アートと文藝のCafe

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さびしくも美しいラクダのパラダイス

幻の遊園地「白子ラクダの国」
 
 テーマパークというと、誰でも真っ先に浦安の「東京ディズニーランド」や、大阪の「ユニバーサルスタジオ」などを思い浮かべるはずだ。

 

 その二つは、それぞれ人気もあり、集客力もすごい。
 ドキドキ、ワクワク、ルンルン。
 華やかで、ゴージャスで、スリルもあり、およそ人間が熱狂できるすべてのものがてんこ盛りになっている。

 

 しかし、私なんかの場合は、あまりそういったものに興奮しない。
 年を取ったから、 というわけでもなく、昔からそうだった。
 ヘソ曲りの性格なのかもしれない。
 人が見捨ててしまったような、さびしいテーマパークの方が好きなのだ。

 
忘れられた幻の “遊園地”

 

 そういう自分の嗜好で “心のアルバム” を開いてみると、一番先に浮かんでくるのが、「白子ラクダの国」なんである。

 

 「聞いたことがない」という人が大半だろうな。
 いつぐらいに生まれ、いつぐらいに閉鎖された施設なのか。
 千葉県・長生郡白子町のHPを開いて、町の歴史をたどってみると、「昭和50年6月 ラクダの国開園」と、そっけなく1行載っているだけで、その後どうなったのかは、もう触れられていない。

 

 なんで、そういう施設にアクセスする気になったのか。

 

 昔、そこを取材する計画があったからだ。
 当時、携わっていた自動車メーカーのPR誌の編集で、「観光ドライブ情報」のページを引き受けていたとき、「千葉県の外房」がテーマになった。
 事前に資料を集めていたとき、「白子ラクダの国」という施設名が目に飛び込んできたのである。

 

 どんな施設か?
 砂漠に見立てた砂浜で、ラクダの引く荷車のような物に子供を乗せて楽しませるという場所だという。
 ラクダ以外の生き物としては、ヤギもいるらしい。

 

 今の常識で考えると、なんとも地味な企画だが、昭和50年(1975年)当時は、それだけでも集客を見込めたのだろう。 

 

 世でいう「テーマパーク」が日本に続々と誕生してきたのは、1990年代に入ってからだから、70年代に作られたこの施設は、もちろんそんな言葉で呼ばれるわけもなく、単に「遊園地」と言われていたと思われる。
 

なぜ千葉にラクダが?
 
 私がここを訪れたのは、1983年である。

 その日、外房でサーフィンを楽しむ若者たちを撮影し、「Goddess」の千葉店を取材した後、「鴨川シーワールド」、「行川(なめかわ)アイランド」に寄り、最後の目的地である「白子ラクダの国」を目指して、陽が西に傾き始めた九十九里有料道路を走った。

 

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 それにしても、千葉になぜラクダが?
 おそらく、そこから近い御宿(おんじゅく)の町が、童謡の『月の沙漠』の発祥の地だとされていたからだろう。

 1932年に録音されたという加藤まさを作詞・佐々木すぐる作曲のこの童謡を、現在知っている人がどれくらいいるのだろうか。

 

  ♪   月の砂漠を はるばると
    旅のラクダが 行きました
    金と銀との くら置いて
    二つならんで 行きました

 

 2頭のラクダに王子様とお姫様がそれぞれ乗り、
 「おぼろにけぶる月の夜に、砂丘を、とぼとぼと越えて進んでいく」
 と歌詞は伝える。

 いったいどういう状況が語られているのか、幼い頃さんざん聞いた歌ながら、私には、いまだにこの2人が砂漠を越えて行く理由が分からない。

 

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王子様とお姫様の心細い逃避行?
 
 王子様とお姫様なら、ふつう護衛の兵がいっぱい付くだろうに。
  ということは、
 逃避行なんだろうか?
 駆け落ちか?
 
 よく分からん。
 とにかく、歌からは、ロマンチックなものより、心細さの方が伝わってくる。
 王子様とお姫様が、あまりにも仲良さそうに歌われているため、その先に待ち構えている不幸が想像されそうな気がするのだ。

 途中で強盗団などに襲われても、この王子様はあんまり強そうに思えないし。
 それに、「金のくら」と「銀のくら」をこれ見よがしに露出させたまま旅するなんて、この2人には危機管理意識がなさすぎる。

 
 それでもこの歌は、「世代を超えて支持される歌の一つとなっている」(Wikipedia情報)ということで、御宿や白子町では、ご当地ソングとして尊重されていたようだ。
 要するに、この界隈の「町おこし」のテーマソングだったわけだ。

 う~ん …… だとしても、それが理由で「生きたラクダを展示する」というのは、発想にヒネリがない、 と思わないでもなかった。
 「とにかく行ってみるべぇ」


案内板すら出てこない観光スポット 
 
 波乗り道路の左には沈みかける夕陽、右は昇りかける月。
 ほぼ一直線の単調な道が、右左に分かれる「夜」と「昼」の間をぬって、どこまでも続いている。

 

 白子インターで降りる。
 が、この近辺の重要な観光スポットであるはずなのに、案内板らしきものが一つも見当たらない。

 

 ヘルメットを被って道路工事をしていたお兄ちゃんに尋ねてみる。

 「うん? 白子ラクダの国? …… もしかしたら、あっちの方にある建物がそうかなぁ」
 兄ちゃんも自信がなさそうだ。

 

 言われるままに、車が一台も通った跡のない灌木まみれの砂地を走り続ける。
 やがて、荒涼とした埋め立て地のような場所が現われた。
 その片隅には、錆びたブルドーザーがうち捨てられており、その向こうに、朽ち果てたアラビア風の屋根を持った建物が見えてきた。

 

 「いやぁ、これはもう立派な廃墟だ」
 もし、遊びが目的で来たのなら、その光景を見ただけで引き返していただろう。
 しかし、目的は仕事。
 それに、好奇心も湧く。

 

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やったぁ、営業中だったぁ !
 
