三島由紀夫 ふたつの謎 その2
1年ほど前のブログで、大澤真幸(おおさわ・まさち)氏の書いた『三島由紀夫 ふたつの謎』(2018年11月初版)という本に触れた。
上記のブログで、私は『花ざかりの森』や『中世』といった三島の16歳から20歳ぐらいにかけて書いた初期短編が好きだという話を書いた。
しかし、彼が成人してから書いた有名な作品に対しては、実は、私はほとんど感動した記憶がない。
三島の作家的名声を確立した『仮面の告白』にしても、日本の文学史の 金字塔といわれる『金閣寺』に関しても、「永遠の青春小説」と賞賛される『潮騒』についても、「素晴らしかった !」と称える気持ちがほとんど起こらない。
職業作家となってからの三島の小説は、おしなべて観念性が強く、いってしまえば “理屈っぽい” 。
普通、小説というものは、“理屈” では割り切れない曖昧な空気感がつきまとうもので、それが結果的にリアルな感触を伝えることになるのだが、三島の代表的な小説といわれるものは、みな写真を輪郭線で切り抜き、そのまま紙に貼って並べたような奥行きのなさを感じてしまうのだ。
こう思うのは、私だけでないようだ。
「文学としての構築性が堅固であることは認めるものの、登場人物たちに、生きている人間の息づかいが感じられない」
そういう感想を漏らす読者を何人も知っている。
魔物の降臨
ただ、禍々しいものが降臨するという作品においては、この限りではない。
三島はときどき、人知を超えた「凶ごと(まがごと)」が天から降ってくるような不思議な作品を残すことがある。
そのなかには、「ホラー」として書かれたものではないにもかかわらず、ホラー以上の怖さを秘めたものがある。
こういう作品に触れた後は、夜中にトイレに立つのも怖くなる。
2~3日悪夢にうなされる。
▼ 『英霊の聲』
その代表例のひとつに、『英霊の聲(えいれいのこえ)』がある。
これは、三島の割腹自殺事件の4年前、1966年(昭和41年)に発表された小説で、戦前の2・26事件に決起して銃殺刑に処せられた青年将校たちと、特攻隊となって空に散った航空兵たちが霊となって主人公のもとに降臨し、自分たちの怨念を表明するという内容のものである。
▼ 2・26事件に関与し陸軍皇道派兵士
悲劇の英霊たちが降臨するのだから、「ホラー」などと言うと礼を失するかもしれないが、大方の読者は、やはりこれを恐怖小説として読むだろう。
闇の彼方から
“凶ごと(まがいごと)” が近づく
三島の「凶ごと」に対する感受性は、そうとう若い頃から養われてきたようだ。
彼が15歳の中等科の学生だった頃、こんな詩を残している。
▼ 10代の三島
わたくしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた
凶変の獰悪な砂塵が
夜の虹のやうに、町並の
むかうからおしよせてくるのを
(中略)
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれてきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。
わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人(できしにん)の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した ………… 。
実に不吉な色合いに染められた詩篇である。
15歳の少年が見つめる世界にしては、あまりにも暗い。
しかし、闇の中をつんざくように、何ものかが迫りくる怖さは見事に捉えられている。
三島由紀夫という作家は、このように日常性の膜を突き破って、この世ならぬものが降りて来るとき、それをリアルに感受する能力に恵まれた人だったのかもしれない。
実際、あまり知られていないかもしれないが、三島はホラー小説の名手でもあった。
『雛の宿』、『切符』、『孔雀』といった怪談味の濃い小説はもとより、エッセイ風の “私小説” といわれる『荒野より』などという作品においても、日常性の裂け目からただならぬ空気が漏れてくるのを感じることができる。
『英霊の聲』のリアルさは
どこから来るのか?
