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人に読んでもらえる文章

堀井憲一郎さんの文章道 その2

 

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 前回「書きたい原稿があったら今すぐ書け!」というタイトルのブログで、堀井憲一郎さんの『今すぐ書け、の文章法』という本をちょっと紹介させてもらったけれど、実は、少し漏れたところがある。
  というか、話が長くなるので、はしょったところがある。
 
 しかし、本当はこの “はしょった部分” が、けっこう自分には有用だった。
 
 「有用でありながら」、なぜ採り上げなかったかというと、ごく実用的なことでしかないように思えたからだ。
 たとえば、「漢字を減らせ、改行を多くしろ」とか。
 当たり前といえば、当たり前のことだな と最初は軽視していたのだ。

 

▼ 堀井憲一郎さん

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読みやすい文章を書く実戦テクニック
 
 しかし、案外そのような実用的指南の部分が、実は「著者の思想」そのものであったりする。
 そのような、具体的ノウハウの積み重ねが著者の “思想” を育てるのかもしれないし、逆に、著者の “思想” の実践過程が、現象的には(一見平凡な)「ハウツーもの」の形を取るのかもしれない。
 
 いずれにせよ、「神は細部(ディテール)に宿る」だ。
 
 そこで、今回その第二弾として、前回引用できなかった “実用的なところ” を、いくつか紹介したい。
  

 
 で、まず最初に、自分にとって当たり前だと思っていたことだけど、意外と自分が守っていなかったことを書く。
 それが、
 「漢字を減らせ」
 「すぐ改行しろ」
 というアドバイス
 
 堀井さんはこう書く。
 
 「びっしりと文字が入った文章を見ると、ふつうの人はまず圧倒されてしまう。 
 読む気が失せる。
 ぱっと見た瞬間の印象として、漢字がそんなに多くない。難しい表現もいっぱいあるわけではなさそうだし、(専門用語的な)カタカナも少ない。改行が適度にしてあって読みやすそうだ。
 そういう “内容以前の見た目の問題” が大事だということだ。
 文体や、美しい文章や、正しい日本語である以前に、ビジュアル的にどう見えるのか、それによって読者の食い付きは違う」
 
 これは本当にその通りだと思う。


不要な漢字は極力避けろ
 
 ブログという文章発表の場がアマチュアの人に解放されるようになって、今まで雑誌などでは読めなかった記事が読めるようになったけれど、そこで気づいたのは、副詞、接続詞などに、けっこう難しい漢字を使う人が多いということだった。
 
 「或いは(あるいは)」
 「且つ (かつ)」
 「如何 (いかが)」
 「予め (あらかじめ)」
 「又は (または)」
 「但し (ただし)
 「及び (および)」
 
 ワープロの場合は、単語を入力するだけで機械が漢字に変換してくれるから、書いている人には、文字の「読み」が分かる。
 でも、読者には、読めないこともある。
 
 そうなると、その文章がどんなに面白そうでも、「読めない文字」が  “通せんぼ”  するから、その先に進むのが面倒になってしまう。
 
 その人の漢字学習のお粗末さ といえば、それまでだが、周りの風潮がどんどんそうなっているのだから、これには逆らえない。
 
 そして、“ひらがな多用文” に慣れてしまうと、今度は漢字の多い文章がやたらヤボに見えてくるから不思議だ。

 そのうち、漢字を多用する人が、「もの知り自慢」のイヤなやつに思えてきたりする。
 つくづく慣れとは恐ろしいものだ。
 そんなわけで、自分もなるべく “おごそかな” 漢字は使わないようにした。
 
 でも、やっぱり漢字でなければ表現できないムードというものもある。
 「憂鬱」とか「倦怠」、「頽廃」とか「畏怖」とか。
 そういった “気分が萎える(なえる)ような” 単語は、やっぱり漢字を使わないと雰囲気が出ない。
 仕方なく、「萎える(なえる)」みたいに、ひらがなをカッコに入れて補っている。
 
 おっと、堀井さんの本の話から離れて、自分の話になってしまった。
 
 戻る。


すぐ改行しろ
 
 で、堀井さんが、次に強調するのは、「すぐ改行しろ」である。
 
 週刊誌の記事を書くときのアドバイスであるが、ネット上に掲載する文章の場合は、さらにこのことを気にとめていいように思う。
 
 それは、自分の経験からも言える。
 実は、いくつか気に入ったブログがあり、文章も書かれた内容も面白いので、「読みたい」と思いつつも、読みこなせないブログがあるのだ。
 
 それが、「文字が改行なしでベッタリ並んだブログ」だ。
 
 あまりにも、読みづらいので、自分のテキストファイルにすべてコピーし、自分で改行を入れてから読んだりすることもある。
 だけど、面倒くさいので、そうしょっちゅうはできない。
 そのため、そういうブログからは、自然と足が遠のいてしまう。
 
 こういうブログを書く人は、“信念の人” が多い。
 政治結社みたいなところと近かったり、何かの宗派に属していたり、思想書を研究する学者だったりする。
 自分の主張を、自分と同じレベルで理解してくれる「読者」しか想定できないから、そうなるのだろう。


1行と2行目の間の空白が多すぎると、読みづらい
 
 また、反対に、(若い人の書くものに多いのだけれど)、1行目とその次の行の間がやたら長いものがある。
 尻切れトンボの1行がまず出てきて、その後はいくらスクロールしても、次の行にたどり着けない。

