- 日本の小説家、翻訳家。国際的なベストセラー作家。代表作に『羊をめぐる冒険』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』など多数。レイモンド・カーヴァーの全訳など翻訳活動でも著名。 略歴1949年1月12日に京都府京都市で生まれる。兵庫県芦屋市で思春期.. 続きを読む
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村上春樹が小説の書き方
を明かした珍しい書
村上春樹という作家は、自分のことや自分の書いた作品についてあまり語らない人だという印象がある。
メディアにも出たがらない。
もちろん個人の私生活を明かしたり、時代や政治についても直接語ることもない。
とにかく彼には、マスコミが期待する「作家像」などを演じる気はまったくない。
サラリーマンのように、定刻がきたらデスクの前に座り、夕方までは律儀に執筆に励む。
休日には、決められたコースを黙々とジョギングする。
そのようなクールでストイックな生活を守っている人という印象が私にはあったので、そういう人が、「小説作法の秘密」などを得々と人に向かってしゃべる姿が想像できなかった。
その村上春樹が、珍しく自分の小説作法の奥義をいろいろと披露したのが本著『若い読者のための短編小説案内』(2004年 文春文庫)である。
もともとは、米国プリンストン大学での講義を基に書かれたもので、初版は、1997年に文藝春秋社から刊行されている。
この本のなかに、村上春樹自身が書いた作品はない。
基本的に、吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三といったいわゆる「第三の新人」と呼ばれる作家群の短編小説を解説したものにすぎない。
しかし、他人の短編を解剖するだけであっても、そこには当然「作家」村上春樹の視線が加わるわけだから、その「視線」のゆくえを追うことによって、読者は、村上春樹の小説作法というものをたどることができる。
どんなところにも「謎」を
発見する感受性
では、村上春樹流「小説作法」というものは、どんなものなのだろう。
それを考えるためには、彼がこの著作で採り上げた「第三の新人」たちの作品の中から、そのどんな部分に注目しているかを探ってみると分かりやすい。
村上春樹が「第三の新人」たちの作品を解析するとき、彼はどんな作家に対しても、必ず次のような表現をどこかに据えている。
「この文章は謎に満ちています」
「その先からが謎です」
「謎が解けたわけではありません」
とにかく「謎」という言葉が、この本にはふんだんに出てくる。
読者が読むかぎり「謎」でも何でもないようなところに、村上春樹は「謎」の匂いを嗅ぎ出す。
おそらく、それは天性のものなのだろう。
「謎」の匂いを嗅いだとき、初めて彼の文学的感性は生き生きと働き出すようだ。
「謎」とは、見えている部分の奥に、見えない「何か」を感じることである。
それに関する村上春樹の嗅覚は敏感だ。
たとえば、長谷川四郎という作家の短編に出てくる風景描写の特徴について、彼は次のようにいう。
「むずかしい言葉なんかひとつも使っていないのに、骨格がぴりっとしている」
「感情を具体的に表現する言葉はひとつも出てこないのに、その奥にある寂寥感(せきりょうかん)がすぅっと伝わってくる」
活字に表現されない “匂い”
を行間から嗅ぎ取る
つまり、彼は、言葉として表現されていないものこそ、作品を決定していると言っているのだ。
たとえば、長谷川四郎が書いた『阿久正の話』という短編を語るとき、村上春樹は、この戦後社会を生きるしがないサラリーマンのうらびれた日常生活の話に、戦場の「硝煙」の匂いを嗅ぐという。
「この阿久正という主人公は、戦争に行ったなどということは一言も言ってはいませんけれど、ひょっとして、兵隊として戦争を体験した人間じゃないかと思うのです。
本の活字の間から、非日常的な匂いとして、戦争の影を感じることがあるのです。
そのときに、自然発生的に “何か訴えかけるもの” がかもし出されます」
ここに、村上文学の極意が語られているように思う。
つまり、「何か訴えかけるものをかもし出すためには、言葉として書かれないものの存在が必要だ」と彼はいうのだ。
言葉を変えていえば、文学とは「謎」があって初めて成立するものだ、ということにほかならない。
文学における「謎」の役割
一般的な小説やドラマの世界では、「謎」は常に解明されるために存在し、克服されることでその使命を終える。
「謎」は、あくまでもストーリーを予定調和の世界に着地させるための「お膳立て」であり、「プロセス」であり、時には「抵抗」である。
だから、良い「推理小説」というのは、この「謎」が読者の前に大きな「抵抗」として立ちはだかるものとされる。
そして、その頑強な「抵抗」が主人公たちの合理的・論理的な推理の力で打ち破られたときに、読者が得るカタルシス指数も高くなる。
しかし、村上春樹の文学では、そのような「謎の克服」よりも、むしろ「謎の発見」こそが重要となる。
彼が「第三の新人」の作品を語るとき、どの作品からも必ず「謎」を取り出して見せたのは、自分もまたそのように「謎」に意味を見出す作家であったからだ。
彼の小説における「謎」は、まさにブラックホールのように機能する。
中心点は虚無なのに、その虚無に向かって、すべてのものが渦巻くようにそこに流れ込んでいく。
彼の小説が、みなどこか終末論的なメランコリーを漂わせているのは、いずれはこの虚無へむかって流れていかざるを得ない万物の哀しみがあるからだ。
作家自身も自作の結末を知らない
彼はいったいどのようにして、物語の真ん中にブラックホールのような謎を仕込むのだろう。
そのことを明かす面白い例がある。
彼は、小説(特に短編小説)を書くとき、全体の構成などを考えてから書き出すことはあまりないのだという。
たとえば、
「その女から電話がかかってきたとき、僕は台所に立ってスパゲティをゆでているところだった」
という書き出しの1行がひらめけば、彼は、もうその先を考えずに書き始める。
で、書きながら、
… その女は誰だろう?
… いったい僕に何の用があるのだろう?
などと、浮かんでくる「謎」を自分自身が解明するために書き進めていく。
すると、さらに「謎」が「謎」を呼び、雪だるまのように肉を付けながら転がっていく。
しかし、核心となる謎は、最後まで明かされることはない。
なぜなら、作者の村上春樹ですら、十分につかんでいないことがあるからだ。
村上春樹はこの著作の最後の方で、あと数行を残したぐらいのところに、次のような言葉を記す。
「優れた作家はいちばん大事なことは書かないものです。優れたパーカッショニストがいちばん大事な音は叩かないのと同じように」
私は、この彼の一言を読んで、村上春樹の小説の秘密がほぼ分かったような気になった。
引き算の文学
たいていの文学が「足し算」の文学だとしたら、村上春樹の文学は「引き算」の文学だったのだ。
引き算では、答として出された数より、答には出てこない「引かれた数」が意味を持つ。
「答」は、引かれた数の残骸でしかない。
しかし、その残骸は常に、引かれない前の「姿」に人間の想像力を向かわせる。
それは、廃墟を眺めながらに、朽ち果てる前の建築物を想像するようなものだ。
村上文学というのは、基本的に、廃墟を語る文学なのだ。