「狐部隊って知ってた?」
隣りに座った女は、そう言って私の方を振り向く。
「いいや。… 何それ?」
私は、物憂く返事する。
深夜のパブだ。
とっくに電車は終わっている。
地下室の穴倉みたいなカウンターに座っている客は、もう私と女しかいない。
カウンターの中にはバーテンもいない。ウェイターもいない。
音楽も止まった。
時間が死んだようだ。
「狐部隊ってかわいそうなの。聞いたとき、泣いちゃった … 」
女は、別に悲しそうにするふうでもなく、壁に向かって独り言のようにつぶやく。
「何だい? 狐部隊って … 」
私は、もう一度同じ質問を繰り返す。
「満州での話なの。日本が満州で戦争をしていたころの話なのよ。あなた知ってた?」
「いいや」
「あなたって、そういうこと知らない年なの?」
女がびっくりしたように尋ねる。
「おいおい、俺を90歳以上の老人にする気かい?」
「戦争って、そんな昔なの?」
女が怪訝そうな顔で、私を振り返った。
「そうだ。もう “戦後” という言葉すら、とっくの昔になくなった」
「それでね … 」
女は、私の言葉など念頭にないように、話を続ける。
「日本が負けそうになって、ソ連軍が攻めてきたのに、日本軍は逃げてしまって、普通の人を守る兵隊がいなくなったの」
「それで?」
「男は小学生しかいなくなったんですって」
「まさか … 」
「本当よ」
女が唇を尖らせる。
「 … で、小学生たちが日本の民間人を守るために、兵隊にさせられたの」
「学徒出陣よりひどいね」
「ガクトシュツジン … って?」
「いや、いいよ。… それで?」
「小学生じゃ敵になめられるじゃない? それで小学生ということを隠すために、狐のお面をかぶることになったの」
「狐のお面 … 」
「そう、神社のお祭りに使うような白い仮面」
私は脳裏に、白い仮面をかぶった小学生の一団を想像してみた。
滑稽なような、悲惨なような …。
女の話は遠い昔のおとぎ話のようで、現実味がなかった。
「私、狐部隊に会いたい」
女がため息をついた。
「会ってどうするんだ?」
「応援するの。頑張ってぇーって … 。死ぬなよーって … 」
そう言って、女は遠くを見るような目になった。
「出よう。そろそろ店も終わりだ」
私はそう言って、女をうながした。
北極の冷気のような寒風が、頭上で渦を巻いていた。
夜明けは遠く、漆黒の闇が扉の外で澱んでいた。
私と女は、霜を踏みしめながら、よろけるように歩き出した。
「寒い … 」
女が、おびえるように私の腕に絡まりついてきた。
「どこに帰るんだ?」
私は女に尋ねた。
「どこでもいい。暖かいところで眠りたい」
女の声が外気に凍りついて、ポトッと地面に落ちそうだった。
振り向くと、店も電気を消したのか、闇の中にまぎれて跡形もなかった。
「ねぇ、何か見える」
女の足が止まった。
「どこ?」
「あそこ … 」
女がどこかを指さしたらしいが、その女の指先さえ、暗くて見えなかった。
「何も見えないよ」
「明かりよ、明かり。ほら … 」
女が私の腕をギュッと握りしめた。
遠くに、いくつかのかがり火のようなものが揺れていた。
「たいまつだな … 」
私は、闇の中にたたずんで、次第に増えてくる明かりの数を数えた。
「みっつ …、よっつ …、いつつ …」
丘を越えてくるのだろうか、一直線になったたいまつは、次第にその数を増やしていった。
「狐部隊よ!」
女が叫んだ。
たいまつの明かりで、それをかざしている人間の顔がぼんやりと浮かんできた。
「本当だ … 」
私は、たたずんだまま近づいてくる狐の仮面を眺めた。
お祭りの夜店で売っているような狐の面が、続々と明かりの中に浮かびあがり、駆け足で向かってくるところだった。
たいまつを右手にかざしたまま、ある子供は旧式の小銃を肩にかけ、別の子供は竹槍をかざし、何もない子は、手に石粒を抱えていた。
「頑張ってぇー!」
狐たちが前を横切ると、女は飛び上がって大声で叫んだ。
「死なないでぇー!」
手を振る女に気づく様子もなく、狐の集団は黙々と走っていく。
「死ぬなよ!」
思わず、私も叫んだ。
行列はあっという間に姿を消した。
「20人ぐらいかな … 」
遠ざかる明かりを追いながら、私は言った。
「勝つわね、きっと」
女が祈るようにつぶやいた。