そのようなホラー的迫力がもっとも突出しているのが、前述した『英霊の聲』である。
厳密にいうと、これはホラーというよりも政治的メッセージを盛り込んだ思想小説の部類に入るが、奇怪な出来事をダイナミックに描写していく三島の筆力は驚嘆に値する。
書き出しは、こうだ。
「浅春のある一夕、私( ← 三島と思われる架空の人物)は木村先生の帰神(かむがかり)の会に列席して、終生忘れることのできない感銘を受けた。
その夜に起こったことには、筆にするのが憚られる点が多いが、能うかぎり忠実にその記録を伝えることが、私のつとめであると思う。…… 」
その会場で、「木村先生」が石笛を吹き鳴らすと、やがて霊媒を務める盲目の青年の顔に変化があらわれ、突然、手拍子を打ったり、歌をうたいはじめる。
「木村先生」は、そこで「いかなる神にましますか?」と問う。
すると、霊媒の口を通じて、
「われらは裏切られた者たちの霊だ」
という答が返ってくる。
▼ 2・26事件に関わった兵士たち
それは、昭和11年に起きた2・26事件で、鎮圧されて処刑された陸軍皇道派の青年将校たちの霊だったのだ。
自分たちは天皇への忠義をしっかり果たすために、それを妨げる奸賊たちを撃ち滅ぼしたつもりであったが、逆に天皇の怒りを買い、死を賜ることになった。そのことが悔しくてならない。
それでも、陛下が「神」でいてくれたのならば、まだ私たちも納得がいこう。
でも、陛下は、戦後ただの「人間」になってしまった。
私たちの死は、犬死になった。
▼ 「神」として白馬にまたがる戦前の昭和天皇
そして、英霊たちは、霊媒師の口を借りて、こう叫ぶのだ。
「などて すめろぎは、ひととなりたまひし !」
(なぜか、天皇は、人間になってしまった)
2・26事件の将校たちの声が弱まっていくと、今度は神風特別攻撃隊の英霊たちが降臨する。
彼らもまた、自分たちは米軍空母に体当たりして、命と引き換えに陛下をお守りしようとした。
それは陛下が「神」であったからこそ、できたことだ。
なのに … 「などて(なぜか) すめろぎ(天皇)は、ひと(人間)となりたまひし !」
▼ 日本軍航空機
今度のリフレインは家中を揺るがすほどの大合唱となり、居合わせた人々はその怨嗟の迫力に声を出すこともできず、じっとうずくまるほかはなかった。
英霊たちが次第に退いていくと、霊媒を務めた青年はそのまま床に倒れ込み、息を引き取った。
その死顔は、もはやどこの誰とも判らぬ、何者かのあいまいな顔に変貌していた。
要約すると、これだけの話なのだが、全編を通じて読者を圧倒するデーモニッシュな霊たちの描写には、息をのむような怖さがある。
▼ 「人間宣言」後の天皇
死んだ青年将校たちが三島に憑依した?
実際に、これを書いたときの三島は異様だったといわれている。
ネット情報(Wikipedia)には、三島の母の倭文重(しずえ)が、三島から『英霊の聲』の原稿を渡されたときの回想が紹介されている。
「(息子の三島由紀夫から)『昨夜一気に書き上げた』と渡された原稿を一読して、私は全身の血が凍る思いがした。
どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。
『手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々からぶつぶつ言う低い声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、2・26事件で死んだ兵隊たちの言葉だということが分った』
三島の母(平岡倭文重(ひらおか・しずえ)は、
「怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、息子に何かが憑いているような気がして、寒気を覚えた」
と書く。
『暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に』
同じような話は、三島の親友であり、文芸評論家の奥野健男も書き記している。
「『英霊の聲』を読んだとき、三島が2・26事件の首謀者の一人である磯部浅一の霊に憑依されていたのではないかと感じた。
その昔、三島宅に夫婦ともども訪れ、澁澤龍彦夫妻などと一緒にコックリさんをやっていたとき、不意に三島が『2・26事件の磯部の霊が邪魔している』と大真面目につぶやいたことがあったからだ」
こういうオカルト話はまだまだ出てくる。
三島と親交の深かった美輪明宏も似たような体験をしている。
美輪は、三島邸を訪れたとき、三島の後ろにカーキ色の軍服を着て、帽子をかぶった兵士が立っているのを見た。
▼ 若い頃の美輪(丸山)明宏
三島にそのことを告げると、三島が、「どんな特徴をした男か?」と風貌などを尋ねた。
そこで美輪は、見たとおりのことを言った。
すると三島は、「それなら磯部浅一という将校だ」と答えて青ざめた。
それと同時に、軍服姿の男はさぁっと消えたという。
戦後日本の惰弱な文化への嫌悪
以上のような話が、どこまで信頼できるものなのか、私にはわからない。
ただ、『英霊の聲』を書いたころの三島は、何者かにせき立てられるように、自分のやるべきテーマに邁進し始めたことだけは確かだ。
“やるべきテーマ” とは何か?
