自分の生き方にふと迷いが生じたり、思考が行き詰まったり、周りの状況が霧に包まれてきたように感じられたときは、必ず読み返す本がある。
『畏怖する人間』(1972年)
『意味という病』(1975年)
『マルクスその可能性の中心』(1978年)
の3冊だ。
著者はいずれも柄谷行人(からたに・こうじん)氏。
初版が発表された年を付記したのは、すでに40年前に書かれたものが、いまだに私の頭脳と感性を鍛錬する指針になっていることに、自分自身が驚きを禁じ得ないからである。
もちろん、これらの初版が世に出た1970年代、私は著者の名前を知りもしなかった。
その時代、私が読んでいたのは、吉行淳之介の恋愛小説だったり、塩野七生の歴史物語だったり、つげ義春の漫画だったりした。
柄谷行人を読みだしたのは、いずれも1980年以降。
浅田彰の『構造と力』(1983年)が世に出て、現代思想(ニューアカデミズム)ブームが沸き起こってからだ。
柄谷行人はその時代に、浅田彰、蓮実重彦、中沢新一、岸田秀、栗本慎一郎、山口昌男などと並んで脚光を浴びたいわゆる “ニューアカ系知識人” の一人だった。
ただ、いきなり柄谷氏の著作に向かったわけではない。
実際に読み始めたのは、上記の人々の著作を読んだ後だった。
ニューアカブームの牽引者となった浅田彰の『構造と力』は、自分のお粗末な読解力では十分に咀嚼できなかったが、彼が流行らせた「リゾーム」、「ツリー」などといったフランス哲学経由のターミノロジーの新しさには幻惑された。… 今は恥ずかしくて、そのような言葉をまったく使う気にならない。
その時代、彼らのなかでも、分かりやすくて面白いと思えたのは栗本慎一郎と岸田秀、山口昌男の3氏だった。
最初のうちは、この3人の書いたものに大いに啓発され、仕事として、栗本慎一郎氏には原稿を書いてもらったこともあるし、岸田秀氏と山口昌男氏には直接会ってインタビュー記事をまとめたこともある。
だが、今それらの方々の著作を読み返すことはない。
よくいえば、その方々の著作はすでに自分の体内に血肉化されており、思考回路の一部に組み込まれているからだ。
あえて失礼な言い方をすれば、もうそこには何の発見もないからだ。
ただ、柄谷行人の初期の作品だけは、読むたびに新しい刺激を汲み取ることができる。
なぜかというと、氏のそれらの初期作品群には、人間を “人間” たらしめているものへの省察が無数に散りばめられているからだ。
つまり、人間を「人間」にしているものは、実は、人間には知覚できないもの、人間に認識できないもの、人間が思考を働かせても近寄れないものなのだ、ということを示唆し続けている。
言葉をかえていえば、柄谷氏は常に人間の意識、知覚、思考の磁力を離れた “外部の世界” を凝視しようとしてきたともいえる。
氏は『畏怖する人間』において、主に夏目漱石の著作を通じて、漱石が日常的に感じていた実存的な不安の正体を見据えようとした。
『意味という病』では、シェークスピアの『マクベス』を採り上げ、主人公のマクベスが「運命」として受け入れようとしたものの正体を凝視した。
そして、『マルクスその可能性の中心』においては、マルクスの『資本論』を、従来の経済的分析から大胆に切り離し、文芸批評の視点を導入して、マルクスの価値形態論にメスを入れていく。
その過程で、氏は、不可解な運動を繰り広げる「貨幣」という存在に魅せられていくマルクスに自分を重ね合わせ、貨幣がはらむ謎の “美しさ” に目を凝らす。
このように、本来なら哲学や経済学のテーマとして扱う分野のものを、文芸評論のスタイルで取り組んだ柄谷氏の初期3部作は、それ自体がすでに人を酔わせる “文芸” そのものであった。
その文体は、乾いた抽象性をはらみ、ときとして鋭利な切れ味と優雅な反りを持つ日本刀の造形をイメージさせた。
彼は、後に原理論的考察を深め、『隠喩としての建築』(1979年)、『原語・数・貨幣』(1983年)、『内省と遡行』(1985年)、『探求』(1986年)などといった一連の哲学的著作に力を入れていくようになる。
しかし、それらにおいても、柄谷氏の目指すものは一貫していた。
いわゆる “知識人” たちがものを考えるときに、その前提とする「合理的客観世界」というものの無根拠性が繰り返し説き続けた。
人間の「情緒」とか「直感」というものは、あいまいであるがゆえに、理詰めでたどりつく結論を、最後には必ず裏切っていく。
そういう「情緒」とか「直感」はどこから来るのか。
誰もそれを見通すことはできない。
今でいう、脳科学でもAI でも解明できない。
しかし、そういう不透明な “靄(もや)” のようなものの奥に、実は「人間の真実」が隠れている。
そして、その “靄” を合理の世界で吹き払おうとすると、逆に何も見えなくなってしまう。
柄谷氏の著作には、常にそのことをめぐる眩暈(めまい)のような驚きがある。
これは私流の解釈なのだが、彼はこのとき、カントのいう「サブライム(崇高)」という概念に近いものをイメージしていたのではないかと思う。
柄谷行人の80年以降の著作が初期作品と異なるのは、理詰めの世界が常に現実を裏切っていく過程を、“文学論” の手法で説くのではなく、言語や数といった “物事の構造を支える原理的基盤” の深部に遡行し、それが根本のところで瓦解していることを証明するという「脱・構築」(ディコンストラクション)の手法がとられたことだった。
