映画批評
インド映画というものを、はじめて観た。
なんともいえない不思議な感興を覚えた。
映画名は『バーフバリ』。
2015年に制作された歴史ドラマの意匠をまとったファンタジーで、ハリウッド作品の系列でいえば、『コナン・ザ・グレート』(1982年)、『プリンス・オブ・ペルシャ』(2010年)、『ザ・ヘラクレス』(2014年)、『キング・オブ・エジプト』(2016年といったヒロイック・ファンタジーの部類に入る。
つまり、古代史に題材を取った話のようでいて、いつの時代なのかはまったく不明。主人公も実在しない。
ただし、史実の制約を受けないために、破天荒で荒唐無稽な設定が可能となり、CGが発達した現代映画に最も適した題材となる。
で、このインド映画の『バーフバリ』。
ストーリーはシンプル。
古代インドの架空の王国で、善と悪を代表する2人の王子が王位継承戦を戦い、悪の王子がいったんは王国を手中にするも、善の王子が親子二代で王位を奪還。最後は架空の王朝に平和と繁栄をもたらすという話だ。
設定は単純だが、高度なデザインワークを施されたCG画面には、それまでのハリウッド製ファンタジーにはなかった独特の世界観が横溢し、まさに欧米文化とは異なる進化系を歩んだ、“インド文化” の巨木を仰ぎ見るような気分になる。
本国インドでは歴代興行収入NO.1を樹立し、海外でも高い評価を受け、2015年に第63回ナショナル・フィルム・アワードの最優秀作品賞、最優秀視覚効果賞を受賞したという。
あまりの評判に、2017年には、2作目として『バーフバリ 王の凱旋』が公開され、インド映画界では、1作目を上回るほどの空前の大ヒットとなった。
日本においては、最初は小規模な上映で短期間に終わるはずであったが、観客たちがSNS上で大絶賛するうちに、口コミの評判が拡大。上映館も増え続け、ロングランとなった。
… というエピソードだけは耳にしていたので、BSテレビのWOWOWで1作目と1作目が続けて放映されたとき、ハードディスクに録画して観た。
かなりの衝撃を受けたので、それぞれ2度ずつ観た。
2作目の『王の凱旋』などは、3度観た。
何が面白かったのか。
ストーリー展開も特撮のギミックも、我々がさんざん見尽したハリウッド製ファンタジーとほとんど変わらない。にもかかわらず、ここには200年程度の歴史しか持たないハリウッド映画には表現することのできないインド文化3,000年の世界観が凝縮している。
“インド文化の世界観” とは何か?
それは、「世界には歴史がない」という圧倒的な主張である。
「歴史」というのは、キリスト教的世界観に代表されるように、人類史を直線で捉えたときに浮かび上がってくる概念である。
つまり、キリスト教の世界観では、神が天地と人間をつくってから「最後の審判」に至るまでの直線的時間概念が「歴史」となる。
それに対し、インド人の世界観は「円環構造」をなしている。
いわゆる「輪廻転生」。
この世には、始まりも終わりもなく、世界は永遠に続くかと思えるほど巨大な輪を描いて回っている。
新しく生まれた人も文化も、ぐるりと回ってもとに戻り、再び始原の光彩と破滅の闇に呑み込まれていく。
つまり、『バーフバリ』というインド映画は、欧米人がなじんできたキリスト教の直線的歴史観の否定から生まれている。
実は、この映画に関しては、「いつの時代のいつの話なのか分からない」ことこそが、話のリアリティーを保証しているのだ。
つまり、この架空の王朝と架空のヒーローは、何万年・何億年も同じことが繰り返されるインド的世界観そのものを表現しているといってよい。
事実、この映画で語られる「王の凱旋」というのは、いったん “死んでしまった” 主人公が凱旋する話である。
つまり、殺されたヒーローの息子が新しいヒーローとなって、“凱旋” するわけだ。
