エッセイ・追憶・映画
ウッディ・アレン『マンハッタン』
ウッディ・アレンが監督を務め、かつ主演を張った『マンハッタン』が公開されたのは、1979年だった。
公開前から、このクィーンズボロー・ブリッジのベンチの写真が色々な媒体で紹介されていて、それを見るたびに、僕はその美しさにため息をついた。
だから、この映画が上映されるやいなや、僕はすぐに封切館に飛び込んだ。
観た印象はどうであったかというと、実は、あまり記憶に残っていない。
たぶん、期待したものが大きすぎて、ちょっと裏切られたような気分であったからだ。
都会的なセンスを身に付けた教養人といわれたウッディ・アレンであったが、彼の「都会性」と「教養」は多分に複雑すぎて、僕の頭と感性ではついていけなかった。
きっと、今もう一度観ると、この映画の良さが分かるのかもしれない。
でも観ないだろう。
このクィーンズボロー・ブリッジのスチール写真だけ眺めていれば、それで十分だという気もするからだ。
だから、今日ここで書くのは、映画『マンハッタン』の話ではない。
このスチール写真がきっかけで知り合った、一人の女性の話だ。
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映画を観終わって、少し索莫とした気分でいた僕は、家に帰るまでの時間を持て余していた。
夕飯を食うことを思いつき、ついでに酒を飲むつもりで、ときどき顔を出したことのある地下の居酒屋の階段を下りた。
その店に特徴があるとしたら、酒と料理が安いこと。
それ以外に、何の魅力もない居酒屋だった。
店内は混み合っていて、相席となった。
客の98%は中年男性のサラリーマンで占められ、僕が相席を勧められたテーブルだけが、残りの2%である女性の二人連れだった。
一人は、都会生活に慣れたOL風。25~26歳ぐらい。
もう一人は、田舎から遊びにきたその友だち風。27~28歳ぐらい。
二人は何を間違えて、この中年男たちの「巣窟」に迷い込んでしまったのか。
酔狂な女たちもいるもんだと思いながら、僕は一人でコップ酒をあおり始めた。
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「あら … 」
田舎から遊びに来た風の女性が、僕がテーブルの上に置いたウッディ・アレンの『マンハッタン』のパンフレットに視線を注いだ。
この映画に興味を持っている風情だった。
化粧気の薄い、地味な顔立ちの女性だったが、好奇心をみなぎらせた目が美しかった。
「ご覧になりますか?」
そう言って、僕はパンフレットをテーブルの上に滑らせて、相手の方に押しやった。
「いいんですか?」
そう発した声に、どこかの地方のなまりがあった。
「今日、これを観ようと思って新宿に出てきたんです。だけど時間が合わなくて」
と、彼女はパンフレットを手に取ってから、同僚の同意を求めるように振り向き、二人でクスっと笑った。
その後は、たぶんその映画の話になったと思う。
僕は正直に、「映像はきれいだったけれど、話はよく分からなかった」と伝えた。
「いいんです。映像がきれいなら、ストーリーなんてどうでもいいんです」
妙に自信を持った彼女の言いっぷりが面白くて、僕は「なぜです?」と聞き返した。
どうやら彼女は絵を描く女性だったようだ。
しかも、テンペラという、今ではあまり使われない技法で描いているというのだ。
「テンペラって、ルネッサンス期の画家たちが教会の壁なんかに描いていたやつでしょ?」
「あら、ご存知なんですね」
笑うと、浅黒い肌から白い歯がのぞき、南国育ちのおおらかさのようなものが、彼女の笑顔からこぼれ出た。
話題は、それから絵画の話になった。
それがつまらなかったのか、もう一人の女性が「明日早いから」と席を立った。
取り残された田舎から遊びに来た風の女性も、一緒に店を出ようとするのだが、
「いいの、いいの。あなたはいなさい」
と、立ち上がったOLは取り合おうとしない。
たぶん気を利かせたつもりだったのだろう。
僕たちは、取り残されたことで、なぜか幸運を手にしたような気分になり、その後しばらく店の喧騒に負けないくらいの声で、絵画について、映画について語り合った。
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その女性とは、その後一度だけデートしたことがある。
