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ゴジラのシルエットに日本の美学を見る

映画批評 

  

 1954年。
 初代ゴジラが誕生したとき、私は4歳だった。
 だから、リアルタイムでは、この記念すべきゴジラ映画第一作目を観ていない。
 ただ、この初代ゴジラはたいへんな評判になり、たちまち絵本や漫画はおろか、メンコ、すごろく、かるたなどの当時の子供用玩具の一大テーマとして市場にあふれた。

 私も親に かるた を買ってもらった。
 はじめて見るゴジラの姿は怖かった。
 怖いが魅せられた。

ゴジラかるた

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 映画『初代ゴジラ』こそ封切り時には観なかったが、2作目の『ゴジラの逆襲』(敵役としてアンギラス ↓ が出る)は観に行った。
 怪獣映画の大ファンとなった。

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 『空の大怪獣ラドン
 『モスラ
 『地球防衛軍』(モゲラという怪獣型ロボットが出る)
 50年代の怪獣映画はほんとうに面白かった。

 ゴジラファンであった私だが、歴史的な記念作ともいえる『初代ゴジラ』を観たのは、実はつい最近なのである。
 2009年に、書店で『東宝特撮映画 DVD コレクション』(990円)というのを購入し、制作されてから55年経って、ようやく『初代ゴジラ』を観ることができた。

▼ 『初代ゴジラ』ポスター

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 圧倒された。
 映像表現としては、最近の巧妙なCGによって造形される怪獣映画やSF映画などとは比べようもないほど稚拙。
 なのに、ゴジラの放つ存在感は、それ以降のどんなゴジラ映画よりも際立っていた。

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 ゴジラという生物はいったい何なのか。
 1954年の『初代ゴジラ』においては、たぶんスタッフたちも、そして役者たちも、撮影が始まってから、ようやくゴジラのケタ外れのスケール感に気づいたのだ。
 だから、ゴジラの存在に圧倒された役者たちの表情は、もう演技ではない。
 あれは、ホンモノを観てしまった者たちだけが見せる怯えの表情だった。 

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 さて、それから約60年経って登場した、2016年の『シン・ゴジラ』。
 リアル感でいえば、ゴジラ映画の最高傑作といえる初代『ゴジラ』をあっさりと抜いた。

 最新のCG技術によって作り出されたゴジラ像は、とにかく映像が鮮明。
 ディティールが緻密。
 映画には “臭い” というものがないのに、まるで深海から上がった海洋生物の腐臭が漂ってきそうなほど、リアルなのだ。

 

▼ 最新兵器を駆使した自衛隊の攻撃にもびくともせず、鎌倉に上陸したゴジラ多摩川を越える

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 シン・ゴジラにおいて、なによりも美しいのは、そのフォルムである。
 歴代ゴジラのなかでも、このシン・ゴジラのシルエットは最高のフィルムを獲得している。

 特徴的なのは、ティラノザウルス風の短い前足。
 この小ぶりの前足のために、上半身を細目に絞ることが可能になり、安定した二等辺三角形のフォルムが生まれるようになった。
 それこそ着ぐるみではなく、CGで造形したことのメリットがもっとも生かされた部分といえるだろう。 

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 それにしても、ゴジラの造形には、なにやら日本的な美学が感じられる。
 シン・ゴジラのフォルムの美しさは、戦艦長門や大和などに代表される日本型戦闘艦のフォルムにも似ているのだ。
 長門などには、「パゴダマスト」とも呼ばれる重厚に積み重なった独特の艦橋が配置されていたが、(実戦的効果はともかく)、そこには日本型戦艦だけが持つ独特の美学があった。

戦艦大和

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長門の “パゴダマスト”

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 海を横切って上陸するゴジラ(↑)は、まさに、現代によみがえった日本型戦艦そのものである。

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 このフォルムの美しさは、やはり2014年のハリウッド製『ゴジラ』には見られなかったものだ。

 ハリウッド製ゴジラは、ずんぐりむっくりしていた。
 日本のゴジラがスマートな「ゼロ戦」フォルムだとしたら、ハリウッド製ゴジラは、ぼっこりした「グラマンヘルキャット」だ。

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 それに比べ、シン・ゴジラのシルエットは、伝統的な日本の城塞建築にも通底している。
 階上に行けば行くほど、スリムにそそり立つ天守閣。
 その細身の天守閣を堂々と支える “たくましい下肢” を思わせる基底部の石垣。
 シン・ゴジラは日本の美そのものだ。

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 とにかく映像的な迫力では、2016年の『シン・ゴジラ』はこれまでのゴジラシリーズの最高峰であるかもしれない。
 しかし、あの記念碑的な『初代ゴジラ』(1954年)と比べると、何かが足りない。
 それは何だろう?
 
 不条理感である。
 「わぁ、この世にこんなことがあってよいものかぁ !? 」
 というような、頭が混乱して、思考停止を招くような不条理感が、この『シン・ゴジラ』には欠けている。

 だからスクリーンの中で、ゴジラが重量級の猛威をふるっていても、そこにあるのは、予定調和の「破壊」と「恐怖」と「喪失感」にすぎない。

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 たぶん制作者側が、ゴジラの暴虐に対し、東日本大震災のアナロジーや、核開発への警告といったメッセージを匂わせたかったからだろう。
 その分、理屈の部分が勝ってしまって、不条理感は後退した。  

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 今こうやって改めて、「初代ゴジラ」と「シン・ゴジラ」の映画としての出来映えを比較してみる。

 映像的なリアル感で圧倒しているのは「シン・ゴジラ」の方であることは、もう言うまでもない。
 しかし、ゴジラという存在が人間に与える「怖さ」という点において、けっきょく「シン・ゴジラ」もやはり「初代ゴジラ」(写真下)の足元にひれ伏したな … という思いがある。

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 それに一役買っているのが、初代ゴジラの「モノクロ」映像である。
 全編が、闇に閉ざされたような重苦しい白黒の画像。
 その闇の中を、闇よりも濃いゴジラの姿が自衛隊のサーチライトなどを浴びてヌルッと浮かび上がる。
 それはもう「怪獣」ではなく、地上に降臨した「神の影」である。

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 ゴジラは、東京の繁華街を破壊しながら、内陸部へと向かう。
 そのとき堅牢なビル群が次々と灰燼に帰す。
 しかし、そこには意外といっていいほど静けさが漂っている。
 普通のパニック映画なら、ビルが倒壊するときの衝撃音がここぞとばかりにとどろきわたるはずなのに、どのビルも、ゴジラという「神」の裁きをしょう然と受け入れる旧約聖書の民のように、沈黙を守ったままひれ伏すように倒壊していく。
 
 その光景は、厳粛であり、神秘的であり、絶対的である。
 それは、人間の意識に舞い降りる「畏れ」というものが何であるかを説く映像でもある。
 

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 このようなゴジラの神々しさを、けっきょく「シン・ゴジラ」といえども乗り越えることができなかったような気がする。