「普遍性」というものの無根拠性を示すためには、その手法に普遍性がなければならないというのが、この時期の柄谷的問題意識の核心であった。
もちろん、この時代の大半の書籍にも私は目を通している。
しかし、何度も読み返す本ということになれば、やはり冒頭の3冊に戻っていく。
それが自分の感受性を広げてくれる原点だと思うからだ。
象徴的な表現をすれば、私は彼の初期3部作から、
「論理のなかに、“論理化できないもの” の手応えが隠れている」
ことを学んだ。
「言語のなかに “言語化できない美しさ”」
が潜むことを知った。
「謎を解明するよりも、“謎そのもの” が価値を持つ」
ことを覚えた。
それは、柄谷行人が常に、人間の「心理」とか「意識」ではとらえることのできない実存的な感覚、すなわち「人間の思考」の外に広がっている世界への眼差しを持っていたことに由来する。
人間の思考の外に広がる世界というのは、神秘的な超自然現象でも、人間の意識化に眠る深層心理でもない。
ましてや、単純な意味での「宗教」でもない。
「超自然」や「深層心理」というのは、人間の思考ではキャッチできない神秘の世界を開示していると思われがちだが、実はそういうものこそ「人間の思考」によって発見されたものにすぎない。
そうではなく、人間の思考や心理をいかに掘り下げようが、けっして言語化されることのない世界。いわば言葉そのものではなく、言葉が山の斜面に乱反射し、「残響(エコー)」としてしか確認できないようなもの。
柄谷氏が、漱石や、シェークスピアや、マルクスを論じる初期作品で一貫して凝視しようとしているのは、そのような世界だ。
“漱石論” を中心に構成された『畏怖する人間』のなかには、漱石の『道草』からとった次のような引用文が出てくる。
「或る日、彼( ← 主人公の健三)は、誰も宅(うち)にゐない時を日計らって、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければ已(や)まない其(そ)の強い力が二の腕迄(まで)伝はった時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。さうして翌日静かになった水面に浮いてゐる一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった」(『芥川における死のイメージ』)
漱石が『道草』で書いたこの文章は、『畏怖する人間』のなかでは、章を変えて繰り返し引用される。
それだけこの個所は、漱石を語ろうとする柄谷氏にとって大事な意味を持っている。
氏はこの文を引用したあと、次のようなことをいう。
「健三がこのとき感じた気味の悪いものこそ、漱石がずっと追求していた “自然” であった」
ここで出てくる「自然」という言葉は、われわれが日頃使っているような「人工(アーティフィシャル)」に対する「自然(ネイチャー)」といったようなものではなく、“人間の意識の外に広がる非存在の闇” と説明される。
つまり、上記の引用において、健三(つまり幼い漱石)が怖がったのは、すでに “緋鯉” ではない。
緋鯉を超えるもの。
すなわち「人間の意識の外に広がる非存在の闇」だったのだ。
そして、柄谷は、この緋鯉のエピソードについて、
「ここには、超越性とはまったく無縁のフィジカル(物質的)なことしか書かれていないのに、健三の自己完結的な意識をうち破って、フィジカルな世界がそのままメタフィジカルなものに変容する瞬間がとらえられている」
という。
そして、こうもいう。
「漱石は “自然” という言葉によって、超越性をもった何かを語ろうとしたが、それは “神” でもなければ “天” でもなかった。漱石は超越性を物の感触、いいかえれば生の感触を通してしか見い出そうとしなかった」
そして、そういう認識は、(実存主義文学者の)「サルトルが小説の『嘔吐』で “吐き気” と呼んだものと同じである」とも。
このように、初期の柄谷行人の眼差しは、常に “人間の意識の外に広がる非存在の闇” に向けられていた。
そして、そういう柄谷作品を再読することによって、私もまた「自分の意識の外に広がる非存在の闇」を見つめることになった。
「非存在の闇」とは何か?
それは私にとっては、ルーティン作業を繰り返していた自分の脳が、ある瞬間に覗き込んでしまう「意識の亀裂」のことである。
そして、それを覗き込むことは、ルーティン化された自分の思考回路の外に飛び出すことになる。
人類学者のレヴィ・ストロースは、自分が抱えている問題に取り組む前に、必ずマルクスの『ブリュメールの18日』か『経済学批判』の何ページかを読んで、自分の思考に活気を与えてから作業に取り掛かった、といわれている。
レヴィ・ストロースにとって、“マルクスの何ページか” というのは、常に思考に刺激を与え、新しい何かを発見をもたらすものだったのだ。
私にとっては、それが柄谷行人の初期3部作である。
自分の脳がブラックホールのような闇を抱えていたという発見は、恐ろしくも魅力的な体験だ。
宗教家は、それを「啓示」というかもしれない。
アーティストや文学者は、「ひらめき」というかもしれない。
いずれにせよ、生まれたばかりの「言葉」が、まだ言葉の形をとらずに宙に浮いている状態をいう。
それをうまくつかめるのか、つかめないのか。
その危うい “試み” のなかに、文章を書くことの愉楽が潜んでいる。