アートと文藝のCafe

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パンクを神話に高めた男の短い生涯   

昔の映画の現代的鑑賞法

映画批評 
シド・アンド・ナンシー

 

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パンクは嫌いだった  

 1970年代半ば、パンクロックが生まれて、ニューヨークとロンドンのロックシーンが大きく変わろうとしていた頃、私は「聞く音楽」をなくしていた。
 大好きだった黒人ソウルミュージックは、次第に商業色の強いディスコ・サウンドに侵食され始め、音楽というより、踊りのBGMとしての性格を強めていた。
 
 かといって、パンクは嫌いだった。
 ビートルズストーンズからツェッペリン、CSN&Y、バンド、サンタナなどをすべてデビュー当時からフォローしていたつもりの自分にとっては、パンクは「音楽」ではなかった。
 
 しかし、あの時代、もしビートルズストーンズツェッペリンも知らず、かつ、「音」としてよりも「映像」から先にパンクに入っていたならば、私はパンクの虜(とりこ)になっていたかもしれない。
 
 セックス・ピストルズのライブを初めてテレビで見たのは、もう彼らが解散した後、80年代に入ってからである。
 
 安っぽいクラブの貧相なステージで、ジョニー・ロットンが観客をあざ笑うかのようなおどけた目つきで、ツバを吐きながら、猥雑な歌を叫んでいた。

 彼らの動作は、単純に上下に飛び跳ねるだけの硬直したジャンプか、地を這うような蛇ダンス。
 これでもか、これでもか とばかりに、ひたすら観客を挑発しているだけのようにも思えた。

 

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20年若ければ、自分もイカれていたかも
 
 でも、それが新鮮だった。
 たとえ、ビジネス志向のロックバンドのステージと差別化を図るための演出だったとしても、やはり、紛れもなく新しいもの生まれていたんだ という実感を強く持った。

 

 大人たちを不快にさせたといわれたファッションも、基本的にはシンプルなもので、むしろ爽やかさがあった。
 下品なパフォーマンスにも、おし隠せない “ういういしさ” があった。
 あ、いいな と、ぼんやり思った。
 

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 その映像を見ていたのは、すでに感性もカラカラに乾ききった中年の私だったが、もし、ここにいるのが15~16歳頃の自分だったら、完全に向こう側に行っていただろうと想像できた。
 
 ただ、映像を伴わない音として聞いたときはどうか。
 私は、テレビのスピーカーから流れてくるサウンドを、
 「けっこうカッコいい音を出していたな!」
 と感心はしたけれど、それが、映像を伴わない音だけの場合、いま受けた感激をそっくり得られるかどうかは、自信がない。

 

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▲ 本物のシド・ヴィシャス
 

純度100%の “パンク野郎” シド・ヴィシャス

 

 『シド・アンド・ナンシー』は、そのセックス・ピストルズの伝説的なベーシスト、シド・ヴィシャスとその恋人ナンシーが、ヘロインの吸引を繰り返していくうちに身を滅ぼしていくという、ふたりの破滅に至るまでの短い人生を描いたドラマだ。
 (※ シド・ヴィシャスの役をゲーリー・オールドマンが演じている)。
 
 シド・ヴィシャスは、ベーシストとしてセックス・ピストルズに参加しながらも、最初はベースが弾けなかったらしく、彼のステージではプラグがアンプにつながれなかったというウワサがあるくらいだ。
 
 しかし、ステージ上のパフォーマンスを含め、まさにパンクの「精神」を体現したような生き様を貫いたおかげで、死後「伝説のアーチスト」になった。

 

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▲ 映画の中のライブシーン 

 

 劇中、彼らのステージでの演奏シーンがある。
 それを見るだけで、日本のJ・ロックといわれるものが、いかにパンクの影響を受けていたかということが分かる。


 ダルで、投げやりで、それでいてエキセントリックな挑発性を秘めた演奏スタイル。
 機械仕掛けの人形のような動き。
 ヘタウマギターというより、はっきりと “ヘタヘタ” を目指したようなギター。
 3コード中心の縦揺れリズム。
  