 さらに前に進む。
 ますます怪しげな建物に見えてくる。
 車を降りて、徒歩で近づく。
 やせこけた小さなヤシに、半分錆びついた自転車が一台。
 切符売り場には人影もない。
 
 「あんた、お客さん?」
 ややあって、ゴム長をはいた背の低いオジサンが切符売り場とは反対の方向からにゅっと顔を出した。

 

 「営業しているんでしょうか?」
 「ああ、やっているよ、いろいろ見ていくかい?」

 
  と言われても、“いろいろ” といえるほどのものが揃っているわけではない。
 切符売り場の裏手に、縄につながれたラクダが2頭。あとはヤギとロバ。
 その横には、倉庫のような建物。

 それだけ。
 これで、入場料を取るのだろうか?

 

 「はい、大人300円」
 オジサンは、(なぜか)片手にスコップを持ち、空いた片手でグイと入場券を突き出す。
 料金と引き換えに手渡された入場券は、しわしわに汚れ、おまけに砂がこびりついていた。

 

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 とりあえず、カメラを掲げて、バシャバシャとラクダを写す。
 「あんた、仕事かね?」


 私の背中越しに、のんびりとオジサンが話しかけてくる。
 「はい、観光ドライブ記事を書いている者ですけど」

 そう言うと、オジサンは親しげに私の隣に並び、
 「今日はあんたが最初のお客さんだよ」
 という。

 

 “言われなくても分かってますよ ” という言葉を呑み込んで、オジサンの話に耳を傾ける。

 「昨日は、青森から来たという親子連れ一組だけだったな」
 人ごとのように、淡々と語る。

 

 「でも、あんたは運がいいよ。混んでないから自由に写真が撮れるしな」
 …… 冗談なのだろうか。
 この施設が、混むなんてことがあるのだろうか?


ラクダもヤギも人が珍しいようだ

 

 黙って視線を向けたオジサンの顔に、人なつっこい笑顔が浮かぶ。
 人なつっこいのはオジサンだけでなく、ラクダやヤギも珍しそうにこっちを見ている。

 
 時が止まったような、静かな空気が流れていく。

 

 ラクダの隣には、椅子を並べた荷車のようなものが、砂に埋もれている。
 それを指し示しながら、オジサン、
 「あの車をラクダが引いて、子供たちが乗って騒いだときは、ここはほんとうににぎやだったんだ」
 と、遠くを見るような目でつぶやく。

 

 「今、人を乗せることのできるラクダはもう一頭だけだが、そいつもトシでね。それが死んだらここも閉鎖だね」

 煙草をくゆらしながら、そう語るオジサンの目は、超然と時の流れを見つめるラクダの目とそっくりだ。

 

 「ここは食事もうまいと評判だったんだよ」
 今度は、切符売り場の奥にたたずむ廃墟を指し示す。
 レストランだったという。
 それが、うち捨てられた工場のように腐り始めている。


視界100メートルだけのアラビア砂漠

 

 陽が落ちかけて、建物の影が次第に長くなる。
 空漠たる風が砂丘に風紋をつくる。
 視界100メートルだけのアラビア砂漠は、今日も何事もなかったように暮れようとしている。
 ラクダとヤギを撮り終わると、もう写真に収めるものがない。
 
 「このお仕事長いんですか?」
 聞くことがないので、そんなことを尋ねてみる。
 
 それには答えず、オジサン、
 「好きじゃなきゃ、こんなことできねぇよ」

 捨てばちのような響きを持った言葉からは、逆に、この施設に対する愛着が滲み出ていた。

 「またきなよ」
 そう言って、オジサンは、煙草の吸殻で砂浜を汚さないように、そって手でもみけしてポケットにしのばせた。


「詩」のある風景
 
 「白子ラクダの国」を出て、再び波乗り道路に乗る。
 窓から流れ込む風が、さすがに冷たさを増している。
 ラジオのジャズが切れぎれに耳にとどく。

 

 車を走らせながらも、オジサンとラクダたちの人なつっこい顔が脳裏を離れない。
 
 たぶん、あのさびしさの中には、“詩” があったのだ。
 時代に置き去りにされたものが、静かに「終わり」を待っていることの寂寥感が、無性に詩心を刺激する。

 

 今はさびれても、かつては子供たちを楽しませたという記憶を温めながら、誰も来ない場所で、ひたすら客を待ち続けるオジサンとラクダ。
 彼らにとって、人を待ち続ける1日は、どのくらいの長さに感じられるのだろうか。
 身勝手な「旅人」である私には、そのへんの感覚がつかめない。

 

 蒼茫と暮れゆく外房の海。
 夕陽が淡々と、前に広がる道路を染めていく。