トランプ米大統領が、自分に批判的なマスコミの報道を「フェイクニュース (fake news)」と切り捨てるようになって以来、この言葉は流行語となった。
しかし、メディア評論家によると、この概念はけっして新しいものではないという。
すなわち、昔風にいえば「デマ」のことだ。
ただ、「デマ」という言葉には、二通りの意味があるとか。
民衆側から出たニセ情報のことをいうときは、「デマ」。
それに対し、権力側が意図的に流すニセ情報を「プロパガンダ」というのだそうだ。
今でいう「フェイクニュース」というのは、その両方を含んでいる。
しかし、「フェイクニュース」という言葉には、「デマ」とか「プロパガンダ」という言葉とはまた違った、新しいニュアンスがあるような気がする。
それは、ネット社会の情報錯綜を反映した言葉であるように思える。
「デマ」や「プロパガンダ」は、活字媒体が支配的であった時代の言葉。
それに対し、「フェイクニュース」は、情報がペーパー媒体からネットメディアに移行した状況を示している。
「デマ」や「プロパガンダ」という言葉からは、(意図は悪意であっても)一度印刷してしまうと情報の修正がむずかしいことを理解している活字媒体世代の責任感のようなものが匂ってくる。
それに対し、「フェイクニュース」という言葉からは、愉快犯が面白がってニセ情報を流しているという無責任さが感じられる。
つまり、世界中の誰もが簡単にネットにアクセスできるようになったために、恣意的に加工したニセ情報を流して他人が右往左往するのを見たいという人々のシンプルかつ陰湿な欲望が野放しになってきたのだ。
このような事態を招いた背景には、ネットのおかげで、情報拡散のスピードが、旧社会の人間の持っていたスピード感をはるかに超えてしまったことが挙げられる。
つまり、情報の消費が早すぎて、誰もが情報の真偽を確認できなくなったのだ。
さらに、もう一つ。
ある意味 “豊かな社会” になって、人々がニュースに娯楽性を求めるようになったためだ。
同じニュースでも、「えっ? それってホントー?」という刺激性の強いニュースの方に人々は惹かれるようになってきた。
そういう傾向が助長された遠因として、私はテレビのワイドショーに出演するキャスターやコメンテーターが芸人によって占められる率が高くなってきたことを挙げたい。
今やダウンタウンの松本人志やタレントの坂上忍などは、もう立派な天下のご意見番である。
今のワイドショーでは、この人たちの発言の方が、専門家の解説よりも視聴者の支持を得やすくなっている。
このように、フェイクニュースの横行には、ニュース番組の “芸能化” も背景にあることは間違いなく、それはそのまま、今の日本の若者たちが置かれている状況を反映している。
すなわち、東大のような大学に入って、官庁や優良企業に進み、日本を支えるエリートになるか。
それとも、お笑いの世界に入って頭角をあらわすか。
今の日本の若者が、「夢」を持つときには、その二つの選択肢しかなくなってきたのだ。
今の時代は、勉強さえ一生懸命やれば東大に行けるような世の中にはなっていない。
そこに至るまでには、塾代や家庭教師料も含め、親が途方もない資産家であることを求められる時代になってきている。
そういうコースを最初から諦めざるを得ない家の子弟は、幼いころから芸人を目指して、他人を “いじって” 笑いを取る訓練に励むようになる。
今のテレビには、どちらにもロールモデルも用意されている。
東大志望の子弟には、現役の東大生がどれだけ頭が良いかを際立たせるようなクイズ番組がたくさん企画されている。
そういうクイズ番組に出演する東大生は、普通の社会人では理解できないような設問を一瞬のうちにクリアし、ものすごい知識量があることを喧伝する。
視聴者はあっけにとられて、正解者に賛辞を贈るが、そこに落とし穴がある。
クイズの正解は一つかもしれないが、人生の正解はけっして一つではないからだ。
しかし、視聴者はこのようなクイズ番組に慣れることによって、人生の正解も一つしかないような錯覚に陥る。
だから、最初からエリートコースにおける “正解” を放棄した若者は、「人生には答がない」ことを示し得る “お笑いの世界” を目指す。
そして、こっちの方向に進むときのヒーローとして、松本人志や爆笑問題、カンニング竹山、坂上忍らがいる。
… という私の発言も、まぁフェイクニュースの一つかもしれないね。