 80年代から90年代における日本のロックシーンには、こんなバンドが満ちあふれていた。
 そして、その流れは、後に「ニューウェーブ」といわれるようになった。

 

パンクは芸術運動でいえばダダイズムである。
 
 芸術運動でいえば、パンクはダダイズムだ。
 ダダイズムは美術史のなかでは大きなムーブメントとして取りあげられるが、誰もその代表的な作品を挙げられない。

 パンクも、演奏スタイルではロック史のターニングポイントとなったが、その代表曲は、彼らと寄り添うことができたコアなファンしか挙げられない。
 

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 どちらも、後世に作品を残すという発想から決別したのだから、それは当然の帰結であったろう。

 逆にいえば、「作品を残す」などというさもしい根性にまみれなかったからこそ、彼らは今でも爽やかであり、偉大なのだ。
 
 この映画に出てくるシドとナンシーという恋人たちも、ふたりの生き様を後世に伝えるなどという意識をこれっぽっちも持つことなく、最後は静かに画面の外に消えていく。
 
 芸術家(アーチスト)が私生活で身を滅ぼしていくというテーマは、映画やドラマの格好のネタのひとつである。
 アルコール中毒で死んだアメリカのE・A・ポーや、同性愛で逮捕されたオスカー・ワイルドなど、欧米には「破滅」が勲章となるような芸術家がたくさんいる。


幼児の感性のまま成人した男

 しかし、シドは、ここでは芸術家として描かれてはいない。
 幼児の感性のまま、身体だけ大人になってしまった未熟な人間として描かれている。
 恋人ナンシーも、幼児の脳のまま成熟してしまった女性だ。

 

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▲ 映画の中の二人
 
 だから、「反・社会的」という自覚もなしに、無意識に「脱・社会的」な生き方をしてしまうふたり。

 何ごとも、ふたりの快楽がまず優先。
 レコード会社も、ステージも、お客もクソくらえ!
 明日の仕事よりも、今日のヤク!
 ふたりは、どんどん奈落の底に落ちていく。
 
 しかし、彼らの薬物への依存度が高くなり、ふたりの日常生活が混沌にまみれていけばいくほど、むしろ画面は静謐になり、安らぎのようなものが漂っていく。

 

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あの世の映像

 ラストシーン
 クスリによって意識が混濁したシドは、ナンシーを刺して殺してしまうのだが、そのシドがようやく出所してくる。

 ニューヨークの摩天楼が見える荒涼とした場所を、シドがひとりで歩いている。(なんと、彼の背後に、2001年の9・11テロで破壊される前の貿易センタービルが映っている)
 

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 空は曇天。
 朝なのか夕方なのかはっきりしない。

 周囲には朽ち果てた自動車が、墓石のように並び、電信柱と電信柱の間では、切れた電線が風に揺れている。
 核戦争によって人類が滅亡したような光景だ。


 
 廃虚のようなピザ屋が1軒だけ建っている。
 宗教画のような光がどこからともなく射して、窓の中を照らす。

 客も店主もいない店のテーブルに座り、シドが独りでピザにむしゃぶりついている。
 モノトーンに近い風景の中で、シドの姿だけが鮮やかな色をたたえている。
 
 「ああ 、これは現実の風景ではなく、死後の世界だな」
 と観客は、そこでそのことを理解する。
 
 ピザ屋を出たシドに、3人の黒人の少年が駆け寄ってくる。
 ひとりの子どもの手には、カセットデッキが握られている。
 死の冷気が漂う廃虚の街に、音楽が流れる。
 
 「シド、踊ろうよ」と別の子がいう。
 「子供となんて
 と、うんざり顔のシドだが、そのうち一緒に踊り始める。
 死の舞踏だな …… と解る。

 

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 1台のタクシーが寄ってくる。
 後席に乗っているのは、純白のドレスに身を包んだナンシー。
 晩年のナンシーは、ドラッグで顔が崩れてしまうのだが、白いドレスのナンシーは、シドと知り合った頃のような爽やかな顔に戻っている。
 お迎えだな …… と解る。
 
 ふたりを乗せたタクシーが、世にも荒涼とした風景の中を去っていく。
   
▼ 予告編

シド・アンド・ナンシー sample movie.wmv

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