この2020年4月に、松田聖子はデビュー40周年を迎えたという。
40年前といえば、1980年。
山口百恵が引退して、日本の女性アイドルが変った年だ。
この1980年という年は、アイドルが変わっただけではなかった。
時代そのものが変化し始めていた。
その変化を、1980年に登場した新しい女性アイドル二人を取り上げて分析した好著がある。
中川右介さんが書かれた『松田聖子と中森明菜』(朝日文庫)だ。
この本は、80年代を象徴する2人のアイドルを論じながら、立派な1980年代論になっていて、80年代を、政治や経済の文脈で捉えた専門書などより、はるかに時代の意味を伝えてくれる。
作者の中川氏は、こう述べる。
「松田聖子の歌を、社会学的に分析したテキストは豊富にあっても、作品論的に語ったものはなかった」
どういうことか。
原文を引用すると、
「松本隆と松田聖子の作品論がめったに論じられないのは、松本・松田作品そのものに、論じられることを拒む要素があったからだろう。
何も意味はない、意味を持ってはいけない、世の中と関わるな、恋人にも深い期待はするな、一瞬のきらめきこそが素晴らしい。
…… そんなことを歌った曲を、肯定的に評価するのは難しい。
しかも、その “意味がない” ということを “すみれ/ひまわり/フリージア” と三つの花の名前を並べることで表現するという、かなり屈折した方法が駆使されていたので、歌詞の真意はますます遠のいていった」
いきなり引用したのでは何のこっちゃ? であろうけれど、ここでは、松田聖子のヒット曲の大半を手掛けた、松本隆(下)の世界観が語られている。
松本隆は知る人ぞ知る、「はっぴぃえんど」の伝説的なドラマー。ドラマーというよりも、むしろ作詞家としての才能の方が世に知られ、日本語のロックの創始者という評価を受けている。
松田聖子の代表的ヒット曲『赤いスイートピー』、『小麦色のマーメイド』、『渚のバルコニー』、『秘密の花園』などはみな彼の作品である。
松田聖子は、松本隆の「世界」を歌い込むことで、80年代に日本の歌謡曲シーンを劇的に変革した。
自虐ソングから決別した聖子
どのように変革したのか?
それまでの日本の歌謡曲の主流は、演歌から反戦フォークに至るまで、基本的に「自虐ソング」だったと、著者の中川さんはいう。
「私は不幸だ」
「生い立ちが貧しい」
「恋人に捨てられた」
不幸の原因を、裏切った恋人に求めたものが「演歌」で、政治や社会のせいにしたのが「反戦フォーク」だというわけだ。
それらの歌は、基本的には情緒性を喚起するところに主眼が置かれ、そこにドラマとしての構成は認められなかった。
そこに阿久悠が登場し、3分から5分という歌謡曲の世界に、一篇の映画や小説にも匹敵するドラマを盛り込んだ。
そのときから歌謡曲の流れが変わった。
沢田研二やピンクレディーが歌謡曲の主役に躍り出て、感情に流されてばかりいた演歌的世界に、メリハリの利いた時代性を吹き込んだ。
で、松田聖子と松本隆がつくり出したものは、その阿久悠が構築した「時代の雰囲気」をさらに洗練させ、そこから、阿久悠が目指した「ドラマ」を抜き取ったものだという。
どういう意味か?
「物語」の解体
中川氏は見解は、こうだ。
「松田聖子を得た松本隆とその周辺の人々は、阿久悠の改革をさらに次のステージへと進めようとしていた。
それは “物語” を解体させ、イメージのみを提示し、歌詞から意味性を排除することだった。
瞬間のきらめきを、3分から4分にわたって持続的に積み重ねる。
それによって、じめじめと湿っていた日本の歌をドライなものにする」
… そういうことを松本隆は目指していた、と中川さんは語る。
つまり、怨念だとか、情念だとか、女の性(さが)とか、運命とか、故郷とか、家族とか、そういった重苦しいものをすべて排除し、はかなくも美しいイメージの連鎖に終始する曲づくりを、松本隆は目指していたというわけだ。
そのような松田聖子路線を支援する強力なパートナーとなったのが、作曲を手掛けた「ユーミン」こと松任谷由美だった。
ここでも、中川さんの分析を引用する。
「松任谷由美は、自分の音楽を “中産階級サウンド”、“有閑階級サウンド” と命名し、その一方で、前の時代の音楽を “四畳半フォーク” と名付け、否定すべきものとしていた。
松田聖子の歌は、リゾート地を舞台にした中産階級の若者の恋を描くことを目指しており、その意味でも、松任谷の目指していたものと、松本隆の世界観には共通するものがあった」
松本隆とユーミンという両天才によるコラボレーションが、松田聖子という歌姫を通して、80年代の音楽シーンを完全に席巻してしまったことは、あらためて書くまでもなかろう。
歌謡曲の歌詞から「社会」が消えた
ユーミンが作曲を担当し、松本隆が詞を付けた松田聖子の歌からは、「社会」が完全に排除された。
彼らの歌には、外国の地名は出てきても、国内の具体的地名はまったく登場しない。
故郷も祖国も出てこない詞からは、すべての組織・共同体と積極的な関わりを持とうとしない世界が出現した。
これが、1980年代というものの「正体」だ。
と、中川さんは言いたいのである。
それは、この80年代こそが、2020年代の今でも続くグローバル資本主義のスタート地点であったことを物語っている。
