OLD MAN オールドマン
午後のスタンドカフェで、ぽつねんと、外の景色を見ている老人がいた。
喫煙席だった。
人がまばらに座った客席から、いく筋かの紫煙がのぼっていた。
老人はタバコを吸わないようだ。
喫煙席には、間違えて入ってきたのかもしれない。
あるいは、そんなことに頓着していないのかもしれない。
白いヒゲをゆったりと垂らし、ソフト帽を目深にかぶった老人の姿は、セピア色の写真で見る明治の軍人のようだった。
ひとつ時代を間違えば、馬上傲然(ごうぜん)と敵陣をにらみ、三軍を指揮する人のようにも見える。
でも、今の老人の目は、動くものには何ひとつ反応していない。
灰色がかった瞳の視線が、歩道を行き交う人々を避けるように、道に落ちた木の影だけに注がれていた。
陽の差し込む窓際の席で、空いているのはその老人の隣だけだった。
私はその椅子を引き出し、背もたれにコートをかけた。
セルフサービスの店だから、テーブルが汚れていればお客がダスターを手にとって拭くしかない。
「よかったら、拭きましょうか?」
私は、自分のテーブルを拭いたついでに、老人の前のゴミを軽く払った。
「ご親切に … 」
老人は、はにかんだような笑いを浮かべ、ちらりとこちらを見た。
「あんたは優しそうな人だね」
言外に、そんなメッセージがこめられたような目だった。
それがきっかけで、会話が始まった。
「今日は歩きすぎて … 」
まるで暖でも取るように、両手でティーカップを抱え込んだ老人は、
「 … 疲れました」
という言葉を内に秘めながら、ゆっくりと語りだした。
私は、カフェで読むために買ってきた週刊誌をあきらめ、それをテーブルの上に伏せて、老人の言葉を待った。
「大名屋敷がとぎれた辺りで引き返せばよかったんでしょうけれど、花街のあたりも歩いてみたくてね」
いつの時代の話なのだろう。
この辺りでは、大名屋敷も、花街も聞いたことがない。
「町名も変わり、町の景色も変わってしまいましたから、どこを歩いているのか、もう分からないようになりました」
そう笑う老人の頬に、深いシワが刻まれる。
いくつぐらいなのか。
80には手が届くのだろうか。それともその上か … 。
「この近くに住まわれていたんですか?」
尋ねる事もことさら思い浮かばなかったので、場当たり的な質問を投げかけてみた。
「ここからは少し歩いたところです。テラマチです」
テラマチ ……
「寺町」という地名なのか、それとも、単に “寺が多いところ” という意味なのか。
「釣りもできたですよ。祠(ほこら)の裏に寝ているミミズをエサによ~釣ったものです」
いつの時代の、どこの話だろう。
祠って、なんだ?
老人のしゃべる話は、遠い世界を舞台にした昔話のように聞こえた。
相槌を打つタイミングも見つからないまま、私は、黙って老人の話の流れに身を任せた。
「このあたりは路面電車が走っとったですよ、昔はね … 」
少しだけ、華やいだ声になった。
「路面電車の時代の方がにぎやかでしたね。今の方が人通りは増えたけれど、にぎやかさは感じられんです」
路面電車が走っていたのは、私も覚えている。
一ヶ月だけだったが、それに乗って通学した記憶もある。
町の中を電車が走る風景は、自動車が走るよりも “都会的” に思えた。
だから、老人のいう「にぎやか」という意味が分かるような気がした。
ようやく共通の話題が出たと思った矢先、老人は不思議なことをしゃべり出した。
「週末に一本だけでしたけど、夜ね、無人の路面電車が走るんですよ。
実験だったんですね。
遠隔操作というのか、自動操縦の試験なんですね。
それを土曜の深夜だったか、会社が実験するんでしょうねぇ。
もちろんお客さんは乗せないですよ。
私は二度ほど見たことがありましたけれど、怖いもんですよ、幽霊電車みたいで…」
そう言いながらも、老人は面白そうに笑った。
「へぇ~!」と、私は驚くふりをするしかなかった。
そのようなことがありえるはずがない … と私の理性はこっそりとささやいていた。
… からかっているのか?
老人の横顔は、おだやかな冬の陽射しを跳ね返して、白い鑞(ろう)のように光っていた。
会話はとぎれたが、私たちは、冬の陽だまりでまどろむ二匹の猫のように、じっと外を見ていた。
「さて、とんだお邪魔をしてしまって … 」
老人はソフト帽をかぶり直して、私に笑った。
「いえいえ、面白いお話を … 」
私は、立ち上がった老人を見上げて、微笑み返した。
両足を引きずるように去っていった老人のテーブルには、ティーカップが置き去りにされていた。
セルフサービスのルールを知らなかったのだろう。
…… やれやれ。出るときに、それも一緒に下げるか。
ガラス窓の向こうに広がる街の景色は、日没の残照を浴びて、メタリカルな蛍光色に輝いていた。
ドアを出て、間もないというのに、老人の姿はもう見えなかった。
▼ 「オールドマン」 ニール・ヤング