「スクールカースト」という言葉がある。
カーストとは、インドで古代から現代に至るまで連綿と続く身分差別制度のことだが、そのような身分差別が、今の日本の中学・高校あたりに広がっている様子を指す言葉だ。
最近はあまりこの言葉を耳にしなくなってきたが、2000年以降、2016~17年ぐらいまでは、これを社会問題として論じる風潮があった。
この現象を解説した研究書(鈴木翔・著『教室内カースト』)によると、
「(カーストがはびこる教室では)特別な理由もないのに、特定のグループが教室を牛耳り、一方では発言すら許されないグループが存在する」
と説明されている。
そして、それが「いじめ」を生む土壌になると問題視する声もあって、この言葉自体が悪い印象で語られることが多い。
しかし、このような “学内カースト制” を、一概にすべて「悪いことだ」と断罪してしまうと、現代の中高生の生きている世界を見誤ることになるのかもしれない。
10年ほど前、直木賞を取った朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』(2010年 集英社文庫)を読んだときに、そう思った。
『桐島、部活やめるってよ』は、バレーボール部のキャプテンを辞めた桐島という男の子の周辺にいる生徒たちが繰り広げる数週間の日常を描いた学園小説である。
そこには、スクールカーストが生まれる瞬間の生々しい記述がある。
小説の中で、「沢島亜矢」と付けられた少女が、その友達の「志乃(しの)」とともに、教室の隅で騒いでいる男子グループの一人の男の子を眺めているシーンがある。
彼女たちが見ている「竜汰」と呼ばれる男子は、「骨ばっているけれど細くて長い指で、いつも茶色くくねるくしゃくしゃパーマをかき回している」。
▼ 2012年に吉田大八監督によって映画化された『桐島 … 』に竜汰役で出演した落合モトキ(左)
その竜汰を眺めている沢島亜矢は、次のように思うのだ。
「みんな同じ学ラン着ているのに、目立つ男子って、なんでこんなにカッコよく着るんだろう。
後ろ姿の学ランから少しだけ出た白いシャツが、なんで、あんなにカッコいいんだろう」
そう思いながら竜汰を眺めている沢島亜矢に、友人の志乃が近づいてきて、こう語る。
「やっぱ、竜汰、菊池、友弘のあのグループが一番カッコいいよね」
そう話しかける志乃は、“カッコいい男子たち” を遠くに眺めながら、自分の唇にリップクリープを塗り始める。
うっすらとピンク色に塗られた志乃の唇を見つめた亜矢は、こう思うのだ。
「ピンクが似合う女の子って、きっと、勝っている。
すでに何かに。
なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとはそれ以外。
ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。
お互いのグループって、制服の着方から、持ち物から、字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部違う気がする」
▼ 映画『桐島 … 』に登場する女子カーストのトップグループ
もうお分かりだと思うけれど、(作者の朝井リョウの記述が正しいのなら)、「スクールカースト」というのは、“ブサイクな人間” を卑しめるために生まれてきたものではない。
むしろ、眩しいばかりの「カッコよさ」を持つ人間たちへのオマージュから生まれてくるのだ。
しかし、その「カッコよさ」の基準に合わない生徒は、すでに「人間」ではない。
「ブサイク」と認定されるならまだしも、言葉で表現すると、「それ以外」。
つまり、教室の机や黒板、グランドのバスケットゴールのように、常に視界には入ってくるけれど、人間ではなく、ただの「モノ」なのだ。
「カッコいい」とされる基準は時代によっても、地域によっても少しずつ異なるのだろうけれど、今の時代の「カッコよさ」を簡単に表現すれば、男子では、「運動能力が高く、人間関係もそつなくこなし、サッカーやバスケがうまく、見た目がチャラい」男の子 … ということになる。
インドのカーストは、人間の後天的な能力とは関係なく、生まれた家の出自で決められてしまう。
