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陽水の歌が漂わす「死の匂い」

 

 テレビなどで、シンガーソングライター井上陽水の特集を見る機会が増えた。

  

 昨年(2019年)11月27日には、作家の高橋源一郎朝吹真理子、音楽家小室等らが陽水の世界観を “文学” のように語り合う『深読み音楽会』(NHKBSプレミアム)という番組が放映された。

 

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 暮れの12月27日には、NHK総合テレビで、『5人の表現者が語る井上陽水』という企画が組まれ、松任谷由実玉置浩二奥田民生宇多田ヒカルリリー・フランキーらの5人が、それぞれ陽水との親交を語った。 

 

 このような “陽水特集” が続いたのは、令和元年(2019年)が彼のデビュー50周年だったからだ。

 

 井上陽水、1948年生まれ。
 現在(番組収録時)72歳。
 団塊世代(1947年~1949年生まれ)のど真ん中に位置するアーチストである。
 
 この世代というのは、日本がちょうど高度成長を遂げようとしている時期に “青春” を迎え、豊かな生活に馴染み始めた世代だ。
 どこの家庭でもカラーテレビ、クーラー、自家用車などという(当時としては)贅沢品を購入できるような時代が来ようとしていた。

 

 陽水とほぼ同時代を生きたシンガーソングライターの松任谷由実(1954年~)は、『5人の表現者が語る井上陽水』という番組で、こう語っている。

 

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 「陽水の歌にはセンチメント(感傷)とか、メランコリー(憂鬱)といったニュアンスが常に漂う。
 こういうネガティブな雰囲気は、貧しい時代だったら視聴者の共感を得られなかったろう。
 しかし、豊かな時代がくると、それが逆に「贅沢」な感覚になる。

 そういう「贅沢感」が生まれたところに、私たちが登場した時代の豊かさを感じる。
 私は、その豊かさをポジティブに歌ったが、彼はネガティブな情感を喚起する方向で、豊かな時代が来ることの問題点を歌った」

 

 この指摘は、さすがに松任谷由実という音楽家だからこそいえた言葉だ。

 

 彼女の『中央フリーウェイ』(1976年)などは、まさにマイカーを手に入れ、中央高速を日常的な “遊び場” として使い倒している裕福な若者たちの生活を表現している。

 

 それに対し、陽水の『傘がない』(1972年)などは、その豊かな社会に馴染めずに死んでいく若者と、恋人に会いに行くための傘がないことの方が問題だと開き直る若者の、ヒリヒリするような分裂を歌いあげている。

 

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 ここに挙げたユーミンと陽水の歌のテーマは、どちらも「高度成長」だ。
 日本経済の興隆期に沿って、バラ色の生き方を享受できた若者と、その裏で「高度成長の犠牲」となっていく若者。

 
 ユーミンと陽水は、どちらも “団塊世代の精神風景” を、メダルの裏と表として描いた。

 

▼ 『傘がない』

https://youtu.be/SwNRn3ly8Ns

 

都会では 自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない


行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨にぬれ

  

つめたい雨が 今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?

 

 この『傘がない』の歌詞だけを拾ってみると、井上陽水は、時代の社会問題に鋭く切り込む “社会派シンガーソングライター” のように見えるかもしれない。

 

 しかし、これは、この時代の社会問題を浮き彫りにした歌ではない。
 むしろ、この時代の底に潜む “空虚感” を見つめた歌なのだ。 

 

 リスナーは、『傘がない』と嘆く主人公に共感した段階で、時代の「虚無」と向き合うことになる。 
 それは、「高度成長期」という日本の明るい時代が内側にひっそりと抱え込んでしまった虚無にほかならない。

 

 繁栄が「闇」を抱えるのは、社会の必然でもある。
 「繁栄」というものは、必ずその底の部分に、「繁栄から取り残された部分」を残すからだ。

 

 それが松任谷由実が指摘した “陽水のメランコリー(憂鬱)” の正体であり、そこには、常に「死の匂い」が漂っている。

 

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▼ 『リバーサイドホテル』(1982年

https://youtu.be/OPoSXc_ODdg

 

 誰も知らない夜明けが明けた時 町の角からステキなバスが出る
 若い二人は夢中になれるから 狭いシートに隠れて旅に出る

 

 昼間のうちに何度もKissをして 行く先をたずねるのに疲れはて
 日暮れにバスもタイヤをすりへらし そこで二人はネオンの字を読んだ

 

 ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド
 食事もリバーサイド Oh リバーサイド

 

 チェックインなら寝顔を見せるだけ
 部屋のドアは金属のメタルで
 シャレたテレビのプラグは抜いてあり
 二人きりでも気持ちは通い合う

 

 ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド
 食事もリバーサイド Oh リバーサイド

 

 『深読み音楽会』(BSスペシャル)でこの『リバーサイドホテル』がテーマになったとき、この歌から不吉な匂いを嗅ぎ取ったのは、芥川賞作家の朝吹真理子1984年~)だった。

 

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 彼女はいう。

 

 「この歌の特徴は、同義反復後の歌詞がたくさん出てくるところなんですね。
 まず “川沿いリバーサイド” というのが同じ言葉の繰り返し。
 次に、“部屋のドアは金属のメタル” も同義反復でしかない。
 そもそも、“夜明けが明ける” という表現が同じ言葉を重ねているだけ。
 なぜこの歌では、同じ意味の言葉が繰り返されるのか?」

