新型コロナウイルスの感染拡大が世界経済に与える影響が深刻化している。
日本でも、政府や自治体が呼びかける「週末の外出自粛」という通達によって、居酒屋やバー、クラブといった接客をともなうサービス業が壊滅的打撃を受けている。
多くの人が、「早くコロナ禍が終息してほしい」と願っていると思うが、このコロナ騒動は、脅威が消えたとしても、その後の世界を変えてしまう可能性がある。
すでに、
「コロナの蔓延が世界の資本主義を消滅させる」
などとぶち上げる論文さえ出てきた。
もちろん資本主義というのは、そんな脆弱なものではない。
しかし、資本主義が機能するためには、利益が右肩上がりに確保されるという条件が不可欠である以上、各国の産業構造が地盤沈下している現状では世界の資本主義が危機的状況に直面していることは間違いない。
そうはいっても、多くの資本家は楽観視しているだろう。
「このコロナ禍が未来永劫続くなんてことはありえない。感染拡大が止まれば、やがて経済も元に戻る」
と。
その通りだと思う。
しかし、そこで姿を現すのは、これまでと違った資本主義かもしれない。
少なくとも、生産、物流、販売、消費などという経済活動は、「コロナ前」と「コロナ後」に分けられるくらい大きく変わっている可能性がある。
すでに、街の「販売」と「消費」の間では、新しい試みがいくつも生まれている。
「テイクアウト」と「デリバリーサービス」だ。
コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、一時ピークを過ぎたと思われていたデリバリーピザの売上げがまた伸びているという。
繁華街の飲食店も、店内で飲食する来店客の減少を憂慮して、テイクアウトやデリバリーサービスに力を入れる店も増えてきた。
このように、すでに消費スタイルにおいては、店舗を介して店員と顧客が接触しないシステムが広まり始めているのだ。
テイクアウトやデリバリーサービスの対象となる商品の幅も増えつつある。
これまではパンやピザといった、持ち運びの簡単な食品が主流だったが、すでに中国では、運ぶことが面倒だと思われるラーメンのようなものさえ、デリバリーサービスの対象になってきたという。
いっぽう、デリバリーサービスやテイクアウトに適さない飲食関連の経営者のなかには、売り上げがジリ貧におちいる前に、別の業種にくら替えすることを検討し始めた人たちも現れているらしい。
様変わりし始めたのは、サービス業だけではない。
ビジネスの世界ではテレワークが急速に普及し始めているし、学業の場においても、教室に生徒を集めるスタイルから、オンライン授業に切り替えるところが増えてきた。
要は、人と人が密接に触れあう文化が後退し、人と人の間に距離を取る文化が生まれつつあるといっていい。
この傾向は、コロナ禍が収束した後に元に戻るかどうか微妙なところがある。
コロナ感染率が世界一高いアメリカでは、都市部においては人と人との距離を2mほど取ることが推奨され始めた。
この距離を「ソーシャルディスタンス」というが、今では世界中の人々がこの感覚に慣れ始めているという。
もちろん、このような人工的距離の空け方を、人々は最初不自然に感じたことだろう。
しかし、それが当たり前になると、逆に、これぐらいの距離を取った方が人間関係が爽やかになったと感じる人も出てくるはずだ。
そもそも動物には、「臨界距離」といって、捕食者から身を守るために他の動物とは一定程度の距離を保つ本能があり、それによって彼らは精神の安定と安心を手に入れている。
サルの仲間だった人類も、最初はそのような「臨界距離」を確保する動物だったのだ。
コロナの感染拡大は、人類に何万年ぶりの「臨界距離」の安心感を思い出させたといっていい。
人類がこういう感覚を身に付け始めると、「スキンシップ」といった言葉が含むニュアンスも変わる。
それは、単なる個体と個体の愛情表現を超えて、
「お互いにコロナから免れた者」
という “選ばれた人間同士” という意味を込めた言葉になる。
このように、世界中を大混乱に巻き込んだコロナ禍は、世界の政治・経済・文化を変えようとしているが、さらに宗教の領域すら変えてしまうかもしれない。
個人的に危惧するのは、このコロナの世界的脅威を、なにがしかの宗教的メッセージとして、過剰な意味合いを込めて語り始める人々が出てくるのではないかということだ。
アメリカの一部の宗教者あたりには、このコロナ禍を、
「神が人類に与えた試練」
などと喧伝する人たちが出てくる可能性がある。
もちろん、社会現象・自然現象をどのような世界観・宗教観で論じようともそれは自由なことだし、それによって人々が励ましと希望を得られるのならまったく問題はない。
しかし、アメリカ人の一部には、スピリチュアルなものに傾倒する傾向を強く持つ人がいる。
今はまだ多くのアメリカ人は合理的な判断でコロナに立ち向かっている。
だが、今後ウイルスの蔓延に歯止めがかからなくなってくると、ヨーロッパ中世の人々のように、「魔女や悪魔のしわざだ」などと言いふらす人々が出てくるかもしれない。
もちろん本物の宗教者のなかには、そういう見解を持つ人はいないはずだが、どんなところにも狂信者はいる。
それはちょっと嫌だと思う。
そういう狂信的な思考が、差別や偏見の温床にならないとは限らないからだ。
コロナウイルスの感染が今後も拡大していけば、近代を生きる人々の心に、再び中世的思考がよみがえる可能性がないとはいえない。