

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フェルメール「地理学者」

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 天文学者や地理学者にとっては、地図や地球儀は商売道具であるから、人物の周辺に置かれるのは当然だろう。
 しかし、一般女性のつつましやかな日常を描いた『水差しを持つ女』、『青衣の女』、『リュート調弦する女』などにおいても、彼女たちの背景にはくっきりと地図が描きこまれている。
 
フェルメール「水差しを持つ女」

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フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」

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フェルメールリュート調弦する女」

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 フェルメールの絵画の背景として描かれた地図は、1569年にフランドル地方(現ベルギー)の地理学者であるメルカトルが考案した「メルカトル図法」にのっとったもので、絵の中では “室内装飾” のように扱われているが、実際には実用的なハイテク・アイテムといった性格が強い。
 
フェルメール「士官と笑う女」

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 そのような最新テクノロジーの地図や地球儀が、現代の液晶テレビやパソコンのように、当時の庶民の居間に浸透していたということは、当時のオランダの人々が、海洋国家の一員として、グローバルな視野で “世界” を見つめていたことを意味する。
 それこそ、いざとなったらそのまま海洋に乗り出せるような教養と気骨を持った庶民がたくさんいただろう。
 
 
「手紙」は17世紀最強の
  ハイテク通信手段だった !
  
フェルメール「手紙を書く少女」

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フェルメール「青衣の女(手紙を読む女)」 

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 フェルメール絵画の特徴として、もう一つ見落としてはならないものが、「手紙」である。

 上記の絵のように、彼の作品は、手紙をテーマにしたものが非常に多いのだ。

 

 このように、手紙を書く人々がこれほどフェルメールの絵に登場するということは、いったい何を意味するのだろうか?
 この時代が、一種の「通信革命」を迎えた時代だったことを示唆している。
   
 ヨーロッパにおける郵便制度は、17世紀の初頭、ほとんどの国を巻き込んだ「30年戦争」を機に、戦況を連絡し合う軍事郵便という形で急激な発達を遂げた。
 それが、郵便システムを整えることにつながり、やがて民間の家族や恋人同士が私信を交わし合う手段にまで成長する。
  
 世界貿易に乗り出したオランダ人たちは、この「手紙」を通じて、はるか離れた地域から自分の近況を家族に伝えるようになった。
 もちろん、現在の通信テクノロジーと比べれば、手紙のやり取りはそうとうのんびりしたものでしかなかった。
 
フェルメール「手紙を書く婦人と召使」

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 しかし、それでも、地球の裏側あたりで仕事をしている家族の直筆を庶民が受け取るということは、それ以前の社会では考えられないことだった。今の感覚でいうと、「電子メール」のようなものだった、という人もいる。
 
 このように、静謐でつつましやかなフェルメールの絵画というのは、実は、当時の最新テクノロジーをさりげなく使いこなす庶民のハイテク生活を切り取ったものであったことが浮かび上がってくる。
  
 
油彩画による “画材革命”
が資本主義を呼び寄せた
 
 水野和夫氏と山本豊津氏の共著による『コレクションと資本主義』によると、この時期のフランドル地方で生まれた絵画が、後のヨーロッパで確立される “絵画マーケット” の基礎をつくったという。
 
 15世紀頃から、フランドル地方には絵画技法の革命が起こっていた。
 すなわち、それまでのルネッサンス絵画は、教会などの壁に漆喰を塗って、それが生乾きのうちに顔料を塗り込んでいくフレスコ画が中心だった。ボッティチェリも、ミケランジェロも、ラファエロも、みなこのような技法で作品を残したのである。
 
ラファエロバチカン教皇庁の壁に描いたフレスコ画アテナイの学堂」

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 ところが、フランドル地方では、まったく新しい絵画技法が生まれていた。
 それが、フーベルト・ファン・エイクヤン・ファン・エイク兄弟らによって生み出された油彩画だった。
 
 これが絵画の “ダウンサイジング” をうながした。
 
 それまでのフレスコ画は、教会や宮殿といった大きな壁を要求するものであったが、油彩画になると、小さなキャンバスですむようになる。

 

▼ キャンバスに絵を描き込む男

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 このような小さなキャンバスは、「作品」の持ち運びを可能にした。
 つまり、フレスコ画が施設内に定置して使う巨大な “オフィスコンピューター” だとしたら、キャンバスは “ノート型パソコン” の役割を果たすことになったのである。
 