 

 朝吹は、こう説明する。

 

 「それは、ここで歌われる “2人” が、生の世界から死の世界へと移行しているからだと思うんです。
 要するに、この2人は、失われつつある “生” の手触りを確かめなければならないため、同義反復によって現実の世界を確認しようとしているのではないでしょうか」。

 

 だから、朝吹真理子は、この歌を「心中の歌」だという。
 そうでなければ、
 「♪ 狭いシートに隠れて旅に出る」
 「♪ チェックインなら寝顔を見せるだけ」
 などという不思議な言葉の意味を解明できない。

 

 狭いシートとは「棺桶」のことであり、「隠れた旅」とは、黄泉の世界への旅。
 そして、「寝顔がチェックインになる」とは、このホテル自体がすでに  “黄泉の国のホテル” なので、寝顔 すなわち死顔がパスポートになるという意味。

 

 この朝吹の発言を受けて、作家仲間の高橋源一郎もいう。

 

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 「僕もそうだと思う。“リバーサイドホテル” のリバーとは、“三途の川”のこと。今2人は、それを渡ろうとして、後ろ(生の世界)を振り返った状態なのだろう。
 だから、すべてが遠近感を失って、シュールな光景になっている」

 

 『深読み音楽会』の高橋源一郎は、今回陽水のかなりの歌に「死の気配」を嗅ぎ取っている。

 

 たとえば『あなたにお金』(2016年)という歌。
 
 「実に奇妙な歌」だと、高橋はいう。
 普通の歌詞や詩(ポエム)に「お金」という言葉はなかなか使えない。
 
 なぜなら、「お金」は、どんなロマンチックな人間も現実の世界に引き戻してしまう下世話な物であり、詩的情緒からもっとも遠い存在であるからだ。

 

 しかし、陽水は、この「お金」という言葉を最初の歌詞から堂々と使い、さらに、それをタイトルまでにしている。

 

▼ 『あなたにお金』 (2016年) 

https://youtu.be/C74h532IxrI

(ようっすいさんのカバー)

 

あなたにお金をあげたら 帰ろう
メロンを抱いて 星を見ながら帰ろう
まだまだバスは はるか遠くで揺れて
まつ毛の先を 濡らし始めたばかり

 

目の中に 星屑を散りばめて
星空に夏の空重ねて

 

空には汽車が 煙たなびき 走り
汽笛の声に 振り返りながら 帰ろう
時計の針は待ちくたびれて 外れ
静かに闇を 指し間違えて 消えた

 

 この歌で使われる「お金」という言葉が、生々しさを持たず、実に爽やかな哀愁を帯びているのはなぜか?
 … と、高橋源一郎は問いを発する。

 

 「あなたが、すでに死者だからである」
 と、彼はいう。


 つまり、ここに出てくる「お金」は、香典なのだ。

 

 だから、葬儀から帰る自分の「まつ毛の先が濡れ」、死者を乗せた汽車は、「空に浮かんで、煙をたなびかせる」。

 

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 死者はもう「生きている人間の時間」とは無縁なのだから、「時計の針は待ちくたびれて外れる」のだ。

 

 こういう高橋源一郎の解釈はそれなりに説得力を持つけれど、井上陽水がほんとうにそういうことを意識しながらこの歌を作ったかどうかは、分からない。

 

 仮にそうだとしても、陽水は自分の歌を解説するような人ではない。
 彼は、「解説すること」の味気なさから、とことん逃げようとするアーチストだ。

 
 「逃げようとする」のは、恥ずかしいからだろうし、テレもあるからだろう。
 しかし、「解説を拒む」というところにこそ、陽水の “思想” がある。
 
 その思想が、「死の匂い」をたぐり寄せるといっていい。
 多くのリスナーが「シュール」という言葉で彼の歌を理解しようとするとき、その正体は、実は「死」の予感にほかならない。 
 
 たとえば、代表的なヒット曲でもある『ジェラシー』。

 

▼ 『ジェラシー』(2013年)

https://youtu.be/idxsaGwblr8


 この歌には、
 「♪  はまゆりが咲いているところをみると、どうやら、僕らは海に来ているらしい」
 という歌詞(2番)が出てくる。
 

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 普通ならば、海に来ているかどうかは、目を凝らして、周りの風景を眺めれば一目瞭然なはずである。

 

 なのに、この歌に出てくる「僕と君」は、「はまゆり」という植物を手掛かりにしないと自分たちがいる場所が「海」なのかどうなのかも把握できないようになっている。

 

 つまり、この歌も、2人が、意識がもうろうとした状態で「入水」しようとしている状況を歌っているといえなくもないのだ。

 

 「♪  ハンドバックの留め金が外れて化粧が散らばる。波がそれを海の底に引き込む」
 という歌詞も、2人が海に沈んでいく様子をそれとなく暗示しているともとれる。

 

 このような歌に触れると、みな「シュールだ」と口をそろえて語るが、そもそも、「シュール」というのは、合理的に説明のつかない感覚を表現するときの言葉だ。

 

 人間の精神活動で、最後まで合理的に説明できないものとして残るのが「死」である。

 人間は、「死」を語ることも考察することもできるけれど、経験することだけはできない。
 「死」がどんなものであるかを解明することは、AI にもできない。
  
 陽水の歌の「謎」は、すべてそこから降りてくる。