 ようやく、出てきたと思ったら、
 「ふぅ~。疲れた」
 と書いてあっただけだった。
 
 つまり、その長い空白は、本人の “深いため息” を表現していたわけだ。
 
 これも、困るなぁ。
 改行はいいけれど、空白はせいぜい2行空けくらいにとどめてほしい。
 
 ま、これは読む人の「生理」の問題でもあるから、何が正しいとはいえないのかもしれない。

 
 昔は、改行の多い文章を快く思っていなかった時期があった。
 1ページに文字がぎっしり詰まっているような小説 たとえば高橋和巳のような作家の文章を読んだ後、司馬遼太郎の小説を見ると、あまりにスカスカなので、「読者をバカにしているのか?」とすら思った。
 
 その昔、司馬遼太郎の小説は、サラリーマンの処世訓のようにして読まれていた時期があったから、読んだこともない学生から見ると、彼は “金儲け作家” の一人にすぎなかった。
 
 「改行ばかりして、原稿料を稼いでやがる」
 ぐらいに思っていたのだけれど、いま司馬遼太郎の小説は、改行のセンスを見習うためのバイブルになっている。
 
 また脱線した。


文末を「 … と思う」で終わらせる文章は最悪
 
 堀井さんの『いますぐ書け、の文章法』で、いちばん自分が見習うべきだと思ったのは、「文末に “ と思う” を付けるな」という指摘。

 たとえば、
 「原発事故は、快適な電化生活という “夢” を与えてくれた原子力が、“悪夢” の怖さを潜ませていたことを示唆しているように思う
 
 「そういった意味で、これは鉄ちゃん・鉄子のためにつくられた映画なんだろうな、と思う
 
 「彼の教条主義的な音楽理論に反感を募らせ、最後はケンカしていたようにも思う
 
 「この映画は、そこのところで一つの真実を提示しているように思う
 
 堀井さんは、この「 … 思う」について、それは 「断定することの怖さを回避する戦法」にすぎないという。
 
 以下、引用。
 
 「(文章は)強く書く。強く書くかぎりは、断定する。もちろん根拠を示して断定する。言い切らないといけない。
 そこが、人にきちんと届く文章を書くポイントなのだ。
 “断定するのは読む人のため。断定しないのは自己弁護のため” だからだ。
 言い切れないなら書くな。だったら言い切れるまで調べ直してこい」
 
 ドキッ! 
 ですね。
 
 人は、文章に自信を持たないときほど「 と思う」で丸く収めたがる。
 「思うだけなんだから、いいでしょ? 言い切っていないわけだから」
 というように、批判が来たとき「逃げを打ちたい」という気持ちが「 思う」に頼ることになる。
 
 でも、それはいけないと堀井さんはいう。
 …… というように、分かっていても、人間はなかなかこの「思う」の呪縛から逃げ切れない。
 心してかからねば


「私」もしくは「僕」で始まる書き方は避ける

 

 堀井さんの文章作成上のアドバイスをもうひとつ。
 それは、「私」もしくは「僕」で始まる文章を、できるかぎり避けるというもの。
 
 彼はいう。
 
 「日本語の文章は、一人称をすべて取り除くことが可能である。そして、それができた方が、読みやすい。
 “私” もしくは “僕” を、できるかぎり避けるという意味は、“私は” から始まった文章は、その “私” のことよく知ってくれている人が読んでくれるのなら大丈夫だろうけれど、公開される性質の文章であるかぎり、私のことを知らない人が読む方が多いわけで、そのとき “私” で始めると、“私って言い出しているけど、誰?” と思われてしまう。
 ちょっとした疑念がはさまるだけで、人はもう読んでくれなくなる」
 
 これも同感。
 
 実際に、私もブログを書いていて、自分のことを「私」ということに、ものすごい抵抗を感じていた。
 
 「私は 」と書くと、どうしても、「さぁ、この私がこれから素晴らしいことを言うから、みんなお聞き!」という厚かましさが顔を出すような気になるからだ。
 
 じゃ、「僕」はどうか。
 村上春樹の小説じゃあるまいし。
 
 では、「オレ」は?
 任侠物のドラマの主人公じゃないしなぁ。
 
 「わし」というのはどうか?
 昔話に出てくるお爺ちゃんだよ、それは。
 
 で、しょうがなく「自分の場合は 」なんて、あいまいな言い方に落ち着くことが多かった。
 だけど、エッセイとかコラムのたぐいは、別に主語がなくても話を進めることができる。
 まぁ、「私は 」と書かなくてすむのなら、それにこしたことはない。
 
  
 で、堀井さんも言っていたけれど、欧米の文章では、自分のことを語るとき、必ず、「 I (アイ) 」 という主語が頭に来るから主体性を確立する文化が育ったけれど、日本語は主語があいまいだから、主体性を確立する文化が生まれなかった なんていう人がいるけれど、それはウソ。
 
 彼に言わせると、「(それをもって)“日本人は自己表現が下手だ” と批判をする人がいるが、そこを変えたいのなら、この東アジアの海上の島に住むわれわれの生活のシステムそのものを変えるしなかない」
  ということなんだけど、そのとおりかもしれない。
 
 というように、文章をうまく書くための研鑽は、哲学することにもつながる。
 
 と、あまり意味のない “落とし所” (↑)でお茶をにごして、ハイさよなら。
 
 
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