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サスペンスドラマはなぜ断崖絶壁で終わるのか

 
 サスペンスドラマというのは、謎解きのドラマである。
 まず殺人事件があって( 殺人事件のないサスペンスドラマというのは皆無に等しい)、その殺人を犯したのは誰か? という謎を解くドラマである。

 

 しかし、事件が解決して謎が解けても、視聴者には永遠の「謎」がひとつ残る。

 

 それは、なぜ真犯人は「断崖絶壁の上で自白するのか」という謎である。

  

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 2時間スペシャルなどと銘打ったサスペンスドラマでは、始まってから1時間40分ほど経過すると、たいてい真犯人とおぼしき人間や、それを追い詰めた刑事役の人(船越英一郎とか、故・渡瀬恒彦)や犯人に殺された人の遺族なんかが海を見下ろす断崖絶壁にぞろぞろと集まってくる。
 だから視聴者は、時計を見なくても、「あ、そろそろ終わりだな」と分かる。

 

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 で、刑事がやたら真犯人の周りをうろうろと歩きまわり、
 「つまり、復讐しようと思ったわけですね?」
 などと、犯人をチラッと横目で眺める。

 

 すると、犯人は( 特に女性の場合は)、とたんに地面に座り込み、
 「私、もうあの男を許せなかったんです」
 とか叫んで、ワッと泣き崩れる。
  
 そこで、刑事は、もらい泣きしたように顔をしかめながら、
 「あなたの気持ちはよ~く分かる! でも殺人はいけない」
 などと説教する。

 

   
 この「断崖絶壁の告白」は、今やサスペンスドラマには欠かせない絶対的なテーゼになっていて、日本人の気持ちを安心させる不滅の美学になっている。

 

 でも、いったいなぜ「断崖絶壁」なのか?

 

 この謎に、古来より多くの視聴者がチャレンジしてきた。
 それがどれだけ人を惹きつける「謎」であるかといえば、たとえばグーグルあたりで「サスペンスドラマ 断崖絶壁」という検索ワードを打ち込むと、約5万件もヒットすることからも分かる。
  
 そして、そこで披露される見解は実に多彩だ。
  
 まず目につくのは、映像的なインパクトを狙ったという説。 
 断崖絶壁のダイナミック感が、視聴者に心地よいスリルを与えるという説明だ。

 

 断崖に吹く風。
 遠くに見える白い波頭。


 それらの動的要因が、ともすれば長くて退屈になりがちな犯人の「自白」にメリハリを付けるからだという解釈だ。

 

 次に多いのが、犯罪心理的なアプローチ。
 断崖絶壁に追い込まれると、犯人は退路を絶たれ、もう自白するしかない心境に追い込まれる。
 だから、その告白にリアリティが備わるという説。

 

 その説をさらに精緻化させ、ユング心理学の概念を応用する説もある。
 つまり、「崖は死の象徴」。
 そして、その向こうに広がる海は、母体回帰を連想させる「母の象徴」。
 
 したがって、犯人は崖を背にすることによって、「自分の生まれる前の状態に戻り、罪が許されることを期待している」
 などという非常に高度な解釈を披露する人もいる。
  
  
 一方、制作サイドの都合からくるものだという合理的な説明もある。
 
 ドラマをロケする場合は、ロケ地となる地元の観光協会やホテルなどとタイアップする場合が多い。

 

 その場合、観光スポットを広報する意味で、その地方の絶景ポイントを紹介する約束事が生まれた、というのだ。
 そうすると、たいてい雄大な風景が広がる “崖上” がピックアップされることになる。

 

 また、撮影現場に詳しそうな人の説明は次のようだ。
 まず、エンディング部分は長いセリフが多くなるので、クルマや一般人の通行の少ない断崖絶壁の方が、音声を拾うのに好都合である。
 つまり、崖っぷちで音を採るとNGが少ない。  
  

 
 どれもみな「なるほど!」と膝を打ちたくなるような説明になっている。

 

 しかし、それでもなお、この「断崖絶壁の謎」に、なぜ多くの人が魅了されるのかという根本的な “謎” は、やはり解けない。

 

 私はこう思うのだ。
 おそらく、視聴者は、「断崖で終わる設定」に突っ込みを入れる楽しみを見い出したのだ。

 

 つまり、
 「普通だったら犯人に自供させるのは取調室のはずだろ?」
 とか、
 「刑事がこんなところで犯人に説教するなんてありえねぇ」
 とか口に出すのが楽しいのだ。

 

 逆にいえば、それは刑事や犯人への声援である。

 歌舞伎でいえば、
 「音羽屋~(おとわや~)」
 とか、
 「成駒屋~(なりこまや~)」
 などと声をかけるのに近いかもしれない。

 

 パターン化も、積み重ねていくうちに伝統芸となる。
 たぶんこれは、もう「桜」とか「富士山」などと同じように、日本人が自分たちのアイデンティティを確認できる一つの美学的アイコンになっているのだろう。