四季の中で、いちばん寂しい季節は、秋でも、冬でもなく、夏だ。
草原も樹木も、燃え立つような生命感をみなぎらせる夏。
空と海が、限りなく膨張していくような解放感を漂わせる夏。
しかし、だからこそ、ちょっとした陽の陰った軒先や、光り輝く樹木の葉の裏を黒ぐろと染める影には、どことなく、一足早い夏の終わりを匂わせる気配が立ち込める。
夏のいちばん美しい瞬間は、燃え立つ陽光の中に、終末の影が通り過ぎていく時に訪れる。
「明るく、美しい。だからこそ、はかない夏」
それは、
「幸せというものは未来永劫続くはずなどないのだ」
という、人間が古来よりつちかってきた智恵が招き寄せる詠嘆なのだ。
竹内まりやの『夏の恋人』は、まさにそのような「はかない夏のいとおしさ」を謳った歌である。
▼ 竹内まりや 「夏の恋人」(1978)
この歌には、寂しさや悲しさを表現した箇所はひとつもない。
むしろ、全編が、恋の予感を楽しむ若者の喜びに満たされている。
しかし、この歌の美しさそのものが、実は「終末の予兆」を背景に浮かび上がってきたものであることを見逃してはならない。
それを、何よりも物語っているのが、この心地良い「けだるさ」だ。
プールに反射する陽のきらめきを思わせるギターの響き。
そして、退屈なまでに同じ音を繰り返す潮騒の音をアレンジしたような、エレピとサックス。
しかし、それは恋の予兆にときめく人間の歌ではなく、すでに恋の成就のあとに訪れる心地良い疲労感に身をゆだねている人間の歌だ。
つまり、そこには、幸せの絶頂にいながらも、さざなみのように静かに迫り来る終末の予兆を見つめている人間の心が歌われている。
歌詞をたどってみよう。
「こぼれたワイングラスに、浮かぶしずくが光って … 」
「まるで、いつか観た映画の中のひとコマみたいね」
「不意に風が止まる、それは愛の始まりの静けさ」
どれも甘いときめきの中にまどろむ幸せな人間の心理を歌っているように思える。
しかし、
「こぼれたワイングラス」
「いつか観た映画」
「風が止まる」
そこには、「愛が始まる」という歌詞とうらはらに、むしろ “終わってしまったもの” の影が、ひっそりと刻印されている。
だから、歌の中の主人公は、その不安を打ち消すように、
「きっともうすぐだわ、胸に迫る、まぎれもないハッピーエンド」
「見事なハッピーエンド」
と、自分に言い聞かせるように、繰り返さざるを得ないのだ。
そもそも、ハッピーエンドそのものが、すでに終わり(エンド)なわけだから、そこから先には、もう何もないのだ。
この曲には、夏の真っ盛りにたたずみながら、すでにその夏を、はかなく、いとおしく感じるという「終焉の場」から夏を振り返る視線が導入されている。
日本語で歌われた “夏の歌” で、これほど甘く切ない歌をほかに知らない。