同じ役者が演じるのだから、親も息子もまったく等身大の同一人物として描かれることになるが、それは「輪廻転生」を果たした人間のストーリーとして、ごくごく自然に進んでいく。
さらにいえば、ここには、欧米映画のようなリアリズムがない。
あらゆるものが様式化されている。
戦闘シーンも、歌舞伎の殺陣(たて)を思わせるごとく様式化されているし、恋が進展していくさまも様式美に貫かれている。
登場人物のセリフも表情の作り方も、日本の歌舞伎や中国の京劇のように様式化が目立つ。
だが、不思議なことに、それこそが、“インド的人間描写” だと思わせるような説得力があるのだ。
そこには、「歴史」を欠いたものは、すべて様式化されるという不文律が貫かれている。
「歴史意識」は、リアリズムから生まれる。
「何が正しい現実なのか?」という洞察力の支えがなければ歴史意識は育たない。
しかし、「歴史」を必要としないインド的世界観においては、人間もまた様式化された存在に過ぎない。
インド映画に「歌とダンス」が多いのは、それこそが、様式化された人間を最も美しく見せるからだ。
インド人は、数字表記の「0(ゼロ)」という記号を発見した民族として知られている。
しかし、「ゼロ」の発見は、単なる数字表記の問題として片づけられない。
それは、彼らの哲学そのものを語っている。
すなわち、「ゼロ」とは、どんなに実証的な価値を積み上げても、それがそのまま文化的資産とはならず、最後はすべてが始原の「無」に戻るという、彼らの円環的な世界観そのものを象徴している。
現在、アメリカのシリコンバレーなどで、インド系の研究者が独特のIT 学を打ち出すことができるのは、こういう発想がベースにあるからではないか。
つまり、常に「ゼロ」と「1」しかない2進法によるデジタル的演算は、全世界を「オール or ナッシング」として捉えるインド的世界観と親和性が高いからだ。
「ゼロ」の思想は、インド宗教においては「シヴァ神」として描かれる。
シヴァ神は、ヒンドゥー教においては、「創造」と「破壊」を司る神として位置づけられているが、「創造」と「破壊」こそ、まさに「ゼロ」の思想に他ならない。
ゼロは、すべての物事の “はじまり” であり、同時に “終焉” であるからだ。
それは、そのまま世界が円環構造をなしていることを表現している。
▲ シヴァ神
こういう直線的な「歴史」を否定する文化が形成されると、その文化圏における人類の歩みは、自然に「神話」に接近していかざるをえない。
インド神話では、常に神々の戦いがテーマとなるが、そこに参戦する神々の勢力は常に何千万、何千億という膨大な数にのぼる。
そして、その戦いは、けっして決着することなく、未来永劫繰り返される。
同じように、人間同士の戦いの記述も、一つの戦いで何千億人動員されたか分からないような荒唐無稽な記録しか残らない。
そしてそれは、いつの時代に始まったことなのか、正確な記述で裏付けられることはない。
こういう歴史感覚は珍しい。
ヨーロッパ人も中国人も、歴史記述の客観性を重視した。
しかし、インド人は客観性よりも「物語の壮大さ」を好んだ。
すなわち、神々の「栄光」と「怒り」と、人類の「理想」と「狂気」を劇的に語ることの方に重きを置いた。
この “歴史レス” の感覚も、『バーフバリ』のようなインド的ファンタジー映画に、逆に奇妙なリアリティーを与えている。
つまり、バカバカしいほど荒唐無稽であるがゆえに、そこにインド的世界観の重みがノシッと降りかかってくるような気がしてしまうのだ。
この映画の映像にも音楽にも、ハリウッド製ファンタジーからは得られないエキゾチシズムが漂っている。
なにしろ、象の描き方がうまい。
何千年もかけて、使役や戦いに象を飼いならしてきた民族ならではの映像が生まれている。
音楽も、土俗的な香りと現代ロックの最先端が融合するようなサウンドで魅せられる。
インド映画が持っている世界は豊穣だ。