それに対し、日本のスクールカーストは、対人スキルを磨いたり、見た目のチャラさを演出したりという後天的な要素と、美貌とか高い運動能力などという先天的な要素が微妙に混じっているから、よけい複雑である。
外貌が先天的に恵まれているだけでもダメで、努力してスキルアップしただけでもダメ。
“ハキハキ元気” はダサくて、かったるそ~というのが(カッコよさの)条件の一つだが、切り返しのうまさのような、反射神経の鋭さと自頭の良さは必要となる。
逆にいえば、その込み入った “差異体系” を、瞬時に、しかも直感的に感じ取る日本の高校生の感受性というものは、なかなか鋭いものがあるように思う。
ところで、クラスのなかで “下層カースト” になってしまった生徒たちは、どう感じているのだろう。
この小説には、映画部にいる前田涼也という男の子が登場する。
▼ 映画『桐島 … 』で前田涼也を演じた神木隆之介
映画部。
こういう部そのものが、すでに下層カーストを意味する。
下層カーストの前田涼也は思うのだ。
「生徒がランク付けされるとき、大きく二つに分けられる。
目立つ人と、目立たない人。
運動部と文化部」
文化部のなかでも、特に映画部は、不気味なくらいオタクっぽい。
涼也は、講堂で校長の口から「映画部」という名前が出されるだけで、なんとなく生徒全体の空気が変わるのを感じる。
「映画部ってなに ? 」
「そんなんあったん ? 」
というざわめきが空気の波動となって、涼也の耳に届くような気がしてくる。
涼也は、一人で、こうつぶやく。
「同じ学生服なのに、僕らが着ると、こうも情けない感じになってしまうんだろう。
目立つ人は、同じ制服を着てもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、染めてもいいし、大きな声で笑っていいし、騒いでもいい。
でも、目立たない人間は、(そのようなことをしては)全部だめ」
もちろん涼也は、自分がその “目立たない人間” の方にいることを十分に自覚している。
そういう人間に残された道は、ひたすら周囲のことに気づかないように振舞うことだ。
周囲のことに気づくことは、自分の位置を確かめることになる。
確かめたとたん、自分が下層カーストの住民であるという屈辱に耐えなければならなくなる。
たぶん、この “差別” 対して、差別された人間がなにがしかの反応を示したときに、いじめが発生するのだろう。
このような「カッコいい」上層と、「カッコ悪い」下層は、いつ、どうやって分化するのだろうか?
それらを区別するそれぞれの定義というようなものは、実はない。
しかし、入学してきたときから、誰にでも、即座に、厳然として分かるものだという。
上層同士はお互いにすぐに結束し、下層同士は自然に肩を寄せ合う。
その両方が接点を持つことはなく、ほとんど口を聞くこともないまま学園生活を終える。
それにしても、鮮やかな小説である。
まず、タイトルがすごい。
『桐島、部活やめるってよ』
この読点も入れた11文字だけで、読者は、読まない前からその小説のおよそのシチュエーションを推測することができる。
「部活」という言葉からは、舞台が中学か高校であることがうかがえる。
「やめるってよ」という言葉から、仲間たちが感じた戸惑いや驚きが伝わる。
特に、末尾の「 … よ」という言葉からは、桐島のことをウワサする少年たちの、ちょっと投げやりな、「学園生活なんてうんざり … 」という思いまで伝えてくるようだ。
構成も巧みだ。
タイトルに出てくる「桐島」という男の子が、なかなか登場しないので、それが一種のミステリーのような効果を生む。
物語は、彼の周りにいる男子学生や女子学生が、それぞれの章の主人公となることで成立している。
しかし、肝心の桐島は、最後までこの小説に登場することはない。
「桐島」は、あくまでも、章ごとに区切られた物語を束にして綴るときの “ホチキス” のようなものなのだ。
それがゆえに、桐島がなぜバレーボール部を辞めることになったのか、という謎は永遠に解かれることはない。
それが、この小説に不思議な奥行き(余韻)を与えている。
文章表現も鮮やか。
登場人物の一人である詩織(しおり)という少女が夕焼けを見るシーンがある。