 その結果何が起こったか?
 絵画を買って、自分の家に持ち帰って鑑賞する新しい購買層が誕生したのだ。
 
 スペインやフランスなどの絶対王政下においては、巨大絵画の発注者は王族や教会に限定されていたのに対し、フランドル地方では、中産階級が自宅で自由に飾れる絵画が生まれたのだ。
 これを機に、絵画は「作品」から「商品」に移行していく。
  
  
グーテンベルクによる出版革命
  
 『コレクションと資本主義』によると、このような「アートの商品化」が始まる過程は、ちょうどグーテンベルクの金属活字による活版印刷が普及していく過程と重なるという。
 この時期、書籍とアートは、それぞれ“大量生産” という道を歩み始めたのだ。
 
▼ 金属活字の活版印刷

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 もちろん活版印刷が書籍の生産量を飛躍的に伸ばしたことは容易に想像できると思うが、アートに関しても同じことが起こった。
 銅版画(↓)である。

 

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 そもそもグーテンベルクは、活版印刷の商売を始める前は、銅版画を印刷する仕事で生計を立てていた人だった。
 
 それまでアートでは、基本的に1人の作者が生産できるものは1点と決まっていた。
 しかし、銅版画は、1人の作者が手掛ける作品を大量に印刷することを可能にした。
 それによって、一品あたりの単価も安くなり、多くの一般市民が芸術作品に触れる機会が広まった。
 

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 1500年代後半、ベルギーのアントワープは、ヨーロッパ最大の版画制作の拠点となり、デューラーブリューゲルなどの北方ルネッサンスの作家たちが手掛けた数多くの版画がヨーロッパ中に広まり、同時にフランドル芸術が発展する基礎をつくった。 
 
   
知識・情報などの “大衆化” が始まる
 
 活版印刷と銅版画。
 この二つの文化の普及は何を意味したのか?
 知識・情報などの “大衆化” である。
 
 活版印刷が普及したのは、一般庶民が「知識」を必要とするようになったからだった。
 とりわけ、航海に対する「知識」の需要が高まった。
 そのなかには、操船術などの具体的知識も含まれていたが、さらに交易によって広がった東方マーケットの知識、… すなわちヨーロッパ人以外の民族の生活習慣、宗教といった基本情報への需要が生まれていた。
 それによって、「庶民は聖書だけに関心を持っていればいい」という時代は終わりを告げた。
 

デューラーの銅版画

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 では、銅版画のような、アートの普及は何を意味したのか。
 これは、一般庶民が接するメディアが、「映画」から「テレビ」に代わったと思えば分かりやすい。
  

絵画が「私的財産」になって
何が始まったか?
 
 写真、映画、テレビなどといった近代的視覚文化が生まれる以前は、絵画はこの世でもっとも刺激に満ちた視覚メディアだった。
 町の教会の壁を埋めていた宗教画は、神の偉大さを讃えるメッセージそのものであったし、貴族の宮殿などに飾られた肖像画は、彼らの権威と徳を讃えたプロパガンダとして機能した。
 

▼ 大掛かりな宗教画

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 ただ、そのようなアートは、いずれも現物が飾られている現場に向かわないかぎり、誰も拝むことはできない。
 つまり、映画館で見る「映画」のようなものだったのだ。
 しかし、銅版画や小さなキャンバスに描き込まれた小品は、市民が家のなかで楽しめるという意味で、現在の「テレビジョン」の役割を果たした。
 
 絵画が、個々の家でテレビのように管理されるようになったことは、絵画が「私的財産」になったことを意味する。
 「私的財産」であるかぎりは、誰もが好きなときに、好きなように売り買いできる。
 「商品」としてのアートが誕生したといっていい。
 
 フェルメールが、“名もない一般庶民” を描き続けたのは、たぶんその方が「商品」として扱いやすかったからだろう。
 
 貴族の館に飾られる肖像画は、制作を注文した貴族の家族たち以外には価値がない。
 しかし、モデルが誰だか特定できない人物が絵の主人公になれば、どんな購買者でもそこに感情移入する余地が生まれる。
 名もない少女のポートレートは、鑑賞者がそこに自分の理想の恋人像を重ねることも可能にしたのだ。
 絵画と鑑賞者の間に、淫靡な相互関係が生まれるのも、そんなときだ。