つまり、「ヒト、モノ、カネ」が、ローカルな特殊性から解き放たれ、無個性な表情のまま、瞬時に地球上を駆け巡り始めたことを描こうとしたのだ。
松本隆は、そういう状況に染まる時代を「新しい快感」として感じ取っていたのかもしれない。
話を戻す。
ところで、この本のもうひとりの主役である中森明菜は、松田聖子に対して、どういう役割を与えられているのだろうか。
売春、万引き、暴走族を
連想させた明菜の『少女A』
「『少女A』で中森明菜は完全にブレイクした。当時は校内暴力が社会問題化しており、少年Aや少女Aが新聞紙上によく登場していた。
NHKは “犯罪的で内容が挑発的すぎる” との理由で、この曲を放送しないことに決めた。
しかし、実際には、少女売春も、万引きも、暴走族の集会も歌詞には出てこない。ひとつひとつの単語、一節ずつのフレーズには、とりたてて問題はない。
歌詞のどの部分が “犯罪的” なのかと追求されれば、NHKも返答に困ったであろう。
だが、確かに、この曲には犯罪的なムードが漂っていた。曲やアレンジにも責任はあるだろうが、無表情に歌う中森明菜そのものに、犯罪的・挑発的なイメージがあった」
と、中川さんは書く。
松田聖子が、実態のないイメージのユートピアを歌い続けていたのに対し、中森明菜は、すでにデビュー2曲目から、「社会」とのっぴきならない関係に立たされた、少女の決意と困惑を表現していたのだ。
『飾りじゃないのよ涙は』
で聖子の対極に立った明菜
私にとって、中森明菜のイメージを決定づけたのは、1984年にリリースされた『飾りじゃないのよ涙は』のように思えてならない。
作詞・作曲は井上陽水。
中川さんも、この曲が、松田聖子的な世界に対する強烈なカウンターパンチを意識したものであることを認めている。
松田聖子の代表的なヒット曲に『瞳はダイヤモンド』があるが、その最後の歌詞は、「♪ 涙はダイヤモンド」という言葉で終わっている。
それを、横目でにらみながら、井上陽水は中森明菜に、
「♪ ダイヤと違うの涙は … 」と歌わせた。
「1年の時間差があったので、気づいた人は少なかったかもしれないが、松田聖子のファンは、“あ、やったな!” と思ったに違いない」
と、中川さんは、見事に突いている。
『飾りじゃないのよ涙は』という歌は、「♪ 私は泣いたことがない」という出だしで始まる。
そして、「♪ 灯の消えた街角で/速い車にのっけられ」たり、
「♪ つめたい夜のまんなかで/いろいろな人とすれ違ったり」
「♪ 友達が変わるたび/思い出ばかりがふえた」けど、それは「泣いた」のとは違うと思う。
そして、自分は「ほんとの恋をしていない」と悟る。
青空の下に広がるビーチには、いつも上品でおとなしい「あなた」がいて、その「あなた」をウブな表情で誘いながら、密かに恋の主導権を取ろうとしている松田聖子の歌とは、またなんと違った世界が展開されていることだろう。
地方都市の夜のコンビニ
の前でうずくまる少女
中森明菜のこの歌では、ヒロインはまだ「あなた」に会っていない。
いつの日か「恋人に会える時」が来て、その時にこそ「泣いたりするんじゃないか」と、ヒロインは感じるにすぎない。
地方都市のコンビニを唯一のたまり場として、長く退屈な夜をもてあましながら、身の凍るような寂しさに耐えている少女の姿が浮かんでくる。
井上陽水は、やっぱり凄い表現者だと思わざるを得ない。
そして、それを歌いこなす明菜ののっぴきならない切なさも、じんじん伝わってくる。
松本隆が、来たるべきグローバル資本主義の時代を “新鮮な風” として捉えたのに対し、井上陽水は、そういうグローバルな “風” から取り残される女の子を描いた。
そこには、すでに、やがて日本に訪れる “失われた20年” の痛みすら予感させるものがある。
しかし、ここではそれ以上触れない。
この本には、「松田聖子に対する記述の方が多く、中森明菜は添え物にすぎない」という批評もあるようだ。
確かに、文章的な量では、松田聖子を論じる部分の方が圧倒的に多い。
しかし、著者が、どちらに密かにシンパシーを感じているかは、読めばすぐに伝わってくる。
終章近くには、こんな記述も見えてくる。
「松田聖子が歌う世界では、社会は無意味なものになり、男女の関係すら意味を失っていった。
“私” と“あなた” は、永遠に “私たち” にはならない。
松田聖子が無自覚に、そして、松本隆が確信犯的に破壊した日本の旧来の男女関係や個人と社会との関係は、それ以降、修復されることがなかった。
歌はますます意味がなくなっていき、言葉遊びすらなく、ただメロディーとリズムに乗せられるだけになっていった。歌詞カードなしでは、日本語なのか英語なのかも分からなくなっていった」
ちょっと、そう結論づけるのは「勇み足ではないか?」と、私などは思う。
しかし、そういうレトリック(言い回し)に説得力を持たせてしまうのも、本書の力だ。
本の面白さは、作者のレトリックの力に負うところが大きい。
たとえ、それがウソであっても、シビレる表現にはシビレてしまうことがあるのだ。
学術論文や思想を真剣に扱った評論などにおいては、レトリックの巧みさはむしろ警戒しなければならない。
だけど、読書は「遊び」だと割りきっている私には、上記のような酔えるレトリックに出会うことが無上の喜びとなった。
この本は、そういう素晴らしいレトリックが多いように感じられた。