今回の話は、年齢的にいうと、70歳ぐらいのシニア層を対象としたテーマである。
つまり、“裕次郎スナック” というものに行ったときの印象記だ。
もちろん、そんな名前のスナックがあるわけはないのだけれど、そこのママさんが若い頃から熱狂的な石原裕次郎のファンで、店内に張られた映画のポスターから、カウンター奥の色紙、酒瓶、缶コーヒーのデザインに至るまで、今となっては入手不可能な “裕次郎アイテム” に満ちあふれた店だった。
最初にこの店を訪れたとき、私は失敗している。
店の常連客の嗜好をつかんでいなかったばっかりに、カラオケで歌う選曲を間違えたのだ。
ビートルズの「You Can't Do That」。
通好みの( … と自分では思っていたが … )ビートルズファンでも知らない人が多いミディアムテンポのブルースナンバーだった。
Aメロを歌いきった頃、私は店全体を包んだ冷たい空気をすぐに察知した。
お義理の拍手をしてくれているのは、ママさんだけ。
カウンターに首を並べていた10人程度の常連客は、苦々しい表情を浮かべて黙り込んでいる。
客層は、年のころでいえば私と同じ60歳代中頃(当時)か、2~3歳上といった感じ。
風体でいえば、ブルーカラー系。
職人か建設業といった雰囲気の人々であった。
L字カウンターの角にいた男と目が合った。
「場所をわきまえろよ」
男は無言のまま、そういう気持ちを目に込めたままこっちを見たように思えた。
そこで、私は作戦を変え、小林旭の歌を歌うことにした。
店の常連客が裕次郎の歌を歌うたびに、周りが盛り上がっていたから、それに対する “別のかたちの抵抗” を試みたのだ。
『自動車ショー歌』、『ズンドコ節』、『北帰行』、『さすらい』などという旭レパートリーを何曲か歌ったあと、ようやく周りの客層が反応してくれた。
「そっちが旭の『さすらい』なら、こっちは『錆びたナイフ』だ!」
と、私を相手に、カラオケ合戦で遊んでくれたのである。
ところで、石原裕次郎というスターをどう評価するか。
この大スターの活躍をいちおうリアルタイムでフォローできる世代に生まれた私としては、ちょっと難しい課題だ。
正直にいうと、私自身は、あまり石原裕次郎に肩入れした記憶がない。
その店のママさんや、常連客が示したほど「不滅の大スター」として裕次郎を遇する熱意が低い。
私の世代は、広義の “団塊の世代” に入るのかもしれないけれど、狭義でいう団塊世代(1947年~1949年)からは1年下(1950年生)ということになる。
わずか1年の差だが、私らが行っていた東京・都下の小学校では、「裕次郎って、ちょっと上の世代のヒーロー」 …つまり、私たちの兄さんとか姉さんのアイドルっていう意識があって、すでに世代的なズレが生じていた。
じゃ、私たち小学生のアイドルって何か? といったら、それは圧倒的にクレイジーキャッツであり、とんま天狗であり、月光仮面であり、少年ジェットであった。
裕次郎という、ギラギラのオーラをストレートに発揮するヒーローに憧れるよりも、小学生時代の私たちは、すでにギャグに身をやつすタレントたちや、虚構のヒーローの方を面白がっていた。
もしかしたら、これは世代的な差というよりも、都会生まれの団塊世代の特徴なのかもしれない。
都会生まれの団塊世代は、こまっしゃくれた大人の笑いには敏感に反応したが、裕次郎のストレートなカッコよさは理解できなかった、… という言い方もできる。
たぶん、石原裕次郎というスターは、都会育ちの団塊世代よりも、地方から東京を目指した団塊世代にとって “まぶしい存在” だったのだと思う。
「慶應」という、それなりのブランド大学に籍を置きながら、学校の窮屈さを嫌って、都会で遊び暮らす優雅なお坊っちゃん不良。
高級外車を無雑作に乗り回し、洋上のヨットで肌を焼き、ケンカは強いし、どこにいても女性の視線を一身に集める “超ド級のスーパーヒーロー” 。
きっと、昭和30年代に生きた地方の若者にとっては、「石原裕次郎」というのは、もっとも都会っぽい記号を帯びたアイドルだったのだろう。
石原裕次郎が映画デビューを果たした『太陽の季節』が公開されたのが、1956年。
その時代になると、日本列島に高度経済成長の波が押し寄せ、都市部の工場はどこも深刻な労働力不足を訴えるようになっていた。
裕次郎がデビューして、スターダムにのし上がっていく過程というのは、ちょうど、農村から都市部へと、若者たちの人口移動が活発になっていく時代と重なる。
この時代、地方の農家に暮らす中卒の若者は、都会の工場では「金の卵」ともてはやされ、「集団就職列車」という特別仕立ての列車に乗せられて東京、大阪などの大都市に集められるようになった。
Wiki によると、集団就職列車が運行を開始したのは1954年(昭和29年)で、修了したのが1975年(昭和50年)だったという。
ちょうど、石原裕次郎の主要映画が公開された時代と重なる。
この時代の歌謡シーンを見てみると、見事に “望郷歌謡曲” が主流になっている。
『東京だョおっ母さん』 島倉千代子 1957年(昭和32年)
『夕焼けトンビ』 三橋美智也 1958年(昭和33年) ※ これは文句なく名曲!
