▲ 日暮し
人間にとって、いちばん恐ろしいのは「恋愛の終焉」の場に立ち尽くすことである。
もちろん、戦争や災害、食糧難による飢餓は恐ろしい。
「今は細々と食っていけるけど、明日は食えなくなるかもしれない」という経済危機や雇用危機の方が、確かに「失恋」より深刻かもしれない。
しかし、世の文学者や心理学者がいうように、恋愛が「自我の投影」であるならば、自我を投影した相手が自分から離れていくことは、すなわち自我の崩壊であり、いってしまえば「この世の終わり」である。
一人の人間が、薄暗い部屋の中で、電灯もつけずに「失恋」を噛み締めるとき、地球温暖化の不安も、金融危機も、雇用不安も、ウイルス汚染も、身の周りの社会的事象が、すべて頭の中から消えている。
そして、そのとき沸き上がる妄想は、ときに、相手を殺そうという意志に発展するかもしれず、あるいは、自分の生を、自分で絶つ決意につながるかもしれない。
だから、失恋をテーマにした歌は、時として、鬼気迫るような「怖さ」を宿すことがある。
そのことを端的に表現した歌がある。
70年代に活躍していた「日暮し」というフォーク・グループが歌った『うでまくら』(1979年)という曲だ。
日本語で歌われた曲のなかで、これほど怖い歌を、私はほかに聞いたことがない。
ここには、恋愛の終わり、… いわば「この世の終わり」が、それらしい言葉など一言も使わずに歌い込まれている。
歌詞は、次のようなものだ。
♪ ねえ、あなたの話は寂しくて
雲の切れ間から、雨さえポツン
ひとつここらで、話題を変えて
昔のことでも話しませんか
不意に巻き起こる、遠い日の影
忘れられない、あの暑い日に
あなたの腕枕で見た空の青さ
あなたの心がもう見えない
ひとつここらで、指切りはいかが
あの頃のふたりに戻れるように
さっきから話は、尻切れたまま
流れる人波、あなたはうわの空
水しぶき上げて、車が通る
飛びよけた私から、あなたがこぼれた
あなたの腕枕でもう一度だけ
夢を見させて、愛の眠りで
あなたの心が見えるように
作詞・作曲 武田清一
日暮しのサウンドの特徴は、透明度の高い叙情性にある。
ヴォーカルを務める榊原尚美の声質に依るところが大きいのだが、高原の林の隙間から眺める湖のような、純度の高い清涼感が彼らの持ち味となっている。
それは、時として、望郷の念に人を駆り立て、時として、異国の空の下を旅するような新鮮なときめきを呼び覚ます。
彼らの歌には、常に前方に向かって開かれた世界が描かれている。
だが、この『うでまくら』で歌われた世界は、見事に閉じられている。
歌詞を読んで分かるとおり、これは、男の気持ちが分からなくなった女性の立場をうたった歌だ。
かつてあれほど愛しあった二人の記憶は、今はどこにいってしまったのか … という「絆の喪失」がテーマになっている。
しかし、二人の関係は、まだ終わったわけではない。
あくまでも、「相手が去りつつある」という予感だけが、影のように漂っているにすぎない。
だが、実は、こういう状況がいちばん苦しいのだ。
相手は、まだいる。
自分の目の前に。
しかし、その相手は、声は出しても、語ってはくれない。
瞳はあっても、自分を見ていない。
触っても、冷たい彫刻のようになっている。
主人公の女性は、たまりかねて、言う。
「ねぇ、あなたの話は寂しくて」
何が寂しいのか?
それは、彼の話が、コミュニケーションとしての会話ではなくて、沈黙を埋めるためのモノローグになっているからである。
声だけは発しているが、そこには、語るべき相手に気持ちを届けようという意志がない。
それは、女にとって、ラジオから流れ出るアナウンサーの声を聞いているようなものだ。
それでも彼女は、“人の形をしたラジオ” に向かって、必死に語りかける。
「ひとつここらで、指切りはいかが?」
何を誓うために、指切りをしようというのか。
「あの頃のふたりに戻れるように」
しかし、彼女には、自分が求めている「指切り」そのものが、すでに空しいことに気がついている。
♪ … 流れる人波、あなたは上の空
水しぶき上げて、車が通る
跳びよけた私から、あなたがこぼれた
こぼれる … とは、もはや人間の存在を示す動詞ではない。
男が、ついに 「物」 になった瞬間が、そこに描かれている。
ここには、血のぬくもりを失った “異形の物体” が、じわっと浮上するときの 「不安」 が歌われている。
かつて愛した相手が、ただの「物」に変わる。
「世界の終わり」とは、このことを指す。
日暮しにしては珍しい、いや、日暮しだからこそ表現できた、哀しく、恐ろしい歌であるように思う。