無意味な論争
コロナウイルスの感染率が激増している状態を反映して、無益な対立が広まっている。
“世代間対立” といわれるもの。
「国家的緊急時だというのに、お花見や卒業旅行などに出かける若者が多いのはけしからん」
というシニア世代に対し、
「若者ばかり批判されるが、俺たちから見ると、老人の方が外を出歩いている」
という若者の反論が増えているという。
無意味な論争である。
「外出自粛」という政府や地方自治体からの要請を無視して外に出歩いている人たちは、若者においてもシニアにおいても、一定程度の割合で存在する。
それを、それぞれの世代が攻撃し合うというのは、無益であり、不毛である。
この不毛な対立を煽っているのは、マスコミである。
テレビしかり、ネットニュースしかり。
テレビなどの街頭インタビューでは、外出自粛の呼びかけにもかかわらず、繁華街を無防備に歩いている若者をつかまえて、年寄りを怒らせるような発言ばかりしゃべらせる。
「コロナが流行っているといっても、いまお花見しないと桜が散っちゃうから」
「自分たちの周りには一人も感染者がいないので、世間が騒ぐほど深刻な病気じゃないのでは?」
「計画していた卒業旅行をキャンセルすると違約金を取られるから、思い切って出かけました」
「今日は自粛しろといわれている日ですけど、友だちが地方から上京してきたので、会ってあげないと可哀想だし … 」
ワイドショーでは、家でテレビを観ている年寄りがカリカリするような若者の発言を次から次へと採り上げるが、実は、その大半はテレビ局の印象操作だと私は思っている。
おそらく、事態を深刻に受け止め、慎重な発言をしていた若者もいたはずである。
しかし、それでは面白くないので、そういう慎重論は編集段階でカットされてしまう。
当然、老人たちの批判は、コロナに無頓着な発言をする若者たちに向かう。
それに対し、若者も反撃しなければならなくなる。
「私たち若者を非難する老人は多いけれど、お年寄りだって、スーパーに殺到して物を奪い合っているし、居酒屋では年寄りたちが大声で笑い合っている」
実際に、最近は私もそういう光景をよく見かける。
街に出ると、若者だけでなく、あまりにも無防備な年寄りが多いことも事実だ。
この前、駅前のスーパーに買い物に出たら、着飾ったバアサン3人組が、
「こうコロナコロナといわれると、気持がクサクサしちゃうわよね」
「そうよ。気晴らしも必要よ」
と、唾を飛ばして騒ぎながら、いそいそと駅に向かって行くのを見た。
このように、社会の動向に無頓着な老人が多いのも事実だ。
しかしまた、そういう状況だけを切り取り、若者の不満が爆発していると誇張するのも、マスコミの印象操作にすぎない。
視聴者は、「どちらの世代が悪いのか?」などと詮索する前に、コロナの危機を乗り越えるためには、世代を超えた連携が必要だと思うべきである。
“コミュ力信仰” の間違った浸透
それにしても、若者も老人も、なぜ人に会わないと不安になったり、退屈したりするのだろうか。
私は、多くの日本人が、「孤独と向き合う耐性」を失ってきたのだろうと思う。
独りでいることに耐えられない脆弱な精神がはびこってきたのだ。
ここ30年ぐらいか。
特に平成になってから、日本人の間に、急激に「孤独状態」を悪いことだと決めつける風習が広まってきた。
「引きこもり」は病気であり、「友だちができない」ことは精神障害だと見なすような風潮が当たり前になった。
独身のまま年老いていく男女は「変人扱い」を受けるし、家族に看取られることなくアパートで死んだ老人は、「孤独死」という悲惨な言葉を与えられる。
そういう “孤独を悪” と決めつける風潮の高まりと波長を合わせるように、“コミュニケーション能力” というあいまいな能力が過大評価されるようになってきた。
人と円滑な関係を結ぶ能力は、確かに必要である。
しかし、多くの人は、“コミュ力” という言葉を、「人づきあいの多さ」と勘違いしている。
多くの人がイメージする “コミュ力” とは、インスタのようなSNSでいかに「いいね!」をいかにたくさん集められるかというような、自我の量的拡大のことしか意味していない。
だからこそ、人に会ってもらえないことが不安材料になる。
自我がしぼんで消え入りそうに思えるからだ。
本当のコミュニケーション能力というのは、相手の立場に立ってモノを考えられる能力のことをいう。
つまり、時には「いま相手に会うことはよくない」と判断する力のことでもある。
しかし、コミュ力のことを「人との付き合いの量」だと思い込んでいる人たちには、そういう配慮ができない。
こういう間違った “コミュ力信仰” が定着している間は、
「コロナの感染を防ぐためには、外で人と会うな」
と、いくら政府や自治体が言っても無駄である。
孤独への耐性はどうすれば得られるのか?
「孤独への耐性」を養うためには、いうまでもなく、「孤独状態」を楽しめるような感性が必要となる。
そういう感性はどこから来るのか?
「文化の力」がもたらすものである。
具体的には、好きな本を見つけて読書するとか、ネットで好きな音楽を探し出すとか、テレビなどの映画配信サービスで好きな映画を発見するとか。
もちろん、このブログ記事のひとつ前に書いた「ソロキャンプ」を楽しむなどということも大いに推奨できる。
要は、基本的に、「独りでいることが苦痛にならない」ものに熱中することである。
それは、すぐに身につくものではない。
実もフタもない言い方をすれば、幼少期の環境に左右されてしまう面も確かにある。
ただ、自分自身が文化的な環境で育った親は、子供に文化的な環境を用意してあげることも容易だ。
いつも母親の膝の上で絵本を読んでもらっていた子供は、その後、自分の力で面白い本を選び出す力を身につける。
その蓄積が、「孤独に対する耐性」をつちかう。
平成から令和にかけて、日本の家庭で失われていったのは、このような「孤独」を飼いならす技術であり、それがなくなったことによって増えたのが、「孤独」を恐れる心と、孤独に見える人をあざ笑う軽薄さである。