アートと文藝のCafe

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掌編小説 『手を拾う』

  
 夜の歩道に、人の手が落ちていた。
 ひからびた枯葉のように縮こまりながら、それでも最後の力を振り絞って、その手が助けを呼んでいるように見えた。
 

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 近づくと、ただの手袋だった。
 風が舞って、手袋が揺れたのだ。
 
 ニットで編まれた、ありふれた手袋。
 近くに寄って真上から見下ろすと、もう息が絶えたのか、手は動かない。
 捨てられたことが悲しいのか、それとも運命を静かに受け入れたのか。
 動かない手は、何も語らない。

 
 
 この季節、こういう落とし物が多い。
 外気が暖かくなったことを感じたのか、それとも家路が近くなって仕舞おうとしたのか、持ち主が手袋を手からはぎ取り、コートのポケットにでも入れようとしたのだろう。
 
 が、入れたつもりの手袋は、こっそりとポケットからこぼれ出た。
 
 運よく落ちなかった相棒の手袋は、こぼれ落ちていく仲間の姿を、どんな気持ちで見つめていたのか。
 私は手袋になったことがないので、その心を想像することもできない。
 

 
 つまみあげると、手袋は馴れ馴れしい仕草で、新しい持ち主の手のひらにピタっと寄り添ってきた。
 
 前の持ち主は男だったのか、女だったのか。

 大きさから、それを推測することはできない。
 たぶん、女だったのだろう。
 根拠なく、私はそう思うことにした。
 

 
 自分のコートのポケットにそれを仕舞う。

 
 手のひらに握りしめた手袋が新しい主人を見つけたつもりになったのか、早くもヌクヌクとした温かみを伝えてくる。
 
 私は、手袋の意外な変わり身の早さに、多少とまどいを覚える。
 
∮ 
 
 家に着いて、私は机の上に手袋を放り出し、お湯を沸かしてコーヒーを入れた。
 CDプレイヤーのスイッチを入れ、Pharoah Sandersの 「Astral Travelling」 をかける。
 

 
 窓のカーテンを開ける。
 高層マンションの階段を照らす常夜灯が、人のいない通路を規則正しく浮かび上がらせている。
 

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 振り向くと、手袋は、まるでそこが自分の棲み家であったかのように、机の上にうずくまっている。

 私は、昔去っていった女が帰ってきたかのような気持ちになっている。


 
 「もう日本にいても、何も面白いことないから」
 女はそう言って、フラッと家を出て行った。
 
 女に帰る気持ちがなかったことを、私はプラハから届いた手紙を見てはじめて気づいた。


 ありふれた東欧の街角を写した絵葉書の裏には、ただ一言「ありがとう」と書かれていた。
  
 何が「ありがとう」なのか、いまだにその意味が分からない。
 

  
 「分からないの ?」
 手袋がくすっと笑ったような気がした。
  
 私は、コーヒーのカップにそっとブランデーを注ぐ。
 そして、その手袋を手にはめ、コーヒーカップを持ち上げてみる。
 
 「飲ませて」
 手袋がいう。
  
 私は、手袋をしたままの指を、そっとコーヒーカップの底に沈ませる。