それは、「日本が滅びる前に、国民にはっきり警告しなければならない」
ということだった。
『英霊の聲』を読んでいくと、降臨した英霊たちが、次のようなことを叫ぶ個所がある。
(戦後の平和な時代になってからは)、
戦いを欲せざる者は卑劣をも愛し、
夫婦朋友も 信ずるを能(あた)はず、
いつはりの人間主義をたつきの糧となし、
偽善の団欒(だんらん)は世をおほひ
(中略)
年老ひたる者は 卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名のもとに天下に広げ、
(中略)
人々はただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば、
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、……
このように、『英霊の聲』に登場する英霊たちは、戦後の民主主義によって成立した社会が、実は人間としてのモラルを失った、低俗な金儲け主義の社会でしかなかったことを嘆くのだ。
それが、三島の心のなかから生まれてきたものなのか、それとも、ほんとうに降臨した英霊たちの声だったのか。
そこはなんともいえない。
ただ、何かが憑依したことは間違いない。
それは「霊」というよりも、三島自身の無意識が脳の古層を破って浮上し、三島自身に憑依したのかもしれない。
戦後生まれの人間には、「天皇」が
「神」であるというイメージが浮かばない
彼が『英霊の聲』を世に問うた1966年。日本は高度成長期の真っただ中にいた。
三島は、その経済的な繁栄によって日本から失われていくものを思い、強い焦燥感を抱いた。
太平洋戦争で、あれほどの犠牲者を出したにもかかわらず、多くの日本人はそのことすら忘れ、日本文化の伝統に対する畏敬の念も失い、飽食と華美な風俗に酔いしれるだけの軽佻浮薄な生活を享受するようになった、と三島は思った。
確かに、あの時代、三島のように、「軽佻浮薄な高度成長期の文化」を批判する知識人はほかにもいた。
ただ、三島由紀夫はそれを戦争中に戦死した「兵士(英霊)たちの声」という形で表現した。
文学なのだから、そういう構成をとっても不思議ではないが、私自身はこのような三島の論の進め方に、多少疑問を持つ。
太平洋戦争で死んだのは兵士たちだけではないからだ。
広島、長崎に投下された原爆による被害者はもとより、空襲で亡くなった民間人も多い。
戦争の犠牲者となった民間人はどうなのか?
三島は、そのことについて、多くを語らない。
私は、そこに三島理論の限界を見る。
天皇が「神」であった時代を知る三島にとっては、天皇が「人間」になったことに対する失望があるかもしれないが、私のように戦後に生まれた人間は「神」であった天皇そのものを知らない。
つまり、「神としての天皇」には感情移入できないのだ。
多くの戦後の人間は、みなそうであると思う。
「ヒューマニズム(人間主義)」という虚妄、
「生命尊重」という偽善
ともあれ、『英霊の聲』を書き終えた頃の三島は、戦後思想のすべてに耐えられなくなってきたようである。
彼は、戦後民主主義の世で、金科玉条のように称えられる「ヒューマニズム」というものが、人への礼節を失った “うわべだけの人間主義” であることを見抜き、「命の価値を大切にする」などというスロガーンが、結果的に「生きるための緊張感を失った惰性的生活」を強いるものでしかないことを見破っていた。
『英霊の聲』を書いたあと、三島はこういう。
「現代日本の飽満、沈滞、無気力には苛立たしいものを感じていたが、この小説を書いたことによって、生き生きとした自分を取り戻せたような気になった」
つまり、この『英霊の聲』を書いて以降、彼は、
「まやかしに満ちた戦後日本を呪詛することを自分の使命とした」
わけだ。
それを理論化するように、1968年には、昭和元禄の退廃的な文化風潮をいましめる『文化防衛論』が執筆される。
ここで三島は、クーラー、カー、カラーテレビ(3C)という耐久消費財を揃えることだけが幸せにつながるという薄っぺらな高度成長を批判し、戦後の安手な生命尊重主義や、欺瞞的な平和主義を攻撃する。
天皇は「みやび」の文化である