それを見て、
「たそがれ !」と彼女は叫ぶ。
「そう叫んだ詩織(しおり)の声が、ひらがなのまま聞こえてくる。たぶん漢字もちゃんと思い浮かんでいないのだろう」
「動きを止めた私の前で、詩織は片目だけで四ミリくらい笑った」
「私はポーンと(ピアノ)の鍵盤を叩いてみる。高いラの音が、音楽室の中で迷子になった」
取り立てて新味があるようにも思えないレトリックながら、こういう表現が意表を突いた場所に出てくると、それなりにハッとする。
この作者の文体には、空気中を漂うホコリの粒子が、とつぜんキラキラ輝き出すような不思議な感覚がある。
使われている言葉が、光の乱反射を受けて、思いもかけない場所を照らし出す。
「スクールカースト」というテーマを扱いながら、したり顔の評論家が “社会問題” として語るときの陰湿さがないのは、この宙を舞うホコリですら黄金色に変える鮮やかな文体のせいもある。
最後の最後になって、この小説に、劇的な転換が訪れる。
「菊池宏樹」という男の子を主人公にした章だ。
▼ 映画『桐島 … 』で、菊池宏樹を演じた東出昌大
菊池宏樹は、カーストの上位にいる人間である。
運動神経も抜群。容姿にも恵まれ、学ランをカッコよく着こなす様々なノウハウも身に付けている。
頭も良いので、さほど勉強しなくても東京の一流私大ぐらいはどこでも受かる自信を持っている。
だが、彼は、心の中に巣食っているメランコリーをどうしても払拭することができない。
現在は、カーストの上位にいる自分に満足しているが、その先に広がる未来の自分の姿を何も思い浮かべることができないのだ。
「未来はどこまでも広がっている?
いや、違う。
出発点から動いていないからそう見えるだけだ」
彼の頭の中では、いつもその言葉がリフレーンとなってこだましている。
だから「沙奈(さな)」という、とびっきり美人の “彼女” がいても、それに溺れきることができない。
▼ 映画『桐島 … 』で沙奈を演じた松岡茉優
宏樹は思う。
「俺の彼女はかわいい。確かにかわいい。
だけどたぶん、それだけだ」
沙奈(さな)は、宏樹と同じく、女子カーストのトップにいる。
そして、自分たちが特権階級でいることに満足し、下層カーストの人間をあざ笑うことに喜びを感じている。
「映画部の男の子たちって、ちょーキモいよね。そういうのが体育でサッカーやっているって、それだけでヤベーよね」
と無邪気にケラケラと笑う。
宏樹はそんな沙奈(さな)のことをかわいそうに思う。
そして、心の中で、
「沙奈(さな)はきっと、これからずっとそういう価値観で生きていくんだろう。ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろう」
とつぶやく。
そして、少し間をおいて、
「だけどお前だってそうだろうが …」
と自嘲する。
物語は、宏樹が、沙奈(さな)のバカにしていた映画部の男の子たちと接することで、思わぬ方向に舵を切る。
下校時に、宏樹は見てしまうのだ。
今まで、視界に入って来なかった下層カーストの映画部の男の子が、自分たちの好きな映画を語っているときの輝いている表情を。
宏樹は、映画部の男子が校庭に落としたカメラのレンズキャップを拾って、彼らの後を追いかける。
映画部の男子2人は、真剣な面持ちで、バドミントン部の練習風景を撮っている。
宏樹は、その姿を見て、はじめて言いようのない緊張をおぼえる。
自分たちの熱中するものを持っている “ダサい男子” たちが、突然神々しく見えてしまうのだ。
うろたえた宏樹は、「これたぶん、落としとるよ」とぶっきらぼうにレンズキャップを映画部の男子に渡し、その場を立ち去る。
一方、自分たちとは別世界に住む人間から不意に声を賭けられた映画部の男子の前田涼也は、緊張して、礼をいう言葉すら見つけられない。
だが、彼もまた、接することも許されるとは思わなかった上位カーストの男子に声かけられて、不覚にも感動してしまうのだ。
「スクールカースト」って何なんだ ?
いじめの問題などと結びつけて、それを悲惨な社会問題として取り上げようとするマスコミの報道などとはまったく違う角度で、この作者はその問題を静かに捉えている。