アートと文藝のCafe

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春という季節は亡くなった人を妙に思い出す

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エッセイ 
伯父さんの話 
  

  
 伯父がいた。
 その妹である母の話によると、きっぷのいい遊び人だったという。

 「きっぷのいい」という言葉は死語かもしれない。
 現代風に言うと、「気性のさっぱりした」というような意味になるのだろうか。

 

 母は、その言葉を、半分は褒め言葉として使った。
 しかし、残りの半分には、「おカネを無造作に使ってしまうダメな人」というニュアンスを込めていた。
  
 つまり、「蓄財の才覚がない」ということだ。
 母も金銭感覚にうとい人間だったが、その母が眉をしかめていうくらいだから、伯父のカネの使い方は浮世離れしていたのかもしれない。

 

 もともと母方の実家は、地方の有力な事業主だったという。
 母も伯父も、幼少の頃は贅沢な暮らしをしたようだ。

 伯父は長男だったので、その家業を継ぐことになるはずだったが、実際には継いでいない。

 

 その経緯は、私には分からない。
 ただ、伯父はおカネを持てば、大金でもその晩につかい果たしてしまうような人だったらしく、どっちみち家業を継いでも、うまくいく見込みはなかっただろう。

 

 代わりに、漢詩を読んだり、短歌をつくったりする趣味には長けていたという。
 事業家の血筋を引きながら、文学趣味の濃い人だったようだ。
 

 

 伯父が元気だった頃、私はまだ小学生だった。
 家人との会話で、「出版社」を経営しているということを得意げに話していたのを小耳に挟んだような気もする。
 
 もっとも、「出版社」という言葉を聞いても、当時の私にはあまり理解できなかったし、第一、それほど関心もなかった。

 

 伯父は新潟に住んでいた。
 古町という市内でも最もにぎやかな目抜き通りだった。
  
 夏休みだったろうか。
 母と遊びに行った。
 一階が他人の経営するレコード店で、伯父の住まいはその二階だった。
  
 レコード屋の裏の細い階段を上がる。
 靴が4~5足集まれば床が見えなくなってしまうような小さな玄関を上がり、その二階に入る。


 そうとう古い建物らしく、階段の手摺も天井板も、醤油で煮染めたように黒ずんでいた。

 8畳ほどの居間と、4畳半の台所と、3畳程度の仕事場があった。
 その3畳のスペースに小さな本棚と机が置かれ、そこで伯父は原稿を書いていた。

 

 雑誌をつくる仕事をしていたのだ。

 一人で雑誌をつくり、一人でそれを売り歩く。
 たしかに “出版社” には違いなかった。

 

 一冊手にとってみる。
 週刊誌サイズの20ページほどの薄い雑誌。
 正装した紳士たちの写真が掲載されていて、その周りを小さな活字が埋めていた。
 地元の名士たちらしい。

 

 伯父は、その名士たちを順繰りに取材し、その業績を文字にすることで、広告料の代わりにしていたのだ。

 

 今でいうタウン誌の “人物版” のようなものだったのかもしれない。
 名士たちが、その雑誌に載ることで、自分の功績が世に喧伝されるようになると期待していたかどうかは分からない。
 
 彼らは自分の半生記を人にまとめてもらうことで満足していたのかもしれないし、あるいは、たぶんに個人的な付き合いの範囲にとどまるものだったかもしれない。
 だから、その雑誌の発行が、どれだけ伯父の家計を支えていたのかは分からない。

 

 もっとも、当時小学生の私に、収益構造のことは分からなかったし、それに思いを馳せるほどの智恵もなかった。


 ただ、小学生の目から見ると、怪獣もロボットも戦艦も出てこない「まったく面白くない雑誌」だった。

 

 

 伯父は甥っ子の私が来たことをいたく喜び、夜は私だけを伴って、近所の寿司屋に連れていった。
 自分の子供が2人とも娘だったせいか、血縁の中に男の子がいたということがうれしかったのだろう。

 

 「回転寿司」も「立ち食い寿司」も生まれていない時代。
 寿司は、大人だけに許された贅沢な食事だった。
 
 遠慮を知らない私は、好きなネタだけを選び、ひたすら食べまくった。
 伯父はそんな私を目を細めて見つめながら、自分はほとんど何も食べず、酒ばかり飲んでいた。
 人が喜ぶ姿を見ることにカネをつかってしまう性格だったのだ。

 

 

 私が住んでいる東京にも、伯父は何度か遊びに来た。
 いつも、子供の目から見ても高そうなスーツを着ていた。


 しかし、それがみな古そうだった。
 昔つくった贅沢な服を、大事にしながら、ずっと着ているという風情だった。

 

 夕方になって、「帰る」という伯父を駅まで送っていくのが私の務めだった。
 たいてい、すぐには電車に乗らない。
 
 必ず、駅近くのバーとか小料理屋のようなものを見つけ、
 「ちょっと寄っていこう」
 と、私を誘う。
 
 見知らぬ土地の、見知らぬ飲み屋に入るのが、無類に好きだったのだろう。
 私は、また母に怒られることを知りながら、伯父に付き合う。

 

 小学生だから、酒は飲まない。
 ジュースを飲みながら、伯父と、そのママさんの会話を黙って聞いている。

 

 何が楽しいのか。
 伯父は、ママさんの手料理の品評などしながら、淡々と酒を喉に流しこんでいく。
 そして、二度と来ることもないような店なのに、高い酒をどんどん頼み、ママさんにも気前よくおごる。

 

 酔うと歌が出る。
 カラオケなどまったくない時代。
 つぶやくような低い声で、歌が始まる。
 北原白秋が詩を書いた「からたちの花」とか「砂山」のような童謡だ。

 

 「♪ 海は荒海、向こうは佐渡よ。すずめ鳴け鳴け、もう日はくれた

 

 伯父の目には、新潟の海の向こうに見える佐渡ヶ島が映っていたのかもしれない。

 

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 伯父は、結局、貧乏のうちに死んだ。

 

 しかし、いま思うと、私はことごとく伯父の嗜好を受け継いでいる。
 二度と来ないような知らない飲み屋でカネを使うのが好き。
 酔って歌を唄うことも好きだ。
 蓄財が苦手で、カネが貯まらないところも似ている。

 

 一つだけ違うことがあるとすれば、大金を使うことに対して、私はちょっと臆病であるということだけかもしれない。

 

 

 伯父が亡くなって、一度だけ、母と新潟に墓参りに行ったことがある。
 私はもう学生になっていた。
 伯父の家はすでになく、私たちはホテルに泊まった。

 

 せっかく新潟に来たのだから、「甘エビを食べよう」と母がいう。
 今のように、食品の流通が活発でなかった時代。
 甘エビは、新潟や北陸で食べるのが一番鮮度が高く、おいしいと言われていた。

 

 母は気前よく、甘エビをたくさん注文し、それを食べているうちに、私は寿司屋に連れていってくれた伯父のことを思い出していた。
 
 店を出ると、春先だというのに、雪が舞っていた。
 桜の花が散るような雪で、頬に当たっても冷たくはなかった。

 

 翌日、墓参りをすませ、私たちは少し足を伸ばして、海を見に行った。
 雪は止んで、日本海には青空が広がり、佐渡ヶ島がくっきりと見えた。

 

 小さい頃見た新潟の砂浜には何もなかったように記憶していたが、そのとき見た浜辺には、殺風景なテトラポットがたくさん積まれていた。

 

 しかし、砂山らしきものは残っていた。 
 伯父が飲み屋で唄った「砂山」の歌が、頭の中でかすかに鳴った。

  

 砂山(中山晋平 作曲)/渥美清

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