そういう批判軸の中心に三島が据えたのが、「文化概念としての天皇」というビジョンであり、彼はそれを「みやびの文化」と表現した。
ただし、その「みやび」とは、優雅な日本文化の象徴という側面を持ちつつも、いざ国と民族が危機に直面したときは、テロリズムという形態さえとるものとされた。
そして、同年(1968年)、その “みやびな日本文化” を守るための三島の私兵ともいえる「盾の会」が結成される。
2年後(1970年)、ついにあの事件が起こる。
▼ 盾の会
70年大阪万博でガラリ
と変わった日本の空気
1970年というのは、不思議な年であった。
この年を境に、全国規模で広がっていた学園闘争は退潮期を迎え、かわりに、若者たちの過激な活動は、成田空港反対運動や赤軍派による「よど号ハイジャック事件」というように、学外に拡散していく。
同時にまた、“政治闘争の終焉” を予感させるものが世の中の空気をつくり始めていた。
1970年というのは、「大阪万博」の年でもあったのだ。
大阪・吹田市の千里丘陵には、岡本太郎が設計した太陽の塔が建ち、アメリカのパビリオンでは、アポロ11号が月から持ち帰った「月の石」が飾られ、三波春夫の歌う “万博音頭” がテレビ・ラジオを通じて日本中に流れた。
▼ 70年大阪万博
そういう情景を、「新しい時代が到来した」と好意的に回顧する人々は多い。
生物学者の福岡伸一氏などは、10歳ぐらいのときに接した70年大阪万博に感動し、
「学生運動ばかり続いた暗い時代を、あのイベントが吹き払ってくれた」
と、そのときの気持ちを週刊文春の連載エッセイに綴っている。
事実、1970年を境に、時代の空気は変わった。
自動車や家電といった日本の産業がこの頃から世界進出を果たし、豊かな生活を背景に、人々の顔も明るくなった。
ただ、三島由紀夫だけは、そこに「日本文化の衰退」を感じていた。
実際、その先には、やがて80年代の狂乱バブルが待ち受けており、バブルの清算のために、その後日本は “失われた20年” を経験しなければならなくなる。
三島がそこまで見通していたかどうかは別としても、彼は、70年大阪万博を
「欺瞞的な平和と、底の浅いヒューマニズム、むき出しの欲望賛歌にまみれた “愚者の祭典”」
と感じていた。
彼はもう “決起” するほかはなかったのだ。
▼ 自衛官に呼びかける三島由紀夫
三島の自決という「謎」は、どう解く?
しかし、最後の疑問が残る。
三島由紀夫は、決起したあとに、なぜ割腹自殺を遂げなければならなかったのか。
自死することで、自分の政治的メッセージを、より印象深く、より鮮明に国民に訴えたかったという意図があったかもしれない。
とりあえず、そう解釈することも可能だが、それだけでは釈然としない。
答は、やはり『英霊の聲』にあるのではないか?
三島は、天皇が人間宣言を行ったことによって魂の行き場所を失った英霊たちを、自死によって鎮魂させようとしたとは考えられないか。
実際、『英霊の聲』という小説は、三島の割腹事件と関連付けられることによって、はじめて意味を持つ。
彼の死後にあの小説を読んだ読者は、昭和の惰弱な文化を呪う英霊の一人に、三島本人を加えるかもしれない。
あるいは、英霊たちの声を伝えたあとに息を引き取った霊媒師の青年に三島の影を投影することも可能だ。
作品の最後に、霊媒師の若者の死顔は、「もはやどこの誰とも判らぬ、何者かのあいまいな顔に変貌していた」と書かれているのだが、その顔が三島の顔であっても不思議ではない。
通説では、「霊媒師の顔は昭和天皇の顔になっていた」とされている。
それを最初に見抜いたのは瀬戸内晴美(寂聴)で、彼女はそのことを指摘した手紙を三島に送ったところ、「ご炯眼に見破られたようです」という三島からの返事があったといわれており、大方の説は、英霊たちの怒りが天皇に届いたいう解釈に収まっている。
しかし、「何者かのあいまいな顔」で死んでいった霊媒師が、実は三島の顔であったとすればどうか?
三島は、
「お前たちの行き場のない魂は、俺の死によって鎮魂させてもらう」
というメッセージを彼らに返したのかもしれない。
いかん、いかん !
こういう解釈をすること自体が、またしても、「謎をもっと深めてやろう」という三島の企みにハマってしまうことになる。
三島由紀夫という作家は、いつまで経っても謎そのものであり続ける。