どういう経緯で逢うことになったか思い出せないのだが、たぶん別れ際に渡した会社の名刺を頼りに、彼女が電話をくれたのだと思う。
僕たちは、銀座で落ち合って、食事をしてから、ジャズのライブを聞きに行った。
絣の和服を着た彼女は、どこかしら都会のライブハウスでは浮いていた。
肌の色が浅黒かったその女性に、暗色の和服は、地味で暗い印象を与えていた。
でも、それは、もしかしたら彼女の精いっぱいの盛装だったのかもしれない。
僕はそれを愛しいと思った。
曲と曲の合間に、尻切れトンボになりつつも彼女が語ったのは、やはり自分の目指している絵のことだった。
平凡でも幸せな主婦になるつもりで普通の勤めを始めたのだが、自分の中に巣くう絵に対する炎のようなものをかき消すことができない、と言う。
でも、絵で食べていくのはあまりにもリスキーだ。
もし失敗したら、自分には帰る場所がない。
そういう彼女の話には、せっぱ詰まったものが鬱積していて、今ようやくそれを吐き出せる相手が見つかったといわんばかりだった。
詳しいことは分からなかったが、どうやら家族の反対を押し切って家を飛び出してきたという雰囲気がある。
きっと、それにまつわる様々な葛藤や事件があったのだろう。
彼女の話が激しさを帯びるにつれ、ライブを演じるジャズメンたちの顔が間延びした表情に思えてきて、彼らの出す音が薄っぺらな音に聞こえた。
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店を出て、夜の舗道を歩いた。
「一度、絵を見せてもらえませんか」
と僕は言った。
「駄目なんです。描けてないんです。今はどうしてもうまく描けないんです。たぶん焦っているのでしょうね」
そういうとき、なんて励ませばいいのか。
「頑張ってください」
と月並みな言葉をかける気にならなくて、たぶん僕は言葉を探しながら、黙って自分たちの足音に聞いていたのだと思う。
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彼女の個展の招待状が届いたのは、それから4~5年経ってからのことだった。
名前が変っていたが、「旧姓」として、出会った頃の苗字も添えられていたから、僕はすぐ彼女だと分かった。
その頃、僕も結婚をしていて、子供も生まれていた。
その招待状が届かなければ、僕はもう彼女のことを思い出すこともなかったろう。
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個展の会場で久しぶりに会った彼女は、相変わらず暗色の絣の着物に身を包み、浅黒い肌に白い歯を見せて、以前と同じように美しい目で笑った。
彼女が描いたという数点の絵の前にたたずみ、それが想像したようなものとはおよそ違っていたので、僕はびっくりした。
みな裸婦だったのだ。
それも、赤身の強い、まるで林武の描く「赤富士」のような筆致で描かれた雄渾(ゆうこん)な裸婦だった。
「男の人が描いた絵だと思いました」
月並みな表現しかできなかったが、それに続く感想として、そのデフォルメの妙が生んだ、裸婦たちのみなぎるような生命感を讃える言葉を探した。
ソファに座り、あるいは壁を背にして立ち、そして窓にもたれかかる裸婦たちは、どれもゴーギャンの描くタヒチの女性のような体躯を与えられ、自分の内なる叫びを必死になってその体躯の中に押し込めようとしているように思えた。
それは、「自分の内なる(絵に対する)炎を抑えることができない」とライブハウスの中でうめいた彼女そのものに見えた。
もしかしたら、モデルも彼女自身なのだろうか。
そう思ったとたん、赤黒い肌を与えられた裸婦たちが、画家の分身であるかのように一斉にこちらに目を向けたような気がした。
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この話はこれで終わりである。
それから、もう個展の招待状は届かなかった。
たぶん、彼女は自分の “内なる炎” を封じ込めることができるくらい、幸せな結婚生活を送ることになったのだろう。
『マンハッタン』のスチール写真を眺めると、僕はときどきそのパンフレットを手に取った彼女のことを思い出す。