 

フェルメール真珠の耳飾りの少女

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 フェルメールという画家が、自分の絵をどれほど商品として計算していたかは、実際のところは分からない。
 彼が量産家でなかったことからすれば、1枚の絵にありったけの時間と情熱を注ぎ込む純粋な芸術家であったかもしれないのだ。
 
 しかし、結果的に彼の絵は、資本主義社会の商品として機能するあらゆる特性を帯びることになった。
 彼をして「近代絵画の祖」という言い方が生まれたのも、そんなところに由来しているのかもしれない。
   

 


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ちょんまげコント「信長の人生相談」

ヨタ話

 

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織田信長 ↑ 】  最初の相談者は誰じゃ?
羽柴秀吉 ↓ 】  書状にての相談でありまする。名は宮下直樹とか。

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【信長】  何用だと申しておる?
【秀吉】  はっ。「先日、上司に呼び出されたところ、当方の管理する部署の生産性が急降下し、採算部門と見なすことができぬとの理由により、その責任を取って、辞職するように勧告されました。
 しかし、それを指示した上司というのは、実は自分の不倫現場を私に目撃され、その口封じのために、私のことを排除しようとしていることはみえみえであります。
 このような事態にどう対処すればいいのか、ご指導をお願いします」
  とのことであります。

 

【信長】  くだらんのぉ。どういう素性の者じゃ?
【秀吉】  42歳サラリーマンとか。
【信長】  サラリーマンとは何のことか?
【秀吉】  はて バテレンの官位のようなものではありますまいか
【信長】  従五位下か、従四位下ぐらいかの。
【秀吉】  いずれにせよ、大した者ではありますまい。

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【信長】  して、その者は国を出て浪人の身になる覚悟があると申しておるのか。 
【秀吉】  そこまではなんとも 。ただ、このように書状にて密かに相談してくるところから察するに、できれば隠密裏に私憤を晴らしたき所存であると見受けられまする。
【信長】  よし、次のように申し伝えよ。サル、筆を取れ。
【秀吉】  へい!
 
【信長】  「その方、私憤晴らしたき所存であるならば、まずは己(おのれ)の役目をばまっとうし、しかるべき成果を上げて後、上位討ちを果たすべし。
 与えられし役目をうち捨てて、私怨ばかり追うは言語道断なり。
 事成就した後にも事態変らぬようであるならば、そのときはその者の首を取り、この信長に持参せよ。しからば仕官への道を開いてやるものなり」
【秀吉】  御意(ぎょい)。
  
 

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【信長】  次なる相談は何じゃ?
【秀吉】  おなごのようでありますな。これも書状を寄越しただけでございます。
【信長】  読んでみよ。
【秀吉】  ははぁ。
 「パパから最近夜の誘いがないの。たぶん新しく入店したサナエのことが気がかりなんだわ。
 オープン10周年パーティの日だって、サナエにはシャネルのバッグなのに、私にはアディダスのジョギングシューズよ。
 バカにしてない? 
 ねぇ教えて。サナエをとっちめて、パパをギャフンと言わせる面白いこと、なんかない?」 

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【信長】  サル、訳せ。
【秀吉】  わたくしめが でござりますか?
【信長】  そちは、さんざん「ねね」を苦しめておるゆえ、かような女のタワゴトなど、簡単に分かりおるじゃろう。
【秀吉】  ははぁ。「父より夜間の連絡途絶え、失意の念いやますばかり。推測するに父サナエに執心の様子。
 創業10年祝日にてもサナエ “蛇寝る” の皮袋与えられるも、我は “亜出陀” の運動靴得るのみにて、つのる寂しさいかんともしがたし。
 よって、サナエに神罰下ること欲するものなり。さらに父を痛罵する方法あらざるや」
 
【信長】  であるか。
【秀吉】  して、いかなる返答を与えましょうや。
【信長】  このように申し伝えるがよかろう。筆を取れ。
【秀吉】  へい!
 
【信長】  「汝の煩悩、すべて我欲より発すること明瞭なり。よってすべての煩悩を断ち切ることこそ肝要にて、仏門に入るべし」
【秀吉】  あっさりとしたもんですな。
【信長】  浅井・朝倉がまたうごめき出しておる。かのようなタワケ女に関わりおうているヒマなどないわ。
【秀吉】  御意。