一応、文章を書いたりする仕事に就いているので、「解りやすく書く」ということを最も優先的に考えている。
しかし、最近「解りやすい文章」というものに対して、どうしてもスッキリとうなづけない自分がいる。
つまり、「解りやすい文章」というものには、どこか限界があるのではないか、と思うようになってきた。
もちろん、すべての文章に対して、そう感じているわけではない。
普通の文章は、当然、解りやすい方がいい。
難しい概念を、専門用語などを使わず、素人が読んでも、すんなり頭に入るような文章を書けないプロがいたとしたら、それは「プロ」とはいえない。
しかし、ある種の特殊な文章。
たとえば、哲学とか思想とかいう文章では、時に「解りやすい」ことが、読者の想像力の飛翔を妨げることもある、ということに気がついてきた。
不思議なもので、「難しい」と頭をひねるような文章に接し、それと格闘するときに湧いてくるエネルギーによって、人は、いままで思いも浮かべなかったイマジネーションを授かることがあるのだ。
そしてそれが、時として、オリジナルの文章を理解することよりも大事な場合がある。
逆にいうと、ある種の難解な文章というのは、“想像力を活性化させる” ためだけにあるといっても過言ではない。
文化人類学者のレヴィ = ストロースは、自分の研究テーマに取り組む前に、必ずマルクスの著作の数ページを読んだという。
彼はいう。
「私は、社会学や民俗学の問題に取り組むときには、ほとんどいつも、あらかじめ(マルクスの)『ブリュメール18日』や『経済学批判』の何ページかを読んで、私の思考に活気を与えてから、自分の問題にとりかかるのである」
(『悲しき熱帯』)
レヴィ = ストロースは、“マルクス理論” を自説に取り込もうとしたわけではない。マルクスの文体・表現・その筆使いから、インスピレーションを得ることを期待したということを意味する。
もちろん、すべての思想書がそういう力を秘めているというわけではない。
書き手による。
「現代思想界の巨人」と讃えられた人のものであっても、ただ難解なだけで、いくら読んでも、まったく想像力を羽ばたかせてくれない文章というのもある。
むしろ、そういう方が多い。
ただ、今に残る「古典」といわれるような人文系思想書の場合は、内容が高度に抽象的なために、すぐには頭の中に入らないことがあっても、必ずトンネルの向こう側から光が差し込んでくるようなパワーを持っているものである。
一般の人がよく誤解する言葉に、「抽象的」と「具体的」という言葉がある。
普通、「抽象的」という言葉は、悪いように使われることが多い。
“頭の中だけでこねくり回したもの” … つまり、「内容が伝わらない」という意味あいの表現として使われる。
それに対して、「具体的」という言葉は、「解りやすい」ことの別表現として肯定的に使われる。
しかし、そういう見方は一面的なものにすぎない。
極度の抽象性は、時として、具体的なもの以上にリアルな手触りを持つことがあるからだ。
「リアルであること」は、「具体的」であるとか「抽象的」であるということとは関係ない。
抽象的な表現でしか到達できない「リアルさ」というものもあるのだ。
どこで読んだか忘れたけれど、ドストエフスキー(写真上)の信仰を解説した本の中で、
「ドストエフスキーは、非ユークリッド幾何学の “二本の平行線は無限遠点で交わる” という知識を得て、神の存在を直感した」
という記述に出合ったことがあった。
▼ 二本の平行線をイメージさせる鉄道のレール
もちろん、それは「平行線はどこまでも平行に伸びる」という古代ギリシャのユークリッド幾何学の公理をくつがえした幾何学上の問題にすぎない。
しかし、そこに神学的な問題を見出したドストエフスキーの感性には圧倒された。
今そのことに触れた原典を探したけれど、ちょっと見当たらないので、それが正しい記述であるのかどうか自信がないけれど、それは自分にとってものすごい “リアルな” 表現に感じられた。
その文章に、ものすごくイマジネーションが刺激されたのである。
このドストエフスキーの記述を、解りやすく書き変えることは、ほとんど無意味である。
丸ごと、それを受け入れるしかないように思える。
そして、そこにこそ、想像力をはばたかせるためのジャンピングボードがある。
逆にいえば、「解りやすく書く」ということは、何か大事なものを、それと気づかず削り落とすことである。
一時期『超訳ニーチェの言葉』とか、『超訳ブッダの言葉』などという本が話題を呼んだが、そういうものはどうなんだろう?
それらは、「難解な哲学を、解りやすく訳した」という触れ込みで出版された本であったように思う。
読んでいないから何もいえないが、解りやすくしちゃうことに意味があるのかどうか、私はそういう発想に懐疑的である。