もう30年ぐらい前の話になるのだろうか。
昔、まだ乗用車メーカーのPR誌を編集していた頃、漫画家の故・水木しげるさんに取材したことがあった。
当時、水木さんは、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ化も評判となり、売れっ子漫画家としての道をひたすら走り続けていた。
売れっ子の取材は、アポを取ることがむずかしい。
媒体の知名度や影響力、ギャラの多寡などを問題にされるよりも、「会う時間がない」と断られることが多い。
断られることを覚悟して、アポを取るための電話を入れてみた。
雑誌のその月のテーマが「妖怪」だったので、妖怪マンガの第一人者に、「妖怪の本質を語ってもらう」というのが、取材の趣旨だった。
ご本人にとっては、「またか」と思えるほど語り尽くしてしまったテーマだったかもしれない。
ところが、直接電話に出られた水木さんは、
「いいですよ」
と、気楽に一言答えてくださった。
しかも、地図で調べれば簡単にたどり着けるような東京・調布市のご自宅を、
「何行きの交通機関に乗って、何駅で下りて … 」
と、懇切丁寧に指示してくださった。
“いいオジサンさん” だな … とは思ったが、さすがに家のベルを押すときには緊張した。
水木さんは、白いシャツの左袖をフラフラと風に揺らせながら、「隣のいたずら小僧がまたおやつ欲しさに訪れたな」 … といった感じの、近所のガキでも眺めるような表情で迎い入れてくださった。
▲ 当時の水木さん
「妖怪はね、本当にいるんです。若い頃はそれに気づかなくてね」
いきなり、そんな話から始まった。
すでに有名な話だが、水木さんは、太平洋戦争時代、ラバウルで生死の境をさまよった。
苛酷な戦地で、マラリアを患ったり、敵機の爆撃を受けて左腕を失ったりしたのはそのときだ。
そのとき、「生きよ」 「生きのびよ」と、次々と近づいて励ましてくれたのが、森や川に棲むさまざまな妖怪たちだったという。
「なんだ、こいつら、人間より優しいじゃないか」
そう思ったことがきっかけとなり、出会った妖怪たちの姿を思い出しながらマンガに描いたのが、『墓場の鬼太郎』(のちのゲゲゲの鬼太郎)という代表作になった。
呼び名こそ違っても、世界に潜む妖怪は、だいたい同じような姿なんだそうだ。
でも、「誰でも水木さんのように妖怪に会えるのか?」となると、そこは、ちょっと条件が必要なようだ。
「妖怪はいる … といっても、はっきりと目に見えたり、触れたりできるものではないんですね」
と水木さんはいう。
「妖怪は見るものではなく、“感じる” という表現が適切かもしれません。
暗い森、静かな山奥、人気のない海辺や谷川など、やはり人が “自然” の息吹に包まれるような場所でないと、彼らは近づいて来ないんです」
とか。
「そして、人間の心や体が苦しくて、“助けて!” と悲鳴をあげそうなときに、彼らは救いにやってくるんですよ。そういうときは、人間の “妖怪感度” が上がっているんでしょうね」
妖怪感度
面白い言葉だと思った。
その「妖怪感度」は、実利一点張りの人や、我の強い人、強欲な人ほど下がってしまうという。
「霊長類の中でも人間がその頂点 … などと威張っている人は、まず妖怪を見ることもなければ、妖怪に助けられることもないでしょう」
素朴な文明批判のように聞こえる言葉だが、熱病に冒されながら食糧もないラバウルの森から生還してきた人の一言は、やはり違う。
自然は人の生存を許さない厳しさを持つ半面、人を生かしてもくれる。
妖怪とは、その自然の「分身」なのだ。
そこが、うらみをはらすために現れる「幽霊」とは違う。
幽霊は、「文明」を知った人間の変わり果てた姿。
しかし、妖怪は「自然」の中で生まれた “生命” が、人間に分かりやすい形をとったものだ。
だから妖怪は、怖くても、どこか愛嬌がある。
それは、自然が人間に与える恐怖と、自然が人間にもたらす慈愛の両方を表現している。
「妖怪が棲みにくい世界というのは、人間にも棲みにくい世界なんです」
と、水木さんはしんみりした口調で語った。
ひんやりしたポンリュームの床に、冷たい蛍光灯の光が満ちるような都会の生活空間は、妖怪たちを一匹一匹追い出していくのだそうだ。
いろいろ楽しい話を聞いて、いとま乞いをしようと思ったとき、
「絵を使いますか?」
と尋ねられた。
絵 …… つまり、妖怪のイラストのことだ。
こちらは考えてもいなかった。
なにせ、超売れっ子の原画など、いったい、1枚どのくらいの値段がするものなのか。
貧乏編集部にそのような予算があるわけもなく、水木さんの絵を使うことは最初からあきらめていた。
「いい絵があるかな …」
そういって、書斎の奥の方をゴソゴソっと探していた水木さんは、やがて原画のストックから1枚の原画を引き抜いて渡してくれた。
「これが、今日の話にはいいのではないかな」
「いくらですか?」と聞くわけにもいかず、すぐには手が出なかった。
「大丈夫ですよ。自由に使ってください。僕の話を聞きに来たのだから、僕の絵もあった方がいいでしょう」
なんと優しい方なのか、感謝の言葉すらとっさに浮かばなかった。
▲ 水木さんが用意してくれたイラスト。特集の表紙に使わせてもらった
ていねいに礼を述べて、家を後にしたとき、水木さんそのものが、人間を励ましてくれる優しい妖怪のように思えた。
水木さんの記事が完成して10年ほど経ったあと、NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』(2010年)が放映された(写真下)。
そのドラマを眺めるたびに、しばらくの間、水木さんに取材したときのことを思い出していた。