『僕は泣いちっち』 守屋浩 1959年(昭和34年)
『ああ上野駅』 井沢八郎 1964年(昭和39年)
こういう望郷ソングのヒットは、言うまでもなく、集団就職に代表される、若者の都市流入現象と呼応している。
これらの歌では、都市に出て行った家族や恋人と、地方に残された者との愛憎悲喜こもごもの感情のゆらぎがテーマとなる。
そのような生活の匂いが濃厚な望郷歌謡曲が主流の時代に、石原裕次郎の歌う世界は、とんでもなく抽象的で、都会的に感じられたはずだ。
『銀座の恋の物語』(1961年)にせよ、『夜霧よ今夜もありがとう』(1967年)にせよ、『恋の町札幌』(1972年)にせよ、そこには、田舎と都会に引き裂かれた人間の葛藤は出てこない。
どの歌にも、都会の片隅で恋をささやく男女の甘くクールなスマートさが漂っている。
だから、裕次郎の「都会的カッコよさ」というのは、その対比として存在した望郷歌謡曲を背景に成り立つものだった … ともいえるのだ。
こういう背景が、同じ団塊の世代でも、都会生まれの団塊たちの気持ちとズレる。
まず、都会生まれには、望郷歌謡曲の意味が分からない。
彼らにとって(実は私もそうなんだけど … )望郷歌謡曲というのは、単に泥くさい “音” にしか聴こえなかったのだ。
都会育ちの団塊世代は、いきなり洋楽崇拝に行く。
団塊世代でも、少し年齢が上の都会派は、「若い頃好きだった歌手」などという話題になると、ペリー・コモ、ナット・キング・コールのスタンダード系かエルヴィス・プレスリーを挙げる。(さらに上の世代になると、カントリー&ウエスタンやタンゴなどを聞いていた人が急に増える) 。
映画の話でも同様。
都会派の団塊世代は、あまり日活モノなどを見ない。
で、好きな “映画スター” みたいな話になると、もう一気にゲーリー・クーパーとかクラーク・ゲーブル、ジェームス・ディーンに行ってしまう。
では、都会派団塊世代の下の方はどうか?
こっちは、歌ならビートルズは当然で、後はベンチャーズ、クリフ・リチャード。あるいは、ブラザースフォーかPPM。
映画の話になれば、『007シリーズ』とか、『ウエストサイドストーリー』、『アラビアのローレンス』。
彼らのような、洋モノ好きの都会派団塊世代からみると、裕次郎という存在は、評価軸をどう定めたらいいのか分からないエアポケットのような場所にいるスターだった。
逆に、裕次郎を愛する団塊の世代は、裕次郎を評価できない団塊の世代をうとましく感じていたように思う。
同じ団塊世代ながら、そこに目に見えない、小さな反目が渦巻いている。
団塊の世代というと、よく「ビートルズエイジ」とか「全共闘世代」という言葉でくくられることが多いが、そういう言葉を苦々しい思いで噛みつぶす団塊の世代の方が、実は、数的には「ビートルズエイジ」や「全共闘世代」よりも多い。
なにせ、団塊の世代の大学進学率は約15パーセント。
大学まで進み、学園闘争に明け暮れたのは、さらにそのなかでもごく一部の裕福なエリート家庭の子弟だけだった。
団塊のサイレントマジョリティから見れば、「ビートルズ/全共闘」一派は、親のスネをかじって学校に行かせてもらっているにもかかわらず、勝手に大学を壊したり、ノウテンキにギターを奏でながらナンパにいそしんだ “いけすかない野郎” たちであったに違いない。
で、そういう “いけすかない団塊野郎” たちは、学園紛争が終わったとたんに大手企業に就職し、中年になってからは、恰幅のいい体格を仕立てのいいスーツで包み、お店のママさんにブランデーなんかを奢りながら、ポール・アンカの『マイウェイ』を英語で朗々と歌いあげ、周りの客からの拍手を集めてしまう。
そういう光景をうとましく思う人たちの中には、口には出さずとも、「やつらになんか、石原裕次郎のカッコ良さが分かってたまるか!」という思いを秘めた人たちもいたはずである。
裕次郎スナックにはじめて顔を出した私は、まさにこういう人々の “洗礼” を受けたのだと思う。
もちろん、こういう観察は、ごくごく自分の私的な生活圏の中の話であって、調査対象となっている人たちも10人ぐらい。
だから、それをもって一般論に普遍化することはとてもできないけれど、その限定された人々を見るかぎり、私はそんなふうに感じた。
しかし、私はその “裕次郎スナック” がひどく気に入ってしまい、ジンロのボトルなどを入れたりして、しばらく通った。
そして、常連客の裕次郎派を “敵” にまわし、旭の歌で殴りこみをかけることをしばらく楽しんだ。
その店が閉店になったのは、2018年頃だった。
裕次郎と同じ世代を生きてきたママさんだったが、同世代の客が次第に減っていき、いつのまにか、カウンターには J ポップばかり歌う若い世代が居並ぶようになった。
ママさんは、そんな光景を眺めているうちに、店を維持することに疲れを感じ始めたらしい。
ママさんと、そのママさんを応援していた裕次郎ファンの老人たちが、店の最後の日をどう迎えたのか、残念ながら、私は知らない。